世界は、何食わぬ顔で続いていた。
リンガを売るカドモンの声。
通りを歩く人々の足音。
値切り交渉をする商人。
遠くで笑う子ども。
すべてが、さっきまでの地獄を知らない。
霧もない。
白鯨もいない。
凍りついた森もない。
腕の中で冷たくなったエミリアもいない。
血と泥に汚れて倒れたユイもいない。
消えて、誰からも忘れられたレムもいない。
いや。
いた。
目の前に、レムがいた。
青い髪。
青い瞳。
白と黒のメイド服。
何も知らない顔で、スバルを見ている。
「スバル君?」
声がした。
今度は、すぐ近くから。
スバルの視線がゆっくり動く。
ユイもいた。
白い髪。
整った顔。
傷ひとつない姿。
血も泥もない。
胸を押さえて倒れてもいない。
彼女はいつものように、静かな目でこちらを見ていた。
「スバルくん」
その声を聞いた瞬間、スバルの膝が崩れた。
地面が近づく。
だが、倒れる前にレムが支えた。
「スバル君!」
ユイも反対側から肩を掴む。
「大丈夫?」
大丈夫。
その言葉の意味が、もうわからなかった。
スバルはレムの腕を掴んだ。
強く。
痛いほどに。
「レム……」
「はい。レムです」
「レム……レム、レム……」
「スバル君、落ち着いてください」
レムの声は優しい。
優しいから、余計に胸が潰れる。
お前は知らない。
自分が消えたことを。
誰にも覚えられていなかったことを。
ラムに妹はいないと言われたことを。
部屋が空き部屋になっていたことを。
ユイまでお前を忘れていたことを。
知らない。
何も。
「ユイさん……」
「いるわ」
ユイは短く答えた。
「私はここにいる」
スバルは二人を見た。
生きている。
いる。
でも、これから失うかもしれない。
また失うかもしれない。
クルシュは動かなかった。
プリシラには蹴り捨てられた。
アナスタシアには利用された。
オットーには突き落とされた。
白鯨は道を塞いだ。
レムは消えた。
ユイは傷だらけで、何も覚えていなかった。
エミリアは死んだ。
パックが世界を凍らせた。
何をしても、駄目だった。
誰かを助けようとすると、誰かが死ぬ。
言おうとすれば、別の誰かが死ぬ。
自分だけが覚えている。
自分だけが、罰を覚えている。
「……もう、無理だ」
スバルは呟いた。
声は、ほとんど息だった。
レムが眉を寄せる。
「スバル君?」
「無理なんだよ」
スバルはレムの腕を掴んだまま、立ち上がる。
ふらつきながら。
それでも、歩き出した。
「来い」
「え?」
「来てくれ、レム。ユイさんも」
レムは困惑しながらも、スバルに従った。
ユイも無言でついてくる。
人通りの多い場所では駄目だ。
誰にも聞かれたくない。
誰にも見られたくない。
スバルは王都の路地へ入り、さらに奥へ進んだ。
古い建物の影。
人の気配が薄い場所。
壁にもたれて、ようやく足を止める。
レムがスバルの正面に立つ。
ユイは少し離れ、路地の入口側を見る。
誰かが近づいてこないか、自然に警戒していた。
「スバル君、何があったんですか?」
「逃げよう」
レムの表情が止まった。
ユイも、わずかに目を細める。
「逃げる?」
「ああ」
スバルは頷いた。
「全部捨てて逃げる。王都も、ロズワール邸も、王選も、魔女教も、白鯨も、全部だ」
「スバル君」
「カララギでもどこでもいい。遠くへ行こう。レム、お前となら、俺は……」
言葉が詰まる。
本当にそう思っているのか。
わからない。
でも、もうそれしかない気がした。
スバルは、ユイの方も見た。
「ユイさんも、一緒に来てくれ。あんたがいれば、どこかで暮らす方法だって考えられる。俺一人じゃ何もできないけど、レムとユイさんがいれば……」
ユイはすぐには答えなかった。
ただ、スバルの言葉が逃避だとわかっている顔をしていた。
それでも、否定しない。
今のスバルを力で止めるより、まず吐き出させるべきだと判断していた。
「俺はもう、何もできない」
スバルは笑った。
