Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

26 / 47
第二十六話 白霧の同盟

 クルシュ邸へ向かう前に、スバルは足を止めた。

 

 王都の通りは相変わらず人が多い。

 

 誰も、これから何が起きるか知らない。

 

 白鯨が出ることも。

 

 魔女教がロズワール邸を襲うことも。

 

 レムが消えることも。

 

 エミリアが死ぬことも。

 

 誰も知らない。

 

 スバルだけが知っている。

 

 だから、今度は泣き叫ぶのではなく、その知識を使う。

 

「レム」

 

「はい」

 

「先に確認しておきたい。ロズワールから、クルシュ陣営との交渉について何か任されてたんだよな?」

 

 レムは少し驚いたように目を瞬いた。

 

 だが、すぐに頷く。

 

「はい。ロズワール様からは、エミリア様の王選における協力関係について、クルシュ様と交渉を進めるよう命じられていました」

 

「条件は?」

 

「ロズワール領内の魔鉱石に関する権益。その一部を交渉材料として提示することは許されています」

 

 スバルは息を吐いた。

 

 勝手にすべてを差し出すわけではない。

 

 最低限、レムが持っていた交渉の土台がある。

 

 そこに、自分が白鯨の情報を乗せる。

 

「なら、それを使う」

 

「はい」

 

「ただ、俺が話す。レムは、必要なところで補足してくれ」

 

「わかりました」

 

 スバルは次に、ユイを見る。

 

「ユイさん」

 

「ええ」

 

「俺が余計なことを言いそうになったら止めてくれ。特に、理由を聞かれた時だ」

 

「わかっているわ」

 

「俺が知ってる理由は言えない。でも、場所と時間は言える。そこを崩さずにいきたい」

 

「なら、最初から話を広げすぎないことね」

 

 ユイは淡々と言う。

 

「白鯨の出現情報。ロズワール領の魔鉱石採掘権の一部。討伐の栄誉。まずはその三つを軸にするべきよ」

 

「魔女教は?」

 

「最初から叫ばないこと」

 

 ユイは短く言った。

 

「けれど、条件として隠す必要もない。白鯨討伐への協力を得る。その同盟の成立後、返礼として魔女教討伐への戦力提供を求める。順番を間違えないことね」

 

「順番を間違えるな、か」

 

「ええ。あなたは切羽詰まると、結論から叫ぶ癖がある」

 

「……否定できねえ」

 

 スバルは苦く笑った。

 

 けれど、その笑いは完全に壊れたものではなかった。

 

 レムがそれを見て、少しだけ目元を緩める。

 

「行こう」

 

 スバルは言った。

 

「今度は、交渉だ」

 

 カルステン公爵家の屋敷は、前と同じように整っていた。

 

 広い門。

 

 磨かれた石畳。

 

 規律正しい使用人たち。

 

 すべてが、今のスバルの内側とはまるで違う。

 

 だが、今日は怯えているだけではない。

 

 スバルは門番に名乗り、クルシュへの取り次ぎを頼んだ。

 

 しばらくして、ヴィルヘルムが現れる。

 

 白髪の老剣士は、スバルの顔を見るなり、わずかに目を細めた。

 

「ナツキ殿」

 

「ヴィルヘルムさん。クルシュさんに会わせてください」

 

「ご用件は?」

 

「白鯨についてです」

 

 その一言で、空気が変わった。

 

 ヴィルヘルムの表情は大きく動かなかった。

 

 だが、目の奥だけが鋭くなる。

 

 剣を抜かれたわけでもないのに、喉元に刃を当てられたような感覚があった。

 

「……白鯨、と」

 

「はい」

 

「その名を、軽々しく出すものではありません」

 

「軽く扱うつもりはありません」

 

 スバルはまっすぐ返した。

 

「俺は、白鯨が現れる場所と時間を知っています」

 

 ヴィルヘルムは沈黙した。

 

 短い沈黙。

 

 だが、重い。

 

