白鯨が、霧の向こうから姿を現した。
月明かりを奪う白。
夜空を泳ぐ、巨大な災厄。
その巨体は、地上にいる人間たちを見下ろしていた。
獣というより、山。
魔獣というより、空を漂う災害。
誰かが息を呑む音がした。
地竜が怯え、蹄を鳴らす。
兵たちの間に、わずかな動揺が走る。
その中で、クルシュ・カルステンの声が響いた。
「怯むな!」
鋭く、澄んだ声だった。
「我らはこの時のために集った。眼前にあるは、四百年の長きにわたり人々を喰らい、街道を閉ざし、嘆きを積み上げた災厄である!」
彼女は白い地竜の上で剣を掲げる。
「今宵、その歴史を終わらせる!」
兵たちの空気が変わった。
恐怖は消えない。
だが、恐怖の上から覚悟が乗る。
クルシュが振り返る。
「夜払いの砲、用意!」
号令と共に、後方の魔法兵たちが動いた。
闇の中に、幾つもの魔法陣が浮かぶ。
空気が震え、魔力が収束する。
白鯨の霧で沈みかけていた夜が、一瞬だけさらに深くなる。
そして。
光が撃ち上がった。
夜払いの砲。
白い光の柱が空を貫き、夜を昼へと塗り替える。
眩い光が、フリューゲルの大樹を、街道を、兵たちの顔を、白鯨の腹を照らし出した。
霧が裂ける。
巨体の輪郭が露わになる。
「見えた……!」
誰かが叫んだ。
白鯨の背。
腹。
巨角。
無数の細かな毛に覆われた白い皮膚。
そして、巨大な眼。
スバルの喉が鳴った。
前の周では、ただ逃げるしかなかった相手。
レムを消した相手。
誰からもレムを奪った相手。
今、その姿がはっきりと目の前にある。
「スバル君」
レムが鉄球の鎖を握りしめる。
その声には緊張があった。
だが、怯えだけではない。
「行けるか」
「はい」
レムは短く答えた。
スバルは頷き、地竜の手綱を握る。
黒い地竜――パトラッシュが低く鳴いた。
まるで、行けと言っているようだった。
ユイが別の地竜を寄せてくる。
「スバルくん、レムさん。前に出るなら、左へ流れすぎないで」
「左?」
「霧の流れが重い。あそこに追い込まれると逃げ場がなくなる」
ユイは霧の濃淡を見ている。
前周の記憶があるようには振る舞わない。
ただ、今この場で観察した戦場の情報だけを口にする。
「白鯨そのものは私でも止めきれない。でも、狙いを少し狂わせるくらいならできる」
「頼りにしてる」
「頼りすぎないで」
「厳しいな」
「生き残るためよ」
ユイの声は冷静だった。
けれど、その指先にはわずかな緊張があった。
彼女もまた、白鯨という存在の異様さを肌で感じている。
クルシュが剣を振り下ろした。
「総員、攻撃開始!」
兵たちが動いた。
弓兵が矢を放つ。
魔法兵が炎と氷の矢を撃ち上げる。
鉄の牙の獣人たちが地を蹴り、各所に散開する。
リカードの豪快な声が響いた。
「いくでぇ! 白いデカブツに、鉄の牙の噛み跡つけたれや!」
ミミが笑いながら飛び出す。
「やっほー! でっかーい!」
「ミミ、突っ込みすぎない!」
ヘータローとティビーの声が続く。
戦場が動き始めた。
スバルはパトラッシュを前へ出す。
白鯨の巨大な眼が、こちらを見る。
見ている。
自分を。
やはり、引き寄せられている。
魔女の匂い。
胸の奥に、嫌な冷たさが走る。
「来いよ……」
スバルは歯を食いしばる。
「こっちだ、白鯨!」
白鯨が鳴いた。
空気が震え、腹の底まで響く低音が戦場を揺らす。
その巨体が、ゆっくりと向きを変えた。
スバルへ。
レムが鎖を振るう。
「はあああッ!」
鉄球が唸り、白鯨の腹へ叩き込まれる。
重い音がした。
だが、相手はあまりにも巨大だった。
傷はつく。
肉も抉れる。
しかし、白鯨は止まらない。
その巨体がスバルたちへ迫る。
「スバル君、右へ!」
レムの声。
パトラッシュが反応する。
スバルが指示を出すより早く、地竜が横へ跳ねた。
白鯨の尾が空を薙ぐ。
風圧だけで地面が削れ、数人の兵が吹き飛ばされる。
ユイが地竜の上で身を低くした。
次の瞬間、彼女の周囲の空気が薄く揺れる。
白鯨の尾が地面を叩く瞬間、その距離感が半歩だけ狂った。
攻撃の到達点がずれる。
直撃するはずだった兵が、風圧で転がるだけで済む。
「助かったぞ!」
叫んだ兵に、ユイは振り返らない。
「立って。次が来る」
白鯨の腹へ、さらに魔法が撃ち込まれる。
炎が弾け、氷が突き刺さり、風の刃が皮膚を裂く。
クルシュが剣を振る。
目に見えない風の刃が、白鯨の側面を斬り裂いた。
鮮血が空から降る。
白い巨体に、赤い線が刻まれていく。
その中で、ひときわ鋭い影が跳んだ。
ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。
老剣士は地竜の背を蹴り、白鯨の体へ飛び移った。
足場などないに等しい。
揺れる白い毛。
滑る血。
それでも彼は落ちない。
剣が閃く。
一閃。
二閃。
三閃。
白鯨の皮膚が裂け、肉が開く。
ヴィルヘルムは駆ける。
空を泳ぐ魔獣の体上を、まるで地上の戦場のように。
剣を振るたび、血飛沫が上がる。
スバルはその姿を見上げ、息を呑んだ。
「すげえ……」
あれが、剣鬼。
長い年月を、ただ一つの仇を討つために生きてきた男。
白鯨の体がうねる。
振り落とそうとしている。
だが、ヴィルヘルムは食らいつく。
剣が、白鯨の顔へ迫る。
「テレシア」
その声は、スバルには聞こえなかった。
けれど、ヴィルヘルムの唇は確かに誰かの名を呼んでいた。
剣が、白鯨の眼へ突き刺さる。
白鯨が絶叫した。
世界が震えた。
地竜が怯え、兵たちが耳を押さえる。