乾いた笑いだった。
「助けを求めても駄目だ。誰にも信じてもらえない。俺には何もない。力もない。金もない。信用もない。情報はあるのに、言えない。言ったら、もっと酷いことになる」
胸を押さえる。
だが、今回は何も起きない。
まだ言っていない。
まだ、核心には触れていない。
「俺が頑張るほど、みんな死ぬんだよ」
レムが息を呑む。
「そんなことは――」
「あるんだよ!」
スバルは叫んだ。
路地に声が反響する。
「俺が動いたから、レムが消えた! 俺が言おうとしたから、エミリアが死んだ! ユイさんだって、俺のせいで……!」
ユイはすぐには答えなかった。
その全部を理解しているわけではない。
いや、理解しているように見せてはいけない。
少なくとも、今のスバルの前では。
だから彼女は、あくまで今聞いた言葉だけを拾った。
「スバルくん」
「なんだよ」
「あなたは、私たちが死ぬ未来を恐れているのね」
「……」
「詳しく言えない。けれど、そうなると確信している」
スバルは唇を噛む。
言えない。
どうしてそう確信しているのか。
何を見たのか。
何度死んだのか。
何も。
「そうだよ」
スバルは吐き捨てるように言った。
「だから逃げる」
スバルはレムを見る。
「なあ、レム。俺と逃げてくれ」
「……」
「何もかも捨てよう。エミリアのことも、屋敷のことも、全部忘れる。遠くの町で暮らすんだ。俺は働く。何でもする。レムが嫌じゃなければ、一緒に暮らして……普通に、静かに……」
言葉を重ねるほど、虚しくなった。
それでも止まれない。
「朝起きて、飯食って、仕事して、夜帰って、くだらない話して寝るんだ。誰も知らない場所で、誰も死なない場所で……」
スバルの声が震える。
「もう、誰も助けない。助けようとしない。俺には無理なんだよ。俺が頑張ると、全部壊れるんだ」
レムは黙って聞いていた。
青い瞳が、スバルだけを見ている。
スバルはその沈黙が怖かった。
だから、さらに言葉を重ねた。
「レムなら、俺を見捨てないでくれるだろ。お前は優しいから。俺みたいな奴でも、まだ……まだ、隣にいてくれるだろ」
それは懇願だった。
救いを求める声だった。
けれど、同時に、レムにすべてを押しつける声でもあった。
レムは、ゆっくり口を開く。
「スバル君」
「頼む」
「できません」
短い言葉だった。
スバルの顔が凍る。
「……なんで」
「レムは、スバル君と逃げません」
「なんでだよ!」
スバルはレムの肩を掴んだ。
「お前、俺のこと嫌いじゃないんだろ!? 俺のことを信じてるんだろ!? だったら、なんで――」
「嫌いではありません」
レムの声は震えていなかった。
「むしろ、好きです」
スバルの指が止まる。
レムは目を逸らさない。
けれど、その声は熱に浮かされたものではなかった。
もっと静かで、慎重で、少しだけ距離があった。
「でも、好きだから何でも頷くわけではありません」
「……」
「今のスバル君についていくことは、スバル君を助けることにならないと思います」
「助けることに、ならない……?」
「はい」
レムは頷いた。
「今のスバル君は、逃げたいんじゃありません。自分を罰したいんです。自分には何もできないと決めつけて、全部を捨てて、その後でずっと苦しみ続けようとしているんです」
「違う」
「違いません」
「俺の何がわかるんだよ!」
スバルは叫んだ。
言ってしまった瞬間、空気が痛くなる。
レムの目が揺れた。
それでも、彼女は引かなかった。
「わかりません」
レムは答えた。
「スバル君が何を見たのか、レムにはわかりません。スバル君がどうしてそんなに苦しんでいるのか、全部はわかりません」
「だったら――」
「でも」
レムの声が、強くなった。
「レムが知っているスバル君は、そうやって全部を投げ出したあとに、楽になれる人ではありません」
スバルは言葉を失った。
レムは一歩近づく。
