Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第二十一話 絶望という病

 浅い眠りは、夢と現実の境目を曖昧にした。

 

 エミリアの背中。

 

 ユリウスの木剣。

 

 騎士たちの視線。

 

 顔を見るのがつらい、という声。

 

 その全部が、眠りの底でぐちゃぐちゃに混ざる。

 

 スバルは何度も目を覚ました。

 

 そのたびに、天井が見えた。

 

 カルステン公爵家の客室。

 

 自分は王都にいる。

 

 エミリアは屋敷へ戻った。

 

 戻れない時間の中で、失敗だけが残っている。

 

「……くそ」

 

 朝になって、スバルは寝台から起き上がろうとした。

 

 痛みはまだ残っている。

 

 フェリスの治療で体は動くようになっていたが、万全にはほど遠い。

 

 けれど、じっとしていられなかった。

 

 横で椅子に座っていたレムが、すぐに顔を上げる。

 

「スバル君。まだ起きてはいけません」

 

「起きるだけだ」

 

「起きたら歩きます」

 

「歩くだけだ」

 

「歩いたら外へ出ます」

 

「……」

 

「図星ですね」

 

 レムの声は静かだった。

 

 スバルは言い返せず、唇を噛む。

 

「寝てたって、何も変わらねえだろ」

 

「体は治ります」

 

「体だけ治っても意味ねえよ」

 

「意味はあります」

 

 レムは真っ直ぐに言った。

 

「スバル君が生きていて、動けるようになることには意味があります」

 

「……そうかよ」

 

 スバルは顔を背けた。

 

 優しい言葉だった。

 

 それが今は苦しい。

 

 自分が生きていることに意味があると言われても、その意味を見失っている。

 

 エミリアのそばに立てない。

 

 守ろうとして傷つけた。

 

 騎士を名乗って、騎士に叩き伏せられた。

 

 何をしても、裏目に出る。

 

 その時、扉が叩かれた。

 

 入ってきたのはユイだった。

 

 白い髪。

 

 穏やかな顔。

 

 手には水差しと軽い食事。

 

「おはよう、スバルくん」

 

「……おはよう」

 

「眠れた?」

 

「眠れたような、眠れてないような」

 

「悪夢?」

 

「まあな」

 

 ユイは食事を机に置き、スバルを見る。

 

「今日は何をするつもり?」

 

「……何かする」

 

「具体的には?」

 

「わからん」

 

「なら、まず食べましょう」

 

「食欲ねえ」

 

「食べないと動けないわ」

 

「動く前提で言ってる?」

 

「止めても動くでしょう」

 

 スバルは黙った。

 

 レムが少しだけユイを見る。

 

 その表情には不安がある。

 

 止めるべきだ。

 

 でも、止めてもスバルは壊れる。

 

 それをレムも少しずつ理解していた。

 

 ユイは内心で静かに笑う。

 

 焦燥。

 

 無力感。

 

 置いていかれた痛み。

 

 それらがスバルを寝台から押し出している。

 

 このままでは、彼は正しく休むことなどできない。

 

 ならば、動かせばいい。

 

 動いて、さらに自分の無力を知ればいい。

 

 それが次の曇りになる。

 

 表では、ユイはただ優しく言った。

 

「無理をするなら、せめて誰かの目が届くところでね」

 

「頼れるお姉さんなのか、監視役なのかわかんなくなってきたな」

 

「両方よ」

 

「最強じゃん」

 

 軽口は出た。

 

 けれど、スバルの目は笑っていなかった。

 

 その日の午前。

 

 スバルは庭に出た。

 

 カルステン公爵家の庭は、ロズワール邸の庭とは違う。

 

 華やかさよりも、整然とした空気。

 

 訓練場では、兵たちが規則正しく剣を振っている。

 

 掛け声。

 

 足音。

 

 木剣の打ち合う音。

 

 そのすべてが、スバルの胸をざらつかせた。

 

 騎士。

 

 剣。

 

 誇り。

 

 昨日の自分を思い出す。

 

