「レムって、誰のこと?」
竜車の中で、エミリアがそう言った。
その声は、あまりにも普通だった。
知らない名前を聞いた。
だから、尋ねた。
ただそれだけの声。
だからこそ、スバルは息を忘れた。
「……は?」
喉から漏れた声は、情けないほど掠れていた。
揺れる竜車。
外を流れる森の影。
眠りこける子どもたち。
少し赤い目をしたエミリア。
その全部が、さっきまでと変わらない。
けれど、世界の根元だけが、音もなく折れた。
「レムだよ」
スバルは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「レム。青い髪で、メイド服で、ロズワール邸の……ラムの妹で……」
言葉を重ねるたび、エミリアの眉が困ったように下がっていく。
知らない。
本当に知らない顔だった。
「ごめんね、スバル。私、聞き逃しちゃったのかな。ラムの妹……?」
「そうだよ。レムだよ。白鯨戦で一緒にいて、俺をずっと支えてくれて、俺が……俺がここまで来られたのは、レムが――」
そこまで言って、スバルは言葉を失った。
子どもたちがいる。
怖がらせるな。
最後まで大人の顔をしろ。
ユイに言われた言葉が、頭の奥で響いた。
けれど、無理だった。
大人の顔なんてできるはずがない。
世界が、レムを忘れている。
それだけで、スバルの胸は内側から潰れそうだった。
「オットー!」
竜車の前方へ向かって、スバルは叫んだ。
手綱を握るオットーが、びくりと肩を跳ねさせる。
「な、なんですか!? もう爆発物は勘弁してくださいよ!?」
「クルシュさんのところへ戻れ!」
「え?」
「戻れ! 今すぐ!」
オットーは一瞬、何かを聞き返そうとした。
だが、振り返ってスバルの顔を見た途端、言葉を飲み込んだ。
「……わかりました!」
竜車が大きく揺れる。
子どもたちが不安そうに目を覚ます。
エミリアがスバルへ手を伸ばす。
「スバル、どうしたの? 何が――」
「頼む、今は……今は、聞かないでくれ」
スバルはそう言うのがやっとだった。
エミリアは唇を噛んだ。
聞きたいことはあるはずだった。
なぜ急に戻るのか。
なぜそんな顔をしているのか。
レムとは誰なのか。
けれど、エミリアは黙ってくれた。
その優しさすら、今のスバルには痛かった。
少し遅れて、別の竜車からユイが合流した。
彼女はスバルの顔を見るなり、静かに目を細めた。
スバルには、その表情が何を意味するのかわからない。
ただ、ユイは問い詰めなかった。
レムの名を聞き返すこともしなかった。
あくまで、スバルの異常を見て取った同行者として、淡々と隣へ来る。
「スバルくん」
「……」
「呼吸が浅いわ。吐いて」
「そんな場合じゃ――」
「そんな場合だから言っているの」
ユイの声は静かだった。
冷たいほど、落ち着いていた。
「このままクルシュ様の前に行けば、あなたは言葉を間違える」
「言葉なんか、どうでも――」
「どうでもよくない。確認することがあるのでしょう」
スバルの目が揺れる。
ユイは続けた。
「名前。記憶。身体。記録。誰が何を覚えていて、何が残っていて、何が消えているのか。泣くのは、その後でもできる」
レムとは言わない。
けれど、スバルが何を恐れているのかを、正確に整理している。
スバルは奥歯を噛んだ。
「……わかった」
それ以上は、何も言えなかった。
ユイが何かを知っているとは、スバルには思えない。
彼女はただ、スバルの顔を見て、必要な確認事項を並べただけ。
そう見えるように、完璧に振る舞っていた。
クルシュ邸へ戻った時、そこにあったのは勝利の空気ではなかった。
白鯨討伐の功績を称える場ではない。
薬草の匂い。
血の匂い。
慌ただしく動く使用人たち。
押し殺された声。
何かが起きた後の屋敷だった。
フェリスが廊下にいた。
いつもの軽さはない。
顔色は悪く、耳も尻尾も力なく垂れている。
「フェリス!」
スバルが叫ぶ。
フェリスは顔を上げた。
