置いていかれる音を、ただ聞いていた。
竜車の車輪が、石畳を遠ざかっていく。
その音が小さくなっていくたびに、スバルの胸の奥に空洞が広がっていった。
エミリアが行く。
ロズワール邸へ戻る。
自分は、ここに残される。
治療のため。
そう言われた。
それは正しい。
体は動かない。
ユリウスに打ち据えられた痛みは、フェリスの治療を受けてもまだ消えない。
肩は熱を持ち、脇腹は呼吸のたびに軋み、手足には鈍い痛みが残っている。
長距離移動など、できるはずがなかった。
わかっている。
わかっているのに、納得できない。
「……くそ」
スバルは寝台の上で拳を握った。
指が痛む。
木剣を握りしめ、地面を掻いた掌が悲鳴を上げた。
それでも力を抜けない。
痛みがあれば、まだ何かをしている気になれた。
何もできずに寝ているよりは、ずっとましだった。
「スバル君」
レムの声がした。
静かで、近い声。
スバルの横には、レムが椅子を引いて座っている。
フェリスに命じられた薬と水。
替えの包帯。
冷やした布。
全部が手の届く場所に置かれていた。
レムは、いつものように完璧に世話をしている。
けれど、表情は少しだけ硬い。
「手に力が入っています。傷が開きます」
「……平気だ」
「平気ではありません」
「わかってる」
「なら、力を抜いてください」
「……」
スバルは、ゆっくりと拳を解いた。
掌に爪の跡が残っている。
レムはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「消毒します」
「いい。これくらい」
「よくありません」
レムは有無を言わせず、布を取った。
スバルの掌を取り、丁寧に拭う。
しみた。
「っ」
「痛みますか」
「少し」
「少しではない顔です」
「レム、最近ほんと容赦ないな」
「スバル君が容赦なく自分を傷つけるからです」
返す言葉がなかった。
スバルは視線を逸らす。
窓の外には、王都の空が見える。
青い。
腹が立つほど、青い。
エミリアを乗せた竜車はもう見えない。
見えない場所へ行ってしまった。
「……今から追えば」
「無理です」
レムの返事は早かった。
スバルは唇を噛む。
「まだ何も言ってない」
「言わなくてもわかります」
「俺、そんなにわかりやすいか」
「はい」
「即答かよ」
「追いかけることはできません。今のスバル君は、立ち上がるだけでも危険です」
「でも、エミリアが」
「エミリア様は、戻られました」
レムの声は優しい。
けれど、逃げ道を塞ぐ声だった。
「スバル君は、ここで治療を受けます。それがエミリア様の望みです」
「……俺がそばにいない方がいいってことか」
「そうは言っていません」
「同じだろ」
「違います」
「違わない!」
声が荒れた。
レムがわずかに息を呑む。
スバルはすぐに後悔した。
けれど、もう出た声は戻らない。
「……悪い」
「いえ」
レムは短く答えた。
責めない。
怒らない。
それが余計に刺さった。
ユイは、少し離れた窓辺に立っていた。
白い髪が、窓から入る光に淡く揺れている。
彼女は振り返らない。
ただ、二人のやり取りを聞いていた。
スバルくん。
焦っているね。
置いていかれたことが、こんなに痛いんだね。
自分が拒まれたこと。
役に立てなかったこと。
エミリアさんのそばにいられないこと。
全部が混ざって、もう自分でも何に怒っているのかわからなくなっている。
ユイは内心で、ゆっくりと微笑んだ。
でも、表情には出さない。
今はまだ、頼れるお姉さんとしてそこにいる。
スバルが崩れすぎないように。
けれど、ちゃんと曇るように。
「スバルくん」
ユイが声をかけた。
「今追いかけても、同じことを繰り返すだけよ」
「……わかってる」
「本当に?」
「わかってるよ」
スバルは天井を睨むように見た。
「わかってるけど、じゃあどうすればいいんだよ。ここで寝てりゃいいのか? エミリアが屋敷に戻って、俺は王都で治療して、元気になったら何食わぬ顔で帰るのか?」
「何食わぬ顔は、できないでしょうね」
「だろうな」
「なら、考える時間にすればいい」
「考える?」
「次に会った時、何を言うのか。何を謝るのか。何を変えるのか」
スバルは黙った。
謝る。
何を。
全部だ。