スバルも歯を食いしばり、パトラッシュの首へしがみつく。
「っ、うるせえ……!」
白鯨の眼から、血が噴き出す。
ヴィルヘルムはそのまま剣を引き抜き、さらに斬り込む。
巨体が暴れる。
夜払いの砲で照らされた戦場に、白鯨の血が雨のように降った。
勝てる。
その気配が一瞬だけ生まれた。
兵たちの攻撃が勢いを増す。
鉄の牙が吠える。
クルシュが号令を重ねる。
スバルの胸にも、わずかな熱が灯る。
このままいける。
このまま押し切れる。
だが。
白鯨の体が、異様に膨れた。
「何か来る!」
ユイの声が飛ぶ。
白鯨の皮膚の下で、霧が渦を巻いていた。
次の瞬間、無数の白い塊が撃ち出される。
霧の弾。
ただの霧ではない。
前の周で、レムを奪った白。
スバルの全身が総毛立つ。
「避けろッ!」
叫びは間に合わなかった。
白い霧の砲弾が地面を抉り、兵たちの一団を呑み込む。
音が消えた。
悲鳴すら残らない。
霧が晴れる。
そこに、誰もいなかった。
地面だけが大きく抉れている。
血も。
肉片も。
倒れた体も。
何もない。
「……え?」
近くにいた兵が呟く。
「今、誰か……いたか?」
「何を言っている。そこには最初から誰も――」
「違う!」
スバルの声が裂けた。
心臓が冷たくなる。
やはりだ。
あの霧だ。
存在ごと消す霧。
レムを消した、あの霧。
「あれに当たるな! 絶対に当たるな! 体だけじゃない、名前も記憶も全部持っていかれる!」
兵たちの間にざわめきが走る。
だが、消えた者を覚えているのは、スバルだけではないようだった。
霧の直撃を受けなかった者の中にも、違和感に顔を歪める者がいる。
けれど、誰が消えたのかはわからない。
空白だけが残っている。
白鯨が再び霧を撃ち出す。
今度は、スバルたちの方へ。
「スバル君!」
レムがパトラッシュの上で身を乗り出す。
ユイが、霧そのものを見る。
違う。
あれを曲げることはできない。
触れれば終わる。
なら、触れる前にずらすしかない。
ユイは白鯨の顔を見た。
残った眼。
開かれる口。
霧が収束する位置。
狙いは、スバルとパトラッシュの進路。
撃たれた後では間に合わない。
撃つ前に、白鯨の距離感を狂わせる。
ほんの半歩。
ほんの一瞬。
スバルたちがいる位置を、わずかに遠く見誤らせる。
ユイの周囲の空気が、薄く揺れた。
次の瞬間、白い砲弾が放たれる。
霧は曲がらない。
ただ、最初から狙いがずれていた。
直撃するはずだった白い塊が、パトラッシュの鼻先をかすめて横へ抜ける。
地面が爆ぜた。
石と土が跳ね、スバルの頬を破片が切る。
「ユイさん!」
「今のは、撃つ前に狙いを狂わせただけ」
ユイは短く言った。
額に汗が浮いている。
「もう一度同じようにできるとは限らない。白鯨がこちらの動きを学べば、次は通じないわ」
「それでも助かった!」
「なら、止まらないで。次は避ける前提で動いて」
ユイの声は冷静だった。
だが、余裕はない。
霧そのものには触れられない。
放たれてからでは遅い。
白鯨が撃つ瞬間、その狙いをわずかに狂わせる。
それが限界だった。
パトラッシュが疾走する。
白鯨は明らかにスバルを追っていた。
巨大な頭がこちらを向き、次の霧が口元に集まっていく。
クルシュが号令を飛ばす。
「ナツキ・スバルを援護! 白鯨の狙いを散らせ!」
魔法兵が風を起こす。
霧そのものを消すことはできない。
だが、白鯨の視界を遮り、狙いを鈍らせることはできる。
鉄の牙が左右から攻める。
リカードが大斧を振るい、白鯨の腹へ飛びかかる。
ミミたちが魔法で牽制する。
白鯨の注意を散らす。
スバルへ集中する殺意を、少しでも薄める。
その間にも、ヴィルヘルムは白鯨の上で剣を振るっていた。
白鯨が痛みに狂う。
巨体が大きくうねった。
ヴィルヘルムの足元が揺れる。
スバルは思わず叫ぶ。
「ヴィルヘルムさん!」
老剣士は落ちない。
白鯨の毛を踏み、肉を蹴り、さらに顔へ向かう。
だが、白鯨の動きが変わった。
巨体が急降下する。
空を泳ぐ白い山が、地面へ向かって落ちてくる。
「散開!」
クルシュの号令。
兵たちが左右へ逃げる。
パトラッシュも跳ぶ。
地面が砕けた。
白鯨の巨体が、街道へ体当たりする。
衝撃波が広がり、兵たちが吹き飛ばされる。
スバルもパトラッシュの背から落ちかける。
レムが咄嗟に腕を伸ばし、スバルを掴んだ。
「スバル君!」
「助かった!」
土煙。
霧。
血。
叫び。
戦場が混沌に包まれる。
その中で、白鯨の巨体が再び浮き上がる。
怒っている。
片目を潰され、全身を斬られ、傷つきながらも、なお圧倒的な質量を持っている。
ユイは地竜から飛び降りた。
地上の方が動きやすいと判断したのだ。
「ユイさん!?」
「上からだと狙われやすい」
彼女は地面を蹴った。
常人の速度ではない。
一瞬で負傷兵のそばへ移動し、白鯨の顔へ視線を向ける。
口元に霧が集まる。
また撃つ。
狙いは、負傷兵を抱えて動けない兵たち。
撃たれたら終わり。
だから、撃たれる前に狂わせる。
ユイは白鯨の視線に合わせて踏み込んだ。
白鯨の距離感を半歩ずらす。
狙いが外れる。
霧の塊は、負傷兵たちのすぐ横の地面を抉った。
ユイは負傷兵の腕を掴み、後方へ投げる。
乱暴だが、直撃よりはましだ。
「生きてるなら下がって!」
「お、おう!」
兵が転がりながら返事をする。
ユイは振り返らず、次の攻撃を見た。
白鯨の攻撃は広すぎる。
すべてを守れない。
だが、スバルの周囲と、退避の遅れた数人なら守れる。
それが今の彼女の役割だった。
「白い髪の姉ちゃん、やるやん!」
