Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第二十八話 怠惰一閃

 夜明けの光が、血と土に濡れた街道を照らしていた。

 

 白鯨討伐の報は、すぐに全軍へ広がった。

 

 勝利。

 

 それは確かに勝利だった。

 

 けれど、勝利した者たちの多くは、その場に座り込み、肩で息をしていた。

 

 折れた槍。

 

 砕けた車輪。

 

 主を失って震える地竜。

 

 フェリスの治療を待つ負傷者たち。

 

 白鯨が消した者の名を、誰も正確には思い出せない空白。

 

 スバルは、その空白を胸の奥に押し込んだ。

 

 今は立て。

 

 まだ終わっていない。

 

 クルシュ陣営とアナスタシア陣営は、すぐに動き始めた。

 

 負傷者は後方へ。

 

 動ける兵は再編。

 

 魔女教討伐へ向かう者と、負傷者を王都方面へ護送する者とに分けられる。

 

 フェリスは当然、重傷者の治療へ回された。

 

 レムも、そこへ残ることになった。

 

「レムは、本当に残っていいのか」

 

 スバルが確認すると、レムは少しだけ目を伏せた。

 

「本当は、スバル君の隣にいたいです」

 

 その言葉に、スバルの胸が小さく痛む。

 

 レムは続けた。

 

「けれど、今のレムは万全ではありません。フェリス様と負傷者を守る者も必要です。ここで無理をして、肝心な時に動けなくなる方がいけません」

 

 スバルは、少し驚いた。

 

 以前のレムなら、それでも自分についてきただろう。

 

 今でも好意はある。

 

 心配もしてくれている。

 

 だが、それだけで判断を塗り潰さない。

 

 それが、少しだけ頼もしかった。

 

「助かる」

 

「はい」

 

 レムは頷いた。

 

「だから、スバル君も戻ってきてください」

 

「ああ。戻る」

 

「約束です」

 

「約束する」

 

 レムはそれ以上、強く言わなかった。

 

 ただ、青い瞳でスバルを見つめてから、フェリスのいる治療班へ向かった。

 

 その背中を見送っていると、横からユイが声をかける。

 

「寂しい?」

 

「……まあな」

 

「素直ね」

 

「今さら格好つけても仕方ねえだろ」

 

 ユイは薄く笑った。

 

 肩口の包帯は巻き直されている。

 

 顔色はまだよくない。

 

 それでも、彼女は討伐隊に加わるつもりでいた。

 

「ユイさんは、言っても残らねえよな」

 

「ええ」

 

「即答か」

 

「スバルくんが前に出るなら、私は近くで見ている方がいい」

 

「俺が危なっかしいから?」

 

「それもあるわ」

 

「否定してほしかった」

 

「白鯨戦の後で?」

 

「……無理だな」

 

 スバルは息を吐く。

 

 ユイは、ペテルギウスを知らない。

 

 この周では、まだ見えざる手も見ていない。

 

 ただ、白鯨戦でスバルが敵を引き寄せる役になったことだけは見ていた。

 

 だから、今の彼女が言う「近くで見る」は、未来を知っている者の言葉ではない。

 

 この場で観察した上での判断だ。

 

「ただし」

 

 ユイは続ける。

 

「私は魔女教のことを詳しく知らない。ペテルギウスがどんな相手なのかも、スバルくんが話した以上のことは知らない。だから、知らないものを知っているようには動けないわ」

 

「それでいい」

 

 スバルは頷いた。

 

「見たものだけで判断してくれ」

 

「ええ。スバルくんも、言えることは言って」

 

「……言える範囲でな」

 

 ユイはそれ以上、踏み込まなかった。

 

 その距離感もまた、助かった。

 

 やがて、街道の向こうから一団が戻ってきた。

 

 街道封鎖を担当していた傭兵団の一部。

 

 そして、その先頭に立つ騎士。

 

 紫紺の髪。

 

 整った立ち姿。

 

 スバルの胸の奥に、まだ古い怒りが残っている相手。

 

 ユリウス・ユークリウス。

 

「本当にやってのけたのだね」

 

