Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第二十九話 悪辣なる怠惰

 アーラム村は、突然の武装集団の到着に大きく揺れていた。

 

 白鯨討伐隊。

 

 クルシュ陣営の兵。

 

 アナスタシア陣営の商人と傭兵。

 

 鉄の牙の獣人たち。

 

 そして、その中心にいるナツキ・スバル。

 

 村人たちは、何が起きているのかわからないまま、不安げに互いの顔を見合わせている。

 

「白鯨が討たれたって、本当なのか……?」

 

「でも、なんで俺たちが逃げなきゃならないんだ」

 

「魔女教って……そんなものが、ここへ?」

 

 ざわめきは広がるばかりだった。

 

 スバルは、奥歯を噛む。

 

 時間がない。

 

 だが、焦って叫んでも駄目だ。

 

 この村の人間にとって、自分はただの客人でしかない。

 

 王都で何をしてきたのかも、白鯨とどう戦ったのかも、彼らにはわからない。

 

 なら、言葉を選ぶしかない。

 

「聞いてくれ!」

 

 スバルは村の中央で声を張った。

 

「街道で白鯨が討伐された! でも、その影響で周辺は混乱してる。魔女教がこの辺りを狙って動いてるのも確認してる。だから、一時的に避難してほしい!」

 

 村人たちは動かない。

 

 信じられないのも当然だった。

 

 そこへ、ラムが前へ出る。

 

 桃色の髪を揺らし、冷たい目で村人たちを見渡す。

 

「静かにしなさい」

 

 大きな声ではない。

 

 けれど、村人たちのざわめきはぴたりと止まった。

 

「これは屋敷側としても無視できない事態よ。疑問があるなら後で聞くわ。今は子どもと老人を優先して竜車へ。荷物は必要最低限。家財道具を抱えて逃げようとする愚か者は、荷物と一緒に置いていくわ」

 

「ラムさん……」

 

「命があれば戻れる。死ねば戻れない。それだけよ」

 

 冷たい言葉だった。

 

 だが、その現実味が、村人たちを動かし始める。

 

 母親が子どもの手を引く。

 

 老人が杖をついて歩き出す。

 

 男たちが家へ走り、必要なものを抱えて戻ってくる。

 

 ユイは竜車のそばで、村人たちの流れを見ていた。

 

 腕には火傷の跡。

 

 肩の包帯には、白鯨戦で滲んだ血がまだ残っている。

 

 それでも、彼女は倒れない。

 

「荷物は一人一つまで。大きな箱は置いてください。竜車の床が埋まれば、人が乗れません」

 

「いや、あの、僕の竜車なんですけど!」

 

 オットーが涙目で抗議する。

 

 ユイは平然と振り返った。

 

「なら、あなたが一番わかるでしょう。どれだけ乗せられるか判断して」

 

「正論で押し切られるの、商人としてすごく悔しいんですが!」

 

「なら、悔しがりながら動かして」

 

「ひどい!」

 

 叫びながらも、オットーは手綱を握り直した。

 

「はい、乗る人は順番に! 子どもとお年寄りが先です! 荷物は膝に乗る分だけ! 壺は置いて! 壺より命です!」

 

 その少し間の抜けた声に、張り詰めていた村人たちの空気がわずかに動く。

 

 恐怖は消えない。

 

 だが、足は動き始めた。

 

 ユイはその様子を確認しながら、商人たちの列へ視線を移した。

 

 彼女は知っている。

 

 この後、避難列に紛れた魔女教徒が火石で自爆することも。

 

 ペテルギウスが指先を通じて何度も現れることも。

 

 スバルが最後には器にされかけることも。

 

 全部、知っている。

 

 けれど、それをそのまま口にすることはしない。

 

 今のユイは、ただ「森で倒れた信徒が別の動きをした」事実から、危険を推測している人間として振る舞っている。

 

 知らないふり。

 

 疑っているふり。

 

 観察しているふり。

 

 そのどれもが、彼女にとっては慣れた仮面だった。

 

