レムが、スバルの体を支えた。
指先が震えている。
膝に力が入っていない。
それでも、スバルは二人から目を離さなかった。
レム。
ユイ。
生きている。
それを確認しても、スバルの中にある死の光景は消えない。
むしろ、生きている姿を見るたびに、死んでいた姿が重なってしまう。
青い髪が血に濡れていた。
白い髪が洞窟の床に広がっていた。
折れた腕。
曲がった脚。
冷たい体。
首が落ちる瞬間。
スバルは、レムの袖を掴んだ。
「……行く」
声は掠れていた。
レムが眉を寄せる。
「スバル君?」
「クルシュさんのところへ……行く」
ユイが静かに見つめる。
「スバルくん、今すぐ?」
「今すぐだ」
スバルは立ち上がろうとした。
体がふらつく。
レムが支える。
ユイも反対側から腕を取った。
「助けを借りる。兵を借りる。今度こそ……今度こそ、先に動く」
レムは一瞬だけ黙った。
スバルの顔色は悪い。
目も、まだ壊れている。
まともに判断できているとは言い難い。
けれど、今ここで止めれば、スバルはその場で完全に崩れてしまう。
そんな危うさがあった。
「わかりました」
レムは答えた。
「レムも同行します」
「私も行くわ」
ユイも言った。
スバルは、二人を見る。
また死ぬかもしれない。
また壊れるかもしれない。
でも、離れたらもっと怖い。
「……頼む」
それだけ言って、スバルは歩き出した。
カルステン公爵家の屋敷へ向かう道中、スバルは何度も足を止めた。
黒い外套を着た通行人を見るだけで、息が詰まる。
子どもの笑い声が聞こえるだけで、胸が潰れそうになる。
白い壁を見るだけで、屋敷を覆っていた霜を思い出す。
それでも歩いた。
歩け。
止まるな。
止まったら、また全部が終わる。
屋敷に戻ると、ちょうど広間から一人の男が出てくるところだった。
商人らしい整った服装。
穏やかな笑み。
男はスバルたちに気づき、軽く会釈する。
「これは、ナツキ様。お戻りでしたか」
レムが頭を下げた。
「ラッセル様」
ラッセル・フェロー。
王都の商業組合に関わる男。
今のスバルに、その名前を深く考える余裕はない。
だが、男がクルシュと何かを話していたことだけはわかった。
ラッセルが去ると、入れ替わるようにヴィルヘルムが姿を見せた。
白髪の老剣士。
静かな立ち姿。
その鋭さに、スバルは少しだけ背筋を伸ばす。
「ヴィルヘルムさん」
声が掠れる。
「クルシュさんに、会わせてください」
ヴィルヘルムはスバルの顔を見た。
傷。
疲労。
そして、普通ではない切迫。
何かを察したのか、老剣士は静かに頷いた。
「お取り次ぎいたしましょう」
クルシュ・カルステンは、まっすぐスバルを見ていた。
部屋にはクルシュ、フェリス、ヴィルヘルム。
そして、スバル、レム、ユイ。
フェリスはスバルを見るなり、眉をひそめる。
「スバルきゅん、その顔で何かするつもり?」
「頼みに来た」
スバルは短く言った。
「魔女教が来る」
部屋の空気が変わった。
クルシュの視線が鋭くなる。
「続けろ」
「ロズワール邸とアーラム村が襲われる。魔女教大罪司教、怠惰担当……ペテルギウス・ロマネコンティがいる」
その名を口にした瞬間、スバルの喉が焼けるように震えた。
洞窟。
鎖。
見えざる手。
あの男の自己紹介。
脳が震える、というあの異様な声。
思い出すだけで、吐き気がする。
クルシュは表情を変えない。
「その名を、どこで知った」
「……」
答えられない。
見たから。
殺されたから。
戻ったから。
言えない。
言えば、心臓を掴まれる。
「知ってるんです」
「それは答えになっていない」
「でも、本当なんです!」
声が荒れた。
レムが、そっとスバルの袖に触れる。
「スバル君」
その声で、スバルはかろうじて息を整えた。
怒鳴るな。
壊れるな。
ここで失敗したら、また全員死ぬ。
「お願いします」
スバルは床に膝をついた。
「兵を貸してください。村を逃がして、屋敷を守らないと、みんな死ぬんです。お願いします」
クルシュは静かに尋ねた。
「敵の数は」
「……わからない」
「襲撃の経路は」
「わからない」
「大罪司教の能力は」
「見えない手を使う」
「それを、どう証明する」
スバルは唇を噛んだ。
証明などできない。
できるはずがない。
見た。
経験した。
それだけだ。
だが、それは誰にも示せない。
「君は重要な情報を持っているように見える。だが、その出所を明かさない。数も経路も曖昧。能力も証明できない」
「時間がないんだよ……!」
スバルの手が床を掴む。
「証明してる間に、全部終わる! 村が、屋敷が、エミリアが、ラムが、レムが、ユイさんが……!」
名前を並べる。
守りたいものを全部、口に出す。
けれど、声の奥にあるのは救済だけではなかった。
恐怖。
憎悪。
殺意。
ペテルギウスを殺したい。
魔女教を壊したい。
あの笑い声を二度と聞きたくない。
レムが折られるところを、ユイが潰れるところを、もう見たくない。
「俺にできることなら何でもします。だから、力を貸してください」
「何でも、か」
クルシュの声が低くなる。
「では、エミリア殿に王選から退いてもらう」
レムが息を呑んだ。
フェリスも黙る。
ユイは、スバルの横顔を見ている。
スバルは床を見つめたまま、指を震わせた。
エミリアの願い。
王選。
彼女が立とうとしている場所。
それを自分が勝手に差し出す。
そんな権利はない。
わかっている。
けれど、死ねば終わりだ。
エミリアが死ねば、王選も何もない。
レムが死ねば。
ラムが死ねば。
ユイが死ねば。
村が死ねば。
「……それで」
スバルは顔を上げた。
「それで助けてくれるなら、俺がエミリアに謝る。全部、俺が背負う。だから――」
「否」
短い拒絶だった。
スバルの思考が止まる。
「……なんで」
「今のは、仮に取引を成立させるならば、それほどの対価が必要だという話だ。だが、私はこの件を受けぬ」
「なんでだよ!」
スバルの声が跳ねた。
「条件を飲むって言っただろ! エミリアにだって、俺が話して――」
「君にその権限はない」
「っ……」
「そして、君の言葉には救済の意志よりも、恐怖と憎悪が濃く出ている」
「違う!」
「違わぬ」
クルシュの目は鋭かった。
「君は魔女教を恐れている。憎んでいる。殺したいと思っている。君の中にあるのは、誰かを救うための覚悟ではなく、己が見た恐怖から逃れようとする焦りだ」
スバルの喉が止まった。
違う。
そう言いたい。
でも、言い切れない。
ペテルギウスを殺したい。
魔女教徒を全員殺したい。
その感情は確かにある。
助けたいという願いと混ざって、どちらが前に出ているのか、自分でもわからない。
