竜車が王都の灯りを背後に置き去りにしていく。
車輪の音が、夜の街道に沈んでいった。
スバルは窓の外を見ていた。
闇しかない。
けれど、その闇の向こうにロズワール邸がある。
エミリアがいる。
ラムがいる。
ベアトリスがいる。
アーラム村がある。
そして、レムが言葉にしない何かがある。
スバルはそれを考えるたびに、胸の奥がざわついた。
隣に座るレムは、静かだった。
いつものように姿勢よく座っている。
だが、指先が時折、胸元に触れる。
何かを確かめるように。
何かが失われていないか、確かめるように。
「レム」
「はい」
「……大丈夫か?」
「はい」
返事は早かった。
早すぎた。
「本当に?」
「はい。スバル君こそ、痛みませんか」
「痛いけど、まあ、動ける」
「動けることと、無理をしていいことは違います」
「それ、今日だけで何回目だろうな」
「必要なだけ言います」
いつも通りのやり取り。
けれど、レムの声はどこか遠い。
スバルはそれ以上聞けなかった。
向かいに座るユイは、二人を静かに見ていた。
白い髪が、竜車の揺れに合わせてわずかに揺れる。
頼れるお姉さんの顔。
穏やかで、何も見逃さない顔。
スバルの焦りも。
レムの不安も。
この先にある絶望も。
ユイだけは、全部知っている。
止めることもできる。
今ここで、引き返させることも。
魔女教徒の襲撃を事前に潰すことも。
不可能ではない。
けれど、しない。
スバルくんには、まだ足りない。
守りたいものに届かない絶望。
間に合わなかった痛み。
自分の知らないところで、大切なものが壊れている光景。
それを見て、ぐちゃぐちゃに曇って、それでも立ち上がるところが見たい。
ユイは、そんな内心を一切見せずに言った。
「スバルくん、少し眠った方がいいわ」
「眠れると思うか?」
「思わないわ」
「じゃあなんで言うんだよ」
「目を閉じるだけでも違うもの」
「それ、最近ずっと言われてる」
「それだけ、あなたが休んでいないということよ」
スバルは言い返せなかった。
やがて、竜車は街道沿いの宿場に入った。
地竜が限界だった。
御者も、これ以上夜道を進むのは危険だと言った。
スバルは食い下がりたかった。
だが、レムが静かに首を横に振った。
「スバル君。ここで休みましょう」
「でも」
「ここで地竜を潰したら、明日進めません」
「……」
「急ぐなら、今は休むべきです」
正しい。
正しいからこそ、苦しい。
スバルは奥歯を噛みしめ、それでも頷いた。
「……わかった」
宿は小さかった。
王都の宿とは違う。
旅人と商人が一夜を越すためだけの、簡素な宿。
木の床。
古い壁。
薄い布団。
窓の外には、闇に沈む街道。
広間には、何人かの客がいた。
荷をまとめる旅商人。
酒を飲んでいる男。
椅子に寄りかかって眠りかけている御者。
その中に、ひとりの若い商人がいた。
茶色の髪。
気弱そうな顔。
荷物を大事そうに抱え、宿の主人と料金の話をしている。
「明日の朝、ロズワール領の方角へ行く者はいるか?」
レムが宿の主人に尋ねた。
主人は顎で若い商人を示した。
「あの若いのが近くまでは行くはずだ。オットー・スーウェンって商人だよ。ただ、最近あっちの道は地竜が嫌がる。無理に頼んでも断られるかもしれん」
「オットー……」
スバルは、その名前を頭の片隅に置いた。
今は、深く考える余裕がない。
若い商人――オットーは、こちらの視線に気づいて、ぎこちなく会釈した。
スバルも曖昧に返す。
それだけだった。
まだ、彼と深く話す余裕はなかった。
部屋に入ると、レムはすぐにスバルの包帯を確認した。
肩。
脇腹。
腕。
打撲と裂傷。
ユリウスに打たれた痛みはまだ残っている。
「熱があります」
「少しだろ」
「少しでも熱です」
「言い返せない」
「今夜は眠ってください」
「眠れたらな」
「眠ってください」
レムの声が、少しだけ強くなった。
スバルは驚いて彼女を見る。
レムはすぐに目を伏せた。
「……すみません」
「いや。俺が悪い」
「悪いというより、心配です」
「……そっか」
スバルは寝台に横になった。
眠れないと思っていた。
だが、体は限界だった。
痛み止め。
疲労。
王都から続く焦燥。
すべてが重くのしかかる。
瞼が落ちる。
最後に見えたのは、椅子に座るレムと、その少し後ろに立つユイだった。
「おやすみなさい、スバル君」
「おやすみ、スバルくん」
二つの声が重なる。
スバルは何か返そうとして、言葉になる前に眠りへ落ちた。
深夜。
レムは立ち上がった。
最初から、眠るつもりなどなかった。
スバルの寝息を確認する。
苦しそうだが、眠っている。
今なら、起こさずに出られる。
荷物はすでにまとめていた。
鉄球。
