アーラム村は、突然の武装集団の到着に大きく揺れていた。
白鯨討伐隊。
クルシュ陣営の兵。
アナスタシア陣営の商人と傭兵。
鉄の牙の獣人たち。
そして、その中心にいるナツキ・スバル。
村人たちは、何が起きているのかわからないまま、不安げに互いの顔を見合わせている。
「白鯨が討たれたって、本当なのか……?」
「でも、なんで俺たちが逃げなきゃならないんだ」
「魔女教って……そんなものが、ここへ?」
ざわめきは広がるばかりだった。
スバルは、奥歯を噛む。
時間がない。
だが、焦って叫んでも駄目だ。
この村の人間にとって、自分はただの客人でしかない。
王都で何をしてきたのかも、白鯨とどう戦ったのかも、彼らにはわからない。
なら、言葉を選ぶしかない。
「聞いてくれ!」
スバルは村の中央で声を張った。
「街道で白鯨が討伐された! でも、その影響で周辺は混乱してる。魔女教がこの辺りを狙って動いてるのも確認してる。だから、一時的に避難してほしい!」
村人たちは動かない。
信じられないのも当然だった。
そこへ、ラムが前へ出る。
桃色の髪を揺らし、冷たい目で村人たちを見渡す。
「静かにしなさい」
大きな声ではない。
けれど、村人たちのざわめきはぴたりと止まった。
「これは屋敷側としても無視できない事態よ。疑問があるなら後で聞くわ。今は子どもと老人を優先して竜車へ。荷物は必要最低限。家財道具を抱えて逃げようとする愚か者は、荷物と一緒に置いていくわ」
「ラムさん……」
「命があれば戻れる。死ねば戻れない。それだけよ」
冷たい言葉だった。
だが、その現実味が、村人たちを動かし始める。
母親が子どもの手を引く。
老人が杖をついて歩き出す。
男たちが家へ走り、必要なものを抱えて戻ってくる。
ユイは竜車のそばで、村人たちの流れを見ていた。
腕には火傷の跡。
肩の包帯には、白鯨戦で滲んだ血がまだ残っている。
それでも、彼女は倒れない。
「荷物は一人一つまで。大きな箱は置いてください。竜車の床が埋まれば、人が乗れません」
「いや、あの、僕の竜車なんですけど!」
オットーが涙目で抗議する。
ユイは平然と振り返った。
「なら、あなたが一番わかるでしょう。どれだけ乗せられるか判断して」
「正論で押し切られるの、商人としてすごく悔しいんですが!」
「なら、悔しがりながら動かして」
「ひどい!」
叫びながらも、オットーは手綱を握り直した。
「はい、乗る人は順番に! 子どもとお年寄りが先です! 荷物は膝に乗る分だけ! 壺は置いて! 壺より命です!」
その少し間の抜けた声に、張り詰めていた村人たちの空気がわずかに動く。
恐怖は消えない。
だが、足は動き始めた。
ユイはその様子を確認しながら、商人たちの列へ視線を移した。
彼女は知っている。
この後、避難列に紛れた魔女教徒が火石で自爆することも。
ペテルギウスが指先を通じて何度も現れることも。
スバルが最後には器にされかけることも。
全部、知っている。
けれど、それをそのまま口にすることはしない。
今のユイは、ただ「森で倒れた信徒が別の動きをした」事実から、危険を推測している人間として振る舞っている。
知らないふり。
疑っているふり。
観察しているふり。
そのどれもが、彼女にとっては慣れた仮面だった。
「ユリウスさん」
「何かな」
「途中から合流した商人や、身元を確認できない護衛は別にして。荷物も、確認できるものは確認して」
「魔女教徒が紛れる可能性か」
「可能性よ。確定ではないわ。でも、避難列に紛れられたら被害が大きい」
嘘ではない。
ただ、全部ではない。
「妥当だ」
ユリウスはすぐに兵へ指示を出した。
商人や護衛の確認が始まる。
