スバルは、壊れていた。
カルステン公爵家の客室で、寝台に腰掛けたまま、ただ前を見ていた。
目は開いている。
息もしている。
体はそこにある。
けれど、心だけがまだ戻ってきていなかった。
アーラム村の死体。
納屋に並んだ小さな体。
屋敷の庭で冷たくなっていたレム。
屋敷の中で動かなくなっていたラム。
血溜まりの中で壊れた人形みたいに横たわっていたユイ。
氷に閉ざされた屋敷。
自分の体から熱が奪われていく感覚。
それらが、今もスバルの中にあった。
戻ってきたはずなのに。
ここは王都のはずなのに。
目の前には、生きているレムがいるのに。
ユイも、傷ひとつない姿でそばにいるのに。
スバルの手は震え続けていた。
「スバル君」
レムが呼んだ。
返事はない。
ただ、スバルの指が、レムの袖を探すように動いた。
レムはその手を握る。
「はい。レムはここにいます」
反対側で、ユイも手を差し出す。
スバルはそちらも掴んだ。
離さない。
離したら消える。
離したら、また血の中に沈む。
そんな怯えが、指先に宿っていた。
「ユイ……さん」
「ええ。私もいるわ」
「死ぬな……」
スバルの声は、紙のように薄かった。
「どこにも、行くな……」
「はい」
レムは即答した。
「レムは、どこにも行きません」
「私もよ」
ユイも、静かに答える。
スバルは少しだけ頷く。
けれど、目の奥の怯えは消えない。
フェリスは、そんなスバルを見て、唇を引き結んでいた。
いつもの軽さはなかった。
診察は済んでいる。
体の傷はひどいが、致命的ではない。
問題は、体ではなかった。
「……体はまだ保ってるにゃ」
フェリスは低く言った。
「でも、心がもう限界を越えてる。何を見たか知らないけど、普通じゃない」
「治せますか」
レムの声は震えていた。
フェリスは答えなかった。
答えないことが答えだった。
「魔法で体は治せる。でも、心はそうはいかない。今のスバルきゅんは、ここにいるようで、ここにいない。まだどこか別の場所に置いていかれてる」
「別の場所……」
レムがスバルを見る。
スバルは天井を見ていた。
だが、その目は天井を見ていない。
血の広間を見ている。
氷の部屋を見ている。
死体だらけの村を見ている。
「スバル君」
レムが呼ぶ。
反応は薄い。
だが、指先がわずかに動く。
レムの手を探す。
レムはすぐに握った。
「ここにいます」
「……ユイ、さん」
「ええ。私もいるわ」
ユイも反対側から答える。
スバルは、二人の手を握りしめたまま、唇を震わせた。
「エミリア……」
その名が、かろうじて形になった。
レムの目が揺れる。
ユイも、スバルを見下ろした。
「エミリアに……」
スバルの声は途切れ途切れだった。
「会わなきゃ……謝らなきゃ……戻らなきゃ……」
王選の場で傷つけた。
約束を破った。
顔を見るのがつらいと言わせた。
それでも、会わなければならない。
謝らなければならない。
助けなければならない。
そう思っているのか、それともただその名に縋っているだけなのか、スバル自身にもわかっていなかった。
「エミリア……の、ところ……」
その言葉を聞いて、レムは決めた。
今のスバルを動かすのは危険だ。
休ませるべきだ。
フェリスも、そう言うだろう。
けれど、このまま王都に置いても、スバルは壊れたまま沈むだけかもしれない。
エミリアのもとへ。
そこに戻れば、少しは。
そう信じたかった。
「フェリス様」
レムは顔を上げた。
「スバル君を、エミリア様のもとへ連れて帰ります」
「本気で言ってるの?」
フェリスの声は硬かった。
「今のスバルきゅんを動かすのは危険だにゃ。眠らせて、休ませて、それでもしばらくは目を離しちゃいけない」
「けれど、スバル君はエミリア様のもとへ戻りたがっています」
「それは、今のスバルきゅんの判断なの?」
レムは答えられなかった。
判断など、できていない。
今のスバルは、ただ壊れた心でエミリアの名に縋っているだけだ。
それはわかる。
わかっている。
けれど、レムにはその縋る先を取り上げられなかった。
