Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第三十三話 強欲の茶会

「さあ、お茶会を始めようじゃないか」

 

 エキドナはそう言って、白い卓の向かいの席を示した。

 

 草原。

 

 白い空。

 

 風に揺れる草。

 

 現実味のない景色。

 

 あまりにも穏やかで、あまりにも作り物めいた場所。

 

 スバルは、椅子を睨みつけたまま動かなかった。

 

「お茶会だぁ?」

 

 喉から出た声は、警戒と苛立ちで硬い。

 

「悪いけど、俺は魔女と優雅にティータイムする趣味なんざ持ち合わせてねえよ」

 

「それは残念だ。せっかく客をもてなす準備をしたというのに」

 

「客? 誘拐の間違いだろ」

 

「招待だよ。少なくとも、僕はそう認識している」

 

「招待状もなしに引っ張り込むのを招待とは言わねえ」

 

「君は言葉にうるさいね」

 

「お前が雑なんだよ」

 

 エキドナは、少しも気を悪くした様子を見せない。

 

 むしろ、スバルの反応を楽しむように目を細めていた。

 

「まず確認させろ」

 

 スバルは言った。

 

「エミリアたんはどうなった」

 

「外で倒れている。命に別状はない」

 

「オットーは」

 

「慌てているね」

 

「ユイさんは」

 

 その名を出した瞬間、エキドナの目がわずかに細くなった。

 

 楽しげに。

 

 まるで、隠されたものを見つけた子どものように。

 

「彼女については、本人に聞くといい」

 

「は?」

 

 スバルが振り返る。

 

 そこには何もない。

 

 白い草原が広がっているだけだった。

 

 だが、エキドナは確信を持って、スバルの背後を見ている。

 

「隠れ方としては悪くない。気配を消すのではなく、認識の表面を撫でて、そこに“気にする必要のないもの”という薄い膜を張る。魔法とも精霊術とも違う。まるで、事実そのものに飾りをつけているようだ」

 

 白い草が、かすかに揺れた。

 

 そこに、ユイが立っていた。

 

「ユイさん!?」

 

「ごめんなさい」

 

 ユイは静かに言った。

 

「石が光った瞬間、あなたが消えそうだったから追ったの。途中で弾かれると思ったけれど、入れてしまった」

 

「入れてしまったって……ここ、入ろうと思って入れる場所なのかよ」

 

「普通は無理でしょうね」

 

 ユイはエキドナを見る。

 

「相手が悪かったわ。隠しきれなかった」

 

「いや、隠せていたよ。普通の相手なら気づかない。けれど、僕の前でそれをやるのは少し相性が悪い」

 

 エキドナは頬杖をついた。

 

 好奇心に満ちた目で、ユイを見ている。

 

「ユイ。君は面白い。スバルも興味深いけれど、君はまた別方向に興味深い」

 

「褒め言葉として受け取るべき?」

 

「もちろん」

 

「なら遠慮するわ」

 

「つれないね」

 

 エキドナは楽しそうに笑った。

 

 スバルは思わず、一歩ユイの前に出る。

 

「ユイさんを変な目で見るな」

 

「変な目?」

 

「解剖したそうな目」

 

「解剖はしないよ。少なくとも、ここではね」

 

「やっぱり変な目じゃねえか!」

 

 ユイはスバルの袖を軽く引いた。

 

「落ち着いて。今は情報を取るべきよ」

 

「魔女から?」

 

「危険でも、情報源ではあるわ」

 

「それはそうだけどよ……」

 

「スバルくん」

 

 ユイの声が少しだけ低くなる。

 

「エミリア様が倒れている。ロズワール様と聖域の事情もわからない。村人のこともある。レムさんの手がかりも必要。感情で拒絶して終わる場面ではないわ」

 

 レムさん。

 

 その呼び方に、スバルの胸がわずかに痛む。

 

 だが、違和感はなかった。

 

 自分がそう呼んでいるから、ユイもそう呼んでいる。

 

 それだけに聞こえる。

 

 彼女は、何も知らないふりを崩していない。

 

「……わかったよ」

 

 スバルは大きく息を吐いた。

 

 それから、エキドナを睨む。

 

「聞くだけ聞く。信用はしねえ」

 

「それでいい。信用されるために君を呼んだわけではないからね」

 

「そこは少しは取り繕えよ」

 