 吐き気がした。

 

 それでも、スバルは訓練場の端へ向かった。

 

 そこにいたのは、ヴィルヘルムだった。

 

 白髪の老剣士。

 

 静かに立っているだけで、周囲の空気が研ぎ澄まされるような男。

 

 スバルは、彼の前で足を止めた。

 

「ヴィルヘルムさん」

 

「ナツキ殿。お体は」

 

「動けます」

 

「動けることと、鍛錬に耐えられることは別です」

 

「わかってます」

 

 スバルは即答した。

 

 自分でも、わかっていない声だと思った。

 

「でも、お願いします。俺に剣を教えてください」

 

 ヴィルヘルムの目が、静かにスバルを見た。

 

 責めるでもなく、驚くでもなく。

 

 ただ、見定める目。

 

「なぜ、剣を?」

 

「強くなりたいからです」

 

「なぜ強くなりたいのです」

 

「守りたいから」

 

「誰を」

 

 スバルは詰まった。

 

 エミリア。

 

 そう言うべきだった。

 

 だが、昨日の言葉が蘇る。

 

 私のためだと言いながら、スバルは私の話を聞いてくれなかった。

 

 守りたいという言葉が、今は軽く聞こえた。

 

「……守りたい人を」

 

「曖昧ですな」

 

「すみません」

 

「謝ることではありません。ただ、剣は曖昧な覚悟に応えるほど優しくはない」

 

 ヴィルヘルムの声は穏やかだった。

 

 だが、重い。

 

「それでも、振りますか」

 

「振ります」

 

 スバルは答えた。

 

 ヴィルヘルムはしばらく黙った後、木剣を一本差し出した。

 

「では、構えを」

 

 スバルは木剣を受け取った。

 

 昨日と同じ重さ。

 

 同じ感触。

 

 手が震えそうになる。

 

 ユリウスに叩き伏せられた記憶が、体に残っている。

 

 それでも、握る。

 

 構える。

 

 構えはひどいものだった。

 

 足の置き方。

 

 腰の高さ。

 

 肩の力。

 

 すべてがばらばらだった。

 

 ヴィルヘルムは一つずつ直した。

 

 声を荒げない。

 

 けれど、容赦もない。

 

「肩の力を抜く」

 

「はい」

 

「足が死んでおります」

 

「足が死ぬって何ですか」

 

「今のそれです」

 

「わかりやすいようでわかりづらい」

 

「剣を振る前に、自分の体がどこにあるのかを知ることです」

 

「……はい」

 

 振る。

 

 直される。

 

 振る。

 

 止められる。

 

 振る。

 

 痛む。

 

 肩の傷が熱を持つ。

 

 昨日打たれた箇所が軋む。

 

 それでもスバルは木剣を振った。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 やがて、レムが声を上げた。

 

「スバル君、もう休んでください」

 

「まだ」

 

「だめです」

 

「まだできる」

 

「できません」

 

 レムは近づき、スバルの腕を取った。

 

 その手は震えている。

 

 怒りではない。

 

 心配で。

 

「スバル君は、何と戦っているのですか」

 

 その問いに、スバルは答えられなかった。

 

 ユリウスか。

 

 自分か。

 

 昨日の失敗か。

 

 エミリアに拒まれた痛みか。

 

 全部だ。

 

 でも、どれも口にできない。

 

「……わかんねえ」

 

 スバルは木剣を下ろした。

 

「でも、止まったら、もっとわかんなくなる」

 

 レムの顔が歪む。

 

 ヴィルヘルムは静かに言った。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

「でも」

 

「これ以上は鍛錬ではなく、自傷です」

 

 その言葉に、スバルは黙った。

 

 自傷。

 

 フェリスにも似たようなことを言われた。

 

 レムにも。

 

 ユイにも。

 

 自分は、何をしているのか。

 

 強くなりたいのか。

 

 それとも、痛めつけられれば少しは許されると思っているのか。

 

 わからなかった。

 

 昼過ぎ。

 