 レムも息を潜める。

 

 ユイは黙って、スバルの横顔を見ていた。

 

 やがて、ヴィルヘルムは静かに頭を下げる。

 

「お取り次ぎいたしましょう」

 

 通された部屋には、クルシュ・カルステンがいた。

 

 凛とした立ち姿。

 

 緑の髪。

 

 曇りのない瞳。

 

 フェリスもそばに控え、ヴィルヘルムは入口近くへ立つ。

 

 スバルは、深く息を吸った。

 

 前のように、床に膝をついて泣きつくな。

 

 怒鳴るな。

 

 順番を守れ。

 

 白鯨。

 

 採掘権。

 

 同盟。

 

 魔女教への協力。

 

「クルシュさん」

 

「ナツキ・スバル。用件は聞いた」

 

 クルシュはまっすぐスバルを見る。

 

「白鯨の名を出したそうだな」

 

「はい」

 

「続けろ」

 

 スバルは頷いた。

 

「エミリア陣営とクルシュ陣営の同盟を結びたい。その条件として、こちらから提示できるものがあります」

 

 クルシュは黙って聞く。

 

「一つ。ロズワール領内の魔鉱石採掘権の一部」

 

 クルシュの視線がレムへ向く。

 

 レムは一歩前へ出た。

 

「その件については、ロズワール様より、レムが交渉の任を受けておりました。スバル君は、今回その交渉を引き継ぐ形になります」

 

「つまり、ナツキ・スバルの独断ではないと?」

 

「はい」

 

 レムはきっぱり答えた。

 

 クルシュはスバルへ視線を戻す。

 

「続けろ」

 

「二つ目。白鯨の出現場所と時間」

 

 部屋の空気が張り詰めた。

 

 フェリスの目が鋭くなる。

 

 ヴィルヘルムは動かない。

 

 だが、彼の周囲だけ空気が重くなったようだった。

 

「場所はリーファウス街道、フリューゲルの大樹付近。時間は明日の夜、二十二時半から二十三時前後」

 

 スバルはポケットから携帯電話を取り出した。

 

 黒い板のようなそれを、クルシュの前へ掲げる。

 

「このミーティアで時刻を確認できます。指定した時刻に音を鳴らすこともできます」

 

 フェリスが目を丸くする。

 

「なにそれ。見たことないミーティアにゃ」

 

「俺の故郷の道具です」

 

「故郷?」

 

「遠いところです」

 

 スバルはそれ以上を言わない。

 

 ユイがわずかに視線を向けた。

 

 それでいい、と言うように。

 

 クルシュは携帯電話を見つめる。

 

「そのミーティアが、白鯨の出現を教えると?」

 

 スバルは言葉を選んだ。

 

 嘘を言えば、クルシュに見抜かれる可能性がある。

 

 風を見る加護。

 

 彼女の前で、浅い嘘は危険だ。

 

「白鯨そのものを見つける道具じゃありません」

 

 スバルは言った。

 

「でも、白鯨が現れる時刻を確認することはできる。俺は、その時刻と場所を知っています」

 

 クルシュの目が細くなる。

 

「なぜ知っている」

 

 来た。

 

 スバルの喉が詰まる。

 

 言えない。

 

 死に戻りは言えない。

 

 前の周で見たことも言えない。

 

 心臓を掴まれる恐怖が、背筋を撫でた。

 

 それでも、スバルは逃げない。

 

「理由は言えません」

 

 部屋の空気が冷えた。

 

 フェリスが眉を寄せる。

 

「それじゃ信用できないにゃ」

 

「そうだと思います」

 

 スバルは頷いた。

 

「だから、俺自身を囮にします」

 

 レムが息を呑んだ。

 

「スバル君」

 

「白鯨は俺を追う」

 

 スバルは言った。

 

 魔女の残り香。

 

 それを白鯨が追っていた。

 

 魔獣が自分に引き寄せられる。

 

 その事実は、言える。

 

