浅い眠りは、夢と現実の境目を曖昧にした。
エミリアの背中。
ユリウスの木剣。
騎士たちの視線。
顔を見るのがつらい、という声。
その全部が、眠りの底でぐちゃぐちゃに混ざる。
スバルは何度も目を覚ました。
そのたびに、天井が見えた。
カルステン公爵家の客室。
自分は王都にいる。
エミリアは屋敷へ戻った。
戻れない時間の中で、失敗だけが残っている。
「……くそ」
朝になって、スバルは寝台から起き上がろうとした。
痛みはまだ残っている。
フェリスの治療で体は動くようになっていたが、万全にはほど遠い。
けれど、じっとしていられなかった。
横で椅子に座っていたレムが、すぐに顔を上げる。
「スバル君。まだ起きてはいけません」
「起きるだけだ」
「起きたら歩きます」
「歩くだけだ」
「歩いたら外へ出ます」
「……」
「図星ですね」
レムの声は静かだった。
スバルは言い返せず、唇を噛む。
「寝てたって、何も変わらねえだろ」
「体は治ります」
「体だけ治っても意味ねえよ」
「意味はあります」
レムは真っ直ぐに言った。
「スバル君が生きていて、動けるようになることには意味があります」
「……そうかよ」
スバルは顔を背けた。
優しい言葉だった。
それが今は苦しい。
自分が生きていることに意味があると言われても、その意味を見失っている。
エミリアのそばに立てない。
守ろうとして傷つけた。
騎士を名乗って、騎士に叩き伏せられた。
何をしても、裏目に出る。
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのはユイだった。
白い髪。
穏やかな顔。
手には水差しと軽い食事。
「おはよう、スバルくん」
「……おはよう」
「眠れた?」
「眠れたような、眠れてないような」
「悪夢?」
「まあな」
ユイは食事を机に置き、スバルを見る。
「今日は何をするつもり?」
「……何かする」
「具体的には?」
「わからん」
「なら、まず食べましょう」
「食欲ねえ」
「食べないと動けないわ」
「動く前提で言ってる?」
「止めても動くでしょう」
スバルは黙った。
レムが少しだけユイを見る。
その表情には不安がある。
止めるべきだ。
でも、止めてもスバルは壊れる。
それをレムも少しずつ理解していた。
ユイは内心で静かに笑う。
焦燥。
無力感。
置いていかれた痛み。
それらがスバルを寝台から押し出している。
このままでは、彼は正しく休むことなどできない。
ならば、動かせばいい。
動いて、さらに自分の無力を知ればいい。
それが次の曇りになる。
表では、ユイはただ優しく言った。
「無理をするなら、せめて誰かの目が届くところでね」
「頼れるお姉さんなのか、監視役なのかわかんなくなってきたな」
「両方よ」
「最強じゃん」
軽口は出た。
けれど、スバルの目は笑っていなかった。
その日の午前。
スバルは庭に出た。
カルステン公爵家の庭は、ロズワール邸の庭とは違う。
華やかさよりも、整然とした空気。
訓練場では、兵たちが規則正しく剣を振っている。
掛け声。
足音。
木剣の打ち合う音。
そのすべてが、スバルの胸をざらつかせた。
騎士。
剣。
誇り。
昨日の自分を思い出す。
吐き気がした。
それでも、スバルは訓練場の端へ向かった。
そこにいたのは、ヴィルヘルムだった。
白髪の老剣士。
静かに立っているだけで、周囲の空気が研ぎ澄まされるような男。
スバルは、彼の前で足を止めた。
「ヴィルヘルムさん」
「ナツキ殿。お体は」
「動けます」
「動けることと、鍛錬に耐えられることは別です」
「わかってます」
スバルは即答した。
自分でも、わかっていない声だと思った。
「でも、お願いします。俺に剣を教えてください」
ヴィルヘルムの目が、静かにスバルを見た。
責めるでもなく、驚くでもなく。
ただ、見定める目。
「なぜ、剣を?」