 ラインハルトが訪れた。

 

 赤髪の剣聖。

 

 昨日、王選の場にいた男。

 

 フェルトの隣に立っていた騎士。

 

 彼はスバルを見るなり、深く頭を下げた。

 

「ナツキ殿。昨日の件、止められず申し訳ありませんでした」

 

 スバルは目を丸くした。

 

「なんでラインハルトが謝るんだよ」

 

「私にも、できることがあったかもしれません」

 

「ないだろ。俺が勝手にやらかしただけだ」

 

「それでも、です」

 

 ラインハルトは真面目だった。

 

 その真面目さが、スバルには少し眩しい。

 

 眩しすぎて、直視しづらい。

 

「ユリウスにも、彼なりの考えがありました」

 

 その名前に、スバルの顔が強張る。

 

 ラインハルトはそれを見ても、言葉を続けた。

 

「彼は君を侮辱したかったわけではありません。むしろ、他の騎士たちの怒りを引き受ける形を選んだ」

 

「……それ、ユイさんにも言われた」

 

 スバルは小さく呟いた。

 

「でも、だからって納得できるかよ」

 

「すぐに納得しろとは言いません。ただ、いつか彼と話してほしい」

 

「嫌だ」

 

 即答だった。

 

 ラインハルトは困ったように眉を下げる。

 

「君なら、いずれわかると思います」

 

「買いかぶりだろ」

 

「そうでしょうか」

 

「そうだよ」

 

 スバルは顔を背けた。

 

「俺は、そんなできた人間じゃない」

 

「それでも、私は君を信じています」

 

「やめろよ」

 

 声が尖った。

 

 ラインハルトは少しだけ目を見開く。

 

 スバルは奥歯を噛んだ。

 

「そういう、何でも正しくて、綺麗なこと言えるの、今はきついんだよ」

 

 沈黙。

 

 ラインハルトの表情が痛む。

 

 彼は謝罪のために来た。

 

 ユリウスとの和解のきっかけを作ろうとしてくれた。

 

 それはわかる。

 

 わかるのに、受け取れない。

 

 自分の中の醜さが、ラインハルトの正しさに照らされるようで苦しかった。

 

「……すみません」

 

 スバルは小さく言った。

 

「今のは、八つ当たりだ」

 

「いえ」

 

 ラインハルトは静かに首を振った。

 

「傷ついている時に届かない言葉を選んだのは、私です」

 

「なんでそうやって全部受け止めるんだよ」

 

「そうありたいからです」

 

 スバルは何も言えなかった。

 

 ラインハルトは最後に、静かに言った。

 

「ユリウスは、君を敵とは思っていません。それだけは覚えていてください」

 

 そう言って、彼は去った。

 

 残されたスバルは、椅子に座り込んだ。

 

 レムは何も言わない。

 

 ユイも、しばらく黙っていた。

 

 夕方前、スバルは外に出た。

 

 レムが付き添い、ユイも隣にいる。

 

 気分転換。

 

 フェリスにそう言われた。

 

 体を動かすのは短時間だけ。

 

 無茶はしない。

 

 そう約束して、王都の市場へ出た。

 

 人の声が多い。

 

 香辛料の匂い。

 

 焼いた肉の匂い。

 

 布を売る声。

 

 果物を並べる音。

 

 その雑踏の中で、スバルはリンガ屋を見つけた。

 

 カドモンの屋台。

 

 昨日も寄った場所。

 

 スバルは足を止める。

 

「おっちゃん」

 

「またお前か。顔色悪いな」

 

「よく言われる」

 

「リンガでも食って元気出せ」

 

「じゃあ、一個」

 

 スバルがリンガを買うと、カドモンは何気なく言った。

 

「そういや、昨日から王選の話で持ちきりだな。候補者が出揃ったとかなんとか」

 

 スバルの手が止まる。

 

「……ああ」

 

「けど、銀髪のハーフエルフってのは厳しいだろうな。あれじゃあ、どうしたって魔女を思い出す奴が多い」

 

