夜明けの光が、血と土に濡れた街道を照らしていた。
白鯨討伐の報は、すぐに全軍へ広がった。
勝利。
それは確かに勝利だった。
けれど、勝利した者たちの多くは、その場に座り込み、肩で息をしていた。
折れた槍。
砕けた車輪。
主を失って震える地竜。
フェリスの治療を待つ負傷者たち。
白鯨が消した者の名を、誰も正確には思い出せない空白。
スバルは、その空白を胸の奥に押し込んだ。
今は立て。
まだ終わっていない。
クルシュ陣営とアナスタシア陣営は、すぐに動き始めた。
負傷者は後方へ。
動ける兵は再編。
魔女教討伐へ向かう者と、負傷者を王都方面へ護送する者とに分けられる。
フェリスは当然、重傷者の治療へ回された。
レムも、そこへ残ることになった。
「レムは、本当に残っていいのか」
スバルが確認すると、レムは少しだけ目を伏せた。
「本当は、スバル君の隣にいたいです」
その言葉に、スバルの胸が小さく痛む。
レムは続けた。
「けれど、今のレムは万全ではありません。フェリス様と負傷者を守る者も必要です。ここで無理をして、肝心な時に動けなくなる方がいけません」
スバルは、少し驚いた。
以前のレムなら、それでも自分についてきただろう。
今でも好意はある。
心配もしてくれている。
だが、それだけで判断を塗り潰さない。
それが、少しだけ頼もしかった。
「助かる」
「はい」
レムは頷いた。
「だから、スバル君も戻ってきてください」
「ああ。戻る」
「約束です」
「約束する」
レムはそれ以上、強く言わなかった。
ただ、青い瞳でスバルを見つめてから、フェリスのいる治療班へ向かった。
その背中を見送っていると、横からユイが声をかける。
「寂しい?」
「……まあな」
「素直ね」
「今さら格好つけても仕方ねえだろ」
ユイは薄く笑った。
肩口の包帯は巻き直されている。
顔色はまだよくない。
それでも、彼女は討伐隊に加わるつもりでいた。
「ユイさんは、言っても残らねえよな」
「ええ」
「即答か」
「スバルくんが前に出るなら、私は近くで見ている方がいい」
「俺が危なっかしいから?」
「それもあるわ」
「否定してほしかった」
「白鯨戦の後で?」
「……無理だな」
スバルは息を吐く。
ユイは、ペテルギウスを知らない。
この周では、まだ見えざる手も見ていない。
ただ、白鯨戦でスバルが敵を引き寄せる役になったことだけは見ていた。
だから、今の彼女が言う「近くで見る」は、未来を知っている者の言葉ではない。
この場で観察した上での判断だ。
「ただし」
ユイは続ける。
「私は魔女教のことを詳しく知らない。ペテルギウスがどんな相手なのかも、スバルくんが話した以上のことは知らない。だから、知らないものを知っているようには動けないわ」
「それでいい」
スバルは頷いた。
「見たものだけで判断してくれ」
「ええ。スバルくんも、言えることは言って」
「……言える範囲でな」
ユイはそれ以上、踏み込まなかった。
その距離感もまた、助かった。
やがて、街道の向こうから一団が戻ってきた。
街道封鎖を担当していた傭兵団の一部。
そして、その先頭に立つ騎士。
紫紺の髪。
整った立ち姿。
スバルの胸の奥に、まだ古い怒りが残っている相手。
ユリウス・ユークリウス。
「本当にやってのけたのだね」
ユリウスは、白鯨の亡骸を見てから、スバルへ視線を戻した。
「白鯨討伐は、王国にとっても長年の悲願だった。君たちは、それを成し遂げた」
「俺一人でやったわけじゃねえよ」
「それでも、君がこの場を作ったのは事実だ」
ユリウスの言葉は真っ直ぐだった。
だから余計に、スバルの中の感情は複雑になる。
