クルシュ邸へ向かう前に、スバルは足を止めた。
王都の通りは相変わらず人が多い。
誰も、これから何が起きるか知らない。
白鯨が出ることも。
魔女教がロズワール邸を襲うことも。
レムが消えることも。
エミリアが死ぬことも。
誰も知らない。
スバルだけが知っている。
だから、今度は泣き叫ぶのではなく、その知識を使う。
「レム」
「はい」
「先に確認しておきたい。ロズワールから、クルシュ陣営との交渉について何か任されてたんだよな?」
レムは少し驚いたように目を瞬いた。
だが、すぐに頷く。
「はい。ロズワール様からは、エミリア様の王選における協力関係について、クルシュ様と交渉を進めるよう命じられていました」
「条件は?」
「ロズワール領内の魔鉱石に関する権益。その一部を交渉材料として提示することは許されています」
スバルは息を吐いた。
勝手にすべてを差し出すわけではない。
最低限、レムが持っていた交渉の土台がある。
そこに、自分が白鯨の情報を乗せる。
「なら、それを使う」
「はい」
「ただ、俺が話す。レムは、必要なところで補足してくれ」
「わかりました」
スバルは次に、ユイを見る。
「ユイさん」
「ええ」
「俺が余計なことを言いそうになったら止めてくれ。特に、理由を聞かれた時だ」
「わかっているわ」
「俺が知ってる理由は言えない。でも、場所と時間は言える。そこを崩さずにいきたい」
「なら、最初から話を広げすぎないことね」
ユイは淡々と言う。
「白鯨の出現情報。ロズワール領の魔鉱石採掘権の一部。討伐の栄誉。まずはその三つを軸にするべきよ」
「魔女教は?」
「最初から叫ばないこと」
ユイは短く言った。
「けれど、条件として隠す必要もない。白鯨討伐への協力を得る。その同盟の成立後、返礼として魔女教討伐への戦力提供を求める。順番を間違えないことね」
「順番を間違えるな、か」
「ええ。あなたは切羽詰まると、結論から叫ぶ癖がある」
「……否定できねえ」
スバルは苦く笑った。
けれど、その笑いは完全に壊れたものではなかった。
レムがそれを見て、少しだけ目元を緩める。
「行こう」
スバルは言った。
「今度は、交渉だ」
カルステン公爵家の屋敷は、前と同じように整っていた。
広い門。
磨かれた石畳。
規律正しい使用人たち。
すべてが、今のスバルの内側とはまるで違う。
だが、今日は怯えているだけではない。
スバルは門番に名乗り、クルシュへの取り次ぎを頼んだ。
しばらくして、ヴィルヘルムが現れる。
白髪の老剣士は、スバルの顔を見るなり、わずかに目を細めた。
「ナツキ殿」
「ヴィルヘルムさん。クルシュさんに会わせてください」
「ご用件は?」
「白鯨についてです」
その一言で、空気が変わった。
ヴィルヘルムの表情は大きく動かなかった。
だが、目の奥だけが鋭くなる。
剣を抜かれたわけでもないのに、喉元に刃を当てられたような感覚があった。
「……白鯨、と」
「はい」
「その名を、軽々しく出すものではありません」
「軽く扱うつもりはありません」
スバルはまっすぐ返した。
「俺は、白鯨が現れる場所と時間を知っています」
ヴィルヘルムは沈黙した。
短い沈黙。
だが、重い。
レムも息を潜める。
ユイは黙って、スバルの横顔を見ていた。
やがて、ヴィルヘルムは静かに頭を下げる。
「お取り次ぎいたしましょう」
通された部屋には、クルシュ・カルステンがいた。
凛とした立ち姿。
緑の髪。
曇りのない瞳。
フェリスもそばに控え、ヴィルヘルムは入口近くへ立つ。
スバルは、深く息を吸った。