 悪意があったわけではない。

 

 カドモンは、世間話として言っただけだ。

 

 王都の一般人がどう見るか。

 

 ただそれを口にしただけ。

 

 だが、スバルの胸は一気に熱くなった。

 

「エミリアは、そんな奴じゃねえよ」

 

 声が低くなる。

 

 カドモンは眉を上げた。

 

「知り合いか?」

 

「……ああ」

 

「なら悪かったな。別に悪く言ったつもりじゃねえ。ただ、世間はそう見るって話だ」

 

「世間が間違ってる」

 

「かもしれんな」

 

 カドモンは肩をすくめた。

 

「だが、人の印象ってのは簡単には変わらねえ。特に魔女絡みはな」

 

 魔女。

 

 その言葉だけで、スバルの胸の奥が冷えた。

 

 死に戻り。

 

 嫉妬の魔女。

 

 自分にまとわりつく黒い手。

 

 エミリアへ向けられる偏見。

 

 全部が不快に絡まる。

 

「……くそ」

 

 スバルはリンガを握りしめた。

 

 レムがそっと声をかける。

 

「スバル君」

 

「わかってる」

 

 また、その言葉。

 

 わかってる。

 

 わかっていないのに。

 

 スバルはリンガを口にした。

 

 味がしなかった。

 

 夜。

 

 クルシュ、フェリス、レム、ユイ、そしてスバルが同じ部屋にいた。

 

 フェリスが用意した薬酒のようなものを前に、スバルは顔をしかめている。

 

「これ、また苦いやつ?」

 

「苦くはないにゃ。変な味なだけ」

 

「それフォローになってる?」

 

「なら飲まなくていいよ。治りが遅くなるだけ」

 

「飲みます」

 

 スバルは杯を手に取り、少しずつ飲んだ。

 

 クルシュは静かにその様子を見ている。

 

「少しは落ち着いたか」

 

「……どうでしょう」

 

「正直でよい」

 

 クルシュは杯を置いた。

 

「焦りは消えぬか」

 

「消えません」

 

「エミリア殿のことか」

 

 スバルは頷いた。

 

「俺がいないところで、また何かあったらって思うと、落ち着かないんです」

 

「君がいても、すべてを防げるわけではない」

 

「わかってます」

 

「だが、納得していない」

 

「……はい」

 

 クルシュは目を細めた。

 

「君は今、守りたい相手より、自分の不安に追われている」

 

 その言葉に、スバルの胸が刺された。

 

「それは……」

 

「責めているのではない。ただ、見誤るな。焦燥は時に、善意より速く人を走らせる。そして、速すぎる足は周りを見ることを忘れる」

 

 スバルは黙った。

 

 昨日の自分がまさにそうだった。

 

 エミリアを守りたいという気持ちに追われて、エミリアの声を聞かなかった。

 

 フェリスが横から軽く言う。

 

「スバルきゅん、今はまず自分の足元を見るにゃ。前ばっか見てると、また転ぶよ」

 

「もう転んだ後だよ」

 

「なら、次は顔面からいかないように」

 

「例えが痛い」

 

 レムが少しだけ表情を緩めた。

 

 その時だった。

 

 ほんの一瞬。

 

 レムの視線が、何もない空間へ吸い寄せられた。

 

 胸元へ手が添えられる。

 

 顔色が、わずかに変わる。

 

 スバルは気づいた。

 

 けれど、何が起きたのかまではわからない。

 

「レム?」

 

 呼びかける。

 

 レムはすぐに顔を戻した。

 

「はい」

 

「今、どうかしたか?」

 

「……いえ」

 

 短い返事。

 

 あまりにも短い。

 

 レムは普段なら、もう少し丁寧に言葉を整える。

 

 そのわずかな違いが、スバルの不安を煽った。

 

「本当に?」

 

「はい。少し、考えごとをしていただけです」

 

「考えごと?」

 

「屋敷のことを」

 

 それだけだった。

 

 姉様がどうした、とも言わない。

 

 異変がある、とも言わない。

 