「強くなりたいからです」
「なぜ強くなりたいのです」
「守りたいから」
「誰を」
スバルは詰まった。
エミリア。
そう言うべきだった。
だが、昨日の言葉が蘇る。
私のためだと言いながら、スバルは私の話を聞いてくれなかった。
守りたいという言葉が、今は軽く聞こえた。
「……守りたい人を」
「曖昧ですな」
「すみません」
「謝ることではありません。ただ、剣は曖昧な覚悟に応えるほど優しくはない」
ヴィルヘルムの声は穏やかだった。
だが、重い。
「それでも、振りますか」
「振ります」
スバルは答えた。
ヴィルヘルムはしばらく黙った後、木剣を一本差し出した。
「では、構えを」
スバルは木剣を受け取った。
昨日と同じ重さ。
同じ感触。
手が震えそうになる。
ユリウスに叩き伏せられた記憶が、体に残っている。
それでも、握る。
構える。
構えはひどいものだった。
足の置き方。
腰の高さ。
肩の力。
すべてがばらばらだった。
ヴィルヘルムは一つずつ直した。
声を荒げない。
けれど、容赦もない。
「肩の力を抜く」
「はい」
「足が死んでおります」
「足が死ぬって何ですか」
「今のそれです」
「わかりやすいようでわかりづらい」
「剣を振る前に、自分の体がどこにあるのかを知ることです」
「……はい」
振る。
直される。
振る。
止められる。
振る。
痛む。
肩の傷が熱を持つ。
昨日打たれた箇所が軋む。
それでもスバルは木剣を振った。
何度も。
何度も。
やがて、レムが声を上げた。
「スバル君、もう休んでください」
「まだ」
「だめです」
「まだできる」
「できません」
レムは近づき、スバルの腕を取った。
その手は震えている。
怒りではない。
心配で。
「スバル君は、何と戦っているのですか」
その問いに、スバルは答えられなかった。
ユリウスか。
自分か。
昨日の失敗か。
エミリアに拒まれた痛みか。
全部だ。
でも、どれも口にできない。
「……わかんねえ」
スバルは木剣を下ろした。
「でも、止まったら、もっとわかんなくなる」
レムの顔が歪む。
ヴィルヘルムは静かに言った。
「今日はここまでにしましょう」
「でも」
「これ以上は鍛錬ではなく、自傷です」
その言葉に、スバルは黙った。
自傷。
フェリスにも似たようなことを言われた。
レムにも。
ユイにも。
自分は、何をしているのか。
強くなりたいのか。
それとも、痛めつけられれば少しは許されると思っているのか。
わからなかった。
昼過ぎ。
ラインハルトが訪れた。
赤髪の剣聖。
昨日、王選の場にいた男。
フェルトの隣に立っていた騎士。
彼はスバルを見るなり、深く頭を下げた。
「ナツキ殿。昨日の件、止められず申し訳ありませんでした」
スバルは目を丸くした。
「なんでラインハルトが謝るんだよ」
「私にも、できることがあったかもしれません」
「ないだろ。俺が勝手にやらかしただけだ」
「それでも、です」
ラインハルトは真面目だった。
その真面目さが、スバルには少し眩しい。
眩しすぎて、直視しづらい。
「ユリウスにも、彼なりの考えがありました」
その名前に、スバルの顔が強張る。
ラインハルトはそれを見ても、言葉を続けた。
「彼は君を侮辱したかったわけではありません。むしろ、他の騎士たちの怒りを引き受ける形を選んだ」
「……それ、ユイさんにも言われた」
スバルは小さく呟いた。
「でも、だからって納得できるかよ」
「すぐに納得しろとは言いません。ただ、いつか彼と話してほしい」
「嫌だ」
即答だった。
ラインハルトは困ったように眉を下げる。
「君なら、いずれわかると思います」
「買いかぶりだろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
スバルは顔を背けた。
「俺は、そんなできた人間じゃない」
「それでも、私は君を信じています」