嫌いだ。
まだ嫌いだ。
王城でのことを忘れたわけではない。
けれど、今ここで意地を張っても、誰も救えない。
スバルは拳を握り、頭を下げた。
「援軍、助かる」
ユリウスの目がわずかに動いた。
スバルは続ける。
「それと……王城でのこと。俺は、間違えた。エミリアの立場も、お前ら騎士の立場も、自分の立場も、何も考えずに喚いた」
言葉にするたび、胸が痛む。
だが、言わなければならなかった。
「悪かった」
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして、静かに目を伏せる。
「私も、君を見誤っていた。君の愚かさだけを見て、奥にあるものを軽んじた」
「褒めてるのか貶してるのか、わかんねえな」
「両方だろうね」
「そういうとこだぞ」
スバルは顔をしかめた。
けれど、少しだけ空気が緩む。
ユリウスも、わずかに口元を緩めた。
「それで、君は私を許せるのかい?」
「無理だな」
スバルは即答した。
「俺は、お前が嫌いだ」
「奇遇だね。私も、君と友人になれる気はあまりしない」
「なら、ちょうどいい」
「そうだね」
二人は睨み合うように見つめ合った。
だが、その間には、以前とは違うものがあった。
敵意だけではない。
最低限の信頼。
今だけでも背中を預ける覚悟。
それで十分だった。
ユリウスは指先に小さな赤い光を灯す。
「君には、私の準精霊を一体つける」
「精霊?」
「イアだ。探知と防御に役立つ。君は魔女教に狙われやすいだろう。君の周囲に異常があれば、私にも伝わる」
赤い光が、スバルの肩のそばに浮かんだ。
小さく瞬き、スバルの周囲をくるりと回る。
「よろしくな、イア」
光は答えるように揺れた。
ユイがそれを見て、少しだけ目を細める。
「綺麗ね」
「見た目以上に優秀だ」
ユリウスが言う。
「そこは普通に自慢するんだな」
「事実だからね」
「本当そういうとこだぞ」
スバルは肩をすくめる。
それから、表情を引き締めた。
作戦はすぐに組まれた。
白鯨討伐に参加した全軍を動かすことはできない。
魔女教討伐へ向かうのは、選抜された兵と鉄の牙の一部。
ユリウス。
ヴィルヘルム。
スバル。
ユイ。
レムとフェリスは後方で負傷者と護送を守る。
クルシュは後方整理と指揮に残り、アナスタシアは竜車と商人の調整を進める。
目的は、魔女教の潜伏地への先制攻撃。
そして、ロズワール領への警告と避難準備。
スバルは地図を見ながら言った。
「ペテルギウスは、不可視の攻撃を使う」
ユリウスの目が鋭くなる。
「見えない攻撃か」
「ああ。普通は見えない。けど、俺には見える」
「なぜ?」
「わからない」
それは本当だった。
理屈は知らない。
ただ、見える。
あの気持ち悪い手が。
「俺が方向を言う。お前は、それに合わせて動いてくれ」
「君の言葉を信じろ、ということだね」
「嫌なら別の方法を考える」
「いや」
ユリウスは首を振った。
「信じよう。戦場で迷う暇はない」
「……助かる」
ユイは黙って聞いていた。
彼女は見えざる手を知らない。
まだ見ていない。
だから、余計な口は挟まない。
ただ、スバルとユリウスのやり取りから、スバルだけに見える何かがあるらしい、と理解しただけだ。
「私は、その見えない攻撃自体はわからない」
ユイは言った。
「だから、スバルくんの指示と、敵の体の動きを見る。攻撃の直前に癖があるなら、そこだけを拾う」
「頼む」
「ええ。でも、見えないものを見えているようには動けないわ」
「それでいい」
スバルは頷いた。
「むしろ、そうしてくれ」
ユイは小さく頷き返した。
