Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第二十三話 狂気の外側

 スバルは、壊れていた。

 

 カルステン公爵家の客室で、寝台に腰掛けたまま、ただ前を見ていた。

 

 目は開いている。

 

 息もしている。

 

 体はそこにある。

 

 けれど、心だけがまだ戻ってきていなかった。

 

 アーラム村の死体。

 

 納屋に並んだ小さな体。

 

 屋敷の庭で冷たくなっていたレム。

 

 屋敷の中で動かなくなっていたラム。

 

 血溜まりの中で壊れた人形みたいに横たわっていたユイ。

 

 氷に閉ざされた屋敷。

 

 自分の体から熱が奪われていく感覚。

 

 それらが、今もスバルの中にあった。

 

 戻ってきたはずなのに。

 

 ここは王都のはずなのに。

 

 目の前には、生きているレムがいるのに。

 

 ユイも、傷ひとつない姿でそばにいるのに。

 

 スバルの手は震え続けていた。

 

「スバル君」

 

 レムが呼んだ。

 

 返事はない。

 

 ただ、スバルの指が、レムの袖を探すように動いた。

 

 レムはその手を握る。

 

「はい。レムはここにいます」

 

 反対側で、ユイも手を差し出す。

 

 スバルはそちらも掴んだ。

 

 離さない。

 

 離したら消える。

 

 離したら、また血の中に沈む。

 

 そんな怯えが、指先に宿っていた。

 

「ユイ……さん」

 

「ええ。私もいるわ」

 

「死ぬな……」

 

 スバルの声は、紙のように薄かった。

 

「どこにも、行くな……」

 

「はい」

 

 レムは即答した。

 

「レムは、どこにも行きません」

 

「私もよ」

 

 ユイも、静かに答える。

 

 スバルは少しだけ頷く。

 

 けれど、目の奥の怯えは消えない。

 

 フェリスは、そんなスバルを見て、唇を引き結んでいた。

 

 いつもの軽さはなかった。

 

 診察は済んでいる。

 

 体の傷はひどいが、致命的ではない。

 

 問題は、体ではなかった。

 

「……体はまだ保ってるにゃ」

 

 フェリスは低く言った。

 

「でも、心がもう限界を越えてる。何を見たか知らないけど、普通じゃない」

 

「治せますか」

 

 レムの声は震えていた。

 

 フェリスは答えなかった。

 

 答えないことが答えだった。

 

「魔法で体は治せる。でも、心はそうはいかない。今のスバルきゅんは、ここにいるようで、ここにいない。まだどこか別の場所に置いていかれてる」

 

「別の場所……」

 

 レムがスバルを見る。

 

 スバルは天井を見ていた。

 

 だが、その目は天井を見ていない。

 

 血の広間を見ている。

 

 氷の部屋を見ている。

 

 死体だらけの村を見ている。

 

「スバル君」

 

 レムが呼ぶ。

 

 反応は薄い。

 

 だが、指先がわずかに動く。

 

 レムの手を探す。

 

 レムはすぐに握った。

 

「ここにいます」

 

「……ユイ、さん」

 

「ええ。私もいるわ」

 

 ユイも反対側から答える。

 

 スバルは、二人の手を握りしめたまま、唇を震わせた。

 

「エミリア……」

 

 その名が、かろうじて形になった。

 

 レムの目が揺れる。

 

 ユイも、スバルを見下ろした。

 

「エミリアに……」

 

 スバルの声は途切れ途切れだった。

 

「会わなきゃ……謝らなきゃ……戻らなきゃ……」

 

 王選の場で傷つけた。

 

 約束を破った。

 

 顔を見るのがつらいと言わせた。

 

 それでも、会わなければならない。

 

 謝らなければならない。

 

 助けなければならない。

 

 そう思っているのか、それともただその名に縋っているだけなのか、スバル自身にもわかっていなかった。

 

「エミリア……の、ところ……」

 

 その言葉を聞いて、レムは決めた。

 

