Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第三十二話 誰も知らない名前

「レムって、誰のこと?」

 

 竜車の中で、エミリアがそう言った。

 

 その声は、あまりにも普通だった。

 

 知らない名前を聞いた。

 

 だから、尋ねた。

 

 ただそれだけの声。

 

 だからこそ、スバルは息を忘れた。

 

「……は?」

 

 喉から漏れた声は、情けないほど掠れていた。

 

 揺れる竜車。

 

 外を流れる森の影。

 

 眠りこける子どもたち。

 

 少し赤い目をしたエミリア。

 

 その全部が、さっきまでと変わらない。

 

 けれど、世界の根元だけが、音もなく折れた。

 

「レムだよ」

 

 スバルは笑おうとした。

 

 うまく笑えなかった。

 

「レム。青い髪で、メイド服で、ロズワール邸の……ラムの妹で……」

 

 言葉を重ねるたび、エミリアの眉が困ったように下がっていく。

 

 知らない。

 

 本当に知らない顔だった。

 

「ごめんね、スバル。私、聞き逃しちゃったのかな。ラムの妹……?」

 

「そうだよ。レムだよ。白鯨戦で一緒にいて、俺をずっと支えてくれて、俺が……俺がここまで来られたのは、レムが――」

 

 そこまで言って、スバルは言葉を失った。

 

 子どもたちがいる。

 

 怖がらせるな。

 

 最後まで大人の顔をしろ。

 

 ユイに言われた言葉が、頭の奥で響いた。

 

 けれど、無理だった。

 

 大人の顔なんてできるはずがない。

 

 世界が、レムを忘れている。

 

 それだけで、スバルの胸は内側から潰れそうだった。

 

「オットー!」

 

 竜車の前方へ向かって、スバルは叫んだ。

 

 手綱を握るオットーが、びくりと肩を跳ねさせる。

 

「な、なんですか!? もう爆発物は勘弁してくださいよ!?」

 

「クルシュさんのところへ戻れ!」

 

「え?」

 

「戻れ! 今すぐ!」

 

 オットーは一瞬、何かを聞き返そうとした。

 

 だが、振り返ってスバルの顔を見た途端、言葉を飲み込んだ。

 

「……わかりました!」

 

 竜車が大きく揺れる。

 

 子どもたちが不安そうに目を覚ます。

 

 エミリアがスバルへ手を伸ばす。

 

「スバル、どうしたの? 何が――」

 

「頼む、今は……今は、聞かないでくれ」

 

 スバルはそう言うのがやっとだった。

 

 エミリアは唇を噛んだ。

 

 聞きたいことはあるはずだった。

 

 なぜ急に戻るのか。

 

 なぜそんな顔をしているのか。

 

 レムとは誰なのか。

 

 けれど、エミリアは黙ってくれた。

 

 その優しさすら、今のスバルには痛かった。

 

 少し遅れて、別の竜車からユイが合流した。

 

 彼女はスバルの顔を見るなり、静かに目を細めた。

 

 スバルには、その表情が何を意味するのかわからない。

 

 ただ、ユイは問い詰めなかった。

 

 レムの名を聞き返すこともしなかった。

 

 あくまで、スバルの異常を見て取った同行者として、淡々と隣へ来る。

 

「スバルくん」

 

「……」

 

「呼吸が浅いわ。吐いて」

 

「そんな場合じゃ――」

 

「そんな場合だから言っているの」

 

 ユイの声は静かだった。

 

 冷たいほど、落ち着いていた。

 

「このままクルシュ様の前に行けば、あなたは言葉を間違える」

 

「言葉なんか、どうでも――」

 

「どうでもよくない。確認することがあるのでしょう」

 

 スバルの目が揺れる。

 

 ユイは続けた。

 

「名前。記憶。身体。記録。誰が何を覚えていて、何が残っていて、何が消えているのか。泣くのは、その後でもできる」

 

 レムとは言わない。

 

 けれど、スバルが何を恐れているのかを、正確に整理している。

 

 スバルは奥歯を噛んだ。

 

「……わかった」

 

 それ以上は、何も言えなかった。

 

 ユイが何かを知っているとは、スバルには思えない。

 

 彼女はただ、スバルの顔を見て、必要な確認事項を並べただけ。

 

 そう見えるように、完璧に振る舞っていた。

 