その目が、スバルを見て揺れる。
「スバルきゅん……」
「レムは!?」
名前を出した瞬間、フェリスの表情に困惑が浮かんだ。
知らない名前を聞いた顔だった。
スバルの心臓が、さらに冷たくなる。
「レムだよ! 俺と一緒にいた、青い髪のメイドで、ロズワール邸の――」
「……待って」
フェリスは苦しげに眉を寄せた。
「名前は、わからないにゃ」
「は?」
「フェリちゃんには、その名前に覚えがない。でも……」
フェリスは奥の部屋へ視線を向ける。
「身元のわからない女の子が、一人、運び込まれてる。眠ったまま、目を覚まさない子が」
それだけで十分だった。
スバルは走った。
廊下を駆ける。
扉を開ける。
そこに、レムがいた。
ベッドの上。
青い髪。
閉じた瞳。
静かな寝息。
まるで、ただ眠っているだけのようだった。
けれど違う。
違うのだと、見た瞬間にわかった。
「レム」
スバルはベッドの横へ崩れるように膝をついた。
手を握る。
温かい。
生きている。
でも、握り返してくれない。
「レム、レム……起きろよ。なあ、冗談だろ。お前、俺をからかってんだろ。そういうの、性格悪いぞ。なあ……」
返事はない。
瞼は動かない。
呼吸だけが、静かに続いている。
エミリアが部屋の入口で立ち尽くしていた。
彼女はレムを知らない。
けれど、スバルがその少女の名を呼び続けていることだけはわかっている。
「スバル……」
何を言えばいいのかわからない声だった。
その肩の近くで、パックがふわりと姿を現した。
小さな精霊は、ベッドに眠るレムを見て、表情を曇らせる。
「これは……まずいね」
スバルが顔を上げる。
「パック。お前、何か知ってるのか」
「知っている、というより、似た話を知っている。魔女教大罪司教には、記憶や名前に干渉する権能を持つ者がいる」
「記憶と、名前……?」
「名前を食べられれば、周囲から存在を忘れられる。記憶を食べられれば、その人自身の記憶が失われる。両方を食べられれば――」
パックはレムを見る。
「こうして、身体だけが眠り続ける」
スバルの喉が鳴った。
言葉が出ない。
レムはいる。
ここにいる。
温かい。
生きている。
なのに、世界は彼女を覚えていない。
「誰が……」
スバルの声は低かった。
「誰がやった」
パックは静かに答える。
「おそらく、暴食の大罪司教」
「暴食……」
スバルの拳が震える。
怠惰を倒した。
白鯨を倒した。
エミリアを救った。
それなのに。
その勝利の裏で、レムは奪われていた。
パックは続ける。
「クルシュも被害を受けている。彼女は名前までは失っていない。でも、記憶を大きく損なっている」
「クルシュさんも……」
スバルは立ち上がろうとして、足元が揺れた。
フェリスが部屋に入ってくる。
その顔は、泣き出しそうなほど歪んでいた。
「クルシュ様は、自分のことも、フェリちゃんたちのことも、ちゃんとは覚えていないにゃ。でも、名前は残ってる。だから、まだ……まだ、そこにいるってわかる」
フェリスの声が震える。
「でも、その子は違う。名前も、記憶も、周りから抜け落ちてる。だからフェリちゃんたちには、その子が誰なのかわからない」
スバルはレムの手を握りしめた。
「俺は覚えてる」
喉から絞り出した声だった。
「俺は、覚えてる……!」
ユイは部屋の入口に立っていた。
彼女は何も言わない。
表情は、初めて見る眠った少女を前にしたもの。
誰かが倒れ、スバルが壊れかけている。
それだけを見て、言葉を選んでいる同行者の顔。
声は出さない。
ただ、スバルが倒れそうになった時だけ、一歩だけ動ける距離にいる。
スバルはレムの手を握ったまま、俯いていた。
「戻る」
小さな声だった。
エミリアが眉を寄せる。
「スバル?」
「戻ればいい。戻れば、まだ――」
腰の短剣へ手が伸びる。
フェリスが目を見開いた。
「スバルきゅん!」
エミリアも動く。
だが、それより早く、スバルは刃を自分へ向けていた。
ユイは動かなかった。