 不確かなものを言葉にして、スバルを余計に焦らせることを、レムはしなかった。

 

 だが、彼女の指先は微かに震えていた。

 

 ユイは、それを見ていた。

 

 ラムとの繋がり。

 

 双子だからこそ感じる、言葉にならない違和感。

 

 けれど、レムはそれを口にしない。

 

 言えば、スバルは走る。

 

 今にも壊れそうな少年が、また何も見ずに飛び出してしまう。

 

 だから、レムは言わない。

 

 ただ、戻る理由を自分の中に固めている。

 

 ユイは静かに目を細めた。

 

 いい判断。

 

 そして、ひどく苦しい判断。

 

 レムさんも曇ってきたね。

 

 スバルはレムを見続けた。

 

「屋敷が気になるのか」

 

「……はい」

 

「エミリアが戻ったから?」

 

「それもあります」

 

「他には?」

 

 レムは一度だけ目を伏せた。

 

 そして、静かに言った。

 

「姉様に、少し長く顔を見せていませんから」

 

 嘘ではない。

 

 だが、全部でもない。

 

 スバルにも、それはわかった。

 

 しかし、踏み込めなかった。

 

 自分もまた、言えないものを抱えているから。

 

「……そっか」

 

 スバルは小さく言った。

 

「俺も、戻りたい」

 

 レムの肩がわずかに揺れた。

 

「スバル君」

 

「エミリアに会いたい。謝りたい。何を言えばいいかわかんねえけど、それでも、会わないと駄目な気がする」

 

「……はい」

 

「それに、屋敷も気になる。ラムも、ベアトリスも、村のみんなも」

 

 レムは何も言わない。

 

 ただ、静かに聞いている。

 

 クルシュが口を開いた。

 

「戻るつもりか」

 

「はい」

 

 スバルは頷いた。

 

「俺は、戻ります」

 

「体は万全ではない」

 

「わかってます」

 

「この時間からの移動は危険も伴う」

 

「それも、わかってます」

 

「本当にわかっている者の顔ではないがな」

 

 クルシュの言葉に、スバルは何も返せなかった。

 

 レムが静かに言う。

 

「クルシュ様。無理を承知でお願いします。ロズワール邸へ向かうための地竜と竜車をお借りできないでしょうか」

 

 その声は落ち着いていた。

 

 不安を押し殺している。

 

 今すぐ飛び出したい衝動を、きちんと形にして願いに変えている。

 

 スバルは、そんなレムを見た。

 

 自分よりずっと冷静だ。

 

 きっと彼女の方が、今すぐ走りたいはずなのに。

 

「レム……」

 

「スバル君。行くなら、準備をしてからです」

 

「……ああ」

 

「焦って向かっても、たどり着けません」

 

「わかってる」

 

「本当に?」

 

 レムの問いは静かだった。

 

 スバルは一度息を吸う。

 

「わかろうとしてる」

 

 それを聞いて、レムはほんの少しだけ頷いた。

 

「はい」

 

 クルシュは二人を見ていた。

 

 そして、短く息を吐く。

 

「事情が不明な以上、私兵を動かすことはできぬ」

 

 スバルの顔が強張る。

 

「ですが――」

 

「最後まで聞け」

 

 クルシュの声が鋭くなる。

 

「ロズワール邸へ向かうための地竜と竜車の手配はしよう。道中の最低限の支援も用意する。だが、これはカルステン家としての大規模な助力ではない」

 

「……ありがとうございます」

 

 スバルは頭を下げた。

 

 クルシュは頷く。

 

「焦りで進むな。目的を見失えば、たどり着いても何も救えぬ」

 

「はい」

 

 フェリスは不満そうに耳を伏せた。

 

「フェリちゃんとしては、まだ寝ててほしいんだけどにゃ」

 

「悪い」

 

「謝るくらいなら無茶しないでほしいにゃ」

 

「……努力する」

 

「絶対嘘」

 

「嘘ではない」

 

「信用薄い」

 

