Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第三十四話 親子

 墓所の入口は、夜の闇の中で静かに口を開けていた。

 

 石造りの古い遺跡。

 

 冷えた空気。

 

 そこに足を踏み入れるだけで、胸の奥を撫でられるような気味の悪さがある。

 

 エミリアは、その入口の前に立っていた。

 

 顔色はまだよくない。

 

 それでも、背筋だけはまっすぐだった。

 

「……行ってくるね」

 

 振り返った彼女が、そう言った。

 

 スバルは喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 

 止めたい。

 

 無理するなと言いたい。

 

 俺が代わると言いたい。

 

 けれど、それを言ってしまえば、また同じだ。

 

 王都で失敗した。

 

 エミリアの覚悟を、自分の勝手な正義で踏みにじった。

 

 だから、今は言わない。

 

「行ってこい」

 

 短く返した。

 

「でも、何かあったらすぐ行く」

 

 それは、止める言葉ではない。

 

 支えるための言葉だった。

 

 エミリアは少しだけ笑う。

 

「うん。ありがとう、スバル」

 

 その笑顔は弱かった。

 

 けれど、確かに前へ進もうとしている顔だった。

 

 ユイは、スバルの少し後ろで墓所を見ていた。

 

 あの場所の奥にあるもの。

 

 試練。

 

 強欲の魔女。

 

 曖昧になった茶会の記憶。

 

 自分が完全な部外者ではないと言われた感覚。

 

 そのどれもが、胸の中で小さく棘のように残っている。

 

「ユイさん」

 

 スバルが小声で言う。

 

「エミリアたんを見ててくれ。俺が突っ込んだら止めて」

 

「止められると思う?」

 

「……努力して」

 

「努力ではなく実行、と言いたいけれど」

 

 ユイは墓所の奥を見た。

 

「今回は、あなたを止めきれないかもしれない」

 

「縁起でもねえな」

 

「そういう場所よ」

 

 スバルは何も言い返せなかった。

 

 やがて、エミリアが墓所へ足を踏み入れた。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 その白い背中が、闇の中へ沈んでいく。

 

 外で待つ者たちのざわめきが消えた。

 

 聖域の住民。

 

 ガーフィール。

 

 オットー。

 

 ロズワールの言葉を知る者。

 

 知らない者。

 

 全員が、墓所の入口を見つめている。

 

 長い沈黙。

 

 呼吸が苦しくなる。

 

 そして。

 

 奥から、エミリアの悲鳴が響いた。

 

「エミリア!」

 

 スバルは反射的に走っていた。

 

「待ちなさい!」

 

 ユイの声が飛ぶ。

 

 けれど、足は止まらない。

 

 ガーフィールが舌打ちする音が聞こえた。

 

 オットーが何か叫んでいる。

 

 全部、遠い。

 

 墓所の中へ飛び込む。

 

 冷たい空気が肺に刺さる。

 

 奥に、エミリアがいた。

 

 膝をついて、肩を震わせている。

 

 目は開いているのに、スバルを見ていない。

 

 何かを見ている。

 

 ここではない場所。

 

 彼女自身の過去。

 

「エミリアたん!」

 

 手を伸ばした瞬間、空気が変わった。

 

 墓所の内側が、低く鳴る。

 

 石壁が遠ざかる。

 

 視界が歪む。

 

 足元から白い波が立ち上がり、スバルの体を包んだ。

 

 ユイが後ろから駆け込んでくる。

 

「スバルくん!」

 

 その声も、途中で遠ざかった。

 

 何かが、スバルの意識を深く沈める。

 

 過去と向き合え。

 

 言葉ではない。

 

 けれど、意味だけが心へ突き刺さる。

 

 スバルは抵抗しようとした。

 

 エミリアへ手を伸ばそうとした。

 

 だが、指先は空を掴み――。

 

 世界が、白く途切れた。

 

 次に目を覚ました時、スバルは自分の部屋にいた。

 

 見慣れた天井。

 

