Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第二十話 焦燥という病

 置いていかれる音を、ただ聞いていた。

 

 竜車の車輪が、石畳を遠ざかっていく。

 

 その音が小さくなっていくたびに、スバルの胸の奥に空洞が広がっていった。

 

 エミリアが行く。

 

 ロズワール邸へ戻る。

 

 自分は、ここに残される。

 

 治療のため。

 

 そう言われた。

 

 それは正しい。

 

 体は動かない。

 

 ユリウスに打ち据えられた痛みは、フェリスの治療を受けてもまだ消えない。

 

 肩は熱を持ち、脇腹は呼吸のたびに軋み、手足には鈍い痛みが残っている。

 

 長距離移動など、できるはずがなかった。

 

 わかっている。

 

 わかっているのに、納得できない。

 

「……くそ」

 

 スバルは寝台の上で拳を握った。

 

 指が痛む。

 

 木剣を握りしめ、地面を掻いた掌が悲鳴を上げた。

 

 それでも力を抜けない。

 

 痛みがあれば、まだ何かをしている気になれた。

 

 何もできずに寝ているよりは、ずっとましだった。

 

「スバル君」

 

 レムの声がした。

 

 静かで、近い声。

 

 スバルの横には、レムが椅子を引いて座っている。

 

 フェリスに命じられた薬と水。

 

 替えの包帯。

 

 冷やした布。

 

 全部が手の届く場所に置かれていた。

 

 レムは、いつものように完璧に世話をしている。

 

 けれど、表情は少しだけ硬い。

 

「手に力が入っています。傷が開きます」

 

「……平気だ」

 

「平気ではありません」

 

「わかってる」

 

「なら、力を抜いてください」

 

「……」

 

 スバルは、ゆっくりと拳を解いた。

 

 掌に爪の跡が残っている。

 

 レムはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。

 

「消毒します」

 

「いい。これくらい」

 

「よくありません」

 

 レムは有無を言わせず、布を取った。

 

 スバルの掌を取り、丁寧に拭う。

 

 しみた。

 

「っ」

 

「痛みますか」

 

「少し」

 

「少しではない顔です」

 

「レム、最近ほんと容赦ないな」

 

「スバル君が容赦なく自分を傷つけるからです」

 

 返す言葉がなかった。

 

 スバルは視線を逸らす。

 

 窓の外には、王都の空が見える。

 

 青い。

 

 腹が立つほど、青い。

 

 エミリアを乗せた竜車はもう見えない。

 

 見えない場所へ行ってしまった。

 

「……今から追えば」

 

「無理です」

 

 レムの返事は早かった。

 

 スバルは唇を噛む。

 

「まだ何も言ってない」

 

「言わなくてもわかります」

 

「俺、そんなにわかりやすいか」

 

「はい」

 

「即答かよ」

 

「追いかけることはできません。今のスバル君は、立ち上がるだけでも危険です」

 

「でも、エミリアが」

 

「エミリア様は、戻られました」

 

 レムの声は優しい。

 

 けれど、逃げ道を塞ぐ声だった。

 

「スバル君は、ここで治療を受けます。それがエミリア様の望みです」

 

「……俺がそばにいない方がいいってことか」

 

「そうは言っていません」

 

「同じだろ」

 

「違います」

 

「違わない!」

 

 声が荒れた。

 

 レムがわずかに息を呑む。

 

 スバルはすぐに後悔した。

 

 けれど、もう出た声は戻らない。

 

「……悪い」

 

「いえ」

 

 レムは短く答えた。

 

 責めない。

 

 怒らない。

 

 それが余計に刺さった。

 

 ユイは、少し離れた窓辺に立っていた。

 

 白い髪が、窓から入る光に淡く揺れている。

 

 彼女は振り返らない。

 

 ただ、二人のやり取りを聞いていた。

 

 スバルくん。

 

 焦っているね。

 

 置いていかれたことが、こんなに痛いんだね。

 

