白鯨を討った。
霧は晴れ、フリューゲルの大樹は倒れ、四百年の災厄は地に伏した。
だが、ナツキ・スバルの戦いは終わっていない。
ここからだった。
ペテルギウス・ロマネコンティ。
指先。
内通者。
火石。
エミリアの避難。
子どもたちの竜車。
そして、自分の体を狙う狂気。
すべてを、正しい順番で潰さなければならない。
ひとつでも取りこぼせば、また誰かが死ぬ。
スバルは地図を前に、拳を握った。
「まず、屋敷だ」
声は低い。
「白紙の手紙の誤解を解く。エミリアたんには、子どもたちと同じ竜車に乗って避難してもらう。村人は分ける。王都方面へ向かう組と、聖域方面へ向かう組だ」
クルシュは黙って聞いていた。
アナスタシアは扇子の奥で目を細めている。
ユリウスは静かに腕を組み、フェリスは負傷者の処置をしながら耳を向けていた。
ユイは地図の端に立っている。
白鯨戦で裂けた袖。
肩に巻かれた包帯。
血と土の残った白い髪。
それでも、彼女は涼しい顔で地図を見ていた。
「普通に会いに行くのはまずいわね」
ユイが言う。
「王都でのことがある。あなたはエミリア様の顔を見たら、余計なことを言う」
「断言すんなよ」
「言うでしょう?」
「……言うかもしれない」
「なら、伝令に徹する」
ユイは淡々と続けた。
「エミリア様の外套を使う。認識を曖昧にして、スバルくんだと強く意識されないようにする。話す内容は最小限」
彼女は指を折る。
「魔女教の襲撃が迫っていること。村人の避難を始めること。エミリア様には子どもたちと同じ竜車に乗ってもらうこと。詳しい説明は後にすること」
「俺の謝罪は?」
「後」
「……だよな」
「今は謝る時間じゃない。救う時間よ」
冷たい言葉だった。
けれど、正しかった。
だからスバルは、黙って頷いた。
ユイは知っている。
この先の流れを。
何が起きるかを。
どこで、誰が死にかけるかを。
それを知っていながら、知っている顔をしない。
あくまで、スバルの言葉と戦場の状況から推測した者として振る舞う。
その仮面は、怖いほど自然だった。
アナスタシアが扇子を閉じる。
「商人側には、二時間遅れの避難計画を流すんやね?」
「ああ」
スバルは頷いた。
「内通者がいるなら、それに食いつく」
「うちの商人に紛れ込まれとるなら、うちの顔にも泥や。見逃すわけにはいかへん」
アナスタシアの声は軽い。
だが、目は笑っていなかった。
ユイは偽の避難計画書を差し出す。
「雑な嘘ではないわ。商人が見ても不自然ではない。けれど、本命とは時刻も道もずらしてある」
「ほんま、嫌な上手さやね」
「必要な上手さよ」
「その返しも嫌やわあ」
アナスタシアは笑った。
場が決まる。
ヴィルヘルムが屋敷へ向かい、白紙の手紙の誤解を解く。
スバルは外套を被ってエミリアへ伝令をする。
商人側には偽情報を流し、動いた内通者を捕らえる。
指先は村に近づく前に潰す。
そして、スバルがペテルギウスのもとへ向かう。
正しい順番。
これを崩してはいけない。
ヴィルヘルムが静かに頭を下げた。
「ナツキ殿。屋敷への説明は私が」
「お願いします」
「あなたは、あなたの役目を」
「はい」
スバルは深く息を吸った。
外套を手に取る。
エミリアの外套。
それを羽織った瞬間、胸が苦しくなる。
王都でのことが蘇る。
自分勝手な言葉。
彼女を傷つけた顔。
今すぐ謝りたい。
けれど、今はまだ駄目だ。
ユイが外套の前を整える。
「顔が出すぎ。もっと深く」
「……おう」
「声は低く。話は短く。身振りは抑える。エミリア様の目を見すぎない」
「最後が一番難しい」