討伐隊は、倒れたフリューゲルの大樹と白鯨の亡骸を背にして動き出した。
ロズワール領へ続く森。
メイザース領の奥。
空気は湿り、朝の光は枝葉に遮られて薄くなっていく。
白鯨の霧とは違う。
だが、別の重さがある。
スバルはパトラッシュの背で、手綱を握りしめていた。
肩のそばでは、イアが小さく瞬いている。
ユイは少し後ろ、地竜の背で周囲を見ていた。
地面の跡。
折れた枝。
鳥の声。
風の流れ。
彼女が見ているのは、未来ではない。
今、この森にある不自然さだ。
「右の斜面」
ユイが低く言った。
隊が止まる。
ユリウスが振り返る。
「何か見えたのか」
「いいえ。見えてはいない。でも、鳥の声がそこだけ途切れている。風も変に淀んでいる」
鉄の牙の獣人が鼻を鳴らした。
「人の匂いがある。隠しとるな」
スバルの背筋が冷たくなる。
「いるな」
ユリウスが頷く。
「予定通り、誘い出す」
スバルはパトラッシュから降りた。
イアの赤い光が肩の近くで揺れる。
ユイが一歩前に出ようとする。
スバルは手で制した。
「近づきすぎるな」
「あなたが一番近づくのでしょう」
「俺が餌だからな」
「嫌な言い方」
「俺も嫌だよ」
それでも、やるしかない。
スバルは森の奥へ歩き出した。
胸の奥から、あの気配を引き出す。
魔女の匂い。
自分でも嫌になる、最悪の残り香。
それを餌にする。
木々の間から、黒い外套が現れた。
一人。
二人。
三人。
そして、その奥。
痩せた体。
緑がかった髪。
異様に開かれた目。
頬を掻きむしる指。
ペテルギウス・ロマネコンティ。
スバルの体が、ほんの一瞬だけ硬直した。
洞窟。
鎖。
壊されるレム。
ぐちゃぐちゃに潰れたユイの体。
狂った笑い声。
記憶が、喉を締めつける。
それでも、スバルは足を止めなかった。
「よお」
声が震えないように、奥歯を噛む。
「怠惰野郎」
ペテルギウスの首が、不自然に傾いた。
「おお……?」
目が見開かれる。
さらに見開かれる。
「これは、これはこれはこれはこれは……」
彼は両腕を広げた。
「なんという濃密な香り。なんという寵愛。嫉妬の魔女に愛された香り。あなたは、あなたは、あなたは――」
爪が頬を裂く。
血が流れる。
「もしや、空席たる傲慢の大罪司教でございますか?」
スバルの心臓が跳ねた。
その言葉の意味を、スバルは完全には知らない。
だが、わかる必要はなかった。
ペテルギウスが自分に食いついた。
それで十分だ。
「さあな」
スバルは吐き捨てる。
「俺が何に見えるかは、お前の勝手だ」
「福音は? あなたの福音はどこに?」
「そんなもん、知らねえよ」
その瞬間、ペテルギウスの顔から歓喜が剥がれ落ちた。
「知らない?」
指が髪に食い込む。
「知らない、知らない、知らないと?」
「知らねえって言ってんだろ」
「怠惰!」
ペテルギウスの叫びが森を震わせた。
「福音を持たず、導きに従わず、寵愛だけを纏いながら愛を示さぬ! なんたる不敬! なんたる怠惰!」
その瞬間、ユリウスの手が動いた。
合図。
森の左右から、鉄の牙の獣人たちが飛び出す。
音の衝撃が黒外套たちの陣形を崩した。
ヴィルヘルムが走る。
白鯨の上を駆けた剣鬼の足は、地上ではさらに鋭い。
ペテルギウスが反応するより早く、刃が肉を裂いた。
血が飛ぶ。
ペテルギウスの体が傾く。
だが、その背後から、黒い歪みが伸びた。
スバルには見えた。
見えざる手。
「ヴィルヘルムさん、左!」
叫ぶ。
ヴィルヘルムは見えていない。
それでも、声だけで動いた。
身を沈める。
見えざる手が頭上を通り、背後の木を砕いた。
ユリウスが剣を抜く。
「本当に見えているのだな」
