Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

31 / 47
第三十一話 ただそれだけへ至る道

 白鯨を討った。

 

 霧は晴れ、フリューゲルの大樹は倒れ、四百年の災厄は地に伏した。

 

 だが、ナツキ・スバルの戦いは終わっていない。

 

 ここからだった。

 

 ペテルギウス・ロマネコンティ。

 

 指先。

 

 内通者。

 

 火石。

 

 エミリアの避難。

 

 子どもたちの竜車。

 

 そして、自分の体を狙う狂気。

 

 すべてを、正しい順番で潰さなければならない。

 

 ひとつでも取りこぼせば、また誰かが死ぬ。

 

 スバルは地図を前に、拳を握った。

 

「まず、屋敷だ」

 

 声は低い。

 

「白紙の手紙の誤解を解く。エミリアたんには、子どもたちと同じ竜車に乗って避難してもらう。村人は分ける。王都方面へ向かう組と、聖域方面へ向かう組だ」

 

 クルシュは黙って聞いていた。

 

 アナスタシアは扇子の奥で目を細めている。

 

 ユリウスは静かに腕を組み、フェリスは負傷者の処置をしながら耳を向けていた。

 

 ユイは地図の端に立っている。

 

 白鯨戦で裂けた袖。

 

 肩に巻かれた包帯。

 

 血と土の残った白い髪。

 

 それでも、彼女は涼しい顔で地図を見ていた。

 

「普通に会いに行くのはまずいわね」

 

 ユイが言う。

 

「王都でのことがある。あなたはエミリア様の顔を見たら、余計なことを言う」

 

「断言すんなよ」

 

「言うでしょう?」

 

「……言うかもしれない」

 

「なら、伝令に徹する」

 

 ユイは淡々と続けた。

 

「エミリア様の外套を使う。認識を曖昧にして、スバルくんだと強く意識されないようにする。話す内容は最小限」

 

 彼女は指を折る。

 

「魔女教の襲撃が迫っていること。村人の避難を始めること。エミリア様には子どもたちと同じ竜車に乗ってもらうこと。詳しい説明は後にすること」

 

「俺の謝罪は?」

 

「後」

 

「……だよな」

 

「今は謝る時間じゃない。救う時間よ」

 

 冷たい言葉だった。

 

 けれど、正しかった。

 

 だからスバルは、黙って頷いた。

 

 ユイは知っている。

 

 この先の流れを。

 

 何が起きるかを。

 

 どこで、誰が死にかけるかを。

 

 それを知っていながら、知っている顔をしない。

 

 あくまで、スバルの言葉と戦場の状況から推測した者として振る舞う。

 

 その仮面は、怖いほど自然だった。

 

 アナスタシアが扇子を閉じる。

 

「商人側には、二時間遅れの避難計画を流すんやね?」

 

「ああ」

 

 スバルは頷いた。

 

「内通者がいるなら、それに食いつく」

 

「うちの商人に紛れ込まれとるなら、うちの顔にも泥や。見逃すわけにはいかへん」

 

 アナスタシアの声は軽い。

 

 だが、目は笑っていなかった。

 

 ユイは偽の避難計画書を差し出す。

 

「雑な嘘ではないわ。商人が見ても不自然ではない。けれど、本命とは時刻も道もずらしてある」

 

「ほんま、嫌な上手さやね」

 

「必要な上手さよ」

 

「その返しも嫌やわあ」

 

 アナスタシアは笑った。

 

 場が決まる。

 

 ヴィルヘルムが屋敷へ向かい、白紙の手紙の誤解を解く。

 

 スバルは外套を被ってエミリアへ伝令をする。

 

 商人側には偽情報を流し、動いた内通者を捕らえる。

 

 指先は村に近づく前に潰す。

 

 そして、スバルがペテルギウスのもとへ向かう。

 

 正しい順番。

 

 これを崩してはいけない。

 

 ヴィルヘルムが静かに頭を下げた。

 

「ナツキ殿。屋敷への説明は私が」

 

「お願いします」

 

「あなたは、あなたの役目を」

 

「はい」

 