「だから一番気をつけて」
「俺、そんなに顔に出るか?」
「出るわ」
「即答かよ」
「出るから言っているの」
ユイは外套の襟を直し、少し離れて全体を見た。
「伝令には見える」
「俺には?」
「動きでばれる可能性がある」
「酷評だな」
「動かなければいい」
「無茶言うな」
「あなたは無茶が得意でしょう?」
スバルは苦笑する。
その苦笑が少しだけ自然になったことに、自分で驚いた。
ユイは声を落とす。
「会いたいなら、ちゃんと救ってから会いなさい」
「……ああ」
「今は、伝令」
「わかってる」
スバルは屋敷へ向かった。
認識阻害の外套は奇妙だった。
すれ違う者の視線が、こちらへ向いても滑っていく。
見えているのに、意識に残らない。
それはまるで、自分が世界の端へ追いやられたような感覚だった。
屋敷では、ヴィルヘルムの説明がすでに通っていた。
白紙の手紙の誤解。
魔女教の襲撃。
避難の必要。
それでも、エミリアの表情には迷いがある。
村へ行きたい。
村人を助けたい。
けれど、自分が行けば村人が怯えるのではないか。
魔女教が来る理由を、自分に結びつけられるのではないか。
その迷いが、彼女の紫紺の瞳に浮かんでいた。
スバルは膝をつく。
「報告します」
声を低くする。
いつもの自分を殺す。
エミリアがこちらを見る。
心臓が跳ねる。
だが、耐えた。
「村人の避難を進めています。エミリア様には、子どもたちと同じ竜車に乗り、避難していただきます」
「私も、竜車に?」
「はい」
「村へは行かなくていいの?」
行きたいのだ。
彼女は。
村人に恐れられても、傷ついても、それでも行きたいと思っている。
スバルは唇を噛みそうになり、堪える。
「今、村では混乱を避ける必要があります。エミリア様が直接村へ向かえば、善意であっても不安を強める恐れがあります」
「……そう」
その一言が痛い。
けれど、続ける。
「ですが、子どもたちの竜車には、あなたの力が必要です。子どもたちは怯えています。エミリア様がそばにいれば、守る力になります」
「私が、守る力に?」
「はい」
スバルは深く頭を下げる。
「恐れられるためではなく、守るために。どうか、子どもたちと一緒に避難を」
沈黙。
パックが、じっとスバルを見ていた。
外套の効果があっても、その目はどこか疑わしげだった。
やがて、エミリアは小さく頷く。
「わかった。子どもたちと一緒に行く。途中で何かあれば、私が守る」
「ありがとうございます」
「あなたも、気をつけて」
その言葉に、スバルは胸を締めつけられた。
伝令に向けられた言葉。
けれど、スバル自身に届いてしまう。
「はい」
短く答え、立ち上がる。
扉を出る寸前、エミリアが小さく呟いた。
「……少しだけ、知っている声みたい」
スバルは止まらなかった。
止まれば、全部が崩れる。
廊下へ出てから、ようやく息を吐く。
「……きっつ」
壁に手をつく。
名乗れなかった。
謝れなかった。
でも、伝えた。
それでいい。
今は、それでいい。
外へ戻ると、ユイが待っていた。
「どうだった?」
「伝えた。エミリアは子どもたちと同じ竜車に乗る」
「余計なことは?」
「言ってない」
「目は見すぎた?」
「……ちょっと」
「でしょうね」
「信用ねえな」
「あなたの顔を見ればわかるわ」
ユイは小さく笑う。
それから、すぐに表情を切り替えた。
「次は、内通者と指先」
「ああ」
「村に襲撃は入れない。その前に潰す」
その言葉で、スバルの目も変わる。
そうだ。
村で戦わせない。
子どもたちの前で血煙を上げない。