「やめろよ」
声が尖った。
ラインハルトは少しだけ目を見開く。
スバルは奥歯を噛んだ。
「そういう、何でも正しくて、綺麗なこと言えるの、今はきついんだよ」
沈黙。
ラインハルトの表情が痛む。
彼は謝罪のために来た。
ユリウスとの和解のきっかけを作ろうとしてくれた。
それはわかる。
わかるのに、受け取れない。
自分の中の醜さが、ラインハルトの正しさに照らされるようで苦しかった。
「……すみません」
スバルは小さく言った。
「今のは、八つ当たりだ」
「いえ」
ラインハルトは静かに首を振った。
「傷ついている時に届かない言葉を選んだのは、私です」
「なんでそうやって全部受け止めるんだよ」
「そうありたいからです」
スバルは何も言えなかった。
ラインハルトは最後に、静かに言った。
「ユリウスは、君を敵とは思っていません。それだけは覚えていてください」
そう言って、彼は去った。
残されたスバルは、椅子に座り込んだ。
レムは何も言わない。
ユイも、しばらく黙っていた。
夕方前、スバルは外に出た。
レムが付き添い、ユイも隣にいる。
気分転換。
フェリスにそう言われた。
体を動かすのは短時間だけ。
無茶はしない。
そう約束して、王都の市場へ出た。
人の声が多い。
香辛料の匂い。
焼いた肉の匂い。
布を売る声。
果物を並べる音。
その雑踏の中で、スバルはリンガ屋を見つけた。
カドモンの屋台。
昨日も寄った場所。
スバルは足を止める。
「おっちゃん」
「またお前か。顔色悪いな」
「よく言われる」
「リンガでも食って元気出せ」
「じゃあ、一個」
スバルがリンガを買うと、カドモンは何気なく言った。
「そういや、昨日から王選の話で持ちきりだな。候補者が出揃ったとかなんとか」
スバルの手が止まる。
「……ああ」
「けど、銀髪のハーフエルフってのは厳しいだろうな。あれじゃあ、どうしたって魔女を思い出す奴が多い」
悪意があったわけではない。
カドモンは、世間話として言っただけだ。
王都の一般人がどう見るか。
ただそれを口にしただけ。
だが、スバルの胸は一気に熱くなった。
「エミリアは、そんな奴じゃねえよ」
声が低くなる。
カドモンは眉を上げた。
「知り合いか?」
「……ああ」
「なら悪かったな。別に悪く言ったつもりじゃねえ。ただ、世間はそう見るって話だ」
「世間が間違ってる」
「かもしれんな」
カドモンは肩をすくめた。
「だが、人の印象ってのは簡単には変わらねえ。特に魔女絡みはな」
魔女。
その言葉だけで、スバルの胸の奥が冷えた。
死に戻り。
嫉妬の魔女。
自分にまとわりつく黒い手。
エミリアへ向けられる偏見。
全部が不快に絡まる。
「……くそ」
スバルはリンガを握りしめた。
レムがそっと声をかける。
「スバル君」
「わかってる」
また、その言葉。
わかってる。
わかっていないのに。
スバルはリンガを口にした。
味がしなかった。
夜。
クルシュ、フェリス、レム、ユイ、そしてスバルが同じ部屋にいた。
フェリスが用意した薬酒のようなものを前に、スバルは顔をしかめている。
「これ、また苦いやつ?」
「苦くはないにゃ。変な味なだけ」
「それフォローになってる?」
「なら飲まなくていいよ。治りが遅くなるだけ」
「飲みます」
スバルは杯を手に取り、少しずつ飲んだ。
クルシュは静かにその様子を見ている。
「少しは落ち着いたか」
「……どうでしょう」
「正直でよい」
クルシュは杯を置いた。
「焦りは消えぬか」
「消えません」
「エミリア殿のことか」
スバルは頷いた。
「俺がいないところで、また何かあったらって思うと、落ち着かないんです」
「君がいても、すべてを防げるわけではない」
「わかってます」
「だが、納得していない」
「……はい」
クルシュは目を細めた。
「君は今、守りたい相手より、自分の不安に追われている」
その言葉に、スバルの胸が刺された。