 自分が拒まれたこと。

 

 役に立てなかったこと。

 

 エミリアさんのそばにいられないこと。

 

 全部が混ざって、もう自分でも何に怒っているのかわからなくなっている。

 

 ユイは内心で、ゆっくりと微笑んだ。

 

 でも、表情には出さない。

 

 今はまだ、頼れるお姉さんとしてそこにいる。

 

 スバルが崩れすぎないように。

 

 けれど、ちゃんと曇るように。

 

「スバルくん」

 

 ユイが声をかけた。

 

「今追いかけても、同じことを繰り返すだけよ」

 

「……わかってる」

 

「本当に?」

 

「わかってるよ」

 

 スバルは天井を睨むように見た。

 

「わかってるけど、じゃあどうすればいいんだよ。ここで寝てりゃいいのか? エミリアが屋敷に戻って、俺は王都で治療して、元気になったら何食わぬ顔で帰るのか?」

 

「何食わぬ顔は、できないでしょうね」

 

「だろうな」

 

「なら、考える時間にすればいい」

 

「考える?」

 

「次に会った時、何を言うのか。何を謝るのか。何を変えるのか」

 

 スバルは黙った。

 

 謝る。

 

 何を。

 

 全部だ。

 

 約束を破ったこと。

 

 王選の場を乱したこと。

 

 騎士を名乗ったこと。

 

 エミリアの話を聞かなかったこと。

 

 自分のための怒りを、エミリアのためだと言い張ったこと。

 

 数えれば、きりがない。

 

「……多すぎんだろ」

 

「ええ」

 

「俺、ほんとに何やってんだろうな」

 

「間違えたのよ」

 

「それは聞いた」

 

「何度でも言うわ。間違えた。だから、次を考える」

 

「次、か」

 

 スバルは目を閉じた。

 

 次。

 

 その言葉がひどく遠い。

 

 エミリアに顔を見るのがつらいと言われた。

 

 距離を置こうと言われた。

 

 それでも、次があるのか。

 

 あってほしい。

 

 けれど、あると信じるのが怖い。

 

 信じて、また壊したら。

 

 今度こそ、本当に終わるのではないか。

 

 そんなことを考えていると、扉が軽く叩かれた。

 

「入るにゃ」

 

 返事を待たず、フェリスが入ってくる。

 

 手には薬と、何やら薄い紙束。

 

 その後ろには、クルシュ・カルステンがいた。

 

 凛とした姿勢。

 

 無駄のない歩き方。

 

 スバルは反射的に上体を起こそうとした。

 

「っ」

 

「動かない」

 

 フェリス、レム、ユイの声が重なった。

 

 スバルは動きを止める。

 

「……三人同時はきつい」

 

「きついことをするからです」

 

 レムが淡々と言う。

 

 フェリスは薬を机に置き、スバルの顔色を見た。

 

「熱は少し下がったかにゃ。でも、まだ動くのは禁止。絶対禁止。王都の外へ出るなんて論外」

 

「先読みすんなよ」

 

「顔に書いてあるにゃ。『今すぐ屋敷に帰りたい』って」

 

「どいつもこいつも俺の顔読みすぎじゃね?」

 

「読みやすい顔をしているからだ」

 

 クルシュが言った。

 

 その声は落ち着いていた。

 

 スバルは少しだけ背筋を伸ばす。

 

 彼女の前では、自然とそうしてしまうだけの圧があった。

 

「ナツキ・スバル。体調は?」

 

「……最悪よりは少し上、くらいです」

 

「正直でよろしい」

 

 クルシュは頷いた。

 

「フェリスから聞いた。命に関わる傷ではないが、安静が必要だと」

 

「はい」

 

「ならば、まずは治せ。焦りで動けば、さらに状況を悪くする」

 

 その言葉は、まっすぐだった。

 

 スバルは目を伏せる。

 

「……焦ってるように見えますか」

 

「見える」

 

