スバルは歩いていた。
どこへ向かっているのか、自分でもわかっていなかった。
果物屋の前から離れ、人混みの中を抜け、知らない通りを曲がり、また曲がる。
王都の景色は、最初に見た時とはまるで違っていた。
異世界らしい石畳。
獣人や亜人が行き交う市場。
見慣れない果物。
聞き取れるのに読めない文字。
ほんの少し前までは、その全部が物語の始まりみたいに見えていた。
けれど今は違う。
どこを見ても、死に繋がっている気がした。
通りの奥に、エルザがいるかもしれない。
扉を開ければ、血の匂いがするかもしれない。
誰かと目が合えば、自分だけが知らない罪を責められるかもしれない。
スバルは腹を押さえた。
傷はない。
血もない。
だが、痛みは残っている。
腹を裂かれた感覚。
内側から熱いものがこぼれていく感覚。
床の冷たさ。
ユイの手。
優しい声。
――あなたは、悪くないわ。
「……悪くねえわけ、ねえだろ」
声が漏れた。
誰にも届かないほど小さい声だった。
悪くない。
そう言われた。
でも、スバルにはそう思えなかった。
銀髪の少女を傷つけた。
あの名前で呼んだ。
ロム爺も、フェルトも助けられなかった。
ユイはまた、自分を庇って血を流した。
自分は何もできなかった。
逃げろと言われても逃げられなかった。
生きろと言われても、生きられなかった。
それなのに、悪くないと言われた。
あの言葉は、救いのはずだった。
けれど今は、胸の奥に刺さった棘のように抜けない。
「なんなんだよ……」
スバルは歯を食いしばった。
「なんなんだよ、これ……!」
怒鳴りそうになって、喉が詰まった。
周囲の視線が怖かった。
誰かに見られている気がした。
誰かに笑われている気がした。
お前は何もできない。
お前が動くと、人が死ぬ。
お前が関わると、誰かが傷つく。
そう言われている気がした。
スバルは人混みから逃げるように、細い路地へ入った。
入ってから、すぐに後悔した。
薄暗い。
空気が湿っている。
表通りの喧騒が遠くなり、代わりに自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
一度目の路地裏を思い出した。
チンピラに絡まれた場所。
銀髪の少女に助けられた場所。
あの時はまだ、何も知らなかった。
自分が危険な目に遭っても、どこかでイベントだと思っていた。
助けに来るヒロインがいて、そこから物語が始まるのだと、馬鹿みたいに思っていた。
今は違う。
助けに来た少女は死ぬ。
頼れるお姉さんも血を流す。
そして自分は、何もできずに死ぬ。
スバルは壁に手をついた。
「落ち着け……落ち着け、俺……」
声に出しても、心臓は言うことを聞かなかった。
まず何をすればいい。
銀髪の少女を探すのか。
でも、また名前を間違えたら。
いや、今度は呼ばなければいい。
徽章を盗むフェルトを先に捕まえるのか。
でも、どうやって。
盗品蔵に行くのか。
行ったらエルザが来る。
ユイに頼るのか。
でも、頼ったらまたユイが傷つく。
自分を庇って。
自分のせいで。
「……違う」
スバルは頭を振った。
「違う、そうじゃねえ。俺が、俺がちゃんとすれば……」
ちゃんと。
何を。
力もない。
金もない。
この世界の常識も知らない。
言葉は通じるが文字は読めない。
戦えない。
魔法も使えない。
頼れる知識も中途半端。
あるのは、死んだ記憶だけ。
「くそ……」
拳で壁を叩いた。
痛かった。
その痛みだけが、今ここに自分がいる証明のようだった。
その時。
「おいおい、兄ちゃん」
背後から声がした。
スバルの体が固まる。
ゆっくり振り向く。
路地の入口を塞ぐように、三人の男が立っていた。
見覚えがある。
最初の世界で絡んできた連中だ。
薄ら笑い。
下卑た視線。
逃げ道を塞ぐ立ち位置。
スバルの喉が鳴った。
「また……」
漏れた言葉に、三人のうち一人が眉をひそめる。
「あ? またってなんだよ。俺らと会ったことでもあんのか?」
短刀を持った男が、にやにや笑う。
スバルは後ずさった。
背中が壁に当たる。
逃げ場がない。
「いや、俺、今ちょっと忙しいっていうか……」
