Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第二十五話 逃げ道の果て

 世界は、何食わぬ顔で続いていた。

 

 リンガを売るカドモンの声。

 

 通りを歩く人々の足音。

 

 値切り交渉をする商人。

 

 遠くで笑う子ども。

 

 すべてが、さっきまでの地獄を知らない。

 

 霧もない。

 

 白鯨もいない。

 

 凍りついた森もない。

 

 腕の中で冷たくなったエミリアもいない。

 

 血と泥に汚れて倒れたユイもいない。

 

 消えて、誰からも忘れられたレムもいない。

 

 いや。

 

 いた。

 

 目の前に、レムがいた。

 

 青い髪。

 

 青い瞳。

 

 白と黒のメイド服。

 

 何も知らない顔で、スバルを見ている。

 

「スバル君?」

 

 声がした。

 

 今度は、すぐ近くから。

 

 スバルの視線がゆっくり動く。

 

 ユイもいた。

 

 白い髪。

 

 整った顔。

 

 傷ひとつない姿。

 

 血も泥もない。

 

 胸を押さえて倒れてもいない。

 

 彼女はいつものように、静かな目でこちらを見ていた。

 

「スバルくん」

 

 その声を聞いた瞬間、スバルの膝が崩れた。

 

 地面が近づく。

 

 だが、倒れる前にレムが支えた。

 

「スバル君!」

 

 ユイも反対側から肩を掴む。

 

「大丈夫?」

 

 大丈夫。

 

 その言葉の意味が、もうわからなかった。

 

 スバルはレムの腕を掴んだ。

 

 強く。

 

 痛いほどに。

 

「レム……」

 

「はい。レムです」

 

「レム……レム、レム……」

 

「スバル君、落ち着いてください」

 

 レムの声は優しい。

 

 優しいから、余計に胸が潰れる。

 

 お前は知らない。

 

 自分が消えたことを。

 

 誰にも覚えられていなかったことを。

 

 ラムに妹はいないと言われたことを。

 

 部屋が空き部屋になっていたことを。

 

 ユイまでお前を忘れていたことを。

 

 知らない。

 

 何も。

 

「ユイさん……」

 

「いるわ」

 

 ユイは短く答えた。

 

「私はここにいる」

 

 スバルは二人を見た。

 

 生きている。

 

 いる。

 

 でも、これから失うかもしれない。

 

 また失うかもしれない。

 

 クルシュは動かなかった。

 

 プリシラには蹴り捨てられた。

 

 アナスタシアには利用された。

 

 オットーには突き落とされた。

 

 白鯨は道を塞いだ。

 

 レムは消えた。

 

 ユイは傷だらけで、何も覚えていなかった。

 

 エミリアは死んだ。

 

 パックが世界を凍らせた。

 

 何をしても、駄目だった。

 

 誰かを助けようとすると、誰かが死ぬ。

 

 言おうとすれば、別の誰かが死ぬ。

 

 自分だけが覚えている。

 

 自分だけが、罰を覚えている。

 

「……もう、無理だ」

 

 スバルは呟いた。

 

 声は、ほとんど息だった。

 

 レムが眉を寄せる。

 

「スバル君?」

 

「無理なんだよ」

 

 スバルはレムの腕を掴んだまま、立ち上がる。

 

 ふらつきながら。

 

 それでも、歩き出した。

 

「来い」

 

「え?」

 

「来てくれ、レム。ユイさんも」

 

 レムは困惑しながらも、スバルに従った。

 

 ユイも無言でついてくる。

 

 人通りの多い場所では駄目だ。

 

 誰にも聞かれたくない。

 

 誰にも見られたくない。

 

 スバルは王都の路地へ入り、さらに奥へ進んだ。

 

 古い建物の影。

 

 人の気配が薄い場所。

 

 壁にもたれて、ようやく足を止める。

 

 レムがスバルの正面に立つ。

 

 ユイは少し離れ、路地の入口側を見る。

 

 誰かが近づいてこないか、自然に警戒していた。

 

「スバル君、何があったんですか?」

 

「逃げよう」

 

 レムの表情が止まった。

 