「君は、エミリア殿を救いたいのか」
クルシュの声が静かに刺さる。
「それとも、魔女教へ復讐したいのか」
「俺は……」
答えられない。
エミリアを助けたい。
レムを助けたい。
ラムを助けたい。
ユイを助けたい。
村を助けたい。
全部本当だ。
けれど、口を開けば殺意が先に出そうになる。
クルシュは告げた。
「すべてを欲し、己の器を見ず、差し出すものもなく、ただ相手に求める。それでは交渉にはならぬ」
スバルは何も言えなかった。
レムがそっと肩を支える。
ユイも背に手を添えた。
クルシュは目を伏せる。
「兵は出せぬ」
それが結論だった。
部屋を出る時、レムは深く頭を下げた。
「クルシュ様、フェリス様、ヴィルヘルム様。これまでのご厚意、ありがとうございました」
スバルは礼を言えなかった。
礼を言えば、何かが壊れそうだった。
宿へ戻る道で、スバルは一言も喋らなかった。
夜の王都は静かだった。
人の声が遠い。
自分の足音だけが妙に大きく聞こえる。
クルシュに断られた。
正論で切られた。
自分には何もない。
情報はあるのに、言えない。
未来を知っているのに、証明できない。
助けを求めているのに、差し出せるものがない。
「まだです」
レムが言った。
スバルはゆっくり顔を上げる。
「まだ、他にも方法があります」
「……プリシラと、アナスタシア」
「はい」
「騎士団は?」
「レムが行きます。魔女教の動きがあると、通報だけでも」
「頼む」
「はい」
ユイは隣で黙っていた。
スバルは、ほんの少しだけ息を吐く。
崩れそうになる足を、無理やり前へ出した。
止まれば、終わる。
進んでも、終わるかもしれない。
それでも、止まるよりはましだった。
翌朝。
レムは騎士団へ向かった。
スバルとユイは、プリシラの滞在先へ向かう。
豪奢な部屋。
赤い衣。
扇。
退屈そうな視線。
プリシラ・バーリエルは、スバルを見下ろしていた。
「なんじゃ、貴様か」
スバルは膝をついた。
もう、体裁などなかった。
「助けてくれ」
「ほう?」
「魔女教がロズワール領を襲う。村も屋敷も、みんな死ぬ。あんたの力を貸してくれ」
「なぜ妾が?」
「人が死ぬからだ」
「それで?」
スバルの胸が軋む。
「それで、って……」
「人は死ぬ。珍しいことではない」
「ふざけんな」
「妾に向かってその口か」
アルがわずかに動いた。
ユイも、スバルの隣で静かに立っている。
スバルは止まらない。
「頼む。お願いだ。助けてくれ。あんたなら、何とかできるんだろ」
「妾に縋るか」
「縋る」
スバルは床に手をついた。
頭を下げる。
「何でもする。だから、助けてくれ」
プリシラの目が細くなる。
「何でも、か」
扇が閉じられる。
「ならば、妾の足でも舐めてみるか?」
部屋の空気が止まった。
ユイの視線が、ほんのわずかに鋭くなる。
アルは兜の奥で、小さく息を吐いた。
スバルは、ゆっくり動いた。
誇りも、屈辱も、どうでもよかった。
これで助かるなら。
村が救えるなら。
レムが折られず、ユイが潰れず、エミリアが死なないなら。
「スバルくん」
ユイの声がした。
止める声ではなかった。
ただ、見ている声だった。
スバルは止まらない。
だが、唇が届く寸前、プリシラの足が跳ねた。
スバルの顔が蹴り飛ばされる。
床に転がった。
「つまらぬ」
プリシラは吐き捨てるように言った。
「己の誇りも、忠義も、願いすらも薄い。貴様は誰かを救いたいのではない。ただ己の痛みを消したいだけじゃ」
「違う……!」
「違わぬ」
プリシラは冷たく見下ろす。
「貴様は豚じゃ。豚の欲望で、妾の前に這いつくばった。そんなものを見せられて、妾が動くと思うたか」
スバルは起き上がろうとする。
だが、アルが間に入った。
「そこまでだ、兄弟」
「待ってくれ、まだ――」
「姫さんが飽きた。これ以上は無理だ」
アルに連れ出される。
廊下へ出たところで、スバルは壁に拳を打ちつけた。
「くそ……!」
ユイは黙って横に立つ。
「スバルくん」
「言うな」
「まだ何も言っていないわ」
「言われなくてもわかってる。見苦しかったんだろ。間違ってるんだろ。全部、俺が悪いんだろ」
ユイはすぐには答えなかった。
ただ、静かに言う。
「それでも、まだ動くんでしょう」
スバルは顔を上げる。
目は赤い。
悔しさと恐怖で、血走っている。
「当たり前だ」
次に出会ったのは、偶然のようで偶然ではなかった。
王都の通りを歩いていると、柔らかな訛りの声がかかった。
「えらい顔しとるなあ、ナツキくん」
アナスタシア・ホーシンだった。
その後ろには、小柄な獣人の少女――ミミがいる。
「アナスタシア……」
「うちの名前、覚えてくれてたんや。嬉しいなあ」
にこにこと笑う。
その笑みは柔らかい。
けれど、スバルはもう、王選候補者の笑顔をそのまま信じられる状態ではなかった。
ユイも、スバルの半歩後ろで静かに立つ。
アナスタシアは、二人を見比べて、小さく首を傾げた。
「そない怖い顔せんでもええやん。ちょっとお茶でもどうや? 立ち話もなんやし」
「俺は急いでる」
「急いでる時こそ、足元見な転ぶで?」
スバルは唇を噛む。
誘いに乗るべきではない。
そう思う。
だが、もう他に頼れる相手がいない。
クルシュは駄目だった。
プリシラも駄目だった。
騎士団も、おそらくすぐには動かない。
残っている候補者は、目の前のアナスタシアだけだ。
「……話を聞いてくれるなら」
「聞くだけなら、いくらでも」
アナスタシアは笑った。
近くの酒場へ入る。
昼間だというのに、店内にはそこそこ人がいた。
商人風の男。
旅人。
護衛らしい者。
スバルは落ち着かなかった。
誰がアナスタシアの手の者なのかわからない。
いや、そもそもここにいる時点で、もう相手の土俵なのかもしれない。
席につくと、ミミが隣の椅子にぽんと座った。
「ナツキ、顔こわーい」
「……悪かったな」
「うん、こわい!」
ミミは悪びれない。
アナスタシアはくすくす笑って、注文を済ませた。
「で、ナツキくん。何をそんなに急いどるん?」
「魔女教が来る」
スバルは、すぐ本題へ入った。
アナスタシアの目が、ほんの少し細くなる。
「魔女教?」
「ああ。ロズワール領が襲われる。アーラム村も、屋敷もだ。竜車と人手がいる。避難させるために。あんたの商会の力を貸してくれ」
「うちの力、なあ」
アナスタシアは頬杖をつく。
「それ、クルシュさんとこにはもう話したん?」
スバルの呼吸が止まった。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で十分だった。