「見たくねえけどな!」
「なら、続けてくれ」
「上から三本!」
ユリウスの剣が走る。
見えざる手そのものを完全に斬っているわけではない。
だが、スバルの指示に合わせて軌道へ割り込み、攻撃を成立させない。
イアの赤い光が、スバルの周囲で瞬いた。
ペテルギウスの目が、スバルへ向く。
「あなた……見えているのですか?」
「見えてんだよ。気色悪い手がな」
「不可解、不可解不可解不可解!」
ペテルギウスは歓喜に震える。
「寵愛を受け、手を見通し、しかし福音を持たぬ! あなたは何者ですか! 何者なのですか!」
「ナツキ・スバルだ」
スバルは歯を食いしばった。
「エミリアを助けるために来た。ただのナツキ・スバルだ!」
ペテルギウスの顔が歪む。
見えざる手がスバルへ迫る。
ユイは、それを見ていない。
見えていない。
けれど、ペテルギウスの目がスバルを捉えた瞬間、肩が不自然に動いたことは見た。
スバルが叫ぼうと息を吸う、その一瞬も見た。
攻撃が来る。
場所は、スバルの正面。
ユイは踏み込む。
敵の距離感を半歩だけ狂わせる。
見えざる手が、スバルの立っていた位置よりわずか奥の地面を抉った。
土が跳ねる。
スバルは転がりながら叫ぶ。
「ユイさん!」
「何かは見えないわ!」
ユイは即座に返した。
「でも、あいつが狙う瞬間は見える!」
「十分だ!」
ペテルギウスの目がユイへ向く。
「あなたもまた、不快な揺らぎを持っている」
「気に入られたいとは思わないわ」
「役割を隠し、愛を隠し、己を偽るその在り方――実に怠惰!」
ユイは眉をひそめる。
その言葉の意味を、彼女は知らない。
ペテルギウスの価値観も、福音も、指先も、まだ知らない。
だから、理解したようには振る舞わない。
ただ、敵の注意がこちらへ向いたことだけを利用する。
横へ跳ぶ。
視線をずらす。
その隙に、ヴィルヘルムの剣がさらに深く入った。
黒外套たちは次々に崩れていく。
鉄の牙が周囲を押さえ、ユリウスが不可視の攻撃を捌く。
スバルは喉が裂けるほど叫び続けた。
「右! 次、下から! ユリウス、二本まとめて来る!」
「承知!」
剣が閃く。
ヴィルヘルムが踏み込む。
そして、最後の一閃。
ペテルギウスの首が飛んだ。
痩せた体が崩れ落ちる。
森に、沈黙が落ちた。
スバルは荒く息を吐いた。
終わった。
そう思いたかった。
だが、喉の奥に残る冷たさは消えない。
「……やった、のか?」
誰かが呟く。
ユリウスは剣を下ろさない。
ヴィルヘルムも警戒を解かない。
ユイも、ペテルギウスの死体ではなく、倒れた黒外套たちを見ていた。
彼女は理由を知らない。
乗り移りなど、まだ知るはずもない。
ただ、敵陣の空気が完全には終わっていないことだけを感じ取っている。
その時だった。
倒れていた黒外套の一人が、ゆっくりと立ち上がった。
傷を負っていたはずの女。
先ほどまで動けなかったはずの信徒。
その首が、不自然に傾く。
指が髪を掻きむしる。
スバルの息が止まった。
「……まさか」
女の口が裂ける。
「愛は、死を越える」
声が違う。
体も違う。
だが、中身は同じだった。
ペテルギウス・ロマネコンティ。
「体を替えた……!?」
スバルの叫びに、討伐隊の空気が凍った。
ペテルギウスは笑う。
「器が尽きぬ限り、勤勉なる愛は終わらないのです」
見えざる手が伸びた。
先ほどより乱暴で、速い。
一本が兵を掴み、地面へ叩きつける。
骨の砕ける音。
悲鳴。
「左から来る! 下がれ!」
スバルが叫ぶ。
ユリウスが反応する。
ヴィルヘルムも一歩引く。
だが、ペテルギウスの器となった女は、傷を負った体で異様な力を振るっていた。