 クルシュ邸へ戻った時、そこにあったのは勝利の空気ではなかった。

 

 白鯨討伐の功績を称える場ではない。

 

 薬草の匂い。

 

 血の匂い。

 

 慌ただしく動く使用人たち。

 

 押し殺された声。

 

 何かが起きた後の屋敷だった。

 

 フェリスが廊下にいた。

 

 いつもの軽さはない。

 

 顔色は悪く、耳も尻尾も力なく垂れている。

 

「フェリス!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 フェリスは顔を上げた。

 

 その目が、スバルを見て揺れる。

 

「スバルきゅん……」

 

「レムは!?」

 

 名前を出した瞬間、フェリスの表情に困惑が浮かんだ。

 

 知らない名前を聞いた顔だった。

 

 スバルの心臓が、さらに冷たくなる。

 

「レムだよ! 俺と一緒にいた、青い髪のメイドで、ロズワール邸の――」

 

「……待って」

 

 フェリスは苦しげに眉を寄せた。

 

「名前は、わからないにゃ」

 

「は?」

 

「フェリちゃんには、その名前に覚えがない。でも……」

 

 フェリスは奥の部屋へ視線を向ける。

 

「身元のわからない女の子が、一人、運び込まれてる。眠ったまま、目を覚まさない子が」

 

 それだけで十分だった。

 

 スバルは走った。

 

 廊下を駆ける。

 

 扉を開ける。

 

 そこに、レムがいた。

 

 ベッドの上。

 

 青い髪。

 

 閉じた瞳。

 

 静かな寝息。

 

 まるで、ただ眠っているだけのようだった。

 

 けれど違う。

 

 違うのだと、見た瞬間にわかった。

 

「レム」

 

 スバルはベッドの横へ崩れるように膝をついた。

 

 手を握る。

 

 温かい。

 

 生きている。

 

 でも、握り返してくれない。

 

「レム、レム……起きろよ。なあ、冗談だろ。お前、俺をからかってんだろ。そういうの、性格悪いぞ。なあ……」

 

 返事はない。

 

 瞼は動かない。

 

 呼吸だけが、静かに続いている。

 

 エミリアが部屋の入口で立ち尽くしていた。

 

 彼女はレムを知らない。

 

 けれど、スバルがその少女の名を呼び続けていることだけはわかっている。

 

「スバル……」

 

 何を言えばいいのかわからない声だった。

 

 その肩の近くで、パックがふわりと姿を現した。

 

 小さな精霊は、ベッドに眠るレムを見て、表情を曇らせる。

 

「これは……まずいね」

 

 スバルが顔を上げる。

 

「パック。お前、何か知ってるのか」

 

「知っている、というより、似た話を知っている。魔女教大罪司教には、記憶や名前に干渉する権能を持つ者がいる」

 

「記憶と、名前……?」

 

「名前を食べられれば、周囲から存在を忘れられる。記憶を食べられれば、その人自身の記憶が失われる。両方を食べられれば――」

 

 パックはレムを見る。

 

「こうして、身体だけが眠り続ける」

 

 スバルの喉が鳴った。

 

 言葉が出ない。

 

 レムはいる。

 

 ここにいる。

 

 温かい。

 

 生きている。

 

 なのに、世界は彼女を覚えていない。

 

「誰が……」

 

 スバルの声は低かった。

 

「誰がやった」

 

 パックは静かに答える。

 

「おそらく、暴食の大罪司教」

 

「暴食……」

 

 スバルの拳が震える。

 

 怠惰を倒した。

 

 白鯨を倒した。

 

 エミリアを救った。

 

 それなのに。

 

 その勝利の裏で、レムは奪われていた。

 

 パックは続ける。

 

「クルシュも被害を受けている。彼女は名前までは失っていない。でも、記憶を大きく損なっている」

 

「クルシュさんも……」

 

 スバルは立ち上がろうとして、足元が揺れた。

 

 フェリスが部屋に入ってくる。

 

 その顔は、泣き出しそうなほど歪んでいた。

 

「クルシュ様は、自分のことも、フェリちゃんたちのことも、ちゃんとは覚えていないにゃ。でも、名前は残ってる。だから、まだ……まだ、そこにいるってわかる」

 

 フェリスの声が震える。

 