「俺がフリューゲルの大樹付近に立てば、白鯨はそこへ来る。俺がそれを引きつける」

 

 クルシュの視線が鋭くなる。

 

「卿は、自分を餌にすると言っているのか」

 

「はい」

 

「死ぬぞ」

 

「死なないために、交渉しに来ました」

 

 スバルは震える手を握りしめる。

 

「俺一人なら死ぬ。レム一人でも、ユイさん一人でも無理だ。だから戦力がいる。白鯨を討つ戦力が」

 

 そこで、スバルは一度息を整えた。

 

 焦るな。

 

 ここで魔女教を叫ぶな。

 

 だが、条件としては明示する。

 

「そして、白鯨討伐後、魔女教討伐への協力を求めます」

 

 クルシュの目がわずかに動いた。

 

 フェリスもスバルを見る。

 

「魔女教?」

 

「はい」

 

「白鯨だけではなく、魔女教討伐まで求めると?」

 

「はい。ただし、順番は白鯨が先です」

 

 スバルは言った。

 

「白鯨を討つ。その同盟の対価として、その後、ロズワール領へ迫る魔女教への対処に協力してほしい」

 

 ユイは何も言わない。

 

 レムも黙っている。

 

 ここは、スバルが言わなければならない場面だった。

 

「三つ目。白鯨討伐の栄誉」

 

 スバルは続ける。

 

「四百年、人を食い、街道を脅かし、国に傷を残し続けた災厄を討つ。その名誉は、王選においても大きいはずです」

 

 スバルは拳を握る。

 

「採掘権の一部。白鯨の場所と時間。白鯨討伐の栄誉。これらをもって、クルシュ陣営との同盟を求めます。そのうえで、白鯨討伐後に魔女教討伐への協力をお願いしたい」

 

 クルシュはすぐに答えなかった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 重い。

 

 フェリスも黙っている。

 

 レムは緊張した面持ちでスバルを見守る。

 

 ユイは黙ったまま、部屋全体の反応を観察していた。

 

 クルシュは、やがて口を開く。

 

「腑に落ちぬ点が多い」

 

「はい」

 

「卿が白鯨の出現場所と時間を知る理由。白鯨が卿を追うという根拠。さらに、白鯨討伐の後に魔女教討伐への協力を求めていること。どれも、普通ならば戯言と切り捨てるべき話だ」

 

「そうだと思います」

 

「だが」

 

 クルシュの声が、わずかに変わった。

 

「卿は嘘を言っているようには見えぬ」

 

 スバルは息を止めた。

 

 風。

 

 クルシュの加護が、スバルの言葉に偽りがないことを告げているのか。

 

 もちろん、全部を言っているわけではない。

 

 隠している。

 

 でも、言ったこと自体は嘘ではない。

 

 白鯨は出る。

 

 場所も時間も知っている。

 

 自分を囮にする覚悟もある。

 

 魔女教が来ることも、本当だ。

 

「ただし、信じるだけでは兵は動かせぬ」

 

 クルシュは厳しく言った。

 

「白鯨討伐は、容易なものではない。兵を出すならば、準備も、補給も、退路も必要だ。卿の言葉だけで全てを預けるには、まだ足りぬ」

 

「わかっています」

 

 スバルは頷いた。

 

「だから、もう二人呼んであります」

 

 クルシュの眉が動く。

 

「もう二人?」

 

 その時、扉の外で使用人の声がした。

 

 来客の報せ。

 

 クルシュが目を細める。

 

「通せ」

 

 扉が開く。

 

 入ってきたのは、柔らかな笑みを浮かべた少女だった。

 

 アナスタシア・ホーシン。

 

 その後ろには、王都商業組合のラッセル・フェロー。

 

 さらに、彼女の私兵に属する者たちが控えている。

 

「なにやら、おもしろそうな話しとるみたいやね」

 

 アナスタシアは、にこにこと笑った。

 

 クルシュの視線がスバルへ向く。

 