何人かは不満げに声を上げたが、白鯨討伐直後の混乱と魔女教の名を出されれば、強く逆らうことはできない。
スバルはペトラたち子どもの前に膝をついた。
「スバル、本当に逃げなきゃだめなの?」
「ああ。今だけでいい」
「戻れる?」
「戻れるようにする」
「ほんと?」
「本当だ」
嘘ではない。
戻れるようにする。
そのために、ここまで来た。
ペトラはしばらくスバルを見て、それから小さく頷いた。
その時だった。
フェリスの耳がぴくりと動いた。
「ねえ、そこの君。ちょっと止まってくれるかにゃ」
フェリスが、荷を抱えた商人風の男の手首を掴む。
男は驚いたように笑った。
「な、なんですか。急いでるんですが」
「その割に、脈が変にゃ」
「は?」
「怖がってる人の脈じゃない。あと、体の中に妙な魔力の塊がある」
男の顔から、表情が抜け落ちた。
スバルの背筋に冷たいものが走る。
「離れろ!」
叫びは、半分しか間に合わなかった。
男の腹部が赤く光る。
火石。
爆発。
ユイが、近くにいた子どもを抱えて地面へ伏せる。
クルシュ陣営の兵が村人を押し倒すように庇う。
ユリウスが剣を構え、フェリスが水の魔法を男の体へ叩き込む。
だが、完全には止めきれない。
爆音が村を揺らした。
熱風。
土煙。
悲鳴。
スバルの体が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
背中に衝撃。
肺の空気が抜ける。
耳鳴り。
白い視界。
誰かの声が遠い。
ラムか。
ユイか。
フェリスか。
スバルは手を伸ばそうとして、意識が沈んだ。
次に目を開けた時、村は戦場になっていた。
「……っ」
スバルは泥の上で跳ね起きる。
頭が痛い。
口の中に血の味がある。
だが、生きている。
「ユイさん!」
叫ぶ。
ユイは竜車の影で、子どもを庇うように倒れていた。
腕に火傷。
肩の包帯に血が滲んでいる。
それでも、目は開いている。
「息をして」
ユイは、震える子どもに言っていた。
「泣いてもいい。でも、息を止めないで」
子どもは小さく頷く。
スバルは安堵する暇もなく、周囲を見渡した。
黒い外套。
魔女教徒。
森から現れた連中が、避難列を襲っている。
竜車が一台横倒しになり、オットーが半泣きで地竜をなだめていた。
「僕、商人なんですけど! なんでこんな戦場みたいなところで竜車動かしてるんですか!」
「今は動かせ!」
「動かしてますよ!」
オットーは泣きそうな声で叫びながら、地竜を落ち着かせる。
ラムの風が魔女教徒の足元を裂く。
ユリウスが剣を振るい、ヴィルヘルムが黒外套の群れへ斬り込む。
鉄の牙の獣人たちが竜車の周囲を守り、クルシュ陣営の兵が村人を後方へ押し出していた。
フェリスは負傷した村人と兵の間を駆け回り、最低限の処置だけを重ねている。
敵は倒れても怯まない。
命を捨てることに、ためらいがない。
その中の一人が、ゆっくりと首を傾けた。
指が髪を掻きむしる。
スバルの喉が詰まる。
「……ペテルギウス」
体は違う。
声も違う。
だが、あの狂気は同じだった。
「愛は、器を越えるのです」
男が笑う。
「勤勉なる愛は、死などでは途切れないのです」
見えざる手が伸びた。
黒い歪みが、スバルには見える。
「ユリウス! 右から二本、上から一本!」
「承知!」
ユリウスの剣が軌道へ割り込む。
ヴィルヘルムが本体へ迫る。
だが、見えざる手の一本が、ヴィルヘルムの足元を狙った。
「ヴィルヘルムさん、下!」
スバルの声に、ヴィルヘルムは反応した。
しかし、完全には避けきれない。
片足を弾かれ、体勢が崩れる。
そこへ別の見えざる手が叩き込まれた。
鈍い音。