 ユイも、わずかに目を細める。

 

「逃げる?」

 

「ああ」

 

 スバルは頷いた。

 

「全部捨てて逃げる。王都も、ロズワール邸も、王選も、魔女教も、白鯨も、全部だ」

 

「スバル君」

 

「カララギでもどこでもいい。遠くへ行こう。レム、お前となら、俺は……」

 

 言葉が詰まる。

 

 本当にそう思っているのか。

 

 わからない。

 

 でも、もうそれしかない気がした。

 

 スバルは、ユイの方も見た。

 

「ユイさんも、一緒に来てくれ。あんたがいれば、どこかで暮らす方法だって考えられる。俺一人じゃ何もできないけど、レムとユイさんがいれば……」

 

 ユイはすぐには答えなかった。

 

 ただ、スバルの言葉が逃避だとわかっている顔をしていた。

 

 それでも、否定しない。

 

 今のスバルを力で止めるより、まず吐き出させるべきだと判断していた。

 

「俺はもう、何もできない」

 

 スバルは笑った。

 

 乾いた笑いだった。

 

「助けを求めても駄目だ。誰にも信じてもらえない。俺には何もない。力もない。金もない。信用もない。情報はあるのに、言えない。言ったら、もっと酷いことになる」

 

 胸を押さえる。

 

 だが、今回は何も起きない。

 

 まだ言っていない。

 

 まだ、核心には触れていない。

 

「俺が頑張るほど、みんな死ぬんだよ」

 

 レムが息を呑む。

 

「そんなことは――」

 

「あるんだよ!」

 

 スバルは叫んだ。

 

 路地に声が反響する。

 

「俺が動いたから、レムが消えた! 俺が言おうとしたから、エミリアが死んだ! ユイさんだって、俺のせいで……!」

 

 ユイはすぐには答えなかった。

 

 その全部を理解しているわけではない。

 

 いや、理解しているように見せてはいけない。

 

 少なくとも、今のスバルの前では。

 

 だから彼女は、あくまで今聞いた言葉だけを拾った。

 

「スバルくん」

 

「なんだよ」

 

「あなたは、私たちが死ぬ未来を恐れているのね」

 

「……」

 

「詳しく言えない。けれど、そうなると確信している」

 

 スバルは唇を噛む。

 

 言えない。

 

 どうしてそう確信しているのか。

 

 何を見たのか。

 

 何度死んだのか。

 

 何も。

 

「そうだよ」

 

 スバルは吐き捨てるように言った。

 

「だから逃げる」

 

 スバルはレムを見る。

 

「なあ、レム。俺と逃げてくれ」

 

「……」

 

「何もかも捨てよう。エミリアのことも、屋敷のことも、全部忘れる。遠くの町で暮らすんだ。俺は働く。何でもする。レムが嫌じゃなければ、一緒に暮らして……普通に、静かに……」

 

 言葉を重ねるほど、虚しくなった。

 

 それでも止まれない。

 

「朝起きて、飯食って、仕事して、夜帰って、くだらない話して寝るんだ。誰も知らない場所で、誰も死なない場所で……」

 

 スバルの声が震える。

 

「もう、誰も助けない。助けようとしない。俺には無理なんだよ。俺が頑張ると、全部壊れるんだ」

 

 レムは黙って聞いていた。

 

 青い瞳が、スバルだけを見ている。

 

 スバルはその沈黙が怖かった。

 

 だから、さらに言葉を重ねた。

 

「レムなら、俺を見捨てないでくれるだろ。お前は優しいから。俺みたいな奴でも、まだ……まだ、隣にいてくれるだろ」

 

 それは懇願だった。

 

 救いを求める声だった。

 

 けれど、同時に、レムにすべてを押しつける声でもあった。

 

 レムは、ゆっくり口を開く。

 

「スバル君」

 

「頼む」

 

「できません」

 

 短い言葉だった。

 

 スバルの顔が凍る。

 

「……なんで」

 

「レムは、スバル君と逃げません」

 

「なんでだよ!」

 

 スバルはレムの肩を掴んだ。

 

「お前、俺のこと嫌いじゃないんだろ!? 俺のことを信じてるんだろ!? だったら、なんで――」

 