リカードが叫ぶ。
「守る範囲は狭いわ。期待しすぎないで」
「謙虚やなぁ!」
「事実よ」
ユイは霧をかわしながら、白鯨の下へ潜り込む。
白い腹。
巨大な影。
彼女は拳を握った。
距離を半歩誤認させる。
踏み込みの瞬間を、白鯨の感覚から外す。
そして、跳ぶ。
拳が白鯨の傷口へ叩き込まれた。
肉が裂ける。
血が噴き出す。
白鯨がわずかに身をよじった。
致命傷ではない。
だが、確かに痛みを与えた。
「硬いわね」
ユイは着地し、血を浴びた頬を拭う。
その姿を見て、スバルは一瞬だけ目を見開いた。
盗品蔵で見た時と同じ。
普段は柔らかく笑っている彼女は、やはり弱くない。
ただ、白鯨は規格が違う。
ユイ一人で勝てる相手ではない。
だからこそ、ここには全員がいる。
「スバル君!」
レムの声で、スバルは現実に戻る。
白鯨がまたこちらを向いている。
霧が集まっている。
まずい。
今度の範囲は広い。
逃げても、周囲の負傷者が巻き込まれる。
スバルは歯を食いしばった。
怖い。
怖いが、引けない。
白鯨は自分を追う。
なら、もっと強く引きつけろ。
もっと濃く。
もっとはっきりと。
スバルは胸の奥へ手を伸ばすような気持ちで、叫んだ。
「聞けよ、白鯨!」
レムが振り返る。
「スバル君?」
ユイもスバルを見る。
その目に、警戒が走った。
何かを言おうとしている。
危険なことを。
だが、スバルは止まらなかった。
「俺は――」
心臓を掴まれる恐怖が蘇る。
エミリアが死んだ。
ユイが死んだふりをした。
あの罰が来るかもしれない。
けれど、ここで引きつけなければ、負傷者が消える。
レムがまた消えるかもしれない。
スバルは喉を引き裂くように叫ぶ。
「俺は、死に――!」
その先は、出なかった。
言葉が喉の奥で潰れる。
空気が黒く沈んだ。
見えない手が、世界の裏側から伸びてくるような感覚。
スバルの心臓を、冷たい指が撫でる。
「が、っ……!」
声にならない苦鳴が漏れた。
だが、スバルは倒れない。
心臓は潰れない。
代わりに、全身から何かが溢れた。
濃い。
重い。
甘く腐ったような、最悪の匂い。
魔女の残り香。
レムの顔が強張る。
ユイも息を止めた。
近くにいた兵たちが、理由もわからず顔をしかめる。
白鯨の巨大な眼が、ぎょろりとスバルを向いた。
霧の軌道が変わる。
負傷兵たちへ向かっていた白い砲弾が、スバルへ集中する。
「来た……!」
スバルは叫ぶ。
「パトラッシュ!」
黒い地竜が駆け出した。
レムがスバルの後ろで鉄球を構える。
「無茶をしますね、スバル君!」
「知ってる!」
「でも、今のは助かりました!」
「説教はあとで頼む!」
「はい!」
ユイが地面を蹴る。
今度は霧を見ない。
白鯨の眼を見る。
狙いがスバルに固定されている。
放たれる前に、その狙いをわずかに乱す。
白鯨の撃った霧が、パトラッシュの進路からずれ、地面を抉った。
直後、別の霧がユイの袖をかすめた。
白い靄が布を削る。
布が消える。
皮膚までは届かない。
ユイの顔が強張った。
ほんの少し触れただけで、存在の輪郭を持っていかれるような感覚があった。
「……冗談じゃないわね」
ユイは後退する。
これに直撃すれば、終わる。
死ぬだけでは済まない。
スバルが恐れていた意味が、少しだけわかった。
白鯨がスバルを追い始める。
その背後へ、ヴィルヘルムとリカード率いる部隊が食らいつく。
スバルが囮。
その白鯨の注意が逸れた隙に、攻撃隊が肉へ刃を入れる。
クルシュの指示が飛ぶ。
「追撃隊、前へ! 側面を崩せ! 白鯨の注意はナツキ・スバルに向いている!」
ヴィルヘルムが再び白鯨へ飛び移る。
剣が走る。
リカードたちが下から傷口を狙う。
レムの鉄球が、霧を避けながら白鯨の下顎へ叩き込まれる。
白鯨が鳴く。
怒りと痛みが混じった声。
スバルはパトラッシュの背で必死にしがみつく。
霧が迫る。
尾が迫る。
白い巨体が迫る。
逃げる。
逃げながら、引きつける。
ただ逃げているのではない。
戦場の中央から外へ。
負傷者のいる場所から遠ざける。
攻撃隊が追いやすい位置へ誘導する。
ユイが叫ぶ。
「右へ! そのままだと孤立する!」
「右だ、パトラッシュ!」
地竜が反応する。
霧の弾が左を抉る。
直撃を避ける。
だが、衝撃でスバルの体が浮いた。
「っ!」
レムの腕がスバルの腰を支える。
「落ちないでください!」
「落ちたくて落ちる奴はいねえよ!」
「なら、しっかり掴まって!」
レムの声が強い。
その声に、スバルはかろうじて踏みとどまる。
白鯨がさらに高度を落とした。
ヴィルヘルムがその頭部へ迫る。
片目を潰された白鯨は、残った眼で老剣士を睨む。
巨大な口が開いた。
「ヴィルヘルムさん!」
スバルが叫ぶ。
白鯨の体が急に反転した。
ヴィルヘルムの足元が崩れる。
それでも彼は剣を突き立てて踏みとどまる。
だが、白鯨の口が迫る。
ユイが反応した。
彼女は地面を蹴り、白鯨の頭部へ向かって跳ぶ。
届かない距離。
普通なら。
だが、ユイはそれを無理やり踏み越えた。
足場にしたのは、空気ではない。
白鯨の周囲に漂う霧の濃淡。
踏み込めるはずのない場所を、踏み込める場所に変えたかのように、ユイの体が跳ね上がる。
「ヴィルヘルムさん!」
彼女の手が、老剣士の外套を掴んだ。
引く。
だが、遅い。
白鯨の口が閉じる。
ユイはヴィルヘルムを完全には引き抜けなかった。
代わりに、自分も白鯨の顎に巻き込まれかける。
レムの鉄球が飛んだ。
鎖が伸び、ユイの体に絡む。
「ユイ様!」