「ユリウスさん」

 

「何かな」

 

「途中から合流した商人や、身元を確認できない護衛は別にして。荷物も、確認できるものは確認して」

 

「魔女教徒が紛れる可能性か」

 

「可能性よ。確定ではないわ。でも、避難列に紛れられたら被害が大きい」

 

 嘘ではない。

 

 ただ、全部ではない。

 

「妥当だ」

 

 ユリウスはすぐに兵へ指示を出した。

 

 商人や護衛の確認が始まる。

 

 何人かは不満げに声を上げたが、白鯨討伐直後の混乱と魔女教の名を出されれば、強く逆らうことはできない。

 

 スバルはペトラたち子どもの前に膝をついた。

 

「スバル、本当に逃げなきゃだめなの?」

 

「ああ。今だけでいい」

 

「戻れる?」

 

「戻れるようにする」

 

「ほんと?」

 

「本当だ」

 

 嘘ではない。

 

 戻れるようにする。

 

 そのために、ここまで来た。

 

 ペトラはしばらくスバルを見て、それから小さく頷いた。

 

 その時だった。

 

 フェリスの耳がぴくりと動いた。

 

「ねえ、そこの君。ちょっと止まってくれるかにゃ」

 

 フェリスが、荷を抱えた商人風の男の手首を掴む。

 

 男は驚いたように笑った。

 

「な、なんですか。急いでるんですが」

 

「その割に、脈が変にゃ」

 

「は?」

 

「怖がってる人の脈じゃない。あと、体の中に妙な魔力の塊がある」

 

 男の顔から、表情が抜け落ちた。

 

 スバルの背筋に冷たいものが走る。

 

「離れろ!」

 

 叫びは、半分しか間に合わなかった。

 

 男の腹部が赤く光る。

 

 火石。

 

 爆発。

 

 ユイが、近くにいた子どもを抱えて地面へ伏せる。

 

 クルシュ陣営の兵が村人を押し倒すように庇う。

 

 ユリウスが剣を構え、フェリスが水の魔法を男の体へ叩き込む。

 

 だが、完全には止めきれない。

 

 爆音が村を揺らした。

 

 熱風。

 

 土煙。

 

 悲鳴。

 

 スバルの体が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。

 

 背中に衝撃。

 

 肺の空気が抜ける。

 

 耳鳴り。

 

 白い視界。

 

 誰かの声が遠い。

 

 ラムか。

 

 ユイか。

 

 フェリスか。

 

 スバルは手を伸ばそうとして、意識が沈んだ。

 

 次に目を開けた時、村は戦場になっていた。

 

「……っ」

 

 スバルは泥の上で跳ね起きる。

 

 頭が痛い。

 

 口の中に血の味がある。

 

 だが、生きている。

 

「ユイさん!」

 

 叫ぶ。

 

 ユイは竜車の影で、子どもを庇うように倒れていた。

 

 腕に火傷。

 

 肩の包帯に血が滲んでいる。

 

 それでも、目は開いている。

 

「息をして」

 

 ユイは、震える子どもに言っていた。

 

「泣いてもいい。でも、息を止めないで」

 

 子どもは小さく頷く。

 

 スバルは安堵する暇もなく、周囲を見渡した。

 

 黒い外套。

 

 魔女教徒。

 

 森から現れた連中が、避難列を襲っている。

 

 竜車が一台横倒しになり、オットーが半泣きで地竜をなだめていた。

 

「僕、商人なんですけど! なんでこんな戦場みたいなところで竜車動かしてるんですか!」

 

「今は動かせ!」

 

「動かしてますよ!」

 

 オットーは泣きそうな声で叫びながら、地竜を落ち着かせる。

 

 ラムの風が魔女教徒の足元を裂く。

 

 ユリウスが剣を振るい、ヴィルヘルムが黒外套の群れへ斬り込む。

 

 鉄の牙の獣人たちが竜車の周囲を守り、クルシュ陣営の兵が村人を後方へ押し出していた。

 