「忙しいなら、さっさと有り金置いてけよ」
「金なんか持ってねえよ」
「じゃあ、その袋はなんだ?」
一人が顎でコンビニ袋を示す。
スバルは反射的に袋を抱えた。
そこには、もう大したものはない。
だが、携帯電話がある。
交渉材料だったもの。
さっきは、これで何とかできそうだった。
何とかできそうだったのに。
エルザが来た。
また死んだ。
スバルの指が震える。
短刀の男がそれを見て、笑みを深くした。
「なんだよ、震えてんのか?」
「震えてねえよ」
声も震えていた。
自分でわかった。
別の男が一歩近づく。
「強がんなって。兄ちゃんみたいなの、たまにいるんだよな。表通りから迷い込んで、ここがどこかわかってないやつ」
「わかってる」
「わかってねえから、ここにいるんだろ」
正論だった。
腹が立つくらい、正論だった。
スバルは唇を噛む。
最初の世界なら、まだ言い返せたかもしれない。
ふざけた軽口で時間を稼ごうとしたかもしれない。
けれど今は、喉がうまく動かなかった。
目の前のチンピラが怖い。
エルザほどではない。
あの女の殺意とは比べものにならない。
それでも怖い。
刃物が怖い。
痛みが怖い。
死ぬのが怖い。
何度戻っても、死ぬ瞬間が消えるわけではない。
スバルの足が、また動かなくなった。
路地の少し離れた場所で、ユイはそれを見ていた。
壁の影に立ち、気配を薄めている。
表通りから差し込む光の端。
そこに溶けるように、彼女はいた。
スバルからは見えない。
男たちからも、見えていない。
見えないようにしている。
ユイは、スバルの震える背中を見つめていた。
ここは、助けない。
そう決めていた。
本当なら、三人まとめて制圧するのに剣すらいらない。
石ころ一つ投げれば、短刀を持つ手を砕ける。
踏み込めば、男が刃を向ける前に喉元へ手が届く。
だが、それでは足りない。
スバルは、まだ理解しきれていない。
死が夢ではないこと。
自分だけが記憶を持っていること。
そして、自分の力だけでは何もできないこと。
それを、彼はもう一度刻まれなければならない。
ユイは、軽く目を伏せた。
かわいそう。
そう思う気持ちも、少しだけある。
だが、それ以上に見たい。
スバルが、今度はエルザではなく、ただの路地裏の悪意に殺される瞬間を。
英雄的な戦いでもない。
美しい覚悟でもない。
ただ、弱くて、怖くて、何もできないまま刺される。
その惨めさが、彼をどこまで曇らせるのか。
ユイは、それを見届けるつもりだった。
「ほら、早く出せよ」
短刀が抜かれた。
刃は粗末だった。
エルザの刃のように美しくも鋭くもない。
だが、殺すには十分だった。
スバルの視線が、その刃に固定される。
腹が痛む。
実際には痛くない。
でも、痛む。
エルザに裂かれた場所が、記憶の中で疼く。
「やめろ……」
スバルの声が漏れた。
「あ?」
「やめろよ……」
男が笑った。
「だったら大人しくしろって」
一人が後ろから回り込もうとする。
もう一人がスバルの肩を掴もうと手を伸ばす。
その瞬間、スバルの中で何かが弾けた。
「触んな!」
スバルはコンビニ袋を振り回した。
中身が散らばる。
カップ麺の容器が転がり、袋の中の菓子が石畳を滑る。
男の一人が驚いて一歩下がった。
その隙に、スバルは横へ抜けようとする。
だが、足がもつれた。
体が思うように動かない。
肩を掴まれる。
「おい、暴れんなよ!」
「離せ!」
「こいつ、調子に乗りやがって!」
短刀の男が近づく。
スバルは必死に腕を振る。
当たらない。
力が入らない。
情けないほど、何もできない。
「くそ、くそ、くそっ!」
声だけが出る。
焦りだけがある。
何もできない。
また。
また何もできない。
その言葉が頭の中で響く。
スバルは叫んだ。
「誰か!」
声が路地に反響する。
「誰か、助け――!」
言い切る前に、男が踏み込んだ。
刃が腹に入った。
エルザの刃とは違った。
鋭く、美しく、迷いなく裂く刃ではない。
もっと乱暴で、粗くて、嫌な痛み。
押し込まれるような感覚。
熱。
遅れて、冷たさ。
「……え」
スバルの口から、間抜けな声が出た。