「でも、その子は違う。名前も、記憶も、周りから抜け落ちてる。だからフェリちゃんたちには、その子が誰なのかわからない」

 

 スバルはレムの手を握りしめた。

 

「俺は覚えてる」

 

 喉から絞り出した声だった。

 

「俺は、覚えてる……!」

 

 ユイは部屋の入口に立っていた。

 

 彼女は何も言わない。

 

 表情は、初めて見る眠った少女を前にしたもの。

 

 誰かが倒れ、スバルが壊れかけている。

 

 それだけを見て、言葉を選んでいる同行者の顔。

 

 声は出さない。

 

 ただ、スバルが倒れそうになった時だけ、一歩だけ動ける距離にいる。

 

 スバルはレムの手を握ったまま、俯いていた。

 

「戻る」

 

 小さな声だった。

 

 エミリアが眉を寄せる。

 

「スバル?」

 

「戻ればいい。戻れば、まだ――」

 

 腰の短剣へ手が伸びる。

 

 フェリスが目を見開いた。

 

「スバルきゅん!」

 

 エミリアも動く。

 

 だが、それより早く、スバルは刃を自分へ向けていた。

 

 ユイは動かなかった。

 

 止めようとすれば、不自然になる。

 

 スバルが何をしようとしているのか、知らない者にはわからない。

 

 だから動かない。

 

 唇だけが、ほんのわずかに引き結ばれる。

 

 刃が走った。

 

 血が散る。

 

 エミリアの悲鳴が部屋に響く。

 

 フェリスが叫ぶ。

 

 世界が赤く染まり、黒く沈んだ。

 

 次に目を開けた時、スバルは同じ屋敷の中にいた。

 

 喉に傷はない。

 

 血もない。

 

 けれど、場所は変わっていない。

 

 匂いも。

 

 時間も。

 

 遠くの足音も。

 

 レムの眠る部屋も。

 

 全部、襲撃後のままだった。

 

「……戻って、ない」

 

 違う。

 

 戻った。

 

 だが、戻った先が遅すぎた。

 

 レムが眠った後。

 

 クルシュが記憶を失った後。

 

 そこが、新しい始まりになっている。

 

「う、そだろ……」

 

 スバルは壁へ向かってふらついた。

 

 額をぶつけそうになる。

 

 その直前、ユイの手が間に入った。

 

 鈍い音。

 

 壁ではなく、ユイの掌にぶつかった。

 

「やめなさい」

 

 低い声だった。

 

 スバルは顔を上げる。

 

「ユイ、さん……」

 

「何かを試して、失敗した顔をしているわ」

 

「……」

 

「言えないなら言わなくていい。でも、これだけは言う」

 

 ユイはスバルの両肩を掴んだ。

 

 強い。

 

 逃がさない力だった。

 

「今ここで壊れたら、あの子のことを呼べる人がいなくなる」

 

 スバルの呼吸が止まる。

 

 あの子。

 

 ユイはそう言った。

 

 レムとは言わない。

 

 覚えているとは言わない。

 

 知らないふりを崩さない。

 

 それでも、スバルには突き刺さった。

 

 レムを呼べるのは、お前だけだ。

 

 そう言われているようだった。

 

「俺だけ……」

 

「あなたがそう思うなら、なおさら壊れないで」

 

「無理だ」

 

「無理でも立つの」

 

「なんでそんなこと言えんだよ……!」

 

 スバルの声が荒れる。

 

「お前は覚えてないくせに! 誰も覚えてないくせに! レムが、どれだけ――」

 

 言いかけて、スバルは止まった。

 

 ユイは何も言わない。

 

 ただ、スバルを見ている。

 

 初めて見る眠った少女のことで、スバルが壊れかけている。

 

 そう受け取っている人間の顔で。

 

 だから、スバルはそれ以上言えなかった。

 

 ユイが覚えていることは、スバルにはわからない。

 

 疑う理由もない。

 

 彼女はただ、スバルの異常を見て、支えているだけに見えた。

 

「今は決めることがある」

 

 ユイは言った。

 

「あの子の身体をどこへ運ぶか。誰が世話をするか。クルシュ様との同盟をどうするか。ロズワール邸へ戻った後、何を確認するか」

 

「……ずるいな」

 

「何が?」

 

「いや……」

 

 スバルは涙を拭う。

 

「助かった」

 