 今のスバルを動かすのは危険だ。

 

 休ませるべきだ。

 

 フェリスも、そう言うだろう。

 

 けれど、このまま王都に置いても、スバルは壊れたまま沈むだけかもしれない。

 

 エミリアのもとへ。

 

 そこに戻れば、少しは。

 

 そう信じたかった。

 

「フェリス様」

 

 レムは顔を上げた。

 

「スバル君を、エミリア様のもとへ連れて帰ります」

 

「本気で言ってるの?」

 

 フェリスの声は硬かった。

 

「今のスバルきゅんを動かすのは危険だにゃ。眠らせて、休ませて、それでもしばらくは目を離しちゃいけない」

 

「けれど、スバル君はエミリア様のもとへ戻りたがっています」

 

「それは、今のスバルきゅんの判断なの?」

 

 レムは答えられなかった。

 

 判断など、できていない。

 

 今のスバルは、ただ壊れた心でエミリアの名に縋っているだけだ。

 

 それはわかる。

 

 わかっている。

 

 けれど、レムにはその縋る先を取り上げられなかった。

 

「……それでも」

 

 レムは言った。

 

「このままでは、スバル君はどこにも戻れません。エミリア様に会えば、何かが戻るかもしれません」

 

「保証はないにゃ」

 

「はい」

 

「道中で何かあったら?」

 

「レムが守ります」

 

 即答だった。

 

 フェリスは一瞬、言葉に詰まる。

 

「ユイ様も同行してくださるなら、スバル君を一人にはしません」

 

「私は行くわ」

 

 ユイは迷わず答えた。

 

「スバルくんを放っておけないもの」

 

 フェリスはユイを見た。

 

 それから、スバルを見る。

 

 スバルは二人の手を握ったまま、小さく震えている。

 

 時折、唇だけが動く。

 

「エミリア……レム……ユイさん……死ぬな……」

 

 言葉はばらばらだった。

 

 それでも、彼が何かに縋ろうとしていることだけはわかった。

 

「……二人とも、頑固だにゃ」

 

 フェリスは深く息を吐いた。

 

 それでも薬を用意し、包帯を替え、最低限の注意を伝えた。

 

 水を飲ませること。

 

 熱が上がれば止まること。

 

 言えないことを無理に聞かないこと。

 

 錯乱しても、体を押さえつけすぎないこと。

 

「あと、絶対に一人にしないこと」

 

 フェリスはそう言って、レムとユイを見た。

 

「今のスバルきゅんは、ほんの少し目を離しただけで、どこかへ行っちゃうかもしれない。体じゃなくて、心が」

 

「はい」

 

「ええ」

 

 レムとユイは同時に答えた。

 

 クルシュも、部屋の入口から様子を見ていた。

 

 いつもの凛とした表情の奥に、わずかな痛みがある。

 

「止めても行くのだろう」

 

「はい」

 

 レムは深く頭を下げた。

 

「身勝手を承知でお願いします。竜車と地竜をお借りできないでしょうか」

 

 クルシュは目を閉じる。

 

 短い沈黙。

 

「許可する」

 

「クルシュ様」

 

「ただし、これはカルステン家としての軍事行動ではない。移動手段の貸与に留める」

 

「ありがとうございます」

 

 レムは頭を下げた。

 

 スバルは、会話のほとんどを理解していなかった。

 

 ただ、レムとユイの手だけを握っている。

 

 離さない。

 

「行く……」

 

 かすれた声。

 

「エミリアの……ところ……」

 

「はい」

 

 レムが答える。

 

「戻りましょう。スバル君」

 

 出発は、その日のうちに決まった。

 

 スバルは自力で乗り込めなかった。

 

 レムが支え、ユイが反対側から支える。

 

 足が段差に引っかかる。

 

 スバルはそのたびに小さく謝った。

 

「ごめん……」

 

「謝らないでください」

 

「ごめん……」

 

 レムは胸を締め付けられる思いで、それでも優しく支えた。

 

 ユイは反対側からスバルの腕を取っていた。

 