 フェリスはため息をつきながらも、薬と包帯を準備し始めた。

 

「道中で傷が開いたら、レムりんとユイちゃんが止血。薬はこれ。痛み止めは飲みすぎ禁止。スバルきゅんは自分で判断しないこと」

 

「俺の自己判断、禁止されすぎじゃない?」

 

「禁止されるようなことばっかりするからにゃ」

 

 ユイも外套を取った。

 

「私も行くわ」

 

 スバルはユイを見る。

 

「……危ないかもしれない」

 

「知っているわ」

 

「それでも?」

 

「ええ。頼れるお姉さんだから」

 

 いつもの言葉。

 

 けれど、今は少しだけ違って聞こえた。

 

 救いのようで。

 

 鎖のようで。

 

 スバルは頷いた。

 

 出発の準備は、慌ただしく進んだ。

 

 夜の王都。

 

 灯りが揺れる。

 

 地竜が用意され、竜車が整えられる。

 

 レムは必要最低限の荷をまとめる。

 

 その動きに無駄はない。

 

 けれど、時折ほんの一瞬だけ、遠くを見るような目をする。

 

 スバルはそれを見るたびに、胸がざわついた。

 

 何かある。

 

 レムは何かを感じている。

 

 でも、言わない。

 

 言わないなら、自分が問い詰めるべきなのか。

 

 そう思って、できなかった。

 

 自分だって、言えないことばかりだから。

 

 やがて、竜車の準備が整った。

 

 クルシュが見送りに立つ。

 

「ナツキ・スバル」

 

「はい」

 

「今度こそ、考えて動け」

 

「……はい」

 

「レム」

 

「はい」

 

「無理はするな、と言っても聞かぬのだろう。ならば、最低限、生きて戻れ」

 

「承知しました」

 

 フェリスが薬袋をレムへ渡す。

 

「レムりん、スバルきゅんを見張って。あと自分も倒れないこと」

 

「はい」

 

「ユイちゃんも、ちゃんと止める時は止めるにゃ」

 

「ええ」

 

「その返事、信用しきれないんだけど」

 

「気をつけるわ」

 

 ユイは微笑む。

 

 フェリスはまだ疑わしそうだったが、それ以上は言わなかった。

 

 スバルは竜車に乗り込む。

 

 レムが隣に座る。

 

 ユイは向かいに座った。

 

 竜車が動き出す。

 

 王都の灯りが、少しずつ後ろへ流れていく。

 

 ロズワール領へ。

 

 エミリアのいる場所へ。

 

 ラムのいる場所へ。

 

 ベアトリスのいる場所へ。

 

 アーラム村のある場所へ。

 

 スバルは拳を握った。

 

 今度こそ。

 

 そう思った。

 

 今度こそ、間違えない。

 

 今度こそ、誰かを傷つける前に。

 

 今度こそ、ちゃんと。

 

 その隣で、レムは静かに目を伏せていた。

 

 口にはしない。

 

 けれど、胸の奥にある不安が消えていないことは、ユイにはわかった。

 

 屋敷へ戻らなければならない。

 

 姉のもとへ。

 

 けれど、何が待っているのかはわからない。

 

 わからないからこそ、怖い。

 

 ユイは、二人を見ていた。

 

 原作通り、ここから絶望が始まる。

 

 屋敷へ向かう道。

 

 白鯨の霧。

 

 消える存在。

 

 魔女教。

 

 死体の山。

 

 スバルくんは、まだ知らない。

 

 自分が見に行くものが、どれほど彼を壊すのかを。

 

 ユイは、表では静かに座っている。

 

 内心では、甘く甘く囁いた。

 

 さあ、スバルくん。

 

 走ろう。

 

 今度こそ、間に合わない場所へ。

 

 あなたがどれだけ必死でも、世界が優しくないことを見せてあげる。

 

 そして私は、隣で手を伸ばしてあげる。

 

 頼れるお姉さんの顔で。

 

 あなたが絶望に落ちる瞬間を、一番近くで見るために。

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