前のように、床に膝をついて泣きつくな。
怒鳴るな。
順番を守れ。
白鯨。
採掘権。
同盟。
魔女教への協力。
「クルシュさん」
「ナツキ・スバル。用件は聞いた」
クルシュはまっすぐスバルを見る。
「白鯨の名を出したそうだな」
「はい」
「続けろ」
スバルは頷いた。
「エミリア陣営とクルシュ陣営の同盟を結びたい。その条件として、こちらから提示できるものがあります」
クルシュは黙って聞く。
「一つ。ロズワール領内の魔鉱石採掘権の一部」
クルシュの視線がレムへ向く。
レムは一歩前へ出た。
「その件については、ロズワール様より、レムが交渉の任を受けておりました。スバル君は、今回その交渉を引き継ぐ形になります」
「つまり、ナツキ・スバルの独断ではないと?」
「はい」
レムはきっぱり答えた。
クルシュはスバルへ視線を戻す。
「続けろ」
「二つ目。白鯨の出現場所と時間」
部屋の空気が張り詰めた。
フェリスの目が鋭くなる。
ヴィルヘルムは動かない。
だが、彼の周囲だけ空気が重くなったようだった。
「場所はリーファウス街道、フリューゲルの大樹付近。時間は明日の夜、二十二時半から二十三時前後」
スバルはポケットから携帯電話を取り出した。
黒い板のようなそれを、クルシュの前へ掲げる。
「このミーティアで時刻を確認できます。指定した時刻に音を鳴らすこともできます」
フェリスが目を丸くする。
「なにそれ。見たことないミーティアにゃ」
「俺の故郷の道具です」
「故郷?」
「遠いところです」
スバルはそれ以上を言わない。
ユイがわずかに視線を向けた。
それでいい、と言うように。
クルシュは携帯電話を見つめる。
「そのミーティアが、白鯨の出現を教えると?」
スバルは言葉を選んだ。
嘘を言えば、クルシュに見抜かれる可能性がある。
風を見る加護。
彼女の前で、浅い嘘は危険だ。
「白鯨そのものを見つける道具じゃありません」
スバルは言った。
「でも、白鯨が現れる時刻を確認することはできる。俺は、その時刻と場所を知っています」
クルシュの目が細くなる。
「なぜ知っている」
来た。
スバルの喉が詰まる。
言えない。
死に戻りは言えない。
前の周で見たことも言えない。
心臓を掴まれる恐怖が、背筋を撫でた。
それでも、スバルは逃げない。
「理由は言えません」
部屋の空気が冷えた。
フェリスが眉を寄せる。
「それじゃ信用できないにゃ」
「そうだと思います」
スバルは頷いた。
「だから、俺自身を囮にします」
レムが息を呑んだ。
「スバル君」
「白鯨は俺を追う」
スバルは言った。
魔女の残り香。
それを白鯨が追っていた。
魔獣が自分に引き寄せられる。
その事実は、言える。
「俺がフリューゲルの大樹付近に立てば、白鯨はそこへ来る。俺がそれを引きつける」
クルシュの視線が鋭くなる。
「卿は、自分を餌にすると言っているのか」
「はい」
「死ぬぞ」
「死なないために、交渉しに来ました」
スバルは震える手を握りしめる。
「俺一人なら死ぬ。レム一人でも、ユイさん一人でも無理だ。だから戦力がいる。白鯨を討つ戦力が」
そこで、スバルは一度息を整えた。
焦るな。
ここで魔女教を叫ぶな。
だが、条件としては明示する。
「そして、白鯨討伐後、魔女教討伐への協力を求めます」
クルシュの目がわずかに動いた。
フェリスもスバルを見る。
「魔女教?」
「はい」
「白鯨だけではなく、魔女教討伐まで求めると?」
「はい。ただし、順番は白鯨が先です」
スバルは言った。
「白鯨を討つ。その同盟の対価として、その後、ロズワール領へ迫る魔女教への対処に協力してほしい」