 見慣れた壁。

 

 見慣れたポスター。

 

 床に散らかった雑誌。

 

 机の上に放置されたゲーム機。

 

 カーテンの隙間から差し込む朝の光。

 

 何もおかしくない。

 

 いつもの部屋だ。

 

 いつもの朝だ。

 

「……ん」

 

 スバルは布団の中で寝返りを打つ。

 

 頭がぼんやりしている。

 

 何か夢を見ていた気がする。

 

 けれど、内容が思い出せない。

 

 白い髪。

 

 銀の髪。

 

 青い髪。

 

 誰かの声。

 

 どれも、起き抜けの霧の中で溶けていく。

 

 階下から声がした。

 

「スバルー、起きてるかー?」

 

 明るく、やたらと通る声。

 

 父の声だ。

 

 ナツキ・ケンイチ。

 

 それを聞いても、スバルは特に驚かなかった。

 

 驚く理由がない。

 

 ここは自分の家で、今日は普通の朝なのだから。

 

「起きてねー」

 

 布団の中から適当に返す。

 

 すると、扉が勢いよく開いた。

 

「起きてないなら、起こすしかないな!」

 

「うおっ!?」

 

 布団が剥がされる。

 

 次の瞬間、父親が笑顔で飛び込んできた。

 

 腕を取られ、体をねじられる。

 

 寝起きの意識が一瞬で覚醒した。

 

「朝の親子スキンシップだ!」

 

「スキンシップの範囲を越えてんだろ! 関節技じゃねえか!」

 

「親子の絆は関節から深まる!」

 

「深まんねえよ!」

 

 スバルは反射的に足を絡め、体勢を返そうとする。

 

 だが、ケンイチは笑いながらそれを受け流した。

 

「甘いな、我が息子!」

 

「朝から元気すぎんだよ、親父!」

 

「父ちゃんは毎朝元気だ!」

 

「知ってるよ!」

 

 いつものやり取り。

 

 くだらなくて、騒がしくて、暑苦しい。

 

 けれど、それが普通だった。

 

 階下から、のんびりした声が聞こえてくる。

 

「ごはん、冷めちゃうよー」

 

 母の声。

 

 ナツキ・ナホコ。

 

 ケンイチはぱっとスバルを解放した。

 

「母ちゃんのごはんを待たせるわけにはいかないな」

 

「だったら最初から普通に起こせよ……」

 

「起こしただろ?」

 

「襲撃だったろ」

 

「親子のふれあいだ」

 

「ふれあいの定義を見直せ」

 

 スバルはぼやきながら立ち上がる。

 

 体が重い。

 

 それは寝起きのせいだと思った。

 

 胸の奥に、小さな違和感がある。

 

 けれど、それも夢の名残だろう。

 

 そう処理した。

 

 そして、その夢の名残のさらに外側。

 

 現実の墓所で、ユイは片膝をついていた。

 

 スバルの体は、冷たい石の床に倒れている。

 

 エミリアも少し離れた場所で苦しげに呼吸をしている。

 

 本来なら、ユイもすぐに二人を外へ引きずり出すべきだった。

 

 けれど、墓所はそれを許さない。

 

 空間が重い。

 

 スバルとエミリアの周囲だけが、薄い膜に包まれている。

 

 手を伸ばしても、届く直前で距離がずれる。

 

「……試練の内側」

 

 ユイは小さく呟いた。

 

 視線をスバルへ向ける。

 

 彼は今、どこか別の場所にいる。

 

 過去。

 

 おそらく、彼自身の過去。

 

 ユイは唇を結んだ。

 

 覗くべきではない。

 

 人の試練だ。

 

 人の過去だ。

 

 踏み込むべきではない。

 

 そう思う一方で、胸の奥が疼く。

 

 見たい。

 

 スバルがどう壊れたのか。

 

 どうしてあんなにも無茶をするのか。

 

 なぜ、何度も折れながら立つのか。

 

 その源を知りたい。

 