止めようとすれば、不自然になる。
スバルが何をしようとしているのか、知らない者にはわからない。
だから動かない。
唇だけが、ほんのわずかに引き結ばれる。
刃が走った。
血が散る。
エミリアの悲鳴が部屋に響く。
フェリスが叫ぶ。
世界が赤く染まり、黒く沈んだ。
次に目を開けた時、スバルは同じ屋敷の中にいた。
喉に傷はない。
血もない。
けれど、場所は変わっていない。
匂いも。
時間も。
遠くの足音も。
レムの眠る部屋も。
全部、襲撃後のままだった。
「……戻って、ない」
違う。
戻った。
だが、戻った先が遅すぎた。
レムが眠った後。
クルシュが記憶を失った後。
そこが、新しい始まりになっている。
「う、そだろ……」
スバルは壁へ向かってふらついた。
額をぶつけそうになる。
その直前、ユイの手が間に入った。
鈍い音。
壁ではなく、ユイの掌にぶつかった。
「やめなさい」
低い声だった。
スバルは顔を上げる。
「ユイ、さん……」
「何かを試して、失敗した顔をしているわ」
「……」
「言えないなら言わなくていい。でも、これだけは言う」
ユイはスバルの両肩を掴んだ。
強い。
逃がさない力だった。
「今ここで壊れたら、あの子のことを呼べる人がいなくなる」
スバルの呼吸が止まる。
あの子。
ユイはそう言った。
レムとは言わない。
覚えているとは言わない。
知らないふりを崩さない。
それでも、スバルには突き刺さった。
レムを呼べるのは、お前だけだ。
そう言われているようだった。
「俺だけ……」
「あなたがそう思うなら、なおさら壊れないで」
「無理だ」
「無理でも立つの」
「なんでそんなこと言えんだよ……!」
スバルの声が荒れる。
「お前は覚えてないくせに! 誰も覚えてないくせに! レムが、どれだけ――」
言いかけて、スバルは止まった。
ユイは何も言わない。
ただ、スバルを見ている。
初めて見る眠った少女のことで、スバルが壊れかけている。
そう受け取っている人間の顔で。
だから、スバルはそれ以上言えなかった。
ユイが覚えていることは、スバルにはわからない。
疑う理由もない。
彼女はただ、スバルの異常を見て、支えているだけに見えた。
「今は決めることがある」
ユイは言った。
「あの子の身体をどこへ運ぶか。誰が世話をするか。クルシュ様との同盟をどうするか。ロズワール邸へ戻った後、何を確認するか」
「……ずるいな」
「何が?」
「いや……」
スバルは涙を拭う。
「助かった」
ユイは頷くだけだった。
それから、会議が開かれた。
クルシュは椅子に座っていた。
姿勢は美しい。
声も落ち着いている。
けれど、その目には以前の鋭い確信がない。
自分が何者で、何を積み上げてきたのか。
その一部が抜け落ちている。
それでも、クルシュは逃げずにそこにいた。
「ナツキ・スバル」
クルシュが言った。
「あなたのことは、皆から聞きました。白鯨討伐に大きく貢献した方だと」
スバルは返事に詰まる。
彼女の声は丁寧だった。
だが、その丁寧さが痛かった。
以前のクルシュなら、もっと違う言い方をしたはずだ。
もっとまっすぐに、もっと力強く。
「……すみません」
なぜ謝ったのか、自分でもわからなかった。
クルシュは少しだけ目を瞬かせる。
「あなたが謝ることではないと、皆は言います」
それが、さらに刺さる。
誰もスバルを責めない。
だからスバルは、自分で自分を責めるしかない。
フェリスはクルシュの傍に立っていた。
いつもの調子を作ろうとしている。
けれど、作れていない。
ヴィルヘルムもまた、静かに控えている。
白鯨を討ったばかりの剣鬼の顔には、別の痛みが刻まれていた。
話し合うべきことは多かった。
レムの身体をどこに置くか。
クルシュの記憶が戻る可能性。
暴食の情報。
同盟の扱い。
白鯨討伐の功績と、その後の損害。
フェリスは、クルシュ陣営としてこれ以上の無理はできないと、言葉を選びながら言った。
当然だった。
主君が記憶を失った。