 フェリスは負傷した村人と兵の間を駆け回り、最低限の処置だけを重ねている。

 

 敵は倒れても怯まない。

 

 命を捨てることに、ためらいがない。

 

 その中の一人が、ゆっくりと首を傾けた。

 

 指が髪を掻きむしる。

 

 スバルの喉が詰まる。

 

「……ペテルギウス」

 

 体は違う。

 

 声も違う。

 

 だが、あの狂気は同じだった。

 

「愛は、器を越えるのです」

 

 男が笑う。

 

「勤勉なる愛は、死などでは途切れないのです」

 

 見えざる手が伸びた。

 

 黒い歪みが、スバルには見える。

 

「ユリウス! 右から二本、上から一本!」

 

「承知!」

 

 ユリウスの剣が軌道へ割り込む。

 

 ヴィルヘルムが本体へ迫る。

 

 だが、見えざる手の一本が、ヴィルヘルムの足元を狙った。

 

「ヴィルヘルムさん、下!」

 

 スバルの声に、ヴィルヘルムは反応した。

 

 しかし、完全には避けきれない。

 

 片足を弾かれ、体勢が崩れる。

 

 そこへ別の見えざる手が叩き込まれた。

 

 鈍い音。

 

 ヴィルヘルムの体が地面を転がる。

 

「ヴィルヘルムさん!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 ヴィルヘルムは起き上がろうとする。

 

 だが、口元から血が流れた。

 

 重傷。

 

 それでも、剣だけは離していない。

 

 フェリスが顔色を変える。

 

「無茶しすぎにゃ!」

 

 フェリスが駆け寄ろうとした瞬間、別の魔女教徒が竜車へ飛びかかった。

 

 ユイが叫ぶ。

 

「左の竜車!」

 

 ユイには見えざる手は見えない。

 

 見えないことになっている。

 

 だから、彼女は見えないものを見たようには振る舞わない。

 

 見るのは、ペテルギウスの視線。

 

 肩の揺れ。

 

 指の痙攣。

 

 攻撃の前触れ。

 

 すべてを知っていても、出す情報はそれだけだ。

 

 スバルも反応する。

 

「ユリウス、竜車の左!」

 

 ユリウスが走る。

 

 見えざる手が竜車の車輪を砕く寸前、剣がその軌道を弾いた。

 

 車輪が軋む。

 

 だが、砕けない。

 

「見えないものを弾けと言われる身にもなってほしいね」

 

「やれてるだろ!」

 

「君の指示があるからだ」

 

「ならもっと信じろ!」

 

「十分信じている!」

 

 怒鳴り合いながら、二人は噛み合っていた。

 

 ラムが風で別の信徒を吹き飛ばし、鉄の牙が村人たちの前に壁を作る。

 

 ユイは竜車の側面に回り、避難列の乱れを抑える。

 

 火傷した腕が痛む。

 

 白鯨戦の傷も残っている。

 

 それでも、彼女は声を張った。

 

「子どもを中央へ! 歩ける大人は外側! 竜車から離れないで!」

 

 指先のペテルギウスは、笑いながら攻撃を続ける。

 

「怠惰! 守ると口にしながら、守れぬ! 愛を語りながら、手が届かぬ! 怠惰怠惰怠惰ァ!」

 

「黙れ!」

 

 スバルの怒声が飛ぶ。

 

 その瞬間、指先の意識がスバルへ向く。

 

 ユイはその視線を見た。

 

「スバルくん、右!」

 

 スバルは転がる。

 

 直後、地面が砕けた。

 

「助かった!」

 

「見えてないわ。動きで読んだだけ」

 

「それで十分だ!」

 

 戦線はぎりぎりだった。

 

 ヴィルヘルムは重傷。

 

 フェリスは治療と戦線維持の間で動かざるを得ない。

 

 ユリウスはスバルの指示に合わせて見えざる手を捌く。

 

 ラムが信徒を押し返す。

 

 鉄の牙が避難列を守る。

 