薬。
最低限の道具。
スバルのために残すもの。
持っていくもの。
すべて分けてある。
扉へ向かおうとした時、ユイの声がした。
「行くのね」
レムは足を止める。
ユイは窓辺に立っていた。
眠っていない。
最初から、見ていたのだ。
「ユイ様」
「スバルくんを置いて」
「はい」
レムは嘘をつかなかった。
「スバル君は、まだ連れていけません。けれど、レムは屋敷へ戻らなければなりません」
「何かあるの?」
「……わかりません」
それだけだった。
異変があるとは言わない。
ラムが危ないとも言わない。
不確かな不安を言葉にして、スバルを余計に乱すことをレムはしない。
ただ、自分だけで抱える。
「けれど、戻らなければいけない気がします」
「そう」
ユイは短く答えた。
そして、外套を手に取る。
「私も行くわ」
レムが目を見開く。
「ユイ様も?」
「ええ」
「でも、スバル君が目覚めた時に」
「怒るでしょうね」
「きっと、とても」
「そうね」
「それでも?」
「ええ」
ユイは眠るスバルを見た。
「あなたを一人で行かせるわけにはいかないもの」
「危険かもしれません」
「知っているわ」
「戻れないかもしれません」
「そうね」
「それでも、来てくださるのですか」
「ええ。頼れるお姉さんだから」
レムは、少しだけ泣きそうな顔をした。
けれど、泣かなかった。
深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
ユイは微笑む。
その内側で、甘く囁く。
ごめんね、スバルくん。
今度は、私もあなたを置いていく。
目を覚ました時、レムさんだけじゃなく、私までいない。
それだけで、あなたはきっと傷つく。
そして追いついた時、もっと傷つく。
ユイは、スバルの寝顔を見つめた。
苦しそうな顔。
守りたいものに置いていかれることを、まだ知らない顔。
朝になれば、この顔はもっと曇る。
ユイは、その瞬間を想像して、胸の奥が甘く疼いた。
レムはスバルのそばへ歩み寄った。
寝顔を見下ろす。
指先が伸びる。
触れようとして、止まる。
起こしてしまうかもしれない。
だから触れない。
「ごめんなさい、スバル君」
声は、眠るスバルには届かない。
「レムは、先に行きます」
ユイも、スバルの寝顔を覗き込んだ。
「おやすみ、スバルくん」
二人は部屋を出た。
扉は、音もなく閉まった。
宿場の厩で、地竜が低く鳴いた。
ロズワール領へ続く道を向いた瞬間、明らかに嫌がっている。
だが、レムは手綱を握り、息を整えた。
「……行きます」
「ええ」
ユイが隣に座る。
竜車は、夜の街道へ滑り出した。
街道は静かだった。
不自然なほどに。
風の音が薄い。
虫の声も聞こえない。
夜そのものが、徐々に息を止めていくようだった。
やがて、遠くにロズワール邸の影が見えた。
黒い森の奥。
丘の向こう。
夜闇の中に沈む屋敷。
いつもなら、そこには灯りがある。
窓から漏れる暖かな光。
庭を照らす小さな明かり。
だが、今は暗い。
異様なほど暗い。
レムの表情が硬くなる。
地竜がさらに怯え、足を止めた。
「ここからは、歩きます」
レムは竜車を降りた。
鉄球を手に取る。
ユイも降りる。
屋敷へ続く道には、荒れた跡があった。
草が踏み潰されている。
木の枝が折れている。
地面には、黒ずんだ染みが点々と続いている。
血だった。
レムは何も言わなかった。
ただ、駆け出した。
庭へ。
屋敷へ。
姉のいる場所へ。
ユイも続く。
庭に入った瞬間、黒い影が動いた。
人影。
黒い外套。
顔を隠した集団。
魔女教徒。
レムの鉄球が唸った。
鎖が空気を裂き、最初の一人を吹き飛ばす。
骨の砕ける音。
黒い外套が地面を転がる。
レムは止まらない。
鉄球を引き戻し、次の影へ叩きつける。
二人目。
三人目。
庭に黒い影が倒れていく。
レムは強かった。
青い髪を振り乱し、瞳に怒りを灯し、屋敷へ向かう道を切り開く。
ユイはその後ろで、別の影を受け止めた。
踏み込み。
半歩ずらす。
相手の刃が空を切る。
ユイの指先が、相手の喉元へ触れる。
虚飾が、相手の認識を歪める。
敵は、自分がどこへ踏み込んだのかを見失った。
次の瞬間、ユイの膝が腹へ入り、男は呻いて崩れた。
さらに二人。
左から迫る刃。
背後から伸びる手。
ユイは笑わない。
ただ、静かに体を捌く。
距離を一歩ずらし、視線を半拍遅らせ、踏み込みの方向を誤認させる。
戦場で、それだけで十分だった。
一人の手首を折る。
もう一人の膝を砕く。
黒い外套が庭石に叩きつけられる。
ユイは強い。
少なくとも、この場の雑兵に遅れを取るほど弱くはない。
だが、数が多い。
それに、全員がただの人間ではない。