「取り繕った嘘は、後で剥がれる。なら最初から正直でいる方がいい」

 

「正直な悪党が一番厄介なんだよ」

 

「悪党扱いは心外だな」

 

「魔女だろ」

 

「それはそうだ」

 

「認めるなよ」

 

 エキドナは微笑むだけだった。

 

 白い卓の上には、いつの間にか茶器が置かれていた。

 

 湯気が立っている。

 

 香りはいい。

 

 腹立たしいほどに。

 

「まずは茶でもどうかな」

 

「飲むと思うか? 魔女が出した茶だぞ」

 

「警戒は正しい。けれど、それを飲めば君にとっても意味がある」

 

「意味?」

 

「ここで客人として扱われるための形式、と言えばいいかな。僕の領域に招かれ、席につき、茶を口にする。そうして初めて、話はきちんと始まる」

 

「面倒くせえな、魔女の作法」

 

「作法は大事だよ。立場を整えるものだからね」

 

「つまり飲まなきゃ話さねえってことか」

 

「話せないわけではない。けれど、飲んだ方が君にとっても得だ」

 

「得、ねえ……」

 

 スバルは茶器を睨む。

 

 飲みたくない。

 

 ものすごく飲みたくない。

 

 だが、聖域。

 

 試練。

 

 エミリア。

 

 村人。

 

 ロズワール。

 

 レム。

 

 すべてが、その先に繋がっている可能性がある。

 

 スバルは舌打ちした。

 

「飲めば、聖域のことを話すんだな」

 

「僕が知っている範囲なら」

 

「言質取ったからな」

 

「構わないよ」

 

 スバルは茶器を掴んだ。

 

 ユイが横で眉を寄せる。

 

「本当に飲むの?」

 

「止めるか?」

 

「止めたいけど、止める理由が情報不足ね」

 

「怖いこと言うなよ」

 

「だから、少しだけにして」

 

「毒見みたいに言うな」

 

「似たようなものよ」

 

 スバルは茶を一口飲んだ。

 

 温かい。

 

 苦みと甘み。

 

 悔しいが、うまい。

 

「……普通にうまいのが一番ムカつく」

 

「それはよかった」

 

 エキドナは、にこりと笑う。

 

「ちなみにそれは、僕の体液のようなものだ」

 

 スバルは盛大にむせた。

 

「ぶっ――おまっ、先に言えよ!」

 

「先に言ったら飲まなかっただろう?」

 

「飲むわけねえだろ!」

 

「だから後で言った」

 

「悪意の塊か!」

 

「好奇心の塊だよ」

 

「もっと悪いわ!」

 

 スバルは涙目で口元を拭った。

 

 ユイは茶器を見て、わずかに目を細める。

 

 エキドナは当然のように、彼女へも茶を差し出した。

 

「君もどうかな、ユイ」

 

「遠慮するわ」

 

「即答か。残念だ」

 

「その説明を聞いた後で飲むほど、私は勇敢ではないもの」

 

「勇敢ではない、か。面白い言い方だ」

 

「面白がらなくていい」

 

「君が飲めば、君にもこの場所との縁がより深くなるかもしれない」

 

「今は保留する」

 

「保留ということは、後で飲む可能性もある?」

 

「必要なら」

 

 スバルがぎょっとする。

 

「必要でも飲むなよ!」

 

「状況次第よ」

 

「状況に負けるな!」

 

 ユイは小さく息を吐いた。

 

「あなたがそれを言う?」

 

「俺が言うから説得力があるんだろ!」

 

「ないわ」

 

「即答!」

 

 エキドナは心底楽しそうに二人を眺めていた。

 

「君たちはいいね。感情で前へ出る者と、その感情を整理して道に戻す者。まるで互いの欠けた部分を補っているようだ」

 

 スバルは顔をしかめる。

 

「勝手に分析すんな」

 

「僕は強欲だからね。目の前に興味深いものがあれば、知りたくなる」

 

「知りたがりにも限度があるだろ」

 

「ないよ」

 

「言い切るなよ」

 

 ユイは、そこで一歩前へ出た。

 

「聖域について説明して」

 

 エキドナの視線がユイへ向く。

 

「いいとも」

 

 彼女は白い卓に指先を置いた。

 