 ユリウスは、白鯨の亡骸を見てから、スバルへ視線を戻した。

 

「白鯨討伐は、王国にとっても長年の悲願だった。君たちは、それを成し遂げた」

 

「俺一人でやったわけじゃねえよ」

 

「それでも、君がこの場を作ったのは事実だ」

 

 ユリウスの言葉は真っ直ぐだった。

 

 だから余計に、スバルの中の感情は複雑になる。

 

 嫌いだ。

 

 まだ嫌いだ。

 

 王城でのことを忘れたわけではない。

 

 けれど、今ここで意地を張っても、誰も救えない。

 

 スバルは拳を握り、頭を下げた。

 

「援軍、助かる」

 

 ユリウスの目がわずかに動いた。

 

 スバルは続ける。

 

「それと……王城でのこと。俺は、間違えた。エミリアの立場も、お前ら騎士の立場も、自分の立場も、何も考えずに喚いた」

 

 言葉にするたび、胸が痛む。

 

 だが、言わなければならなかった。

 

「悪かった」

 

 ユリウスはしばらく黙っていた。

 

 そして、静かに目を伏せる。

 

「私も、君を見誤っていた。君の愚かさだけを見て、奥にあるものを軽んじた」

 

「褒めてるのか貶してるのか、わかんねえな」

 

「両方だろうね」

 

「そういうとこだぞ」

 

 スバルは顔をしかめた。

 

 けれど、少しだけ空気が緩む。

 

 ユリウスも、わずかに口元を緩めた。

 

「それで、君は私を許せるのかい?」

 

「無理だな」

 

 スバルは即答した。

 

「俺は、お前が嫌いだ」

 

「奇遇だね。私も、君と友人になれる気はあまりしない」

 

「なら、ちょうどいい」

 

「そうだね」

 

 二人は睨み合うように見つめ合った。

 

 だが、その間には、以前とは違うものがあった。

 

 敵意だけではない。

 

 最低限の信頼。

 

 今だけでも背中を預ける覚悟。

 

 それで十分だった。

 

 ユリウスは指先に小さな赤い光を灯す。

 

「君には、私の準精霊を一体つける」

 

「精霊?」

 

「イアだ。探知と防御に役立つ。君は魔女教に狙われやすいだろう。君の周囲に異常があれば、私にも伝わる」

 

 赤い光が、スバルの肩のそばに浮かんだ。

 

 小さく瞬き、スバルの周囲をくるりと回る。

 

「よろしくな、イア」

 

 光は答えるように揺れた。

 

 ユイがそれを見て、少しだけ目を細める。

 

「綺麗ね」

 

「見た目以上に優秀だ」

 

 ユリウスが言う。

 

「そこは普通に自慢するんだな」

 

「事実だからね」

 

「本当そういうとこだぞ」

 

 スバルは肩をすくめる。

 

 それから、表情を引き締めた。

 

 作戦はすぐに組まれた。

 

 白鯨討伐に参加した全軍を動かすことはできない。

 

 魔女教討伐へ向かうのは、選抜された兵と鉄の牙の一部。

 

 ユリウス。

 

 ヴィルヘルム。

 

 スバル。

 

 ユイ。

 

 レムとフェリスは後方で負傷者と護送を守る。

 

 クルシュは後方整理と指揮に残り、アナスタシアは竜車と商人の調整を進める。

 

 目的は、魔女教の潜伏地への先制攻撃。

 

 そして、ロズワール領への警告と避難準備。

 

 スバルは地図を見ながら言った。

 

「ペテルギウスは、不可視の攻撃を使う」

 

 ユリウスの目が鋭くなる。

 

「見えない攻撃か」

 

「ああ。普通は見えない。けど、俺には見える」

 

「なぜ?」

 

「わからない」

 

 それは本当だった。

 

 理屈は知らない。

 

 ただ、見える。

 

 あの気持ち悪い手が。

 

「俺が方向を言う。お前は、それに合わせて動いてくれ」

 

「君の言葉を信じろ、ということだね」

 

「嫌なら別の方法を考える」

 