 ユイは頷くだけだった。

 

 それから、会議が開かれた。

 

 クルシュは椅子に座っていた。

 

 姿勢は美しい。

 

 声も落ち着いている。

 

 けれど、その目には以前の鋭い確信がない。

 

 自分が何者で、何を積み上げてきたのか。

 

 その一部が抜け落ちている。

 

 それでも、クルシュは逃げずにそこにいた。

 

「ナツキ・スバル」

 

 クルシュが言った。

 

「あなたのことは、皆から聞きました。白鯨討伐に大きく貢献した方だと」

 

 スバルは返事に詰まる。

 

 彼女の声は丁寧だった。

 

 だが、その丁寧さが痛かった。

 

 以前のクルシュなら、もっと違う言い方をしたはずだ。

 

 もっとまっすぐに、もっと力強く。

 

「……すみません」

 

 なぜ謝ったのか、自分でもわからなかった。

 

 クルシュは少しだけ目を瞬かせる。

 

「あなたが謝ることではないと、皆は言います」

 

 それが、さらに刺さる。

 

 誰もスバルを責めない。

 

 だからスバルは、自分で自分を責めるしかない。

 

 フェリスはクルシュの傍に立っていた。

 

 いつもの調子を作ろうとしている。

 

 けれど、作れていない。

 

 ヴィルヘルムもまた、静かに控えている。

 

 白鯨を討ったばかりの剣鬼の顔には、別の痛みが刻まれていた。

 

 話し合うべきことは多かった。

 

 レムの身体をどこに置くか。

 

 クルシュの記憶が戻る可能性。

 

 暴食の情報。

 

 同盟の扱い。

 

 白鯨討伐の功績と、その後の損害。

 

 フェリスは、クルシュ陣営としてこれ以上の無理はできないと、言葉を選びながら言った。

 

 当然だった。

 

 主君が記憶を失った。

 

 陣営は傷ついた。

 

 その状況で、何もなかったように動けるはずがない。

 

 だが、クルシュは静かにスバルを見る。

 

「私は記憶を失いました。ですが、私の周囲にいる者たちが、あなたとの同盟には意味があると言っています」

 

 クルシュは一度、フェリスとヴィルヘルムを見た。

 

「ならば、今の私にできるのは、それを信じることです」

 

 スバルは目を伏せた。

 

「俺は……何もできなかった」

 

「そうでしょうか」

 

 クルシュは穏やかに首を傾げた。

 

「私には、今のあなたの積み重ねはわかりません。けれど、皆があなたを責めていない。そのことには、意味があるのだと思います」

 

 スバルの喉が詰まる。

 

 その横で、ユイが一歩だけ前へ出た。

 

「今すぐ結論を急ぐ必要はありません」

 

 場の視線がユイへ向く。

 

「クルシュ様の記憶が戻る可能性、眠っている彼女の状態、暴食の情報。それらを整理する時間が必要です。同盟については、現時点で破棄か継続かを極端に決めるより、当面の協力関係を維持する形が現実的です」

 

 フェリスがユイを見る。

 

「……随分、冷静だにゃ」

 

「冷静でない人ばかりだから」

 

 ユイは静かに返す。

 

 そして、スバルを見た。

 

「感情で決めると、後で必ず後悔する」

 

 スバルは何も言わなかった。

 

 ユイが何を覚えているのか。

 

 何を知っているのか。

 

 それは見えない。

 

 ただ、今スバルが壊れないように、議論の床を作っている。

 

 それだけはわかった。

 

 会議の後、スバルはレムの部屋へ戻った。

 

 ベッドの横に座り、手を握る。

 

「レム」

 

 返事はない。

 

「ごめん」

 

 返事はない。

 

「俺、戻れなかった」

 

 返事はない。

 

 それが何よりつらかった。

 

 しばらくして、エミリアが部屋に入ってきた。

 

 彼女はレムを知らない。

 

 けれど、スバルが泣いている理由がそこにあることはわかっている。

 

 エミリアはそっと隣に座った。

 

「スバル」

 

「……悪い。情けないとこばっか見せてるな」

 

「情けなくないよ」

 

 エミリアは静かに言った。

 

「大切な人のことで泣くのは、情けないことじゃない」

 

 スバルは顔を歪める。

 

「エミリアたんは、覚えてないのに」

 