ユイは何も言わない。
レムも黙っている。
ここは、スバルが言わなければならない場面だった。
「三つ目。白鯨討伐の栄誉」
スバルは続ける。
「四百年、人を食い、街道を脅かし、国に傷を残し続けた災厄を討つ。その名誉は、王選においても大きいはずです」
スバルは拳を握る。
「採掘権の一部。白鯨の場所と時間。白鯨討伐の栄誉。これらをもって、クルシュ陣営との同盟を求めます。そのうえで、白鯨討伐後に魔女教討伐への協力をお願いしたい」
クルシュはすぐに答えなかった。
沈黙が落ちる。
重い。
フェリスも黙っている。
レムは緊張した面持ちでスバルを見守る。
ユイは黙ったまま、部屋全体の反応を観察していた。
クルシュは、やがて口を開く。
「腑に落ちぬ点が多い」
「はい」
「卿が白鯨の出現場所と時間を知る理由。白鯨が卿を追うという根拠。さらに、白鯨討伐の後に魔女教討伐への協力を求めていること。どれも、普通ならば戯言と切り捨てるべき話だ」
「そうだと思います」
「だが」
クルシュの声が、わずかに変わった。
「卿は嘘を言っているようには見えぬ」
スバルは息を止めた。
風。
クルシュの加護が、スバルの言葉に偽りがないことを告げているのか。
もちろん、全部を言っているわけではない。
隠している。
でも、言ったこと自体は嘘ではない。
白鯨は出る。
場所も時間も知っている。
自分を囮にする覚悟もある。
魔女教が来ることも、本当だ。
「ただし、信じるだけでは兵は動かせぬ」
クルシュは厳しく言った。
「白鯨討伐は、容易なものではない。兵を出すならば、準備も、補給も、退路も必要だ。卿の言葉だけで全てを預けるには、まだ足りぬ」
「わかっています」
スバルは頷いた。
「だから、もう二人呼んであります」
クルシュの眉が動く。
「もう二人?」
その時、扉の外で使用人の声がした。
来客の報せ。
クルシュが目を細める。
「通せ」
扉が開く。
入ってきたのは、柔らかな笑みを浮かべた少女だった。
アナスタシア・ホーシン。
その後ろには、王都商業組合のラッセル・フェロー。
さらに、彼女の私兵に属する者たちが控えている。
「なにやら、おもしろそうな話しとるみたいやね」
アナスタシアは、にこにこと笑った。
クルシュの視線がスバルへ向く。
「ナツキ・スバル。これは卿の差し金か」
「はい」
スバルは逃げずに答えた。
「アナスタシアさんにも、白鯨の情報が商売に関わる話だと伝えました。王都の商業組合にもです」
アナスタシアは目を細める。
「正確には、詳しい情報はまだ聞かせてもろてへんけどな。白鯨、街道、商売の損。そこまで聞いたら、来んわけにはいかへんやろ?」
ラッセルも穏やかに笑う。
「王都へ流れる品の多くは、街道の安全に左右されますからね。白鯨討伐が現実味を帯びるなら、商人として無関心ではいられません」
クルシュは静かに言った。
「私とアナスタシア殿、そして商業組合を同じ卓に乗せるか」
「はい」
「情報の奪い合いをさせるつもりか?」
「違います」
スバルは首を振った。
「奪い合いじゃなく、協力してもらうためです。クルシュさんには兵と討伐の指揮がある。アナスタシアさんには商人の情報網と私兵、物資の調達力がある。ラッセルさんには商業組合を動かす力がある」
スバルは拳を握る。
「白鯨を討つには、全部必要です」
アナスタシアがくすりと笑った。
「前に会った時より、だいぶ顔つき変わったなあ」
「変えなきゃ死ぬんで」
「物騒やねえ」
「物騒な相手なんです」
スバルは携帯電話を机の上へ置いた。