エミリアに、村の戦場を見せない。
そのために、ここで潰す。
商人側へ偽の避難計画が流された。
二時間遅れの計画。
偽の竜車配置。
本命とは違う道。
その紙を受け取った商人の一人が、自然な顔で列を離れようとする。
ユイはそれを見た。
知っている。
彼が内通者だと。
だが、知っている顔はしない。
ただ、指先だけで合図を送る。
ユリウスの準精霊が男を追う。
男は森の外れで、黒外套と接触した。
紙を渡す。
その瞬間、鉄の牙が左右から飛び出す。
ミミの音撃が地面を叩き、ティビーが逃げ道を塞ぐ。
黒外套が喉元へ手を伸ばした。
自害。
だが、ユリウスの剣がその手首を弾く。
男も黒外套も、地面へ押さえ込まれた。
フェリスが駆け寄り、顔をしかめる。
「体内に魔力反応。火石の可能性が高いにゃ」
スバルは拳を握った。
今度は爆発させなかった。
ユイが偽情報を作った。
アナスタシアが流した。
ユリウスが追った。
鉄の牙が捕らえた。
全員が噛み合った。
「口を塞いで。手足を固定。衝撃を与えないで。フェリスさん以外は近づかない」
ユイの指示に、兵たちが迷わず動く。
彼女は戦場の中心で剣を振るわない。
だが、命が失われる前に、危険の位置をずらす。
それがユイの存在感だった。
内通者を捕らえた後、指先の討伐へ移る。
ここで言う指先は、見えざる手を使う怪物ではない。
ペテルギウスが移るための器。
狂信者。
残しておけば、ペテルギウスが倒れてもまた動き出す。
だから先に潰す。
森の外縁。
黒外套たちが潜む場所。
スバルはパトラッシュの手綱を握り、ユリウスと並ぶ。
「指先は、見えざる手を使わない」
スバルは確認するように呟いた。
「でも、残せばペテルギウスの器になる」
ユリウスが頷く。
「ならば、逃がさないことを最優先とする」
「ああ。自害と火石にも気をつけろ」
「承知した」
ミミとティビーが左右へ回り込む。
ユイは後方で、逃げ道と合図の位置を確認していた。
「逃げ道を一つだけ残して」
ユイが言う。
「そこに追い込む。完全に囲むと自害される」
「わかった!」
ミミが頷く。
「口を塞ぐ役を一人ずつつけて。叫ばせない。合図を出させない」
ティビーが頷く。
「了解。地味だけど大事なやつだね」
「ええ。地味なところで死ぬから」
その言葉に、ティビーが少し真顔になった。
作戦は一気に動いた。
ミミの音撃が森の奥を揺らす。
黒外套たちが浮き足立つ。
ティビーが逃げ道を塞ぎ、鉄の牙が左右から押し潰す。
スバルは見えざる手を警戒する必要はない。
ここにいるのは指先だ。
見えざる手を使うのは、ペテルギウス本人。
今は、器を壊す場面。
黒外套の一人が自分の喉へ手を伸ばす。
ユイが叫んだ。
「右奥、自害!」
ユリウスの剣が手首を弾く。
兵が飛びかかり、口を塞いで押さえ込む。
別の一人が森の奥へ逃げる。
「左、逃げる!」
ミミが飛び込む。
音撃が足を崩し、信徒が倒れる。
ティビーが拘束する。
ユイは次々に穴を塞いでいく。
派手ではない。
けれど、誰かが見落とせば、そこから失敗が生まれる。
スバルはその背中を見ていた。
ユイがいなければ、何人かは逃げていた。
何人かは自害していた。
何人かは火石を使っていたかもしれない。
そうなれば、ペテルギウス戦の後にまた地獄が残る。
指先は潰された。
拘束された者は口を塞がれ、火石の有無を確認される。
戦闘は短く、しかし確実に終わった。
「次だ」
スバルは言った。
「ペテルギウスに会いに行く」
フェリスが眉をひそめる。
「本当に行くにゃ?」
「行く」