「ですよね」

 

「そして、焦りは判断を鈍らせる。昨日の君がそうだった」

 

 スバルの胸が痛んだ。

 

 だが、クルシュの声には侮蔑がない。

 

 ただ事実を言っている。

 

 だからこそ、逃げられなかった。

 

「君はエミリア殿を思って動いたのだろう」

 

「……はい」

 

「だが、思いだけでは届かないこともある。むしろ、思いが強いほど、相手を見失うことがある」

 

「……」

 

「今の君に必要なのは、動くことではない。立ち止まり、己を見ることだ」

 

 似たようなことを、ユリウスにも言われた。

 

 己を知れ。

 

 その言葉を思い出すだけで、スバルの体が強張る。

 

 クルシュはそれに気づいたようだったが、追及しない。

 

「私は君を責めに来たのではない。だが、忠告はする。君がこのまま動けば、君自身だけでなく、君が守りたい相手も傷つける」

 

 スバルは拳を握りそうになり、レムの視線に気づいてやめた。

 

「……わかりました」

 

「本当にか?」

 

 クルシュの問いは鋭い。

 

 スバルは言葉に詰まる。

 

 わかりました。

 

 そう言った。

 

 でも、本当にわかっているのか。

 

 昨日も、自分は何度もわかっていると言った。

 

 その結果がこれだ。

 

「……わかろうとは、してます」

 

 ようやく絞り出すと、クルシュはわずかに表情を緩めた。

 

「その方がよい。今の君が『わかった』と言い切るより、よほど信用できる」

 

「信用、低いですね」

 

「積み直せばよい」

 

 短い言葉だった。

 

 けれど、重かった。

 

 積み直す。

 

 壊した信頼を。

 

 自分で踏み外した足場を。

 

 スバルは小さく頷いた。

 

 クルシュは用件を終えると、フェリスにスバルの治療を任せ、部屋を出た。

 

 フェリスは残り、薬をスバルへ差し出す。

 

「飲むにゃ」

 

「苦そう」

 

「苦いにゃ」

 

「嘘でも飲みやすいって言えよ」

 

「嘘をついて飲んだ後に文句言われる方が面倒」

 

「合理的……」

 

 スバルは薬を受け取り、顔をしかめながら飲んだ。

 

 苦い。

 

 舌が痺れるような苦さだった。

 

「うげ……」

 

「効くにゃ」

 

「効かなきゃ許されない味だな」

 

「文句が言えるなら大丈夫」

 

 フェリスはそう言い、レムへ向き直った。

 

「レムりんも、ちゃんと休むこと。看病する側が倒れたら意味ないから」

 

「はい」

 

「ユイちゃんも」

 

「私?」

 

「そう。スバルきゅんの隣にいる人、みんな放っておくと無理しそうだから」

 

 ユイは微笑んだ。

 

「気をつけるわ」

 

「その顔、絶対わかってない顔にゃ」

 

「よく言われるわ」

 

「言われるなら直すにゃ」

 

「努力するわ」

 

 フェリスは疑わしそうに目を細めたが、それ以上は言わなかった。

 

 彼が出ていくと、部屋はまた静かになった。

 

 夕暮れが近づいている。

 

 窓の外の王都が、少しずつ橙色に染まっていく。

 

 スバルはその光を見て、ぽつりと言った。

 

「今頃、エミリアは屋敷か」

 

「道中でしょう。ロズワール様が一緒ですから、大きな問題はないはずです」

 

 レムが答える。

 

「そう、だよな」

 

 でも、不安は消えない。

 

 ロズワールが一緒。

 

 それは安心材料のはずだ。

 

 けれど、スバルの胸はざわついていた。

 

 屋敷。

 

 アーラム村。

 

 エミリア。

 

 ラム。

 

 ベアトリス。

 

 自分がいない場所。

 

 見えない場所。

 

 そこで何かが起きたら。

 

 また間に合わなかったら。

 