 ユイが敵の視線と動きから狙いを読み続ける。

 

 だが、指先はまだ動く。

 

 凍りついたような狂気で、何度も何度も攻撃を繰り返す。

 

 スバルは奥歯を噛んだ。

 

 ここで止めなければ、村人が死ぬ。

 

 ラムが死ぬ。

 

 ユイが死ぬ。

 

 ヴィルヘルムも、ユリウスも、フェリスも。

 

 もう、見たくない。

 

「ユリウス!」

 

「なんだ!」

 

「俺を餌にする! あいつが俺を狙った瞬間、首を落とせ!」

 

「君は本当にそういう策ばかりだな!」

 

「悪いな、これしかねえ!」

 

 スバルはパトラッシュの背を蹴り、前に出た。

 

 イアが肩のそばで赤く瞬く。

 

 指先のペテルギウスが、スバルを見た。

 

「寵愛……愛されし器……!」

 

「来いよ、怠惰野郎!」

 

 スバルは叫んだ。

 

「俺を見ろ!」

 

 見えざる手が一斉に伸びる。

 

 黒い腕が、スバルの視界いっぱいに広がった。

 

「上から三! 正面二! 足元一!」

 

 叫ぶ。

 

 ユリウスが動く。

 

 ラムの風が足元の攻撃をずらす。

 

 鉄の牙が別の信徒を押さえ込む。

 

 ユイが一瞬だけ、指先の距離感を狂わせた。

 

 全部は無理。

 

 だが、中心がずれる。

 

 スバルの胸を掴むはずだった見えざる手が、肩を掠めて地面を抉った。

 

 痛みが走る。

 

 だが、生きている。

 

「今!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 ユリウスが踏み込む。

 

 剣が銀の線を描く。

 

 指先の首が飛んだ。

 

 体が崩れ落ちる。

 

 黒い腕が霧散する。

 

 同時に、周囲の信徒たちも次々に拘束された。

 

 倒れた者はすぐに手足を縛られ、口を塞がれる。

 

 次の器になる可能性を、完全には否定できないからだ。

 

 スバルは荒い息を吐いた。

 

 周囲を見回す。

 

 竜車は動いている。

 

 村人たちは、ほとんどが避難列へ入った。

 

 負傷者はいる。

 

 倒れた兵もいる。

 

 だが、全滅ではない。

 

 ヴィルヘルムは重傷だが、フェリスが処置に入っている。

 

「死なせないにゃ。絶対に死なせないから、黙って寝てるにゃ」

 

 フェリスの声は怒っていた。

 

 それだけ必死だった。

 

 ヴィルヘルムは苦しげに息を吐きながらも、わずかに頷いた。

 

 魔女教徒は押さえ込まれている。

 

 動ける者はいない。

 

 竜車は動き出した。

 

 村人たちは、怯えながらも、逃げる準備を終えつつあった。

 

 勝った。

 

 少なくとも、この場は。

 

 そんな空気が、ゆっくりと広がり始める。

 

 誰かが息を吐いた。

 

 誰かが座り込んだ。

 

 オットーが力なく手綱に縋りつく。

 

「……生きてる。僕、生きてる……商人なのに……」

 

「文句は後で聞くわ」

 

 ユイが言った。

 

「今は竜車を出して」

 

「はいぃ……」

 

 ラムも、拘束された信徒たちを一瞥してから息を吐く。

 

「バルスにしては、よくやった方ね」

 

「褒めてる?」

 

「奇跡的に」

 

「素直じゃねえな」

 

 その時、村の外側から冷たい空気が流れ込んだ。

 

 スバルは顔を上げる。

 

 白い冷気。

 

 澄んだ氷の気配。

 

 村の入口の方で、人々が道を開ける。

 

 銀の髪が見えた。

 

「スバル!」

 

 エミリアだった。

 

 息を切らし、紫紺の瞳を揺らしている。

 

 その肩の近くで、小さな精霊がふわりと浮かんでいた。

 

「エミリア……!」

 