「スバル君は、自分を何もできない人だと言います。でも、レムは見ています。怖くても前に出るところ。弱くても、誰かのために声を出せるところ。自分が傷ついても、誰かを置いていけないところ」
「そんな立派なもんじゃねえよ……」
「立派かどうかは、レムが決めます」
「違う!」
スバルは頭を抱える。
「俺はクズだ! 怠け者で、口だけで、調子に乗って、何もできねえくせに全部できる気になって! 誰かに期待されたいだけで、誰かにすごいって言われたいだけで! それで、失敗したら人のせいにして、逃げて、泣いて、喚いて!」
言葉が止まらない。
ずっと腹の底に溜まっていたものが、全部噴き出す。
「俺は、何も積み重ねてこなかった。元の世界でもそうだ。頑張るふりだけして、すぐ逃げて、負けるのが怖くて、期待されるのが怖くて、家にこもって、親にも迷惑かけて!」
レムは黙って聞く。
ユイも、口を挟まない。
「この世界に来たら変われると思った。特別になれると思った。主人公になれると思った。でも違った! 俺は俺のままだった! 何も変わってなかった!」
スバルの声が掠れていく。
息が詰まる。
情けなくて、惨めで、恥ずかしくて、それでも止まらない。
「俺は誰も救えない。エミリアも、レムも、ラムも、ユイさんも、村の連中も、誰も! 俺が関わると死ぬんだよ!」
「スバル君」
「もういいだろ……」
「よくありません」
「頼むから、もう俺に期待しないでくれよ……」
スバルの声が折れる。
「俺を、そんな目で見るなよ。俺は、お前が思ってるような奴じゃない。俺は、誰かの英雄なんかじゃない」
レムの肩が震えた。
その言葉だけは、聞き流せなかった。
「英雄かどうかは、今はわかりません」
レムは言った。
言葉を選ぶように。
「でも、レムにとって、スバル君は大事な人です」
スバルは顔を上げる。
レムは泣いていた。
それでも、まっすぐ立っていた。
「レムが止まっていた時間を、動かしてくれたのはスバル君です。レムが自分を許せなかった時、レムを見て、レムの名前を呼んで、レムに前を向かせてくれたのは、スバル君です」
「それは……」
「あの時のスバル君は、強かったから助けてくれたんじゃありません。怖くても、痛くても、諦めなかったから、レムを助けてくれたんです」
レムは涙を拭わない。
そのまま続ける。
「スバル君は、自分のことを嫌いだと言います。でも、レムはスバル君の良いところを知っています。人を助けようとして失敗しても、また手を伸ばそうとするところ。弱いくせに、弱い人の前では強がるところ。泣きながらでも、誰かを守ろうとするところ」
スバルの呼吸が乱れる。
「やめろ……」
「やめません」
「やめてくれ……」
「やめません」
レムは、少しだけ近づいた。
「スバル君が自分を嫌いなら、レムが覚えています。スバル君が、自分で捨てようとしているスバル君の良いところを」
スバルは震えた。
その言葉は、刃よりも深く刺さった。
責められるより痛い。
罵られるより苦しい。
自分が否定した全部を、レムが拾い上げてくる。
捨てたはずの自分を、勝手に大事にしてくる。
「レムは、スバル君が好きです」
レムは言った。
はっきりと。
けれど、依存しきった熱ではなく、自分の足で立ったまま。
「だから、逃げ道にはなりません」
スバルは何も言えなかった。
口を開けば、嗚咽しか出ない。
「逃げるなら、一人で逃げてください」
レムの声は優しいままだった。
けれど、言葉は厳しかった。
「レムは、スバル君が胸を張れる未来へ行きたいです。スバル君が、また笑って、エミリア様に会いに行ける未来へ」
「エミリア……」
その名前が出た瞬間、スバルの胸が痛んだ。
白い顔。
冷たい体。
自分の腕の中で死んだ少女。
会いたい。
笑ってほしい。
でも、怖い。
自分がまた壊すかもしれない。
「俺は、エミリアを……」
声が震える。
「エミリアを、助けたい」
レムは頷いた。
「はい」
「でも、怖い」