ヴィルヘルムの体が地面を転がる。
「ヴィルヘルムさん!」
スバルが叫ぶ。
ヴィルヘルムは起き上がろうとする。
だが、口元から血が流れた。
重傷。
それでも、剣だけは離していない。
フェリスが顔色を変える。
「無茶しすぎにゃ!」
フェリスが駆け寄ろうとした瞬間、別の魔女教徒が竜車へ飛びかかった。
ユイが叫ぶ。
「左の竜車!」
ユイには見えざる手は見えない。
見えないことになっている。
だから、彼女は見えないものを見たようには振る舞わない。
見るのは、ペテルギウスの視線。
肩の揺れ。
指の痙攣。
攻撃の前触れ。
すべてを知っていても、出す情報はそれだけだ。
スバルも反応する。
「ユリウス、竜車の左!」
ユリウスが走る。
見えざる手が竜車の車輪を砕く寸前、剣がその軌道を弾いた。
車輪が軋む。
だが、砕けない。
「見えないものを弾けと言われる身にもなってほしいね」
「やれてるだろ!」
「君の指示があるからだ」
「ならもっと信じろ!」
「十分信じている!」
怒鳴り合いながら、二人は噛み合っていた。
ラムが風で別の信徒を吹き飛ばし、鉄の牙が村人たちの前に壁を作る。
ユイは竜車の側面に回り、避難列の乱れを抑える。
火傷した腕が痛む。
白鯨戦の傷も残っている。
それでも、彼女は声を張った。
「子どもを中央へ! 歩ける大人は外側! 竜車から離れないで!」
指先のペテルギウスは、笑いながら攻撃を続ける。
「怠惰! 守ると口にしながら、守れぬ! 愛を語りながら、手が届かぬ! 怠惰怠惰怠惰ァ!」
「黙れ!」
スバルの怒声が飛ぶ。
その瞬間、指先の意識がスバルへ向く。
ユイはその視線を見た。
「スバルくん、右!」
スバルは転がる。
直後、地面が砕けた。
「助かった!」
「見えてないわ。動きで読んだだけ」
「それで十分だ!」
戦線はぎりぎりだった。
ヴィルヘルムは重傷。
フェリスは治療と戦線維持の間で動かざるを得ない。
ユリウスはスバルの指示に合わせて見えざる手を捌く。
ラムが信徒を押し返す。
鉄の牙が避難列を守る。
ユイが敵の視線と動きから狙いを読み続ける。
だが、指先はまだ動く。
凍りついたような狂気で、何度も何度も攻撃を繰り返す。
スバルは奥歯を噛んだ。
ここで止めなければ、村人が死ぬ。
ラムが死ぬ。
ユイが死ぬ。
ヴィルヘルムも、ユリウスも、フェリスも。
もう、見たくない。
「ユリウス!」
「なんだ!」
「俺を餌にする! あいつが俺を狙った瞬間、首を落とせ!」
「君は本当にそういう策ばかりだな!」
「悪いな、これしかねえ!」
スバルはパトラッシュの背を蹴り、前に出た。
イアが肩のそばで赤く瞬く。
指先のペテルギウスが、スバルを見た。
「寵愛……愛されし器……!」
「来いよ、怠惰野郎!」
スバルは叫んだ。
「俺を見ろ!」
見えざる手が一斉に伸びる。
黒い腕が、スバルの視界いっぱいに広がった。
「上から三! 正面二! 足元一!」
叫ぶ。
ユリウスが動く。
ラムの風が足元の攻撃をずらす。
鉄の牙が別の信徒を押さえ込む。
ユイが一瞬だけ、指先の距離感を狂わせた。
全部は無理。
だが、中心がずれる。
スバルの胸を掴むはずだった見えざる手が、肩を掠めて地面を抉った。
痛みが走る。
だが、生きている。
「今!」
スバルが叫ぶ。
ユリウスが踏み込む。
剣が銀の線を描く。
指先の首が飛んだ。
体が崩れ落ちる。
黒い腕が霧散する。
同時に、周囲の信徒たちも次々に拘束された。
倒れた者はすぐに手足を縛られ、口を塞がれる。
次の器になる可能性を、完全には否定できないからだ。
スバルは荒い息を吐いた。
周囲を見回す。
竜車は動いている。
村人たちは、ほとんどが避難列へ入った。