約束を破ったこと。
王選の場を乱したこと。
騎士を名乗ったこと。
エミリアの話を聞かなかったこと。
自分のための怒りを、エミリアのためだと言い張ったこと。
数えれば、きりがない。
「……多すぎんだろ」
「ええ」
「俺、ほんとに何やってんだろうな」
「間違えたのよ」
「それは聞いた」
「何度でも言うわ。間違えた。だから、次を考える」
「次、か」
スバルは目を閉じた。
次。
その言葉がひどく遠い。
エミリアに顔を見るのがつらいと言われた。
距離を置こうと言われた。
それでも、次があるのか。
あってほしい。
けれど、あると信じるのが怖い。
信じて、また壊したら。
今度こそ、本当に終わるのではないか。
そんなことを考えていると、扉が軽く叩かれた。
「入るにゃ」
返事を待たず、フェリスが入ってくる。
手には薬と、何やら薄い紙束。
その後ろには、クルシュ・カルステンがいた。
凛とした姿勢。
無駄のない歩き方。
スバルは反射的に上体を起こそうとした。
「っ」
「動かない」
フェリス、レム、ユイの声が重なった。
スバルは動きを止める。
「……三人同時はきつい」
「きついことをするからです」
レムが淡々と言う。
フェリスは薬を机に置き、スバルの顔色を見た。
「熱は少し下がったかにゃ。でも、まだ動くのは禁止。絶対禁止。王都の外へ出るなんて論外」
「先読みすんなよ」
「顔に書いてあるにゃ。『今すぐ屋敷に帰りたい』って」
「どいつもこいつも俺の顔読みすぎじゃね?」
「読みやすい顔をしているからだ」
クルシュが言った。
その声は落ち着いていた。
スバルは少しだけ背筋を伸ばす。
彼女の前では、自然とそうしてしまうだけの圧があった。
「ナツキ・スバル。体調は?」
「……最悪よりは少し上、くらいです」
「正直でよろしい」
クルシュは頷いた。
「フェリスから聞いた。命に関わる傷ではないが、安静が必要だと」
「はい」
「ならば、まずは治せ。焦りで動けば、さらに状況を悪くする」
その言葉は、まっすぐだった。
スバルは目を伏せる。
「……焦ってるように見えますか」
「見える」
「ですよね」
「そして、焦りは判断を鈍らせる。昨日の君がそうだった」
スバルの胸が痛んだ。
だが、クルシュの声には侮蔑がない。
ただ事実を言っている。
だからこそ、逃げられなかった。
「君はエミリア殿を思って動いたのだろう」
「……はい」
「だが、思いだけでは届かないこともある。むしろ、思いが強いほど、相手を見失うことがある」
「……」
「今の君に必要なのは、動くことではない。立ち止まり、己を見ることだ」
似たようなことを、ユリウスにも言われた。
己を知れ。
その言葉を思い出すだけで、スバルの体が強張る。
クルシュはそれに気づいたようだったが、追及しない。
「私は君を責めに来たのではない。だが、忠告はする。君がこのまま動けば、君自身だけでなく、君が守りたい相手も傷つける」
スバルは拳を握りそうになり、レムの視線に気づいてやめた。
「……わかりました」
「本当にか?」
クルシュの問いは鋭い。
スバルは言葉に詰まる。
わかりました。
そう言った。
でも、本当にわかっているのか。
昨日も、自分は何度もわかっていると言った。
その結果がこれだ。
「……わかろうとは、してます」
ようやく絞り出すと、クルシュはわずかに表情を緩めた。
「その方がよい。今の君が『わかった』と言い切るより、よほど信用できる」
「信用、低いですね」
「積み直せばよい」
短い言葉だった。
けれど、重かった。
積み直す。
壊した信頼を。
自分で踏み外した足場を。
スバルは小さく頷いた。
クルシュは用件を終えると、フェリスにスバルの治療を任せ、部屋を出た。
フェリスは残り、薬をスバルへ差し出す。
「飲むにゃ」
「苦そう」
「苦いにゃ」
「嘘でも飲みやすいって言えよ」
「嘘をついて飲んだ後に文句言われる方が面倒」
「合理的……」
スバルは薬を受け取り、顔をしかめながら飲んだ。
苦い。
舌が痺れるような苦さだった。
「うげ……」
「効くにゃ」
「効かなきゃ許されない味だな」
「文句が言えるなら大丈夫」
フェリスはそう言い、レムへ向き直った。
「レムりんも、ちゃんと休むこと。看病する側が倒れたら意味ないから」
