Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第三話 ただの路地裏

 スバルは歩いていた。

 どこへ向かっているのか、自分でもわかっていなかった。

 果物屋の前から離れ、人混みの中を抜け、知らない通りを曲がり、また曲がる。

 王都の景色は、最初に見た時とはまるで違っていた。

 異世界らしい石畳。

 獣人や亜人が行き交う市場。

 見慣れない果物。

 聞き取れるのに読めない文字。

 ほんの少し前までは、その全部が物語の始まりみたいに見えていた。

 けれど今は違う。

 どこを見ても、死に繋がっている気がした。

 通りの奥に、エルザがいるかもしれない。

 扉を開ければ、血の匂いがするかもしれない。

 誰かと目が合えば、自分だけが知らない罪を責められるかもしれない。

 スバルは腹を押さえた。

 傷はない。

 血もない。

 だが、痛みは残っている。

 腹を裂かれた感覚。

 内側から熱いものがこぼれていく感覚。

 床の冷たさ。

 ユイの手。

 優しい声。

 ――あなたは、悪くないわ。

「……悪くねえわけ、ねえだろ」

 声が漏れた。

 誰にも届かないほど小さい声だった。

 悪くない。

 そう言われた。

 でも、スバルにはそう思えなかった。

 銀髪の少女を傷つけた。

 あの名前で呼んだ。

 ロム爺も、フェルトも助けられなかった。

 ユイはまた、自分を庇って血を流した。

 自分は何もできなかった。

 逃げろと言われても逃げられなかった。

 生きろと言われても、生きられなかった。

 それなのに、悪くないと言われた。

 あの言葉は、救いのはずだった。

 けれど今は、胸の奥に刺さった棘のように抜けない。

「なんなんだよ……」

 スバルは歯を食いしばった。

「なんなんだよ、これ……!」

 怒鳴りそうになって、喉が詰まった。

 周囲の視線が怖かった。

 誰かに見られている気がした。

 誰かに笑われている気がした。

 お前は何もできない。

 お前が動くと、人が死ぬ。

 お前が関わると、誰かが傷つく。

 そう言われている気がした。

 スバルは人混みから逃げるように、細い路地へ入った。

 入ってから、すぐに後悔した。

 薄暗い。

 空気が湿っている。

 表通りの喧騒が遠くなり、代わりに自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。

 一度目の路地裏を思い出した。

 チンピラに絡まれた場所。

 銀髪の少女に助けられた場所。

 あの時はまだ、何も知らなかった。

 自分が危険な目に遭っても、どこかでイベントだと思っていた。

 助けに来るヒロインがいて、そこから物語が始まるのだと、馬鹿みたいに思っていた。

 今は違う。

 助けに来た少女は死ぬ。

 頼れるお姉さんも血を流す。

 そして自分は、何もできずに死ぬ。

 スバルは壁に手をついた。

「落ち着け……落ち着け、俺……」

 声に出しても、心臓は言うことを聞かなかった。

 まず何をすればいい。

 銀髪の少女を探すのか。

 でも、また名前を間違えたら。

 いや、今度は呼ばなければいい。

 徽章を盗むフェルトを先に捕まえるのか。

 でも、どうやって。

 盗品蔵に行くのか。

 行ったらエルザが来る。

 ユイに頼るのか。

 でも、頼ったらまたユイが傷つく。

 自分を庇って。

 自分のせいで。

「……違う」

 スバルは頭を振った。

「違う、そうじゃねえ。俺が、俺がちゃんとすれば……」

 ちゃんと。

 何を。

 力もない。

 金もない。

 この世界の常識も知らない。

 言葉は通じるが文字は読めない。

 戦えない。

 魔法も使えない。

 頼れる知識も中途半端。

 あるのは、死んだ記憶だけ。

「くそ……」

 拳で壁を叩いた。

 痛かった。

 その痛みだけが、今ここに自分がいる証明のようだった。

 その時。

「おいおい、兄ちゃん」

 背後から声がした。

 スバルの体が固まる。

 ゆっくり振り向く。

 路地の入口を塞ぐように、三人の男が立っていた。

 見覚えがある。

 最初の世界で絡んできた連中だ。

 薄ら笑い。

 下卑た視線。

 逃げ道を塞ぐ立ち位置。

 スバルの喉が鳴った。

「また……」

 漏れた言葉に、三人のうち一人が眉をひそめる。

「あ? またってなんだよ。俺らと会ったことでもあんのか?」

 短刀を持った男が、にやにや笑う。

 スバルは後ずさった。