黒い影の奥から、明らかに違う気配が近づいてくる。
空気が歪む。
見えない圧が、庭全体を押し潰す。
レムが一瞬、息を呑む。
それでも彼女は退かなかった。
「ユイ様、屋敷へ!」
「レムさんは?」
「レムは、ここを押さえます!」
「一人で?」
「はい!」
その声は、迷いがなかった。
ユイはレムを見る。
血を浴び、傷を負いながらも、鉄球を構える少女。
スバルを守るため。
姉を守るため。
屋敷へ向かう道を開くため。
それは、とても綺麗だった。
ユイは頷いた。
「わかったわ」
そして、屋敷へ走る。
背後で、レムの鉄球が唸る。
黒い影の叫びが上がる。
庭での戦いが、さらに激しくなる。
ユイは屋敷の玄関を抜けた。
中はすでに荒れていた。
家具は倒れ、壁には刃の痕があり、床には血が飛び散っている。
廊下の奥から、呻き声が聞こえた。
ユイは走る。
黒い外套の一人が横から飛び出した。
ユイはそれを受け流し、壁に叩きつける。
もう一人。
刃が頬を掠める。
薄く血が滲む。
ユイは目を細めた。
虚飾。
敵の目に映るユイの位置が、ほんの少しズレる。
刃が外れる。
ユイの手刀が相手の喉を打つ。
倒れる。
また一人。
また一人。
廊下を進むたびに、黒い外套が床へ沈む。
だが、屋敷の中には、すでに取り返しのつかないものが広がっていた。
使用人たち。
村から逃げ込んだ者たち。
子どもたち。
誰かを守ろうとして倒れた者。
逃げようとして廊下で力尽きた者。
悲鳴の形を残したまま、動かない者。
ユイは、それらを見た。
表情は変えない。
変えないまま、奥へ進む。
そして、階段近くでラムを見つけた。
まだ、息があった。
ほんのわずかに。
桃色の髪が血に濡れ、片腕は力なく垂れている。
それでも、ラムは壁にもたれ、こちらを見た。
「……ユイ」
「ラムさん」
「レムは」
「庭で戦っているわ」
「そう」
ラムは目を閉じかける。
それでも、唇だけが動く。
「バルスは」
「宿で眠っている」
「……なら、いいわ」
その言葉に、ユイは少しだけ目を細めた。
「よくないわ」
「いいのよ。あの子は……余計なところで、無茶をするから」
ラムはかすかに笑おうとした。
笑えていなかった。
「レムにも、困ったものね」
「助けるわ」
ユイが言う。
ラムは首を横に振ろうとして、できなかった。
「奥へ……行きなさい」
「ラムさん」
「エミリア様を……」
そこで、ラムの言葉が途切れた。
まだ完全に死んではいない。
だが、命はもうほどけかけていた。
ユイはほんの一瞬だけ、ラムを見た。
ここで助けることもできるかもしれない。
虚飾で傷を誤魔化し、時間を稼ぐことくらいはできるかもしれない。
けれど。
ここで救えば、流れが変わる。
スバルくんが見るはずの絶望が、一つ減る。
ユイは、そっとラムの目を閉じさせた。
完全に閉じたわけではない。
ただ、後でスバルが見た時、死んでいるように見える姿になるように。
そして奥へ進む。
広間へ出たところで、また黒い影が現れた。
数が多い。
だが、ユイは止まらない。
虚飾で敵同士の距離感を狂わせる。
同士討ち。
踏み外し。
刃の空振り。
わずかなズレを重ね、戦場を壊す。
ユイはその中をすり抜ける。
ひとりの顎を砕き、ひとりの腕を外し、ひとりの首元へ短く打ち込む。
戦える。
十分に。
けれど、あえて決定的な救済には踏み込まない。
最後の黒い影が倒れた時、ユイは自分の腹に手を当てた。
血が流れている。
実際の傷は深くない。
けれど、見せ方はいくらでも変えられる。
ユイは、虚飾をさらに深く展開した。
裂けたように。
抉れたように。
血が流れすぎたように。
息が止まったように。
鼓動が消えたように。
体温が抜け落ちたように。
完全に死んだものとして見えるように。
広間の中央で、ユイは倒れた。
白い髪が血に濡れる。
服が裂け、肌が赤く染まる。
首元にも傷があるように見せる。
胸は動かさない。
唇から力を抜く。
指先を血の中へ沈める。
死体。
それ以外の何にも見えない姿で、ユイは横たわった。
痛みはある。
意識もある。
けれど、動かない。
耳だけで世界を聞く。
庭からの音は、もうほとんど聞こえない。
レムの鉄球の音も、遠くなった。
やがて、完全に消えた。
ユイは内心で、甘く息を吐いた。
スバルくん。
準備はできたよ。
朝になったら、あなたはここへ来る。
どんな顔をするのかな。
きっと、とても綺麗に壊れてくれる。
朝。
スバルは目を覚ました。
部屋が静かだった。
静かすぎた。
「……レム?」
返事はない。
「ユイさん?」
返事はない。
嫌な予感が、胸を裂いた。
寝台から起き上がろうとして、体に痛みが走る。
それでも立つ。
部屋の中を見回す。
二人の荷物がない。