「うん。私は覚えてない」

 

 その正直さが、痛い。

 

「でも、スバルが大切にしている人なんだってことは、わかる」

 

 スバルはレムの手を握りしめた。

 

「レムは、俺を信じてくれたんだ」

 

「うん」

 

「俺が一番駄目だった時に、俺を立たせてくれた」

 

「うん」

 

「なのに、俺は……」

 

「スバル」

 

 エミリアは、優しく名前を呼んだ。

 

「今すぐ全部を抱えなくていいよ」

 

「でも、俺が覚えてないと……」

 

「覚えていてあげて」

 

 エミリアの声は震えていた。

 

「私にはできないから。スバルが、その人のことを覚えていてあげて」

 

 スバルは泣いた。

 

 声を殺しきれずに泣いた。

 

 エミリアはその背に手を置いた。

 

 少し離れた廊下で、ユイはその声を聞いていた。

 

 入らない。

 

 ここは、スバルとエミリアの場面だ。

 

 だが、ユイの指先は静かに震えていた。

 

 レムの名が消えた世界。

 

 スバルだけが叫ぶ名前。

 

 それを見て、ユイは思う。

 

 かわいそう。

 

 けれど、まだ終わらない。

 

 あなたはここからまた立つ。

 

 そのために、私は道を残す。

 

 翌日。

 

 スバルたちはクルシュ邸を発った。

 

 レムは眠ったまま、竜車へ乗せられた。

 

 フェリスの処置で身体は安定している。

 

 けれど、目は覚まさない。

 

 クルシュは記憶を失ったまま、スバルたちを見送った。

 

「ナツキ・スバル」

 

 彼女は静かに言った。

 

「あなたの大切な人を、諦めないでください」

 

「……はい」

 

 スバルは頭を下げた。

 

 竜車が動き出す。

 

 ロズワール邸へ。

 

 途中、エミリアは何度もレムを見た。

 

 知らない相手。

 

 けれど、スバルが大切にしている相手。

 

 それを理解しようとしている顔だった。

 

「スバル」

 

「ん?」

 

「私、その子のことを覚えていない。でも、スバルが大切にしていることは、わかる」

 

「……うん」

 

「だから、教えて。少しずつでいいから」

 

 スバルは目を伏せた。

 

「レムはな」

 

 声が震える。

 

「俺を信じてくれたんだ。俺が一番駄目だった時に、俺を立たせてくれた」

 

 エミリアは黙って聞いている。

 

 ユイも、竜車の端で窓の外を見ていた。

 

 知らないふりをして。

 

 でも、聞いていた。

 

 ロズワール邸に着くと、そこにラムもロズワールもいなかった。

 

 出迎えたのは、見慣れない金髪の獣人の少女だった。

 

「お帰りなさいませ、エミリア様。それに、スバル様」

 

 鋭い牙を覗かせる、柔らかな笑み。

 

 彼女は優雅に一礼する。

 

「フレデリカ・バウマンと申します。以前、この屋敷で勤めておりました」

 

 スバルは警戒を隠さない。

 

 エミリアは少し驚いたように瞬きした。

 

 その後ろから、小さな足音が聞こえた。

 

「スバル!」

 

「ペトラ?」

 

 アーラム村で見慣れた少女が、こちらへ駆け寄ってきた。

 

 村にいた時とは少し違う。

 

 屋敷で手伝いをするために整えられた、簡素で動きやすい服を着ている。

 

 まだ正式なメイドというには幼く、背筋の伸ばし方もどこかぎこちない。

 

 けれど、彼女なりに懸命に「屋敷の手伝い」として立とうとしているのがわかった。

 

「お前、ここで何してんだ?」

 

「フレデリカさんに教えてもらってるの。まだ、ちゃんとはできないけど……」

 

 ペトラは少し照れたように笑った。

 

「エミリア様たちが戻ってくるって聞いたから、私も手伝いたくて」

 

 スバルは一瞬だけ言葉を失う。

 

 昨日まで、避難する村の子どもたちの一人だった少女。

 

 そのペトラが、今は屋敷で誰かを迎えようとしている。

 

 それだけで、時間が勝手に進んでいるような気がした。

 

「そっか」

 

 スバルは無理に笑った。

 

「偉いな、ペトラ」

 

「えへへ」

 