「場所はリーファウス街道、フリューゲルの大樹付近。時刻は明日の夜、二十二時半から二十三時前後。白鯨が現れる」
アナスタシアの笑みが薄くなる。
ラッセルも目を細める。
「根拠は?」
ラッセルが尋ねた。
「言えません」
「それでは商談になりませんね」
「だから、俺を担保にしてください」
スバルは言った。
「俺が現場に出ます。白鯨が来なければ、俺は嘘つきとして全部を失う。エミリア陣営の信用も、ロズワール領の交渉も、俺の命も」
「命まで賭けると?」
「賭けます」
部屋が静かになった。
アナスタシアはスバルを見る。
商人の目だった。
損得を測る目。
嘘と本気を見分ける目。
「白鯨が出るとして、うちらに何の得があるん?」
「街道の安全。商流の回復。白鯨討伐に関わったという名声」
スバルは言葉を詰まらせずに言った。
ユイが横で、ほんのわずかに頷いた。
その反応を見て、スバルは続ける。
「それに、白鯨討伐の場に王選候補者二人が関われば、その影響は大きい。クルシュさんには武名が、アナスタシアさんには商機が入る」
「ずいぶん言うやん」
「言わなきゃ動かない相手だと思ったんで」
「正直やねえ」
アナスタシアは笑った。
「嫌いやないよ、そういうの」
ラッセルが口を挟む。
「魔鉱石の採掘権については、こちらとしても関心があります。白鯨討伐が成功した暁には、王都へ流れる魔鉱石の取り扱いについて、商業組合も関与したいところですね」
クルシュがラッセルへ視線を向ける。
「商業組合も、この話に乗ると?」
「条件次第です」
ラッセルは笑う。
「ただ、白鯨が本当に現れるのなら、見過ごす理由はありません」
アナスタシアも頷いた。
「うちも乗る価値はあると思うよ。白鯨は商人の敵や。街道を荒らす災厄が消えるなら、それだけで大きい」
クルシュは沈黙した。
視線はスバルへ。
そして、机の上の携帯電話へ。
「そのミーティアを、どう使う」
「時刻確認に使います。指定した時間になれば音が鳴るようにもできます」
スバルは携帯電話を軽く示す。
この世界では、誰もその仕組みを知らない。
ただ、時間を測る道具としては使える。
「明日の夜、二十二時半。音が鳴るようにします。その前後で白鯨が現れる」
クルシュは携帯電話を見つめた。
「そのミーティア、討伐後はどうする」
ここで、ラッセルが柔らかく言った。
「もしよろしければ、その品をこちらで引き取らせていただきたい。大変珍しいものです。商業組合としても興味があります」
「これを?」
スバルは携帯電話を見る。
元の世界との、数少ない繋がり。
もう電波もない。
誰とも連絡できない。
けれど、確かに自分が元の世界から来た証だった。
それを手放す。
一瞬だけ、胸が痛む。
だが、迷っている暇はない。
エミリアを救うため。
レムを消さないため。
ユイを死なせないため。
村を守るため。
その程度、差し出せ。
「白鯨討伐が成功したら、渡します」
スバルは言った。
「このミーティアを、対価に加える」
ラッセルの笑みが深くなる。
「よい取引です」
クルシュは目を閉じた。
短い沈黙。
そして、目を開く。
「ナツキ・スバル」
「はい」
「卿の話には、なお不明点が多い。だが、卿の覚悟、そしてこの場を整えた手際は評価に値する」
スバルの喉が鳴る。
「クルシュ・カルステンの名において、この同盟を受けよう」
その言葉が落ちた瞬間、スバルは膝から崩れそうになった。
だが、踏みとどまる。
ここで泣くな。
まだ終わっていない。
始まっただけだ。
「ありがとうございます」
スバルは深く頭を下げた。