 スバルは深く息を吸った。

 

 外套を手に取る。

 

 エミリアの外套。

 

 それを羽織った瞬間、胸が苦しくなる。

 

 王都でのことが蘇る。

 

 自分勝手な言葉。

 

 彼女を傷つけた顔。

 

 今すぐ謝りたい。

 

 けれど、今はまだ駄目だ。

 

 ユイが外套の前を整える。

 

「顔が出すぎ。もっと深く」

 

「……おう」

 

「声は低く。話は短く。身振りは抑える。エミリア様の目を見すぎない」

 

「最後が一番難しい」

 

「だから一番気をつけて」

 

「俺、そんなに顔に出るか?」

 

「出るわ」

 

「即答かよ」

 

「出るから言っているの」

 

 ユイは外套の襟を直し、少し離れて全体を見た。

 

「伝令には見える」

 

「俺には?」

 

「動きでばれる可能性がある」

 

「酷評だな」

 

「動かなければいい」

 

「無茶言うな」

 

「あなたは無茶が得意でしょう?」

 

 スバルは苦笑する。

 

 その苦笑が少しだけ自然になったことに、自分で驚いた。

 

 ユイは声を落とす。

 

「会いたいなら、ちゃんと救ってから会いなさい」

 

「……ああ」

 

「今は、伝令」

 

「わかってる」

 

 スバルは屋敷へ向かった。

 

 認識阻害の外套は奇妙だった。

 

 すれ違う者の視線が、こちらへ向いても滑っていく。

 

 見えているのに、意識に残らない。

 

 それはまるで、自分が世界の端へ追いやられたような感覚だった。

 

 屋敷では、ヴィルヘルムの説明がすでに通っていた。

 

 白紙の手紙の誤解。

 

 魔女教の襲撃。

 

 避難の必要。

 

 それでも、エミリアの表情には迷いがある。

 

 村へ行きたい。

 

 村人を助けたい。

 

 けれど、自分が行けば村人が怯えるのではないか。

 

 魔女教が来る理由を、自分に結びつけられるのではないか。

 

 その迷いが、彼女の紫紺の瞳に浮かんでいた。

 

 スバルは膝をつく。

 

「報告します」

 

 声を低くする。

 

 いつもの自分を殺す。

 

 エミリアがこちらを見る。

 

 心臓が跳ねる。

 

 だが、耐えた。

 

「村人の避難を進めています。エミリア様には、子どもたちと同じ竜車に乗り、避難していただきます」

 

「私も、竜車に?」

 

「はい」

 

「村へは行かなくていいの?」

 

 行きたいのだ。

 

 彼女は。

 

 村人に恐れられても、傷ついても、それでも行きたいと思っている。

 

 スバルは唇を噛みそうになり、堪える。

 

「今、村では混乱を避ける必要があります。エミリア様が直接村へ向かえば、善意であっても不安を強める恐れがあります」

 

「……そう」

 

 その一言が痛い。

 

 けれど、続ける。

 

「ですが、子どもたちの竜車には、あなたの力が必要です。子どもたちは怯えています。エミリア様がそばにいれば、守る力になります」

 

「私が、守る力に?」

 

「はい」

 

 スバルは深く頭を下げる。

 

「恐れられるためではなく、守るために。どうか、子どもたちと一緒に避難を」

 

 沈黙。

 

 パックが、じっとスバルを見ていた。

 

 外套の効果があっても、その目はどこか疑わしげだった。

 

 やがて、エミリアは小さく頷く。

 

「わかった。子どもたちと一緒に行く。途中で何かあれば、私が守る」

 

「ありがとうございます」

 

「あなたも、気をつけて」

 

 その言葉に、スバルは胸を締めつけられた。

 

 伝令に向けられた言葉。

 

 けれど、スバル自身に届いてしまう。

 

「はい」

 

 短く答え、立ち上がる。

 

 扉を出る寸前、エミリアが小さく呟いた。

 

「……少しだけ、知っている声みたい」

 

 スバルは止まらなかった。

 

 止まれば、全部が崩れる。

 

 廊下へ出てから、ようやく息を吐く。

 