机の上に、レムの字で書かれた紙が置かれている。
先に戻ります。
ユイ様が同行してくださいます。
スバル君は、どうか傷を治してください。
必ず戻ります。
「……ふざけんな」
紙を握る手が震えた。
「ふざけんなよ……!」
壁に手をつき、部屋を飛び出す。
宿の主人に問い詰めると、主人は渋い顔で言った。
夜中に二人が出た。
青い髪のメイドと、白い髪の少女。
ロズワール領へ向かった。
それを聞いた瞬間、スバルの中で何かが切れた。
「竜車を出してくれ!」
「無茶だ。地竜が嫌がる」
「行くんだよ!」
「金の問題じゃない。地竜が嫌がっている道は、人間も行かない方がいい」
「危ないなら、なおさらだろ!」
声が荒れる。
宿の広間にいた若い商人が、驚いたようにこちらを見た。
昨夜、宿の主人が名前を出していた男。
オットー・スーウェン。
「ええと……何かお困りで?」
「オットー!」
「はい!? え、僕、あなたに名乗りましたっけ!?」
「竜車を出してくれ! ロズワール領まで、今すぐ!」
「今すぐ!? 無茶言わないでくださいよ! あっち方面は地竜が嫌がってるんですよ!? それに僕にも荷の都合が――」
「払う!」
「金額次第で話は聞きます!」
「聞くのかよ!」
「商人ですから!」
いつものスバルなら、そこに突っ込む余裕があったかもしれない。
だが、今は違った。
スバルは、オットーの前で頭を下げた。
「頼む」
「……」
「大事な人たちが、先に行った。追いかけたい。お願いだ。連れて行ってくれ」
オットーは言葉に詰まった。
困ったように頭を掻く。
「そういう頼み方、ずるいんですよ」
「頼む」
「……近くまでです。危ないと判断したら引き返します。あと、料金はきっちりいただきますからね」
「それでいい」
「よくないですけどね、普通は!」
オットーは文句を言いながらも動いた。
地竜が繋がれ、竜車が用意される。
地竜は出発前から落ち着かない。
ロズワール領の方角を見て、低く唸っている。
オットーは手綱を握りながら顔をしかめた。
「本当に行くんですか? 今ならまだやめられますよ」
「行く」
「ですよね。そんな顔してますもんね」
竜車が走り出した。
宿場が遠ざかる。
スバルは窓枠を掴んでいた。
指先が白くなるほど強く。
「大丈夫ですか?」
オットーの声が御者台から飛ぶ。
「大丈夫じゃない」
「正直ですね!」
「でも行く」
「でしょうね!」
道は荒れていた。
進むほど、地竜の足取りが重くなる。
そして、本来なら屋敷より先に見えるはずの村の手前で、地竜は完全に足を止めた。
オットーが手綱を引く。
「フルフー、頼む、進んでくれ……!」
地竜は低く鳴くだけで、前へ出ようとしない。
オットーの顔色が悪くなる。
「ここまでです。これ以上は無理です。地竜がこうなったら、もう動きません」
「……わかった」
「引き返しましょう」
「俺は行く」
「はあ!?」
スバルは竜車から降りた。
足元がふらつく。
傷が痛む。
それでも、歩き出す。
「待ってください! 歩きで行くつもりですか!? 死にますよ!」
「死なねえよ」
「説得力がないんですけど!」
オットーが叫ぶ。
スバルは振り返らなかった。
まず見えたのは、アーラム村だった。
いつもなら、朝の支度の音が聞こえるはずだった。
人の声。
子どもたちの足音。
畑へ向かう大人たちの気配。
煙突から上がる煙。
そういうものが、何もなかった。
静かだった。
あまりにも静かだった。
スバルは足を止めた。
「……なんだよ」
村の入口に、倒れている人影があった。
最初は、誰かが転んでいるだけだと思いたかった。
けれど違った。
動かない。
血がある。
近づくほど、鉄の匂いが濃くなる。
「おい……」
スバルは震える足で村へ入った。
道端に一人。
家の前に二人。
井戸のそばに、折り重なるように何人も。
逃げようとしたまま倒れた者。
誰かを庇うように覆いかぶさっている者。
扉に手を伸ばしたまま、動かなくなっている者。
村は、死体で満ちていた。
「嘘だろ」
声が震えた。
「嘘だろ、なあ」
返事はない。
どこからも。
スバルは、ふらふらと歩いた。
見覚えのある顔があった。
魔獣の森で助けた子ども。
笑っていた子。
手を振ってくれた子。
屋敷へ遊びに来ると嬉しそうにしていた子。
その小さな体が、家の壁にもたれて動かなくなっていた。
「……」
声が出なかった。
吐き気がこみ上げる。
喉が焼ける。
膝が崩れそうになる。
それでも、目が逸らせない。
逸らしたら、その子が本当に死んでいることを認めるようで。
見ていても、何も変わらないのに。
村の奥へ進むと、さらにひどかった。
逃げ込んだはずの納屋の中。