「嫌いではありません」

 

 レムの声は震えていなかった。

 

「むしろ、好きです」

 

 スバルの指が止まる。

 

 レムは目を逸らさない。

 

 けれど、その声は熱に浮かされたものではなかった。

 

 もっと静かで、慎重で、少しだけ距離があった。

 

「でも、好きだから何でも頷くわけではありません」

 

「……」

 

「今のスバル君についていくことは、スバル君を助けることにならないと思います」

 

「助けることに、ならない……?」

 

「はい」

 

 レムは頷いた。

 

「今のスバル君は、逃げたいんじゃありません。自分を罰したいんです。自分には何もできないと決めつけて、全部を捨てて、その後でずっと苦しみ続けようとしているんです」

 

「違う」

 

「違いません」

 

「俺の何がわかるんだよ!」

 

 スバルは叫んだ。

 

 言ってしまった瞬間、空気が痛くなる。

 

 レムの目が揺れた。

 

 それでも、彼女は引かなかった。

 

「わかりません」

 

 レムは答えた。

 

「スバル君が何を見たのか、レムにはわかりません。スバル君がどうしてそんなに苦しんでいるのか、全部はわかりません」

 

「だったら――」

 

「でも」

 

 レムの声が、強くなった。

 

「レムが知っているスバル君は、そうやって全部を投げ出したあとに、楽になれる人ではありません」

 

 スバルは言葉を失った。

 

 レムは一歩近づく。

 

「スバル君は、自分を何もできない人だと言います。でも、レムは見ています。怖くても前に出るところ。弱くても、誰かのために声を出せるところ。自分が傷ついても、誰かを置いていけないところ」

 

「そんな立派なもんじゃねえよ……」

 

「立派かどうかは、レムが決めます」

 

「違う!」

 

 スバルは頭を抱える。

 

「俺はクズだ! 怠け者で、口だけで、調子に乗って、何もできねえくせに全部できる気になって! 誰かに期待されたいだけで、誰かにすごいって言われたいだけで! それで、失敗したら人のせいにして、逃げて、泣いて、喚いて!」

 

 言葉が止まらない。

 

 ずっと腹の底に溜まっていたものが、全部噴き出す。

 

「俺は、何も積み重ねてこなかった。元の世界でもそうだ。頑張るふりだけして、すぐ逃げて、負けるのが怖くて、期待されるのが怖くて、家にこもって、親にも迷惑かけて!」

 

 レムは黙って聞く。

 

 ユイも、口を挟まない。

 

「この世界に来たら変われると思った。特別になれると思った。主人公になれると思った。でも違った! 俺は俺のままだった! 何も変わってなかった!」

 

 スバルの声が掠れていく。

 

 息が詰まる。

 

 情けなくて、惨めで、恥ずかしくて、それでも止まらない。

 

「俺は誰も救えない。エミリアも、レムも、ラムも、ユイさんも、村の連中も、誰も! 俺が関わると死ぬんだよ!」

 

「スバル君」

 

「もういいだろ……」

 

「よくありません」

 

「頼むから、もう俺に期待しないでくれよ……」

 

 スバルの声が折れる。

 

「俺を、そんな目で見るなよ。俺は、お前が思ってるような奴じゃない。俺は、誰かの英雄なんかじゃない」

 

 レムの肩が震えた。

 

 その言葉だけは、聞き流せなかった。

 

「英雄かどうかは、今はわかりません」

 

 レムは言った。

 

 言葉を選ぶように。

 

「でも、レムにとって、スバル君は大事な人です」

 

 スバルは顔を上げる。

 

 レムは泣いていた。

 

 それでも、まっすぐ立っていた。

 

「レムが止まっていた時間を、動かしてくれたのはスバル君です。レムが自分を許せなかった時、レムを見て、レムの名前を呼んで、レムに前を向かせてくれたのは、スバル君です」

 

「それは……」

 

「あの時のスバル君は、強かったから助けてくれたんじゃありません。怖くても、痛くても、諦めなかったから、レムを助けてくれたんです」

 

 レムは涙を拭わない。

 