「いや」

 

 ユリウスは首を振った。

 

「信じよう。戦場で迷う暇はない」

 

「……助かる」

 

 ユイは黙って聞いていた。

 

 彼女は見えざる手を知らない。

 

 まだ見ていない。

 

 だから、余計な口は挟まない。

 

 ただ、スバルとユリウスのやり取りから、スバルだけに見える何かがあるらしい、と理解しただけだ。

 

「私は、その見えない攻撃自体はわからない」

 

 ユイは言った。

 

「だから、スバルくんの指示と、敵の体の動きを見る。攻撃の直前に癖があるなら、そこだけを拾う」

 

「頼む」

 

「ええ。でも、見えないものを見えているようには動けないわ」

 

「それでいい」

 

 スバルは頷いた。

 

「むしろ、そうしてくれ」

 

 ユイは小さく頷き返した。

 

 討伐隊は、倒れたフリューゲルの大樹と白鯨の亡骸を背にして動き出した。

 

 ロズワール領へ続く森。

 

 メイザース領の奥。

 

 空気は湿り、朝の光は枝葉に遮られて薄くなっていく。

 

 白鯨の霧とは違う。

 

 だが、別の重さがある。

 

 スバルはパトラッシュの背で、手綱を握りしめていた。

 

 肩のそばでは、イアが小さく瞬いている。

 

 ユイは少し後ろ、地竜の背で周囲を見ていた。

 

 地面の跡。

 

 折れた枝。

 

 鳥の声。

 

 風の流れ。

 

 彼女が見ているのは、未来ではない。

 

 今、この森にある不自然さだ。

 

「右の斜面」

 

 ユイが低く言った。

 

 隊が止まる。

 

 ユリウスが振り返る。

 

「何か見えたのか」

 

「いいえ。見えてはいない。でも、鳥の声がそこだけ途切れている。風も変に淀んでいる」

 

 鉄の牙の獣人が鼻を鳴らした。

 

「人の匂いがある。隠しとるな」

 

 スバルの背筋が冷たくなる。

 

「いるな」

 

 ユリウスが頷く。

 

「予定通り、誘い出す」

 

 スバルはパトラッシュから降りた。

 

 イアの赤い光が肩の近くで揺れる。

 

 ユイが一歩前に出ようとする。

 

 スバルは手で制した。

 

「近づきすぎるな」

 

「あなたが一番近づくのでしょう」

 

「俺が餌だからな」

 

「嫌な言い方」

 

「俺も嫌だよ」

 

 それでも、やるしかない。

 

 スバルは森の奥へ歩き出した。

 

 胸の奥から、あの気配を引き出す。

 

 魔女の匂い。

 

 自分でも嫌になる、最悪の残り香。

 

 それを餌にする。

 

 木々の間から、黒い外套が現れた。

 

 一人。

 

 二人。

 

 三人。

 

 そして、その奥。

 

 痩せた体。

 

 緑がかった髪。

 

 異様に開かれた目。

 

 頬を掻きむしる指。

 

 ペテルギウス・ロマネコンティ。

 

 スバルの体が、ほんの一瞬だけ硬直した。

 

 洞窟。

 

 鎖。

 

 壊されるレム。

 

 ぐちゃぐちゃに潰れたユイの体。

 

 狂った笑い声。

 

 記憶が、喉を締めつける。

 

 それでも、スバルは足を止めなかった。

 

「よお」

 

 声が震えないように、奥歯を噛む。

 

「怠惰野郎」

 

 ペテルギウスの首が、不自然に傾いた。

 

「おお……?」

 

 目が見開かれる。

 

 さらに見開かれる。

 

「これは、これはこれはこれはこれは……」

 

 彼は両腕を広げた。

 

「なんという濃密な香り。なんという寵愛。嫉妬の魔女に愛された香り。あなたは、あなたは、あなたは――」

 

 爪が頬を裂く。

 

 血が流れる。

 

「もしや、空席たる傲慢の大罪司教でございますか?」

 

 スバルの心臓が跳ねた。

 

 その言葉の意味を、スバルは完全には知らない。

 