「スバル君」

 

 レムの声。

 

 スバルは顔を上げた。

 

「考えすぎています」

 

「……顔に出てた?」

 

「はい」

 

「ほんと、俺の顔って何なんだ」

 

「でも、少しずつわかるようになっただけです」

 

 レムはそう言って、少しだけ微笑んだ。

 

「スバル君が不安な時。無理をしようとしている時。自分を責めている時。前より、少しだけわかります」

 

「それ、全部俺がダメな時じゃねえか」

 

「だから、見ていないといけません」

 

 その言葉は優しかった。

 

 けれど、スバルには痛かった。

 

 見ていないといけない。

 

 自分は、誰かに見張られていなければまた間違えるのか。

 

 そう思いかけて、違うと思い直す。

 

 レムは見張りたいのではない。

 

 心配している。

 

 それを疑う自分が、嫌だった。

 

「……ありがとな」

 

 スバルが言うと、レムは目を瞬かせた。

 

「急ですね」

 

「言える時に言っとかないと、また言えなくなる気がして」

 

「そうですか」

 

 レムは、少しだけ嬉しそうに目を伏せた。

 

「受け取っておきます」

 

 その夜。

 

 スバルは眠れなかった。

 

 フェリスの薬で体は重く、痛みも鈍くなっている。

 

 それでも、眠れない。

 

 目を閉じれば、王選の間が浮かぶ。

 

 ユリウスの木剣。

 

 騎士たちの目。

 

 エミリアの涙。

 

 顔を見るのがつらい。

 

 その言葉。

 

「……っ」

 

 寝返りを打とうとして、痛みで止まる。

 

 ベッドの横で、レムがすぐに気づいた。

 

「眠れませんか」

 

「……レム、起きてたのか」

 

「はい」

 

「寝ろよ」

 

「スバル君が眠ったら」

 

「俺のせいじゃねえか」

 

「はい」

 

「そこは否定してくれ」

 

「できません」

 

 スバルは小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。

 

「ごめん」

 

「謝らなくていいです」

 

「でも」

 

「謝るより、少しでも眠ってください」

 

「難しい注文だな」

 

「では、目を閉じるだけでも」

 

「……わかった」

 

 スバルは目を閉じた。

 

 暗闇が広がる。

 

 すぐにエミリアの顔が浮かぶ。

 

 胸が痛む。

 

 眠れない。

 

 けれど、横にレムがいる。

 

 少し離れた椅子で、ユイも目を閉じている。

 

 眠っているのか、起きているのか、わからない。

 

 自分は一人ではない。

 

 そう思うと、余計に苦しかった。

 

 一人ではないのに、こんなにも何もできない。

 

 置いていかれたのに、そばにいてくれる人がいる。

 

 救われているのに、息が苦しい。

 

 その矛盾を抱えたまま、スバルは浅い眠りに落ちていった。

 

 ユイは、目を閉じたまま、その呼吸を聞いていた。

 

 眠りは浅い。

 

 すぐに悪夢を見るだろう。

 

 けれど、それでいい。

 

 痛みも、後悔も、優しさも、全部スバルの中に積み重なっていく。

 

 戻らない時間の中で。

 

 やり直せない失敗として。

 

 ユイは静かに目を開けた。

 

 窓の外、王都の夜はまだ明るい。

 

 遠く、ロズワール領へ続く道は闇の中に沈んでいる。

 

 あの先に、エミリアがいる。

 

 そして、いずれ起こる惨劇も。

 

 ユイは、それを知っている。

 

 止めることもできる。

 

 けれど、まだ止めない。

 

 まだ、スバルくんは足りない。

 

 まだ、曇りきっていない。

 

 彼が本当に折れて、それでも立ち上がるところを見たい。

 

 だから今は、何も知らない顔で隣にいる。

 

 頼れるお姉さんとして。

 

 悪夢にうなされる少年のそばで。

 

 優しく、静かに、見守っていた。

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