「……きっつ」

 

 壁に手をつく。

 

 名乗れなかった。

 

 謝れなかった。

 

 でも、伝えた。

 

 それでいい。

 

 今は、それでいい。

 

 外へ戻ると、ユイが待っていた。

 

「どうだった?」

 

「伝えた。エミリアは子どもたちと同じ竜車に乗る」

 

「余計なことは?」

 

「言ってない」

 

「目は見すぎた?」

 

「……ちょっと」

 

「でしょうね」

 

「信用ねえな」

 

「あなたの顔を見ればわかるわ」

 

 ユイは小さく笑う。

 

 それから、すぐに表情を切り替えた。

 

「次は、内通者と指先」

 

「ああ」

 

「村に襲撃は入れない。その前に潰す」

 

 その言葉で、スバルの目も変わる。

 

 そうだ。

 

 村で戦わせない。

 

 子どもたちの前で血煙を上げない。

 

 エミリアに、村の戦場を見せない。

 

 そのために、ここで潰す。

 

 商人側へ偽の避難計画が流された。

 

 二時間遅れの計画。

 

 偽の竜車配置。

 

 本命とは違う道。

 

 その紙を受け取った商人の一人が、自然な顔で列を離れようとする。

 

 ユイはそれを見た。

 

 知っている。

 

 彼が内通者だと。

 

 だが、知っている顔はしない。

 

 ただ、指先だけで合図を送る。

 

 ユリウスの準精霊が男を追う。

 

 男は森の外れで、黒外套と接触した。

 

 紙を渡す。

 

 その瞬間、鉄の牙が左右から飛び出す。

 

 ミミの音撃が地面を叩き、ティビーが逃げ道を塞ぐ。

 

 黒外套が喉元へ手を伸ばした。

 

 自害。

 

 だが、ユリウスの剣がその手首を弾く。

 

 男も黒外套も、地面へ押さえ込まれた。

 

 フェリスが駆け寄り、顔をしかめる。

 

「体内に魔力反応。火石の可能性が高いにゃ」

 

 スバルは拳を握った。

 

 今度は爆発させなかった。

 

 ユイが偽情報を作った。

 

 アナスタシアが流した。

 

 ユリウスが追った。

 

 鉄の牙が捕らえた。

 

 全員が噛み合った。

 

「口を塞いで。手足を固定。衝撃を与えないで。フェリスさん以外は近づかない」

 

 ユイの指示に、兵たちが迷わず動く。

 

 彼女は戦場の中心で剣を振るわない。

 

 だが、命が失われる前に、危険の位置をずらす。

 

 それがユイの存在感だった。

 

 内通者を捕らえた後、指先の討伐へ移る。

 

 ここで言う指先は、見えざる手を使う怪物ではない。

 

 ペテルギウスが移るための器。

 

 狂信者。

 

 残しておけば、ペテルギウスが倒れてもまた動き出す。

 

 だから先に潰す。

 

 森の外縁。

 

 黒外套たちが潜む場所。

 

 スバルはパトラッシュの手綱を握り、ユリウスと並ぶ。

 

「指先は、見えざる手を使わない」

 

 スバルは確認するように呟いた。

 

「でも、残せばペテルギウスの器になる」

 

 ユリウスが頷く。

 

「ならば、逃がさないことを最優先とする」

 

「ああ。自害と火石にも気をつけろ」

 

「承知した」

 

 ミミとティビーが左右へ回り込む。

 

 ユイは後方で、逃げ道と合図の位置を確認していた。

 

「逃げ道を一つだけ残して」

 

 ユイが言う。

 

「そこに追い込む。完全に囲むと自害される」

 

「わかった!」

 

 ミミが頷く。

 

「口を塞ぐ役を一人ずつつけて。叫ばせない。合図を出させない」

 

 ティビーが頷く。

 

「了解。地味だけど大事なやつだね」

 

「ええ。地味なところで死ぬから」

 

 その言葉に、ティビーが少し真顔になった。

 

 作戦は一気に動いた。

 

 ミミの音撃が森の奥を揺らす。

 