そこには、小さな体がいくつも横たわっていた。
子どもたちだった。
守られるはずだった子どもたち。
森で一度、助けたはずの子どもたち。
スバルは入口で立ち尽くした。
息ができない。
目の前が白くなる。
助けたはずだった。
一度は助けた。
笑っていた。
生きていた。
それなのに。
「俺……」
声が漏れた。
「俺、何のために……」
何のために死んで。
何のために戻って。
何のために走って。
何のために守ったつもりになっていたのか。
守ったものが、また死んでいる。
全部、台無しになっている。
自分がいない間に。
何もできないところで。
「ぁ……」
喉から壊れた音が出た。
スバルは後ずさり、外へ出た。
村の空気が重い。
死の匂いが肺に入る。
自分の体の中まで腐っていくようだった。
その時、遠くに屋敷が見えた。
ロズワール邸。
エミリアがいるはずの場所。
レムとユイが向かった場所。
スバルは、村の死体を見て初めて理解した。
これは、ただの不安ではない。
ただの嫌な予感ではない。
何かが起きた。
決定的に。
取り返しのつかない何かが。
「レム……ユイさん……!」
スバルは走り出した。
足がもつれる。
何度も転びそうになる。
それでも走る。
屋敷へ。
屋敷へ。
屋敷へ。
ロズワール邸の門が見えた。
庭は荒れていた。
門扉は片方が歪み、石畳は砕け、花壇は踏み潰されている。
倒れた黒い外套の死体がいくつもあった。
その中に、青い髪が見えた。
スバルの足が止まった。
レムがいた。
庭の中央近く。
倒れた魔女教徒たちの死体の間に。
青い髪が泥と血に濡れている。
メイド服は裂け、血で赤黒く染まっている。
鉄球の鎖は、彼女の手から離れて転がっていた。
レムは倒れていた。
もう動かなかった。
「……レム?」
声が出ない。
喉が潰れたようだった。
近づく。
膝をつく。
肩に触れる。
冷たい。
「レム」
揺さぶる。
反応はない。
「レム、起きろ」
反応はない。
「なあ、レム」
声が震える。
「嘘だろ」
レムは答えない。
昨夜、自分に眠れと言った声はもうない。
怒るでもなく、心配するでもなく、ただ冷たくなっている。
庭には、彼女が戦った痕跡があった。
倒れた黒い外套。
砕けた庭石。
抉れた地面。
何度も、何度も、鉄球を振るった跡。
レムは戦った。
最後まで。
自分を置いて。
自分を守るために。
「なんで……」
スバルの手が震えた。
「なんで一人で行ったんだよ……」
涙が落ちる。
レムの頬に落ちる。
それでも、彼女は目を開けない。
「俺が……俺が起きてれば……」
声が震える。
「俺が止めてれば……俺が一緒に行ってれば……」
何度も同じ言葉が出る。
意味のない仮定。
もう取り返せない後悔。
それでも、口からこぼれる。
「レム……」
最後にもう一度だけ呼び、スバルは立ち上がった。
まだだ。
ユイがいる。
ラムがいる。
エミリアがいる。
全部を確認しなければ。
そう思わなければ、そこで壊れてしまう。
スバルは屋敷へ向かった。
玄関は壊れていた。
扉は半ば開き、内側には血の跡が続いている。
廊下は荒れていた。
家具が倒れ、壁に傷が走り、床には黒ずんだ血がこびりついている。
「ラム……?」
呼ぶ。
返事はない。
「ユイさん……?」
返事はない。
「エミリア……?」
返事はない。
「ベアトリス……?」
返事はない。
屋敷は、死んだように静かだった。
スバルは奥へ進む。
そして、階段近くでラムを見つけた。
桃色の髪が、血に濡れていた。
体は壁にもたれたまま崩れ落ちるように横たわっている。
片腕が不自然な角度で投げ出され、指先は床を掻いたような形で止まっていた。
顔には苦痛の色が残っている。
いつもの皮肉げな表情はない。
冷たく、静かだった。
「ラム……?」
スバルの声は、もう自分のものではなかった。
村の死体を見て。
レムの死体を見て。
それでも、頭のどこかがまだ否定しようとしていた。
でも、そこにラムがいる。
死んでいる。
「おい、ラム」
返事はない。
「冗談だろ。なあ、いつもの感じで言えよ。バルスは本当に役立たずね、って……言えよ」
返事はない。
ラムは動かない。
スバルはその場に崩れ落ちた。
レムの姉。
屋敷のメイド。
自分をバルスと呼んで、淡々と毒を吐いて、けれどどこかでいつも見ていた少女。
その彼女が、死んでいる。
村は死んでいた。
レムは庭で死んでいた。
ラムは屋敷の中で死んでいる。
ここまで来ても、何も間に合っていない。
「なんだよ……」
声が震えた。
「なんなんだよ、これ……!」
叫びは、屋敷の中に虚しく響いた。
誰も答えない。
死体だけが、沈黙している。
スバルは立ち上がった。
足が震える。
目の前が暗い。