 表情は穏やかだった。

 

 けれど、その指先はスバルの震えを正確に感じ取っている。

 

 壊れている。

 

 壊れたまま、歩こうとしている。

 

 竜車が進む。

 

 王都の音が遠ざかる。

 

 街道に出ると、風の音と地竜の足音だけが残った。

 

 スバルは窓の外を見なかった。

 

 ずっと下を向いている。

 

 レムの膝のあたり。

 

 ユイの手。

 

 そこだけを見る。

 

 見ていないと、消える気がするから。

 

「スバル君、少し横になりましょう」

 

「……死ぬな」

 

「死にません」

 

「ユイさんも……」

 

「死なないわ」

 

「どこにも、行くな」

 

「はい」

 

「ええ」

 

 会話はそれだけだった。

 

 意味のある計画も、対策も、交渉もない。

 

 スバルは、ただエミリアのもとへ戻ろうとしていた。

 

 死んだような心で。

 

 壊れたまま。

 

 夜が深くなっていく。

 

 街道の空気が、少しずつ変わった。

 

 風が止む。

 

 虫の声が消える。

 

 地竜が低く鳴いた。

 

 レムの表情が変わる。

 

 ユイも、窓の外へ視線を向けた。

 

 黒い影が、道の先に立っていた。

 

 一人ではない。

 

 二人。

 

 三人。

 

 さらに奥にもいる。

 

 黒い外套。

 

 顔を隠した人影。

 

 魔女教徒。

 

 スバルの呼吸が止まった。

 

「いやだ……」

 

 小さく漏れる。

 

「いやだ……来るな……」

 

「スバル君。大丈夫です」

 

 レムが立ち上がる。

 

「レムが守ります」

 

 竜車が止まった。

 

 御者が悲鳴を上げるより早く、黒い外套の一人が動いた。

 

 レムが飛び出す。

 

 鉄球が唸り、最初の一人を吹き飛ばした。

 

 骨の砕ける音。

 

 黒い外套が地面を転がる。

 

 ユイも竜車から降りた。

 

 スバルの前に立つ。

 

 白い髪が夜風に揺れる。

 

「レムさん、前はお願い」

 

「はい!」

 

 レムは二人目へ鉄球を叩きつける。

 

 ユイは側面へ回り込んできた影を受けた。

 

 刃が迫る。

 

 ユイは半歩だけずれた。

 

 虚飾が、相手の認識を狂わせる。

 

 魔女教徒は距離を見誤り、刃が空を切る。

 

 ユイの掌底が胸を打つ。

 

 男が息を詰まらせ、膝をつく。

 

 さらに背後から伸びる手。

 

 ユイは振り返らず、足を引く。

 

 踏み込みの位置を誤った敵同士がぶつかる。

 

 ユイはその隙に片方の腕を折り、もう片方の喉元を打った。

 

 強い。

 

 ユイは確かに強い。

 

 レムもまた、圧倒的だった。

 

 青い髪を揺らし、鉄球を振るい、黒い外套を薙ぎ払っていく。

 

 だが、数が多すぎた。

 

 そして、その奥にいる気配が違った。

 

 空気そのものが歪む。

 

 見えない何かが、そこにある。

 

 ユイは目を細めた。

 

 来る。

 

 だが、この場ではまだ受けない。

 

 ここで倒れれば、洞窟まで行けない。

 

 スバルが連れ去られ、レムが追い、そこでペテルギウスと対峙する。

 

 その場所でなければならない。

 

 ユイは、見えない圧の手前で身を引いた。

 

 虚飾で踏み込みをずらし、敵の認識を狂わせる。

 

 見えざる手の一撃は、竜車の側面を砕いた。

 

 木板が破裂し、破片が飛ぶ。

 

 ユイには当たらない。

 

 レムにも、致命的には届かない。

 

 だが、竜車の内側でスバルの体が床へ投げ出された。

 

 息が詰まる。

 

「スバル君!」

 