「はい」
「また失敗するかもしれない」
「はい」
「また、お前が消えるかもしれない」
レムは少しだけ目を伏せた。
その意味はわからない。
けれど、スバルがどれほど恐れているかは伝わった。
「それでも」
レムは言った。
「スバル君は、立ち上がりたいんですよね」
「……」
「本当に諦めているなら、こんなに苦しんでいません」
スバルは息を呑んだ。
「なんで、そんなこと言えるんだよ」
「レムが、そう思ったからです」
その答えは、完璧な救済ではなかった。
絶対の信仰でもなかった。
けれど、今のスバルには、その少し抑えた信頼が逆に痛かった。
信じている。
でも、盲目的ではない。
好きだ。
でも、全部を許すわけではない。
レムはスバルを支えている。
同時に、スバルに立てと言っている。
「レム」
「はい」
「俺は……」
スバルは喉を震わせる。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
諦めたい。
でも、諦めたくない。
エミリアに会いたい。
レムを失いたくない。
ラムも、村も、ユイも、全部守りたい。
それは欲張りだ。
クルシュにも切られた。
プリシラにも笑われた。
アナスタシアにも見透かされた。
でも。
欲しいものを欲しいと言うことすらやめたら、本当に何も残らない。
「俺は、エミリアが好きだ」
レムの目が細くなる。
涙が頬を伝う。
けれど、その顔には悲しみだけではなかった。
「はい」
「だから、助けたい。あいつに、もう一度笑ってほしい」
「はい」
「でも、俺一人じゃ無理だ」
スバルはレムを見る。
初めて、逃げ道としてではなく、隣に立つ相手として。
「レム。力を貸してくれ」
レムは小さく息を吸った。
そして、笑った。
「はい。スバル君」
その返事は、迷いなく落ちた。
スバルは顔を歪める。
泣きそうなのか、笑いそうなのか、自分でもわからない。
「俺、ひでえこと言ったな」
「はい」
「逃げようとか言った」
「はい」
「お前の気持ちに甘えようとした」
「はい」
「最低だな」
「最低ではありません」
レムは首を振る。
「弱っていただけです」
「それ、庇いすぎだろ」
「少しは庇います。好きなので」
その言葉に、スバルは小さく笑った。
ほんの少しだけ。
本当に、少しだけ。
けれど、それは久しぶりに出た笑いだった。
ユイは、その様子を少し離れた場所で見ていた。
スバルが折れて、レムが拾い上げる。
ここに自分が入り込みすぎれば、歪む。
だから、黙っていた。
ただ、スバルの顔が少しだけ戻ったのを見て、ようやく口を開く。
「スバルくん」
スバルが振り返る。
ユイは路地の奥から、静かに言った。
「逃げないって決めたなら、次は具体的に考えましょう」
「……ああ」
「あなたが何を恐れているのか、全部は聞かない。聞いても答えられないのでしょうし」
スバルは息を詰める。
ユイはすぐに続けた。
「でも、これだけはわかる。あなたは、何かを知っている。何かが起きると知っていて、それを止めようとしている」
「……」
「その情報を、どう使うか。そこから考えるべきね」
前の周のことを知っているようには言わない。
交渉に失敗したなどとも言わない。
ただ、今この場でスバルが吐き出した言葉だけを材料にして、ユイは話していた。
スバルは顔を拭った。
涙も汗も、ぐちゃぐちゃだった。
けれど、目だけは少し戻っていた。
「俺には、取引材料が必要だ」
「ええ」
ユイは頷いた。
「誰かに助けを求めるなら、相手が動く理由が必要になる。善意だけで動いてくれる相手もいるでしょうけど、兵や商会を動かすなら、それだけでは足りない」
「動く理由……」
スバルは呟いた。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
理由。
取引材料。
相手が危険を冒してでも欲しがるもの。
クルシュが。
アナスタシアが。