負傷者はいる。
倒れた兵もいる。
だが、全滅ではない。
ヴィルヘルムは重傷だが、フェリスが処置に入っている。
「死なせないにゃ。絶対に死なせないから、黙って寝てるにゃ」
フェリスの声は怒っていた。
それだけ必死だった。
ヴィルヘルムは苦しげに息を吐きながらも、わずかに頷いた。
魔女教徒は押さえ込まれている。
動ける者はいない。
竜車は動き出した。
村人たちは、怯えながらも、逃げる準備を終えつつあった。
勝った。
少なくとも、この場は。
そんな空気が、ゆっくりと広がり始める。
誰かが息を吐いた。
誰かが座り込んだ。
オットーが力なく手綱に縋りつく。
「……生きてる。僕、生きてる……商人なのに……」
「文句は後で聞くわ」
ユイが言った。
「今は竜車を出して」
「はいぃ……」
ラムも、拘束された信徒たちを一瞥してから息を吐く。
「バルスにしては、よくやった方ね」
「褒めてる?」
「奇跡的に」
「素直じゃねえな」
その時、村の外側から冷たい空気が流れ込んだ。
スバルは顔を上げる。
白い冷気。
澄んだ氷の気配。
村の入口の方で、人々が道を開ける。
銀の髪が見えた。
「スバル!」
エミリアだった。
息を切らし、紫紺の瞳を揺らしている。
その肩の近くで、小さな精霊がふわりと浮かんでいた。
「エミリア……!」
スバルの胸が詰まる。
村にはいなかった。
屋敷側にいた彼女が、異変を知って駆けつけたのだ。
エミリアは村の惨状を見る。
横倒しの竜車。
傷ついた村人。
拘束された黒外套。
重傷のヴィルヘルム。
そして、泥と血に汚れたスバル。
「何が……」
「説明は後だ」
スバルは息を整えながら言った。
「でも、もう大丈夫だ。今は、押さえた」
「本当に?」
「ああ」
その言葉を聞いて、エミリアの顔から少しだけ力が抜けた。
パックが彼女の肩のそばで尻尾を揺らす。
「念のため、危ないのは凍らせておこうか」
「うん。お願い、パック」
エミリアは両手を前へ出す。
冷気が広がった。
足元から氷が走り、拘束された黒外套たちの体をさらに封じていく。
手足。
胴。
口元。
動けないように。
声も出せないように。
殺すのではなく、確実に止める。
村人たちはその光景に息を呑んだ。
恐れもある。
驚きもある。
けれど、今はその氷が、自分たちを守っている。
エミリアは震える手を下ろした。
「これで、動けないと思う」
「助かった」
スバルは言った。
エミリアはスバルを見る。
王都でのこと。
どうして戻ってきたのか。
どうしてこんなことになっているのか。
聞きたいことはいくらでもあるはずだった。
だが、彼女は村人たちの方を見て、それから小さく頷いた。
「今は、みんなを逃がすのが先だよね」
「ああ」
「じゃあ、後で話を聞かせて」
「……わかった」
その言葉を交わした瞬間、スバルの肩のそばで、赤い光が小さく震えた。
イア。
ユリウスの準精霊。
ずっとスバルの近くにいた小さな光。
その光が、ふいに強く瞬いた。
「……イア?」
スバルが呟く。
イアが、スバルから離れた。
まるで、恐ろしいものから逃げるように。
赤い光はユリウスの方へ戻ろうとする。
ユリウスの顔色が変わった。
「スバル、動くな」
「なん、だよ……」
胸の奥が冷たい。
喉の奥で、笑い声が生まれる。
自分のものではない笑い声。
右手が勝手に髪へ伸びる。
掻きむしろうとする。
スバルはその手を左手で押さえつけた。
さっきまで、勝ったと思っていた。
村人は逃がせる。
魔女教徒は拘束した。
エミリアも無事だった。
ヴィルヘルムも、まだ生きている。
そう思った。
その瞬間に、世界の底から悪意が這い上がってきた。
「来るな」