それでも、血の跡を辿った。
ユイ。
ユイがまだいる。
生きているかもしれない。
生きていてほしい。
いや、生きていなければならない。
その願いだけを抱えて、スバルは広間へ向かった。
広間の奥で、スバルは足を止めた。
ユイがいた。
最初、スバルはそれが人だと認識できなかった。
白い髪が、血で赤黒く汚れている。
床に広がった血溜まりの中に、彼女は倒れていた。
服は大きく裂け、腹部から胸元にかけて、ひどく抉れたように見えた。
片腕は力なく伸び、指先は血の中に沈んでいる。
首元には深い裂傷があるように見え、白い肌は蝋のように冷たく、血の気がなかった。
目は閉じられている。
唇はわずかに開いているが、呼吸はない。
胸は動かない。
体は、もう人形のように重く沈んでいた。
盗品蔵で見た死よりも。
屋敷で見た死よりも。
今まで見たどのユイの死よりも、ひどかった。
頼れるお姉さんだった少女が。
いつも柔らかく笑っていた少女が。
血と肉と破れた布の塊のように、そこに横たわっていた。
「……あ」
スバルの口から、声にならない音が漏れた。
膝が崩れる。
床に手をつく。
血が手に触れる。
生温かさはない。
冷たい。
冷たい血。
「ユイ……さん?」
返事はない。
「嘘だろ」
近づく。
手を伸ばす。
触れる。
冷たい。
脈がない。
呼吸がない。
少なくとも、スバルにはそう感じる。
虚飾がそう見せている。
虚飾がそう認識させている。
けれど、スバルは知らない。
「おい」
揺さぶろうとして、手が止まった。
どこに触れればいいかわからなかった。
触れたら壊れてしまいそうで。
もう壊れているように見えて。
スバルの指が震える。
「起きろよ」
返事はない。
「なあ、頼むから」
返事はない。
「レムが死んでた」
声が崩れる。
「村のみんなも、死んでた」
喉が詰まる。
「ラムも死んでた」
言葉にするたび、現実が重くなる。
「ユイさんまで、死んでたら……俺、どうすればいいんだよ」
返事はない。
ユイは動かない。
死体のふりを続けている。
虚飾の中で、鼓動を隠し、呼吸を隠し、体温を偽り、損壊を過剰に見せている。
実際の傷は、見た目ほどではない。
痛みはある。
体は重い。
だが、死んではいない。
ユイは音だけを聞いていた。
スバルの声。
崩れた息。
床に落ちる涙。
血を掻く指。
ぜんぶ、近い。
とても近い。
スバルくん。
見たね。
村を見た。
レムさんを見た。
ラムさんを見た。
そして、私を見た。
ユイは内心で甘く震えた。
表では、完全な死体として横たわる。
スバルは、ユイのそばに座り込んだ。
血で濡れた手を、自分の顔に押し当てる。
「なんでだよ……」
声が震える。
「なんで、俺はいつも……」
守れない。
間に合わない。
何もできない。
エミリアのために叫んでも、傷つけただけだった。
強くなろうとしても、自傷だと言われただけだった。
急いで戻っても、村は死んでいた。
レムは死んでいた。
ラムも死んでいた。
ユイも死んでいる。
全部、遅い。
全部、間に合わない。
「俺が……」
胸の奥に、冷たい手の気配が生まれる。
死に戻りのことを言おうとしたわけではない。
ただ、何かを吐き出したかった。
それでも、心臓が震える。
言えない。
何も言えない。
言えば死ぬ。
言わなくても、みんな死んでいる。
「ぁ……ああ……」
スバルの喉から、壊れた声が漏れた。
涙が落ちる。
ユイの血に混ざる。
白い髪に落ちる。
彼女は動かない。
レムも動かなかった。
ラムも動かなかった。
村のみんなも動かなかった。
誰も答えない。
屋敷は静かだった。
死体だけがある。
死だけがある。
その時、空気が変わった。
肌に刺さるような冷気が、廊下の奥から流れてくる。
スバルは顔を上げた。
「……エミリア?」
返事はない。
冷気だけがある。
息が白くなる。
指先がかじかむ。
屋敷の奥へ続く廊下が、薄く凍りついていた。
壁に霜が走り、床に氷が広がっている。
スバルは立ち上がろうとした。
足が震える。
それでも、歩く。
ユイを置いて。
置きたくないのに、置いて。
確認しなければならないものがある。
エミリア。
まだ、彼女を見ていない。
スバルは廊下を進んだ。
一歩ごとに、冷気が強くなる。
呼吸が苦しい。
肺が凍るようだった。
「エミリア……」
声が白く砕ける。
「どこだよ……」
奥の部屋。
扉が半ば開いている。
そこから、白い冷気が溢れている。
スバルは扉に手をかけた。
指先の感覚がない。
扉を押す。
部屋の中は、氷に閉ざされていた。
壁も。
床も。
家具も。
すべてが凍っている。
中央に、白い世界が広がっている。
スバルは踏み込んだ。
足音が氷の上で硬く響く。
寒い。
