墓所の入口は、夜の闇の中で静かに口を開けていた。
石造りの古い遺跡。
冷えた空気。
そこに足を踏み入れるだけで、胸の奥を撫でられるような気味の悪さがある。
エミリアは、その入口の前に立っていた。
顔色はまだよくない。
それでも、背筋だけはまっすぐだった。
「……行ってくるね」
振り返った彼女が、そう言った。
スバルは喉まで出かかった言葉を飲み込む。
止めたい。
無理するなと言いたい。
俺が代わると言いたい。
けれど、それを言ってしまえば、また同じだ。
王都で失敗した。
エミリアの覚悟を、自分の勝手な正義で踏みにじった。
だから、今は言わない。
「行ってこい」
短く返した。
「でも、何かあったらすぐ行く」
それは、止める言葉ではない。
支えるための言葉だった。
エミリアは少しだけ笑う。
「うん。ありがとう、スバル」
その笑顔は弱かった。
けれど、確かに前へ進もうとしている顔だった。
ユイは、スバルの少し後ろで墓所を見ていた。
あの場所の奥にあるもの。
試練。
強欲の魔女。
曖昧になった茶会の記憶。
自分が完全な部外者ではないと言われた感覚。
そのどれもが、胸の中で小さく棘のように残っている。
「ユイさん」
スバルが小声で言う。
「エミリアたんを見ててくれ。俺が突っ込んだら止めて」
「止められると思う?」
「……努力して」
「努力ではなく実行、と言いたいけれど」
ユイは墓所の奥を見た。
「今回は、あなたを止めきれないかもしれない」
「縁起でもねえな」
「そういう場所よ」
スバルは何も言い返せなかった。
やがて、エミリアが墓所へ足を踏み入れた。
一歩。
二歩。
その白い背中が、闇の中へ沈んでいく。
外で待つ者たちのざわめきが消えた。
聖域の住民。
ガーフィール。
オットー。
ロズワールの言葉を知る者。
知らない者。
全員が、墓所の入口を見つめている。
長い沈黙。
呼吸が苦しくなる。
そして。
奥から、エミリアの悲鳴が響いた。
「エミリア!」
スバルは反射的に走っていた。
「待ちなさい!」
ユイの声が飛ぶ。
けれど、足は止まらない。
ガーフィールが舌打ちする音が聞こえた。
オットーが何か叫んでいる。
全部、遠い。
墓所の中へ飛び込む。
冷たい空気が肺に刺さる。
奥に、エミリアがいた。
膝をついて、肩を震わせている。
目は開いているのに、スバルを見ていない。
何かを見ている。
ここではない場所。
彼女自身の過去。
「エミリアたん!」
手を伸ばした瞬間、空気が変わった。
墓所の内側が、低く鳴る。
石壁が遠ざかる。
視界が歪む。
足元から白い波が立ち上がり、スバルの体を包んだ。
ユイが後ろから駆け込んでくる。
「スバルくん!」
その声も、途中で遠ざかった。
何かが、スバルの意識を深く沈める。
過去と向き合え。
言葉ではない。
けれど、意味だけが心へ突き刺さる。
スバルは抵抗しようとした。
エミリアへ手を伸ばそうとした。
だが、指先は空を掴み――。
世界が、白く途切れた。
次に目を覚ました時、スバルは自分の部屋にいた。
見慣れた天井。
見慣れた壁。
見慣れたポスター。
床に散らかった雑誌。
机の上に放置されたゲーム機。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
何もおかしくない。
いつもの部屋だ。
いつもの朝だ。
「……ん」
スバルは布団の中で寝返りを打つ。
頭がぼんやりしている。
何か夢を見ていた気がする。
けれど、内容が思い出せない。
白い髪。
銀の髪。
青い髪。
誰かの声。
どれも、起き抜けの霧の中で溶けていく。
階下から声がした。
「スバルー、起きてるかー?」
明るく、やたらと通る声。
父の声だ。
ナツキ・ケンイチ。
それを聞いても、スバルは特に驚かなかった。
驚く理由がない。
ここは自分の家で、今日は普通の朝なのだから。
「起きてねー」
布団の中から適当に返す。
すると、扉が勢いよく開いた。
「起きてないなら、起こすしかないな!」
「うおっ!?」
布団が剥がされる。
次の瞬間、父親が笑顔で飛び込んできた。
腕を取られ、体をねじられる。
寝起きの意識が一瞬で覚醒した。
「朝の親子スキンシップだ!」
「スキンシップの範囲を越えてんだろ! 関節技じゃねえか!」
「親子の絆は関節から深まる!」
「深まんねえよ!」
スバルは反射的に足を絡め、体勢を返そうとする。
だが、ケンイチは笑いながらそれを受け流した。
「甘いな、我が息子!」
「朝から元気すぎんだよ、親父!」
「父ちゃんは毎朝元気だ!」
「知ってるよ!」
いつものやり取り。
くだらなくて、騒がしくて、暑苦しい。
けれど、それが普通だった。
階下から、のんびりした声が聞こえてくる。
「ごはん、冷めちゃうよー」
母の声。
ナツキ・ナホコ。
ケンイチはぱっとスバルを解放した。
「母ちゃんのごはんを待たせるわけにはいかないな」
「だったら最初から普通に起こせよ……」
「起こしただろ?」
「襲撃だったろ」
「親子のふれあいだ」
「ふれあいの定義を見直せ」
スバルはぼやきながら立ち上がる。
体が重い。
それは寝起きのせいだと思った。
胸の奥に、小さな違和感がある。