「白鯨討伐後、魔女教討伐への協力をお願いします」
「白鯨を討てたならば、その功績に報いる形で兵を出す」
クルシュは答えた。
「ただし、白鯨討伐が先だ」
「はい」
アナスタシアが笑う。
「ほな、うちも私兵団を出すわ。鉄の牙を使う。物資と竜車の手配も、こっちでできる範囲は協力したる」
レムが小さく息を吐いた。
「スバル君……」
「ああ」
スバルはまだ震えていた。
怖い。
怖くないわけがない。
でも、やっと道ができた。
絶望の中に、一本だけ。
その時、ヴィルヘルムが前へ出た。
「ナツキ殿」
「ヴィルヘルムさん」
「白鯨討伐に、私も加わらせていただきます」
その声は静かだった。
だが、静かすぎて、逆に重い。
「……ヴィルヘルムさんは、白鯨と何かあるんですか」
スバルは尋ねた。
知っているわけではない。
だが、彼の反応から、ただの討伐対象ではないことはわかった。
ヴィルヘルムは目を伏せた。
「白鯨は、我が妻を奪った仇です」
レムが息を呑む。
フェリスも、表情を沈める。
「妻の名はテレシア。かつて剣聖と呼ばれた女性でした」
剣聖。
その言葉の重さは、スバルにもわかる。
ラインハルト。
剣聖の名を持つ、あの赤髪の騎士。
その先代。
ヴィルヘルムの妻。
「私は、長く白鯨を追ってきました」
ヴィルヘルムは続ける。
「剣を振る理由も、生き長らえた理由も、その多くは白鯨を討つためにありました」
その声には、怒りは少なかった。
むしろ、静かすぎるほどだった。
長すぎる時間を経て、怒りが刃の形に研ぎ澄まされている。
スバルは、何も言えなかった。
誰かを失う痛み。
自分だけが覚えている喪失。
それとは違う。
けれど、ヴィルヘルムもまた、白鯨に人生を奪われた人間だった。
「必ず、討ちましょう」
スバルは言った。
「白鯨を」
ヴィルヘルムは、静かに頭を下げた。
「はい」
交渉が決まると、屋敷の中は一気に動き始めた。
ただし、出撃は今夜ではない。
白鯨が現れるのは、明日の夜。
それまでに兵を集め、物資を整え、隊列を組み、白鯨を討つための準備を完了させなければならない。
クルシュ陣営の兵が招集される。
武具の確認。
地竜の準備。
魔法使いの配置。
負傷者対応の段取り。
フェリスは治癒術師として準備に追われ、ヴィルヘルムは討伐隊の剣士たちを確認していた。
アナスタシアの私兵団も合流する。
獣人を中心とした傭兵団。
鉄の牙。
ミミ、ヘータロー、ティビー。
その明るさは、これから白鯨に挑む者たちとは思えないほどだった。
「ナツキ、顔かたい!」
ミミがスバルを指差して笑う。
「悪かったな。こっちは人生かかってんだよ」
「みんなかかってるよ!」
あっけらかんと言われ、スバルは言葉に詰まった。
そうだ。
自分だけではない。
ここにいる全員が、白鯨と戦う。
命をかける。
自分の情報に乗って。
自分が作った場に、命を預けてくれる。
その重みが、今さらのように肩へ乗る。
レムがそばへ来た。
「スバル君」
「……怖いな」
「はい」
「否定しないんだな」
「怖くない戦いではありませんから」
レムは静かに言った。
その距離感が、今はありがたかった。
無理に励ますのではなく、怖いものは怖いと認める。
それでも進む。
「でも、レムは信じています」
「俺を?」
「スバル君と、ここにいる皆さんを」
少しだけ、原作より低い熱。
けれど、ちゃんとある好意。
その信頼は、スバルを甘やかしすぎない。
スバルは小さく頷いた。
「ありがとな」
「はい」
少し離れたところで、ユイはクルシュ陣営の兵站表を眺めていた。