 そのまま続ける。

 

「スバル君は、自分のことを嫌いだと言います。でも、レムはスバル君の良いところを知っています。人を助けようとして失敗しても、また手を伸ばそうとするところ。弱いくせに、弱い人の前では強がるところ。泣きながらでも、誰かを守ろうとするところ」

 

 スバルの呼吸が乱れる。

 

「やめろ……」

 

「やめません」

 

「やめてくれ……」

 

「やめません」

 

 レムは、少しだけ近づいた。

 

「スバル君が自分を嫌いなら、レムが覚えています。スバル君が、自分で捨てようとしているスバル君の良いところを」

 

 スバルは震えた。

 

 その言葉は、刃よりも深く刺さった。

 

 責められるより痛い。

 

 罵られるより苦しい。

 

 自分が否定した全部を、レムが拾い上げてくる。

 

 捨てたはずの自分を、勝手に大事にしてくる。

 

「レムは、スバル君が好きです」

 

 レムは言った。

 

 はっきりと。

 

 けれど、依存しきった熱ではなく、自分の足で立ったまま。

 

「だから、逃げ道にはなりません」

 

 スバルは何も言えなかった。

 

 口を開けば、嗚咽しか出ない。

 

「逃げるなら、一人で逃げてください」

 

 レムの声は優しいままだった。

 

 けれど、言葉は厳しかった。

 

「レムは、スバル君が胸を張れる未来へ行きたいです。スバル君が、また笑って、エミリア様に会いに行ける未来へ」

 

「エミリア……」

 

 その名前が出た瞬間、スバルの胸が痛んだ。

 

 白い顔。

 

 冷たい体。

 

 自分の腕の中で死んだ少女。

 

 会いたい。

 

 笑ってほしい。

 

 でも、怖い。

 

 自分がまた壊すかもしれない。

 

「俺は、エミリアを……」

 

 声が震える。

 

「エミリアを、助けたい」

 

 レムは頷いた。

 

「はい」

 

「でも、怖い」

 

「はい」

 

「また失敗するかもしれない」

 

「はい」

 

「また、お前が消えるかもしれない」

 

 レムは少しだけ目を伏せた。

 

 その意味はわからない。

 

 けれど、スバルがどれほど恐れているかは伝わった。

 

「それでも」

 

 レムは言った。

 

「スバル君は、立ち上がりたいんですよね」

 

「……」

 

「本当に諦めているなら、こんなに苦しんでいません」

 

 スバルは息を呑んだ。

 

「なんで、そんなこと言えるんだよ」

 

「レムが、そう思ったからです」

 

 その答えは、完璧な救済ではなかった。

 

 絶対の信仰でもなかった。

 

 けれど、今のスバルには、その少し抑えた信頼が逆に痛かった。

 

 信じている。

 

 でも、盲目的ではない。

 

 好きだ。

 

 でも、全部を許すわけではない。

 

 レムはスバルを支えている。

 

 同時に、スバルに立てと言っている。

 

「レム」

 

「はい」

 

「俺は……」

 

 スバルは喉を震わせる。

 

 逃げたい。

 

 でも、逃げたくない。

 

 諦めたい。

 

 でも、諦めたくない。

 

 エミリアに会いたい。

 

 レムを失いたくない。

 

 ラムも、村も、ユイも、全部守りたい。

 

 それは欲張りだ。

 

 クルシュにも切られた。

 

 プリシラにも笑われた。

 

 アナスタシアにも見透かされた。

 

 でも。

 

 欲しいものを欲しいと言うことすらやめたら、本当に何も残らない。

 

「俺は、エミリアが好きだ」

 

 レムの目が細くなる。

 

 涙が頬を伝う。

 

 けれど、その顔には悲しみだけではなかった。

 

「はい」

 

「だから、助けたい。あいつに、もう一度笑ってほしい」

 

「はい」

 

「でも、俺一人じゃ無理だ」

 

 スバルはレムを見る。

 

 初めて、逃げ道としてではなく、隣に立つ相手として。

 

「レム。力を貸してくれ」

 

 レムは小さく息を吸った。

 