 黒外套たちが浮き足立つ。

 

 ティビーが逃げ道を塞ぎ、鉄の牙が左右から押し潰す。

 

 スバルは見えざる手を警戒する必要はない。

 

 ここにいるのは指先だ。

 

 見えざる手を使うのは、ペテルギウス本人。

 

 今は、器を壊す場面。

 

 黒外套の一人が自分の喉へ手を伸ばす。

 

 ユイが叫んだ。

 

「右奥、自害!」

 

 ユリウスの剣が手首を弾く。

 

 兵が飛びかかり、口を塞いで押さえ込む。

 

 別の一人が森の奥へ逃げる。

 

「左、逃げる!」

 

 ミミが飛び込む。

 

 音撃が足を崩し、信徒が倒れる。

 

 ティビーが拘束する。

 

 ユイは次々に穴を塞いでいく。

 

 派手ではない。

 

 けれど、誰かが見落とせば、そこから失敗が生まれる。

 

 スバルはその背中を見ていた。

 

 ユイがいなければ、何人かは逃げていた。

 

 何人かは自害していた。

 

 何人かは火石を使っていたかもしれない。

 

 そうなれば、ペテルギウス戦の後にまた地獄が残る。

 

 指先は潰された。

 

 拘束された者は口を塞がれ、火石の有無を確認される。

 

 戦闘は短く、しかし確実に終わった。

 

「次だ」

 

 スバルは言った。

 

「ペテルギウスに会いに行く」

 

 フェリスが眉をひそめる。

 

「本当に行くにゃ?」

 

「行く」

 

「スバルきゅん、自分の扱いが雑すぎるにゃ」

 

「よく言われる」

 

「直す気のない返事にゃ」

 

 ユイがスバルへ近づいた。

 

「試練を受けるふりをするのね」

 

「ああ」

 

「福音書を求められる」

 

「奪ったミーティアを使う。合図にもなる」

 

 スバルは懐のミーティアを軽く叩いた。

 

 内通者から押さえたもの。

 

 ペテルギウスを騙し、奇襲へ繋げるための道具。

 

 ユイはスバルの襟元を整える。

 

「怒りを出しすぎないで」

 

「難しいな」

 

「知ってる」

 

「否定してくれ」

 

「無理よ」

 

 ユイは少しだけ目を細める。

 

「あの男は、感情の歪みを自分の言葉に変えてくる。怒りは餌になる。でも、飲まれたら終わり」

 

「餌にして、飲まれるな、か」

 

「ええ」

 

「言うのは簡単だな」

 

「実行するのはあなたの役目」

 

「お前は?」

 

「あなたが前を向けるように、外側を潰す」

 

 ユイは森を見る。

 

「指先は潰した。周囲の信徒も押さえた。ペテルギウスの周りに、黒い外套の信徒はもういない」

 

「……そこまで整えたのか」

 

「あなたが前で失敗しないようにね」

 

「言い方」

 

「事実よ」

 

 ユイは小さく笑う。

 

「でも、完全に安全とは言わない。あなたがペテルギウスと話す間、私は外を見る」

 

「頼む」

 

「ええ」

 

 スバルは一人で進んだ。

 

 森の奥。

 

 静まり返った空間。

 

 黒い外套の信徒たちは、もういない。

 

 ユイたちが外側で潰した。

 

 残っているのは、ただ一人。

 

 痩せた男。

 

 ペテルギウス・ロマネコンティ。

 

 彼はスバルを見た瞬間、目を見開いた。

 

「おお……おおおおおおおお……!」

 

 頬を掻きむしる指。

 

 裂ける皮膚。

 

 滴る血。

 

「なんという濃密な寵愛! 嫉妬の魔女に愛されし香り! あなたは、あなたは、あなたはァ!」

 

 スバルは吐き気を堪える。

 

 怖い。

 

 気持ち悪い。

 

 殺したい。

 

 だが、ここで飛びかかってはいけない。

 

「試練を受けに来た」

 

 ペテルギウスの動きが止まる。

 

「試練?」

 

「ああ」

 

 スバルは懐へ手を入れる。

 