ユイは顔を険しくする。
「今の、何?」
「わかんねえ!」
スバルは叫ぶ。
正確な仕組みなど知らない。
ただ、起きた。
倒したはずのペテルギウスが、別の体で立ち上がった。
なら、今すべきことは一つだ。
「ユリウス! あいつを止める! でも他の黒外套も見ろ! 同じことが起きるかもしれない!」
「了解した!」
ユイが即座に叫ぶ。
「倒れている信徒を拘束して! 殺すかどうかは後、まず動けないように!」
判断は早かった。
だが、それは未来を知っているからではない。
目の前で、倒れた信徒がペテルギウスになった。
なら、他の倒れた信徒も危険かもしれない。
その推測だけで十分だった。
鉄の牙と兵たちが動く。
黒外套たちを押さえ込む。
ペテルギウスが怒号を上げた。
「怠惰! 怠惰怠惰怠惰怠惰ァ!」
見えざる手が暴れる。
スバルが叫び、ユリウスが捌き、ヴィルヘルムが斬り込む。
ユイは距離を取りながら、ペテルギウスの狙いを観察する。
見えない攻撃は見えない。
だから、見えないものを追わない。
見るのは、敵の目。
肩。
指。
呼吸。
踏み込み。
「スバルくん、右に逸れて!」
「右!?」
「そこに狙いが来てる!」
スバルは反射的に動いた。
直後、さっきまで立っていた場所の地面が砕ける。
「見えてねえのに当てんなよ!」
「外れたら死ぬわ!」
「怖いこと言うな!」
それでも、噛み合っていた。
スバルの視認。
ユリウスの剣。
ヴィルヘルムの決定力。
ユイの観察。
それらが、一つの戦線を作る。
やがて、ヴィルヘルムの刃が女の体を貫いた。
ユリウスの剣が続く。
ペテルギウスの声が途切れる。
女の体が崩れ落ちた。
今度は、全員がすぐに周囲を確認した。
倒れた黒外套たちは拘束されている。
口も塞がれ、手足も縛られている。
それで完全に防げるのかはわからない。
だが、少なくとも、今すぐ別の体で立ち上がることはない。
スバルは膝に手をついて、荒く息を吐いた。
「……終わった、のか」
「少なくとも、この場の戦闘は終わった」
ユリウスが言った。
「この場の、か」
「同じ現象が他でも起きる可能性はある」
「だよな」
スバルは拳を握りしめる。
ペテルギウスは、ただ殺せば終わる相手ではない。
それが、この周でわかった。
今、ここで得た情報だ。
「魔女教徒は、全員ただの雑兵だと思わない方がいい」
スバルは言った。
「今の女みたいに、ペテルギウスが移れる器が混じってる可能性がある」
「指先、か」
ユリウスが呟く。
「指先?」
「あの大罪司教の一部、と考えれば、その呼び方が近い」
スバルは頷いた。
「そうだな。指先。そう呼ぶのがわかりやすい」
ユイは拘束された信徒を見ながら言う。
「なら、村へ入る前に共有して。避難列に不審者を混ぜない。商人や護衛にも確認が要るわ」
「商人にまで紛れると思うか?」
「可能性の話よ」
ユイは断定しない。
「魔女教が村を狙うなら、避難列を壊すのは効果的。竜車や商人に紛れれば近づきやすい。そういう警戒はした方がいい」
「……そうだな」
スバルは頷いた。
これは、ユイが知らない未来を語っているわけではない。
今見た敵の性質からの推測。
きちんと情報が分かれている。
「アナスタシアにも伝えよう。竜車周りは特に警戒だ」
「ええ」
ヴィルヘルムが剣の血を払う。
「急ぎましょう。ロズワール辺境伯領への警告が必要です」
「はい」
討伐隊は、魔女教の拠点跡を後続に任せ、再び進み出した。
ペテルギウスを一度倒した。
だが、終わっていない。
むしろ、厄介さがはっきりした。
指先。
見えざる手。
乗り換わる狂気。
スバルはそれらを胸に刻む。