 それは心配か、興味か、もっとたちの悪い欲か。

 

 自分でも、明確には分けられなかった。

 

 ユイは息を吐く。

 

「……少しだけ」

 

 指先をスバルの方へ伸ばす。

 

 直接触れるのではない。

 

 自分という存在の輪郭を薄くする。

 

 見る者の意識から、自分を“背景”へずらす。

 

 事実に薄い飾りをかける。

 

 そこにいる。

 

 けれど、気づかれない。

 

 触れている。

 

 けれど、干渉していない。

 

 虚飾。

 

 ユイの力が、墓所の白い膜へ静かに重なった。

 

 普通なら弾かれる。

 

 だが、ユイの虚飾は、弾かれたという事実の上に薄布をかける。

 

 そこにいないものとして。

 

 試練の邪魔をしないものとして。

 

 ただ、景色の端に紛れ込む影として。

 

 ユイの視界に、別の光景が滲み始めた。

 

 畳の匂い。

 

 朝の光。

 

 散らかった部屋。

 

 そして、父親に関節を極められながら叫ぶスバル。

 

 ユイは思わず目を瞬かせた。

 

「……元気ね」

 

 声は試練の中には届かない。

 

 スバルにも、ケンイチにも聞こえない。

 

 ユイは観客席にいる。

 

 舞台の裏から、隙間越しに覗いている。

 

 そんな感覚だった。

 

 そのさらに奥。

 

 白い闇の縁で、誰かが笑った。

 

 エキドナだった。

 

 白い髪の魔女は、ユイの隣に立っているわけではない。

 

 姿もはっきりしない。

 

 けれど、気配だけがある。

 

 見つけている。

 

 ユイが虚飾を使ってスバルの試練を覗き見ていることを、完全に見抜いている。

 

 ――覗き見とは、なかなか悪趣味だね。

 

 声はない。

 

 けれど、そう言われた気がした。

 

 ユイは目を細める。

 

「あなたにだけは言われたくないわ」

 

 それもまた、声にはしない。

 

 エキドナは笑っている。

 

 しかし、スバルへは何も言わない。

 

 試練の中のスバルにも、父にも、母にも、ユイの存在を明かさない。

 

 ただ、面白がっている。

 

 ユイは、その黙認を受け取った。

 

 不快ではある。

 

 だが、利用できるなら利用する。

 

 そういう意味では、自分も強欲の魔女に近いのかもしれない。

 

 考えて、すぐに打ち消した。

 

 食卓には、母がいた。

 

「おはよう、スバル」

 

「おはよ」

 

 ナホコは、いつものふわふわした調子で笑う。

 

 食卓には朝食が並んでいた。

 

 ただし、スバルの前に置かれた皿には、やけに大量の豆が盛られている。

 

「……母さん」

 

「なあに?」

 

「これは?」

 

「豆」

 

「見りゃわかる」

 

「体にいいよ」

 

「体によくても量ってものがあるだろ」

 

「いっぱい体によくなるね」

 

「理論が雑!」

 

 ケンイチが横で大げさに笑う。

 

「食え、スバル! 母ちゃんの愛だ!」

 

「愛が重いんだよ!」

 

「愛は重いものだ」

 

「親父が言うと物理的に聞こえる!」

 

 そんな会話をしながら、朝食が進む。

 

 豆はいつの間にかケンイチの皿へ移動し、さらに母の謎の判断で別の料理に混ざっていく。

 

 何もかもが、いつもの家だった。

 

 うるさい父。

 

 少しずれた母。

 

 突っ込む自分。

 

 平和な朝。

 

 なのに、スバルは時々、箸を止めた。

 

 胸が痛む。

 

 理由はわからない。

 

 何か大切なことを忘れている気がする。

 

 けれど、思い出そうとすると、頭の奥がちくりと痛んだ。

 

 ユイは、それを見ていた。

 

 スバルがまだ思い出していないことも、見ていればわかる。

 

 彼は本当に、今この瞬間を“元の朝”として受け取っている。

 