掠れた声が出た。
エミリアが一歩近づく。
「スバル?」
「来るな!」
叫ぶ。
自分の声が歪んでいる。
まずい。
これはまずい。
さっきまで外にいた狂気が、内側から這い上がってくる。
ペテルギウス。
指先。
器。
まさか。
次は、自分なのか。
「スバル!」
エミリアの声。
ラムの声。
ユイが一歩踏み出す。
「スバルくん」
「来るなって言ってんだろ!」
スバルは森へ走った。
村人から離れる。
エミリアから離れる。
ラムから離れる。
ユイから離れる。
フェリスから離れる。
ユリウスから離れる。
自分の体で、誰かを殺す前に。
「ユリウス!」
フェリスが叫ぶ。
「追うにゃ!」
「わかっている!」
ユリウスとフェリスが走る。
ユイも追った。
ユリウスが振り返る。
「君は残れ!」
「嫌よ!」
「危険だ!」
「だから行くの!」
ユイは止まらない。
ユリウスが制止した理由も、フェリスが青ざめた理由も、ユイにはわかっていた。
イアがスバルから逃げた。
スバルが自分から人を遠ざけた。
ペテルギウスは、すでに指先へ移るところを見せている。
そして、ユイはそれ以上を知っている。
このままなら、スバルは器にされる。
彼の口で笑い、彼の手で誰かを殺す。
ナツキ・スバルという少年が、自分ではない何かに塗り潰される。
それを、知っている。
けれど、ユイはそれを口にしない。
今の彼女は、あくまで「この場で見た異常」に反応した人間として動く。
だから叫ぶ。
「今のスバルくんを一人にする方が危ない!」
それは嘘ではない。
ただ、全部ではない。
ユイは地面を蹴った。
止まる理由はなかった。
スバルがペテルギウスに奪われるところを、もう一度見たいわけではない。
けれど、彼が壊れていく瞬間から目を逸らすつもりもなかった。
森の中で、スバルは木に手をついた。
息が荒い。
右手が勝手に頬へ伸びる。
爪が皮膚を裂く。
血が流れる。
「やめろ……俺の体で……笑うな……!」
声が歪む。
首が傾きそうになる。
口角が上がろうとする。
ユリウスが剣を抜く。
フェリスは青ざめていた。
「スバルきゅん……?」
「まだ……俺だ……」
スバルは必死に言った。
「まだ、俺だけど……持たねえ……」
ユイが一歩近づく。
「スバルくん」
「来るな!」
叫んだ瞬間だった。
スバルの背中から、黒い腕が伸びた。
スバルの体の内側から。
ペテルギウスの狂気が、スバルの肉体を通して外へ形を持った。
見えざる手。
それはユリウスへではなく、フェリスへでもなく、近づこうとしていたユイへ向かった。
スバルには見えた。
自分の背から出た黒い腕が、ユイへ伸びていくのが。
見えたのに、止められなかった。
「ユイさん、避けろ!」
ユイには見えない。
見えないことになっている。
そして今、この瞬間に避ける理由もない。
だから避けない。
見えざる手が、ユイの胸を掴んだ。
湿った音がした。
心臓が握り潰される音。
ユイの目が、わずかに見開かれる。
唇から血が溢れた。
白い髪が揺れ、膝が折れる。
「ユイさんッ!」
スバルの叫びが森を裂く。
ユイは地面に倒れた。
胸元が赤く染まっていく。
指先が土を掴み、それから力を失う。
呼吸は止まっている。
目の光が消えていく。
どう見ても、死だった。
だが、倒れる直前、ユイの内側だけは冷たく動いていた。
心臓を潰された。
普通なら即死。
なら、即死の形に合わせる。
血流を止める。
呼吸を止める。
体温を落とす。
瞳孔の反応を鈍らせる。
虚飾で、死体を作る。
痛みはある。
激痛という言葉では足りない。
けれど、声を出さない。
動かない。
死体になる。
スバルくん。
今度も、ちゃんと見てくれた?