レムが渾身の力で引く。
ユイの体が空中から引き戻される。
白鯨の歯が、ほんの少し遅れて閉じた。
ヴィルヘルムの姿が消える。
白鯨に、呑まれた。
「ヴィルヘルムさんッ!」
スバルの叫びが戦場に響く。
ユイは地面に転がり、肩で息をした。
右腕の袖が裂け、歯にかすったのか血が流れている。
レムが駆け寄りかける。
「ユイ様!」
「私は動ける!」
ユイはすぐに起き上がった。
だが、表情は険しい。
「助けきれなかった」
その声に、悔しさが滲んだ。
レムも唇を噛む。
スバルは白鯨を見る。
ヴィルヘルムが呑まれた。
リカードも白鯨の尾に吹き飛ばされ、地面へ叩きつけられている。
鉄の牙の陣形が乱れる。
兵たちの間に動揺が走る。
勝てると思った流れが、一瞬で崩れた。
白鯨が、残った眼を赤く染める。
霧がさらに濃くなる。
空気が重くなる。
スバルの喉が乾いた。
ここからだ。
ここからが、本当の地獄だ。
だが、終わらせない。
ヴィルヘルムを。
レムを。
ユイを。
誰も、ここで終わらせない。
スバルはパトラッシュの首を叩いた。
「まだだ……!」
震える声を、無理やり前へ押し出す。
「まだ終わってねえぞ、白鯨!」
白鯨が、再び鳴いた。
空気が震える。
大地が軋む。
白い霧が、戦場をさらに深く塗り潰していく。
ヴィルヘルムが呑まれた。
リカードが倒れた。
鉄の牙の陣形は乱れ、クルシュ陣営の兵たちにも動揺が広がっている。
それでも、白鯨は止まらない。
片目を失い、全身に傷を刻まれてなお、空を泳ぐ白い災厄は健在だった。
白鯨の残った眼がぎょろりと動く。
赤い視線が、スバルを捉えた。
魔女の匂い。
先ほど、言い切れなかった言葉の代わりに溢れた濃い残り香。
それに引き寄せられるように、白鯨の巨体がスバルへ向きを変える。
「スバル君、来ます!」
レムが叫ぶ。
「わかってる!」
パトラッシュが地を蹴った。
霧の弾が背後へ落ちる。
地面が抉れ、そこにあったはずの足跡ごと白く消える。
スバルは歯を食いしばった。
当たれば終わりだ。
死ぬだけではない。
誰にも覚えられなくなる。
レムが消えたあの感覚が、まだ胸の奥に残っている。
だからこそ、引けなかった。
「こっちだ、デカブツ!」
スバルは叫ぶ。
「俺を見ろ! 俺だけ見てろ!」
白鯨の口が開く。
霧が渦を巻く。
今度は広い。
スバルだけでなく、周囲の負傷者や後方部隊まで巻き込む軌道だった。
「まずい……!」
レムが鉄球を構える。
だが、霧は鉄球で殴ってどうにかなるものではない。
ユイが動いた。
地面を蹴り、スバルたちの進路と霧の間へ滑り込む。
白い髪が霧の中で揺れた。
ユイは霧そのものではなく、白鯨の眼を見る。
狙いは広い。
それでも中心はスバルだ。
白鯨が吐き出す直前、その照準をほんの少しだけ狂わせる。
霧は曲がらない。
ただ、最初に撃ち込まれる場所が変わる。
白鯨の放った霧の塊が、スバルたちの進路からわずかにずれた。
ほんの少し。
だが、その少しが生死を分けた。
霧はパトラッシュの横をかすめ、負傷兵たちの手前で地面を削る。
消えたのは土と石だけ。
人は、残った。
「退がれ! 動ける奴は負傷者を引っ張れ!」
ユイが叫ぶ。
普段の柔らかな声ではない。
戦場で通すための、硬く鋭い声。
兵たちは一瞬だけ彼女を見る。
白い髪の少女が、白鯨の狙いを狂わせた。
何をしたのかはわからない。
けれど、助かった。
それだけで十分だった。
「こっちへ!」
「負傷者を後ろへ!」
「フェリス様のところまで運べ!」
兵たちが動く。
ユイはその動きを確認すると、すぐに次の攻撃を見る。
額に汗が滲んでいた。
一度狙いを外すだけで、体の内側から削られるような重さがある。
白鯨の霧は、ただの攻撃ではない。
触れれば、存在そのものに食い込んでくる。
ぞっとする。
けれど、足は止めない。
「ユイ様、顔色が……!」
レムが叫ぶ。
ユイの息が浅い。
額には汗が浮き、袖は霧に触れた部分だけ不自然に消えている。
ほんの一瞬、足元が揺らいだのを、レムは見逃さなかった。
「大丈夫! 今はスバルくんを見て!」
「はい!」
レムは迷わずスバルへ向き直る。
ユイが何をしているのか、正確にはわからない。
だが、無傷でも平然でもないことだけはわかった。
それでも今のユイは、助けられる側ではない。
助けるために動いている。
なら、自分の役目はスバルを守ること。
レムは鉄球を振るい、白鯨の注意をさらに引きつけるように腹部へ叩き込んだ。
白鯨が痛みに身をよじる。
その隙に、クルシュの号令が飛んだ。
「隊列を立て直せ! 消滅の霧を警戒し、負傷者を後方へ! ナツキ・スバルを中心に白鯨を誘導する!」
クルシュの声で、崩れかけていた兵たちが踏みとどまる。
恐怖はある。
だが、指揮官の声がある。
スバルという囮がいる。
そして、白い髪の少女が白鯨の狙いを狂わせ、青い髪のメイドが鉄球を振るっている。
まだ、戦える。
その空気が戻り始めた時だった。
白鯨の巨体が、不自然に震えた。
霧が濃くなる。
白い靄が白鯨の周囲で渦を巻き、空を覆っていく。
夜払いの砲で照らされた戦場が、再び白に呑まれていく。
「何だ……?」
スバルが呟く。
白鯨の輪郭が揺らいだ。
一つだった影が、霧の中でぶれる。
そして。
三つになった。
「……は?」
スバルの声が漏れる。
空に、白鯨が三体いた。
一体は片目を失い、傷だらけの巨体。
だが、残り二体もまた、白鯨そのものに見える。
大きさも。
気配も。
霧も。
どれが本物か、すぐにはわからない。