「……それでも」
レムは言った。
「このままでは、スバル君はどこにも戻れません。エミリア様に会えば、何かが戻るかもしれません」
「保証はないにゃ」
「はい」
「道中で何かあったら?」
「レムが守ります」
即答だった。
フェリスは一瞬、言葉に詰まる。
「ユイ様も同行してくださるなら、スバル君を一人にはしません」
「私は行くわ」
ユイは迷わず答えた。
「スバルくんを放っておけないもの」
フェリスはユイを見た。
それから、スバルを見る。
スバルは二人の手を握ったまま、小さく震えている。
時折、唇だけが動く。
「エミリア……レム……ユイさん……死ぬな……」
言葉はばらばらだった。
それでも、彼が何かに縋ろうとしていることだけはわかった。
「……二人とも、頑固だにゃ」
フェリスは深く息を吐いた。
それでも薬を用意し、包帯を替え、最低限の注意を伝えた。
水を飲ませること。
熱が上がれば止まること。
言えないことを無理に聞かないこと。
錯乱しても、体を押さえつけすぎないこと。
「あと、絶対に一人にしないこと」
フェリスはそう言って、レムとユイを見た。
「今のスバルきゅんは、ほんの少し目を離しただけで、どこかへ行っちゃうかもしれない。体じゃなくて、心が」
「はい」
「ええ」
レムとユイは同時に答えた。
クルシュも、部屋の入口から様子を見ていた。
いつもの凛とした表情の奥に、わずかな痛みがある。
「止めても行くのだろう」
「はい」
レムは深く頭を下げた。
「身勝手を承知でお願いします。竜車と地竜をお借りできないでしょうか」
クルシュは目を閉じる。
短い沈黙。
「許可する」
「クルシュ様」
「ただし、これはカルステン家としての軍事行動ではない。移動手段の貸与に留める」
「ありがとうございます」
レムは頭を下げた。
スバルは、会話のほとんどを理解していなかった。
ただ、レムとユイの手だけを握っている。
離さない。
「行く……」
かすれた声。
「エミリアの……ところ……」
「はい」
レムが答える。
「戻りましょう。スバル君」
出発は、その日のうちに決まった。
スバルは自力で乗り込めなかった。
レムが支え、ユイが反対側から支える。
足が段差に引っかかる。
スバルはそのたびに小さく謝った。
「ごめん……」
「謝らないでください」
「ごめん……」
レムは胸を締め付けられる思いで、それでも優しく支えた。
ユイは反対側からスバルの腕を取っていた。
表情は穏やかだった。
けれど、その指先はスバルの震えを正確に感じ取っている。
壊れている。
壊れたまま、歩こうとしている。
竜車が進む。
王都の音が遠ざかる。
街道に出ると、風の音と地竜の足音だけが残った。
スバルは窓の外を見なかった。
ずっと下を向いている。
レムの膝のあたり。
ユイの手。
そこだけを見る。
見ていないと、消える気がするから。
「スバル君、少し横になりましょう」
「……死ぬな」
「死にません」
「ユイさんも……」
「死なないわ」
「どこにも、行くな」
「はい」
「ええ」
会話はそれだけだった。
意味のある計画も、対策も、交渉もない。
スバルは、ただエミリアのもとへ戻ろうとしていた。
死んだような心で。
壊れたまま。
夜が深くなっていく。
街道の空気が、少しずつ変わった。
風が止む。
虫の声が消える。
地竜が低く鳴いた。
レムの表情が変わる。
ユイも、窓の外へ視線を向けた。
黒い影が、道の先に立っていた。
一人ではない。
二人。
三人。
さらに奥にもいる。
黒い外套。
顔を隠した人影。
魔女教徒。
スバルの呼吸が止まった。
「いやだ……」
小さく漏れる。
「いやだ……来るな……」
「スバル君。大丈夫です」
レムが立ち上がる。
「レムが守ります」
竜車が止まった。
御者が悲鳴を上げるより早く、黒い外套の一人が動いた。
レムが飛び出す。
鉄球が唸り、最初の一人を吹き飛ばした。
骨の砕ける音。
黒い外套が地面を転がる。
ユイも竜車から降りた。
スバルの前に立つ。
白い髪が夜風に揺れる。
「レムさん、前はお願い」
「はい!」