 背中が壁に当たる。

 逃げ場がない。

「いや、俺、今ちょっと忙しいっていうか……」

「忙しいなら、さっさと有り金置いてけよ」

「金なんか持ってねえよ」

「じゃあ、その袋はなんだ?」

 一人が顎でコンビニ袋を示す。

 スバルは反射的に袋を抱えた。

 そこには、もう大したものはない。

 だが、携帯電話がある。

 交渉材料だったもの。

 さっきは、これで何とかできそうだった。

 何とかできそうだったのに。

 エルザが来た。

 また死んだ。

 スバルの指が震える。

 短刀の男がそれを見て、笑みを深くした。

「なんだよ、震えてんのか?」

「震えてねえよ」

 声も震えていた。

 自分でわかった。

 別の男が一歩近づく。

「強がんなって。兄ちゃんみたいなの、たまにいるんだよな。表通りから迷い込んで、ここがどこかわかってないやつ」

「わかってる」

「わかってねえから、ここにいるんだろ」

 正論だった。

 腹が立つくらい、正論だった。

 スバルは唇を噛む。

 最初の世界なら、まだ言い返せたかもしれない。

 ふざけた軽口で時間を稼ごうとしたかもしれない。

 けれど今は、喉がうまく動かなかった。

 目の前のチンピラが怖い。

 エルザほどではない。

 あの女の殺意とは比べものにならない。

 それでも怖い。

 刃物が怖い。

 痛みが怖い。

 死ぬのが怖い。

 何度戻っても、死ぬ瞬間が消えるわけではない。

 スバルの足が、また動かなくなった。

 路地の少し離れた場所で、ユイはそれを見ていた。

 壁の影に立ち、気配を薄めている。

 表通りから差し込む光の端。

 そこに溶けるように、彼女はいた。

 スバルからは見えない。

 男たちからも、見えていない。

 見えないようにしている。

 ユイは、スバルの震える背中を見つめていた。

 ここは、助けない。

 そう決めていた。

 本当なら、三人まとめて制圧するのに剣すらいらない。

 石ころ一つ投げれば、短刀を持つ手を砕ける。

 踏み込めば、男が刃を向ける前に喉元へ手が届く。

 だが、それでは足りない。

 スバルは、まだ理解しきれていない。

 死が夢ではないこと。

 自分だけが記憶を持っていること。

 そして、自分の力だけでは何もできないこと。

 それを、彼はもう一度刻まれなければならない。

 ユイは、軽く目を伏せた。

 かわいそう。

 そう思う気持ちも、少しだけある。

 だが、それ以上に見たい。

 スバルが、今度はエルザではなく、ただの路地裏の悪意に殺される瞬間を。

 英雄的な戦いでもない。

 美しい覚悟でもない。

 ただ、弱くて、怖くて、何もできないまま刺される。

 その惨めさが、彼をどこまで曇らせるのか。

 ユイは、それを見届けるつもりだった。

「ほら、早く出せよ」

 短刀が抜かれた。

 刃は粗末だった。

 エルザの刃のように美しくも鋭くもない。

 だが、殺すには十分だった。

 スバルの視線が、その刃に固定される。

 腹が痛む。

 実際には痛くない。

 でも、痛む。

 エルザに裂かれた場所が、記憶の中で疼く。

「やめろ……」

 スバルの声が漏れた。

「あ?」

「やめろよ……」

 男が笑った。

「だったら大人しくしろって」

 一人が後ろから回り込もうとする。

 もう一人がスバルの肩を掴もうと手を伸ばす。

 その瞬間、スバルの中で何かが弾けた。

「触んな!」

 スバルはコンビニ袋を振り回した。

 中身が散らばる。

 カップ麺の容器が転がり、袋の中の菓子が石畳を滑る。

 男の一人が驚いて一歩下がった。

 その隙に、スバルは横へ抜けようとする。

 だが、足がもつれた。

 体が思うように動かない。

 肩を掴まれる。

「おい、暴れんなよ!」

「離せ!」

「こいつ、調子に乗りやがって!」

 短刀の男が近づく。

 スバルは必死に腕を振る。

 当たらない。

 力が入らない。

 情けないほど、何もできない。

「くそ、くそ、くそっ!」

 声だけが出る。

 焦りだけがある。

 何もできない。

 また。

 また何もできない。

 その言葉が頭の中で響く。

 スバルは叫んだ。

「誰か!」

 声が路地に反響する。

「誰か、助け――!」

 言い切る前に、男が踏み込んだ。

 刃が腹に入った。

 エルザの刃とは違った。

 鋭く、美しく、迷いなく裂く刃ではない。

 もっと乱暴で、粗くて、嫌な痛み。

 押し込まれるような感覚。

 熱。

 遅れて、冷たさ。

「……え」

 スバルの口から、間抜けな声が出た。