 ペトラは嬉しそうに頬を緩める。

 

 だが、すぐにスバルの後ろへ視線を移した。

 

 竜車の中で眠るレム。

 

 その存在を見ても、ペトラの顔に覚えは浮かばない。

 

 ただ、知らない誰かが眠っていることへの不安だけがあった。

 

「その人……具合が悪いの?」

 

「……ああ」

 

 スバルは短く答えた。

 

「大事な人なんだ。だから、屋敷で休ませてやりたい」

 

 ペトラは真剣な顔で頷いた。

 

「じゃあ、私も手伝う」

 

「助かる」

 

 その言葉を聞いたフレデリカが、静かに口を開く。

 

「ペトラには、まだできることとできないことがございます。ですが、手伝いたいという気持ちは本物ですわ」

 

「そっか」

 

 スバルはレムを見る。

 

 置いていくのが怖い。

 

 目を離した瞬間に、また何かを奪われるような気がする。

 

 けれど、今のレムを聖域へ連れていくのは危険すぎる。

 

 スバルは拳を握り、やっとのことで頷いた。

 

「頼む」

 

 ペトラは胸の前で両手を握った。

 

「うん。ちゃんと見てる」

 

 正式なメイドではない。

 

 でも、守ろうとしてくれている。

 

 その幼い決意が、スバルの胸に少しだけ刺さった。

 

 だが、すぐに現実へ戻る。

 

 ラムがいない。

 

 ロズワールもいない。

 

 村人の一部もいない。

 

 フレデリカは事情を説明した。

 

 ロズワールとラム、そして避難した村人の一部は、聖域にいる。

 

 聖域。

 

 ロズワールが所有する、隠された場所。

 

 スバルは顔を上げる。

 

「ロズワールが、聖域に?」

 

「はい。ラムもそちらへ」

 

「村人も?」

 

「避難した方々の一部が、聖域に留まっております」

 

 スバルは眉をひそめた。

 

 助けたはずの村人が、まだ戻っていない。

 

 ロズワールもラムも屋敷にいない。

 

 そして、ロズワールは白鯨にも魔女教にも姿を見せなかった。

 

 スバルの中に、押し込めていた疑問が形を持つ。

 

「なんで、ロズワールは聖域にいるんだ」

 

 フレデリカは目を伏せる。

 

「詳しい事情は、私からは申し上げられません」

 

「申し上げられない?」

 

「聖域に行けば、ロズワール様ご本人からお聞きできるかと」

 

 スバルは奥歯を噛んだ。

 

 聞かなければならない。

 

 なぜ、魔女教襲撃の時にロズワールは屋敷にいなかったのか。

 

 なぜ、ラムと村人の一部が聖域にいるのか。

 

 聖域とは何なのか。

 

 村人をどうすれば戻せるのか。

 

 そして、レムを元に戻す手がかりがあるのか。

 

 全部、ロズワールに聞かなければならない。

 

「……行くしかねえな」

 

 スバルは呟いた。

 

 エミリアも頷く。

 

「村のみんながいるなら、私も行く。ロズワールにも話を聞かなきゃ」

 

 ユイも静かに口を開く。

 

「ロズワール様は、この領地の当主よ。村人が聖域に留め置かれているなら、その理由を確認する必要があるわ」

 

「それだけじゃない」

 

 スバルは低く言った。

 

「あいつは、何か知ってる。魔女教のことも、聖域のことも、たぶん……俺たちが知らないことを」

 

 ユイは何も否定しなかった。

 

「なら、会う理由は十分ね」

 

「ああ」

 

 スバルは拳を握る。

 

「ロズワールに会う。村人を戻す方法を聞く。ラムの無事を確認する。聖域の正体を確かめる」

 

 そして、心の中で続けた。

 

 レムを戻す手がかりも、絶対に探す。

 

 その前に、もう一つ。

 

 スバルは別の場所へ足を向けた。

 

 禁書庫。

 

 ベアトリス。

 

 ペテルギウスの福音書。

 

 聞かなければならないことがある。

 

 扉渡りの感覚を頼りに、スバルは禁書庫へ入った。

 

 いつものように、少女がいた。

 

 金の巻き髪。

 

 不機嫌そうな目。

 

「また来たのかしら」

 

「聞きたいことがある」

 

「ベティは忙しいのよ」

 