 試練だと気づいていない。

 

 聖域も、エミリアも、レムも、まだ深い場所に沈んでいる。

 

 だからこそ、痛い。

 

 これは過去を見せるだけの試練ではない。

 

 彼に、戻れたかもしれない日常をもう一度渡している。

 

 その上で、選ばせる。

 

 ユイは無意識に指を握った。

 

 悪趣味。

 

 だが、効果的だ。

 

「スバル?」

 

 ナホコが首を傾げる。

 

「眠い?」

 

「まあ、そんなとこ」

 

「眠い時は、ちゃんと噛むといいよ」

 

「眠気と咀嚼に関係ある?」

 

「あるような、ないような」

 

「どっちだよ」

 

 ケンイチがじっとスバルを見た。

 

 いつもの笑顔。

 

 けれど、目だけは少し違う。

 

「スバル」

 

「なんだよ」

 

「食ったら、父ちゃんと散歩だ」

 

「散歩?」

 

「ああ。男同士の話ってやつだ」

 

「そういうの、父親が言うとだいたい面倒なやつなんだけど」

 

「面倒な話を面倒じゃなく聞かせるのが父ちゃんの腕の見せ所だな」

 

「腕の見せ所多すぎんだよ、親父は」

 

 軽口は返せる。

 

 けれど、胸の違和感は消えなかった。

 

 朝食の後、スバルは父と家を出た。

 

 見慣れた住宅街。

 

 電柱。

 

 アスファルト。

 

 自販機。

 

 遠くを走る車の音。

 

 何もかもが当然の景色だった。

 

 当然のはずなのに、どこか遠い。

 

 まるで、長い旅の果てに、ようやく思い出した場所のようだった。

 

 ユイは二人の少し後ろを歩いていた。

 

 もちろん、二人には見えていない。

 

 スバルが振り返っても、そこにユイはいないことになっている。

 

 ケンイチが横を見ても、視線はユイを素通りする。

 

 虚飾で自分を薄くしたまま、ユイは静かに歩く。

 

 スバルの生まれた街。

 

 スバルのいた世界。

 

 見たことのない景色なのに、彼の表情から、そこがどれほど重い場所かは伝わってくる。

 

「で、どうだ」

 

 ケンイチが、隣で唐突に言った。

 

「何が」

 

「好きな子はできたか」

 

「いきなりそれかよ!」

 

「父ちゃんとしては重要事項だ」

 

「重要の方向性がおかしい」

 

「若者の青春は大事だぞ」

 

 スバルは呆れたように返そうとした。

 

 その瞬間、頭の奥が鋭く痛んだ。

 

「っ……」

 

 足が止まる。

 

 視界が一瞬だけ揺れる。

 

 銀の髪。

 

 紫紺の瞳。

 

 柔らかい声。

 

 スバル。

 

 誰かが、自分の名前を呼んだ気がした。

 

 ユイの視界にも、ほんの一瞬だけ銀色が走った。

 

 エミリア。

 

 スバルの記憶が、外側から叩かれている。

 

「スバル?」

 

 ケンイチが振り返る。

 

「どうした?」

 

「いや……なんでもねえ」

 

 スバルは額を押さえた。

 

 何かがある。

 

 何かを忘れている。

 

 好きな子。

 

 その言葉に、胸が反応した。

 

 けれど、名前が出てこない。

 

「本当に大丈夫か?」

 

「大丈夫だって」

 

「大丈夫って顔じゃないぞ」

 

「顔で判断すんなよ」

 

「父ちゃんだからな。顔ぐらい見る」

 

 ケンイチは、公園のベンチを指さした。

 

「座るか」

 

「……ああ」

 

 二人はベンチに腰を下ろした。

 

 木々が揺れている。

 

 子どもの頃、ここで父と遊んだ記憶がある。

 

 走って、転んで、負けて、悔しくて、また挑んだ。

 

 父はいつも大きかった。

 