 奪ったミーティア。

 

 それを取り出す。

 

 開く。

 

 見せる。

 

 その動きが、合図だった。

 

 鳴らす必要はない。

 

 ミーティアを開いて見せる。

 

 その反射と動作を見た瞬間、外で待機していた者たちが動く。

 

 同時に、スバルはペテルギウスへ向けて言葉を重ねた。

 

「俺が、器に相応しいか確かめたいんだろ」

 

 ペテルギウスの目が、さらに見開かれる。

 

「勤勉……!」

 

 彼は震えた。

 

「なんという勤勉! 自ら試練を望むとは! あなたは、あなたはァ!」

 

 森の外側で、ユイは合図を見ていた。

 

 音ではない。

 

 光と動作。

 

 ミーティアを開いて見せた、その一瞬。

 

「今」

 

 短く言う。

 

 ミミが右から入る。

 

 ティビーが左を塞ぐ。

 

 ユリウスが剣を抜く。

 

 鉄の牙が退路を押さえる。

 

 ペテルギウスの周囲には、黒い外套の信徒はいない。

 

 だから、奇襲の対象はひとつ。

 

 ペテルギウス本人。

 

「今だ!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 奇襲は成功した。

 

 ペテルギウスの顔が歪む。

 

「怠惰……怠惰怠惰怠惰ァ!」

 

 スバルは背を向けて走った。

 

 ペテルギウスが追う。

 

 見えざる手が伸びる。

 

 黒い腕。

 

 それはペテルギウス本人のもの。

 

 スバルには見える。

 

 崖下へ。

 

 ユリウスが待つ場所へ。

 

 スバルは走る。

 

 恐怖を噛み殺し、怒りを抱え、けれど飲まれずに。

 

「ユリウス!」

 

 森の影から、騎士が現れた。

 

 紫紺の髪。

 

 抜かれた剣。

 

 ネクトで繋がる感覚。

 

「承知した」

 

 ユリウスの剣が、見えざる手の軌道へ走る。

 

 銀の線が、不可視の腕を裂くように走った。

 

 ここからが、本当の戦いだった。

 

 ペテルギウスは、常軌を逸した動きで見えざる手を増やしていく。

 

 一本。

 

 二本。

 

 五本。

 

 十本。

 

 スバルには見える。

 

 ユリウスには、スバルの視界を通して届く。

 

 だが、負担は大きい。

 

 ユリウスの足が裂ける。

 

 腹を掠める。

 

 肩を抉られる。

 

 その痛みが、ネクト越しにスバルへも伝わった。

 

「ぐっ、いってえ……!」

 

「集中しろ、ナツキ・スバル」

 

「お前こそ血ぃ出てんぞ!」

 

「この程度、戦闘に支障はない」

 

「支障しかねえだろ!」

 

「なら、早く終わらせよう」

 

 ユリウスは剣を構える。

 

 精霊の光が集まる。

 

 アル・クラウゼリア。

 

 虹のような輝きが刃に宿る。

 

 ペテルギウスが吠える。

 

「小細工! 小細工小細工小細工! 愛を侮辱するその怠惰、許し難し!」

 

 見えざる手が殺到する。

 

 スバルは叫ぶ。

 

「右! 上! 足元!」

 

 ユリウスが斬る。

 

 避ける。

 

 進む。

 

 ペテルギウスが土の壁を生み出す。

 

 防御。

 

 その瞬間、スバルは火石を投げた。

 

 小さな光が壁の向こうへ落ちる。

 

 爆ぜる。

 

 土壁が崩れる。

 

 ユリウスの剣が、ペテルギウスの腹を貫いた。

 

「ぐ、が……!」

 

 ペテルギウスの目が見開かれる。

 

 ユリウスは冷たく言う。

 

「君の敗因は、ナツキ・スバルをただ弱いだけの男だと見たことだ」

 

 スバルは荒い息を吐く。

 

 勝った。

 

 そう思いかけた瞬間、胸の奥が冷えた。

 

 来る。

 

 ペテルギウスが、スバルを見た。

 