 そして、笑った。

 

「はい。スバル君」

 

 その返事は、迷いなく落ちた。

 

 スバルは顔を歪める。

 

 泣きそうなのか、笑いそうなのか、自分でもわからない。

 

「俺、ひでえこと言ったな」

 

「はい」

 

「逃げようとか言った」

 

「はい」

 

「お前の気持ちに甘えようとした」

 

「はい」

 

「最低だな」

 

「最低ではありません」

 

 レムは首を振る。

 

「弱っていただけです」

 

「それ、庇いすぎだろ」

 

「少しは庇います。好きなので」

 

 その言葉に、スバルは小さく笑った。

 

 ほんの少しだけ。

 

 本当に、少しだけ。

 

 けれど、それは久しぶりに出た笑いだった。

 

 ユイは、その様子を少し離れた場所で見ていた。

 

 スバルが折れて、レムが拾い上げる。

 

 ここに自分が入り込みすぎれば、歪む。

 

 だから、黙っていた。

 

 ただ、スバルの顔が少しだけ戻ったのを見て、ようやく口を開く。

 

「スバルくん」

 

 スバルが振り返る。

 

 ユイは路地の奥から、静かに言った。

 

「逃げないって決めたなら、次は具体的に考えましょう」

 

「……ああ」

 

「あなたが何を恐れているのか、全部は聞かない。聞いても答えられないのでしょうし」

 

 スバルは息を詰める。

 

 ユイはすぐに続けた。

 

「でも、これだけはわかる。あなたは、何かを知っている。何かが起きると知っていて、それを止めようとしている」

 

「……」

 

「その情報を、どう使うか。そこから考えるべきね」

 

 前の周のことを知っているようには言わない。

 

 交渉に失敗したなどとも言わない。

 

 ただ、今この場でスバルが吐き出した言葉だけを材料にして、ユイは話していた。

 

 スバルは顔を拭った。

 

 涙も汗も、ぐちゃぐちゃだった。

 

 けれど、目だけは少し戻っていた。

 

「俺には、取引材料が必要だ」

 

「ええ」

 

 ユイは頷いた。

 

「誰かに助けを求めるなら、相手が動く理由が必要になる。善意だけで動いてくれる相手もいるでしょうけど、兵や商会を動かすなら、それだけでは足りない」

 

「動く理由……」

 

 スバルは呟いた。

 

 その言葉が、胸の奥に落ちる。

 

 理由。

 

 取引材料。

 

 相手が危険を冒してでも欲しがるもの。

 

 クルシュが。

 

 アナスタシアが。

 

 ヴィルヘルムが。

 

 命を賭けても手を伸ばすもの。

 

 スバルの脳裏に、白い霧が蘇った。

 

 フリューゲルの大樹。

 

 携帯電話の青白い光。

 

 地図の上をなぞった指。

 

 オットーの竜車。

 

 夜の街道。

 

 そして、霧の中を泳ぐ巨大な白い影。

 

 スバルの手が、ポケットへ伸びる。

 

 携帯電話。

 

 異世界ではほとんど役に立たない、元の世界の遺物。

 

 だが、前の周で、あの光だけは地図を照らした。

 

 そして、時刻を示していた。

 

 スバルは思い出す。

 

 王都を出たのは日が落ちる少し前。

 

 オットーの竜車隊が夜の街道へ入った。

 

 地図を広げ、携帯の光でフリューゲルの大樹を確認した。

 

 その時、画面には二十二時を少し回った数字が出ていた。

 

 そこからさらに進み、大樹の影が夜空に見えた。

 

 地竜が怯え始めた。

 

 霧が出た。

 

 白鯨の鳴き声が響いた。

 

 携帯を見た時刻から、そう時間は経っていない。

 

 おそらく、二十二時半から二十三時の間。

 

 場所は、フリューゲルの大樹の近く。

 

 夜。

 

 霧。

 

 白鯨。

 

「……白鯨」

 

 スバルの唇から、その名が落ちた。

 

 レムが目を見開く。

 

「スバル君?」

 

「白鯨だ」

 

 スバルは顔を上げた。

 

 自分でも、声が震えているのがわかった。

 