「はい」
「ユイちゃんも」
「私?」
「そう。スバルきゅんの隣にいる人、みんな放っておくと無理しそうだから」
ユイは微笑んだ。
「気をつけるわ」
「その顔、絶対わかってない顔にゃ」
「よく言われるわ」
「言われるなら直すにゃ」
「努力するわ」
フェリスは疑わしそうに目を細めたが、それ以上は言わなかった。
彼が出ていくと、部屋はまた静かになった。
夕暮れが近づいている。
窓の外の王都が、少しずつ橙色に染まっていく。
スバルはその光を見て、ぽつりと言った。
「今頃、エミリアは屋敷か」
「道中でしょう。ロズワール様が一緒ですから、大きな問題はないはずです」
レムが答える。
「そう、だよな」
でも、不安は消えない。
ロズワールが一緒。
それは安心材料のはずだ。
けれど、スバルの胸はざわついていた。
屋敷。
アーラム村。
エミリア。
ラム。
ベアトリス。
自分がいない場所。
見えない場所。
そこで何かが起きたら。
また間に合わなかったら。
「スバル君」
レムの声。
スバルは顔を上げた。
「考えすぎています」
「……顔に出てた?」
「はい」
「ほんと、俺の顔って何なんだ」
「でも、少しずつわかるようになっただけです」
レムはそう言って、少しだけ微笑んだ。
「スバル君が不安な時。無理をしようとしている時。自分を責めている時。前より、少しだけわかります」
「それ、全部俺がダメな時じゃねえか」
「だから、見ていないといけません」
その言葉は優しかった。
けれど、スバルには痛かった。
見ていないといけない。
自分は、誰かに見張られていなければまた間違えるのか。
そう思いかけて、違うと思い直す。
レムは見張りたいのではない。
心配している。
それを疑う自分が、嫌だった。
「……ありがとな」
スバルが言うと、レムは目を瞬かせた。
「急ですね」
「言える時に言っとかないと、また言えなくなる気がして」
「そうですか」
レムは、少しだけ嬉しそうに目を伏せた。
「受け取っておきます」
その夜。
スバルは眠れなかった。
フェリスの薬で体は重く、痛みも鈍くなっている。
それでも、眠れない。
目を閉じれば、王選の間が浮かぶ。
ユリウスの木剣。
騎士たちの目。
エミリアの涙。
顔を見るのがつらい。
その言葉。
「……っ」
寝返りを打とうとして、痛みで止まる。
ベッドの横で、レムがすぐに気づいた。
「眠れませんか」
「……レム、起きてたのか」
「はい」
「寝ろよ」
「スバル君が眠ったら」
「俺のせいじゃねえか」
「はい」
「そこは否定してくれ」
「できません」
スバルは小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。
「ごめん」
「謝らなくていいです」
「でも」
「謝るより、少しでも眠ってください」
「難しい注文だな」
「では、目を閉じるだけでも」
「……わかった」
スバルは目を閉じた。
暗闇が広がる。
すぐにエミリアの顔が浮かぶ。
胸が痛む。
眠れない。
けれど、横にレムがいる。
少し離れた椅子で、ユイも目を閉じている。
眠っているのか、起きているのか、わからない。
自分は一人ではない。
そう思うと、余計に苦しかった。
一人ではないのに、こんなにも何もできない。
置いていかれたのに、そばにいてくれる人がいる。
救われているのに、息が苦しい。
その矛盾を抱えたまま、スバルは浅い眠りに落ちていった。
ユイは、目を閉じたまま、その呼吸を聞いていた。
眠りは浅い。
すぐに悪夢を見るだろう。
けれど、それでいい。
痛みも、後悔も、優しさも、全部スバルの中に積み重なっていく。
戻らない時間の中で。
やり直せない失敗として。
ユイは静かに目を開けた。
窓の外、王都の夜はまだ明るい。
遠く、ロズワール領へ続く道は闇の中に沈んでいる。
あの先に、エミリアがいる。
そして、いずれ起こる惨劇も。
ユイは、それを知っている。
止めることもできる。
けれど、まだ止めない。
まだ、スバルくんは足りない。
まだ、曇りきっていない。
彼が本当に折れて、それでも立ち上がるところを見たい。
だから今は、何も知らない顔で隣にいる。
頼れるお姉さんとして。
悪夢にうなされる少年のそばで。
優しく、静かに、見守っていた。