 だが、わかる必要はなかった。

 

 ペテルギウスが自分に食いついた。

 

 それで十分だ。

 

「さあな」

 

 スバルは吐き捨てる。

 

「俺が何に見えるかは、お前の勝手だ」

 

「福音は? あなたの福音はどこに?」

 

「そんなもん、知らねえよ」

 

 その瞬間、ペテルギウスの顔から歓喜が剥がれ落ちた。

 

「知らない?」

 

 指が髪に食い込む。

 

「知らない、知らない、知らないと?」

 

「知らねえって言ってんだろ」

 

「怠惰!」

 

 ペテルギウスの叫びが森を震わせた。

 

「福音を持たず、導きに従わず、寵愛だけを纏いながら愛を示さぬ! なんたる不敬! なんたる怠惰!」

 

 その瞬間、ユリウスの手が動いた。

 

 合図。

 

 森の左右から、鉄の牙の獣人たちが飛び出す。

 

 音の衝撃が黒外套たちの陣形を崩した。

 

 ヴィルヘルムが走る。

 

 白鯨の上を駆けた剣鬼の足は、地上ではさらに鋭い。

 

 ペテルギウスが反応するより早く、刃が肉を裂いた。

 

 血が飛ぶ。

 

 ペテルギウスの体が傾く。

 

 だが、その背後から、黒い歪みが伸びた。

 

 スバルには見えた。

 

 見えざる手。

 

「ヴィルヘルムさん、左!」

 

 叫ぶ。

 

 ヴィルヘルムは見えていない。

 

 それでも、声だけで動いた。

 

 身を沈める。

 

 見えざる手が頭上を通り、背後の木を砕いた。

 

 ユリウスが剣を抜く。

 

「本当に見えているのだな」

 

「見たくねえけどな!」

 

「なら、続けてくれ」

 

「上から三本!」

 

 ユリウスの剣が走る。

 

 見えざる手そのものを完全に斬っているわけではない。

 

 だが、スバルの指示に合わせて軌道へ割り込み、攻撃を成立させない。

 

 イアの赤い光が、スバルの周囲で瞬いた。

 

 ペテルギウスの目が、スバルへ向く。

 

「あなた……見えているのですか?」

 

「見えてんだよ。気色悪い手がな」

 

「不可解、不可解不可解不可解!」

 

 ペテルギウスは歓喜に震える。

 

「寵愛を受け、手を見通し、しかし福音を持たぬ! あなたは何者ですか! 何者なのですか!」

 

「ナツキ・スバルだ」

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

「エミリアを助けるために来た。ただのナツキ・スバルだ!」

 

 ペテルギウスの顔が歪む。

 

 見えざる手がスバルへ迫る。

 

 ユイは、それを見ていない。

 

 見えていない。

 

 けれど、ペテルギウスの目がスバルを捉えた瞬間、肩が不自然に動いたことは見た。

 

 スバルが叫ぼうと息を吸う、その一瞬も見た。

 

 攻撃が来る。

 

 場所は、スバルの正面。

 

 ユイは踏み込む。

 

 敵の距離感を半歩だけ狂わせる。

 

 見えざる手が、スバルの立っていた位置よりわずか奥の地面を抉った。

 

 土が跳ねる。

 

 スバルは転がりながら叫ぶ。

 

「ユイさん!」

 

「何かは見えないわ!」

 

 ユイは即座に返した。

 

「でも、あいつが狙う瞬間は見える!」

 

「十分だ!」

 

 ペテルギウスの目がユイへ向く。

 

「あなたもまた、不快な揺らぎを持っている」

 

「気に入られたいとは思わないわ」

 

「役割を隠し、愛を隠し、己を偽るその在り方――実に怠惰!」

 

 ユイは眉をひそめる。

 

 その言葉の意味を、彼女は知らない。

 

 ペテルギウスの価値観も、福音も、指先も、まだ知らない。

 

 だから、理解したようには振る舞わない。

 

 ただ、敵の注意がこちらへ向いたことだけを利用する。

 

 横へ跳ぶ。

 

 視線をずらす。

 