 恐怖ではない。

 

 いや、恐怖はある。

 

 あの白い霧を思い出すだけで、喉が締まる。

 

 レムが消えた。

 

 誰も覚えていなかった。

 

 自分以外、誰も。

 

 けれど、その恐怖の中に、一本だけ細い道が見えた。

 

「俺は、白鯨が出る場所を知ってる」

 

 レムが息を呑んだ。

 

 ユイも目を細める。

 

「白鯨が出る場所?」

 

「ああ」

 

 スバルは胸を押さえた。

 

 心臓は掴まれない。

 

 まだ、大丈夫だ。

 

 死に戻りのことは言えない。

 

 どうして知っているのかも、言えない。

 

 だが、白鯨がいつ、どこに現れるか。

 

 その結果だけなら、言える。

 

「フリューゲルの大樹の近く。夜だ。俺たちが王都を出て、地竜で走り続けたあと……携帯で地図を見た時が、たしか二十二時を少し回ってた。そのあと大樹が見えて、霧が出た。白鯨が現れたのは、たぶん二十二時半から二十三時の間」

 

 言葉にするたび、記憶が鋭くなる。

 

 竜車の揺れ。

 

 オットーの悲鳴。

 

 レムの背中。

 

 白い霧。

 

 消えた名前。

 

「場所はリーファウス街道。フリューゲルの大樹付近。時間は夜、二十二時半から二十三時前後」

 

 スバルは自分に確認するように言った。

 

「それを、クルシュさんに持っていく」

 

 レムの表情が変わった。

 

 白鯨。

 

 三大魔獣。

 

 それがどれほど大きな意味を持つのか、レムは知っている。

 

「白鯨の出現情報なら……」

 

「ああ」

 

 スバルは頷く。

 

「ただの泣き言じゃない。相手が動く理由になる」

 

 ユイは少しだけ考えるように沈黙した。

 

 彼女は、少なくとも表向き、白鯨の出現を知らない。

 

 けれど、スバルが口にした情報の形はわかる。

 

 場所。

 

 時刻。

 

 対象。

 

 危険度。

 

 そして、それを求める相手。

 

「それを使うなら、注意点があるわ」

 

 ユイは言った。

 

「何だよ」

 

「根拠を聞かれる」

 

 スバルは、息を止めた。

 

 ユイはスバルの反応を見て、踏み込みすぎないように続ける。

 

「答えられないことを、無理に答えようとしない方がいい。嘘を重ねると崩れる。でも、何も言わなければ信用されない」

 

「……じゃあ、どうする」

 

「事実だけを切り分けるの」

 

 ユイは淡々と言った。

 

「あなたが提示できるのは、場所と時刻。フリューゲルの大樹付近、二十二時半から二十三時前後。白鯨が現れる。そこまでは言える」

 

「その先は?」

 

「どうして知ったかは、曖昧にするしかない。けれど、曖昧でも食いつく相手を選べばいい」

 

「食いつく相手……」

 

 スバルの脳裏に、白髪の老剣士が浮かぶ。

 

 ヴィルヘルム。

 

 静かな立ち姿。

 

 剣に生きる目。

 

 白鯨という言葉を聞いた時、どう反応するか。

 

 まだ知らない。

 

 だが、何かがある気がした。

 

「ヴィルヘルムさん……」

 

 スバルは呟いた。

 

「クルシュさん本人だけじゃなく、ヴィルヘルムさんにも届かせる」

 

「その人が白鯨に因縁を持っているなら、話は変わるわ」

 

 ユイは、あくまで仮定として言った。

 

 知っているようには言わない。

 

 ただ、スバルの呟きから推測したように。

 

「それと、商人」

 

「アナスタシアか」

 

「ええ」

 

 ユイは頷く。

 

「商人は危険だけでは動かない。でも、白鯨討伐に利益があるなら、動く可能性はある。名声、街道の安全、商機。そういう話にできる」

 

「アナスタシアも、使う」

 

 スバルは言った。

 

「あいつは商人だ。白鯨討伐に価値があると見れば、乗る可能性がある。兵も、竜車も、情報網もある」

 