兵たちが凍りつく。
「増えた……?」
「白鯨が、三体……?」
「そんな、どうやって……!」
恐怖が一気に膨れ上がる。
一体でも絶望だった。
それが三体。
勝てると思った流れが、また崩れていく。
白鯨の一体が霧を放つ。
別の一体が尾で地面を叩く。
さらにもう一体が、空から低く降りてくる。
戦場が分断された。
クルシュが剣を構える。
「怯むな! 分散し、各個に対応せよ!」
だが、声を張っても、兵たちの恐怖は完全には消えない。
白鯨三体。
その光景は、あまりにも理不尽だった。
スバルの頭の中も、一瞬真っ白になる。
三体。
こんなの、前には見ていない。
前の周では、逃げるだけだった。
白鯨の全てを見たわけではない。
だから、知らなかった。
この怪物には、まだこんな手がある。
「くそ……!」
スバルは歯を食いしばる。
考えろ。
ここで止まるな。
三体全部が本物なら、勝ち目はない。
なら、違う。
違うはずだ。
白鯨が三体に増えたのではなく、そう見せている。
霧。
錯覚。
分身。
何か仕組みがある。
スバルは三体の動きを見る。
全てがスバルを見ているわけではない。
一体は明らかにこちらを追っている。
もう一体は兵たちを散らすように霧を吐く。
残る一体は、高い位置にいて、戦場を見下ろしている。
それに、片目を潰された個体。
傷の位置。
血の跡。
どれだ。
どれが本体だ。
「スバルくん!」
ユイが叫んだ。
「上!」
「上?」
「一体だけ、距離の取り方が違う!」
スバルは顔を上げる。
ユイは白鯨そのものの正体を知っているわけではない。
だが、戦場の見え方を見ている。
霧の流れ。
兵の動き。
三体の位置関係。
一体だけ、攻撃に直接参加せず、霧の濃い高所で戦場を包むように動いている。
まるで、盤面全体を維持するためにいるように。
「本体……?」
スバルの中で、線が繋がる。
「そうか……あいつだ」
レムが振り返る。
「スバル君?」
「あの高いところにいる奴が本体だ! 地上に近い二体は、俺たちを散らすための囮だ!」
「根拠は?」
ユイが短く尋ねる。
「勘だ!」
ユイは一瞬だけスバルを見る。
「……なら、当てにいくしかないわ」
ユイは即座に返した。
こういう時、スバルの勘はただの思いつきではない。
死を越えてきた人間の、異常なまでの危機感だ。
ユイはそれを知っている。
表向きは知らないふりをしていても、今はその直感を戦術として扱う。
スバルはクルシュへ叫んだ。
「クルシュさん! 上だ! 上にいる奴が本体だ!」
クルシュは一瞬だけスバルを見る。
だが、疑っている時間はない。
彼女はすぐに指示を切り替えた。
「本隊は上空の白鯨を警戒! 地上側二体は牽制に留めろ! 本命を逃すな!」
アナスタシアが鉄の牙へ声を飛ばす。
「リカードが動けへん分、あんたらで繋ぎ! ミミ、ヘータロー、ティビー、下の白鯨を散らすんや!」
「はーい!」
「了解です!」
「わかりました!」
鉄の牙が動く。
白鯨の分身らしき二体へ、獣人たちが音の攻撃と機動力で牽制をかける。
レムも鉄球を振るい、一体の進路を塞ぐ。
だが、三体に分かれた白鯨は、攻撃の圧が段違いだった。
霧が増える。
尾が増える。
咆哮が重なる。
兵たちの精神が削られていく。
濃い霧を吸った者が、膝をつく。
目の焦点が合わなくなる。
恐怖に呑まれ、武器を落とす者もいる。
フェリスが後方で叫ぶ。
「霧を吸いすぎた人は下がるにゃ! 治療班、魔力酔いに近い症状として処置! 動けない人は引っ張ってでも後ろ!」
後方も修羅場だった。
それでも、戦線は崩れきらない。
ユイがそこを支えていた。
白鯨の霧を全て防ぐことはできない。
放たれた霧を曲げることもできない。
だが、白鯨が撃つ直前、その狙いをわずかに乱すことはできる。
指揮系統を狙う一撃。
スバルを狙う一撃。
後方の治療班を狙う一撃。
その要所だけを、撃たれる直前に外させる。
白鯨の尾がクルシュへ迫る。
ユイが地面を蹴る。
間に合わない距離。
それでも、彼女の足は届く。
尾の到達位置が半歩狂った。
クルシュの肩口を掠めるはずだった一撃が、彼女の地竜の横を削る。
クルシュは即座に体勢を立て直し、風の刃を放った。
「助かった!」
「礼は後で!」
ユイは着地するより早く、次の白鯨の視線を追う。
体が悲鳴を上げている。
白鯨の狙いを狂わせるたび、頭の奥が軋む。
それでも止めない。
ここでスバルが倒れれば、全部崩れる。
レムが消える。
エミリアも救えない。
だから、止めない。
「ユイ様、足元!」
レムが叫ぶ。
ユイの着地が、ほんのわずかに乱れていた。
普段ならあり得ない。
けれど、今のユイは息を浅くし、額に汗を浮かべ、消えた袖口を押さえる余裕すらない。
レムは理由までは知らない。
ただ、ユイの体が戦場の速度に追いつききらなくなり始めていることだけは見えた。
「平気よ!」
「平気に見えません!」
「今だけ平気なら十分!」
「その言い方がもう平気ではありません!」
ほんの一瞬、二人の間に妙なやり取りが生まれる。
その直後、レムの鉄球が白鯨の分身の顔面を叩いた。
ユイがその隙に、スバルの進路を狙う白鯨の視線を外す。
二人の連携は、まだ粗い。
だが、噛み合い始めていた。
スバルはパトラッシュを走らせながら、上空の白鯨を睨む。
高い。
届かない。
あれを地上へ引きずり下ろさなければ、勝てない。
ただ追わせるだけでは駄目だ。
白鯨は自分を追う。
なら、追わざるを得ない場所へ誘導する。
そこで、スバルの視線が巨大な影へ向いた。