 刺した男の顔から笑みが消える。

 本人も、そこまで深く入ると思っていなかったのかもしれない。

 他の二人も一瞬動きを止める。

 スバルは、自分の腹を見下ろした。

 短刀が抜かれる。

 血が出る。

 赤い。

 また。

 また、腹だ。

「嘘、だろ……」

 膝が崩れた。

 石畳が近づく。

 手をつこうとして、力が入らない。

 視界が揺れる。

 男たちの声が遠くなる。

「お、おい、やべえって」

「逃げるぞ!」

「知るかよ、こいつが暴れたんだろ!」

 足音が遠ざかる。

 スバルは路地に倒れた。

 冷たい。

 痛い。

 息ができない。

 さっきまでのエルザの死と違って、これはあまりにもみっともなかった。

 何かを守ろうとしたわけでもない。

 誰かのために立ったわけでもない。

 ただ逃げ損ねて、刺された。

 自分の弱さを、何の飾りもなく突きつけられた。

「……は、はは」

 笑いが漏れた。

 笑うしかなかった。

 何が異世界だ。

 何が主人公だ。

 何が助けるだ。

 路地裏のチンピラ三人相手に、何もできなかった。

 エルザどころではない。

 ロム爺を助けるとか、フェルトを助けるとか、銀髪の少女を助けるとか。

 そんな話以前だった。

 自分は、ただの無力な人間だった。

 視界の端に、白い髪が映った。

 誰かが路地へ駆け込んでくる。

 ユイだった。

 驚いた顔をしていた。

 今、初めてスバルを見つけたように。

 今、初めて異変に気づいたように。

「あなた!」

 その声は焦っていた。

 完璧だった。

 ユイは膝をつき、スバルの腹を押さえる。

 血が手に広がる。

 その手は、また赤くなった。

 スバルはぼんやりとそれを見る。

「ああ……また、汚した……」

「喋らないで。傷を押さえるわ」

 ユイの声が震える。

 もちろん、間に合わない。

 ユイにはわかっている。

 この死は必要な死だ。

 ここで本気を出せば、もしかしたら延命くらいはできるかもしれない。

 だが、今はしない。

 それでも、手当てをするふりはする。

 頼れるお姉さんは、諦めない。

 少なくとも、スバルの目にはそう映らなければならない。

「ユイ、さん……」

 スバルが呟く。

 ユイの手が、一瞬だけ止まった。

 そして、初対面として当然の困惑を顔に浮かべる。

「……私の名前を、どうして」

 スバルは薄く笑った。

 泣きそうな笑いだった。

「そう、だよな……知らねえよな……」

「あなた、私を知っているの?」

 ユイは問う。

 焦りと困惑が混ざった声で。

 スバルは答えなかった。

 答えられなかった。

 説明したところで、伝わらない。

 どうせ覚えていない。

 どうせ、また自分だけだ。

「また……俺だけかよ……」

「また?」

 ユイは聞き返す。

 スバルは小さく笑う。

 その顔には、もう反論する力も、取り繕う力も残っていなかった。

「俺、また死ぬのか」

 ユイの表情が痛ましげに歪む。

 初対面の少女としては、その言葉の意味はわからない。

 だが、目の前の人間が死に怯えていることはわかる。

 そういう顔。

 そういう演技。

「死なせないわ」

 ユイは言った。

「だから、喋らないで。息をして」

「無理……っぽい」

「諦めないで」

「無理だって……わかるんだよ。これ、三回目だから」

 言ってから、スバルは薄く目を開いた。

 言ってしまった。

 だが、不思議と胸を掴まれるような感覚はない。

 まだ、死に戻りそのものを直接語ったわけではないからか。

 それとも、もう死にかけているからか。

 どちらでもよかった。

「俺、何もできねえな」

 ユイは黙った。

 今のループで、彼女はスバルの名前を知らない。

 だから、名前は呼ばない。

 ただ、血に濡れた手で傷口を押さえ続ける。

「銀髪の子を傷つけて、ロム爺もフェルトも助けられなくて、あんたにもまた血を流させて……今度は、ただのチンピラに刺されて終わりかよ」

 言葉が途切れ途切れになる。

 スバルの目から涙が滲んだ。

 痛みのせいだけではない。

「情けねえ……」

 ユイは、その涙を見た。

 スバルが自分の無力さを認めた瞬間だった。

 エルザという強敵相手なら、まだ言い訳ができる。

 相手が悪すぎた。

 どうしようもなかった。

 でも今回は違う。

 路地裏のチンピラ。

 最初に出会った雑魚のような相手。

 それにすら勝てなかった。

 逃げられなかった。

 助けを呼ぶことしかできなかった。