ユイは、完全に動かなくなった。
スバルの中で、何かが壊れかける。
まただ。
また、目の前で。
ユイが死んだ。
しかも、今度は。
自分の背から伸びた手で。
自分の体から出た、ペテルギウスの腕で。
心臓を潰した。
「違う……」
スバルの声が震える。
「俺じゃない……俺じゃ……!」
その否定を、内側の何かが笑った。
ペテルギウスが笑う。
スバルの喉の奥で。
スバルの口で。
「違う……俺は……!」
右手が髪を掻きむしる。
首が傾く。
笑みが浮かぶ。
ユリウスが剣を構えた。
「ナツキ・スバル」
声は冷静だった。
けれど、目は苦しげだった。
「君は、まだそこにいるか」
スバルは答えようとした。
だが、口が裂ける。
笑みの形に。
フェリスが震えた声を出す。
「ユリウス……」
「ああ」
スバルは、必死に言葉を押し出した。
「フェリス……」
「スバルきゅん」
「ユリウス……」
喉が笑おうとする。
自分のものではない腕が、背中からさらに伸びようとしている。
このまま戻れば、誰かを殺す。
エミリアを。
ラムを。
村人を。
フェリスを。
ユリウスを。
そして、後方にいるレムまで。
ユイのように、誰かの心臓を潰す。
「殺せ」
フェリスの顔が歪む。
「そんなの……」
「早く!」
スバルの体が跳ねた。
見えざる手が伸びかけている。
ユリウスの顔がさらに険しくなる。
フェリスは唇を噛み、手を伸ばした。
青い魔力がスバルの体へ流れ込む。
治すためではない。
動きを止めるための干渉。
スバルの膝が崩れる。
地面に倒れる。
それでも、首だけが不自然に持ち上がろうとする。
口が笑おうとする。
「いや、だ……」
スバルは泣きそうな声で呟いた。
「こんな顔で……戻りたくねえ……」
ユリウスが剣を構える。
「すまない」
「謝んな……」
スバルは、息を吐く。
「頼む、ユリウス」
「……承った」
銀の刃が上がる。
死ぬのは怖い。
痛いのは嫌だ。
でも、自分の手で誰かを殺す方が、もっと嫌だった。
視界の端に、ユイの死体がある。
胸を血で染めたまま、ぴくりとも動かない。
自分の体から出た手が、彼女を殺した。
その事実が、スバルの心を軋ませる。
あれを、もう誰にも。
「ごめん……」
誰への謝罪か、自分でもわからなかった。
フェリスが顔を背ける。
ユリウスの剣が落ちる。
銀の線が、森の空気を裂いた。
痛み。
冷たさ。
地面。
草。
血。
世界が黒く沈んでいく。
死ぬ。
また、死ぬ。
それでも、覚えろ。
村にエミリアは最初いなかった。
エミリアは、完全に勝ったと思えた後に駆けつけた。
ラムが村人を動かした。
商人に魔女教徒が紛れていた。
火石で自爆した。
ペテルギウスは指先に移る。
ヴィルヘルムは重傷を負った。
エミリアとパックが拘束された信徒を氷で止めた。
完全に勝ったと思った後、イアが離れた。
そこから、自分が危なくなった。
森で、ユイはスバルの体から出た見えざる手に心臓を潰された。
けれど――。
そこまで考えたところで、意識が途切れた。