 その隙に、ヴィルヘルムの剣がさらに深く入った。

 

 黒外套たちは次々に崩れていく。

 

 鉄の牙が周囲を押さえ、ユリウスが不可視の攻撃を捌く。

 

 スバルは喉が裂けるほど叫び続けた。

 

「右! 次、下から! ユリウス、二本まとめて来る!」

 

「承知!」

 

 剣が閃く。

 

 ヴィルヘルムが踏み込む。

 

 そして、最後の一閃。

 

 ペテルギウスの首が飛んだ。

 

 痩せた体が崩れ落ちる。

 

 森に、沈黙が落ちた。

 

 スバルは荒く息を吐いた。

 

 終わった。

 

 そう思いたかった。

 

 だが、喉の奥に残る冷たさは消えない。

 

「……やった、のか?」

 

 誰かが呟く。

 

 ユリウスは剣を下ろさない。

 

 ヴィルヘルムも警戒を解かない。

 

 ユイも、ペテルギウスの死体ではなく、倒れた黒外套たちを見ていた。

 

 彼女は理由を知らない。

 

 乗り移りなど、まだ知るはずもない。

 

 ただ、敵陣の空気が完全には終わっていないことだけを感じ取っている。

 

 その時だった。

 

 倒れていた黒外套の一人が、ゆっくりと立ち上がった。

 

 傷を負っていたはずの女。

 

 先ほどまで動けなかったはずの信徒。

 

 その首が、不自然に傾く。

 

 指が髪を掻きむしる。

 

 スバルの息が止まった。

 

「……まさか」

 

 女の口が裂ける。

 

「愛は、死を越える」

 

 声が違う。

 

 体も違う。

 

 だが、中身は同じだった。

 

 ペテルギウス・ロマネコンティ。

 

「体を替えた……!?」

 

 スバルの叫びに、討伐隊の空気が凍った。

 

 ペテルギウスは笑う。

 

「器が尽きぬ限り、勤勉なる愛は終わらないのです」

 

 見えざる手が伸びた。

 

 先ほどより乱暴で、速い。

 

 一本が兵を掴み、地面へ叩きつける。

 

 骨の砕ける音。

 

 悲鳴。

 

「左から来る! 下がれ!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 ユリウスが反応する。

 

 ヴィルヘルムも一歩引く。

 

 だが、ペテルギウスの器となった女は、傷を負った体で異様な力を振るっていた。

 

 ユイは顔を険しくする。

 

「今の、何?」

 

「わかんねえ!」

 

 スバルは叫ぶ。

 

 正確な仕組みなど知らない。

 

 ただ、起きた。

 

 倒したはずのペテルギウスが、別の体で立ち上がった。

 

 なら、今すべきことは一つだ。

 

「ユリウス! あいつを止める! でも他の黒外套も見ろ! 同じことが起きるかもしれない!」

 

「了解した!」

 

 ユイが即座に叫ぶ。

 

「倒れている信徒を拘束して! 殺すかどうかは後、まず動けないように!」

 

 判断は早かった。

 

 だが、それは未来を知っているからではない。

 

 目の前で、倒れた信徒がペテルギウスになった。

 

 なら、他の倒れた信徒も危険かもしれない。

 

 その推測だけで十分だった。

 

 鉄の牙と兵たちが動く。

 

 黒外套たちを押さえ込む。

 

 ペテルギウスが怒号を上げた。

 

「怠惰! 怠惰怠惰怠惰怠惰ァ!」

 

 見えざる手が暴れる。

 

 スバルが叫び、ユリウスが捌き、ヴィルヘルムが斬り込む。

 

 ユイは距離を取りながら、ペテルギウスの狙いを観察する。

 

 見えない攻撃は見えない。

 

 だから、見えないものを追わない。

 

 見るのは、敵の目。

 

 肩。

 

 指。

 

 呼吸。

 

 踏み込み。

 

「スバルくん、右に逸れて!」

 

「右!?」

 

「そこに狙いが来てる!」

 

 スバルは反射的に動いた。

 

 直後、さっきまで立っていた場所の地面が砕ける。

 