フリューゲルの大樹。
夜空にそびえる、信じられないほど巨大な樹。
街道の目印。
賢者が植えたとも言われる大樹。
白鯨よりもなお大きく、重い。
スバルの頭に、無茶苦茶な考えが浮かぶ。
いや、無茶苦茶ではない。
それしかない。
「……あれだ」
スバルは呟いた。
レムが振り返る。
「スバル君?」
「フリューゲルの大樹を倒す」
レムの目が見開かれる。
「大樹を……?」
「あれで本体を押し潰す。いや、潰しきれなくてもいい。動きを止められれば、ヴィルヘルムさんが……!」
そこまで言って、スバルは奥歯を噛む。
ヴィルヘルムは呑まれた。
死んだのか。
生きているのか。
わからない。
だが、信じるしかない。
あの剣鬼が、白鯨の中でただ死ぬはずがない。
まだ剣を握っていると信じるしかない。
「クルシュさん!」
スバルは叫んだ。
「大樹だ! フリューゲルの大樹を倒して、白鯨を潰す!」
戦場が一瞬止まったように感じた。
あまりにも馬鹿げた提案。
国の名所とも言える大樹を倒す。
しかも、それを白鯨討伐に使う。
普通なら、狂気の沙汰だ。
だが、クルシュは即断した。
「伐倒隊を編成! 大樹の根元へ! 斬撃と魔法で切れ目を入れろ!」
アナスタシアもすぐに声を飛ばす。
「竜車隊、油を回し! 燃やして弱らせる場所を作るんや! 無駄に燃え広がらせたらあかんで!」
商人たちが動く。
兵が動く。
鉄の牙が分身を押さえる。
クルシュの風が大樹の根元を斬りつける。
魔法兵が炎を制御し、根元を弱らせる。
ユイもそこへ走った。
「ユイさん!」
スバルが叫ぶ。
「倒す方向がずれたら終わりでしょう」
ユイは振り返らずに言った。
「少しでも軌道を補正する!」
「そんなことできんのかよ!」
「やるしかないわ!」
ユイは大樹の根元へ駆ける。
巨大すぎる。
人間の力でどうこうできる大きさではない。
だが、すでにクルシュの斬撃が幹に深い傷を入れ、魔法兵が根を焼き、斧を持った兵たちが必死に切り込みを広げている。
ユイは幹に手を当てた。
木そのものを動かすことはできない。
だが、倒れ始める瞬間。
その方向をわずかにずらすことなら。
半歩。
ほんの半歩。
白鯨の進路へ重なるように。
「無茶ばっかりね」
ユイは小さく呟いた。
それが自分に向けた言葉なのか、スバルに向けた言葉なのか、もうわからなかった。
スバルはパトラッシュを走らせる。
大樹の倒れる方向。
そこへ白鯨を誘導する。
白鯨の本体は上空にいる。
スバルを追っている。
ならば、自分があの大樹の下を走り抜ければいい。
白鯨が自分を追って降りてくる、その瞬間に倒す。
狂っている。
だが、狂っていなければ勝てない。
「パトラッシュ、頼むぞ」
黒い地竜が短く鳴いた。
まるで、任せろと言っているようだった。
レムが後ろからスバルを支える。
「スバル君、行くんですね」
「ああ」
「なら、レムも一緒に」
「危ねえぞ」
「スバル君一人よりは安全です」
「言うようになったな」
「スバル君の影響です」
レムは鉄球を握り直す。
その声は少しだけ震えていた。
だが、引く気はない。
スバルは一度だけ息を吐き、叫んだ。
「白鯨! こっちだ!」
胸の奥に、あの匂いを引っ張り上げる。
言葉にはしない。
もう二度と、あの先を言い切らない。
だが、匂いだけで十分だった。
白鯨の本体が、上空から下降を始める。
巨大な影が落ちる。
分身二体も動く。
だが、鉄の牙とクルシュの部隊が食らいつき、足止めする。
「行かせるな!」
「本体を大樹へ誘導している! 邪魔をさせるな!」
リカードが呻きながら起き上がる。
傷だらけの巨体。
それでも、彼は笑った。
「寝てる場合やないなぁ……!」
大斧を握り直し、分身の進路へ立ちはだかる。
ミミが歓声を上げる。
「団長、復活!」
「うるさいわ、ちびども! 噛みつけ!」
鉄の牙が吠える。
戦場の熱が戻る。
スバルは走る。
パトラッシュが大樹の根元へ向かって疾走する。
背後から白鯨の本体が迫る。
霧が来る。
尾が来る。
巨大な口が来る。
レムが鉄球で霧の端を叩き、ユイが大樹の根元からスバルの進路を見て叫ぶ。
「もう少し右! 右へ寄って!」
「パトラッシュ!」
地竜が右へ流れる。
白鯨も追う。
大樹の根元で、幹が軋んだ。
ミシリ、と。
巨大な音。
フリューゲルの大樹が、動き始めた。
「まだ早い!」
ユイが幹に触れたまま、歯を食いしばる。
倒れる。
だが、少しだけ早い。
白鯨の本体が完全に射線へ入っていない。
ここで倒れれば外す。
ユイは全身の力を使って、幹の倒れる感覚をずらす。
止めるのではない。
止められるはずがない。
ただ、倒壊の始まりを一瞬だけ遅らせる。
脳が焼けるように痛んだ。
血が鼻から垂れる。
「ユイ様!」
レムが叫ぶ。
「見ないで! 前!」
ユイが怒鳴る。
スバルは振り返りそうになるのを堪える。
今は、前。
自分が止まれば全部終わる。
白鯨が迫る。
巨大な口が、スバルたちを呑み込もうと開く。
「今だ!」
スバルが叫んだ。
ユイが手を離す。
大樹が、倒れた。
轟音。
世界そのものが裂けるような音だった。
フリューゲルの大樹が、夜空を塞ぎながら崩れ落ちる。
白鯨の本体が気づく。
逃げようとする。
だが、遅い。
スバルとレムを追って、低く降りすぎた。
巨体が、大樹の影に呑まれる。
「パトラッシュ!」
黒い地竜が最後の力で跳んだ。
スバルとレムを乗せたまま、大樹の落下圏から飛び出す。
背後で、白鯨が吠えた。
次の瞬間。
大樹が白鯨を押し潰した。
大地が爆ぜる。