「ナツキ・スバル。これは卿の差し金か」

 

「はい」

 

 スバルは逃げずに答えた。

 

「アナスタシアさんにも、白鯨の情報が商売に関わる話だと伝えました。王都の商業組合にもです」

 

 アナスタシアは目を細める。

 

「正確には、詳しい情報はまだ聞かせてもろてへんけどな。白鯨、街道、商売の損。そこまで聞いたら、来んわけにはいかへんやろ?」

 

 ラッセルも穏やかに笑う。

 

「王都へ流れる品の多くは、街道の安全に左右されますからね。白鯨討伐が現実味を帯びるなら、商人として無関心ではいられません」

 

 クルシュは静かに言った。

 

「私とアナスタシア殿、そして商業組合を同じ卓に乗せるか」

 

「はい」

 

「情報の奪い合いをさせるつもりか?」

 

「違います」

 

 スバルは首を振った。

 

「奪い合いじゃなく、協力してもらうためです。クルシュさんには兵と討伐の指揮がある。アナスタシアさんには商人の情報網と私兵、物資の調達力がある。ラッセルさんには商業組合を動かす力がある」

 

 スバルは拳を握る。

 

「白鯨を討つには、全部必要です」

 

 アナスタシアがくすりと笑った。

 

「前に会った時より、だいぶ顔つき変わったなあ」

 

「変えなきゃ死ぬんで」

 

「物騒やねえ」

 

「物騒な相手なんです」

 

 スバルは携帯電話を机の上へ置いた。

 

「場所はリーファウス街道、フリューゲルの大樹付近。時刻は明日の夜、二十二時半から二十三時前後。白鯨が現れる」

 

 アナスタシアの笑みが薄くなる。

 

 ラッセルも目を細める。

 

「根拠は?」

 

 ラッセルが尋ねた。

 

「言えません」

 

「それでは商談になりませんね」

 

「だから、俺を担保にしてください」

 

 スバルは言った。

 

「俺が現場に出ます。白鯨が来なければ、俺は嘘つきとして全部を失う。エミリア陣営の信用も、ロズワール領の交渉も、俺の命も」

 

「命まで賭けると?」

 

「賭けます」

 

 部屋が静かになった。

 

 アナスタシアはスバルを見る。

 

 商人の目だった。

 

 損得を測る目。

 

 嘘と本気を見分ける目。

 

「白鯨が出るとして、うちらに何の得があるん?」

 

「街道の安全。商流の回復。白鯨討伐に関わったという名声」

 

 スバルは言葉を詰まらせずに言った。

 

 ユイが横で、ほんのわずかに頷いた。

 

 その反応を見て、スバルは続ける。

 

「それに、白鯨討伐の場に王選候補者二人が関われば、その影響は大きい。クルシュさんには武名が、アナスタシアさんには商機が入る」

 

「ずいぶん言うやん」

 

「言わなきゃ動かない相手だと思ったんで」

 

「正直やねえ」

 

 アナスタシアは笑った。

 

「嫌いやないよ、そういうの」

 

 ラッセルが口を挟む。

 

「魔鉱石の採掘権については、こちらとしても関心があります。白鯨討伐が成功した暁には、王都へ流れる魔鉱石の取り扱いについて、商業組合も関与したいところですね」

 

 クルシュがラッセルへ視線を向ける。

 

「商業組合も、この話に乗ると?」

 

「条件次第です」

 

 ラッセルは笑う。

 

「ただ、白鯨が本当に現れるのなら、見過ごす理由はありません」

 

 アナスタシアも頷いた。

 

「うちも乗る価値はあると思うよ。白鯨は商人の敵や。街道を荒らす災厄が消えるなら、それだけで大きい」

 

 クルシュは沈黙した。

 

 視線はスバルへ。

 

 そして、机の上の携帯電話へ。

 

「そのミーティアを、どう使う」

 

「時刻確認に使います。指定した時間になれば音が鳴るようにもできます」

 

 スバルは携帯電話を軽く示す。

 