「スバルきゅん、自分の扱いが雑すぎるにゃ」
「よく言われる」
「直す気のない返事にゃ」
ユイがスバルへ近づいた。
「試練を受けるふりをするのね」
「ああ」
「福音書を求められる」
「奪ったミーティアを使う。合図にもなる」
スバルは懐のミーティアを軽く叩いた。
内通者から押さえたもの。
ペテルギウスを騙し、奇襲へ繋げるための道具。
ユイはスバルの襟元を整える。
「怒りを出しすぎないで」
「難しいな」
「知ってる」
「否定してくれ」
「無理よ」
ユイは少しだけ目を細める。
「あの男は、感情の歪みを自分の言葉に変えてくる。怒りは餌になる。でも、飲まれたら終わり」
「餌にして、飲まれるな、か」
「ええ」
「言うのは簡単だな」
「実行するのはあなたの役目」
「お前は?」
「あなたが前を向けるように、外側を潰す」
ユイは森を見る。
「指先は潰した。周囲の信徒も押さえた。ペテルギウスの周りに、黒い外套の信徒はもういない」
「……そこまで整えたのか」
「あなたが前で失敗しないようにね」
「言い方」
「事実よ」
ユイは小さく笑う。
「でも、完全に安全とは言わない。あなたがペテルギウスと話す間、私は外を見る」
「頼む」
「ええ」
スバルは一人で進んだ。
森の奥。
静まり返った空間。
黒い外套の信徒たちは、もういない。
ユイたちが外側で潰した。
残っているのは、ただ一人。
痩せた男。
ペテルギウス・ロマネコンティ。
彼はスバルを見た瞬間、目を見開いた。
「おお……おおおおおおおお……!」
頬を掻きむしる指。
裂ける皮膚。
滴る血。
「なんという濃密な寵愛! 嫉妬の魔女に愛されし香り! あなたは、あなたは、あなたはァ!」
スバルは吐き気を堪える。
怖い。
気持ち悪い。
殺したい。
だが、ここで飛びかかってはいけない。
「試練を受けに来た」
ペテルギウスの動きが止まる。
「試練?」
「ああ」
スバルは懐へ手を入れる。
奪ったミーティア。
それを取り出す。
開く。
見せる。
その動きが、合図だった。
鳴らす必要はない。
ミーティアを開いて見せる。
その反射と動作を見た瞬間、外で待機していた者たちが動く。
同時に、スバルはペテルギウスへ向けて言葉を重ねた。
「俺が、器に相応しいか確かめたいんだろ」
ペテルギウスの目が、さらに見開かれる。
「勤勉……!」
彼は震えた。
「なんという勤勉! 自ら試練を望むとは! あなたは、あなたはァ!」
森の外側で、ユイは合図を見ていた。
音ではない。
光と動作。
ミーティアを開いて見せた、その一瞬。
「今」
短く言う。
ミミが右から入る。
ティビーが左を塞ぐ。
ユリウスが剣を抜く。
鉄の牙が退路を押さえる。
ペテルギウスの周囲には、黒い外套の信徒はいない。
だから、奇襲の対象はひとつ。
ペテルギウス本人。
「今だ!」
スバルが叫ぶ。
奇襲は成功した。
ペテルギウスの顔が歪む。
「怠惰……怠惰怠惰怠惰ァ!」
スバルは背を向けて走った。
ペテルギウスが追う。
見えざる手が伸びる。
黒い腕。
それはペテルギウス本人のもの。
スバルには見える。
崖下へ。
ユリウスが待つ場所へ。
スバルは走る。
恐怖を噛み殺し、怒りを抱え、けれど飲まれずに。
「ユリウス!」
森の影から、騎士が現れた。
紫紺の髪。
抜かれた剣。
ネクトで繋がる感覚。
「承知した」
ユリウスの剣が、見えざる手の軌道へ走る。
銀の線が、不可視の腕を裂くように走った。
ここからが、本当の戦いだった。
ペテルギウスは、常軌を逸した動きで見えざる手を増やしていく。
一本。
二本。
五本。
十本。