「聖域は、僕の墓所を中心に据えた場所だ。そこには結界がある。人と人ならざるものの血を持つ者、いわゆる混血の者たちを外へ出さない結界だね」

 

「エミリアたんが倒れたのは、それか」

 

「彼女は強く条件に触れる。反応が出るのも無理はない」

 

 スバルの拳が固まる。

 

「そんな場所に村人を避難させたのかよ」

 

「それを決めたのは僕ではない」

 

「ロズワールか」

 

 エキドナは答えない。

 

 ただ、微笑んでいる。

 

 それだけで十分だった。

 

 ユイが続ける。

 

「結界を解く方法は?」

 

「試練を越えること。墓所に入り、自らの過去と向き合う。受け入れ、越えた者は次へ進む。すべてを越えれば、聖域は解放される」

 

「すべて?」

 

「試練は一つではない」

 

 スバルは眉をひそめる。

 

「一回で終わりじゃねえのかよ」

 

「残念ながら」

 

「残念そうに聞こえねえんだよな」

 

「僕は知ることが好きだからね。人が何を見て、何を選び、何を壊し、何を越えるのか。それを見られる試練は、とても興味深い」

 

「悪趣味」

 

「魔女だからね」

 

 エキドナは平然と言った。

 

 スバルは奥歯を噛む。

 

「俺が試練を越えれば、聖域は解放できるのか」

 

「理屈の上では可能性がある。ただし、誰が越えるべきかは別の話だ」

 

「エミリアたんに越えさせたい奴がいる」

 

「君はそう考えているんだね」

 

「……」

 

 スバルは舌打ちした。

 

 エキドナは直接ロズワールの名を出さなかった。

 

 だが、その表情だけで十分だった。

 

 ユイは、スバルの怒りが爆発する前に言葉を入れる。

 

「ロズワール様は、エミリア様に試練を受けさせたい。理由は王選候補としての成長、あるいは聖域の住人に示すため。けれど、それだけとは限らない」

 

「君はよく見ている」

 

 エキドナが言う。

 

「褒めなくていいわ」

 

「事実だよ。君はスバルよりも盤面を見るのが得意だ」

 

「スバルくんには、スバルくんの見方がある」

 

「なるほど。庇うんだね」

 

「事実を言っているだけ」

 

「それもまた面白い」

 

 ユイは表情を変えない。

 

 だが、スバルは少しだけ救われた。

 

 自分が感情で動いていることはわかっている。

 

 それでも、ユイはただ否定しない。

 

 必要なところで止め、必要なところで道を示す。

 

「レムを戻す方法は」

 

 スバルは言った。

 

 声が少し低くなる。

 

「暴食に食われた人間を、戻す方法を知ってるか」

 

 エキドナの笑みが少しだけ薄くなった。

 

「暴食の権能について、僕は知識としては知っている。けれど、現状の外界で何が起きているかをすべて把握しているわけではない」

 

「戻せるのかって聞いてる」

 

「それを為した者に辿り着く必要はあるだろうね」

 

「暴食を倒せば戻るのか」

 

「単純にそうとは断言できない」

 

 スバルの顔が歪む。

 

「ふざけんな」

 

「ふざけてはいない。希望だけを与える嘘は、君を余計に壊す」

 

「じゃあ絶望ならいいのかよ」

 

「絶望も、正しく扱えば道具になる」

 

「本当に最悪だな、お前」

 

「よく言われるよ」

 

「言われて反省しろ」

 

「残念ながら、反省は僕の得意分野ではない」

 

 スバルは拳を握り締めた。

 

 だが、暴れることはしない。

 

 レムを戻すには、暴食に辿り着く必要がある。

 

 今すぐ答えは出ない。

 

 なら、今やるべきことは、聖域を抜けることだ。

 

 わかっている。

 

 わかっているが、胸が痛い。

 

 ユイが静かに言った。

 

「順番よ」

 

「……ああ」

 

「まず聖域。村人。エミリア様。ロズワール様。その先で、暴食への道を探す」

 

「わかってる」

 

「なら、今は立っていられる」

 

「……立つしかねえだろ」

 

 エキドナが満足そうに目を細めた。

 

「いいね。君たちは互いに互いを使っている」

 

「言い方が悪い」

 

 ユイが言う。

 

「支えていると言って」

 

「では、支え合っている」

 

「それでいいわ」

 

「君は訂正に厳しいね」

 