陣営は傷ついた。
その状況で、何もなかったように動けるはずがない。
だが、クルシュは静かにスバルを見る。
「私は記憶を失いました。ですが、私の周囲にいる者たちが、あなたとの同盟には意味があると言っています」
クルシュは一度、フェリスとヴィルヘルムを見た。
「ならば、今の私にできるのは、それを信じることです」
スバルは目を伏せた。
「俺は……何もできなかった」
「そうでしょうか」
クルシュは穏やかに首を傾げた。
「私には、今のあなたの積み重ねはわかりません。けれど、皆があなたを責めていない。そのことには、意味があるのだと思います」
スバルの喉が詰まる。
その横で、ユイが一歩だけ前へ出た。
「今すぐ結論を急ぐ必要はありません」
場の視線がユイへ向く。
「クルシュ様の記憶が戻る可能性、眠っている彼女の状態、暴食の情報。それらを整理する時間が必要です。同盟については、現時点で破棄か継続かを極端に決めるより、当面の協力関係を維持する形が現実的です」
フェリスがユイを見る。
「……随分、冷静だにゃ」
「冷静でない人ばかりだから」
ユイは静かに返す。
そして、スバルを見た。
「感情で決めると、後で必ず後悔する」
スバルは何も言わなかった。
ユイが何を覚えているのか。
何を知っているのか。
それは見えない。
ただ、今スバルが壊れないように、議論の床を作っている。
それだけはわかった。
会議の後、スバルはレムの部屋へ戻った。
ベッドの横に座り、手を握る。
「レム」
返事はない。
「ごめん」
返事はない。
「俺、戻れなかった」
返事はない。
それが何よりつらかった。
しばらくして、エミリアが部屋に入ってきた。
彼女はレムを知らない。
けれど、スバルが泣いている理由がそこにあることはわかっている。
エミリアはそっと隣に座った。
「スバル」
「……悪い。情けないとこばっか見せてるな」
「情けなくないよ」
エミリアは静かに言った。
「大切な人のことで泣くのは、情けないことじゃない」
スバルは顔を歪める。
「エミリアたんは、覚えてないのに」
「うん。私は覚えてない」
その正直さが、痛い。
「でも、スバルが大切にしている人なんだってことは、わかる」
スバルはレムの手を握りしめた。
「レムは、俺を信じてくれたんだ」
「うん」
「俺が一番駄目だった時に、俺を立たせてくれた」
「うん」
「なのに、俺は……」
「スバル」
エミリアは、優しく名前を呼んだ。
「今すぐ全部を抱えなくていいよ」
「でも、俺が覚えてないと……」
「覚えていてあげて」
エミリアの声は震えていた。
「私にはできないから。スバルが、その人のことを覚えていてあげて」
スバルは泣いた。
声を殺しきれずに泣いた。
エミリアはその背に手を置いた。
少し離れた廊下で、ユイはその声を聞いていた。
入らない。
ここは、スバルとエミリアの場面だ。
だが、ユイの指先は静かに震えていた。
レムの名が消えた世界。
スバルだけが叫ぶ名前。
それを見て、ユイは思う。
かわいそう。
けれど、まだ終わらない。
あなたはここからまた立つ。
そのために、私は道を残す。
翌日。
スバルたちはクルシュ邸を発った。
レムは眠ったまま、竜車へ乗せられた。
フェリスの処置で身体は安定している。
けれど、目は覚まさない。
クルシュは記憶を失ったまま、スバルたちを見送った。
「ナツキ・スバル」
彼女は静かに言った。
「あなたの大切な人を、諦めないでください」
「……はい」
スバルは頭を下げた。
竜車が動き出す。
ロズワール邸へ。
途中、エミリアは何度もレムを見た。
知らない相手。
けれど、スバルが大切にしている相手。
それを理解しようとしている顔だった。
「スバル」
「ん?」
「私、その子のことを覚えていない。でも、スバルが大切にしていることは、わかる」
「……うん」
「だから、教えて。少しずつでいいから」
スバルは目を伏せた。
「レムはな」
声が震える。