アナスタシアの商人たちが用意した物資。
竜車の台数。
油。
治癒術師の配置。
討伐後に魔女教対策へ回せる人数。
彼女は戦場そのものよりも、戦場の前後を見ている。
スバルが近づくと、ユイは紙から目を上げた。
「思ったより動きが早いわ」
「クルシュさんもアナスタシアも、本気ってことか」
「白鯨の出現情報が本物なら、動かない方が損だから」
「……俺の情報が外れてたら?」
「その時は詰むわね」
「さらっと言うなよ」
「外れていないのでしょう?」
ユイはまっすぐスバルを見る。
スバルは一瞬、言葉を失った。
ユイは記憶がないふりをしている。
前周を知らない。
少なくとも、そう振る舞っている。
だから、この問いは単純な確認だ。
スバルが、本当に覚悟を持っているのかどうか。
「外れてない」
「なら、胸を張りなさい」
「できるかよ」
「できなくても、そう見せるの。あなたが一番不安そうな顔をしていたら、兵が不安になる」
スバルは周囲を見る。
集まる兵たち。
準備する傭兵たち。
ヴィルヘルム。
クルシュ。
アナスタシア。
レム。
全員が、自分の情報を前提に動いている。
それなら。
自分が折れている場合ではない。
「わかった」
スバルは頬を叩いた。
「痛い」
「自分でやったんでしょう」
「そうだけど」
ユイは小さく笑った。
「そのくらいの顔の方がいいわ」
その日、討伐隊は夜を徹して準備を進めた。
スバルも眠ろうとはした。
だが、目を閉じるたびに白い霧が浮かぶ。
レムが消える。
エミリアが死ぬ。
ユイが血と泥に汚れて倒れる。
そのたびに目を開け、天井を見つめる。
眠れない。
けれど、翌日が来る。
逃げても、怯えても、時間は進む。
翌日。
討伐隊は夜へ向けて出発した。
地竜の列。
竜車。
武装した兵。
鉄の牙の傭兵たち。
クルシュは白い地竜にまたがり、凛とした姿で隊を率いる。
ヴィルヘルムは静かに剣を携える。
フェリスは治癒役として後方に配置され、アナスタシアは必要な指示を出しながら、自軍と商人たちの動きをまとめていた。
スバルは、レムと同じ地竜に乗る。
黒い地竜。
後にパトラッシュと呼ぶことになるその地竜は、スバルを見ても暴れなかった。
むしろ、じっとこちらを見ている。
「こいつ、俺のこと嫌がらないんだな」
「地竜は人を見るといいます」
レムが言う。
「好かれているのではないでしょうか」
「こんな俺を?」
「はい」
その返事は短い。
でも、妙に胸に残った。
ユイは別の地竜に乗っていた。
彼女自身、地竜に乗り慣れているわけではない。
だが、身体能力で無理やり姿勢を安定させている。
横にいた傭兵が呆れたように見る。
「姉ちゃん、乗り方が雑なのに落ちねえな」
「落ちなければいいでしょう」
「そういうもんか?」
「そういうものよ」
そのやり取りを見て、スバルは少しだけ笑いそうになった。
笑えることに驚く。
でも、すぐに表情を引き締めた。
進む先には、白鯨がいる。
フリューゲルの大樹が見えてきたのは、夜も深まったころだった。
巨大な影が、月明かりの下にそびえている。
前の周で見た影。
霧の中に滲んだ、あの大樹。
スバルの喉が渇く。
手が震える。
携帯電話を取り出す。
画面の光が、暗闇に浮かんだ。
時刻を確認する。
二十二時を少し過ぎている。
近い。
もうすぐだ。
スバルは携帯電話の画面を見つめたまま、何度も呼吸を整える。
この小さなミーティアは、白鯨を見つけてくれるわけではない。
ただ、時刻を示すだけ。
そして、指定した時刻になれば、音を鳴らす。
それだけの道具だ。
それでも今は、それが命綱だった。