「言葉は大事よ」

 

 エキドナは笑った。

 

「そうだ。言葉は大事だ。飾り方ひとつで、真実の見え方は変わる」

 

 その言葉に、ユイの目がわずかに細くなる。

 

 エキドナは見逃さない。

 

「君は特に、それをよく知っていそうだ」

 

「何の話?」

 

「とぼけるのが上手い」

 

「あなたほどではないわ」

 

「僕はとぼけているつもりはないよ」

 

「ならなお悪い」

 

 スバルは二人の会話に嫌な予感を覚えた。

 

 エキドナはユイの何かを見ようとしている。

 

 ユイはそれを受け流している。

 

 このまま続けさせるのはまずい。

 

「エキドナ」

 

 スバルは割り込んだ。

 

「ユイさんを観察すんのはやめろ」

 

「庇うね」

 

「庇うに決まってんだろ。俺の連れだ」

 

 ユイが少しだけスバルを見る。

 

 エキドナは、嬉しそうに笑った。

 

「いいね。とてもいい。君は自分がどれだけ危ういか理解していないのに、他人の危うさには敏感だ」

 

「黙れ」

 

「わかった。今回はここまでにしよう」

 

「今回は?」

 

「また会うことになる」

 

「会いたくねえ」

 

「君の意思とは別に、墓所は君を呼ぶだろう」

 

 エキドナはスバルを見る。

 

「ナツキ・スバル。君はこの場所との縁を得た。墓所に入れば、試練は君を迎える」

 

 次に、ユイを見る。

 

「ユイ。君は茶を飲んでいない。だから正規の客とは言い切れない。けれど、ここへ入り込んだ以上、完全な部外者でもない」

 

「迷惑な招待ね」

 

「招待は魅力的な方がいいだろう?」

 

「魅力を感じないわ」

 

「今は、だね」

 

 ユイは答えなかった。

 

 エキドナは白い茶器を軽く持ち上げる。

 

「茶が欲しくなったら、いつでもどうぞ」

 

「一生いらねえ!」

 

 スバルが即答する。

 

 エキドナは気にしない。

 

 そのまま指先で卓を叩く。

 

 白い草原の空気が、わずかに変わった。

 

「さて。茶会から出るには、対価が必要だ」

 

「……は?」

 

 スバルの顔が引きつる。

 

「おい待て。聞いてねえぞ、そんなの」

 

「今言った」

 

「帰る直前にな!」

 

「君はそういう反応が本当にわかりやすいね」

 

「褒めんな!」

 

「褒めているよ」

 

「余計悪いわ!」

 

 スバルは身構える。

 

「対価ってなんだ。命か? 記憶か? 体液飲ませた上にまだ取る気か?」

 

「そう大げさに構えなくてもいい。今回は軽いものにしておこう」

 

「魔女の言う軽いが信用できるか!」

 

 エキドナは、愉快そうに目を細める。

 

「この茶会の記憶を、しばらく曖昧にさせてもらう」

 

 スバルの表情が消えた。

 

「……記憶?」

 

「完全に奪うわけではない。必要な時が来れば、思い出す。けれど、外へ戻った直後の君は、この場で交わした会話の細部を思い出せない」

 

「ふざけんな」

 

「ふざけてはいない。外で君が不用意に語れば、不都合が起きる。僕にとっても、君にとってもね」

 

「全部、お前の都合じゃねえか」

 

「一部はね」

 

「認めやがった」

 

 ユイが静かに口を開く。

 

「私にも同じ対価がかかる?」

 

「君もこの場にいるからね。ただし、君は茶を飲んでいない。縛りは彼より浅いかもしれない」

 

「曖昧ね」

 

「曖昧さは嫌いかい?」

 

「不便だわ」

 

「僕は好きだよ」

 

「でしょうね」

 

 ユイはスバルを見る。

 

「受けるしかないわ」

 

「わかってる」

 

 スバルは吐き捨てるように言った。

 

「こんなところで止まってる暇はねえ」

 

「では、対価は成立だ」

 

 エキドナは立ち上がった。

 

「君たちの記憶は、外へ戻れば薄れる。けれど、試練が始まれば、必要なものは浮かび上がる。安心するといい。君たちの努力を完全に無駄にはしない」

 

「最後まで腹立つな、お前」

 