 レムが叫ぶ。

 

 ユイも振り返る。

 

 スバルは動けない。

 

 壊れた心では、手足に力を入れることすらできない。

 

 黒い外套の一人が、竜車の残骸へ飛び込む。

 

 レムの鉄球が唸る。

 

 だが、別の影が間に入る。

 

 ユイが駆けようとした瞬間、黒い外套がスバルを抱え上げた。

 

 抵抗はない。

 

 スバルは、ただ目だけを動かしていた。

 

 レムが戦っている。

 

 ユイが手を伸ばしている。

 

 まただ。

 

 また、誰かが自分のために戦っている。

 

 また、自分だけが何もできない。

 

 スバルの意識は、そこで途切れた。

 

 次に目を開けた時、そこは暗い洞窟のような場所だった。

 

 湿った土の匂い。

 

 黒い外套の人影。

 

 ゆらゆら揺れる灯り。

 

 スバルは、鎖に繋がれていた。

 

 手首。

 

 足首。

 

 体は動かない。

 

 そして、目の前に男がいた。

 

 痩せた体。

 

 奇妙な動き。

 

 病的な笑み。

 

 緑がかった髪。

 

 指が、気味が悪いほど忙しなく動いている。

 

 男は、スバルを覗き込んだ。

 

 首が、不自然な角度に傾く。

 

「ふむ」

 

 指が、頬を掻いた。

 

「ふむ、ふむ、ふむ」

 

 男は、まるで珍しい虫でも見つけたように、スバルの顔を覗き込む。

 

「これはこれは。実に、実に怠惰な瞳です」

 

 スバルは答えない。

 

 答えるだけの力がない。

 

 ただ、目の奥で恐怖だけが震える。

 

 男は笑った。

 

 薄く、歪んだ笑みだった。

 

「おお、失礼。名乗りもせずに語り始めるなど、愛を説く者として怠惰でした」

 

 男は両腕を広げる。

 

 黒い外套たちが、一斉に身を低くした。

 

 洞窟の空気が、奇妙な熱を帯びる。

 

「私は、魔女教大罪司教」

 

 男の声が、湿った岩壁に反響した。

 

「怠惰担当――ペテルギウス・ロマネコンティ」

 

 指が、髪を掻きむしる。

 

 爪が皮膚を裂き、赤い筋が頬に走る。

 

 それすら、男は気にしない。

 

「脳が震えるほどの愛に従い、福音の導きに従い、勤勉に、勤勉に、勤勉に務めを果たす者でございます」

 

 ペテルギウスは、スバルの顔を見た。

 

 目だけが異様に開かれている。

 

「さて。あなたは、何者ですか?」

 

 スバルは何も言わない。

 

 喉が動かない。

 

「答えませんか。答えない。沈黙。拒絶。停滞。ああ、怠惰ですね」

 

 ペテルギウスは嬉しそうに笑った。

 

「壊れている。壊れているように見える。ですが、それは本当に壊れているのですか? それとも、壊れたふりをして、己の怠惰を正当化しているのですか?」

 

 スバルの喉が震える。

 

 壊れたふり。

 

 違う。

 

 違うはずだ。

 

 自分は壊れた。

 

 あの村を見て。

 

 レムを見て。

 

 ラムを見て。

 

 ユイを見て。

 

 氷の中で終わって。

 

 壊れた。

 

 けれど、ペテルギウスの声は、スバルの奥へ入り込んでくる。

 

「沈黙は怠惰。無力は怠惰。恐怖に伏すこともまた怠惰。あなたは実に怠惰です」

 

 ペテルギウスの指が、自分の頬を掻いた。

 

 皮膚が赤くなる。

 

「しかし、あなたには香りがある。愛されし香り。嫉妬の魔女の寵愛。ああ、不可解。不快。不可解で不快で、しかし、興味深い!」

 

 スバルは唇を動かした。

 

「……レム」

 

 かすれた声。

 

「ユイ……さん……」

 

 ペテルギウスの目が見開かれる。

 