アナスタシアは笑みを深める。
「ああ、やっぱり」
「……誘導したのか」
「うちは聞いただけやで。ナツキくんが答えてくれたんや。顔で」
スバルの指が震える。
ユイがそれを見ていた。
口は挟まない。
ここで下手に止めれば、スバルはさらに崩れる。
だが、流れは明らかにアナスタシアのものだった。
「クルシュさん、動いてくれへんかったんやね」
「……関係ないだろ」
「あるよ。大ありや」
アナスタシアは軽い口調のまま続ける。
「クルシュさんとこ、最近妙に慌ただしいやん。王都で鉄の値が動いとる。武具の流れも変や。おまけにさっき、ラッセルさんが出入りしとったんやろ?」
スバルの目が動いた。
ラッセル。
クルシュの屋敷ですれ違った男。
その反応を、アナスタシアは見逃さなかった。
「へえ。ほんまに来とったんや」
「……っ」
しまった。
そう思った時には遅い。
アナスタシアは、情報を一つ拾った。
「ナツキくん、商談っていうのはな、相手の欲しいもんと自分の欲しいもんを並べるところから始まるんよ。自分の欲しいもんだけ机に置いても、相手は喜ばん」
「そんな話をしてる場合じゃないんだよ!」
「その『場合じゃない』が、もうあかんねん」
アナスタシアの声は柔らかい。
けれど、逃げ場がない。
「うちに何の得があるん?」
「人が死ぬ」
「せやね」
「それだけじゃ駄目なのかよ!」
「駄目やとは言わへん。でも、人を動かすには理由がいる。竜車を出すにも、人を雇うにも、危険な場所へ向かわせるにも、お金と筋がいる」
「後で払う」
「誰が?」
「俺が」
「ナツキくんに、何があるん?」
答えられない。
金もない。
地位もない。
権限もない。
あるのは、死んで得た情報だけ。
そして、それは言えない。
「エミリアさんの陣営として払う、いう話なら別やけど」
「それは……」
「勝手に約束できるん?」
できない。
わかっている。
だからこそ、何も言えない。
アナスタシアは、スバルの沈黙を見て、静かに頷いた。
「つまり、ナツキくんは今、自分の名前でも、エミリアさんの名前でも、支払いを保証できへん。けど、うちの竜車と人手を危険な場所へ出してほしい。そういうことやね」
「……」
「それは交渉やない。お願いや」
スバルは拳を握る。
アナスタシアは続ける。
「お願いが悪いわけやないよ。でもな、商人にお願いするなら、相手が動きたくなる形にせなあかん。ナツキくんは、そこを飛ばしてる」
「人が死ぬって言ってるだろ……」
「それを聞いて動く人もおる。でも、うちは王選候補者で、ホーシン商会の頭や。人情だけで人と金を動かしたら、下にいる者を危ない目に遭わせることになる」
正しい。
また正しい。
クルシュも正しかった。
プリシラも、言い方は最悪だったが、スバルの醜さを刺した。
アナスタシアも、正しい。
正しい言葉ばかりが、スバルを切っていく。
「それに」
アナスタシアは、軽く笑う。
「うちは、もう欲しい情報はだいぶもらったし」
スバルの目が見開かれる。
「……やっぱり、最初からそれが目的か」
「全部やないよ。ナツキくんが何を持ってくるか、興味はあった。でも、結果としてクルシュさんの様子はちょっと見えた。ラッセルさんが出入りしとる。鉄や武具の流れも怪しい。そこへナツキくんが魔女教やらロズワール領やら言い出す。なるほどなあ、ってな」
「ふざけんな……!」
スバルが立ち上がる。
椅子が鳴った。
ミミがぴょんと前へ出る。
小柄な体。
軽い動き。
だが、隙がない。
「怒ったらだめだよー」
ミミは明るく言った。
その明るさが、余計にスバルを苛立たせる。
「俺は、助けてくれって言ってるんだ!」
「だから、助ける理由が足りへんって言うてるんよ」
アナスタシアは立ち上がる。
表情は柔らかいままだ。
だが、その声は完全に商人のものだった。
「ナツキくん。自分の都合を叫ぶだけでは、誰も動かせへん。相手の懐に入って、相手が欲しがるもんを見せて、それでようやく話になる」
「……っ」
「今回は、うちは降りる」
スバルの顔が歪む。
「待てよ。まだ話は――」
「話は終わりや」
アナスタシアは卓上に一枚の紙を置いた。
「ただ、竜車の手配ぐらいなら、これで多少は話が通るかもしれへん。商人は損得で動く。そこだけは、忘れんとき」
紙。
紹介状のようなもの。
完全な救いではない。
兵でもない。
味方でもない。
けれど、細い糸ではあった。
アナスタシアはミミを連れて席を離れる。
去り際に、振り返らず言った。
「あと、ナツキくん」
「……なんだよ」
「焦っとる時ほど、相手に何を渡してるか考えた方がええよ。今日のナツキくんは、いろいろ渡しすぎや」
その言葉だけ残して、アナスタシアは去った。
スバルは、椅子に座り直すこともできず、立ち尽くした。
ユイが紙を拾う。
「完全に無駄ではないわ」
「……慰めかよ」
「事実よ」
「俺は、また失敗した」
「それも事実ね」
ユイの声は優しかった。
だからこそ、刺さった。
夕方。
レムと合流した。
彼女の表情を見ただけで、結果はわかった。
「駄目だったのか」
「はい」
レムは静かに答えた。
「騎士団には、魔女教に関する通報が以前から複数寄せられているそうです。ただ、確証がなく、すぐに大規模な動きは取れないと」
「……くそ」
「申し訳ありません」
「レムが謝ることじゃない」
スバルは紙を握りしめた。
クルシュは駄目。
プリシラも駄目。
アナスタシアも、結局は駄目。
騎士団も動かない。
残ったのは、竜車を用意するための細い糸だけ。
「行くぞ」
スバルは言った。
「今すぐ出る。村だけでも逃がす。エミリアにも、ラムにも知らせる」
「はい」
レムは即答した。
「私も行くわ」
ユイも頷く。
夜になりかけた街道で、彼らは商人たちの野営に行き当たった。
その中に、スバルが見覚えのある若い商人がいた。
茶色の髪。
気弱そうな顔。
オットー・スーウェン。
「え、あなたは……?」
「オットー」
「はい!? なんで僕の名前を!?」
「竜車を出してくれ。今すぐロズワール領へ行きたい」
「今すぐ!? いやいやいや、夜ですよ!? しかもあっち方面は地竜が嫌がってるって話もありますし!」
「金なら払う。油も買う」
「油?」
オットーの顔が引きつる。
荷の中には、売れ残りの油がある。
質が落ちていて、扱いに困っているものだ。
スバルはそこに食いついた。
「全部買う。その代わり、今すぐ出せ。ほかの商人にも声をかけてくれ。竜車が必要なんだ。村人を乗せる」
「む、無茶ですよ! そんな急に!」
「頼む」
スバルは頭を下げた。
「人が死ぬ。竜車がいる。今すぐだ」