「また会おう、ナツキ・スバル。ユイ。君たちの続きに、僕は期待している」

 

 白い草原が揺らいだ。

 

 空がほどける。

 

 卓が遠ざかる。

 

 エキドナの微笑みだけが、最後まで残った。

 

 次に目を開けた時、スバルは冷たい石の床に倒れていた。

 

「……っ」

 

 体を起こす。

 

 墓所の中だった。

 

 苔むした石壁。

 

 冷たい空気。

 

 現実の重さ。

 

 何かを見ていた気がする。

 

 誰かと話していた気がする。

 

 白い髪。

 

 茶。

 

 魔女。

 

 けれど、細部が掴めない。

 

「なんだ……今の」

 

 頭を押さえる。

 

 思い出そうとすると、霧がかかったようにぼやける。

 

 少し離れた場所で、ユイも膝をついていた。

 

「ユイさん!」

 

「大丈夫」

 

 彼女はこめかみを押さえながら立ち上がる。

 

「気分は最悪だけれど」

 

「何があったか覚えてるか?」

 

「断片だけ」

 

「俺もだ」

 

 白い草原。

 

 強欲の魔女。

 

 茶。

 

 対価。

 

 そこまではわかる。

 

 けれど、会話の細部が掴めない。

 

 スバルは舌打ちした。

 

「……あの魔女、絶対ろくでもねえことしただろ」

 

「同感ね」

 

 その時、墓所の外からオットーの声がした。

 

「スバルさん! ユイさん! 生きてますか!? 生きてるなら返事してください! 死んでても返事できるならしてください!」

 

「死んでたら返事できねえよ!」

 

 スバルが叫び返し、墓所の外へ出る。

 

 オットーが半泣きで立っていた。

 

 その横に、倒れたエミリアがいる。

 

「エミリアたん!」

 

 スバルは駆け寄る。

 

 呼吸はある。

 

 外傷もない。

 

 だが、意識は落ちている。

 

 ユイが膝をつき、額に触れる。

 

「熱はない。結界か墓所の反応でしょうね」

 

「結界……」

 

 スバルは眉をひそめる。

 

 その言葉には覚えがある。

 

 誰かから聞いた。

 

 聖域。

 

 墓所。

 

 結界。

 

 混血。

 

 情報の輪郭だけが残っている。

 

「ここで長く寝かせるべきじゃないわ」

 

 ユイが言った。

 

 その時、木々の奥で枝が折れた。

 

 空気が変わる。

 

 獣のような気配。

 

 次の瞬間、金色の影が飛び込んできた。

 

「ッ!」

 

 スバルが反応するより早く、何かが目の前を横切る。

 

 ユイがスバルの襟を掴み、後ろへ引いた。

 

 直後、さっきまでスバルの頭があった場所を、鋭い爪が薙いだ。

 

 風が頬を切る。

 

「な――!?」

 

 着地したのは、金髪の少年だった。

 

 獣じみた鋭い目。

 

 剥き出しの牙。

 

 低く唸るような声。

 

 少年は、スバルたちを睨みつける。

 

「てめぇら、墓所で何してやがった」

 

 歓迎の言葉などなかった。

 

 友好的な空気もない。

 

 そこにあるのは、明確な警戒と敵意だった。

 

 オットーが悲鳴に近い声を上げる。

 

「いきなり攻撃!? いきなり攻撃は商談以前の問題ですよ!?」

 

「うるせぇ。こっちは墓所が騒いだから見に来たんだよ」

 

 少年はスバルを見る。

 

 次に、ユイを見る。

 

 そして、倒れているエミリアへ視線を移した。

 

「そこの女は何だ。墓所に何を――」

 

「エミリアだ」

 

 スバルは短く言った。

 

 少年の動きが止まる。

 

「……エミリア?」

 

「ああ。エミリア様だ。ロズワールの屋敷から来た。お前も知ってるんだろ」

 

 少年は倒れているエミリアを改めて見た。

 

 銀の髪。

 

 ハーフエルフの少女。

 

 ロズワールが王選に担ぎ上げた候補者。

 

 知らないはずがなかった。

 

「……ちっ」

 

 少年は爪を下ろした。

 

 ただし、敵意が消えたわけではない。

 

 攻撃態勢を解いただけだ。

 

「先に言えよ」

 

「攻撃する前に聞けよ」

 

「あぁ?」

 