土と石と霧と血が、空へ跳ね上がる。
衝撃波が戦場を薙ぐ。
スバルはパトラッシュの背から投げ出されそうになり、レムがしがみつく。
パトラッシュも地面を滑る。
だが、倒れない。
スバルは必死に顔を上げた。
「やった……か……?」
白い霧の奥。
倒れた大樹の下。
白鯨の本体が、押さえつけられていた。
潰しきれてはいない。
だが、動けない。
巨大な体が大樹に縫い止められ、もがいている。
分身の二体が激しく揺らいだ。
スバルの判断は当たっていた。
本体は、あれだ。
「今だ!」
スバルは叫ぶ。
「本体を叩け!」
クルシュが号令を重ねる。
「総攻撃! 白鯨を討て!」
兵たちが動く。
魔法が降り注ぐ。
鉄の牙が駆ける。
レムがパトラッシュから飛び降り、鉄球を振るう。
ユイもふらつきながら立ち上がった。
鼻血を袖で拭い、呼吸を整える。
視界が少し揺れる。
それでも、まだ動ける。
「まだ……終わってない」
彼女は白鯨へ向かって走った。
大樹の下でもがく白鯨の霧が、最後の抵抗のように噴き出す。
兵たちを呑もうとする白い砲弾。
ユイはその前へ滑り込む。
霧は曲げられない。
なら、撃つ瞬間の狙いをずらす。
一発。
二発。
三発。
三度目で膝が笑った。
四度目は無理だ。
だが、その前にレムの鉄球が白鯨の顎を砕き、クルシュの風が霧を裂いた。
「ユイ様、下がってください!」
「まだ――」
「下がってください!」
レムの声が珍しく強かった。
ユイは一瞬だけ目を丸くし、苦く笑う。
「……わかったわ」
彼女は半歩下がる。
その半歩で、レムが前へ出る。
青い髪の鬼が、鉄球を振るう。
白鯨の傷口へ、重い一撃が叩き込まれる。
そこへ、白鯨の腹の内側から、異音が響いた。
肉が裂ける音。
内側から、何かが斬っている。
スバルの目が見開かれる。
「まさか……」
白鯨の腹が裂けた。
血と肉の奥から、一人の男が姿を現す。
全身を血に濡らし、衣服は破れ、顔も腕も赤く染まっている。
それでも、剣は握っていた。
ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。
剣鬼は、生きていた。
「ヴィルヘルムさん!」
スバルの叫びに、老剣士は答えない。
ただ、白鯨の内側から外へ出ながら、剣を構え直した。
その目は、白鯨だけを見ている。
四百年の災厄。
妻を奪った仇。
長い長い時間の果てに、ようやく刃が届く相手。
ヴィルヘルムは、白鯨の肉を駆け上がる。
大樹に押さえつけられ、身動きの取れない本体の頭部へ。
白鯨が吠える。
だが、その声にはもう、先ほどまでの威圧はなかった。
痛み。
恐怖。
終わりを前にした獣の叫び。
ヴィルヘルムの剣が、白鯨の頭部へ突き立った。
一閃。
二閃。
三閃。
刃が走るたび、白鯨の肉が裂ける。
スバルはその姿を見ていた。
レムも。
ユイも。
クルシュも。
アナスタシアも。
戦場にいる全員が、剣鬼の最後の斬撃を見ていた。
ヴィルヘルムが、剣を高く掲げる。
そして、白鯨の急所へ振り下ろした。
白鯨の絶叫が、夜を裂いた。
霧が暴れ、空が白く弾ける。
分身二体が、同時に揺らいだ。
輪郭が崩れる。
霧へ戻るように、白い巨体が消えていく。
一体。
もう一体。
消える。
残ったのは、大樹の下で動かなくなった本体だけだった。
白鯨は、死んだ。
戦場に、沈黙が落ちる。
誰もすぐには声を出せなかった。
本当に終わったのか。
本当に、あの白鯨を討ったのか。
四百年続いた災厄が。
街道を塞ぎ、人を喰らい、存在を奪い続けた魔獣が。
今、目の前で動かなくなっている。
最初に声を上げたのは、誰だったのかわからない。
「……勝った」
小さな声。
それが、次第に広がる。
「勝ったぞ」
「白鯨を……討った……!」
「やった……やったぞ!」
歓声が爆発した。
兵たちが叫ぶ。
鉄の牙が吠える。
ミミが跳ね回り、ヘータローとティビーが安堵で膝をつく。
フェリスが負傷者の処置を続けながら、目元を拭う。
クルシュは剣を掲げた。
「白鯨討伐、ここに成った!」
その声に、歓声がさらに大きくなる。
スバルはパトラッシュの背で、しばらく動けなかった。
勝った。
勝ったのだ。
レムは消えていない。
ユイも生きている。
クルシュも、アナスタシアも、鉄の牙も、皆が立っている。
犠牲はあった。
消えた者もいる。
戻らない者もいる。
それでも、白鯨は討たれた。
前の周では、ただ逃げるしかなかった災厄を。
今度は、倒した。
「スバル君」
レムの声がした。
振り返ると、彼女がそこにいた。
青い髪。
青い瞳。
確かにそこにいる。
スバルは、息を詰まらせた。
「レム……」
「はい」
「いるな」
「はい。います」
その返事だけで、胸がいっぱいになった。
スバルは笑おうとして、失敗した。
涙が出た。
でも、今度の涙は絶望の涙ではなかった。
「よかった……」
レムは少しだけ目を伏せる。
原作ほど強く抱きしめることはしない。
ただ、スバルの手にそっと触れた。
「スバル君が、諦めなかったからです」
「俺だけじゃない」
スバルは首を振る。
「レムがいた。クルシュさんがいた。ヴィルヘルムさんがいた。アナスタシアがいて、鉄の牙がいて、みんながいた」
そして、少し離れた場所で座り込んでいるユイを見る。
白い髪は血と土で汚れていた。
袖は片方ほとんどなくなり、肩口から血が滲んでいる。
鼻血を拭った跡も残っている。
それでも、彼女は生きていた。
スバルはパトラッシュから降り、ふらつきながらユイのもとへ歩く。
「ユイさん」
「勝ったわね」