 この世界では、誰もその仕組みを知らない。

 

 ただ、時間を測る道具としては使える。

 

「明日の夜、二十二時半。音が鳴るようにします。その前後で白鯨が現れる」

 

 クルシュは携帯電話を見つめた。

 

「そのミーティア、討伐後はどうする」

 

 ここで、ラッセルが柔らかく言った。

 

「もしよろしければ、その品をこちらで引き取らせていただきたい。大変珍しいものです。商業組合としても興味があります」

 

「これを?」

 

 スバルは携帯電話を見る。

 

 元の世界との、数少ない繋がり。

 

 もう電波もない。

 

 誰とも連絡できない。

 

 けれど、確かに自分が元の世界から来た証だった。

 

 それを手放す。

 

 一瞬だけ、胸が痛む。

 

 だが、迷っている暇はない。

 

 エミリアを救うため。

 

 レムを消さないため。

 

 ユイを死なせないため。

 

 村を守るため。

 

 その程度、差し出せ。

 

「白鯨討伐が成功したら、渡します」

 

 スバルは言った。

 

「このミーティアを、対価に加える」

 

 ラッセルの笑みが深くなる。

 

「よい取引です」

 

 クルシュは目を閉じた。

 

 短い沈黙。

 

 そして、目を開く。

 

「ナツキ・スバル」

 

「はい」

 

「卿の話には、なお不明点が多い。だが、卿の覚悟、そしてこの場を整えた手際は評価に値する」

 

 スバルの喉が鳴る。

 

「クルシュ・カルステンの名において、この同盟を受けよう」

 

 その言葉が落ちた瞬間、スバルは膝から崩れそうになった。

 

 だが、踏みとどまる。

 

 ここで泣くな。

 

 まだ終わっていない。

 

 始まっただけだ。

 

「ありがとうございます」

 

 スバルは深く頭を下げた。

 

「白鯨討伐後、魔女教討伐への協力をお願いします」

 

「白鯨を討てたならば、その功績に報いる形で兵を出す」

 

 クルシュは答えた。

 

「ただし、白鯨討伐が先だ」

 

「はい」

 

 アナスタシアが笑う。

 

「ほな、うちも私兵団を出すわ。鉄の牙を使う。物資と竜車の手配も、こっちでできる範囲は協力したる」

 

 レムが小さく息を吐いた。

 

「スバル君……」

 

「ああ」

 

 スバルはまだ震えていた。

 

 怖い。

 

 怖くないわけがない。

 

 でも、やっと道ができた。

 

 絶望の中に、一本だけ。

 

 その時、ヴィルヘルムが前へ出た。

 

「ナツキ殿」

 

「ヴィルヘルムさん」

 

「白鯨討伐に、私も加わらせていただきます」

 

 その声は静かだった。

 

 だが、静かすぎて、逆に重い。

 

「……ヴィルヘルムさんは、白鯨と何かあるんですか」

 

 スバルは尋ねた。

 

 知っているわけではない。

 

 だが、彼の反応から、ただの討伐対象ではないことはわかった。

 

 ヴィルヘルムは目を伏せた。

 

「白鯨は、我が妻を奪った仇です」

 

 レムが息を呑む。

 

 フェリスも、表情を沈める。

 

「妻の名はテレシア。かつて剣聖と呼ばれた女性でした」

 

 剣聖。

 

 その言葉の重さは、スバルにもわかる。

 

 ラインハルト。

 

 剣聖の名を持つ、あの赤髪の騎士。

 

 その先代。

 

 ヴィルヘルムの妻。

 

「私は、長く白鯨を追ってきました」

 

 ヴィルヘルムは続ける。

 

「剣を振る理由も、生き長らえた理由も、その多くは白鯨を討つためにありました」

 

 その声には、怒りは少なかった。

 

 むしろ、静かすぎるほどだった。

 

 長すぎる時間を経て、怒りが刃の形に研ぎ澄まされている。

 