レムは二人目へ鉄球を叩きつける。
ユイは側面へ回り込んできた影を受けた。
刃が迫る。
ユイは半歩だけずれた。
虚飾が、相手の認識を狂わせる。
魔女教徒は距離を見誤り、刃が空を切る。
ユイの掌底が胸を打つ。
男が息を詰まらせ、膝をつく。
さらに背後から伸びる手。
ユイは振り返らず、足を引く。
踏み込みの位置を誤った敵同士がぶつかる。
ユイはその隙に片方の腕を折り、もう片方の喉元を打った。
強い。
ユイは確かに強い。
レムもまた、圧倒的だった。
青い髪を揺らし、鉄球を振るい、黒い外套を薙ぎ払っていく。
だが、数が多すぎた。
そして、その奥にいる気配が違った。
空気そのものが歪む。
見えない何かが、そこにある。
ユイは目を細めた。
来る。
だが、この場ではまだ受けない。
ここで倒れれば、洞窟まで行けない。
スバルが連れ去られ、レムが追い、そこでペテルギウスと対峙する。
その場所でなければならない。
ユイは、見えない圧の手前で身を引いた。
虚飾で踏み込みをずらし、敵の認識を狂わせる。
見えざる手の一撃は、竜車の側面を砕いた。
木板が破裂し、破片が飛ぶ。
ユイには当たらない。
レムにも、致命的には届かない。
だが、竜車の内側でスバルの体が床へ投げ出された。
息が詰まる。
「スバル君!」
レムが叫ぶ。
ユイも振り返る。
スバルは動けない。
壊れた心では、手足に力を入れることすらできない。
黒い外套の一人が、竜車の残骸へ飛び込む。
レムの鉄球が唸る。
だが、別の影が間に入る。
ユイが駆けようとした瞬間、黒い外套がスバルを抱え上げた。
抵抗はない。
スバルは、ただ目だけを動かしていた。
レムが戦っている。
ユイが手を伸ばしている。
まただ。
また、誰かが自分のために戦っている。
また、自分だけが何もできない。
スバルの意識は、そこで途切れた。
次に目を開けた時、そこは暗い洞窟のような場所だった。
湿った土の匂い。
黒い外套の人影。
ゆらゆら揺れる灯り。
スバルは、鎖に繋がれていた。
手首。
足首。
体は動かない。
そして、目の前に男がいた。
痩せた体。
奇妙な動き。
病的な笑み。
緑がかった髪。
指が、気味が悪いほど忙しなく動いている。
男は、スバルを覗き込んだ。
首が、不自然な角度に傾く。
「ふむ」
指が、頬を掻いた。
「ふむ、ふむ、ふむ」
男は、まるで珍しい虫でも見つけたように、スバルの顔を覗き込む。
「これはこれは。実に、実に怠惰な瞳です」
スバルは答えない。
答えるだけの力がない。
ただ、目の奥で恐怖だけが震える。
男は笑った。
薄く、歪んだ笑みだった。
「おお、失礼。名乗りもせずに語り始めるなど、愛を説く者として怠惰でした」
男は両腕を広げる。
黒い外套たちが、一斉に身を低くした。
洞窟の空気が、奇妙な熱を帯びる。
「私は、魔女教大罪司教」
男の声が、湿った岩壁に反響した。
「怠惰担当――ペテルギウス・ロマネコンティ」
指が、髪を掻きむしる。
爪が皮膚を裂き、赤い筋が頬に走る。
それすら、男は気にしない。
「脳が震えるほどの愛に従い、福音の導きに従い、勤勉に、勤勉に、勤勉に務めを果たす者でございます」
ペテルギウスは、スバルの顔を見た。
目だけが異様に開かれている。
「さて。あなたは、何者ですか?」
スバルは何も言わない。
喉が動かない。
「答えませんか。答えない。沈黙。拒絶。停滞。ああ、怠惰ですね」
ペテルギウスは嬉しそうに笑った。
「壊れている。壊れているように見える。ですが、それは本当に壊れているのですか? それとも、壊れたふりをして、己の怠惰を正当化しているのですか?」
スバルの喉が震える。
壊れたふり。
違う。
違うはずだ。
自分は壊れた。
あの村を見て。
レムを見て。
ラムを見て。
ユイを見て。
氷の中で終わって。
壊れた。
けれど、ペテルギウスの声は、スバルの奥へ入り込んでくる。
「沈黙は怠惰。無力は怠惰。恐怖に伏すこともまた怠惰。あなたは実に怠惰です」
ペテルギウスの指が、自分の頬を掻いた。
皮膚が赤くなる。