「なんでもねえよ」

 

 空気がまだ張っている。

 

 スバルはエミリアの前に立ち、ユイも横から彼女を庇える位置を取る。

 

 少年の目が、その動きを追った。

 

「姉ちゃん、今の避け方……妙な動きしやがる」

 

「避けたのではなく、引いただけよ」

 

「とぼけんな。俺様の爪を見てから動いたろ」

 

「見えたものを避けるのは普通でしょう」

 

「普通じゃねぇよ」

 

 少年は牙を見せる。

 

「てめぇら、何者だ」

 

 スバルは低く答えた。

 

「ナツキ・スバル。ロズワールに会いに来た」

 

「ロズワール様に?」

 

「ああ。村人もラムも、ここにいるんだろ」

 

 少年は、そこで初めて少しだけ反応を変えた。

 

 敵意は消えない。

 

 だが、完全な攻撃態勢ではなくなる。

 

「……フレデリカの石を持ってたのは、てめぇらか」

 

「フレデリカを知ってるのか」

 

「質問してんのは俺様だ」

 

「こっちも聞きたいことだらけなんだよ」

 

 少年は舌打ちした。

 

「俺様はガーフィール。ガーフィール・ティンゼルだ。ここで勝手な真似する奴は、俺様が叩き出す」

 

「叩き出すって、出られるのかよ」

 

 スバルの問いに、ガーフィールの目が細くなる。

 

「……てめぇ、何か知ってんな」

 

 聖域の結界。

 

 混血を縛る場所。

 

 その詳細を思い出そうとした瞬間、スバルの頭の中で白い霧がかかった。

 

 言葉が出ないのではない。

 

 記憶の輪郭が曖昧になる。

 

 何を誰から聞いたのか。

 

 どこまで話していいのか。

 

 掴もうとした途端、指の間から零れていく。

 

 茶会の対価。

 

 そう思った瞬間、その言葉さえもぼやけた。

 

 スバルは舌打ちした。

 

「……少しだけな」

 

 ガーフィールはスバルを睨む。

 

「まあいい。ロズワール様に会いたいなら、案内してやる。ただし、変な真似したらその場で潰す」

 

「最初からずいぶん好戦的だな」

 

「余所者に愛想振りまくほど暇じゃねぇんだよ」

 

 ガーフィールはエミリアを見る。

 

「エミリア様は?」

 

「墓所の影響で意識を失っている」

 

 ユイが答えた。

 

「早く休ませたい」

 

「……ちっ」

 

 ガーフィールは不機嫌そうに舌打ちした。

 

「ついてこい。妙な動きすんなよ」

 

 スバルはエミリアを背負う。

 

 ユイが彼女の肩へ布をかけた。

 

「冷えるわ」

 

「助かる」

 

「あなたも倒れないで」

 

「努力する」

 

「努力じゃなく実行」

 

「この状況でその言い方できるの、逆にすげえな」

 

「必要だから」

 

 ガーフィールの案内で森を抜ける。

 

 聖域。

 

 家々はある。

 

 人もいる。

 

 だが、空気は閉じていた。

 

 外から隔てられた場所。

 

 出られない者たちが暮らす場所。

 

 住民たちの視線が、スバルたちへ集まる。

 

 エミリアへ。

 

 スバルへ。

 

 ユイへ。

 

 オットーへ。

 

 歓迎だけではない。

 

 期待と不安と警戒が入り混じった視線だった。

 

 案内された建物の中に、ロズワールはいた。

 

 ベッドの上。

 

 全身に包帯を巻かれ、それでもいつもの笑みを浮かべている。

 

 その傍にはラムがいた。

 

 表情は薄い。

 

 けれど、目元には疲労がある。

 

「バルス」

 

「ラム……!」

 

 スバルは思わず息を吐いた。

 

 無事だった。

 

 それだけで、少し救われる。

 

「相変わらず騒がしいわね」

 

「こっちは心配してたんだぞ」

 

「それは光栄ね。額に入れて飾っておくわ」

 

「相変わらず辛辣!」

 

 だが、すぐにロズワールへ視線が移る。

 

「ロズワール」

 

「やぁ、スバルくぅん。よく来てくれたねぇ」

 

 いつもの間延びした声。

 

 その声を聞いた瞬間、スバルの中に溜まっていた疑問が噴き出しそうになった。

 