 スバルは、何も言えなかった。

 

 誰かを失う痛み。

 

 自分だけが覚えている喪失。

 

 それとは違う。

 

 けれど、ヴィルヘルムもまた、白鯨に人生を奪われた人間だった。

 

「必ず、討ちましょう」

 

 スバルは言った。

 

「白鯨を」

 

 ヴィルヘルムは、静かに頭を下げた。

 

「はい」

 

 交渉が決まると、屋敷の中は一気に動き始めた。

 

 ただし、出撃は今夜ではない。

 

 白鯨が現れるのは、明日の夜。

 

 それまでに兵を集め、物資を整え、隊列を組み、白鯨を討つための準備を完了させなければならない。

 

 クルシュ陣営の兵が招集される。

 

 武具の確認。

 

 地竜の準備。

 

 魔法使いの配置。

 

 負傷者対応の段取り。

 

 フェリスは治癒術師として準備に追われ、ヴィルヘルムは討伐隊の剣士たちを確認していた。

 

 アナスタシアの私兵団も合流する。

 

 獣人を中心とした傭兵団。

 

 鉄の牙。

 

 ミミ、ヘータロー、ティビー。

 

 その明るさは、これから白鯨に挑む者たちとは思えないほどだった。

 

「ナツキ、顔かたい!」

 

 ミミがスバルを指差して笑う。

 

「悪かったな。こっちは人生かかってんだよ」

 

「みんなかかってるよ!」

 

 あっけらかんと言われ、スバルは言葉に詰まった。

 

 そうだ。

 

 自分だけではない。

 

 ここにいる全員が、白鯨と戦う。

 

 命をかける。

 

 自分の情報に乗って。

 

 自分が作った場に、命を預けてくれる。

 

 その重みが、今さらのように肩へ乗る。

 

 レムがそばへ来た。

 

「スバル君」

 

「……怖いな」

 

「はい」

 

「否定しないんだな」

 

「怖くない戦いではありませんから」

 

 レムは静かに言った。

 

 その距離感が、今はありがたかった。

 

 無理に励ますのではなく、怖いものは怖いと認める。

 

 それでも進む。

 

「でも、レムは信じています」

 

「俺を?」

 

「スバル君と、ここにいる皆さんを」

 

 少しだけ、原作より低い熱。

 

 けれど、ちゃんとある好意。

 

 その信頼は、スバルを甘やかしすぎない。

 

 スバルは小さく頷いた。

 

「ありがとな」

 

「はい」

 

 少し離れたところで、ユイはクルシュ陣営の兵站表を眺めていた。

 

 アナスタシアの商人たちが用意した物資。

 

 竜車の台数。

 

 油。

 

 治癒術師の配置。

 

 討伐後に魔女教対策へ回せる人数。

 

 彼女は戦場そのものよりも、戦場の前後を見ている。

 

 スバルが近づくと、ユイは紙から目を上げた。

 

「思ったより動きが早いわ」

 

「クルシュさんもアナスタシアも、本気ってことか」

 

「白鯨の出現情報が本物なら、動かない方が損だから」

 

「……俺の情報が外れてたら?」

 

「その時は詰むわね」

 

「さらっと言うなよ」

 

「外れていないのでしょう?」

 

 ユイはまっすぐスバルを見る。

 

 スバルは一瞬、言葉を失った。

 

 ユイは記憶がないふりをしている。

 

 前周を知らない。

 

 少なくとも、そう振る舞っている。

 

 だから、この問いは単純な確認だ。

 

 スバルが、本当に覚悟を持っているのかどうか。

 

「外れてない」

 

「なら、胸を張りなさい」

 

「できるかよ」

 

「できなくても、そう見せるの。あなたが一番不安そうな顔をしていたら、兵が不安になる」

 

 スバルは周囲を見る。

 

 集まる兵たち。

 

 準備する傭兵たち。

 

 ヴィルヘルム。

 

 クルシュ。

 

 アナスタシア。

 