「しかし、あなたには香りがある。愛されし香り。嫉妬の魔女の寵愛。ああ、不可解。不快。不可解で不快で、しかし、興味深い!」
スバルは唇を動かした。
「……レム」
かすれた声。
「ユイ……さん……」
ペテルギウスの目が見開かれる。
「愛ですね」
その言葉が、洞窟に落ちた。
「愛、愛、愛! あなたは愛に縋っている。愛されたい。救われたい。許されたい。ああ、なんと怠惰な依存でしょう」
スバルの目から涙が落ちた。
悔しいのか、怖いのか、悲しいのか、もうわからない。
その時、洞窟の入口側で爆音が響いた。
悲鳴。
砕ける岩。
黒い外套が吹き飛ぶ。
青い影が飛び込んできた。
レムだった。
髪は乱れ、体には傷がある。
それでも瞳は燃えている。
鉄球が唸り、魔女教徒をまとめて叩き潰す。
「スバル君!」
スバルの瞳に光が戻る。
レム。
来た。
来てしまった。
嬉しい。
だめだ。
助けて。
逃げろ。
来るな。
全部が混ざり、声にならない。
そして、レムの後ろから白い影も飛び込んだ。
ユイだった。
最初の接敵では無傷のまま切り抜けて、レムを追ってきた。
白い髪は乱れている。
頬に土埃はついている。
けれど、体はまだ壊れていない。
まだ、立っている。
スバルの目が大きく見開かれた。
「ユイ……さん……?」
ユイはスバルを見る。
ほんの一瞬だけ、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「迎えに来たわ、スバルくん」
その声が、スバルの胸を刺した。
嬉しい。
でも。
この場所に来たら、壊される。
レムも。
ユイも。
「来るな……」
スバルは声を絞り出す。
「来るな、逃げろ……!」
レムは止まらない。
ユイも止まらない。
レムの鉄球が正面を開く。
ユイが側面の敵を崩す。
虚飾で敵同士の距離を狂わせ、刃を空振りさせ、踏み込みを誤らせる。
その連携は、一瞬だけ魔女教徒たちを押し込んだ。
ペテルギウスは、首を大きく傾けた。
「勤勉ですねぇ」
笑っている。
不快なほど楽しそうに。
「その献身。その執着。その愛。ああ、実に勤勉。ですが」
空気が歪んだ。
ユイの背筋が冷える。
来る。
見えざる手。
ユイはスバルを見る。
レムを見る。
そして、一歩だけ前に出た。
レムへ伸びるはずの見えない腕の軌道に、あえて自分の体を差し込む。
「ユイ様!」
レムの叫び。
次の瞬間、ユイの体が弾け飛ぶように跳ねた。
見えない何かに掴まれ、壁へ叩きつけられる。
岩が砕ける。
ユイの体が床へ落ちる。
すぐに、もう一本。
見えざる手が、ユイの四肢を掴んだ。
実際には、ユイは虚飾で肉体への致命的な破壊を避けている。
だが、外からはそう見えない。
腕が潰れたように。
肩が砕けたように。
肋骨が折れ、腹が潰れ、血が噴き出したように。
次の瞬間、ユイの四肢が、あり得ない方向へ曲がった。
右腕は背中側へ捻じれ、左腕は肘から逆向きに折れたように垂れた。
脚も、膝の向きが狂い、立ち上がるどころか人の形を保っているのが不思議なほどだった。
首は力なく傾き、白い髪が顔を隠す。
血が床に広がる。
骨が砕け、肉が潰れたような音が、洞窟の中に響いた。
虚飾がそう聞かせている。
そう見せている。
そう認識させている。
スバルの声が消えた。
叫ぶことすらできなかった。
ただ、目だけが見開かれる。
ユイは床に落ちた。
四肢が変な方向へ曲がったまま、動かない。
血に濡れた白い髪。
動かない指先。
上下しない胸。
虚飾が死を被せる。
脈は感じられない。
呼吸は見えない。
体温は抜け落ちたように見える。
完全な死体。
そう認識させる。
ユイは、死体のふりをしたまま音を聞く。
スバルの呼吸が壊れている。
レムの怒りが膨れ上がっている。
ペテルギウスの笑い声が響いている。
甘い。
甘すぎる。
この絶望は、きっとスバルくんをもっと壊す。
レムは、ユイが潰された光景を見て、一瞬だけ表情を失った。
けれど、次の瞬間には鉄球を握りしめる。
「許しません」
低い声。
「スバル君も、ユイ様も、これ以上傷つけさせません」