森を進むにつれ、空気が少しずつ変わっていった。
湿った花の匂い。
奇妙なほど静かな鳥の声。
地面に落ちた青い花びら。
先行していた斥候が戻ってくる。
「前方に異常あり。視界が揺れます。花の匂いが強い」
ユリウスの表情が険しくなる。
「幻術の類か」
肩のそばで、イアが赤く瞬いた。
ユイも周囲を見回す。
「匂いが濃すぎる。風も変ね」
スバルは喉を鳴らした。
道の先に、青い花が咲いている。
森の中で、そこだけが不自然に鮮やかだった。
一歩、踏み出した瞬間。
視界が揺れた。
音が遠ざかる。
地面が白くなる。
「スバルくん!」
ユイの声が遠くなる。
次の瞬間、スバルは一人で立っていた。
森は雪に覆われていた。
吐く息が白い。
空は灰色に沈んでいる。
「……幻術かよ」
足元の雪が動く。
いや、雪ではない。
蔦。
白い蔦が足首に絡みついた。
「っ!」
腕を縛られる。
喉元へ伸びる。
締め上げられる。
息ができない。
その時、肩の赤い光が弾けた。
イアが炎を散らす。
青い花が燃える。
雪景色に亀裂が入る。
割れる。
砕ける。
現実が戻った。
「っ、は……!」
スバルは地面に膝をつく。
目の前には、燃えた青い花。
周囲では、兵たちがそれぞれ幻覚から覚めている。
ユリウスが剣を抜いている。
「無事か」
「なんとか」
ユイは少し離れた場所で、地竜の首を押さえていた。
顔には緊張が残っている。
「ユイさん、何を見た」
「屋敷が燃えていたわ」
「……悪趣味だな」
「ええ」
ユイはそれ以上、何も断定しなかった。
幻術を誰が仕掛けたのか。
なぜそんな幻を見せたのか。
それは、まだわからない。
その時、風が鳴った。
鋭い風刃が、スバルたちの足元を裂く。
ユリウスが剣で弾く。
ヴィルヘルムが前へ出る。
森の上。
斜面の上に、白い外套を纏った少女が立っていた。
桃色の髪。
冷たい目。
「ラム……!」
スバルは思わず叫んだ。
ラムはスバルを見下ろし、眉をひそめる。
「バルス」
その声には、明確な敵意があった。
「ずいぶんな帰還ね」
「待て、ラム! 俺たちは――」
「白紙の手紙を寄越したと思えば、今度は他陣営の兵を連れて領地へ侵入。説明より先に拘束する理由としては十分よ」
「白紙……?」
スバルは言葉を失った。
手紙。
先に送ったはずの連絡。
魔女教襲撃の警告。
それが、白紙。
理由はわからない。
白鯨は倒した。
レムは消えていない。
それでも、何かが起きている。
スバルは歯を食いしばった。
今、考えるべきことは一つ。
誤解を解く。
村へ行く。
エミリアを助ける。
「ラム、聞いてくれ」
「聞くかどうかは、内容次第ね」
ラムの風が、再び足元を掠めた。
ユリウスが一歩前へ出ようとする。
スバルは手で止めた。
「待て。ここは俺が話す」
「危険だ」
「わかってる。でも、ラムは敵じゃない」
スバルは一歩前へ出る。
ユイも横へ並ぼうとしたが、スバルは視線だけで制した。
ここで大勢が前に出れば、ラムの警戒は強まる。
ユイはそれを理解したのか、踏みとどまった。
スバルはラムを見上げる。
「手紙が白紙になった理由は、俺にもわからない。でも、俺はエミリアを裏切ってない。村を見捨てにも来てない」
「信じろと?」
「すぐには無理だろうな」
スバルは答えた。
「でも、今は疑ってる時間がない。魔女教はもう動いてる。俺たちは森で大罪司教と接触した。ペテルギウスも見た」
ラムの目がわずかに動く。
「大罪司教……?」
「ああ。倒した。でも、終わってない。奴は別の信徒の体で動いた。魔女教徒の中に、そういう器みたいな奴がいる」
スバルは、今この周で見たことだけを言った。