 スバルは懐から福音書を取り出した。

 

「これについてだ」

 

 ベアトリスの表情が変わった。

 

 ほんの一瞬。

 

 けれど、確かに。

 

「……それを、どこで手に入れたのかしら」

 

「ペテルギウスから奪った」

 

 ベアトリスの瞳が揺れる。

 

「ジュースが……死んだのね」

 

 その呟きに、スバルは眉をひそめる。

 

「ジュース?」

 

 ベアトリスは顔を背けた。

 

「お前には関係ないのよ」

 

「関係あるだろ。俺はあいつと戦った。あいつのせいで、たくさんの人が――」

 

「黙るかしら!」

 

 鋭い声。

 

 スバルは言葉を止めた。

 

 ベアトリスは福音書を見る。

 

 その目は、怒りとも悲しみともつかない色をしていた。

 

「それは、本物の福音ではないのよ。魔女教徒が持つ、出来損ないの道標かしら」

 

「お前、何を知ってる」

 

「知っていたとしても、ベティが話す義理はないのよ」

 

「ベア子」

 

「その呼び方をするなと言っているのよ」

 

 いつもの拒絶。

 

 だが、いつもより深い。

 

 スバルは一歩踏み込もうとして、止まった。

 

 今ここで無理にこじ開けても、彼女は閉じるだけだ。

 

 禁書庫を出ると、廊下にユイがいた。

 

「どうだった?」

 

「何かは知ってる。でも話さねえ」

 

「でしょうね」

 

「でしょうねって、お前な」

 

「ベアトリス様は、簡単に開く扉ではないわ」

 

「扉渡りみたいに言うな」

 

「似たようなものよ。場所ではなく、心の扉」

 

「うまいこと言ったつもりか?」

 

「少し」

 

 ユイはわずかに笑った。

 

 それから、すぐに表情を戻す。

 

「聖域へ行く準備が必要ね」

 

「ああ」

 

「目的を整理しておきましょう。ロズワール様に会う理由は三つ」

 

 ユイは指を立てる。

 

「一つ、聖域にいる村人を戻すため。二つ、ラムさんとロズワール様の無事と意図を確認するため。三つ、魔女教襲撃時にロズワール様が不在だった理由を聞くため」

 

 スバルは黙って聞いていた。

 

「そこに、あなた個人の目的が重なる」

 

「レムを戻す手がかり」

 

「ええ」

 

 ユイは頷く。

 

「ただし、焦って全部を問い詰めれば、ロズワール様ははぐらかすかもしれない。優先順位を間違えないで」

 

「村人、ラム、聖域、ロズワールの意図」

 

「そう。それから、彼女のこと」

 

 ユイは、レムとは言わなかった。

 

 周囲にも、スバルにも、知らないふりを崩さない。

 

 けれど、スバルがその呼び方に反応することはない。

 

 それが普通だからだ。

 

 世界が忘れているなら、ユイも忘れている。

 

 そう見えている。

 

「レムは屋敷に残す。フレデリカとペトラに頼む。連れていくには危険すぎる」

 

「妥当ね」

 

「でも、置いていくのが怖い」

 

「怖くても、置いていくしかない時はあるわ」

 

 ユイの声は静かだった。

 

「あなたは、聖域へ行く。ロズワール様に会う。ラムさんと村人を確認する。彼女を戻す手がかりも、そこにあるかもしれない」

 

「……ああ」

 

 出発前、スバルはレムの手を握った。

 

 ベッドの上の彼女は、変わらず眠っている。

 

「行ってくる」

 

 返事はない。

 

「絶対、戻る」

 

 返事はない。

 

「絶対、取り戻す」

 

 それでも、言った。

 

 言わなければ、彼女が本当に消えてしまう気がした。

 

 部屋を出ると、廊下の先でペトラが待っていた。

 

 小さな両手で、白い布を大事そうに握っている。

 

「スバル様」

 

「ペトラ?」

 

「これ、持っていってください」

 

 そう言って、ペトラはスバルの手首に白いスカーフを巻いた。

 

 まだ不慣れな手つきだった。

 

 結び目も少し歪んでいる。

 

 けれど、ペトラは真剣だった。

 

「お守りです。ちゃんと、帰ってこられるように」

 

「……そっか」

 

 スバルは、手首の白い布を見下ろした。

 