レムが跳んだ。
怒りと魔力を込めた一撃。
鉄球がペテルギウスへ迫る。
だが、届かない。
見えざる手が、レムを掴む。
空気が軋む。
レムの体が不自然に止まった。
そのまま、壁へ叩きつけられる。
鈍い音。
「レム!」
ようやく、スバルの声が出た。
鎖を引く。
手首の皮が裂ける。
血が滲む。
鎖は切れない。
見えざる手が、レムを持ち上げる。
レムは抵抗する。
魔法を放とうとする。
鉄球を動かそうとする。
だが、見えない力がそのすべてを封じる。
ペテルギウスが笑う。
「愛です。これが愛です。ですが、愛のために散るとは、なんと勤勉で、なんと無力で、なんと――怠惰な結末!」
見えざる手が、レムの腕を捻る。
嫌な音がした。
レムの悲鳴が洞窟に響く。
スバルの喉が裂ける。
「やめろおおおおおおおッ!」
やめない。
ペテルギウスはやめない。
レムの脚が砕ける。
体が床へ叩きつけられる。
また持ち上げられる。
また叩きつけられる。
スバルは鎖を引き続けた。
手首から血が流れる。
肩が軋む。
それでも、鎖は切れない。
何もできない。
また。
また、何もできない。
「俺が……俺が悪い……俺が……!」
「そうです!」
ペテルギウスが嬉々として叫ぶ。
「あなたの怠惰が、この愛を踏みにじるのです!」
「黙れ!」
「怠惰、怠惰、怠惰!」
「黙れええええええッ!」
叫びは届かない。
レムの体が、最後に床へ落ちた。
もう、ほとんど動かない。
ペテルギウスは満足したように背を向ける。
黒い外套たちも、少しずつ洞窟を去っていく。
ユイは動かない。
四肢を不自然に曲げた死体のふりを続ける。
レムも、動かない。
洞窟に残されたのは、鎖に繋がれたスバルと、血の匂いだけだった。
「レム……」
スバルの声は、掠れていた。
「ユイさん……」
返事はない。
どちらからも。
その時、レムの指先がわずかに動いた。
スバルは息を呑む。
「レム……?」
レムは、這った。
折れた腕。
砕けた脚。
動くはずのない体。
それでも、這った。
スバルのもとへ。
血の跡を残しながら。
「やめろ……」
スバルは泣いた。
「もういい。もういいから、動くな……」
レムは止まらない。
ユイは、死体のふりをしたまま、その音を聞いていた。
血を擦る音。
レムの浅い呼吸。
スバルの壊れた声。
レムはスバルの前まで辿り着く。
もう、目を開けているのも難しそうだった。
それでも、彼女は魔法を使った。
冷気が、鎖に触れる。
ひびが入る。
スバルの手首を縛る鎖が凍り、砕けた。
「レム……」
スバルの手が自由になる。
だが、何もできない。
レムは、笑おうとした。
笑えていない。
でも、スバルにはわかった。
彼女は、自分を安心させようとしている。
こんな状態で。
こんな最期に。
「生きて……ください」
スバルの心が、音を立てて崩れた。
「いやだ……」
首を振る。
「いやだ、レム。置いてくな。頼むから、置いてくな……!」
レムの唇がかすかに動く。
小さな言葉。
自分の英雄へ向けた、最後の祈り。
そして、レムは動かなくなった。
スバルは、その体を抱き寄せた。
折れた体を。
血に濡れた髪を。
冷えていく命を。
抱きしめて、震えた。
「レム……」
返事はない。
「レム……」
返事はない。
「レム……」
何度呼んでも、返事はない。
少し離れた場所で、ユイもまた動かなかった。
スバルの視線が、ユイへ向く。
あり得ない方向へ曲がった四肢。
血に沈む白い髪。
完全に死んでいるようにしか見えない姿。
「ユイさん……」
スバルの声は、もう空っぽだった。
レムも動かない。
ユイも動かない。
まただ。
また、自分だけが残った。
ユイは、死体のふりをしたまま、スバルの声を聞いた。
甘い。
けれど、胸の奥にかすかな痛みもあった。
それは罪悪感ではない。
たぶん、もっと歪んだものだ。
こんなふうに壊れるスバルを見て満たされる自分への、かすかな興奮。
ユイは動かなかった。
ここで起き上がれば、この絶望は完成しない。
だから、死体のまま横たわる。
スバルは、レムを抱えて立ち上がった。
