音が戻った。
森を裂く剣の音ではない。
フェリスの震えた声でもない。
ユリウスの刃が振り下ろされる音でもない。
そこにあったのは、白鯨討伐後の戦場だった。
負傷者を運ぶ兵たちの声。
竜車の軋み。
武器を置いた傭兵たちの荒い息。
倒れたフリューゲルの大樹。
大地に縫い止められた白鯨の亡骸。
霧の晴れ始めた空。
そして、白鯨を討った直後の、まだ勝利の熱が残る空気。
「――ゆえに、魔女教討伐へ向かう戦力を再編する必要がある」
クルシュの声が聞こえた。
その瞬間、スバルは喉を掴んだ。
首は繋がっている。
胸も潰れていない。
背中から、あの見えざる手は伸びていない。
けれど、感覚だけは残っていた。
自分の体から伸びた黒い腕。
ユイの胸を掴んだ感触。
心臓を握り潰す、湿った音。
血を吐いて倒れた白い髪。
フェリスの泣きそうな顔。
ユリウスの剣。
自分の死。
「……っ、ぐ」
吐き気が込み上げる。
膝が崩れそうになる。
その肩を、横から誰かが支えた。
「スバルくん」
ユイだった。
白鯨戦で汚れた白い髪。
片袖は裂け、肩口には包帯が巻かれている。
けれど、胸は赤く染まっていない。
血を吐いてもいない。
生きている。
スバルは、反射的にユイの胸元を見てしまった。
ユイはその視線に気づいた。
そして、その理由も知っていた。
自分が何をされたのか。
スバルが何を見たのか。
スバルが、どんな地獄を抱えてここへ戻ってきたのか。
ユイは知っている。
だが、知っている顔はしない。
ただ、今この場でスバルの異変に気づいた人間として、静かに水袋を差し出す。
「顔色が悪いわ。水を飲んで」
「ユイ、さん……」
「今、崩れると会議が止まる。喉を湿らせて、呼吸を整えて」
慰めではなかった。
抱きしめるわけでもない。
まず、立たせる。
喋れる状態に戻す。
そういう実務的な優しさだった。
スバルは震える手で水袋を受け取り、一口飲んだ。
喉が痛い。
飲み込むだけで、死んだ時の冷たさが戻ってくるようだった。
だが、息は少しだけ整った。
ユイは周囲に聞こえないほどの声で言う。
「言わなければいけないことがある顔をしているわ」
スバルは息を呑んだ。
ユイは、何も知らないように見える。
けれど、スバルが言葉を探していることだけは見抜いているようだった。
問い詰めたい。
お前は何を知っているのか。
あれは死んだふりだったのか。
俺の体から出た手に潰されると、わかっていたのか。
全部、聞きたかった。
だが、今は違う。
今ここで必要なのは、問いではない。
次で勝つための情報だ。
スバルは水袋を返し、地図が広げられた机へ手をついた。
「作戦を変える」
その一言で、場の空気が変わった。
クルシュが目を細める。
アナスタシアが扇子の奥で笑みを消す。
ユリウスが静かにスバルを見る。
フェリスも、治療の手を止めないまま耳だけを向けた。
「ナツキ・スバル。理由を聞こう」
クルシュの声は冷静だった。
スバルは息を吸う。
死に戻りは言えない。
見てきたことを、そのまま語ることはできない。
だが、言わなければまた同じことになる。
「ペテルギウスは、一人じゃない」
スバルは言った。
「大罪司教本人を倒しても、終わらない。あいつには、替えの体がある。指先って呼ぶべき連中だ」
ユリウスの表情が変わる。
「肉体を乗り換える、という意味か」
「ああ」
「根拠は?」
当然の問いだった。
スバルは言葉に詰まる。
見たからだ。
死んだからだ。
ユイが潰されて、自分が殺されたからだ。
そう言えれば、どれだけ楽か。
その沈黙を拾うように、ユイが地図へ視線を落とした。
「根拠は、断定ではなく仮説として扱えばいいわ」
全員の視線がユイへ向く。
ユイは、森の位置を指で押さえる。
「魔女教は、信徒を捨て駒として使う。大罪司教が狂信者を従えているなら、指揮官が倒れた瞬間に全体が崩れる組織と見るより、代替手段を持っていると仮定した方が安全よ」