オットーは言葉を失う。
レムも、ユイも、スバルの横に立っている。
商人たちはざわめいた。
アナスタシアの紙も効いた。
金と取引。
それに、スバルの鬼気迫る様子。
最終的に、オットーは頭を掻きむしった。
「ああもう! わかりましたよ! でも、料金はきっちりいただきますからね! あと、無事に帰れる保証はありませんよ!」
「それでいい」
「よくないですけどね、普通は!」
商人たちが慌ただしく動き出す。
竜車が整えられる。
地竜が不安げに鳴く。
夜の街道へ、隊列が進み出した。
スバルは竜車の中で、地図を広げた。
オットーが指を置き、王都からリーファウス街道へ伸びる道筋を示す。
「ここが王都。で、こっちがリーファウス街道です。フリューゲルの大樹を目印に進んで、そこからロズワール領へ抜ける形ですね」
「どのくらいで着く」
「地竜の調子と休憩次第ですけど、無理をすれば朝方には領の近くまで。普通ならもっと余裕を持つんですけどね」
「無理してくれ」
「だから無茶だって言ってるでしょう!?」
オットーは悲鳴じみた声を上げる。
スバルはポケットから携帯電話を取り出した。
異世界に来てから、ほとんど役に立つことのなくなった現代の遺物。
電波はない。
連絡も取れない。
けれど、時計と画面の光だけはまだ使える。
スバルは画面を点け、暗い竜車の中で地図を照らした。
青白い光に、紙の線が浮かび上がる。
「それ、何ですか?」
オットーが目を丸くした。
「ミーティアみたいなもんだ」
「みたいなものって……かなり高価な品じゃないですか、それ」
「今はどうでもいい」
スバルは画面に表示された時刻を確認する。
今が夜。
進み続ければ、朝までにはロズワール領に近づける。
村へ着ければ、避難させられる。
エミリアにも、ラムにも、知らせられる。
そう自分に言い聞かせる。
「ここだな」
スバルは地図の一点を指で叩いた。
「フリューゲルの大樹」
「そうです。あの大樹は遠くからでもわかります。夜でも月が出てれば影が見えるくらいですから」
「そこを越えたら?」
「ロズワール領へ入る道に近づきます。ただ、あの辺りは霧が出ることがあるので、普通は慎重に――」
「霧?」
スバルの指が止まった。
オットーは肩をすくめる。
「ただの地形の話ですよ。湿気が溜まりやすいんです。まあ、商人の間じゃ嫌がられてる道ではありますけど」
レムの表情がわずかに硬くなる。
ユイも窓の外へ視線を向けた。
スバルは、携帯電話の画面を握りしめる。
嫌な予感がした。
だが、戻れない。
「進む」
「言うと思いましたよ……」
オットーは御者台へ戻りながら、ため息をついた。
夜は深くなっていく。
竜車の隊列は街道を進んだ。
地竜の足音。
車輪の軋み。
商人たちの低い話し声。
スバルは携帯電話の光を落とし、地図を畳んだ。
電池の残りは少ない。
使えるものは限られている。
それでも、この小さな画面の光だけが、ほんの少しだけ元の世界を思い出させた。
コンビニ帰り。
夜道。
何も知らなかった自分。
そこから、どれだけ遠くへ来たのか。
「スバル君」
レムが声をかける。
「少し休んでください」
「寝てる暇はない」
「目を閉じるだけでも構いません」
「閉じたら、また見る」
スバルの声は低かった。
レムはそれ以上、無理に勧めなかった。
ユイが、そっと言う。
「じゃあ、起きていていいわ。その代わり、呼吸は止めないで」
「……止めてねえよ」
「よく止まってる」
「見てんのかよ」
「見てるわ」
ユイは微笑む。
「あなたが壊れないように」
スバルは返事をしなかった。
竜車は進む。
やがて、遠くに巨大な影が見え始めた。
夜空に黒々と伸びる、あまりに大きな樹影。
フリューゲルの大樹。
オットーが御者台から声を上げる。
「見えました! あれが大樹です!」
スバルは窓から身を乗り出す。
大樹。
地図に記された目印。
ここまで来た。
ここを越えれば。
そう思った瞬間だった。
地竜が、急に足を鈍らせた。
「お、おい。どうした?」
オットーの声が強張る。
前方の竜車も速度を落としている。
後ろの商人たちもざわつき始めた。
空気が湿っていた。
冷たい。
肌にまとわりつくような、白い気配。
道の先から、霧が流れてきていた。
ただの霧。
そう思いたかった。
だが、濃すぎる。
夜の闇とは違う白が、街道を覆っている。
フリューゲルの大樹の影が、霧の向こうでぼやけていく。
「……霧」
スバルが呟く。
オットーが無理やり笑おうとした。
「だ、大丈夫ですよ。さっき言ったでしょう。この辺りは霧が出やすいって。ほら、珍しいことじゃ――」
言葉が途中で止まった。
先頭の竜車の灯りが、ふっと消えた。
いや、消えたように見えた。
霧の中へ入っただけか。
それとも。
「おい、前の竜車は?」
スバルが叫ぶ。
返事はない。
声も聞こえない。
ほんの少し前まであった車輪の音が、霧の奥で途切れている。
レムが立ち上がった。
「スバル君、外へ出ないでください」
声が硬い。
「レム?」
「この霧、普通ではありません」
ユイも窓から外を見ていた。
白い霧。
音を奪う霧。
視界だけではなく、存在そのものを薄めていくような霧。
だが、その正体を、ユイは知らない。
ただ、肌を撫でる異様な気配だけが、これは危険だと告げていた。
遠くで低い鳴き声が響いた。
空気が震える。
地竜が悲鳴を上げる。
商人たちが叫ぶ。
白い霧の向こうで、巨大な影がゆっくりと動いた。
あまりにも大きい。
竜車よりも。
地竜よりも。
木々よりも。
霧の中を泳ぐように、白い巨体が横切る。
「白鯨……」
レムが呟いた。
スバルの背筋が凍る。
「白鯨って……三大魔獣の?」
「はい」
レムは鉄球の鎖を握った。
「遭遇した者を霧の中へ消すと言われる、災厄です」
「災厄って……そんなもんが、なんでここに」
問いへの答えはなかった。
ただ、白鯨の赤い眼が、霧の奥でこちらを向いた。
見ている。
スバルを。
まっすぐに。
オットーが御者台で叫んだ。
「逃げますよ! 死にます! あんなの相手にできるわけないでしょう!?」
地竜が走り出す。
竜車が跳ねる。
商人隊の隊列は完全に崩れた。
誰がどこにいるのかもわからない。
ただ、霧の中を竜車が走る。
白鯨の鳴き声が背後から迫る。
スバルは竜車の床に手をつきながら、窓の外を見る。
白い影。
近づいている。
明らかに追ってきている。
「なんで……なんでこっちへ来るんだよ……!」
レムが、スバルを見た。
その目に、わずかな理解がある。
魔女の残り香。
魔獣を惹きつける匂い。
それをレムは知っている。
スバルは知らない。
知らないまま、追われている。