「それは……」
「責めているのではない。ただ、見誤るな。焦燥は時に、善意より速く人を走らせる。そして、速すぎる足は周りを見ることを忘れる」
スバルは黙った。
昨日の自分がまさにそうだった。
エミリアを守りたいという気持ちに追われて、エミリアの声を聞かなかった。
フェリスが横から軽く言う。
「スバルきゅん、今はまず自分の足元を見るにゃ。前ばっか見てると、また転ぶよ」
「もう転んだ後だよ」
「なら、次は顔面からいかないように」
「例えが痛い」
レムが少しだけ表情を緩めた。
その時だった。
ほんの一瞬。
レムの視線が、何もない空間へ吸い寄せられた。
胸元へ手が添えられる。
顔色が、わずかに変わる。
スバルは気づいた。
けれど、何が起きたのかまではわからない。
「レム?」
呼びかける。
レムはすぐに顔を戻した。
「はい」
「今、どうかしたか?」
「……いえ」
短い返事。
あまりにも短い。
レムは普段なら、もう少し丁寧に言葉を整える。
そのわずかな違いが、スバルの不安を煽った。
「本当に?」
「はい。少し、考えごとをしていただけです」
「考えごと?」
「屋敷のことを」
それだけだった。
姉様がどうした、とも言わない。
異変がある、とも言わない。
不確かなものを言葉にして、スバルを余計に焦らせることを、レムはしなかった。
だが、彼女の指先は微かに震えていた。
ユイは、それを見ていた。
ラムとの繋がり。
双子だからこそ感じる、言葉にならない違和感。
けれど、レムはそれを口にしない。
言えば、スバルは走る。
今にも壊れそうな少年が、また何も見ずに飛び出してしまう。
だから、レムは言わない。
ただ、戻る理由を自分の中に固めている。
ユイは静かに目を細めた。
いい判断。
そして、ひどく苦しい判断。
レムさんも曇ってきたね。
スバルはレムを見続けた。
「屋敷が気になるのか」
「……はい」
「エミリアが戻ったから?」
「それもあります」
「他には?」
レムは一度だけ目を伏せた。
そして、静かに言った。
「姉様に、少し長く顔を見せていませんから」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
スバルにも、それはわかった。
しかし、踏み込めなかった。
自分もまた、言えないものを抱えているから。
「……そっか」
スバルは小さく言った。
「俺も、戻りたい」
レムの肩がわずかに揺れた。
「スバル君」
「エミリアに会いたい。謝りたい。何を言えばいいかわかんねえけど、それでも、会わないと駄目な気がする」
「……はい」
「それに、屋敷も気になる。ラムも、ベアトリスも、村のみんなも」
レムは何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
クルシュが口を開いた。
「戻るつもりか」
「はい」
スバルは頷いた。
「俺は、戻ります」
「体は万全ではない」
「わかってます」
「この時間からの移動は危険も伴う」
「それも、わかってます」
「本当にわかっている者の顔ではないがな」
クルシュの言葉に、スバルは何も返せなかった。
レムが静かに言う。
「クルシュ様。無理を承知でお願いします。ロズワール邸へ向かうための地竜と竜車をお借りできないでしょうか」
その声は落ち着いていた。
不安を押し殺している。
今すぐ飛び出したい衝動を、きちんと形にして願いに変えている。
スバルは、そんなレムを見た。
自分よりずっと冷静だ。
きっと彼女の方が、今すぐ走りたいはずなのに。
「レム……」
「スバル君。行くなら、準備をしてからです」
「……ああ」
「焦って向かっても、たどり着けません」
「わかってる」
「本当に?」
レムの問いは静かだった。
スバルは一度息を吸う。
「わかろうとしてる」
それを聞いて、レムはほんの少しだけ頷いた。
「はい」