あの時と同じ場所。
あの時に近い時間。
けれど、今度は違う。
今度は、自分一人ではない。
討伐隊がいる。
クルシュがいる。
ヴィルヘルムがいる。
アナスタシアの鉄の牙がいる。
レムがいる。
ユイがいる。
「スバル君」
レムが声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
スバルは正直に答えた。
「でも、やる」
「はい」
レムは頷く。
「レムも、そばにいます」
少し離れて、ユイが地竜を寄せた。
「スバルくん」
「なんだ?」
「白鯨が出たら、あなたは囮になる。けれど、一人で突っ走らないこと。合図を待つ。クルシュさんとヴィルヘルムさんの指示に合わせる。わかった?」
「わかった」
「返事だけじゃなく、実行して」
「わかってるって」
「あなたはわかっていても走るから」
スバルは言い返せなかった。
レムが小さく頷いているのが見えた。
「レムまで頷くなよ」
「事実ですので」
「味方が厳しい」
「死なないためよ」
ユイは淡々と言った。
それで、スバルの口元が少しだけ緩む。
だが、次の瞬間。
携帯電話から、電子音が鳴った。
この世界のどこにもない、乾いた音。
夜の空気に、やけに鮮明に響いた。
兵たちが一斉に反応する。
何人かが音の出どころを探し、すぐにスバルの手元のミーティアを見る。
スバルは画面を見る。
二十二時半。
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
来る。
来る。
あの霧が。
あの白い災厄が。
スバルは携帯電話の音を止め、顔を上げた。
胸の奥に残っていた恐怖を、声に変える。
「――来るぞ!」
その声に、討伐隊の空気が一変した。
クルシュが手綱を引き、鋭く前方を見る。
ヴィルヘルムが剣の柄に手を置く。
鉄の牙が一斉に身構える。
フェリスが後方で治癒班に指示を飛ばし、アナスタシアの顔から笑みが消えた。
レムが鉄球の鎖を握る。
ユイはスバルの横で、霧が来るであろう方向へ視線を向けた。
そして。
白い霧が、街道の先から流れてきた。
冷たい。
重い。
音を奪う霧。
地竜が怯える。
兵たちが武器を構える。
フリューゲルの大樹の影が、白く滲んでいく。
時刻は、合っていた。
スバルの脳裏に、レムが消えた瞬間が蘇る。
誰も覚えていなかった。
部屋が空だった。
世界から、彼女だけが抜け落ちた。
スバルの手が震える。
その手を、レムがそっと握った。
強くはない。
ただ、そこにいると伝える程度に。
「レムは、ここにいます」
スバルは息をした。
「ああ」
ユイは地竜の上で、霧の奥を見ている。
記憶はない。
少なくとも、そう振る舞っている。
だが、霧の異様さはわかる。
彼女の指先が、わずかに動いた。
いつでも虚飾を使えるように。
ただし、今はまだ何もしない。
空気が震えた。
低い鳴き声。
山が唸るような音。
兵たちの間に緊張が走る。
霧の向こうに、巨大な影が浮かび上がった。
白い。
あまりにも大きい。
空を泳ぐ、災厄。
白鯨。
スバルは、その姿を見上げた。
怖い。
足が竦む。
喉が締まる。
逃げたい。
でも、逃げない。
今度は、ここから始める。
「白鯨だ」
誰かが呟いた。
その声が、戦場に落ちる。
ヴィルヘルムが剣を抜いた。
クルシュが号令を発する。
鉄の牙が動き出す。
レムが鉄球を構える。
ユイがスバルの横へ視線を走らせ、退路と位置取りを確認する。
そして、スバルは携帯電話を握りしめた。
今度こそ。
今度こそ、失わない。
白鯨攻略戦が、始まった。