レムは一歩、扉へ向かった。
スバルの心臓が跳ねる。
「レム」
「このままでは追いつかれます」
「駄目だ」
即答だった。
「何考えてるか知らねえけど、駄目だ。お前が残るとか、そういうのは絶対に駄目だ」
レムは困ったように微笑んだ。
「スバル君を守るのが、レムの役目です」
「違う! そんな役目いらねえ!」
スバルは立ち上がり、レムの腕を掴んだ。
「もう見たくないんだよ! お前が俺のために壊れるところなんて、もう二度と――」
言葉が途中で詰まる。
言えない。
洞窟のことは言えない。
レムが砕かれたことは言えない。
スバルの目が血走る。
「頼むから、行くな」
レムの表情が揺れた。
だが、白鯨の影はさらに近づいている。
竜車の後方で、荷車の一つが霧に呑まれた。
悲鳴が途切れる。
まるで最初からそこに誰もいなかったみたいに、音が消える。
ユイが静かにスバルの腕を掴んだ。
「スバルくん、伏せて」
「ユイさん?」
「今は、揺れに備えて。外に出たら死ぬわ」
「そんなの、レムにも言えよ!」
スバルは叫んだ。
ユイはレムを見る。
「レムさん、無茶をしないで」
その言葉に、レムは小さく目を伏せた。
「無茶をしなければ、スバル君を守れません」
「レム!」
スバルが手を伸ばす。
だが、白鯨の巨体が迫る。
竜車が大きく跳ね、スバルの体勢が崩れた。
その一瞬で、レムはスバルの首筋を打った。
正確な一撃。
「――っ」
視界が揺れる。
体から力が抜ける。
ユイがすぐにスバルを抱きとめた。
レムが、痛ましげに目を伏せる。
「ごめんなさい、スバル君」
声が遠い。
「レムは、あなたを死なせたくありません」
スバルは動けない。
目だけが、レムを追う。
扉が開く。
白い霧が竜車の中へ流れ込む。
レムが外へ飛び出す。
青い髪が霧に揺れる。
鉄球が唸る。
白鯨の赤い眼が、レムへ向いた。
ユイはスバルを抱き支えながら、窓の外を見ていた。
その横顔は静かだった。
だが、彼女の目にも焦りがある。
白鯨とは何なのか。
この霧が何をするのか。
ユイはまだ知らない。
ただ、レムが危険な場所へ飛び出したことだけはわかっていた。
レムが霧の中で戦う。
鉄球が白い巨体へ叩きつけられる。
鬼の力が弾け、青い髪が霧の中で踊る。
白鯨は巨大すぎる。
レムの攻撃は確かに届いている。
だが、相手があまりにも大きい。
それでも、白鯨の注意は逸れた。
竜車が進む。
オットーが必死に手綱を握り、地竜が霧の中を駆ける。
スバルの意識が沈んでいく。
最後に見えたのは、霧の奥に消えていく青い背中だった。
スバルが目を覚ました時、竜車はまだ走っていた。
激しく揺れる床。
軋む車輪。
荒い地竜の息。
御者台で叫ぶオットーの声。
「起きたんですか!? よかった、いや、全然よくないですけど!」
スバルは跳ね起きた。
「レムは!?」
喉が裂けるような声だった。
ユイはすぐ隣にいた。
スバルの肩を支えている。
「スバルくん」
「レムはどこだ!」
オットーが振り返る。
青ざめた顔。
汗だくの額。
だが、その表情には、困惑があった。
「誰ですか、それ」
世界が止まった。
「……は?」
「いや、だから、誰ですかって。レム? 何を言ってるんですか?」
スバルの耳が音を失った。
白い霧の中に飛び出したレム。
鉄球。
青い髪。
最後の笑み。
全部覚えている。
覚えているのに。
「ふざけんな……」
「ふざけてませんよ! こんな状況で冗談言う余裕なんかあるわけないでしょう!?」
「レムがいただろ! 青い髪の、メイドの! 俺たちと一緒に乗ってた!」
「乗ってません!」
オットーの声が裏返る。
「僕と、あなたと、そっちの白い髪の人と、他の商人たちで動いて、それで霧に巻かれて――」
「レムだ! お前も見ただろ、ユイさん!」
スバルはユイへ縋るように振り返った。
ユイは、困惑したように瞬きをした。
「スバルくん」
「なあ、ユイさんは覚えてるよな? レムだよ。さっきまで一緒にいた。俺を庇って、白鯨の足止めに――」
「ごめんなさい」
ユイの声は、ひどく静かだった。
「レムさんって、誰?」
スバルの中で、何かが砕けた。
「……は?」
「青い髪のメイド、って言われても……私には、覚えがないわ」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「お前、見てただろ! レムが外に飛び出したのを! 俺を抱きとめて、すぐ隣で見てただろ!」
「スバルくん」
ユイはスバルの肩に手を置いた。
心配そうな顔だった。
本気で、心配している顔だった。
だからこそ、残酷だった。
「落ち着いて。あなたは混乱しているわ」
「混乱してんのは世界の方だろ!」
スバルは叫んだ。
だが、オットーもユイも、本当に知らない顔をしている。
本当に、覚えていない。
レムという存在が、二人の中から抜け落ちている。
「嘘だ……」
スバルは床を掴む。
「嘘だろ……レム……」
外で、また鳴き声がした。
白鯨だ。
遠ざかっていない。
追ってきている。
オットーが悲鳴を上げる。
「なんでまだ追ってくるんですか!? 何なんですか、あれは!?」
スバルは窓の外を見る。
霧の向こうから、巨大な白い影が迫っている。
こちらを見ている。
まっすぐに。
スバルを。
「俺……か」
呟いた。
魔獣。
魔女の匂い。
白鯨は、自分を追っている。
自分がいるから、レムは残った。
自分がいるから、まだ追われている。
「俺のせいかよ……」
「何をぶつぶつ言ってるんですか!」
オットーの声が震えている。
「あなた、何かしたんですか!? あの魔獣、明らかにこっちを狙ってますよね!? なんなんですか、あなた!」
「俺は……」
言えない。
何も。
また言えない。
「知りませんよ……」
オットーの声が、低くなった。
「僕は、ただ商売に来ただけなんです。油を売って、竜車を出して、それで帰るはずだったんです」
「オットー……?」
「なのに、なんでこんな化け物に追われなきゃいけないんですか」
オットーの肩が震えていた。
恐怖。
怒り。
混乱。
白鯨に追われ、仲間の商人たちも見えなくなり、記憶から人が消えたことにも気づけない。
彼の精神も限界だった。
「あなたのせいなんじゃないんですか」
スバルは、何も言えなかった。
否定したかった。
でも、否定できない。
白鯨が追っているのは、自分だ。
自分がいるせいで、オットーも巻き込まれている。
「降りてください」
オットーが言った。
「……何?」
「降りてください。あれがあなたを追ってるなら、あなたが降りれば僕は助かる」
「おい、待て」
「待てませんよ!」