「俺を信じてくれたんだ。俺が一番駄目だった時に、俺を立たせてくれた」
エミリアは黙って聞いている。
ユイも、竜車の端で窓の外を見ていた。
知らないふりをして。
でも、聞いていた。
ロズワール邸に着くと、そこにラムもロズワールもいなかった。
出迎えたのは、見慣れない金髪の獣人の少女だった。
「お帰りなさいませ、エミリア様。それに、スバル様」
鋭い牙を覗かせる、柔らかな笑み。
彼女は優雅に一礼する。
「フレデリカ・バウマンと申します。以前、この屋敷で勤めておりました」
スバルは警戒を隠さない。
エミリアは少し驚いたように瞬きした。
その後ろから、小さな足音が聞こえた。
「スバル!」
「ペトラ?」
アーラム村で見慣れた少女が、こちらへ駆け寄ってきた。
村にいた時とは少し違う。
屋敷で手伝いをするために整えられた、簡素で動きやすい服を着ている。
まだ正式なメイドというには幼く、背筋の伸ばし方もどこかぎこちない。
けれど、彼女なりに懸命に「屋敷の手伝い」として立とうとしているのがわかった。
「お前、ここで何してんだ?」
「フレデリカさんに教えてもらってるの。まだ、ちゃんとはできないけど……」
ペトラは少し照れたように笑った。
「エミリア様たちが戻ってくるって聞いたから、私も手伝いたくて」
スバルは一瞬だけ言葉を失う。
昨日まで、避難する村の子どもたちの一人だった少女。
そのペトラが、今は屋敷で誰かを迎えようとしている。
それだけで、時間が勝手に進んでいるような気がした。
「そっか」
スバルは無理に笑った。
「偉いな、ペトラ」
「えへへ」
ペトラは嬉しそうに頬を緩める。
だが、すぐにスバルの後ろへ視線を移した。
竜車の中で眠るレム。
その存在を見ても、ペトラの顔に覚えは浮かばない。
ただ、知らない誰かが眠っていることへの不安だけがあった。
「その人……具合が悪いの?」
「……ああ」
スバルは短く答えた。
「大事な人なんだ。だから、屋敷で休ませてやりたい」
ペトラは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、私も手伝う」
「助かる」
その言葉を聞いたフレデリカが、静かに口を開く。
「ペトラには、まだできることとできないことがございます。ですが、手伝いたいという気持ちは本物ですわ」
「そっか」
スバルはレムを見る。
置いていくのが怖い。
目を離した瞬間に、また何かを奪われるような気がする。
けれど、今のレムを聖域へ連れていくのは危険すぎる。
スバルは拳を握り、やっとのことで頷いた。
「頼む」
ペトラは胸の前で両手を握った。
「うん。ちゃんと見てる」
正式なメイドではない。
でも、守ろうとしてくれている。
その幼い決意が、スバルの胸に少しだけ刺さった。
だが、すぐに現実へ戻る。
ラムがいない。
ロズワールもいない。
村人の一部もいない。
フレデリカは事情を説明した。
ロズワールとラム、そして避難した村人の一部は、聖域にいる。
聖域。
ロズワールが所有する、隠された場所。
スバルは顔を上げる。
「ロズワールが、聖域に?」
「はい。ラムもそちらへ」
「村人も?」
「避難した方々の一部が、聖域に留まっております」
スバルは眉をひそめた。
助けたはずの村人が、まだ戻っていない。
ロズワールもラムも屋敷にいない。
そして、ロズワールは白鯨にも魔女教にも姿を見せなかった。
スバルの中に、押し込めていた疑問が形を持つ。
「なんで、ロズワールは聖域にいるんだ」
フレデリカは目を伏せる。
「詳しい事情は、私からは申し上げられません」
「申し上げられない?」
「聖域に行けば、ロズワール様ご本人からお聞きできるかと」
スバルは奥歯を噛んだ。
聞かなければならない。
なぜ、魔女教襲撃の時にロズワールは屋敷にいなかったのか。
なぜ、ラムと村人の一部が聖域にいるのか。
聖域とは何なのか。
村人をどうすれば戻せるのか。
そして、レムを元に戻す手がかりがあるのか。