「見えてねえのに当てんなよ!」

 

「外れたら死ぬわ!」

 

「怖いこと言うな!」

 

 それでも、噛み合っていた。

 

 スバルの視認。

 

 ユリウスの剣。

 

 ヴィルヘルムの決定力。

 

 ユイの観察。

 

 それらが、一つの戦線を作る。

 

 やがて、ヴィルヘルムの刃が女の体を貫いた。

 

 ユリウスの剣が続く。

 

 ペテルギウスの声が途切れる。

 

 女の体が崩れ落ちた。

 

 今度は、全員がすぐに周囲を確認した。

 

 倒れた黒外套たちは拘束されている。

 

 口も塞がれ、手足も縛られている。

 

 それで完全に防げるのかはわからない。

 

 だが、少なくとも、今すぐ別の体で立ち上がることはない。

 

 スバルは膝に手をついて、荒く息を吐いた。

 

「……終わった、のか」

 

「少なくとも、この場の戦闘は終わった」

 

 ユリウスが言った。

 

「この場の、か」

 

「同じ現象が他でも起きる可能性はある」

 

「だよな」

 

 スバルは拳を握りしめる。

 

 ペテルギウスは、ただ殺せば終わる相手ではない。

 

 それが、この周でわかった。

 

 今、ここで得た情報だ。

 

「魔女教徒は、全員ただの雑兵だと思わない方がいい」

 

 スバルは言った。

 

「今の女みたいに、ペテルギウスが移れる器が混じってる可能性がある」

 

「指先、か」

 

 ユリウスが呟く。

 

「指先?」

 

「あの大罪司教の一部、と考えれば、その呼び方が近い」

 

 スバルは頷いた。

 

「そうだな。指先。そう呼ぶのがわかりやすい」

 

 ユイは拘束された信徒を見ながら言う。

 

「なら、村へ入る前に共有して。避難列に不審者を混ぜない。商人や護衛にも確認が要るわ」

 

「商人にまで紛れると思うか?」

 

「可能性の話よ」

 

 ユイは断定しない。

 

「魔女教が村を狙うなら、避難列を壊すのは効果的。竜車や商人に紛れれば近づきやすい。そういう警戒はした方がいい」

 

「……そうだな」

 

 スバルは頷いた。

 

 これは、ユイが知らない未来を語っているわけではない。

 

 今見た敵の性質からの推測。

 

 きちんと情報が分かれている。

 

「アナスタシアにも伝えよう。竜車周りは特に警戒だ」

 

「ええ」

 

 ヴィルヘルムが剣の血を払う。

 

「急ぎましょう。ロズワール辺境伯領への警告が必要です」

 

「はい」

 

 討伐隊は、魔女教の拠点跡を後続に任せ、再び進み出した。

 

 ペテルギウスを一度倒した。

 

 だが、終わっていない。

 

 むしろ、厄介さがはっきりした。

 

 指先。

 

 見えざる手。

 

 乗り換わる狂気。

 

 スバルはそれらを胸に刻む。

 

 森を進むにつれ、空気が少しずつ変わっていった。

 

 湿った花の匂い。

 

 奇妙なほど静かな鳥の声。

 

 地面に落ちた青い花びら。

 

 先行していた斥候が戻ってくる。

 

「前方に異常あり。視界が揺れます。花の匂いが強い」

 

 ユリウスの表情が険しくなる。

 

「幻術の類か」

 

 肩のそばで、イアが赤く瞬いた。

 

 ユイも周囲を見回す。

 

「匂いが濃すぎる。風も変ね」

 

 スバルは喉を鳴らした。

 

 道の先に、青い花が咲いている。

 

 森の中で、そこだけが不自然に鮮やかだった。

 

 一歩、踏み出した瞬間。

 

 視界が揺れた。

 

 音が遠ざかる。

 

 地面が白くなる。

 

「スバルくん!」

 

 ユイの声が遠くなる。

 

 次の瞬間、スバルは一人で立っていた。

 

 森は雪に覆われていた。

 

 吐く息が白い。

 