「愛ですね」

 

 その言葉が、洞窟に落ちた。

 

「愛、愛、愛! あなたは愛に縋っている。愛されたい。救われたい。許されたい。ああ、なんと怠惰な依存でしょう」

 

 スバルの目から涙が落ちた。

 

 悔しいのか、怖いのか、悲しいのか、もうわからない。

 

 その時、洞窟の入口側で爆音が響いた。

 

 悲鳴。

 

 砕ける岩。

 

 黒い外套が吹き飛ぶ。

 

 青い影が飛び込んできた。

 

 レムだった。

 

 髪は乱れ、体には傷がある。

 

 それでも瞳は燃えている。

 

 鉄球が唸り、魔女教徒をまとめて叩き潰す。

 

「スバル君!」

 

 スバルの瞳に光が戻る。

 

 レム。

 

 来た。

 

 来てしまった。

 

 嬉しい。

 

 だめだ。

 

 助けて。

 

 逃げろ。

 

 来るな。

 

 全部が混ざり、声にならない。

 

 そして、レムの後ろから白い影も飛び込んだ。

 

 ユイだった。

 

 最初の接敵では無傷のまま切り抜けて、レムを追ってきた。

 

 白い髪は乱れている。

 

 頬に土埃はついている。

 

 けれど、体はまだ壊れていない。

 

 まだ、立っている。

 

 スバルの目が大きく見開かれた。

 

「ユイ……さん……?」

 

 ユイはスバルを見る。

 

 ほんの一瞬だけ、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。

 

「迎えに来たわ、スバルくん」

 

 その声が、スバルの胸を刺した。

 

 嬉しい。

 

 でも。

 

 この場所に来たら、壊される。

 

 レムも。

 

 ユイも。

 

「来るな……」

 

 スバルは声を絞り出す。

 

「来るな、逃げろ……!」

 

 レムは止まらない。

 

 ユイも止まらない。

 

 レムの鉄球が正面を開く。

 

 ユイが側面の敵を崩す。

 

 虚飾で敵同士の距離を狂わせ、刃を空振りさせ、踏み込みを誤らせる。

 

 その連携は、一瞬だけ魔女教徒たちを押し込んだ。

 

 ペテルギウスは、首を大きく傾けた。

 

「勤勉ですねぇ」

 

 笑っている。

 

 不快なほど楽しそうに。

 

「その献身。その執着。その愛。ああ、実に勤勉。ですが」

 

 空気が歪んだ。

 

 ユイの背筋が冷える。

 

 来る。

 

 見えざる手。

 

 ユイはスバルを見る。

 

 レムを見る。

 

 そして、一歩だけ前に出た。

 

 レムへ伸びるはずの見えない腕の軌道に、あえて自分の体を差し込む。

 

「ユイ様!」

 

 レムの叫び。

 

 次の瞬間、ユイの体が弾け飛ぶように跳ねた。

 

 見えない何かに掴まれ、壁へ叩きつけられる。

 

 岩が砕ける。

 

 ユイの体が床へ落ちる。

 

 すぐに、もう一本。

 

 見えざる手が、ユイの四肢を掴んだ。

 

 実際には、ユイは虚飾で肉体への致命的な破壊を避けている。

 

 だが、外からはそう見えない。

 

 腕が潰れたように。

 

 肩が砕けたように。

 

 肋骨が折れ、腹が潰れ、血が噴き出したように。

 

 次の瞬間、ユイの四肢が、あり得ない方向へ曲がった。

 

 右腕は背中側へ捻じれ、左腕は肘から逆向きに折れたように垂れた。

 

 脚も、膝の向きが狂い、立ち上がるどころか人の形を保っているのが不思議なほどだった。

 

 首は力なく傾き、白い髪が顔を隠す。

 

 血が床に広がる。

 

 骨が砕け、肉が潰れたような音が、洞窟の中に響いた。

 

 虚飾がそう聞かせている。

 

 そう見せている。

 

 そう認識させている。

 