 明るくて、強くて、誰からも好かれて、どこでも中心にいた。

 

 スバルは、そんな父に憧れていた。

 

 ユイは、少し離れたブランコの傍に立つ。

 

 揺れていないブランコ。

 

 朝の公園。

 

 親子。

 

 ここは、彼の原点だ。

 

 そう思った。

 

「お前、昔から父ちゃんの真似ばっかしてたよな」

 

 ケンイチが言った。

 

「髪型とか、喋り方とか、妙なテンションとか」

 

「妙って言うな」

 

「妙だろ」

 

「否定できねえけど」

 

「父ちゃんみたいになりたかったんだろ?」

 

 スバルは黙った。

 

 その通りだった。

 

 父みたいになりたかった。

 

 父のように明るく。

 

 父のように強く。

 

 父のように誰からも好かれる人間になりたかった。

 

 けれど、なれなかった。

 

 最初は目立てた。

 

 変なことをして、笑われて、すごいと言われて、それで満足していた。

 

 だが、周囲が変わる。

 

 自分だけが変われない。

 

 同じことを繰り返し、滑り、浮き、居場所を失っていく。

 

 学校へ行けなくなった。

 

 朝になると、体が動かなくなった。

 

 部屋に閉じこもり、父と母の声を聞かないふりをした。

 

 それでも、父も母も責めなかった。

 

 それが、余計につらかった。

 

「俺さ」

 

 スバルは、膝の上で拳を握った。

 

「親父みたいになりたかったんだ」

 

「うん」

 

「でも、なれなかった」

 

「うん」

 

「真似しても、届かなかった。周りは俺じゃなくて、親父の息子って見てる気がして。勝手に比べて、勝手に折れて、勝手に逃げた」

 

 言葉が止まらない。

 

 自分でも、なぜ今こんな話をしているのかわからない。

 

 けれど、言わなければならない気がした。

 

「学校にも行けなくなった。母さんにいってきますも言わずに、部屋に逃げて。親父にも母さんにも、何も返せなかった」

 

「うん」

 

「俺、ずっと逃げてた」

 

 ケンイチは茶化さなかった。

 

 ただ、隣で聞いている。

 

 それが、ありがたくて苦しかった。

 

 ユイはその横顔を見ていた。

 

 スバルが普段、どれだけ大げさに笑っても、どれだけふざけても、その根にはこれがある。

 

 父のようになれなかったこと。

 

 自分の価値を見失ったこと。

 

 逃げたこと。

 

 その逃げた自分を、まだ許せていないこと。

 

 ユイは口を開きかけて、閉じた。

 

 ここで言葉を挟むことはできない。

 

 そもそも、届かない。

 

 届かせてはいけない。

 

 これはスバルの試練だ。

 

 自分は覗き見ているだけ。

 

「ごめん」

 

 スバルは言った。

 

「俺、ずっと迷惑かけてた。何もできなくて、何も返せなくて、それで……」

 

 そこまで言った時、また頭が痛んだ。

 

 今度は、さっきより強い。

 

 銀の髪。

 

 白い服。

 

 膝をつく少女。

 

 墓所。

 

 聖域。

 

 ロズワール。

 

 レム。

 

 青い髪の少女。

 

 自分を信じてくれた声。

 

 スバル君。

 

 そして、エミリアの声。

 

 スバル。

 

「――っ!」

 

 スバルは胸を押さえた。

 

 思い出す。

 

 少しずつ。

 

 ここは現実ではない。

 

 墓所の中だ。

 

 試練だ。

 

 エミリアが悲鳴を上げ、自分は墓所へ飛び込んだ。

 

 過去と向き合え。

 

 そう言われた。

 

 これは、自分の過去だ。

 

 父と母。

 

 逃げた日々。

 

 言えなかった言葉。

 

 置いてきた世界。

 

「……思い出した」

 

 スバルは掠れた声で呟いた。

 

「俺、行かなきゃいけない場所がある」

 

 ケンイチは黙っている。

 