全部、ロズワールに聞かなければならない。
「……行くしかねえな」
スバルは呟いた。
エミリアも頷く。
「村のみんながいるなら、私も行く。ロズワールにも話を聞かなきゃ」
ユイも静かに口を開く。
「ロズワール様は、この領地の当主よ。村人が聖域に留め置かれているなら、その理由を確認する必要があるわ」
「それだけじゃない」
スバルは低く言った。
「あいつは、何か知ってる。魔女教のことも、聖域のことも、たぶん……俺たちが知らないことを」
ユイは何も否定しなかった。
「なら、会う理由は十分ね」
「ああ」
スバルは拳を握る。
「ロズワールに会う。村人を戻す方法を聞く。ラムの無事を確認する。聖域の正体を確かめる」
そして、心の中で続けた。
レムを戻す手がかりも、絶対に探す。
その前に、もう一つ。
スバルは別の場所へ足を向けた。
禁書庫。
ベアトリス。
ペテルギウスの福音書。
聞かなければならないことがある。
扉渡りの感覚を頼りに、スバルは禁書庫へ入った。
いつものように、少女がいた。
金の巻き髪。
不機嫌そうな目。
「また来たのかしら」
「聞きたいことがある」
「ベティは忙しいのよ」
スバルは懐から福音書を取り出した。
「これについてだ」
ベアトリスの表情が変わった。
ほんの一瞬。
けれど、確かに。
「……それを、どこで手に入れたのかしら」
「ペテルギウスから奪った」
ベアトリスの瞳が揺れる。
「ジュースが……死んだのね」
その呟きに、スバルは眉をひそめる。
「ジュース?」
ベアトリスは顔を背けた。
「お前には関係ないのよ」
「関係あるだろ。俺はあいつと戦った。あいつのせいで、たくさんの人が――」
「黙るかしら!」
鋭い声。
スバルは言葉を止めた。
ベアトリスは福音書を見る。
その目は、怒りとも悲しみともつかない色をしていた。
「それは、本物の福音ではないのよ。魔女教徒が持つ、出来損ないの道標かしら」
「お前、何を知ってる」
「知っていたとしても、ベティが話す義理はないのよ」
「ベア子」
「その呼び方をするなと言っているのよ」
いつもの拒絶。
だが、いつもより深い。
スバルは一歩踏み込もうとして、止まった。
今ここで無理にこじ開けても、彼女は閉じるだけだ。
禁書庫を出ると、廊下にユイがいた。
「どうだった?」
「何かは知ってる。でも話さねえ」
「でしょうね」
「でしょうねって、お前な」
「ベアトリス様は、簡単に開く扉ではないわ」
「扉渡りみたいに言うな」
「似たようなものよ。場所ではなく、心の扉」
「うまいこと言ったつもりか?」
「少し」
ユイはわずかに笑った。
それから、すぐに表情を戻す。
「聖域へ行く準備が必要ね」
「ああ」
「目的を整理しておきましょう。ロズワール様に会う理由は三つ」
ユイは指を立てる。
「一つ、聖域にいる村人を戻すため。二つ、ラムさんとロズワール様の無事と意図を確認するため。三つ、魔女教襲撃時にロズワール様が不在だった理由を聞くため」
スバルは黙って聞いていた。
「そこに、あなた個人の目的が重なる」
「レムを戻す手がかり」
「ええ」
ユイは頷く。
「ただし、焦って全部を問い詰めれば、ロズワール様ははぐらかすかもしれない。優先順位を間違えないで」
「村人、ラム、聖域、ロズワールの意図」
「そう。それから、彼女のこと」
ユイは、レムとは言わなかった。
周囲にも、スバルにも、知らないふりを崩さない。
けれど、スバルがその呼び方に反応することはない。
それが普通だからだ。
世界が忘れているなら、ユイも忘れている。
そう見えている。
「レムは屋敷に残す。フレデリカとペトラに頼む。連れていくには危険すぎる」
「妥当ね」
「でも、置いていくのが怖い」
「怖くても、置いていくしかない時はあるわ」
ユイの声は静かだった。
「あなたは、聖域へ行く。ロズワール様に会う。ラムさんと村人を確認する。彼女を戻す手がかりも、そこにあるかもしれない」
「……ああ」