 空は灰色に沈んでいる。

 

「……幻術かよ」

 

 足元の雪が動く。

 

 いや、雪ではない。

 

 蔦。

 

 白い蔦が足首に絡みついた。

 

「っ!」

 

 腕を縛られる。

 

 喉元へ伸びる。

 

 締め上げられる。

 

 息ができない。

 

 その時、肩の赤い光が弾けた。

 

 イアが炎を散らす。

 

 青い花が燃える。

 

 雪景色に亀裂が入る。

 

 割れる。

 

 砕ける。

 

 現実が戻った。

 

「っ、は……!」

 

 スバルは地面に膝をつく。

 

 目の前には、燃えた青い花。

 

 周囲では、兵たちがそれぞれ幻覚から覚めている。

 

 ユリウスが剣を抜いている。

 

「無事か」

 

「なんとか」

 

 ユイは少し離れた場所で、地竜の首を押さえていた。

 

 顔には緊張が残っている。

 

「ユイさん、何を見た」

 

「屋敷が燃えていたわ」

 

「……悪趣味だな」

 

「ええ」

 

 ユイはそれ以上、何も断定しなかった。

 

 幻術を誰が仕掛けたのか。

 

 なぜそんな幻を見せたのか。

 

 それは、まだわからない。

 

 その時、風が鳴った。

 

 鋭い風刃が、スバルたちの足元を裂く。

 

 ユリウスが剣で弾く。

 

 ヴィルヘルムが前へ出る。

 

 森の上。

 

 斜面の上に、白い外套を纏った少女が立っていた。

 

 桃色の髪。

 

 冷たい目。

 

「ラム……!」

 

 スバルは思わず叫んだ。

 

 ラムはスバルを見下ろし、眉をひそめる。

 

「バルス」

 

 その声には、明確な敵意があった。

 

「ずいぶんな帰還ね」

 

「待て、ラム! 俺たちは――」

 

「白紙の手紙を寄越したと思えば、今度は他陣営の兵を連れて領地へ侵入。説明より先に拘束する理由としては十分よ」

 

「白紙……?」

 

 スバルは言葉を失った。

 

 手紙。

 

 先に送ったはずの連絡。

 

 魔女教襲撃の警告。

 

 それが、白紙。

 

 理由はわからない。

 

 白鯨は倒した。

 

 レムは消えていない。

 

 それでも、何かが起きている。

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

 今、考えるべきことは一つ。

 

 誤解を解く。

 

 村へ行く。

 

 エミリアを助ける。

 

「ラム、聞いてくれ」

 

「聞くかどうかは、内容次第ね」

 

 ラムの風が、再び足元を掠めた。

 

 ユリウスが一歩前へ出ようとする。

 

 スバルは手で止めた。

 

「待て。ここは俺が話す」

 

「危険だ」

 

「わかってる。でも、ラムは敵じゃない」

 

 スバルは一歩前へ出る。

 

 ユイも横へ並ぼうとしたが、スバルは視線だけで制した。

 

 ここで大勢が前に出れば、ラムの警戒は強まる。

 

 ユイはそれを理解したのか、踏みとどまった。

 

 スバルはラムを見上げる。

 

「手紙が白紙になった理由は、俺にもわからない。でも、俺はエミリアを裏切ってない。村を見捨てにも来てない」

 

「信じろと?」

 

「すぐには無理だろうな」

 

 スバルは答えた。

 

「でも、今は疑ってる時間がない。魔女教はもう動いてる。俺たちは森で大罪司教と接触した。ペテルギウスも見た」

 

 ラムの目がわずかに動く。

 

「大罪司教……?」

 

「ああ。倒した。でも、終わってない。奴は別の信徒の体で動いた。魔女教徒の中に、そういう器みたいな奴がいる」

 

 スバルは、今この周で見たことだけを言った。

 

 仕組みまでは知らない。

 

 だから、仕組みを知っているようには語らない。

 

「だから、村人の避難を急がなきゃいけない。屋敷も危ない。エミリアも危ない」

 

 ラムは黙る。

 

 完全には信じていない。

 