ユイは座ったまま言った。
声は落ち着いている。
だが、呼吸は浅い。
かなり無理をしていた。
「怪我は?」
「軽傷よ」
「嘘つけ」
「動けるから軽傷」
「それ、基準おかしいだろ」
ユイは小さく笑った。
スバルは、その笑みを見てようやく肩の力が抜ける。
「助かった」
「私だけじゃないわ」
「それでも、ユイさんがいなかったら、何人か消えてた。俺もたぶん死んでた」
「死なれても困るから」
「……ありがとな」
ユイは少しだけ目を細めた。
いつもの穏やかな顔。
けれど、その奥で何を考えているのか、スバルにはわからない。
記憶があるのか。
ないふりをしているだけなのか。
それとも、本当にこの周のことしか知らないのか。
わからない。
ただ、今はその問いを飲み込んだ。
彼女はここにいる。
それでいい。
その時、ヴィルヘルムが白鯨の亡骸の上から降りてきた。
血まみれの姿。
だが、背筋は真っ直ぐだった。
彼は白鯨の死骸へ背を向け、静かに剣を収める。
そして、空を見上げた。
月が出ていた。
霧が晴れていく。
夜空が、少しずつ戻ってくる。
「テレシア」
その名は、今度はスバルにも聞こえた。
ヴィルヘルムは、誰にも見せるつもりのないような静かな顔で、天を見ていた。
長い戦いが、終わったのだ。
スバルは何も言わなかった。
言える言葉などない。
ただ、頭を下げた。
ヴィルヘルムはそれに気づき、スバルへ向き直る。
「ナツキ殿」
「はい」
「あなたのおかげで、私は妻の仇を討つことができました」
「俺だけじゃありません」
「それでも、あなたがこの場を作った」
ヴィルヘルムは深く頭を下げた。
「感謝を」
スバルは慌てる。
「やめてくださいよ、そんな。俺は……俺は、助けてもらってばっかで」
「助け合ったのです」
ヴィルヘルムは言った。
「それが戦場です」
その言葉が、スバルの胸に残った。
助け合った。
自分はただ守られるだけではなかった。
ただ失敗するだけでもなかった。
誰かと一緒に、勝った。
クルシュが近づいてくる。
「ナツキ・スバル」
「クルシュさん」
「見事だった。卿の情報、覚悟、そして囮としての働きがなければ、白鯨討伐は成らなかっただろう」
「……ありがとうございます」
「約定は果たす。白鯨討伐の功により、我が陣営は魔女教討伐への兵を出そう」
スバルの表情が引き締まる。
そうだ。
終わりではない。
白鯨を倒した。
だが、本当の目的はその先だ。
ロズワール邸。
アーラム村。
エミリア。
ラム。
魔女教。
ペテルギウス。
「お願いします」
スバルは頭を下げた。
「まだ、終わってないんです」
「わかっている」
クルシュは頷く。
「負傷者の処置と戦力の再編を行う。その後、魔女教討伐へ移る」
アナスタシアも近づいてきた。
「いやあ、ほんまに倒してもうたなあ。ナツキくん、あんたえらい博打打ちや」
「勝てたからよかっただけだ」
「勝てば商売になる。それが大事や」
アナスタシアは笑う。
だが、その目は油断なく戦場を見ていた。
「うちの方も、動ける戦力を整理するわ。鉄の牙も無傷やないし、全部は出せへん。でも約束は約束や。できる分は出す」
「助かる」
「あと、ミーティアの件も忘れてへんで?」
スバルはポケットの携帯電話を見る。
画面には、白鯨戦の始まりを告げた時刻がまだ残っていた。
元の世界との繋がり。
だが、もう迷いはなかった。
「白鯨は倒した。約束通り、渡す」
ラッセルが満足げに頷いた。
「確かに受け取りましょう」
スバルは携帯電話を差し出す前に、ほんの一瞬だけ画面を見た。
コンビニ帰りの自分。
何も知らなかった自分。
もう戻れない場所。
その証。
だが、ここで手放す。
今、自分には別のものがある。
レムがいる。
ユイがいる。
エミリアを助けに行く道がある。
スバルは携帯電話を渡した。
手の中が空になる。
不思議と、完全な喪失ではなかった。
代わりに、前へ進む重さが残った。
ユイがその様子を見ていた。
「いいの?」
「いい」
スバルは答える。
「使うべきところで使った。なら、もう十分だ」
「そう」
ユイは短く返した。
でも、少しだけ笑っていた。
戦場では、白鯨の亡骸を前に兵たちが歓声を上げ続けている。
けれど、全員が笑っているわけではない。
消えた者がいる。
倒れた者がいる。
傷ついた者がいる。
勝利は、軽くなかった。
スバルはそれを見渡す。
胸が痛む。
それでも、逃げない。
この犠牲の上に、次を勝たなければならない。
白鯨を倒しただけでは終わらない。
「レム」
「はい」
「行こう」
「はい」
「ユイさん」
「ええ」
「次は魔女教だ」
ユイは立ち上がる。
少しふらついたが、すぐに姿勢を戻した。
「その前に、あなたも私も手当てを受けるべきね」
「今それ言う?」
「今言うことよ」
レムが頷く。
「レムも賛成です。スバル君はすぐ無理をします」
「二対一かよ」
「多数決ね」
ユイが言う。
スバルは苦笑する。
こんな会話ができる。
白鯨を倒した後に。
レムがいる。
ユイがいる。
自分も生きている。
それだけで、少しだけ世界が違って見えた。
フリューゲルの大樹は倒れた。
白鯨は討たれた。
四百年の災厄は終わった。
だが、ナツキ・スバルの戦いは、まだ終わらない。
次に待つのは魔女教。
怠惰の大罪司教。
ペテルギウス・ロマネコンティ。
スバルは、白鯨の亡骸から目を離し、ロズワール領の方角を見た。
今度こそ。
今度こそ、間に合わせる。
白霧の夜は明けようとしていた。
そして、絶望を越えた先に、次の戦場が待っていた。