アナスタシアが目を細めた。
「仮定にしては、ずいぶん具体的やね」
「具体的にしないと対策にならないから」
ユイは淡々と答える。
「外れたら、警戒が増えるだけ。合っていたら、被害を大きく減らせる。なら採用する価値はある」
嘘ではない。
ただ、全部ではない。
ユイは知っている。
指先がいることを。
ペテルギウスが器を替えることを。
避難列に紛れた魔女教徒が火石で自爆することを。
スバルが最後に器にされかけることを。
だが、それを知っているとは言わない。
今この場では、「危険を予測しただけの人間」として話す。
スバルは、そんなユイを見た。
違和感はある。
あまりにも、都合よく自分の言葉を補ってくれる。
だが、今はそれに助けられていた。
クルシュは腕を組み、地図を見下ろす。
「仮説として採用するならば、我々が取るべき対策は?」
「大罪司教本人だけを狙わないこと」
ユイは即答した。
「指先候補を先に潰す。森の拠点、連絡役、信徒の集団。そして、避難列に紛れ込める者」
「避難列?」
「魔女教が村人の避難を妨害するなら、最も効果的なのは竜車を壊すこと。竜車の近くに自然に近づけるのは、商人、護衛、荷役。だから確認が必要」
アナスタシアの扇子が止まった。
「うちの商人に混じる言うん?」
「可能性よ。確定ではないわ」
ユイは即答する。
「でも、確認しなかったせいで竜車が壊されれば、村人は逃げられない」
アナスタシアはしばらくユイを見た。
やがて、小さく笑う。
「嫌な見方やけど、商売には必要な見方やね」
「ありがとう」
「半分しか褒めてへんよ」
「半分で十分よ」
ユイは村の位置を示した。
「村人の避難は、列を三つに分けるべき」
「三つ?」
スバルが聞き返す。
ユイは頷く。
「一つ目は本命。子ども、老人、怪我人を乗せる竜車。ここに一番厚い護衛をつける」
指が別の線をなぞる。
「二つ目は徒歩の大人。荷物を制限して、竜車の速度に合わせる。ここには鉄の牙をつける」
さらに、空の竜車の位置を示す。
「三つ目は、荷物を積んでいるように見せた空竜車。もし敵が爆発物や奇襲で避難列を壊そうとするなら、まずそこへ意識を向けさせる」
スバルは息を呑んだ。
ユイは、火石自爆を知っている。
だが、その未来を語らない。
ただ、戦術として自然に見える形へ変換している。
スバルの言えない情報を、周囲が受け入れられる策にしている。
クルシュが頷いた。
「合理的だ」
フェリスが遠くから不満げに声を上げる。
「フェリちゃん、商人さん全員を診るのは大変なんだけどにゃ」
「頼む」
スバルは頭を下げた。
「村人を守るために必要なんだ」
フェリスは大きくため息をついた。
「そう言われたら断れないにゃ。でも、スバルきゅんも診る側に負担をかけないようにしてほしいにゃ」
「努力はする」
「努力じゃなくて実行にゃ」
場に少しだけ緩みが生まれる。
だが、ユイはそれを長くは許さなかった。
「もう一つ」
全員が再びユイを見る。
「ペテルギウス本人と戦うなら、スバルくんの情報をどう使うか決めておくべきよ」
ユリウスが視線を向ける。
「情報?」
スバルは息を吐いた。
言いたくない。
けれど、言わなければまた誰かが死ぬ。
「あいつには、見えない攻撃がある」
場の空気がわずかに張り詰めた。
「見えない攻撃?」
「ああ。腕みたいなやつだ。普通は見えない。たぶん、ほとんどの奴には見えない」
「君には見えるのか」
ユリウスの問いに、スバルは短く頷いた。
「見える。理由は説明できない。でも、見える」
ユリウスはすぐには疑わなかった。
白鯨討伐を成したスバルの情報には、すでに重みがある。
意味不明でも、切り捨てるべきではない。
「ならば、君が方向を伝え、私たちが対応する形になる」
「それだけで足りる?」
ユイが言った。
ユリウスが彼女を見る。
ユイは淡々と続ける。
「攻撃が一方向から一つだけなら、声の指示で足りるわ。でも、複数同時に来た場合、スバルくんが見て、言葉にして、あなたが聞いて、動く。その分だけ遅れる」