 まるで、最初からそれを知っていたような顔で。

 

「好きな子もいる」

 

「そうか」

 

「大事な人もいる。俺を信じてくれた人がいる。俺が守りたい人がいる。助けなきゃいけない人たちがいる」

 

「そうか」

 

「でも、俺……親父と母さんに何も言わずにいなくなった」

 

 声が震える。

 

「あの日、母さんにいってらっしゃいって言われたのに、俺、返さなかった。何も言わずに出て、それで……もう戻れないかもしれない」

 

 ケンイチは、ゆっくり息を吐いた。

 

「スバル」

 

「……なんだよ」

 

「お前は、父ちゃんに何かを返すために生まれてきたわけじゃない」

 

 スバルの喉が詰まる。

 

「親ってのはな、子どもに何かしてもらいたくて親をやってるんじゃない。勝手に生んで、勝手に育てて、勝手に心配して、勝手に喜んでるだけだ」

 

「でも、俺は……」

 

「でもも何もない」

 

 ケンイチは、スバルの頭に手を置いた。

 

 昔と同じ、大きな手。

 

「父ちゃんは、お前が父ちゃんみたいになれなかったからって、がっかりしたことはない」

 

「……」

 

「お前はお前だ。ナツキ・スバルだ。父ちゃんの続きじゃない」

 

 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 

 ずっと欲しかった言葉だった。

 

 けれど、聞くのが怖かった言葉でもあった。

 

 ユイは、目を伏せる。

 

 温かい言葉だった。

 

 痛いほどに。

 

 スバルがここで救われることを、彼女は願っていた。

 

 願っている自分に、少しだけ驚いた。

 

 曇らせを見るのが好き。

 

 壊れかけた人間が、それでも立つ姿を見るのが好き。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、今は。

 

 この親子の会話を、茶化せなかった。

 

「俺、戻れないかもしれない」

 

「ああ」

 

「親孝行も、できないかもしれない」

 

「ああ」

 

「それでも、行っていいのかよ」

 

 ケンイチは笑った。

 

 いつものように明るく。

 

 けれど、目元だけ少し優しく。

 

「行くんだろ?」

 

「……行く」

 

「なら行け。胸張って行け。うちの息子が、誰かのために走るって決めたなら、父ちゃんは止めない」

 

 スバルの視界が滲む。

 

「親父」

 

「ただし」

 

 ケンイチは人差し指を立てる。

 

「母ちゃんにはちゃんと言えよ」

 

「何を」

 

「いってきます、だ」

 

 その言葉に、スバルの胸がまた痛んだ。

 

 あの日、言えなかった言葉。

 

 ずっと残っていた後悔。

 

 スバルは袖で涙を拭った。

 

「……ああ」

 

 帰り道、父はいつものようにくだらない話をした。

 

 スバルも突っ込んだ。

 

 泣いた顔をごまかすように。

 

 ケンイチは気づいていたはずだ。

 

 それでも、触れなかった。

 

 家に戻ると、母が玄関先で待っていた。

 

「遅かったね」

 

「父と息子の大事な話をしてた」

 

 ケンイチが胸を張る。

 

 ナホコは首を傾げた。

 

「そうなの?」

 

「そうだ」

 

「じゃあ、お昼は何にしようか」

 

「切り替え早いな、母さん」

 

「お昼は大事だから」

 

 いつもの調子。

 

 その柔らかさに、スバルは笑ってしまった。

 

 今度は、少し自然に。

 

 それから、スバルは制服に着替えた。

 

 学校へ向かう。

 

 そこもまた、自分が逃げた場所だ。

 

 行けなくなった場所。

 

 止まってしまった場所。

 

 試練は、そこへ行けと言っているのだろう。

 

 玄関で靴を履く。

 

 母が横に立っている。

 

 父は少し離れて、腕を組みながら見ている。

 

「スバル」

 

 ナホコが言った。

 

「気をつけてね」

 

 普通の言葉。

 

 いつもの言葉。

 