スバルには見える。
ユリウスには、スバルの視界を通して届く。
だが、負担は大きい。
ユリウスの足が裂ける。
腹を掠める。
肩を抉られる。
その痛みが、ネクト越しにスバルへも伝わった。
「ぐっ、いってえ……!」
「集中しろ、ナツキ・スバル」
「お前こそ血ぃ出てんぞ!」
「この程度、戦闘に支障はない」
「支障しかねえだろ!」
「なら、早く終わらせよう」
ユリウスは剣を構える。
精霊の光が集まる。
アル・クラウゼリア。
虹のような輝きが刃に宿る。
ペテルギウスが吠える。
「小細工! 小細工小細工小細工! 愛を侮辱するその怠惰、許し難し!」
見えざる手が殺到する。
スバルは叫ぶ。
「右! 上! 足元!」
ユリウスが斬る。
避ける。
進む。
ペテルギウスが土の壁を生み出す。
防御。
その瞬間、スバルは火石を投げた。
小さな光が壁の向こうへ落ちる。
爆ぜる。
土壁が崩れる。
ユリウスの剣が、ペテルギウスの腹を貫いた。
「ぐ、が……!」
ペテルギウスの目が見開かれる。
ユリウスは冷たく言う。
「君の敗因は、ナツキ・スバルをただ弱いだけの男だと見たことだ」
スバルは荒い息を吐く。
勝った。
そう思いかけた瞬間、胸の奥が冷えた。
来る。
ペテルギウスが、スバルを見た。
見えざる手とは違う何かが、内側へ伸びてくる。
奪われる。
器にされる。
スバルは歯を食いしばった。
「ユリウス、ネクトを切れ!」
「何?」
「早く!」
ユリウスは迷わず切った。
感覚の繋がりが断たれる。
同時に、スバルの意識が暗い場所へ引きずり込まれそうになる。
ここで、黙っていたら持っていかれる。
だから、スバルは言った。
言ってはいけない言葉。
口にすれば、魔女が来る言葉。
「俺は――死に戻りしている!」
世界が凍った。
心臓を、黒い手が掴む。
内側から、強制的に握り潰そうとする圧。
だが、その影は、スバルだけを掴んで終わらなかった。
黒い影が広がる。
嫉妬の魔女。
その気配が、空間を塗り潰す。
ペテルギウスの顔が歓喜に歪んだ。
「ああ……ああああああ! サテラ! サテラ様! 私の愛が、ついに、ついにあなたへ!」
彼は両手を広げる。
壊れた体で、血を吐きながら、なお喜びに震える。
だが。
影は、ペテルギウスを受け入れなかった。
愛などではない。
選ばれたわけでもない。
影の視線が、ただ一瞬、ペテルギウスを見た。
それだけで、彼の歓喜は凍りついた。
「なぜ……」
拒絶。
冷たい否定。
お前ではない。
声にならないその意思が、ペテルギウスを弾き飛ばす。
「なぜなぜなぜなぜなぜェ! 愛が! 私の愛がァ!」
ペテルギウスは絶叫した。
影はスバルの心臓を締め上げる。
痛い。
息ができない。
だが、スバルは意識を現実へ引き戻した。
ペテルギウスの体が崩れ落ちる。
福音書が、地面へ落ちた。
スバルは荒い息のまま、それを拾う。
ペテルギウスの福音書。
狂気の道標。
これが、奴の心臓のようなものだった。
ページをめくっても、理解できない文字が並んでいる。
だが、今は持っていく。
必要になる。
そう直感した。
ペテルギウスは、岩壁へもたれかかるように倒れていた。
体はもう限界だ。
それでも、まだ目だけは狂気を宿している。
最後の見えざる手が、岩を砕いた。
轟音。
岩壁が崩れる。
ペテルギウスの体が瓦礫に呑まれた。
声が途切れる。
スバルはその場に膝をつきそうになりながら、福音書を握りしめた。
「……終わった、のか」
「まだだ」
ユリウスが言った。
通信が入った。
フェリスの声。
火石が足りない。
商人の積み荷から、消えた分がある。