 なぜ屋敷にいなかった。

 

 なぜ村人が聖域にいる。

 

 なぜラムがここにいる。

 

 なぜ、聖域という場所を隠していた。

 

 なぜ、魔女教が来る日に。

 

「聞きたいことが山ほどある」

 

「だろぉねぇ」

 

「まず、村人だ。避難した村人の一部がここにいる。戻せるのか」

 

「すぐには無理だねぇ」

 

 スバルの拳が固まる。

 

「どういう意味だ」

 

「聖域には結界がある。条件に該当する者は、ここから出られない」

 

「条件って、混血か」

 

「おおむね、その理解でいい」

 

 ロズワールは微笑んだ。

 

「亜人の血を濃く持つ者、混ざりものの血を持つ者。彼らを縛る結界だ」

 

「ふざけんな」

 

 スバルの声が低くなる。

 

「避難させたはずの村人を、今度は閉じ込めたってことか」

 

「保護した、と言いたいところだけれどねぇ」

 

「言い方の問題じゃねえ!」

 

 スバルが踏み出しかける。

 

 その横で、ユイが静かに口を開いた。

 

「出る方法は?」

 

 ロズワールの目がユイへ向く。

 

 初対面の目ではない。

 

 屋敷で、すでに互いを認識している者同士の目だった。

 

「ユイくぅん、君も相変わらず要点が早いねぇ」

 

「遠回りを聞く時間がないだけです」

 

「手厳しい」

 

「状況が状況ですから」

 

 ユイはロズワールをまっすぐ見る。

 

「結界を解く方法を聞いています」

 

 スバルはそこで、少しだけ我に返った。

 

 怒るだけでは駄目だ。

 

 必要なのは、村人を外へ出す方法。

 

 エミリアを自由にする方法。

 

 ロズワールの意図を暴くこと。

 

「方法は、試練だよ」

 

 ロズワールは言った。

 

「墓所で行われる、強欲の魔女エキドナの試練。それを越えれば、聖域は解放される」

 

 エキドナ。

 

 その名前に、スバルの頭がわずかに痛んだ。

 

 白い草原。

 

 茶。

 

 声。

 

 笑み。

 

 だが、細部はぼやけている。

 

 ロズワールはそれを見逃さなかった。

 

「おや。もう会ったのかな?」

 

「……たぶん、会った」

 

「たぶん?」

 

「記憶が曖昧なんだよ。白い場所で、魔女と話して、茶を飲まされた。それくらいは覚えてる。けど、何をどこまで話したのか、細かいところが思い出せねえ」

 

「なるほどぉ」

 

 ロズワールは笑みを深くする。

 

「茶会の対価、というわけか」

 

「知ってんのかよ」

 

「ある程度はねぇ」

 

「本当に腹立つな、お前」

 

 ラムが眉をひそめる。

 

「バルス、魔女に何かされたの?」

 

「何かはされた。何されたかはうまく言えねえ。記憶に霧がかかったみたいになってる」

 

「相変わらず説明が壊滅的ね」

 

「俺のせいじゃねえ!」

 

 ユイが淡々と付け加える。

 

「私も同席はしましたが、記憶が曖昧です。情報として残っているのは、聖域、結界、試練、その程度です」

 

「あなたまで巻き込まれたの」

 

「ええ」

 

「物好きね」

 

「否定できません」

 

 ロズワールはくつくつと笑う。

 

「なら、スバルくんには資格があるのだろうねぇ」

 

「墓所に入る資格か」

 

「そう。だが、聖域を解放する役目は、本来エミリア様が負うべきものだ」

 

 スバルの目が鋭くなる。

 

「なんでだよ」

 

「彼女は王選候補だ。人々の前で、過去と向き合い、乗り越える。その姿には意味がある」

 

「それを決めるのはお前じゃねえ」

 

 スバルは低く言った。

 

「エミリアたん自身だ」

 

 ロズワールは笑った。

 

 まるで、その言葉を待っていたように。

 

「その通りだねぇ」

 

 その笑みが、スバルには気に入らなかった。

 

 ユイはロズワールをじっと見ていた。

 

 この男は、最初から盤面を知っている。

 

 少なくとも、スバルたちより多くを知っている。

 

 けれど、今はまだ追い詰めきれない。

 

 村人。

 

 結界。

 

 試練。

 