 スバルの胸が詰まる。

 

 村にはいなかった。

 

 屋敷側にいた彼女が、異変を知って駆けつけたのだ。

 

 エミリアは村の惨状を見る。

 

 横倒しの竜車。

 

 傷ついた村人。

 

 拘束された黒外套。

 

 重傷のヴィルヘルム。

 

 そして、泥と血に汚れたスバル。

 

「何が……」

 

「説明は後だ」

 

 スバルは息を整えながら言った。

 

「でも、もう大丈夫だ。今は、押さえた」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

 その言葉を聞いて、エミリアの顔から少しだけ力が抜けた。

 

 パックが彼女の肩のそばで尻尾を揺らす。

 

「念のため、危ないのは凍らせておこうか」

 

「うん。お願い、パック」

 

 エミリアは両手を前へ出す。

 

 冷気が広がった。

 

 足元から氷が走り、拘束された黒外套たちの体をさらに封じていく。

 

 手足。

 

 胴。

 

 口元。

 

 動けないように。

 

 声も出せないように。

 

 殺すのではなく、確実に止める。

 

 村人たちはその光景に息を呑んだ。

 

 恐れもある。

 

 驚きもある。

 

 けれど、今はその氷が、自分たちを守っている。

 

 エミリアは震える手を下ろした。

 

「これで、動けないと思う」

 

「助かった」

 

 スバルは言った。

 

 エミリアはスバルを見る。

 

 王都でのこと。

 

 どうして戻ってきたのか。

 

 どうしてこんなことになっているのか。

 

 聞きたいことはいくらでもあるはずだった。

 

 だが、彼女は村人たちの方を見て、それから小さく頷いた。

 

「今は、みんなを逃がすのが先だよね」

 

「ああ」

 

「じゃあ、後で話を聞かせて」

 

「……わかった」

 

 その言葉を交わした瞬間、スバルの肩のそばで、赤い光が小さく震えた。

 

 イア。

 

 ユリウスの準精霊。

 

 ずっとスバルの近くにいた小さな光。

 

 その光が、ふいに強く瞬いた。

 

「……イア?」

 

 スバルが呟く。

 

 イアが、スバルから離れた。

 

 まるで、恐ろしいものから逃げるように。

 

 赤い光はユリウスの方へ戻ろうとする。

 

 ユリウスの顔色が変わった。

 

「スバル、動くな」

 

「なん、だよ……」

 

 胸の奥が冷たい。

 

 喉の奥で、笑い声が生まれる。

 

 自分のものではない笑い声。

 

 右手が勝手に髪へ伸びる。

 

 掻きむしろうとする。

 

 スバルはその手を左手で押さえつけた。

 

 さっきまで、勝ったと思っていた。

 

 村人は逃がせる。

 

 魔女教徒は拘束した。

 

 エミリアも無事だった。

 

 ヴィルヘルムも、まだ生きている。

 

 そう思った。

 

 その瞬間に、世界の底から悪意が這い上がってきた。

 

「来るな」

 

 掠れた声が出た。

 

 エミリアが一歩近づく。

 

「スバル?」

 

「来るな!」

 

 叫ぶ。

 

 自分の声が歪んでいる。

 

 まずい。

 

 これはまずい。

 

 さっきまで外にいた狂気が、内側から這い上がってくる。

 

 ペテルギウス。

 

 指先。

 

 器。

 

 まさか。

 

 次は、自分なのか。

 

「スバル!」

 

 エミリアの声。

 

 ラムの声。

 

 ユイが一歩踏み出す。

 

「スバルくん」

 

「来るなって言ってんだろ!」

 

 スバルは森へ走った。

 

 村人から離れる。

 

 エミリアから離れる。

 

 ラムから離れる。

 

 ユイから離れる。

 

 フェリスから離れる。

 

 ユリウスから離れる。

 

 自分の体で、誰かを殺す前に。

 

「ユリウス!」

 

 フェリスが叫ぶ。

 

「追うにゃ!」

 