寒すぎる。
体の痛みすら遠くなる。
「エミリア……?」
返事はない。
どこにも声はない。
ただ、冷たい。
圧倒的に冷たい。
まるで、世界そのものが悲しみに凍りついたようだった。
スバルの足が止まる。
体が震える。
震えが、次第に小さくなる。
寒すぎると、震えることすらできなくなる。
「なんだよ……これ」
声が掠れる。
「なんなんだよ……」
エミリアはどこにいる。
パックはどこにいる。
誰がこんなことをした。
何が起きた。
何もわからない。
何もわからないまま、スバルの体だけが冷えていく。
指先の感覚が消える。
足の感覚が消える。
頬が痛い。
呼吸が浅い。
瞼が重い。
これは、死ぬ。
そう理解した。
凍って死ぬ。
この部屋で。
誰にも届かず。
誰も救えず。
村の死体を見て。
レムの死体を見て。
ラムの死体を見て。
ユイの死体を見て。
最後に、何もわからない氷の部屋で。
自分も死ぬ。
「……ふざけんな」
唇がうまく動かない。
「ふざけんなよ……」
足が崩れる。
膝が氷にぶつかる。
痛みはほとんど感じなかった。
スバルは倒れた。
頬が氷に触れる。
冷たい。
冷たい。
冷たい。
視界が白く霞む。
その中で、エミリアの顔が浮かんだ。
泣きそうな顔。
顔を見るのがつらい、と言った声。
それでも、会いたかった。
謝りたかった。
ちゃんと話したかった。
何を言えばいいか、まだわからなかったけれど。
それでも。
「エミリア……」
声にならない声。
「レム……」
冷気が喉を刺す。
「ラム……」
目が閉じかける。
「ユイ、さん……」
広間に置いてきた、血まみれの白い少女。
死んでいるように見えた彼女。
頼れるお姉さんだった彼女。
また守れなかった。
また何もできなかった。
スバルの意識が、ゆっくり白く塗りつぶされていく。
寒さが痛みを奪う。
痛みが消える。
恐怖も、涙も、声も、全部遠くなる。
最後に残ったのは、後悔だった。
自分が間違えた。
自分が遅かった。
自分が弱かった。
自分が、何もできなかった。
そして、ナツキ・スバルは凍死した。
屋敷の奥。
氷に閉ざされた部屋で。
誰も救えないまま。
誰にも届かないまま。
その死を合図にするように、世界が崩れた。
そして次の瞬間。
果物の匂いがした。
人混みのざわめきが聞こえた。
王都の喧騒。
リンガの赤。
カドモンの屋台。
スバルは、立っていた。
手は空だった。
体に氷はない。
血もない。
ユイの冷たさも、レムの冷たさも、ラムの冷たさも、村に満ちた死の匂いも、残っていない。
けれど、記憶だけがあった。
全部、あった。
「……あ」
喉から、壊れた音が漏れた。
世界が明るい。
うるさい。
人が歩いている。
商人が声を張っている。
リンガが赤い。
空が青い。
全部が間違っている。
だって、村は死んでいた。
レムは冷たかった。
ラムは動かなかった。
ユイは血の中に沈んでいた。
それなのに、ここでは何も起きていない。
何も壊れていない。
何も死んでいない。
「……ぁ」
スバルの口が開いた。
声にならない。
息だけが漏れる。
視界の端に、青い髪が見えた。
レムがいる。
生きている。
何も知らない顔で、こちらを見ている。
その少し離れた場所には、ユイもいた。
白い髪は綺麗なまま。
血もない。
傷もない。
いつもの頼れるお姉さんの顔で、スバルを見ている。
「スバル君?」
レムが呼んだ。
「どうしたのですか?」
その声を聞いた瞬間、スバルの中の何かが切れた。
喜びではなかった。
安堵でもなかった。
叫びですらなかった。
頭の中に、村の死体が一気に戻ってきた。
小さな体。
井戸のそば。
納屋の中。
レムの冷たい頬。
ラムの閉じた目。
ユイの裂けた服。
血。
氷。
死。
死。
死。
ぜんぶが同時に押し寄せた。
「あ、あ……」
スバルは一歩下がった。
足がもつれる。
そのまま膝から崩れ落ちる。
「スバル君!」
レムが駆け寄る。
ユイも近づく。
スバルは二人を見た。
生きている。
生きているはずなのに。
目の前のレムの顔と、庭で冷たくなっていたレムの顔が重なる。
目の前のユイの白い髪と、血に濡れて赤黒くなっていた白い髪が重なる。
重なって、剥がれない。
「あ……ああ……」
「スバル君、しっかりしてください。スバル君!」
レムが肩を支える。
スバルはびくりと震えた。
触れられた手が温かい。
温かい。
温かいことが、怖い。
冷たかったはずなのに。
死んでいたはずなのに。
「レ、ム……」
「はい。レムです。ここにいます」
「ユ……イ、さん……」
「ええ。私もいるわ」
ユイが穏やかに言った。
スバルは、二人の顔を交互に見た。
口が震える。
謝らなければ。
助けなければ。
逃げなければ。