 あの日、自分が返せなかった言葉に続くもの。

 

 スバルは立ち止まった。

 

 振り返る。

 

 母を見る。

 

 父を見る。

 

「母さん」

 

「なあに?」

 

「俺、たぶん、親孝行できない」

 

 ナホコは目を瞬かせた。

 

「そっか」

 

「戻れないかもしれない。もう、二人の老後の面倒とか、そういうの、できないかもしれない」

 

「うん」

 

「ごめん」

 

 ナホコは、少しだけ考えるように首を傾げた。

 

 そして、いつもの柔らかな声で言った。

 

「スバルが元気でいてくれたらいいよ」

 

「……」

 

「お父さんもお母さんも、スバルに何かを返してほしくて一緒にいたわけじゃないから」

 

 父と似たようなことを、母は母の言葉で言った。

 

 それがまた、スバルの胸を揺らした。

 

「でも、心配はするよ」

 

「うん」

 

「だから、行くなら気をつけてね」

 

 ナホコは笑った。

 

 スバルは涙をこらえきれなかった。

 

「……いってきます」

 

 ようやく言えた。

 

 あの日、言えなかった言葉。

 

 ずっと残っていた後悔。

 

 それを、今。

 

 母は嬉しそうに笑った。

 

「いってらっしゃい」

 

 父も、玄関の奥で大きく手を振る。

 

「行ってこい、スバル!」

 

「ああ!」

 

 スバルは玄関を出た。

 

 朝の光が眩しい。

 

 制服の袖で涙を拭う。

 

 足は、学校へ向かっていた。

 

 逃げ続けた場所へ。

 

 過去と向き合うために。

 

 けれど、もう一人ではなかった。

 

 父の言葉。

 

 母の声。

 

 そして、思い出した名前たち。

 

 エミリア。

 

 レム。

 

 ユイ。

 

 オットー。

 

 ラム。

 

 聖域に残された人々。

 

 全部が、スバルの背中を押している。

 

 ユイは、その後ろ姿を見送った。

 

 虚飾で隠れたまま。

 

 誰にも見えない観客として。

 

 だが、その胸の奥だけは、少しだけ乱れていた。

 

「……あなたは、そうやって立つのね」

 

 声はスバルには届かない。

 

 届かせる気もない。

 

 その時、背後に白い気配が生まれた。

 

 振り返らなくてもわかる。

 

 エキドナだ。

 

 白い髪の魔女は、姿を完全には現さない。

 

 けれど、その好奇心だけは濃く漂っている。

 

 ――見てしまったね。

 

 そう言われた気がした。

 

 ユイは前を向いたまま、唇だけを動かす。

 

「ええ」

 

 ――彼には言わないのかい?

 

「言う理由がないわ」

 

 ――君は優しいのか、残酷なのか、判断に困る。

 

「判断しなくていい」

 

 ――無理だよ。僕は知りたい。

 

「でしょうね」

 

 エキドナは笑う。

 

 ユイの虚飾も、試練の隙間から覗いたことも、すべて見抜いている。

 

 それでも、スバルには明かさない。

 

 なぜなら、その方が面白いから。

 

 ユイにも、それはわかった。

 

「悪趣味ね」

 

 声には出さない。

 

 エキドナにも、声としては届かない。

 

 それでも、魔女は笑っている。

 

 ユイはスバルの背中を見る。

 

 学校へ向かう彼は、まだ試練の途中にいる。

 

 親に向き合い、言えなかった言葉を言った。

 

 けれど、逃げ続けた場所はまだ残っている。

 

 教室。

 

 学校。

 

 自分が止まった場所。

 

 そこへ行って、ようやく第一の試練は形を成す。

 

 墓所の現実では、スバルの指がわずかに動いた。

 

 ユイは虚飾を解かない。

 

 もう少しだけ、見る。

 

 彼がどこまで自分の過去を背負い直すのか。

 

 それを、最後まで見届けるために。

 

 第一の試練は、まだ続いていた。

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