「わかっている!」

 

 ユリウスとフェリスが走る。

 

 ユイも追った。

 

 ユリウスが振り返る。

 

「君は残れ!」

 

「嫌よ!」

 

「危険だ!」

 

「だから行くの!」

 

 ユイは止まらない。

 

 ユリウスが制止した理由も、フェリスが青ざめた理由も、ユイにはわかっていた。

 

 イアがスバルから逃げた。

 

 スバルが自分から人を遠ざけた。

 

 ペテルギウスは、すでに指先へ移るところを見せている。

 

 そして、ユイはそれ以上を知っている。

 

 このままなら、スバルは器にされる。

 

 彼の口で笑い、彼の手で誰かを殺す。

 

 ナツキ・スバルという少年が、自分ではない何かに塗り潰される。

 

 それを、知っている。

 

 けれど、ユイはそれを口にしない。

 

 今の彼女は、あくまで「この場で見た異常」に反応した人間として動く。

 

 だから叫ぶ。

 

「今のスバルくんを一人にする方が危ない!」

 

 それは嘘ではない。

 

 ただ、全部ではない。

 

 ユイは地面を蹴った。

 

 止まる理由はなかった。

 

 スバルがペテルギウスに奪われるところを、もう一度見たいわけではない。

 

 けれど、彼が壊れていく瞬間から目を逸らすつもりもなかった。

 

 森の中で、スバルは木に手をついた。

 

 息が荒い。

 

 右手が勝手に頬へ伸びる。

 

 爪が皮膚を裂く。

 

 血が流れる。

 

「やめろ……俺の体で……笑うな……!」

 

 声が歪む。

 

 首が傾きそうになる。

 

 口角が上がろうとする。

 

 ユリウスが剣を抜く。

 

 フェリスは青ざめていた。

 

「スバルきゅん……?」

 

「まだ……俺だ……」

 

 スバルは必死に言った。

 

「まだ、俺だけど……持たねえ……」

 

 ユイが一歩近づく。

 

「スバルくん」

 

「来るな!」

 

 叫んだ瞬間だった。

 

 スバルの背中から、黒い腕が伸びた。

 

 スバルの体の内側から。

 

 ペテルギウスの狂気が、スバルの肉体を通して外へ形を持った。

 

 見えざる手。

 

 それはユリウスへではなく、フェリスへでもなく、近づこうとしていたユイへ向かった。

 

 スバルには見えた。

 

 自分の背から出た黒い腕が、ユイへ伸びていくのが。

 

 見えたのに、止められなかった。

 

「ユイさん、避けろ!」

 

 ユイには見えない。

 

 見えないことになっている。

 

 そして今、この瞬間に避ける理由もない。

 

 だから避けない。

 

 見えざる手が、ユイの胸を掴んだ。

 

 湿った音がした。

 

 心臓が握り潰される音。

 

 ユイの目が、わずかに見開かれる。

 

 唇から血が溢れた。

 

 白い髪が揺れ、膝が折れる。

 

「ユイさんッ!」

 

 スバルの叫びが森を裂く。

 

 ユイは地面に倒れた。

 

 胸元が赤く染まっていく。

 

 指先が土を掴み、それから力を失う。

 

 呼吸は止まっている。

 

 目の光が消えていく。

 

 どう見ても、死だった。

 

 だが、倒れる直前、ユイの内側だけは冷たく動いていた。

 

 心臓を潰された。

 

 普通なら即死。

 

 なら、即死の形に合わせる。

 

 血流を止める。

 

 呼吸を止める。

 

 体温を落とす。

 

 瞳孔の反応を鈍らせる。

 

 虚飾で、死体を作る。

 

 痛みはある。

 

 激痛という言葉では足りない。

 

 けれど、声を出さない。

 

 動かない。

 

 死体になる。

 

 スバルくん。

 

 今度も、ちゃんと見てくれた?