そして、その火石は、ケティの竜車へ積まれている可能性がある。
ケティの竜車。
エミリアと子どもたちが乗っている竜車。
スバルの全身から血の気が引いた。
「嘘だろ……!」
オットーが息を切らして駆け込んでくる。
「スバルさん! 今なら、まだ追いつけます! 俺の地竜なら、道を選べる!」
「オットー!」
「言っときますけど、俺は商人ですからね! でも、ここで行かなかったら商売以前に寝覚めが悪いんですよ!」
「頼む!」
ユリウスがイアを差し出す。
「火石の反応を追える。連れていけ」
「助かる!」
スバルはオットーの竜車へ飛び乗った。
ユイも一歩動いた。
だが、スバルが制した。
「ユイさんは残ってくれ」
「理由は?」
「残党を抑える人間がいる。フェリスたちに状況を繋ぐ人間もいる。俺が行く」
ユイは一瞬、目を細めた。
彼女は知っている。
この先、スバルが何をするか。
それでも、ここでついていけば形が変わりすぎる。
だから、止まる。
「わかった」
短く言う。
「でも、忘れないで。子どもたちの前では、最後まで大人の顔をしなさい」
「……ああ」
「それと」
「なんだ?」
「エミリア様には、ちゃんと自分の言葉で言いなさい」
スバルは息を呑む。
ユイは微笑んだ。
「伝令はもう終わり。次は、ナツキ・スバルとして」
「……行ってくる」
オットーの竜車が走り出す。
地竜が森を抜ける。
オットーは加護を使い、地竜や周囲の生き物の声を聞きながら最短の道を選ぶ。
「右です! いや、左! ああもう、森の皆さん口々に喋らないでください!」
「頼むぞ、オットー!」
「頼まれてますよ! 胃が痛い!」
その時、背後から異音がした。
潰れたはずのペテルギウス。
その死体が、見えざる手で無理やり動いていた。
骨が砕け、肉が裂けているのに、なお追ってくる。
「しつけえ……!」
スバルはオットーの油壺を掴んだ。
「借りるぞ!」
「それ商品!」
「命より高いのか!」
「命の次くらいには高いです!」
「なら安い!」
「高いって言ってるんです!」
スバルは油壺を投げる。
イアの火が走る。
爆炎がペテルギウスを呑む。
それでも、奴は止まらない。
竜車へ取りつき、愛を返せと叫ぶ。
スバルは歯を食いしばり、福音書を開いた。
ペテルギウスの福音書。
その最後のページ。
スバルは指を噛み切り、血で文字を書く。
この世界の文字で。
短く。
強く。
――終わりだ。
ペテルギウスの目が見開かれる。
福音書へ伸びる見えざる手。
それを掴もうとする執着。
その一瞬で、体勢が崩れた。
スバルは拳を叩き込んだ。
ペテルギウスの顔面が歪み、体が竜車から外れる。
だが、外套の一部が車輪に絡まる。
引きずられる。
肉が削れる。
骨が砕ける。
それでも、なお叫ぼうとする。
車輪が跳ねた。
潰れる音。
今度こそ、終わった。
だが、息をつく暇はない。
エミリアの竜車が見えた。
子どもたちの声。
エミリアの気配。
スバルはパトラッシュへ飛び移り、竜車へ近づく。
「エミリア!」
エミリアが驚いて顔を上げる。
「スバル!? どうして――」
「後で!」
スバルは竜車の床板を剥がす。
火石の袋。
そこにあった。
重い。
熱い。
村一つ吹き飛ばすだけの量。
スバルはそれを抱え上げる。
「なんで、ここに……」
エミリアの顔が青ざめる。
子どもたちも震えている。
スバルは笑った。
怖がらせないように。
ユイに言われた通り、大人の顔で。
「大丈夫」
「スバル!」
「俺が来た理由?」
エミリアの目が揺れる。
スバルは袋を抱えたまま、パトラッシュへ戻る。