 スバルの声が消えた。

 

 叫ぶことすらできなかった。

 

 ただ、目だけが見開かれる。

 

 ユイは床に落ちた。

 

 四肢が変な方向へ曲がったまま、動かない。

 

 血に濡れた白い髪。

 

 動かない指先。

 

 上下しない胸。

 

 虚飾が死を被せる。

 

 脈は感じられない。

 

 呼吸は見えない。

 

 体温は抜け落ちたように見える。

 

 完全な死体。

 

 そう認識させる。

 

 ユイは、死体のふりをしたまま音を聞く。

 

 スバルの呼吸が壊れている。

 

 レムの怒りが膨れ上がっている。

 

 ペテルギウスの笑い声が響いている。

 

 甘い。

 

 甘すぎる。

 

 この絶望は、きっとスバルくんをもっと壊す。

 

 レムは、ユイが潰された光景を見て、一瞬だけ表情を失った。

 

 けれど、次の瞬間には鉄球を握りしめる。

 

「許しません」

 

 低い声。

 

「スバル君も、ユイ様も、これ以上傷つけさせません」

 

 レムが跳んだ。

 

 怒りと魔力を込めた一撃。

 

 鉄球がペテルギウスへ迫る。

 

 だが、届かない。

 

 見えざる手が、レムを掴む。

 

 空気が軋む。

 

 レムの体が不自然に止まった。

 

 そのまま、壁へ叩きつけられる。

 

 鈍い音。

 

「レム!」

 

 ようやく、スバルの声が出た。

 

 鎖を引く。

 

 手首の皮が裂ける。

 

 血が滲む。

 

 鎖は切れない。

 

 見えざる手が、レムを持ち上げる。

 

 レムは抵抗する。

 

 魔法を放とうとする。

 

 鉄球を動かそうとする。

 

 だが、見えない力がそのすべてを封じる。

 

 ペテルギウスが笑う。

 

「愛です。これが愛です。ですが、愛のために散るとは、なんと勤勉で、なんと無力で、なんと――怠惰な結末!」

 

 見えざる手が、レムの腕を捻る。

 

 嫌な音がした。

 

 レムの悲鳴が洞窟に響く。

 

 スバルの喉が裂ける。

 

「やめろおおおおおおおッ!」

 

 やめない。

 

 ペテルギウスはやめない。

 

 レムの脚が砕ける。

 

 体が床へ叩きつけられる。

 

 また持ち上げられる。

 

 また叩きつけられる。

 

 スバルは鎖を引き続けた。

 

 手首から血が流れる。

 

 肩が軋む。

 

 それでも、鎖は切れない。

 

 何もできない。

 

 また。

 

 また、何もできない。

 

「俺が……俺が悪い……俺が……!」

 

「そうです!」

 

 ペテルギウスが嬉々として叫ぶ。

 

「あなたの怠惰が、この愛を踏みにじるのです!」

 

「黙れ!」

 

「怠惰、怠惰、怠惰!」

 

「黙れええええええッ!」

 

 叫びは届かない。

 

 レムの体が、最後に床へ落ちた。

 

 もう、ほとんど動かない。

 

 ペテルギウスは満足したように背を向ける。

 

 黒い外套たちも、少しずつ洞窟を去っていく。

 

 ユイは動かない。

 

 四肢を不自然に曲げた死体のふりを続ける。

 

 レムも、動かない。

 

 洞窟に残されたのは、鎖に繋がれたスバルと、血の匂いだけだった。

 

「レム……」

 

 スバルの声は、掠れていた。

 

「ユイさん……」

 

 返事はない。

 

 どちらからも。

 

 その時、レムの指先がわずかに動いた。

 

 スバルは息を呑む。

 

「レム……?」

 

 レムは、這った。

 

 折れた腕。

 

 砕けた脚。

 

 動くはずのない体。

 

 それでも、這った。

 

 スバルのもとへ。

 

 血の跡を残しながら。

 

「やめろ……」

 

 スバルは泣いた。

 