オットーが叫んだ。
「僕だって死にたくないんです! 商人ですよ!? 勇者でも騎士でもない! 化け物と戦う義理なんかない!」
「ふざけんな! レムが――」
「だから誰なんですかそれは!」
その叫びに、スバルの言葉が止まった。
誰なんですか。
オットーは本当に知らない。
ユイも本当に覚えていない。
レムの存在が抜け落ちている。
その事実が、スバルの胸を潰した。
その隙だった。
オットーが手綱を片手で掴んだまま、もう片方の手でスバルの胸倉を掴む。
「悪く思わないでください!」
「オットー!」
ユイが咄嗟にスバルへ手を伸ばす。
「スバルくん!」
だが、竜車が大きく揺れた。
白鯨の影が近づく。
霧が濃くなる。
次の瞬間、スバルの体は竜車の外へ投げ出された。
ユイの手は、わずかに届かなかった。
地面に叩きつけられる。
肺から空気が抜ける。
転がる。
石が体を打つ。
手足に激痛が走る。
竜車は止まらなかった。
オットーの竜車は、そのまま霧の向こうへ走り去っていく。
「待て……!」
声は届かない。
白い霧の中、巨大な影がこちらへ向きを変えた。
白鯨。
スバルは地面に這いつくばったまま、それを見上げた。
逃げろ。
そう頭は命じる。
だが、体が動かない。
痛い。
怖い。
苦しい。
それよりも、胸の中に空いた穴が大きすぎた。
「レム……」
呼ぶ。
返事はない。
レムは消えた。
ここにはいない。
誰も覚えていない。
スバル以外、誰も。
白鯨が迫る。
霧が渦を巻く。
巨大な口が開く。
スバルの体が、恐怖で硬直する。
だが、その瞬間、白鯨が鳴いた。
凄まじい衝撃。
空気そのものが殴りつけられたように揺れる。
スバルの体が吹き飛ばされた。
視界が白くなる。
耳が潰れる。
意識が飛びかける。
地面を転がり、茂みへ落ちる。
痛み。
土の匂い。
折れてはいない。
生きている。
なぜか、生きている。
白鯨の影が、霧の向こうへ遠ざかっていく。
追撃はなかった。
スバルは、しばらく動けなかった。
白い霧の中で、ただ息をした。
生きている。
また、自分だけが。
「……なんでだよ」
声が漏れる。
「なんで俺だけ……」
答えはない。
レムはいない。
オットーもいない。
ユイも、竜車の中へ残されたままだ。
白鯨も、霧の奥へ消えた。
スバルは這うように立ち上がった。
足が震える。
体中が痛い。
それでも、進まなければならない。
村へ。
屋敷へ。
エミリアのところへ。
どれほど歩いたのかわからない。
霧が少しずつ薄れたころ、前方に竜車が見えた。
オットーの竜車だった。
だが、御者台にオットーはいない。
荷台にも誰もいない。
地竜だけが、静かにそこにいた。
「オットー……?」
返事はない。
「ユイさん……?」
返事はなかった。
荷台の端に、白い髪が一本だけ引っかかっている。
だが、ユイの姿はない。
血はない。
体もない。
死体もない。
それでも、いない。
どこへ行ったのかはわからなかった。
白鯨から逃れるために飛び降りたのか。
オットーと共にどこかへ消えたのか。
それとも、別の何かに巻き込まれたのか。
何もわからない。
けれど、今のスバルには探す力もなかった。
スバルは竜車に近づいた。
地竜は逃げない。
不思議なほど大人しい。
スバルを見る目に、怯えはある。
それでも、手綱を取ることはできた。
「……行くぞ」
誰に言ったのかわからない。
地竜へか。
自分へか。
消えたレムへか。
いないユイへか。
スバルは御者台に乗った。
体はぼろぼろだ。
心はもっと酷い。
それでも、竜車は進み出す。
白い霧を抜けて。
ロズワール領へ。
アーラム村の子どもたちが、スバルを見つけたのは、翌朝のことだった。
竜車の御者台で倒れ込むようにしていたスバルは、ほとんど意識がなかった。
村の入口で騒ぎになり、誰かが屋敷へ走る。
スバルは、誰かに肩を揺さぶられた気がした。
子どもの声。
大人の声。
遠い。
すべてが水の中みたいだった。
次に目を開けた時、天井が見えた。
ロズワール邸の一室。
見慣れた天井。
体には包帯が巻かれている。
痛みはある。
だが、傷は処置されていた。
隣にラムが立っていた。
桃色の髪。
いつもの無表情に近い顔。
「起きたのね、バルス」
スバルは、乾いた喉を動かした。
「ラム……」
「ひどい有様だったわ。村の子たちが見つけなければ、どうなっていたかわからない」
「レムは」
ラムが眉を寄せた。
「何?」
「レムはどこだ」
ラムの表情が、わずかに不審へ傾く。
「誰のこと?」
スバルの呼吸が止まった。
「……は?」
「だから、誰のことを言っているの」
「お前の妹だろ」
ラムは、さらに眉をひそめた。
「妹?」
「双子の妹! 青い髪で、メイドで、俺と一緒に王都から――」
「バルス」
ラムの声が冷える。
「ラムに妹はいないわ」
世界が、また壊れた。
「嘘だ」
「嘘ではないわ」
「レムだよ! お前と同じ顔で、青い髪で、鬼で、ずっと屋敷で――」
「そんな子はいない」
スバルは跳ね起きようとした。
体に痛みが走る。
それでも無理やり立つ。
「部屋だ……レムの部屋を見れば」
「待ちなさい、バルス」
ラムの制止を振り切って、スバルは廊下へ出た。
足元がふらつく。
壁に手をつきながら、見覚えのある場所へ向かう。
レムの部屋。
あったはずの部屋。
そこに辿り着いて、扉を開ける。
中は、ただの空き部屋だった。
整っている。
だが、生活の跡がない。
レムの匂いも。
彼女の私物も。
何もない。
最初から、誰もそこにいなかったように。
「嘘だ……」
スバルは後ずさった。
「じゃあ、ユイさんは……」
スバルがそう言いかけた時、廊下の向こうからラムが追いついてきた。
「ユイ?」
ラムは眉をひそめる。
その反応に、スバルの喉が詰まった。
忘れたのか。
レムのように。
あの白い髪の少女も、最初からいなかったことになったのか。
「覚えてるのか」
スバルは、縋るように聞いた。
ラムは怪訝そうに目を細めた。
「何を言っているの、バルス。ユイのことなら覚えているわ」
その言葉に、スバルは息を呑んだ。
「屋敷にもいた。王都にも一緒に行った。エミリア様とも、あなたとも、何度も話していたでしょう」
「じゃあ……じゃあ、ユイさんはどこに」
「ラムが聞きたいくらいよ」
ラムは小さく息を吐いた。
「あなたが戻ってきた時、ユイはいなかった。村にも、屋敷にも、ここにも。少なくともラムは見ていないわ」
「……いなかった」
「ええ」
ラムは静かに頷く。
「だから、バルス。あなたが何か知っているのなら、先に話しなさい。ユイが勝手に姿を消すような子ではないでしょう」