「君が好きだからだ」
その一言を残し、スバルは走った。
火石の袋を抱え、白鯨の亡骸の方へ。
安全な距離。
爆発しても、誰も巻き込まない場所。
スバルは全力で袋を投げた。
爆発。
白い光。
熱風。
衝撃。
パトラッシュが身を挺してスバルを庇う。
世界が吹き飛んだ。
次に目を覚ました時、スバルは柔らかな感触の上にいた。
膝枕。
銀の髪が視界に落ちる。
エミリアだった。
「……長い夢を見てた気分だ」
スバルは掠れた声で言った。
エミリアは泣きそうな顔で、けれど笑おうとしていた。
「スバル」
「エミリアたん」
今度は外套越しではない。
伝令でもない。
ナツキ・スバルとして、彼女の前にいる。
「ごめん」
まず、謝った。
「王都で、俺は自分のことばっかだった。君のことを守るって言いながら、君の気持ちを全然見てなかった」
エミリアは黙って聞いていた。
スバルは続ける。
「でも、一つだけ間違ってなかったことがある」
胸が痛い。
体中が痛い。
でも、言わなければならない。
「俺は、君を助けたかった」
エミリアの瞳が揺れる。
「俺は、君が好きだ」
短い言葉。
ただそれだけ。
けれど、そのために立ち上がってきた。
エミリアは唇を震わせる。
自分がハーフエルフであること。
王選に出る理由。
自分の中にある打算や弱さ。
彼女はそれを口にしようとする。
スバルは首を振った。
「それでも好きだ」
誰が何と言おうと。
どんな理由があろうと。
それでも。
「俺は、君の味方でいたい」
エミリアの目から涙が零れた。
「そんな特別扱い、初めて」
彼女は泣きながら笑った。
「嬉しいって思えた」
スバルは、ようやく肩の力を抜いた。
遠くで、ユイがその光景を見ていた。
彼女は近づかない。
ここは、スバルとエミリアの場面だ。
自分が割り込む場所ではない。
けれど、彼女の存在は確かにここまで続いていた。
外套を整えた。
言葉を削った。
偽情報を作った。
内通者を炙り出した。
指先の逃げ道を塞いだ。
残党を押さえた。
合図を見逃さず、外側を動かした。
スバルを伝令から、ナツキ・スバルへ戻した。
表には出ない。
だが、道を作った。
ユイは静かに息を吐く。
「よくできました、スバルくん」
誰にも聞こえない声で呟く。
その声には、優しさと、少しの愉悦が混ざっていた。
壊れそうになりながらも、スバルはここまで来た。
好きだと伝えた。
謝った。
救った。
それを見届けられただけで、ユイは満足だった。
白鯨は討たれた。
怠惰は潰えた。
火石の爆発は遠ざけられた。
エミリアは救われた。
そして、ナツキ・スバルはようやく、自分の言葉で彼女の前に立った。
ただそれだけの物語。
けれど、その「ただそれだけ」へ辿り着くために、流された血と涙を知る者がいた。
スバルだけが覚えている死。
ユイだけが隠している虚飾。
それでも今だけは、朝の光がすべてを優しく包んでいた。
それから、しばらくして。
竜車はゆっくりと道を進んでいた。
揺れる車内には、子どもたちの寝息がある。
疲れ切ったエミリアも、まだ少し赤い目のまま、スバルの隣に座っていた。
スバルは窓の外を見る。
白鯨を越えた。
魔女教を越えた。
エミリアに、言えた。
なら、次は――。
「レムにも、ちゃんと報告しないとな」
何気ない一言だった。
勝利の後の、ささやかな約束。
しかし。
エミリアは、不思議そうに首を傾げた。
「レム?」
スバルの心臓が、嫌な音を立てた。
エミリアは、純粋に、知らない名前を聞いたような顔で言った。
「レムって、誰のこと?」