 柔らかい布。

 

 小さな願い。

 

 それは剣にも盾にもならない。

 

 魔法でもない。

 

 けれど、今のスバルには、それが何より重かった。

 

「ありがとな、ペトラ」

 

「はい。絶対、戻ってきてくださいね」

 

「ああ」

 

 スバルは笑ってみせた。

 

 うまく笑えたかは、わからない。

 

「絶対、戻る」

 

 レムに言った言葉を、もう一度言う。

 

 今度は、眠る少女ではなく、目の前で不安をこらえている小さな少女へ。

 

 ペトラは、少しだけ安心したように頷いた。

 

 エミリア、スバル、オットー、ユイ。

 

 フレデリカから渡された石。

 

 ペトラが巻いてくれた、白いスカーフ。

 

 聖域へ向かう道。

 

 竜車は森の中へ進んでいく。

 

 エミリアは道中、何度もパックを呼んだ。

 

 だが、返事はない。

 

「パック……どうして?」

 

 不安げな声。

 

 スバルは心配そうに見る。

 

 ユイは森の空気を読んでいた。

 

 境界が近い。

 

 聖域。

 

 結界。

 

 混血を拒む場所。

 

 ユイは知っている。

 

 だが、まだ言わない。

 

 ここで言えば、流れが歪む。

 

 だから、観察の範囲で言う。

 

「空気が変わったわ」

 

「空気?」

 

 オットーが青ざめる。

 

「そういう曖昧な不安情報、一番困るんですけど」

 

「はっきり言うと、もっと困ると思うわ」

 

「じゃあ言わないでください!」

 

 竜車は進む。

 

 森の奥。

 

 フレデリカから渡された石が、淡く光る。

 

 エミリアの顔色が変わった。

 

「え……?」

 

 次の瞬間、彼女の体が崩れた。

 

「エミリアたん!」

 

 スバルが手を伸ばす。

 

 彼女の手から、石が滑り落ちる。

 

 スバルは反射的にそれを掴んだ。

 

 光が弾けた。

 

 世界が歪む。

 

 音が遠ざかる。

 

 ユイの声が聞こえた気がした。

 

「スバルくん――」

 

 けれど、その声も白く塗り潰された。

 

 気づけば、スバルは森の中に一人で立っていた。

 

 湿った土。

 

 濃い緑。

 

 見知らぬ空気。

 

 そして、少し離れた場所に白い髪の少女がいた。

 

 尖った耳。

 

 怯えた目。

 

 少女はスバルを見るなり、踵を返して逃げ出す。

 

「待て!」

 

 スバルは追った。

 

 森の中を走る。

 

 少女は速い。

 

 慣れている。

 

 スバルは息を切らし、足をもつれさせながら追いかける。

 

 やがて、少女の姿は木々の奥へ消えた。

 

 代わりに、古い遺跡が現れる。

 

 苔むした石。

 

 静まり返った入口。

 

 誘われるように、スバルは中へ入った。

 

 暗い通路。

 

 冷たい空気。

 

 その奥へ進んだ瞬間、世界が変わった。

 

 草原。

 

 ありえないほど広い空。

 

 白い卓。

 

 椅子。

 

 そこに、一人の女が座っていた。

 

 白い髪。

 

 黒い衣。

 

 美しい顔。

 

 けれど、人ではない何かの気配。

 

 女は微笑む。

 

「ようこそ、ナツキ・スバル」

 

 スバルは全身を強張らせた。

 

「誰だ、お前」

 

 女は、楽しそうに目を細める。

 

「僕の名前はエキドナ」

 

 風が吹いた。

 

 草が揺れる。

 

 その名は、静かに、けれど決定的に響いた。

 

「強欲の魔女、と呼ばれているよ」

 

 スバルの呼吸が止まる。

 

 魔女。

 

 また、魔女。

 

 嫉妬ではない。

 

 だが、魔女。

 

 エキドナは、何もかも知りたそうな目でスバルを見る。

 

「さあ、お茶会を始めようじゃないか」

 

 その瞬間、スバルは理解した。

 

 レムを失った世界は、まだ底ではない。

 

 ロズワールに会うための道は、ただの道ではなかった。

 

 聖域。

 

 魔女。

 

 そして、まだ見えない誰かの意図。

 

 ここからまた、新しい地獄が始まる。

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