「……確かに」
ユリウスは頷いた。
「ならば、声だけに頼らない方法を考えるべきだね」
「方法があるのか?」
スバルが聞く。
ユリウスは指先に小さな光を灯した。
「精霊術で、感覚を一時的に繋ぐことはできる。完全ではないが、君の見ている方向や危険の感覚を、私が拾えるようにする」
「そんなことできんのかよ」
「容易ではない。君と私の呼吸が合わなければ、かえって動きが鈍る」
「俺とお前で呼吸を合わせるとか、冗談きついな」
「同感だ。だが、必要ならやる」
ユリウスは涼しい顔で言った。
スバルは顔をしかめる。
「俺はまだ、お前のこと嫌いだからな」
「知っている。私も、君の無謀さには頭が痛い」
「そういうとこだぞ」
軽口のようでいて、そこには以前とは違う緊張があった。
互いに好きではない。
だが、互いの役割は理解している。
それで十分だった。
ユイはそれを見て、内心で静かに息を吐く。
この二人は並べられる。
スバルを孤立させない。
ユリウスをただの騎士ではなく、スバルの視界を使う剣にする。
それだけで、次の戦いの形は変わる。
クルシュが決断した。
「よかろう。作戦を修正する」
その一言で、場が動き出した。
森の潜伏地点へ向かう部隊。
指先候補を先に潰す遊撃部隊。
村人の避難を担当する部隊。
竜車と商人の身元確認。
フェリスによる異物確認。
スバルとユリウスによる不可視攻撃への対応。
作戦は、前とは違う形に組み直されていく。
スバルはそれを見ながら、胸の奥に重いものを感じていた。
死んだ意味がある。
ユイが心臓を潰された意味も。
自分がユリウスに殺された意味も。
全部、次へ繋がっている。
だが、その意味を考えるほど、ユイの倒れた姿が脳裏に焼きつく。
スバルは、また無意識にユイの胸元を見た。
ユイが気づく。
「スバルくん」
「……なんだよ」
「さっきから、私の胸を見すぎ」
「っ」
スバルは息を詰まらせた。
ユイは小さく笑う。
「傷は肩よ。胸ではないわ」
「……悪い」
「何か、嫌なものを想像した?」
スバルは答えられない。
ユイは、それ以上踏み込まなかった。
ただ、声を落として言う。
「言えないことがあるなら、無理には聞かないわ」
「ユイさん……」
「でも、言える形にはして。危ない場所、危ない相手、避けたい状況。理由が言えないなら、理由以外を渡して」
スバルは顔を上げる。
ユイは穏やかに言った。
「私は、それを作戦に変えるから」
その言葉に、スバルは喉が詰まった。
全部は言えない。
死に戻りは言えない。
自分が何を見て、何を繰り返しているのかは言えない。
だが、言える形に変えることはできる。
危険。
場所。
相手。
順番。
それをユイが拾い、周囲へ通せる形にしてくれる。
スバルにとって、それは大きかった。
「……頼っていいのか」
「頼りなさい」
即答だった。
「あなた一人で抱えると、すぐ無茶をするから」
「信用ねえな」
「白鯨戦の後で信用しろという方が無理よ」
「言い返せねえ」
ユイは少しだけ笑った。
それから、真面目な目になる。
「ただし、私を万能扱いしないで。私は何でもできるわけじゃない。あなたが言わなければ、拾えないものもある」
「ああ」
「それと、私が前に出る場面があっても、そこで止まらないで」
「……どういう意味だよ」
「戦場では、誰かが倒れることがある」
ユイは静かに言った。
「私かもしれない。ユリウスさんかもしれない。フェリスさんかもしれない。誰かが倒れた瞬間に、あなたが止まれば、もっと死ぬ」
「そんなこと、言われて納得できるわけねえだろ」
「納得しなくていいわ。覚えておくだけでいい」
ユイは、スバルの袖を軽く掴んだ。
「あなたは優しいから、目の前で誰かが倒れたら、そこで心が止まる。だから先に言っておくの」
「ユイさん」
「勝って」
その一言は、静かだった。
命令ではない。