 見えざる手とは違う何かが、内側へ伸びてくる。

 

 奪われる。

 

 器にされる。

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

「ユリウス、ネクトを切れ!」

 

「何?」

 

「早く!」

 

 ユリウスは迷わず切った。

 

 感覚の繋がりが断たれる。

 

 同時に、スバルの意識が暗い場所へ引きずり込まれそうになる。

 

 ここで、黙っていたら持っていかれる。

 

 だから、スバルは言った。

 

 言ってはいけない言葉。

 

 口にすれば、魔女が来る言葉。

 

「俺は――死に戻りしている!」

 

 世界が凍った。

 

 心臓を、黒い手が掴む。

 

 内側から、強制的に握り潰そうとする圧。

 

 だが、その影は、スバルだけを掴んで終わらなかった。

 

 黒い影が広がる。

 

 嫉妬の魔女。

 

 その気配が、空間を塗り潰す。

 

 ペテルギウスの顔が歓喜に歪んだ。

 

「ああ……ああああああ! サテラ! サテラ様! 私の愛が、ついに、ついにあなたへ!」

 

 彼は両手を広げる。

 

 壊れた体で、血を吐きながら、なお喜びに震える。

 

 だが。

 

 影は、ペテルギウスを受け入れなかった。

 

 愛などではない。

 

 選ばれたわけでもない。

 

 影の視線が、ただ一瞬、ペテルギウスを見た。

 

 それだけで、彼の歓喜は凍りついた。

 

「なぜ……」

 

 拒絶。

 

 冷たい否定。

 

 お前ではない。

 

 声にならないその意思が、ペテルギウスを弾き飛ばす。

 

「なぜなぜなぜなぜなぜェ! 愛が! 私の愛がァ!」

 

 ペテルギウスは絶叫した。

 

 影はスバルの心臓を締め上げる。

 

 痛い。

 

 息ができない。

 

 だが、スバルは意識を現実へ引き戻した。

 

 ペテルギウスの体が崩れ落ちる。

 

 福音書が、地面へ落ちた。

 

 スバルは荒い息のまま、それを拾う。

 

 ペテルギウスの福音書。

 

 狂気の道標。

 

 これが、奴の心臓のようなものだった。

 

 ページをめくっても、理解できない文字が並んでいる。

 

 だが、今は持っていく。

 

 必要になる。

 

 そう直感した。

 

 ペテルギウスは、岩壁へもたれかかるように倒れていた。

 

 体はもう限界だ。

 

 それでも、まだ目だけは狂気を宿している。

 

 最後の見えざる手が、岩を砕いた。

 

 轟音。

 

 岩壁が崩れる。

 

 ペテルギウスの体が瓦礫に呑まれた。

 

 声が途切れる。

 

 スバルはその場に膝をつきそうになりながら、福音書を握りしめた。

 

「……終わった、のか」

 

「まだだ」

 

 ユリウスが言った。

 

 通信が入った。

 

 フェリスの声。

 

 火石が足りない。

 

 商人の積み荷から、消えた分がある。

 

 そして、その火石は、ケティの竜車へ積まれている可能性がある。

 

 ケティの竜車。

 

 エミリアと子どもたちが乗っている竜車。

 

 スバルの全身から血の気が引いた。

 

「嘘だろ……!」

 

 オットーが息を切らして駆け込んでくる。

 

「スバルさん! 今なら、まだ追いつけます! 俺の地竜なら、道を選べる!」

 

「オットー!」

 

「言っときますけど、俺は商人ですからね! でも、ここで行かなかったら商売以前に寝覚めが悪いんですよ!」

 

「頼む!」

 

 ユリウスがイアを差し出す。

 

「火石の反応を追える。連れていけ」

 

「助かる!」

 

 スバルはオットーの竜車へ飛び乗った。

 

 ユイも一歩動いた。

 

 だが、スバルが制した。

 

「ユイさんは残ってくれ」

 

「理由は?」

 

「残党を抑える人間がいる。フェリスたちに状況を繋ぐ人間もいる。俺が行く」

 

 ユイは一瞬、目を細めた。

 