スバルは、かろうじて息をした。
レムは消えた。
ラムは忘れている。
けれど、ユイは忘れられていない。
ただ、いない。
それが救いなのか。
それとも、さらに悪いことなのか。
スバルには、まだ判断できなかった。
足元が揺れる。
それでも、立っていなければならない。
スバルは、そのままエミリアの部屋へ向かった。
扉を開けると、エミリアがこちらを振り向いた。
「スバル? もう起きて大丈夫なの?」
銀の髪。
紫紺の瞳。
心配そうな声。
そのいつも通りの姿に、スバルは縋るような気持ちで歩み寄った。
「エミリア……レムを覚えてるか」
「レム?」
エミリアは首を傾げた。
その反応だけで、答えは十分だった。
胸が潰れそうになる。
だが、まだ聞かなければならない名前がある。
「じゃあ、ユイさんは」
「ユイ?」
エミリアの顔色が変わった。
忘れていない。
その反応で、スバルにはわかった。
「もちろん覚えてるよ。屋敷で一緒に過ごしたし、王都にも一緒に行ったでしょう? 白い髪で、落ち着いていて、でも時々すごく無茶をする人」
エミリアはそう言ってから、不安そうにスバルを見た。
「でも……ユイ、今いないんだよね? ラムからも、村に戻った時には姿がなかったって聞いた。スバル、何か知ってるの?」
スバルの中で、少しだけ認識が整理される。
レムは忘れられている。
誰も覚えていない。
けれど、ユイは違う。
ラムも覚えている。
エミリアも覚えている。
屋敷で過ごした時間も、王都へ行ったことも、ちゃんと残っている。
ただ、今この場にいない。
だが、その事実も、今のスバルを救わない。
「レムはいた」
スバルは呟いた。
「レムはいたんだよ。青い髪で、メイドで、ずっと俺を助けてくれて、俺を逃がすために白鯨に――」
「スバル、落ち着いて」
「落ち着けるかよ!」
声が荒れる。
エミリアは怯えたように目を揺らした。
「ちゃんと説明して。何があったの?」
「説明してもわかんねえよ!」
「わかりたいから聞いてるの!」
その言葉が、痛かった。
わかりたい。
エミリアはそう言った。
でも、言えない。
何も言えない。
死に戻りも。
白鯨も。
レムが消えたことも。
全部、説明できない。
その時、部屋の扉が開いた。
白い髪の少女が立っていた。
ユイだった。
服は裂け、外套は半分ほど千切れている。
白い髪には土と血が絡み、額から流れた血が片目の横を赤く汚していた。
左肩の布は大きく裂け、そこから見える肌には深い擦過傷が走っている。
右腕には血の滲む包帯代わりの布が巻かれ、指先は小刻みに震えていた。
膝にも傷があり、歩くたびにわずかに足を引きずっている。
それでも、生きている。
そこにいる。
「ユイさん……!」
スバルが声を上げる。
ユイは小さく頷いた。
「遅くなったわ」
「その怪我……どこにいたんだよ!?」
「気づいたら森の近くにいたの。竜車から落ちたのか、何かに飛ばされたのか……詳しくは、私にもわからない」
言いながら、ユイは壁に軽く手をついた。
平然と見せている。
だが、呼吸は浅い。
脇腹を押さえる手には、乾ききっていない血が付いていた。
エミリアが目を見開く。
「ユイさん、その怪我……!」
「大丈夫。動けるわ」
「大丈夫には見えないわ」
「今は、それよりも」
ユイはエミリアを見た。
そして、スバルへ視線を戻す。
「スバルくん、落ち着いて」
「無理だ」
スバルは首を振った。
「無理なんだよ、もう……誰も覚えてねえ。レムが消えた。俺しか、レムを覚えてない」
エミリアが困惑する。
「ユイさんは、そのレムって人を知っているの?」
ユイは、ほんのわずかに眉を寄せた。
「……ごめんなさい」
スバルの目が大きく見開かれる。
「ユイさん?」
「私も、その人を覚えていない」
スバルの喉が止まった。
「嘘だ」
「嘘じゃないわ」
「だって、さっき……さっきまで一緒にいたんだよ! ユイさんも見てた! 俺を抱きとめて、レムが外に出て――」
「ごめんなさい」
ユイは苦しそうに言った。
「私には、その記憶がないの」
スバルは笑った。
壊れた笑いだった。
「なんだよ……それ……」
「スバル」
「俺は、ずっと……ずっと、そうなんだよ……」
スバルは胸を押さえた。
あの手が来る。
言うな、と命じる手。
だが、もう限界だった。
レムは消えた。
ユイまで忘れている。
エミリアは何も知らない。
誰も知らない。
誰にも説明できない。
「俺は……」
部屋の空気が、変わった。
黒く沈む。
見えない何かが、世界の裏側から指を伸ばしてくるような感覚。
スバルはそれを知っている。
これ以上言うな。
そう警告する、あの感覚。
だが、スバルは止まれなかった。
「俺は、死んだら――」
時間が止まった。
音が消えた。
エミリアの表情が固まる。
スバルの胸へ、見えない手が伸びる。
いつものように、自分の心臓を掴む。
そう思った。
だが、スバルには痛みがなかった。
胸は無傷だった。
息もできる。
心臓も動いている。
「……え?」
スバルは、自分の胸を見下ろした。
何も起きていない。
自分には。
代わりに。
エミリアの体が、びくりと震えた。
紫紺の瞳から、光が抜けていく。
膝が折れる。
銀の髪が揺れる。
「エミリア?」
スバルの声が、薄く漏れた。
エミリアは答えなかった。
その体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
そして、同時に。
ユイが胸元を押さえた。
もともと青白かった顔から、さらに血の気が引いていく。
口元から、細く血が垂れた。
膝が床を打つ。
肩の傷が開き、裂けた服の下で血が広がる。
額の血が頬を伝い、白い髪の束を赤く染めた。
「ユイさん……?」
スバルは、何が起きたのか理解できなかった。
エミリアが倒れた。
ユイも倒れた。
自分だけが、無傷で立っている。
ユイは一瞬だけ、苦痛に顔を歪めた。
それから、糸が切れたように横倒しになる。
床に落ちた体は、動かない。
胸は上下していない。
指も動かない。
首筋に触れれば、脈もないように感じるだろう。
死体。
そうとしか見えなかった。
だが、本当には死んでいない。
虚飾で、死んだように見せている。
心臓を握り潰されたように。
息絶えたように。
スバルにはわからない。
エミリアにも、ラムにも、誰にもわからない。
そこにあるのは、エミリアの死体。
血と土に汚れ、胸を押さえたまま倒れたユイの死体。
そして、無傷のまま取り残されたスバルだった。
「……なんで」
スバルは膝から崩れた。
「なんで、俺じゃないんだよ」
自分は無傷だった。
言ったのは自分だ。
破ったのは自分だ。