刺した男の顔から笑みが消える。
本人も、そこまで深く入ると思っていなかったのかもしれない。
他の二人も一瞬動きを止める。
スバルは、自分の腹を見下ろした。
短刀が抜かれる。
血が出る。
赤い。
また。
また、腹だ。
「嘘、だろ……」
膝が崩れた。
石畳が近づく。
手をつこうとして、力が入らない。
視界が揺れる。
男たちの声が遠くなる。
「お、おい、やべえって」
「逃げるぞ!」
「知るかよ、こいつが暴れたんだろ!」
足音が遠ざかる。
スバルは路地に倒れた。
冷たい。
痛い。
息ができない。
さっきまでのエルザの死と違って、これはあまりにもみっともなかった。
何かを守ろうとしたわけでもない。
誰かのために立ったわけでもない。
ただ逃げ損ねて、刺された。
自分の弱さを、何の飾りもなく突きつけられた。
「……は、はは」
笑いが漏れた。
笑うしかなかった。
何が異世界だ。
何が主人公だ。
何が助けるだ。
路地裏のチンピラ三人相手に、何もできなかった。
エルザどころではない。
ロム爺を助けるとか、フェルトを助けるとか、銀髪の少女を助けるとか。
そんな話以前だった。
自分は、ただの無力な人間だった。
視界の端に、白い髪が映った。
誰かが路地へ駆け込んでくる。
ユイだった。
驚いた顔をしていた。
今、初めてスバルを見つけたように。
今、初めて異変に気づいたように。
「あなた!」
その声は焦っていた。
完璧だった。
ユイは膝をつき、スバルの腹を押さえる。
血が手に広がる。
その手は、また赤くなった。
スバルはぼんやりとそれを見る。
「ああ……また、汚した……」
「喋らないで。傷を押さえるわ」
ユイの声が震える。
もちろん、間に合わない。
ユイにはわかっている。
この死は必要な死だ。
ここで本気を出せば、もしかしたら延命くらいはできるかもしれない。
だが、今はしない。
それでも、手当てをするふりはする。
頼れるお姉さんは、諦めない。
少なくとも、スバルの目にはそう映らなければならない。
「ユイ、さん……」
スバルが呟く。
ユイの手が、一瞬だけ止まった。
そして、初対面として当然の困惑を顔に浮かべる。
「……私の名前を、どうして」
スバルは薄く笑った。
泣きそうな笑いだった。
「そう、だよな……知らねえよな……」
「あなた、私を知っているの?」
ユイは問う。
焦りと困惑が混ざった声で。
スバルは答えなかった。
答えられなかった。
説明したところで、伝わらない。
どうせ覚えていない。
どうせ、また自分だけだ。
「また……俺だけかよ……」
「また?」
ユイは聞き返す。
スバルは小さく笑う。
その顔には、もう反論する力も、取り繕う力も残っていなかった。
「俺、また死ぬのか」
ユイの表情が痛ましげに歪む。
初対面の少女としては、その言葉の意味はわからない。
だが、目の前の人間が死に怯えていることはわかる。
そういう顔。
そういう演技。
「死なせないわ」
ユイは言った。
「だから、喋らないで。息をして」
「無理……っぽい」
「諦めないで」
「無理だって……わかるんだよ。これ、三回目だから」
言ってから、スバルは薄く目を開いた。
言ってしまった。
だが、不思議と胸を掴まれるような感覚はない。
まだ、死に戻りそのものを直接語ったわけではないからか。
それとも、もう死にかけているからか。
どちらでもよかった。
「俺、何もできねえな」
ユイは黙った。
今のループで、彼女はスバルの名前を知らない。
だから、名前は呼ばない。
ただ、血に濡れた手で傷口を押さえ続ける。
「銀髪の子を傷つけて、ロム爺もフェルトも助けられなくて、あんたにもまた血を流させて……今度は、ただのチンピラに刺されて終わりかよ」
言葉が途切れ途切れになる。
スバルの目から涙が滲んだ。
痛みのせいだけではない。
「情けねえ……」
ユイは、その涙を見た。
スバルが自分の無力さを認めた瞬間だった。
エルザという強敵相手なら、まだ言い訳ができる。
相手が悪すぎた。
どうしようもなかった。
でも今回は違う。
路地裏のチンピラ。
最初に出会った雑魚のような相手。
それにすら勝てなかった。