 彼女は知っている。

 

 この先、スバルが何をするか。

 

 それでも、ここでついていけば形が変わりすぎる。

 

 だから、止まる。

 

「わかった」

 

 短く言う。

 

「でも、忘れないで。子どもたちの前では、最後まで大人の顔をしなさい」

 

「……ああ」

 

「それと」

 

「なんだ?」

 

「エミリア様には、ちゃんと自分の言葉で言いなさい」

 

 スバルは息を呑む。

 

 ユイは微笑んだ。

 

「伝令はもう終わり。次は、ナツキ・スバルとして」

 

「……行ってくる」

 

 オットーの竜車が走り出す。

 

 地竜が森を抜ける。

 

 オットーは加護を使い、地竜や周囲の生き物の声を聞きながら最短の道を選ぶ。

 

「右です! いや、左! ああもう、森の皆さん口々に喋らないでください!」

 

「頼むぞ、オットー!」

 

「頼まれてますよ! 胃が痛い!」

 

 その時、背後から異音がした。

 

 潰れたはずのペテルギウス。

 

 その死体が、見えざる手で無理やり動いていた。

 

 骨が砕け、肉が裂けているのに、なお追ってくる。

 

「しつけえ……!」

 

 スバルはオットーの油壺を掴んだ。

 

「借りるぞ!」

 

「それ商品!」

 

「命より高いのか!」

 

「命の次くらいには高いです!」

 

「なら安い!」

 

「高いって言ってるんです!」

 

 スバルは油壺を投げる。

 

 イアの火が走る。

 

 爆炎がペテルギウスを呑む。

 

 それでも、奴は止まらない。

 

 竜車へ取りつき、愛を返せと叫ぶ。

 

 スバルは歯を食いしばり、福音書を開いた。

 

 ペテルギウスの福音書。

 

 その最後のページ。

 

 スバルは指を噛み切り、血で文字を書く。

 

 この世界の文字で。

 

 短く。

 

 強く。

 

 ――終わりだ。

 

 ペテルギウスの目が見開かれる。

 

 福音書へ伸びる見えざる手。

 

 それを掴もうとする執着。

 

 その一瞬で、体勢が崩れた。

 

 スバルは拳を叩き込んだ。

 

 ペテルギウスの顔面が歪み、体が竜車から外れる。

 

 だが、外套の一部が車輪に絡まる。

 

 引きずられる。

 

 肉が削れる。

 

 骨が砕ける。

 

 それでも、なお叫ぼうとする。

 

 車輪が跳ねた。

 

 潰れる音。

 

 今度こそ、終わった。

 

 だが、息をつく暇はない。

 

 エミリアの竜車が見えた。

 

 子どもたちの声。

 

 エミリアの気配。

 

 スバルはパトラッシュへ飛び移り、竜車へ近づく。

 

「エミリア!」

 

 エミリアが驚いて顔を上げる。

 

「スバル!? どうして――」

 

「後で!」

 

 スバルは竜車の床板を剥がす。

 

 火石の袋。

 

 そこにあった。

 

 重い。

 

 熱い。

 

 村一つ吹き飛ばすだけの量。

 

 スバルはそれを抱え上げる。

 

「なんで、ここに……」

 

 エミリアの顔が青ざめる。

 

 子どもたちも震えている。

 

 スバルは笑った。

 

 怖がらせないように。

 

 ユイに言われた通り、大人の顔で。

 

「大丈夫」

 

「スバル!」

 

「俺が来た理由?」

 

 エミリアの目が揺れる。

 

 スバルは袋を抱えたまま、パトラッシュへ戻る。

 

「君が好きだからだ」

 

 その一言を残し、スバルは走った。

 

 火石の袋を抱え、白鯨の亡骸の方へ。

 

 安全な距離。

 

 爆発しても、誰も巻き込まない場所。

 

 スバルは全力で袋を投げた。

 

 爆発。

 

 白い光。

 

 熱風。

 

 衝撃。

 

 パトラッシュが身を挺してスバルを庇う。

 

 世界が吹き飛んだ。

 