罰を受けるべきは自分だった。
なのに、エミリアが死んだ。
ユイが死んだ。
自分だけが、生きている。
「う、あ……」
喉から、壊れた音が漏れる。
「ああああああああああああああああッ!」
叫びが屋敷に響いた。
扉が開く。
ラムが駆け込む。
その後ろから、ベアトリスが姿を見せた。
幼い姿の禁書庫の司書。
彼女は床に倒れるエミリアと、血に汚れて動かないユイと、無傷のまま膝をつくスバルを見た。
表情が変わる。
静かに、冷たく。
「……何をしたのよ」
「殺してくれ」
スバルはベアトリスを見る。
涙も鼻水も、もうどうでもよかった。
「頼む、ベアトリス。俺を殺してくれ。今すぐ。今すぐ殺せ!」
「嫌なのよ」
「なんでだよ!」
「ベティは、そんなことをするためにここにいるんじゃないのよ」
「頼む! 終わらせてくれ! このままじゃ、エミリアも、レムも、ユイさんも、全部……全部、俺のせいで……!」
言葉はぐちゃぐちゃだった。
意味など通っていない。
ただ、死にたいという願いだけがあった。
全部壊れている。
全部終わっている。
死ねばいい。
死ななければならない。
やり直せるとは言えない。
言えばまた、誰かが死ぬ。
けれど、死ぬしかない。
「殺せよ! 殺してくれよ!」
ベアトリスは顔を歪めた。
「……本当に、どうしようもない男なのよ」
次の瞬間、空間が歪んだ。
スバルの足元が消える。
視界が反転する。
エミリアの体ごと、屋敷の外へ放り出された。
森の中。
冷たい土。
腕の中のエミリア。
少し離れた場所に、ユイの体も投げ出されていた。
外へ放り出された衝撃で、ユイの体が土の上を転がる。
すでに裂けていた肩口からさらに血が滲み、白い髪に枯葉と泥が絡んだ。
動かない。
倒れたまま、死人のように静かだった。
スバルは地面に転がり、またエミリアを抱き寄せた。
「エミリア……」
返事はない。
「ユイさん……」
ユイも動かない。
その時、木々の間から黒い外套が現れた。
一人。
二人。
三人。
さらに奥から。
魔女教徒。
そして、その中心に、痩せた男が立っていた。
ペテルギウス・ロマネコンティ。
「嗚呼」
男は、首を傾げた。
「なんという、なんという怠惰な光景でしょう」
スバルは顔を上げる。
ペテルギウスを見た。
その周囲に、見えない手が揺れている。
見える。
今は、見える。
洞窟であれほど見えなかったはずの手が、はっきりと見える。
空間を歪ませる、黒い腕。
怠惰の権能。
スバルは、歯を食いしばった。
「ペテルギウス……!」
ペテルギウスは、目を見開いた。
「見えている?」
指が頬を掻く。
「あなた、今、私の愛が見えているのですか?」
スバルは答えない。
ただ、エミリアの体を抱きしめた。
ペテルギウスの視線が、倒れたユイへ移る。
「こちらも、壊れている。血に汚れ、泥に塗れ、命を失っている。実に、実に怠惰な終わり方です」
ユイは動かない。
死体のふりをしたまま、音だけを聞いている。
ペテルギウスの声。
スバルの呼吸。
森を凍らせる気配。
そして、パックが来る。
「不可解。実に不可解。嫉妬の寵愛を受けながら、なおこの結末。あなたは愛を裏切った。愛を理解しない。怠惰、怠惰、怠惰!」
黒い手が伸びる。
エミリアへ。
スバルは動けない。
守る力などない。
その時、空気が凍った。
「僕の娘に、何をしようとしているのかな」
声がした。
幼いようで、底冷えする声。
白い毛並みの小さな精霊が、そこにいた。
パック。
だが、次の瞬間、その姿が膨れ上がる。
小さな猫のような姿が崩れ、世界を覆うほどの白い獣へ変わっていく。
終焉の獣。
冷気が森を凍らせる。
魔女教徒たちが悲鳴を上げる間もなく、氷に閉ざされた。
ペテルギウスの見えざる手が伸びる。
だが、届かない。
白い獣の前では、それすらあまりに小さい。
パックは、魔女教徒も、ペテルギウスも、まとめて凍らせた。
砕ける音。
氷が割れる音。
叫びは、途中で消える。
スバルは、エミリアを抱いたまま震えていた。
パックの巨大な瞳が、スバルを見る。
「スバル」
声が降る。
「どうして、リアは死んでいるのかな」
スバルは答えられない。
答えなどない。
自分が言おうとしたから。
自分が壊れたから。
自分が全部を救おうとして、全部を壊したから。
「ごめん……」
それしか出なかった。
「ごめん、パック……俺、俺は……」
「謝罪はいらないよ」
冷気が強くなる。
世界が白く染まる。
「僕は、リアがいない世界に興味がない」
スバルの指先が凍り始める。
痛い。
寒い。
けれど、もう抵抗する気力もなかった。
レムはいない。
エミリアも死んだ。
ユイも、血と泥に汚れたまま死んだように倒れている。
ラムも、ロズワールも、村も、この先どうなるかわからない。
全部、全部、失った。
「眠りなよ」
パックの声が、世界の終わりみたいに響く。
「僕の娘と一緒に」
冷気が首へ届く。
視界が白くなる。
スバルは、最後にエミリアの顔を見た。
返事のない少女。
もう二度と、自分を見てくれない少女。
「エミリア……」
唇が動く。
「レム……」
凍る。
「ユイさん……」
白い闇が、すべてを覆った。
ナツキ・スバルは死んだ。
そして。
果物の匂いがした。
人混みのざわめきが聞こえた。
王都の喧騒。
リンガの赤。
カドモンの屋台。
スバルは、またそこに立っていた。
そこは、王都の果物屋の前だった。
クルシュの屋敷へ駆け込む前。
プリシラに縋る前。
アナスタシアに情報を抜かれる前。
オットーの竜車に乗る前。
フリューゲルの大樹の霧へ入る前。
そこへ戻っていた。
首は繋がっている。
手足もある。
白鯨の霧もない。
エミリアの冷たい体もない。
自分の胸は、あの時と同じく無傷だった。
けれど、記憶だけがあった。
クルシュに拒まれたこと。
プリシラに蹴られたこと。
アナスタシアに利用されたこと。
オットーの竜車。
携帯電話の青白い光。
地図の上のフリューゲルの大樹。
霧。
白鯨。
レムが消えたこと。
誰もレムを覚えていなかったこと。
ユイまでも、レムを忘れていたこと。
自分が死に戻りを言いかけたこと。
その罰が、自分ではなくエミリアに落ちたこと。
エミリアが、自分の目の前で死んだこと。
血塗れのユイも、死んだように倒れたこと。
パックの冷気。
全部。
全部。
全部。
「……」
スバルは、息をした。
それだけで、喉が壊れそうだった。
視界の端に、レムがいる。
生きている。
ユイもいる。
生きている。
何も知らない。
何も覚えていない。
世界はまた、何食わぬ顔で始まっていた。
スバルの心だけを、何度も殺しながら。