どうやって洞窟を出たのか、よく覚えていない。
ユイの体を置いていくことに、心が裂けそうだった。
だが、スバルにはもう、レムを抱えることしかできなかった。
足元がふらつく。
何度も転ぶ。
そのたびにレムの体を庇う。
「ごめん……」
スバルは呟く。
「痛いよな……ごめん……」
もう痛くない。
わかっている。
わかっていても、謝るしかない。
夜道を歩く。
村へ向かう。
屋敷へ向かう。
途中、アーラム村が見えた。
そこには、また死があった。
道端の死体。
家の前の死体。
井戸のそばに倒れた人々。
納屋の中の子どもたち。
前と同じ。
少し違う。
でも、結局同じ。
みんな動かない。
スバルは立ち止まらなかった。
止まれば、もう動けない。
レムを抱えたまま、村を抜ける。
ロズワール邸へ向かう。
屋敷の門が見えてきた。
重い門扉は開きかけたまま歪み、片側が地面を擦っている。
門の前には、黒い外套の死体がいくつも転がっていた。
使用人らしき者も倒れている。
見覚えのある顔もあった。
スバルは、もうほとんど見ていなかった。
門をくぐる。
その一歩で、空気が変わった。
凍っていた。
屋敷の中ではない。
もう、屋敷の外から世界が凍っている。
庭の草は霜をまとい、石畳には白い氷が張りついている。
吐いた息が白く固まる。
腕の中のレムが、さらに冷たくなっていくような気がした。
「エミリア……」
スバルは呟いた。
屋敷の玄関まではまだ距離がある。
けれど、もう進める気がしなかった。
門をくぐったあたりで、スバルの足は止まった。
その先に、白い影がいた。
小さな猫のようだった精霊とは違う。
巨大な獣。
白い毛並み。
圧倒的な冷気。
終焉の獣。
パック。
その目が、スバルを見た。
レムを抱えたスバルを。
その視線だけで、スバルは理解した。
エミリアは、もういない。
また、間に合わなかった。
「……そうか」
スバルは呟いた。
「また、駄目だったのか」
笑う力もない。
泣く力もない。
パックの冷気が満ちる。
言葉が聞こえた気がした。
娘と共に眠れ、と。
次の瞬間、首筋に鋭い冷たさが走った。
痛みは、ほとんどなかった。
視界がずれる。
世界が横倒しになる。
腕の中のレムが離れていく。
門の石畳。
氷。
白い毛。
血。
闇。
ナツキ・スバルは死んだ。
そして。
果物の匂いがした。
人混みのざわめきが聞こえた。
王都の喧騒。
リンガの赤。
カドモンの屋台。
スバルは、またそこに立っていた。
首は繋がっている。
手は空だった。
腕の中にレムはいない。
血もない。
氷もない。
けれど、記憶だけがあった。
ペテルギウス。
見えざる手。
洞窟の中で、四肢があり得ない方向へ曲がったユイ。
折られるレム。
鎖を砕く最後の魔法。
腕の中で冷たくなる体。
村の死体。
ラムの死体。
門をくぐった先のパック。
首が落ちる瞬間。
全部。
全部。
全部。
「……」
今度は、叫びすら出なかった。
視界の端に、レムがいた。
生きている。
ユイもいる。
生きている。
何も知らない。
スバルの膝が、ゆっくり崩れた。
「スバル君?」
レムが駆け寄る。
「スバルくん」
ユイも近づく。
スバルは二人を見た。
口が動く。
声は出ない。
ただ、涙だけが落ちた。
今度の涙は、熱いのか冷たいのかもわからない。
ユイは、スバルの前に膝をついた。
「大丈夫。私はここにいるわ」
小さく、優しく言った。
スバルの目が、わずかに揺れる。
ユイはいつもの優しい顔で、スバルの肩に手を置く。
内心では、静かに囁いていた。
おかえり、スバルくん。
私が洞窟で潰れるところ、見てくれたね。
レムさんが壊れるところも、見たね。
また、ちゃんと戻ってきた。
あなたはもう、限界のはずなのに。
まだ終われない。
かわいそうで、かわいい。
ユイは手を伸ばし、スバルの震える指を包む。
スバルは、それに縋ることも、振り払うこともできなかった。
ただ、壊れたまま、二人を見上げていた。
世界は、また始まっていた。
けれどスバルの心は、もう何度も終わっていた。