伝えなければ。
けれど、何を。
何から。
どこへ。
何もまとまらない。
「む、ら……」
声が漏れた。
「むら、が……こ、こども……レム、ラム、ユイさん、血が……氷、エミリア、俺、俺が……」
「スバル君?」
レムの顔が青ざめる。
スバルの言葉は、文章にならなかった。
壊れた音が、ばらばらにこぼれるだけだった。
「俺が、俺が、俺が……違う、ちが、言えない、言ったら、でも、死んで、みんな、また、また、また……!」
胸の奥に、冷たい手が伸びる。
死に戻りに触れそうな言葉。
心臓が掴まれる気配。
スバルの目が見開かれた。
言えない。
言えない。
言えない。
でも、言えないなら、どうすればいい。
伝えなければ、また死ぬ。
でも、伝えようとすると、死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
「ああああああああああああああああああああああッ!」
叫びが王都の空気を裂いた。
通行人が振り返る。
リンガ屋の主人が目を丸くする。
レムが必死にスバルを抱きとめる。
「スバル君! 大丈夫です、レムはここにいます! スバル君!」
大丈夫。
その言葉が、届かない。
ここにいます。
その言葉も、届かない。
スバルはレムの腕の中で暴れた。
逃げようとするのか、縋ろうとするのか、自分でもわからない。
ただ、目の前の現実と記憶の地獄が混ざり合って、体が勝手に震えていた。
「死んでた……死んでた……死んでた……!」
誰が。
それを言えない。
言えないから、言葉は壊れる。
「冷たくて、血が、子ども、レム、ラム、ユイさん、俺、氷で、俺、また、また……!」
「スバル君!」
レムの声が震える。
ユイはスバルの前に膝をついた。
「スバルくん。私を見て」
優しい声だった。
頼れるお姉さんの声だった。
だが、スバルはその顔を見て、さらに壊れた。
血まみれの死体が見えた。
広間の血溜まり。
裂けた服。
動かない胸。
冷たい肌。
「いやだ……」
スバルは小さく呟いた。
「いやだ、いやだ、いやだ……」
「スバルくん」
「死ぬな……」
震える手が、ユイへ伸びる。
けれど触れた瞬間、また血の感触を思い出し、手を引っ込める。
「死ぬなよ……頼むから……レムも、ユイさんも、ラムも、村も、エミリアも……もう、やだ……」
言葉はぐちゃぐちゃだった。
意味のある文章にはならない。
ただ、恐怖だけがあった。
喪失だけがあった。
後悔だけがあった。
スバルは両手で自分の頭を抱えた。
爪が髪を掴む。
引き抜きそうなほど強く。
「俺が、俺が悪い……俺が寝たから……俺が弱いから……俺が、俺が、俺が……!」
「違います!」
レムが叫んだ。
「何があったのか、レムにはわかりません。でも、スバル君がそんなふうに自分を傷つける必要はありません!」
「あるんだよ!」
スバルは叫び返した。
だが次の瞬間、声が途切れた。
自分でも何を叫んだのかわからなくなる。
目が焦点を失う。
口が開く。
息が漏れる。
「あ……」
それきり、言葉が出なくなった。
レムが何かを言っている。
ユイが肩に触れている。
通行人が騒いでいる。
カドモンが誰かを呼んでいる。
全部、遠い。
スバルは膝をついたまま、目を見開いていた。
視界には、青い髪と白い髪がある。
生きている二人。
でも、頭の中では二人とも死んでいる。
同時に存在している。
生きている。
死んでいる。
温かい。
冷たい。
目の前。
血の中。
王都。
屋敷。
全部が重なって、区別がつかない。
「あ……あ……」
声だけが漏れる。
涙も止まらない。
だが、泣いているという自覚すら薄れていく。
スバルは壊れた。
一度、完全に。
言葉を組み立てる力が消えた。
立ち上がる力も。
考える力も。
次に何をするべきかを選ぶ力も。
ぜんぶ、死の記憶に押し潰された。
レムがスバルを抱きしめる。
「大丈夫です。大丈夫です、スバル君。レムはここにいます。ユイ様もいます。ここにいますから」
ユイもそっとスバルの背に手を添える。
「スバルくん。息をして。今は、何も話さなくていいわ」
スバルは答えない。
ただ、震える。
壊れた呼吸を繰り返す。
レムの腕の中で。
ユイの手の下で。
王都の喧騒の中で。
ナツキ・スバルは、戻ってきた。
けれど、その心はまだ、氷の部屋と血の広間と死体だらけの村に置き去りにされたままだった。
ユイは、優しく背を撫でながら、内心で静かに笑った。
おかえり、スバルくん。
ちゃんと死んだね。
ちゃんと戻ってきたね。
村も、レムさんも、ラムさんも、私の死体も見てくれたね。
そして、壊れてくれた。
すごくいいよ。
でも、ここからだよ。
あなたの絶望は、まだ始まったばかり。