 次に目を覚ました時、スバルは柔らかな感触の上にいた。

 

 膝枕。

 

 銀の髪が視界に落ちる。

 

 エミリアだった。

 

「……長い夢を見てた気分だ」

 

 スバルは掠れた声で言った。

 

 エミリアは泣きそうな顔で、けれど笑おうとしていた。

 

「スバル」

 

「エミリアたん」

 

 今度は外套越しではない。

 

 伝令でもない。

 

 ナツキ・スバルとして、彼女の前にいる。

 

「ごめん」

 

 まず、謝った。

 

「王都で、俺は自分のことばっかだった。君のことを守るって言いながら、君の気持ちを全然見てなかった」

 

 エミリアは黙って聞いていた。

 

 スバルは続ける。

 

「でも、一つだけ間違ってなかったことがある」

 

 胸が痛い。

 

 体中が痛い。

 

 でも、言わなければならない。

 

「俺は、君を助けたかった」

 

 エミリアの瞳が揺れる。

 

「俺は、君が好きだ」

 

 短い言葉。

 

 ただそれだけ。

 

 けれど、そのために立ち上がってきた。

 

 エミリアは唇を震わせる。

 

 自分がハーフエルフであること。

 

 王選に出る理由。

 

 自分の中にある打算や弱さ。

 

 彼女はそれを口にしようとする。

 

 スバルは首を振った。

 

「それでも好きだ」

 

 誰が何と言おうと。

 

 どんな理由があろうと。

 

 それでも。

 

「俺は、君の味方でいたい」

 

 エミリアの目から涙が零れた。

 

「そんな特別扱い、初めて」

 

 彼女は泣きながら笑った。

 

「嬉しいって思えた」

 

 スバルは、ようやく肩の力を抜いた。

 

 遠くで、ユイがその光景を見ていた。

 

 彼女は近づかない。

 

 ここは、スバルとエミリアの場面だ。

 

 自分が割り込む場所ではない。

 

 けれど、彼女の存在は確かにここまで続いていた。

 

 外套を整えた。

 

 言葉を削った。

 

 偽情報を作った。

 

 内通者を炙り出した。

 

 指先の逃げ道を塞いだ。

 

 残党を押さえた。

 

 合図を見逃さず、外側を動かした。

 

 スバルを伝令から、ナツキ・スバルへ戻した。

 

 表には出ない。

 

 だが、道を作った。

 

 ユイは静かに息を吐く。

 

「よくできました、スバルくん」

 

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 その声には、優しさと、少しの愉悦が混ざっていた。

 

 壊れそうになりながらも、スバルはここまで来た。

 

 好きだと伝えた。

 

 謝った。

 

 救った。

 

 それを見届けられただけで、ユイは満足だった。

 

 白鯨は討たれた。

 

 怠惰は潰えた。

 

 火石の爆発は遠ざけられた。

 

 エミリアは救われた。

 

 そして、ナツキ・スバルはようやく、自分の言葉で彼女の前に立った。

 

 ただそれだけの物語。

 

 けれど、その「ただそれだけ」へ辿り着くために、流された血と涙を知る者がいた。

 

 スバルだけが覚えている死。

 

 ユイだけが隠している虚飾。

 

 それでも今だけは、朝の光がすべてを優しく包んでいた。

 

 それから、しばらくして。

 

 竜車はゆっくりと道を進んでいた。

 

 揺れる車内には、子どもたちの寝息がある。

 

 疲れ切ったエミリアも、まだ少し赤い目のまま、スバルの隣に座っていた。

 

 スバルは窓の外を見る。

 

 白鯨を越えた。

 

 魔女教を越えた。

 

 エミリアに、言えた。

 

 なら、次は――。

 

「レムにも、ちゃんと報告しないとな」

 

 何気ない一言だった。

 

 勝利の後の、ささやかな約束。

 

 しかし。

 

 エミリアは、不思議そうに首を傾げた。

 

「レム?」

 

 スバルの心臓が、嫌な音を立てた。

 

 エミリアは、純粋に、知らない名前を聞いたような顔で言った。

 

「レムって、誰のこと?」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。