 けれど、同行している者たちを見る。

 

 ヴィルヘルム。

 

 ユリウス。

 

 鉄の牙。

 

 クルシュ陣営の兵。

 

 白鯨の血を浴びた者たち。

 

 ただの侵入者にしては、あまりにも戦場帰りの顔をしている。

 

 ユイが静かに口を開いた。

 

「ラムさん。私は状況の全部を知っているわけではないわ」

 

 ラムの視線がユイへ向く。

 

 ユイは、知らないことを知っているようには言わない。

 

「ただ、森で魔女教と交戦したのは事実。ペテルギウスと呼ばれる相手がいたのも事実。倒した後に、別の信徒が同じように動いたのも事実よ」

 

「あなたも、バルスの味方?」

 

「今は、村と屋敷を守るために動いているわ」

 

「答えになっていないわね」

 

「必要な答えではないと思ったから」

 

 ラムは目を細める。

 

 だが、その声から敵意がわずかに薄れた。

 

 ユイは続ける。

 

「疑うなら疑ったままでいい。でも、避難準備だけは先に進めるべきよ。間違いだったら、後で私たちを責めればいい。間違いでなかったら、遅れた分だけ人が死ぬ」

 

 風が止まった。

 

 ラムはしばらく沈黙した。

 

 そして、短く息を吐く。

 

「……バルス」

 

「なんだ」

 

「後で説明は全部聞くわ」

 

「ああ」

 

「嘘だったら、ただでは済まさない」

 

「それでいい」

 

 ラムは斜面から降りた。

 

「村へ行くわ。エミリア様への説明も必要ね」

 

「頼む」

 

「勘違いしないで。信用したわけではないわ」

 

「わかってる」

 

「なら、早く動きなさい。バルスの説明は長いわりに要点が遅いもの」

 

「こんな時まで毒舌かよ」

 

「こんな時だからよ」

 

 そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が戻る。

 

 だが、安心はできない。

 

 白紙の手紙。

 

 ペテルギウスの乗り換わり。

 

 魔女教徒に紛れる指先。

 

 わかったことは増えた。

 

 だが、危険も増えた。

 

 スバルはパトラッシュに乗り直す。

 

 ラムが前へ出る。

 

 ユリウスが隊を整える。

 

 ユイは地竜の上で、まだ燃え残る青い花を見ていた。

 

「ユイさん」

 

「なに?」

 

「さっきの幻術、どう見る」

 

「相手は私たちの足を止めたかった。殺すというより、拘束か攪乱が目的だったように見える」

 

「ラムがやったのか」

 

「少なくとも、ラムさんは関わっている。でも、手紙が白紙になったこととは別問題かもしれない」

 

「だよな」

 

 ユイは頷く。

 

「今は決めつけない方がいいわ。わかっていることは、ラムさんが手紙を白紙だと認識していて、それでこちらを疑ったこと。それだけ」

 

「ちゃんと分ける、か」

 

「ええ。わからないことを、わかったことにしない」

 

 スバルは小さく息を吐く。

 

 その通りだった。

 

 前の周で得た情報。

 

 今この場で得た情報。

 

 推測。

 

 それらを混ぜると、判断を間違える。

 

 今は、この周で得た事実を積み上げる。

 

 そうしなければならない。

 

「行こう」

 

 スバルは言った。

 

「今度こそ、村へ」

 

 討伐隊は再び動き出した。

 

 先頭にはラム。

 

 その後ろにスバル、ユイ、ユリウス、ヴィルヘルム。

 

 白鯨を討った者たちは、今度は魔女教の影を追って、アーラム村へ向かう。

 

 道の先には、まだ何が待っているかわからない。

 

 けれど、もう止まれない。

 

 エミリアがいる。

 

 村人たちがいる。

 

 守らなければならない場所がある。

 

 スバルは、肩のそばで瞬くイアの赤い光を見た。

 

 そして、奥歯を噛みしめる。

 

 ペテルギウスは終わっていない。

 

 だが、こちらも終わっていない。

 

 森を抜ける風が、血と花の匂いを運んでいた。

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