逃げられなかった。
助けを呼ぶことしかできなかった。
それが、スバルを深く抉っている。
ユイは、今すぐ抱きしめたくなった。
救うためではない。
その曇った顔を、もっと近くで見るために。
けれど、今は手を握るだけにした。
「情けなくなんてないわ」
「嘘つけよ……」
「嘘じゃない」
「嘘だろ。俺、何も……」
「怖くても、声を出した。逃げようとした。生きようとした」
ユイは、優しく言った。
「それは、何もしていないのとは違うわ」
スバルの目が揺れる。
救われたい。
でも、救われたくない。
そんな顔。
ユイはそれ以上、余計なことを言わなかった。
この少年が何を抱えているのか、今の自分は知らない。
そういう立場を守らなければならない。
だから、ただ手を握る。
ただ傷を押さえる。
ただ、死なせまいとしているふりをする。
「……なんで」
スバルが掠れた声で言った。
「なんで、そんな顔すんだよ」
「そんな顔?」
「泣きそうな顔」
ユイは一瞬だけ目を伏せた。
もちろん、泣きそうなのは演技だ。
けれど、ここで否定してはいけない。
「目の前で人が傷ついているのに、平気な顔なんてできないわ」
「初対面、だろ……」
「初対面でもよ」
ユイは静かに答えた。
「苦しんでいる人を見て、何も感じないほど冷たくはなれない」
その言葉に、スバルの表情が歪む。
優しい。
優しすぎる。
だから苦しい。
この人は何も知らないはずなのに、また自分のそばにいる。
また手を握っている。
また血で汚れている。
スバルは唇を震わせた。
「ユイ、さん……」
「……ええ」
ユイは、少しだけ迷ってから返事をした。
今の世界では名乗っていない。
けれど、死にかけた人間の錯乱として受け止めるなら、この場で問い詰める必要はない。
「俺……ちゃんと……」
声が小さくなる。
「ちゃんと、しなきゃ……」
最後まで言えなかった。
スバルの指から力が抜ける。
呼吸が浅くなり、止まりかける。
ユイは、彼の手を離さなかった。
血の匂い。
冷たい石畳。
遠ざかる意識。
そして、スバルの瞳から光が消える直前。
ユイは、心の奥でだけ微笑んだ。
いい子。
ちゃんと曇って。
ちゃんと折れて。
それでも、まだ何かを掴もうとしている。
その瞬間、世界がほどけた。
血の匂いが剥がれる。
路地裏の暗さが消える。
ユイの手から、スバルの体温が遠のく。
そして、また。
「兄ちゃん、買うのか買わねえのか?」
果物売りの声。
王都の市場。
四度目の始まり。
スバルは、果物屋の前で目を見開いた。
腹を押さえる。
傷はない。
血もない。
でも、確かに刺された。
エルザに殺された。
また殺された。
路地裏で、チンピラに刺された。
三度死んで、三度戻った。
もう、夢ではない。
勘違いではない。
頭がおかしくなったわけでもない。
少なくとも、スバルの中では。
「……戻った」
声が震える。
「戻った……戻ったんだ」
スバルは、顔を上げた。
恐怖はある。
痛みも残っている。
情けなさも、消えていない。
けれど、さっきまでとは違うものが、目の奥に灯っていた。
理解。
自分は死ぬと戻る。
戻れる。
なら、やり直せる。
ただし、何もしなければ同じことになる。
何かを変えなければならない。
スバルは震える拳を握った。
「……やってやる」
その声は、まだ弱かった。
膝も笑っている。
顔色も悪い。
それでも、そこには初めて明確な意思があった。
「今度こそ……助ける」
少し離れた場所で、ユイはその顔を見ていた。
声をかけない。
まだ。
今のスバルは、ようやく自分の力を理解し始めたところだ。
ここでユイが優しく近づけば、彼はまた縋るかもしれない。
それも悪くない。
けれど、今は違う。
今は、彼自身に立ってもらう。
折れた上で、それでも立つ姿を見たい。
ユイは市場の影から、静かに微笑んだ。
さあ、スバルくん。
ここからが本番。
あなたは死を覚えた。
無力も覚えた。
孤独も覚えた。
その上で、まだ誰かを助けようとするのなら。
私はその隣で、何も知らない顔をしてあげる。
優しいお姉さんの顔で。
あなたが一番曇る場所に、必ず立ってあげる。