「もういい。もういいから、動くな……」

 

 レムは止まらない。

 

 ユイは、死体のふりをしたまま、その音を聞いていた。

 

 血を擦る音。

 

 レムの浅い呼吸。

 

 スバルの壊れた声。

 

 レムはスバルの前まで辿り着く。

 

 もう、目を開けているのも難しそうだった。

 

 それでも、彼女は魔法を使った。

 

 冷気が、鎖に触れる。

 

 ひびが入る。

 

 スバルの手首を縛る鎖が凍り、砕けた。

 

「レム……」

 

 スバルの手が自由になる。

 

 だが、何もできない。

 

 レムは、笑おうとした。

 

 笑えていない。

 

 でも、スバルにはわかった。

 

 彼女は、自分を安心させようとしている。

 

 こんな状態で。

 

 こんな最期に。

 

「生きて……ください」

 

 スバルの心が、音を立てて崩れた。

 

「いやだ……」

 

 首を振る。

 

「いやだ、レム。置いてくな。頼むから、置いてくな……!」

 

 レムの唇がかすかに動く。

 

 小さな言葉。

 

 自分の英雄へ向けた、最後の祈り。

 

 そして、レムは動かなくなった。

 

 スバルは、その体を抱き寄せた。

 

 折れた体を。

 

 血に濡れた髪を。

 

 冷えていく命を。

 

 抱きしめて、震えた。

 

「レム……」

 

 返事はない。

 

「レム……」

 

 返事はない。

 

「レム……」

 

 何度呼んでも、返事はない。

 

 少し離れた場所で、ユイもまた動かなかった。

 

 スバルの視線が、ユイへ向く。

 

 あり得ない方向へ曲がった四肢。

 

 血に沈む白い髪。

 

 完全に死んでいるようにしか見えない姿。

 

「ユイさん……」

 

 スバルの声は、もう空っぽだった。

 

 レムも動かない。

 

 ユイも動かない。

 

 まただ。

 

 また、自分だけが残った。

 

 ユイは、死体のふりをしたまま、スバルの声を聞いた。

 

 甘い。

 

 けれど、胸の奥にかすかな痛みもあった。

 

 それは罪悪感ではない。

 

 たぶん、もっと歪んだものだ。

 

 こんなふうに壊れるスバルを見て満たされる自分への、かすかな興奮。

 

 ユイは動かなかった。

 

 ここで起き上がれば、この絶望は完成しない。

 

 だから、死体のまま横たわる。

 

 スバルは、レムを抱えて立ち上がった。

 

 どうやって洞窟を出たのか、よく覚えていない。

 

 ユイの体を置いていくことに、心が裂けそうだった。

 

 だが、スバルにはもう、レムを抱えることしかできなかった。

 

 足元がふらつく。

 

 何度も転ぶ。

 

 そのたびにレムの体を庇う。

 

「ごめん……」

 

 スバルは呟く。

 

「痛いよな……ごめん……」

 

 もう痛くない。

 

 わかっている。

 

 わかっていても、謝るしかない。

 

 夜道を歩く。

 

 村へ向かう。

 

 屋敷へ向かう。

 

 途中、アーラム村が見えた。

 

 そこには、また死があった。

 

 道端の死体。

 

 家の前の死体。

 

 井戸のそばに倒れた人々。

 

 納屋の中の子どもたち。

 

 前と同じ。

 

 少し違う。

 

 でも、結局同じ。

 

 みんな動かない。

 

 スバルは立ち止まらなかった。

 

 止まれば、もう動けない。

 

 レムを抱えたまま、村を抜ける。

 

 ロズワール邸へ向かう。

 

 屋敷の門が見えてきた。

 

 重い門扉は開きかけたまま歪み、片側が地面を擦っている。

 

 門の前には、黒い外套の死体がいくつも転がっていた。

 

 使用人らしき者も倒れている。

 

 見覚えのある顔もあった。

 

 スバルは、もうほとんど見ていなかった。

 