 それが、スバルを深く抉っている。

 ユイは、今すぐ抱きしめたくなった。

 救うためではない。

 その曇った顔を、もっと近くで見るために。

 けれど、今は手を握るだけにした。

「情けなくなんてないわ」

「嘘つけよ……」

「嘘じゃない」

「嘘だろ。俺、何も……」

「怖くても、声を出した。逃げようとした。生きようとした」

 ユイは、優しく言った。

「それは、何もしていないのとは違うわ」

 スバルの目が揺れる。

 救われたい。

 でも、救われたくない。

 そんな顔。

 ユイはそれ以上、余計なことを言わなかった。

 この少年が何を抱えているのか、今の自分は知らない。

 そういう立場を守らなければならない。

 だから、ただ手を握る。

 ただ傷を押さえる。

 ただ、死なせまいとしているふりをする。

「……なんで」

 スバルが掠れた声で言った。

「なんで、そんな顔すんだよ」

「そんな顔?」

「泣きそうな顔」

 ユイは一瞬だけ目を伏せた。

 もちろん、泣きそうなのは演技だ。

 けれど、ここで否定してはいけない。

「目の前で人が傷ついているのに、平気な顔なんてできないわ」

「初対面、だろ……」

「初対面でもよ」

 ユイは静かに答えた。

「苦しんでいる人を見て、何も感じないほど冷たくはなれない」

 その言葉に、スバルの表情が歪む。

 優しい。

 優しすぎる。

 だから苦しい。

 この人は何も知らないはずなのに、また自分のそばにいる。

 また手を握っている。

 また血で汚れている。

 スバルは唇を震わせた。

「ユイ、さん……」

「……ええ」

 ユイは、少しだけ迷ってから返事をした。

 今の世界では名乗っていない。

 けれど、死にかけた人間の錯乱として受け止めるなら、この場で問い詰める必要はない。

「俺……ちゃんと……」

 声が小さくなる。

「ちゃんと、しなきゃ……」

 最後まで言えなかった。

 スバルの指から力が抜ける。

 呼吸が浅くなり、止まりかける。

 ユイは、彼の手を離さなかった。

 血の匂い。

 冷たい石畳。

 遠ざかる意識。

 そして、スバルの瞳から光が消える直前。

 ユイは、心の奥でだけ微笑んだ。

 いい子。

 ちゃんと曇って。

 ちゃんと折れて。

 それでも、まだ何かを掴もうとしている。

 その瞬間、世界がほどけた。

 血の匂いが剥がれる。

 路地裏の暗さが消える。

 ユイの手から、スバルの体温が遠のく。

 そして、また。

「兄ちゃん、買うのか買わねえのか?」

 果物売りの声。

 王都の市場。

 四度目の始まり。

 スバルは、果物屋の前で目を見開いた。

 腹を押さえる。

 傷はない。

 血もない。

 でも、確かに刺された。

 エルザに殺された。

 また殺された。

 路地裏で、チンピラに刺された。

 三度死んで、三度戻った。

 もう、夢ではない。

 勘違いではない。

 頭がおかしくなったわけでもない。

 少なくとも、スバルの中では。

「……戻った」

 声が震える。

「戻った……戻ったんだ」

 スバルは、顔を上げた。

 恐怖はある。

 痛みも残っている。

 情けなさも、消えていない。

 けれど、さっきまでとは違うものが、目の奥に灯っていた。

 理解。

 自分は死ぬと戻る。

 戻れる。

 なら、やり直せる。

 ただし、何もしなければ同じことになる。

 何かを変えなければならない。

 スバルは震える拳を握った。

「……やってやる」

 その声は、まだ弱かった。

 膝も笑っている。

 顔色も悪い。

 それでも、そこには初めて明確な意思があった。

「今度こそ……助ける」

 少し離れた場所で、ユイはその顔を見ていた。

 声をかけない。

 まだ。

 今のスバルは、ようやく自分の力を理解し始めたところだ。

 ここでユイが優しく近づけば、彼はまた縋るかもしれない。

 それも悪くない。

 けれど、今は違う。

 今は、彼自身に立ってもらう。

 折れた上で、それでも立つ姿を見たい。

 ユイは市場の影から、静かに微笑んだ。

 さあ、スバルくん。

 ここからが本番。

 あなたは死を覚えた。

 無力も覚えた。

 孤独も覚えた。

 その上で、まだ誰かを助けようとするのなら。

 私はその隣で、何も知らない顔をしてあげる。

 優しいお姉さんの顔で。

 あなたが一番曇る場所に、必ず立ってあげる。

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