 レム。

 

 全員が、自分の情報を前提に動いている。

 

 それなら。

 

 自分が折れている場合ではない。

 

「わかった」

 

 スバルは頬を叩いた。

 

「痛い」

 

「自分でやったんでしょう」

 

「そうだけど」

 

 ユイは小さく笑った。

 

「そのくらいの顔の方がいいわ」

 

 その日、討伐隊は夜を徹して準備を進めた。

 

 スバルも眠ろうとはした。

 

 だが、目を閉じるたびに白い霧が浮かぶ。

 

 レムが消える。

 

 エミリアが死ぬ。

 

 ユイが血と泥に汚れて倒れる。

 

 そのたびに目を開け、天井を見つめる。

 

 眠れない。

 

 けれど、翌日が来る。

 

 逃げても、怯えても、時間は進む。

 

 翌日。

 

 討伐隊は夜へ向けて出発した。

 

 地竜の列。

 

 竜車。

 

 武装した兵。

 

 鉄の牙の傭兵たち。

 

 クルシュは白い地竜にまたがり、凛とした姿で隊を率いる。

 

 ヴィルヘルムは静かに剣を携える。

 

 フェリスは治癒役として後方に配置され、アナスタシアは必要な指示を出しながら、自軍と商人たちの動きをまとめていた。

 

 スバルは、レムと同じ地竜に乗る。

 

 黒い地竜。

 

 後にパトラッシュと呼ぶことになるその地竜は、スバルを見ても暴れなかった。

 

 むしろ、じっとこちらを見ている。

 

「こいつ、俺のこと嫌がらないんだな」

 

「地竜は人を見るといいます」

 

 レムが言う。

 

「好かれているのではないでしょうか」

 

「こんな俺を?」

 

「はい」

 

 その返事は短い。

 

 でも、妙に胸に残った。

 

 ユイは別の地竜に乗っていた。

 

 彼女自身、地竜に乗り慣れているわけではない。

 

 だが、身体能力で無理やり姿勢を安定させている。

 

 横にいた傭兵が呆れたように見る。

 

「姉ちゃん、乗り方が雑なのに落ちねえな」

 

「落ちなければいいでしょう」

 

「そういうもんか?」

 

「そういうものよ」

 

 そのやり取りを見て、スバルは少しだけ笑いそうになった。

 

 笑えることに驚く。

 

 でも、すぐに表情を引き締めた。

 

 進む先には、白鯨がいる。

 

 フリューゲルの大樹が見えてきたのは、夜も深まったころだった。

 

 巨大な影が、月明かりの下にそびえている。

 

 前の周で見た影。

 

 霧の中に滲んだ、あの大樹。

 

 スバルの喉が渇く。

 

 手が震える。

 

 携帯電話を取り出す。

 

 画面の光が、暗闇に浮かんだ。

 

 時刻を確認する。

 

 二十二時を少し過ぎている。

 

 近い。

 

 もうすぐだ。

 

 スバルは携帯電話の画面を見つめたまま、何度も呼吸を整える。

 

 この小さなミーティアは、白鯨を見つけてくれるわけではない。

 

 ただ、時刻を示すだけ。

 

 そして、指定した時刻になれば、音を鳴らす。

 

 それだけの道具だ。

 

 それでも今は、それが命綱だった。

 

 あの時と同じ場所。

 

 あの時に近い時間。

 

 けれど、今度は違う。

 

 今度は、自分一人ではない。

 

 討伐隊がいる。

 

 クルシュがいる。

 

 ヴィルヘルムがいる。

 

 アナスタシアの鉄の牙がいる。

 

 レムがいる。

 

 ユイがいる。

 

「スバル君」

 

 レムが声をかけた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫じゃない」

 

 スバルは正直に答えた。

 

「でも、やる」

 

「はい」

 

 レムは頷く。

 

「レムも、そばにいます」

 

 少し離れて、ユイが地竜を寄せた。

 

「スバルくん」

 