 エミリア。

 

 順番を崩せば、ロズワールの手の上で踊るだけになる。

 

「確認します」

 

 ユイが言った。

 

「聖域にいる村人を外へ出すには、試練を越えて結界を解く必要がある。試練を受けられるのは資格ある者。エミリア様とスバルくんには、その資格がある可能性が高い」

 

「正解だよ」

 

「私は?」

 

 その問いに、スバルがユイを見る。

 

 ロズワールの目も、わずかに細くなった。

 

「君も墓所へ?」

 

「入りました。ただし、スバルくんと同じ状態ではないようです」

 

「なるほどぉ」

 

 ロズワールは少し考えるように目を伏せる。

 

「正式な資格者とは言い切れない。だが、まったく無関係でもない。君らしい曖昧な位置だねぇ」

 

「不本意です」

 

「そうだろぉねぇ」

 

 ユイは表情を変えない。

 

「ロズワール様は、エミリア様が試練を越えることを望んでいる」

 

「そうだねぇ」

 

「理由は王選のため、と」

 

「それもある」

 

 それも。

 

 スバルの眉が動く。

 

「他にもあるのか」

 

「さて、どうだろうねぇ」

 

「ロズワール」

 

 スバルの声が低くなる。

 

 だが、ラムが割って入った。

 

「バルス。今はエミリア様を休ませなさい。話は逃げないわ」

 

「……」

 

「それに、あなたも顔色が悪い。元から冴えない顔がさらに冴えないわ」

 

「心配の皮を被った罵倒!」

 

「心配しているわよ。少しだけ」

 

「少しだけかよ」

 

 スバルは大きく息を吐いた。

 

 エミリアは別室へ運ばれた。

 

 寝台に横たえられた彼女の顔色は悪い。

 

 パックの姿はない。

 

 何度呼んでも返事がない。

 

 スバルはその傍に座り込む。

 

「エミリアたん……」

 

 ユイは水差しと布を用意し、エミリアの額に触れた。

 

「熱は高くない。外傷もない。墓所か結界の影響でしょうね」

 

「パックも出てこねえ」

 

「それも気になるわ」

 

「何もかも気になることだらけだよ」

 

「だから順番を決める」

 

 ユイは静かに言った。

 

「一つ。エミリア様の意識が戻るのを待つ。二つ。村人の状態を確認する。三つ。ロズワール様から聖域と結界の詳細を聞く。四つ。試練を誰がどう受けるか決める」

 

「レムは」

 

 スバルの声は小さかった。

 

「手がかりを探す」

 

 ユイは短く答える。

 

「でも、今ここで叫んでも彼女は起きない」

 

 痛い言葉だった。

 

 けれど、必要な言葉だった。

 

「……わかってる」

 

「なら、今は座って。倒れないで」

 

「休めると思うか?」

 

「思わない。でも、座っているだけでも違う」

 

 スバルは苦笑した。

 

「お前、ほんと容赦ねえな」

 

「容赦してほしい?」

 

「いや」

 

 スバルはエミリアの寝顔を見る。

 

「今は、その方が助かる」

 

 夜が近づく。

 

 聖域の空気は重く、閉じている。

 

 村人たちの視線。

 

 ガーフィールの敵意。

 

 ロズワールの笑み。

 

 ラムの疲労。

 

 エミリアの眠り。

 

 そして、墓所。

 

 スバルは窓の外を見る。

 

 あの奥に、エキドナの試練がある。

 

 エミリアが受けるべきもの。

 

 ロズワールが望むもの。

 

 聖域を解放する鍵。

 

 けれど、スバルにも資格がある。

 

 魔女に招かれた。

 

 対価まで支払わされた。

 

 なら、自分も入れる。

 

 その事実が、希望なのか罠なのか、まだわからない。

 

 ユイは少し離れた場所で、同じ墓所の方角を見ていた。

 

 彼女は完全な資格者ではない。

 

 けれど、エキドナは言った。

 

 完全な部外者ではない、と。

 

 ユイは唇を結ぶ。

 

 スバルを試練に行かせるべきか。

 

 エミリアを支えるべきか。

 

 自分がどこまで踏み込むべきか。

 

 考える。

 

 けれど、結論は急がない。

 

 今はまだ、聖域に着いたばかりだ。

 

 地獄は、始まったばかりなのだから。

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