ヴィルヘルムが。
命を賭けても手を伸ばすもの。
スバルの脳裏に、白い霧が蘇った。
フリューゲルの大樹。
携帯電話の青白い光。
地図の上をなぞった指。
オットーの竜車。
夜の街道。
そして、霧の中を泳ぐ巨大な白い影。
スバルの手が、ポケットへ伸びる。
携帯電話。
異世界ではほとんど役に立たない、元の世界の遺物。
だが、前の周で、あの光だけは地図を照らした。
そして、時刻を示していた。
スバルは思い出す。
王都を出たのは日が落ちる少し前。
オットーの竜車隊が夜の街道へ入った。
地図を広げ、携帯の光でフリューゲルの大樹を確認した。
その時、画面には二十二時を少し回った数字が出ていた。
そこからさらに進み、大樹の影が夜空に見えた。
地竜が怯え始めた。
霧が出た。
白鯨の鳴き声が響いた。
携帯を見た時刻から、そう時間は経っていない。
おそらく、二十二時半から二十三時の間。
場所は、フリューゲルの大樹の近く。
夜。
霧。
白鯨。
「……白鯨」
スバルの唇から、その名が落ちた。
レムが目を見開く。
「スバル君?」
「白鯨だ」
スバルは顔を上げた。
自分でも、声が震えているのがわかった。
恐怖ではない。
いや、恐怖はある。
あの白い霧を思い出すだけで、喉が締まる。
レムが消えた。
誰も覚えていなかった。
自分以外、誰も。
けれど、その恐怖の中に、一本だけ細い道が見えた。
「俺は、白鯨が出る場所を知ってる」
レムが息を呑んだ。
ユイも目を細める。
「白鯨が出る場所?」
「ああ」
スバルは胸を押さえた。
心臓は掴まれない。
まだ、大丈夫だ。
死に戻りのことは言えない。
どうして知っているのかも、言えない。
だが、白鯨がいつ、どこに現れるか。
その結果だけなら、言える。
「フリューゲルの大樹の近く。夜だ。俺たちが王都を出て、地竜で走り続けたあと……携帯で地図を見た時が、たしか二十二時を少し回ってた。そのあと大樹が見えて、霧が出た。白鯨が現れたのは、たぶん二十二時半から二十三時の間」
言葉にするたび、記憶が鋭くなる。
竜車の揺れ。
オットーの悲鳴。
レムの背中。
白い霧。
消えた名前。
「場所はリーファウス街道。フリューゲルの大樹付近。時間は夜、二十二時半から二十三時前後」
スバルは自分に確認するように言った。
「それを、クルシュさんに持っていく」
レムの表情が変わった。
白鯨。
三大魔獣。
それがどれほど大きな意味を持つのか、レムは知っている。
「白鯨の出現情報なら……」
「ああ」
スバルは頷く。
「ただの泣き言じゃない。相手が動く理由になる」
ユイは少しだけ考えるように沈黙した。
彼女は、少なくとも表向き、白鯨の出現を知らない。
けれど、スバルが口にした情報の形はわかる。
場所。
時刻。
対象。
危険度。
そして、それを求める相手。
「それを使うなら、注意点があるわ」
ユイは言った。
「何だよ」
「根拠を聞かれる」
スバルは、息を止めた。
ユイはスバルの反応を見て、踏み込みすぎないように続ける。
「答えられないことを、無理に答えようとしない方がいい。嘘を重ねると崩れる。でも、何も言わなければ信用されない」
「……じゃあ、どうする」
「事実だけを切り分けるの」
ユイは淡々と言った。
「あなたが提示できるのは、場所と時刻。フリューゲルの大樹付近、二十二時半から二十三時前後。白鯨が現れる。そこまでは言える」
「その先は?」
「どうして知ったかは、曖昧にするしかない。けれど、曖昧でも食いつく相手を選べばいい」
「食いつく相手……」
スバルの脳裏に、白髪の老剣士が浮かぶ。
ヴィルヘルム。
静かな立ち姿。
剣に生きる目。
白鯨という言葉を聞いた時、どう反応するか。
まだ知らない。
だが、何かがある気がした。
「ヴィルヘルムさん……」
スバルは呟いた。
「クルシュさん本人だけじゃなく、ヴィルヘルムさんにも届かせる」
「その人が白鯨に因縁を持っているなら、話は変わるわ」