「なんだ?」

 

「白鯨が出たら、あなたは囮になる。けれど、一人で突っ走らないこと。合図を待つ。クルシュさんとヴィルヘルムさんの指示に合わせる。わかった?」

 

「わかった」

 

「返事だけじゃなく、実行して」

 

「わかってるって」

 

「あなたはわかっていても走るから」

 

 スバルは言い返せなかった。

 

 レムが小さく頷いているのが見えた。

 

「レムまで頷くなよ」

 

「事実ですので」

 

「味方が厳しい」

 

「死なないためよ」

 

 ユイは淡々と言った。

 

 それで、スバルの口元が少しだけ緩む。

 

 だが、次の瞬間。

 

 携帯電話から、電子音が鳴った。

 

 この世界のどこにもない、乾いた音。

 

 夜の空気に、やけに鮮明に響いた。

 

 兵たちが一斉に反応する。

 

 何人かが音の出どころを探し、すぐにスバルの手元のミーティアを見る。

 

 スバルは画面を見る。

 

 二十二時半。

 

 喉の奥が、ひゅっと鳴る。

 

 来る。

 

 来る。

 

 あの霧が。

 

 あの白い災厄が。

 

 スバルは携帯電話の音を止め、顔を上げた。

 

 胸の奥に残っていた恐怖を、声に変える。

 

「――来るぞ!」

 

 その声に、討伐隊の空気が一変した。

 

 クルシュが手綱を引き、鋭く前方を見る。

 

 ヴィルヘルムが剣の柄に手を置く。

 

 鉄の牙が一斉に身構える。

 

 フェリスが後方で治癒班に指示を飛ばし、アナスタシアの顔から笑みが消えた。

 

 レムが鉄球の鎖を握る。

 

 ユイはスバルの横で、霧が来るであろう方向へ視線を向けた。

 

 そして。

 

 白い霧が、街道の先から流れてきた。

 

 冷たい。

 

 重い。

 

 音を奪う霧。

 

 地竜が怯える。

 

 兵たちが武器を構える。

 

 フリューゲルの大樹の影が、白く滲んでいく。

 

 時刻は、合っていた。

 

 スバルの脳裏に、レムが消えた瞬間が蘇る。

 

 誰も覚えていなかった。

 

 部屋が空だった。

 

 世界から、彼女だけが抜け落ちた。

 

 スバルの手が震える。

 

 その手を、レムがそっと握った。

 

 強くはない。

 

 ただ、そこにいると伝える程度に。

 

「レムは、ここにいます」

 

 スバルは息をした。

 

「ああ」

 

 ユイは地竜の上で、霧の奥を見ている。

 

 記憶はない。

 

 少なくとも、そう振る舞っている。

 

 だが、霧の異様さはわかる。

 

 彼女の指先が、わずかに動いた。

 

 いつでも虚飾を使えるように。

 

 ただし、今はまだ何もしない。

 

 空気が震えた。

 

 低い鳴き声。

 

 山が唸るような音。

 

 兵たちの間に緊張が走る。

 

 霧の向こうに、巨大な影が浮かび上がった。

 

 白い。

 

 あまりにも大きい。

 

 空を泳ぐ、災厄。

 

 白鯨。

 

 スバルは、その姿を見上げた。

 

 怖い。

 

 足が竦む。

 

 喉が締まる。

 

 逃げたい。

 

 でも、逃げない。

 

 今度は、ここから始める。

 

「白鯨だ」

 

 誰かが呟いた。

 

 その声が、戦場に落ちる。

 

 ヴィルヘルムが剣を抜いた。

 

 クルシュが号令を発する。

 

 鉄の牙が動き出す。

 

 レムが鉄球を構える。

 

 ユイがスバルの横へ視線を走らせ、退路と位置取りを確認する。

 

 そして、スバルは携帯電話を握りしめた。

 

 今度こそ。

 

 今度こそ、失わない。

 

 白鯨攻略戦が、始まった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。