出発前、スバルはレムの手を握った。
ベッドの上の彼女は、変わらず眠っている。
「行ってくる」
返事はない。
「絶対、戻る」
返事はない。
「絶対、取り戻す」
それでも、言った。
言わなければ、彼女が本当に消えてしまう気がした。
部屋を出ると、廊下の先でペトラが待っていた。
小さな両手で、白い布を大事そうに握っている。
「スバル様」
「ペトラ?」
「これ、持っていってください」
そう言って、ペトラはスバルの手首に白いスカーフを巻いた。
まだ不慣れな手つきだった。
結び目も少し歪んでいる。
けれど、ペトラは真剣だった。
「お守りです。ちゃんと、帰ってこられるように」
「……そっか」
スバルは、手首の白い布を見下ろした。
柔らかい布。
小さな願い。
それは剣にも盾にもならない。
魔法でもない。
けれど、今のスバルには、それが何より重かった。
「ありがとな、ペトラ」
「はい。絶対、戻ってきてくださいね」
「ああ」
スバルは笑ってみせた。
うまく笑えたかは、わからない。
「絶対、戻る」
レムに言った言葉を、もう一度言う。
今度は、眠る少女ではなく、目の前で不安をこらえている小さな少女へ。
ペトラは、少しだけ安心したように頷いた。
エミリア、スバル、オットー、ユイ。
フレデリカから渡された石。
ペトラが巻いてくれた、白いスカーフ。
聖域へ向かう道。
竜車は森の中へ進んでいく。
エミリアは道中、何度もパックを呼んだ。
だが、返事はない。
「パック……どうして?」
不安げな声。
スバルは心配そうに見る。
ユイは森の空気を読んでいた。
境界が近い。
聖域。
結界。
混血を拒む場所。
ユイは知っている。
だが、まだ言わない。
ここで言えば、流れが歪む。
だから、観察の範囲で言う。
「空気が変わったわ」
「空気?」
オットーが青ざめる。
「そういう曖昧な不安情報、一番困るんですけど」
「はっきり言うと、もっと困ると思うわ」
「じゃあ言わないでください!」
竜車は進む。
森の奥。
フレデリカから渡された石が、淡く光る。
エミリアの顔色が変わった。
「え……?」
次の瞬間、彼女の体が崩れた。
「エミリアたん!」
スバルが手を伸ばす。
彼女の手から、石が滑り落ちる。
スバルは反射的にそれを掴んだ。
光が弾けた。
世界が歪む。
音が遠ざかる。
ユイの声が聞こえた気がした。
「スバルくん――」
けれど、その声も白く塗り潰された。
気づけば、スバルは森の中に一人で立っていた。
湿った土。
濃い緑。
見知らぬ空気。
そして、少し離れた場所に白い髪の少女がいた。
尖った耳。
怯えた目。
少女はスバルを見るなり、踵を返して逃げ出す。
「待て!」
スバルは追った。
森の中を走る。
少女は速い。
慣れている。
スバルは息を切らし、足をもつれさせながら追いかける。
やがて、少女の姿は木々の奥へ消えた。
代わりに、古い遺跡が現れる。
苔むした石。
静まり返った入口。
誘われるように、スバルは中へ入った。
暗い通路。
冷たい空気。
その奥へ進んだ瞬間、世界が変わった。
草原。
ありえないほど広い空。
白い卓。
椅子。
そこに、一人の女が座っていた。
白い髪。
黒い衣。
美しい顔。
けれど、人ではない何かの気配。
女は微笑む。
「ようこそ、ナツキ・スバル」
スバルは全身を強張らせた。
「誰だ、お前」
女は、楽しそうに目を細める。
「僕の名前はエキドナ」
風が吹いた。
草が揺れる。
その名は、静かに、けれど決定的に響いた。
「強欲の魔女、と呼ばれているよ」
スバルの呼吸が止まる。
魔女。
また、魔女。
嫉妬ではない。
だが、魔女。
エキドナは、何もかも知りたそうな目でスバルを見る。
「さあ、お茶会を始めようじゃないか」
その瞬間、スバルは理解した。
レムを失った世界は、まだ底ではない。
ロズワールに会うための道は、ただの道ではなかった。
聖域。
魔女。
そして、まだ見えない誰かの意図。
ここからまた、新しい地獄が始まる。