懇願でもない。
けれど、スバルの胸へ深く刺さった。
「……勝つ」
スバルは言った。
「絶対に、勝つ」
「よろしい」
ユイはいつもの顔に戻る。
その横で、ユリウスが近づいてきた。
「準備が整った」
「早いな」
「君が時間を無駄にしないようにね」
「一言多い」
「事実だ」
ユリウスは指先に赤い光を灯した。
小さな準精霊が、スバルの肩のそばへ浮かぶ。
「イアだ。君の周囲の異常を拾わせる。奇襲への備えにもなる」
「……よろしくな、イア」
赤い光が、小さく瞬いた。
スバルはその光を見つめる。
胸の奥が冷える。
言えない。
この光が何を知らせることになるのか。
自分が何を恐れているのか。
全部を説明することはできない。
だが、何も言わなければ間に合わない。
「ユリウス」
「何かな」
「もし、俺の様子が明らかにおかしくなったら、止めろ」
ユリウスの目が細くなる。
「おかしく、とは?」
「俺が俺じゃないみたいに見えたら。声が変わるとか、動きが変わるとか、精霊が嫌がるとか……そういうのがあったら、迷うな」
「君自身を拘束しろ、ということか」
「ああ」
スバルは喉を鳴らした。
「理由は言えない。でも、最悪の場合、俺は味方に近づいちゃいけない」
場が静まる。
フェリスが眉をひそめる。
「スバルきゅん、それはどういう――」
「言えない」
スバルは絞るように言った。
「でも、頼む。俺が変になったら、止めてくれ」
ユリウスはしばらくスバルを見ていた。
疑問はある。
当然だ。
だが、今は問い詰める場ではない。
「承知した」
ユリウスは静かに答えた。
「君の異変は、私とイアで監視する。必要と判断すれば、拘束する」
「助かる」
「ただし、ナツキ・スバル」
「なんだよ」
「その時になって抵抗するなよ」
スバルは苦く笑った。
「できるだけな」
「そこは断言してほしかった」
「俺だって、断言できるならしてる」
ユリウスは小さく息を吐いた。
「ならば、こちらで勝手に判断する」
「ああ。それでいい」
隊列が動き出す。
避難列には最初から空竜車が混じる。
商人と護衛の確認は厳しくなる。
フェリスは最初から異物確認の役目を持つ。
指先候補は、ペテルギウス本体より先に潰す。
ユリウスとスバルは、感覚接続まで視野に入れて動く。
そしてユイは、表向きは避難列の整理と戦場観察役として。
裏では、知っていることを知らないふりで包み、誰もが使える作戦へ変える役として。
地竜に乗った。
隣を通り過ぎるオットーが、何か言いたげにこちらを見る。
「なんだよ、オットー」
「いえ、あの……俺、もしかしてかなり危険な役目を任される感じですか?」
「今さら怖気づいたのか?」
「怖気づきますよ! 俺、商人ですよ!? 傭兵でも騎士でもないんですよ!?」
ユイが言う。
「あなたの竜車は必要よ」
「必要と言われるのがこんなに怖いことあります!?」
「空竜車を一台、あなたに任せるから」
「それ、大丈夫なんですか!? 俺、囮みたいな言葉に聞こえたんですけど!」
「囮とは言っていないわ」
「言ってないだけですよね!?」
オットーの悲鳴のような声に、周囲の兵が少し笑った。
張り詰めた空気に、ほんのわずかだけ隙間ができる。
だが、スバルは知っている。
この先に待つのは、笑っていられる相手ではない。
怠惰。
狂気。
見えざる手。
そして、自分の体を奪おうとする悪意。
それでも、今度は違う。
情報がある。
仲間がいる。
ユイがいる。
彼女は、知らない顔をしている。
けれど、その言葉はスバルの持ち帰った地獄を、勝つための形へ変えてくれた。
スバルは手綱を握る。
パトラッシュが低く鳴いた。
「ああ」
スバルはその首を撫でる。
「行こう」
白鯨を越えた先。
怠惰が待つ森へ。
今度こそ、指先を断つために。
今度こそ、エミリアを救うために。
今度こそ、自分の体で誰かを殺させないために。
ナツキ・スバルは、再びロズワール領へ向かって走り出した。