仕組みまでは知らない。
だから、仕組みを知っているようには語らない。
「だから、村人の避難を急がなきゃいけない。屋敷も危ない。エミリアも危ない」
ラムは黙る。
完全には信じていない。
けれど、同行している者たちを見る。
ヴィルヘルム。
ユリウス。
鉄の牙。
クルシュ陣営の兵。
白鯨の血を浴びた者たち。
ただの侵入者にしては、あまりにも戦場帰りの顔をしている。
ユイが静かに口を開いた。
「ラムさん。私は状況の全部を知っているわけではないわ」
ラムの視線がユイへ向く。
ユイは、知らないことを知っているようには言わない。
「ただ、森で魔女教と交戦したのは事実。ペテルギウスと呼ばれる相手がいたのも事実。倒した後に、別の信徒が同じように動いたのも事実よ」
「あなたも、バルスの味方?」
「今は、村と屋敷を守るために動いているわ」
「答えになっていないわね」
「必要な答えではないと思ったから」
ラムは目を細める。
だが、その声から敵意がわずかに薄れた。
ユイは続ける。
「疑うなら疑ったままでいい。でも、避難準備だけは先に進めるべきよ。間違いだったら、後で私たちを責めればいい。間違いでなかったら、遅れた分だけ人が死ぬ」
風が止まった。
ラムはしばらく沈黙した。
そして、短く息を吐く。
「……バルス」
「なんだ」
「後で説明は全部聞くわ」
「ああ」
「嘘だったら、ただでは済まさない」
「それでいい」
ラムは斜面から降りた。
「村へ行くわ。エミリア様への説明も必要ね」
「頼む」
「勘違いしないで。信用したわけではないわ」
「わかってる」
「なら、早く動きなさい。バルスの説明は長いわりに要点が遅いもの」
「こんな時まで毒舌かよ」
「こんな時だからよ」
そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が戻る。
だが、安心はできない。
白紙の手紙。
ペテルギウスの乗り換わり。
魔女教徒に紛れる指先。
わかったことは増えた。
だが、危険も増えた。
スバルはパトラッシュに乗り直す。
ラムが前へ出る。
ユリウスが隊を整える。
ユイは地竜の上で、まだ燃え残る青い花を見ていた。
「ユイさん」
「なに?」
「さっきの幻術、どう見る」
「相手は私たちの足を止めたかった。殺すというより、拘束か攪乱が目的だったように見える」
「ラムがやったのか」
「少なくとも、ラムさんは関わっている。でも、手紙が白紙になったこととは別問題かもしれない」
「だよな」
ユイは頷く。
「今は決めつけない方がいいわ。わかっていることは、ラムさんが手紙を白紙だと認識していて、それでこちらを疑ったこと。それだけ」
「ちゃんと分ける、か」
「ええ。わからないことを、わかったことにしない」
スバルは小さく息を吐く。
その通りだった。
前の周で得た情報。
今この場で得た情報。
推測。
それらを混ぜると、判断を間違える。
今は、この周で得た事実を積み上げる。
そうしなければならない。
「行こう」
スバルは言った。
「今度こそ、村へ」
討伐隊は再び動き出した。
先頭にはラム。
その後ろにスバル、ユイ、ユリウス、ヴィルヘルム。
白鯨を討った者たちは、今度は魔女教の影を追って、アーラム村へ向かう。
道の先には、まだ何が待っているかわからない。
けれど、もう止まれない。
エミリアがいる。
村人たちがいる。
守らなければならない場所がある。
スバルは、肩のそばで瞬くイアの赤い光を見た。
そして、奥歯を噛みしめる。
ペテルギウスは終わっていない。
だが、こちらも終わっていない。
森を抜ける風が、血と花の匂いを運んでいた。