クルシュは二人を見ていた。
そして、短く息を吐く。
「事情が不明な以上、私兵を動かすことはできぬ」
スバルの顔が強張る。
「ですが――」
「最後まで聞け」
クルシュの声が鋭くなる。
「ロズワール邸へ向かうための地竜と竜車の手配はしよう。道中の最低限の支援も用意する。だが、これはカルステン家としての大規模な助力ではない」
「……ありがとうございます」
スバルは頭を下げた。
クルシュは頷く。
「焦りで進むな。目的を見失えば、たどり着いても何も救えぬ」
「はい」
フェリスは不満そうに耳を伏せた。
「フェリちゃんとしては、まだ寝ててほしいんだけどにゃ」
「悪い」
「謝るくらいなら無茶しないでほしいにゃ」
「……努力する」
「絶対嘘」
「嘘ではない」
「信用薄い」
フェリスはため息をつきながらも、薬と包帯を準備し始めた。
「道中で傷が開いたら、レムりんとユイちゃんが止血。薬はこれ。痛み止めは飲みすぎ禁止。スバルきゅんは自分で判断しないこと」
「俺の自己判断、禁止されすぎじゃない?」
「禁止されるようなことばっかりするからにゃ」
ユイも外套を取った。
「私も行くわ」
スバルはユイを見る。
「……危ないかもしれない」
「知っているわ」
「それでも?」
「ええ。頼れるお姉さんだから」
いつもの言葉。
けれど、今は少しだけ違って聞こえた。
救いのようで。
鎖のようで。
スバルは頷いた。
出発の準備は、慌ただしく進んだ。
夜の王都。
灯りが揺れる。
地竜が用意され、竜車が整えられる。
レムは必要最低限の荷をまとめる。
その動きに無駄はない。
けれど、時折ほんの一瞬だけ、遠くを見るような目をする。
スバルはそれを見るたびに、胸がざわついた。
何かある。
レムは何かを感じている。
でも、言わない。
言わないなら、自分が問い詰めるべきなのか。
そう思って、できなかった。
自分だって、言えないことばかりだから。
やがて、竜車の準備が整った。
クルシュが見送りに立つ。
「ナツキ・スバル」
「はい」
「今度こそ、考えて動け」
「……はい」
「レム」
「はい」
「無理はするな、と言っても聞かぬのだろう。ならば、最低限、生きて戻れ」
「承知しました」
フェリスが薬袋をレムへ渡す。
「レムりん、スバルきゅんを見張って。あと自分も倒れないこと」
「はい」
「ユイちゃんも、ちゃんと止める時は止めるにゃ」
「ええ」
「その返事、信用しきれないんだけど」
「気をつけるわ」
ユイは微笑む。
フェリスはまだ疑わしそうだったが、それ以上は言わなかった。
スバルは竜車に乗り込む。
レムが隣に座る。
ユイは向かいに座った。
竜車が動き出す。
王都の灯りが、少しずつ後ろへ流れていく。
ロズワール領へ。
エミリアのいる場所へ。
ラムのいる場所へ。
ベアトリスのいる場所へ。
アーラム村のある場所へ。
スバルは拳を握った。
今度こそ。
そう思った。
今度こそ、間違えない。
今度こそ、誰かを傷つける前に。
今度こそ、ちゃんと。
その隣で、レムは静かに目を伏せていた。
口にはしない。
けれど、胸の奥にある不安が消えていないことは、ユイにはわかった。
屋敷へ戻らなければならない。
姉のもとへ。
けれど、何が待っているのかはわからない。
わからないからこそ、怖い。
ユイは、二人を見ていた。
原作通り、ここから絶望が始まる。
屋敷へ向かう道。
白鯨の霧。
消える存在。
魔女教。
死体の山。
スバルくんは、まだ知らない。
自分が見に行くものが、どれほど彼を壊すのかを。
ユイは、表では静かに座っている。
内心では、甘く甘く囁いた。
さあ、スバルくん。
走ろう。
今度こそ、間に合わない場所へ。
あなたがどれだけ必死でも、世界が優しくないことを見せてあげる。
そして私は、隣で手を伸ばしてあげる。
頼れるお姉さんの顔で。
あなたが絶望に落ちる瞬間を、一番近くで見るために。