「ただし、先に全部渡さないこと」

 

 ユイは言った。

 

「交渉は、相手に欲しがらせてから。あなたはすぐ全部喋りそうだから」

 

「……否定できねえ」

 

「だから、私も行く」

 

 スバルはユイを見た。

 

 ここで、ようやく自分がユイを置いていきかけていたことに気づいた。

 

 彼女はいつも隣にいた。

 

 王都にも。

 

 白鯨の霧の中にも。

 

 屋敷にも。

 

 死体のように倒れた時も。

 

 それなのに、スバルの頭はレムとエミリアでいっぱいになって、ユイをただそこにいる存在として扱いかけていた。

 

「……ユイさん」

 

「何?」

 

「来てくれ」

 

 スバルは改めて言った。

 

「クルシュさんのところにも、アナスタシアのところにも。俺、絶対また焦る。言わなくていいことを言うかもしれない。だから、止めてくれ」

 

「ええ」

 

「あと、俺が見落としたところを拾ってくれ。レムは白鯨とか魔女教のことに詳しい。ユイさんは、交渉とか、俺の言葉の危うさを見てくれ」

 

「わかったわ」

 

 ユイはすぐに頷いた。

 

「ただし、私はあなたの代わりに喋りすぎない。交渉の中心は、スバルくん。あなたが持っている情報だから」

 

「ああ」

 

「でも、暴走したら止める」

 

「頼む」

 

「必要なら、足も踏む」

 

「それはもういいだろ」

 

「必要なら」

 

 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。

 

 レムも、小さく息を吐く。

 

 それは安堵に近かった。

 

「レム」

 

「はい」

 

「お前の力も必要だ。白鯨のこと、魔女教のこと、俺が足りないところを補ってくれ」

 

「はい。レムにできることなら」

 

「ユイさん」

 

「ええ」

 

「交渉の組み立てを見てくれ。俺、また感情で喋るかもしれない」

 

「止めるわ」

 

 ユイは即答した。

 

 スバルは苦く笑った。

 

 けれど、少しだけ呼吸がしやすくなった。

 

 一人ではない。

 

 レムがいる。

 

 ユイがいる。

 

 レムは自分を甘やかしすぎない。

 

 ユイは横から冷静に釘を刺す。

 

 それが今のスバルにはありがたかった。

 

「クルシュさん。アナスタシア。ヴィルヘルムさん。白鯨。魔女教」

 

 スバルは一つずつ並べる。

 

 散らばっていた絶望が、少しずつ線になっていく。

 

「白鯨を討つ。その勢いで、魔女教も叩く」

 

 レムがスバルを見る。

 

「スバル君」

 

「無茶なのはわかってる」

 

 スバルは言った。

 

「でも、これしかない。これなら、あいつらを動かせるかもしれない」

 

 ユイは静かに言った。

 

「無茶だけど、さっき逃げると言っていた時よりは、ずっと形になっているわ」

 

「……ああ」

 

 スバルは頷く。

 

 ユイは、記憶がないふりを崩さない。

 

 ここで余計なことは言わない。

 

 スバルも、それ以上は聞かなかった。

 

「もう一回、クルシュさんのところへ行く」

 

 スバルは言った。

 

「今度は、助けてくれって泣きつくんじゃない。取引しに行く」

 

 レムは頷いた。

 

「はい。スバル君」

 

 ユイも小さく笑う。

 

「なら、今度こそ言葉を選びなさい。相手を動かす言葉を」

 

「わかってる」

 

 スバルは歩き出した。

 

 王都の空は、相変わらず青かった。

 

 何も知らない世界。

 

 何度でもスバルを殺す世界。

 

 それでも。

 

 今度は、ただ泣き叫ぶだけでは終わらせない。

 

 場所は、フリューゲルの大樹。

 

 時刻は、夜の二十二時半から二十三時前後。

 

 白鯨が現れる。

 

 その情報を、武器にする。

 

 レムを連れていく。

 

 ユイも連れていく。

 

 一人で喚くのではなく、三人で交渉の場に立つ。

 

 ゼロから。

 

 ここから、もう一度始める。

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