 門をくぐる。

 

 その一歩で、空気が変わった。

 

 凍っていた。

 

 屋敷の中ではない。

 

 もう、屋敷の外から世界が凍っている。

 

 庭の草は霜をまとい、石畳には白い氷が張りついている。

 

 吐いた息が白く固まる。

 

 腕の中のレムが、さらに冷たくなっていくような気がした。

 

「エミリア……」

 

 スバルは呟いた。

 

 屋敷の玄関まではまだ距離がある。

 

 けれど、もう進める気がしなかった。

 

 門をくぐったあたりで、スバルの足は止まった。

 

 その先に、白い影がいた。

 

 小さな猫のようだった精霊とは違う。

 

 巨大な獣。

 

 白い毛並み。

 

 圧倒的な冷気。

 

 終焉の獣。

 

 パック。

 

 その目が、スバルを見た。

 

 レムを抱えたスバルを。

 

 その視線だけで、スバルは理解した。

 

 エミリアは、もういない。

 

 また、間に合わなかった。

 

「……そうか」

 

 スバルは呟いた。

 

「また、駄目だったのか」

 

 笑う力もない。

 

 泣く力もない。

 

 パックの冷気が満ちる。

 

 言葉が聞こえた気がした。

 

 娘と共に眠れ、と。

 

 次の瞬間、首筋に鋭い冷たさが走った。

 

 痛みは、ほとんどなかった。

 

 視界がずれる。

 

 世界が横倒しになる。

 

 腕の中のレムが離れていく。

 

 門の石畳。

 

 氷。

 

 白い毛。

 

 血。

 

 闇。

 

 ナツキ・スバルは死んだ。

 

 そして。

 

 果物の匂いがした。

 

 人混みのざわめきが聞こえた。

 

 王都の喧騒。

 

 リンガの赤。

 

 カドモンの屋台。

 

 スバルは、またそこに立っていた。

 

 首は繋がっている。

 

 手は空だった。

 

 腕の中にレムはいない。

 

 血もない。

 

 氷もない。

 

 けれど、記憶だけがあった。

 

 ペテルギウス。

 

 見えざる手。

 

 洞窟の中で、四肢があり得ない方向へ曲がったユイ。

 

 折られるレム。

 

 鎖を砕く最後の魔法。

 

 腕の中で冷たくなる体。

 

 村の死体。

 

 ラムの死体。

 

 門をくぐった先のパック。

 

 首が落ちる瞬間。

 

 全部。

 

 全部。

 

 全部。

 

「……」

 

 今度は、叫びすら出なかった。

 

 視界の端に、レムがいた。

 

 生きている。

 

 ユイもいる。

 

 生きている。

 

 何も知らない。

 

 スバルの膝が、ゆっくり崩れた。

 

「スバル君?」

 

 レムが駆け寄る。

 

「スバルくん」

 

 ユイも近づく。

 

 スバルは二人を見た。

 

 口が動く。

 

 声は出ない。

 

 ただ、涙だけが落ちた。

 

 今度の涙は、熱いのか冷たいのかもわからない。

 

 ユイは、スバルの前に膝をついた。

 

「大丈夫。私はここにいるわ」

 

 小さく、優しく言った。

 

 スバルの目が、わずかに揺れる。

 

 ユイはいつもの優しい顔で、スバルの肩に手を置く。

 

 内心では、静かに囁いていた。

 

 おかえり、スバルくん。

 

 私が洞窟で潰れるところ、見てくれたね。

 

 レムさんが壊れるところも、見たね。

 

 また、ちゃんと戻ってきた。

 

 あなたはもう、限界のはずなのに。

 

 まだ終われない。

 

 かわいそうで、かわいい。

 

 ユイは手を伸ばし、スバルの震える指を包む。

 

 スバルは、それに縋ることも、振り払うこともできなかった。

 

 ただ、壊れたまま、二人を見上げていた。

 

 世界は、また始まっていた。

 

 けれどスバルの心は、もう何度も終わっていた。

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