 

 ユイは、完全に動かなくなった。

 

 スバルの中で、何かが壊れかける。

 

 まただ。

 

 また、目の前で。

 

 ユイが死んだ。

 

 しかも、今度は。

 

 自分の背から伸びた手で。

 

 自分の体から出た、ペテルギウスの腕で。

 

 心臓を潰した。

 

「違う……」

 

 スバルの声が震える。

 

「俺じゃない……俺じゃ……!」

 

 その否定を、内側の何かが笑った。

 

 ペテルギウスが笑う。

 

 スバルの喉の奥で。

 

 スバルの口で。

 

「違う……俺は……!」

 

 右手が髪を掻きむしる。

 

 首が傾く。

 

 笑みが浮かぶ。

 

 ユリウスが剣を構えた。

 

「ナツキ・スバル」

 

 声は冷静だった。

 

 けれど、目は苦しげだった。

 

「君は、まだそこにいるか」

 

 スバルは答えようとした。

 

 だが、口が裂ける。

 

 笑みの形に。

 

 フェリスが震えた声を出す。

 

「ユリウス……」

 

「ああ」

 

 スバルは、必死に言葉を押し出した。

 

「フェリス……」

 

「スバルきゅん」

 

「ユリウス……」

 

 喉が笑おうとする。

 

 自分のものではない腕が、背中からさらに伸びようとしている。

 

 このまま戻れば、誰かを殺す。

 

 エミリアを。

 

 ラムを。

 

 村人を。

 

 フェリスを。

 

 ユリウスを。

 

 そして、後方にいるレムまで。

 

 ユイのように、誰かの心臓を潰す。

 

「殺せ」

 

 フェリスの顔が歪む。

 

「そんなの……」

 

「早く!」

 

 スバルの体が跳ねた。

 

 見えざる手が伸びかけている。

 

 ユリウスの顔がさらに険しくなる。

 

 フェリスは唇を噛み、手を伸ばした。

 

 青い魔力がスバルの体へ流れ込む。

 

 治すためではない。

 

 動きを止めるための干渉。

 

 スバルの膝が崩れる。

 

 地面に倒れる。

 

 それでも、首だけが不自然に持ち上がろうとする。

 

 口が笑おうとする。

 

「いや、だ……」

 

 スバルは泣きそうな声で呟いた。

 

「こんな顔で……戻りたくねえ……」

 

 ユリウスが剣を構える。

 

「すまない」

 

「謝んな……」

 

 スバルは、息を吐く。

 

「頼む、ユリウス」

 

「……承った」

 

 銀の刃が上がる。

 

 死ぬのは怖い。

 

 痛いのは嫌だ。

 

 でも、自分の手で誰かを殺す方が、もっと嫌だった。

 

 視界の端に、ユイの死体がある。

 

 胸を血で染めたまま、ぴくりとも動かない。

 

 自分の体から出た手が、彼女を殺した。

 

 その事実が、スバルの心を軋ませる。

 

 あれを、もう誰にも。

 

「ごめん……」

 

 誰への謝罪か、自分でもわからなかった。

 

 フェリスが顔を背ける。

 

 ユリウスの剣が落ちる。

 

 銀の線が、森の空気を裂いた。

 

 痛み。

 

 冷たさ。

 

 地面。

 

 草。

 

 血。

 

 世界が黒く沈んでいく。

 

 死ぬ。

 

 また、死ぬ。

 

 それでも、覚えろ。

 

 村にエミリアは最初いなかった。

 

 エミリアは、完全に勝ったと思えた後に駆けつけた。

 

 ラムが村人を動かした。

 

 商人に魔女教徒が紛れていた。

 

 火石で自爆した。

 

 ペテルギウスは指先に移る。

 

 ヴィルヘルムは重傷を負った。

 

 エミリアとパックが拘束された信徒を氷で止めた。

 

 完全に勝ったと思った後、イアが離れた。

 

 そこから、自分が危なくなった。

 

 森で、ユイはスバルの体から出た見えざる手に心臓を潰された。

 

 けれど――。

 

 そこまで考えたところで、意識が途切れた。

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