ユイは、あくまで仮定として言った。
知っているようには言わない。
ただ、スバルの呟きから推測したように。
「それと、商人」
「アナスタシアか」
「ええ」
ユイは頷く。
「商人は危険だけでは動かない。でも、白鯨討伐に利益があるなら、動く可能性はある。名声、街道の安全、商機。そういう話にできる」
「アナスタシアも、使う」
スバルは言った。
「あいつは商人だ。白鯨討伐に価値があると見れば、乗る可能性がある。兵も、竜車も、情報網もある」
「ただし、先に全部渡さないこと」
ユイは言った。
「交渉は、相手に欲しがらせてから。あなたはすぐ全部喋りそうだから」
「……否定できねえ」
「だから、私も行く」
スバルはユイを見た。
ここで、ようやく自分がユイを置いていきかけていたことに気づいた。
彼女はいつも隣にいた。
王都にも。
白鯨の霧の中にも。
屋敷にも。
死体のように倒れた時も。
それなのに、スバルの頭はレムとエミリアでいっぱいになって、ユイをただそこにいる存在として扱いかけていた。
「……ユイさん」
「何?」
「来てくれ」
スバルは改めて言った。
「クルシュさんのところにも、アナスタシアのところにも。俺、絶対また焦る。言わなくていいことを言うかもしれない。だから、止めてくれ」
「ええ」
「あと、俺が見落としたところを拾ってくれ。レムは白鯨とか魔女教のことに詳しい。ユイさんは、交渉とか、俺の言葉の危うさを見てくれ」
「わかったわ」
ユイはすぐに頷いた。
「ただし、私はあなたの代わりに喋りすぎない。交渉の中心は、スバルくん。あなたが持っている情報だから」
「ああ」
「でも、暴走したら止める」
「頼む」
「必要なら、足も踏む」
「それはもういいだろ」
「必要なら」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
レムも、小さく息を吐く。
それは安堵に近かった。
「レム」
「はい」
「お前の力も必要だ。白鯨のこと、魔女教のこと、俺が足りないところを補ってくれ」
「はい。レムにできることなら」
「ユイさん」
「ええ」
「交渉の組み立てを見てくれ。俺、また感情で喋るかもしれない」
「止めるわ」
ユイは即答した。
スバルは苦く笑った。
けれど、少しだけ呼吸がしやすくなった。
一人ではない。
レムがいる。
ユイがいる。
レムは自分を甘やかしすぎない。
ユイは横から冷静に釘を刺す。
それが今のスバルにはありがたかった。
「クルシュさん。アナスタシア。ヴィルヘルムさん。白鯨。魔女教」
スバルは一つずつ並べる。
散らばっていた絶望が、少しずつ線になっていく。
「白鯨を討つ。その勢いで、魔女教も叩く」
レムがスバルを見る。
「スバル君」
「無茶なのはわかってる」
スバルは言った。
「でも、これしかない。これなら、あいつらを動かせるかもしれない」
ユイは静かに言った。
「無茶だけど、さっき逃げると言っていた時よりは、ずっと形になっているわ」
「……ああ」
スバルは頷く。
ユイは、記憶がないふりを崩さない。
ここで余計なことは言わない。
スバルも、それ以上は聞かなかった。
「もう一回、クルシュさんのところへ行く」
スバルは言った。
「今度は、助けてくれって泣きつくんじゃない。取引しに行く」
レムは頷いた。
「はい。スバル君」
ユイも小さく笑う。
「なら、今度こそ言葉を選びなさい。相手を動かす言葉を」
「わかってる」
スバルは歩き出した。
王都の空は、相変わらず青かった。
何も知らない世界。
何度でもスバルを殺す世界。
それでも。
今度は、ただ泣き叫ぶだけでは終わらせない。
場所は、フリューゲルの大樹。
時刻は、夜の二十二時半から二十三時前後。
白鯨が現れる。
その情報を、武器にする。
レムを連れていく。
ユイも連れていく。
一人で喚くのではなく、三人で交渉の場に立つ。
ゼロから。
ここから、もう一度始める。