けれど、それも夢の名残だろう。
そう処理した。
そして、その夢の名残のさらに外側。
現実の墓所で、ユイは片膝をついていた。
スバルの体は、冷たい石の床に倒れている。
エミリアも少し離れた場所で苦しげに呼吸をしている。
本来なら、ユイもすぐに二人を外へ引きずり出すべきだった。
けれど、墓所はそれを許さない。
空間が重い。
スバルとエミリアの周囲だけが、薄い膜に包まれている。
手を伸ばしても、届く直前で距離がずれる。
「……試練の内側」
ユイは小さく呟いた。
視線をスバルへ向ける。
彼は今、どこか別の場所にいる。
過去。
おそらく、彼自身の過去。
ユイは唇を結んだ。
覗くべきではない。
人の試練だ。
人の過去だ。
踏み込むべきではない。
そう思う一方で、胸の奥が疼く。
見たい。
スバルがどう壊れたのか。
どうしてあんなにも無茶をするのか。
なぜ、何度も折れながら立つのか。
その源を知りたい。
それは心配か、興味か、もっとたちの悪い欲か。
自分でも、明確には分けられなかった。
ユイは息を吐く。
「……少しだけ」
指先をスバルの方へ伸ばす。
直接触れるのではない。
自分という存在の輪郭を薄くする。
見る者の意識から、自分を“背景”へずらす。
事実に薄い飾りをかける。
そこにいる。
けれど、気づかれない。
触れている。
けれど、干渉していない。
虚飾。
ユイの力が、墓所の白い膜へ静かに重なった。
普通なら弾かれる。
だが、ユイの虚飾は、弾かれたという事実の上に薄布をかける。
そこにいないものとして。
試練の邪魔をしないものとして。
ただ、景色の端に紛れ込む影として。
ユイの視界に、別の光景が滲み始めた。
畳の匂い。
朝の光。
散らかった部屋。
そして、父親に関節を極められながら叫ぶスバル。
ユイは思わず目を瞬かせた。
「……元気ね」
声は試練の中には届かない。
スバルにも、ケンイチにも聞こえない。
ユイは観客席にいる。
舞台の裏から、隙間越しに覗いている。
そんな感覚だった。
そのさらに奥。
白い闇の縁で、誰かが笑った。
エキドナだった。
白い髪の魔女は、ユイの隣に立っているわけではない。
姿もはっきりしない。
けれど、気配だけがある。
見つけている。
ユイが虚飾を使ってスバルの試練を覗き見ていることを、完全に見抜いている。
――覗き見とは、なかなか悪趣味だね。
声はない。
けれど、そう言われた気がした。
ユイは目を細める。
「あなたにだけは言われたくないわ」
それもまた、声にはしない。
エキドナは笑っている。
しかし、スバルへは何も言わない。
試練の中のスバルにも、父にも、母にも、ユイの存在を明かさない。
ただ、面白がっている。
ユイは、その黙認を受け取った。
不快ではある。
だが、利用できるなら利用する。
そういう意味では、自分も強欲の魔女に近いのかもしれない。
考えて、すぐに打ち消した。
食卓には、母がいた。
「おはよう、スバル」
「おはよ」
ナホコは、いつものふわふわした調子で笑う。
食卓には朝食が並んでいた。
ただし、スバルの前に置かれた皿には、やけに大量の豆が盛られている。
「……母さん」
「なあに?」
「これは?」
「豆」
「見りゃわかる」
「体にいいよ」
「体によくても量ってものがあるだろ」
「いっぱい体によくなるね」
「理論が雑!」
ケンイチが横で大げさに笑う。
「食え、スバル! 母ちゃんの愛だ!」
「愛が重いんだよ!」
「愛は重いものだ」
「親父が言うと物理的に聞こえる!」
そんな会話をしながら、朝食が進む。
豆はいつの間にかケンイチの皿へ移動し、さらに母の謎の判断で別の料理に混ざっていく。
何もかもが、いつもの家だった。
うるさい父。
少しずれた母。
突っ込む自分。
平和な朝。
なのに、スバルは時々、箸を止めた。
胸が痛む。
理由はわからない。
何か大切なことを忘れている気がする。
けれど、思い出そうとすると、頭の奥がちくりと痛んだ。
ユイは、それを見ていた。
スバルがまだ思い出していないことも、見ていればわかる。
彼は本当に、今この瞬間を“元の朝”として受け取っている。
試練だと気づいていない。
聖域も、エミリアも、レムも、まだ深い場所に沈んでいる。
だからこそ、痛い。
これは過去を見せるだけの試練ではない。
彼に、戻れたかもしれない日常をもう一度渡している。
その上で、選ばせる。
ユイは無意識に指を握った。
悪趣味。
だが、効果的だ。
「スバル?」
ナホコが首を傾げる。
「眠い?」
「まあ、そんなとこ」
「眠い時は、ちゃんと噛むといいよ」
「眠気と咀嚼に関係ある?」
「あるような、ないような」
「どっちだよ」
ケンイチがじっとスバルを見た。
いつもの笑顔。
けれど、目だけは少し違う。
「スバル」
「なんだよ」
「食ったら、父ちゃんと散歩だ」
「散歩?」
「ああ。男同士の話ってやつだ」
「そういうの、父親が言うとだいたい面倒なやつなんだけど」
「面倒な話を面倒じゃなく聞かせるのが父ちゃんの腕の見せ所だな」
「腕の見せ所多すぎんだよ、親父は」
軽口は返せる。
けれど、胸の違和感は消えなかった。
朝食の後、スバルは父と家を出た。
見慣れた住宅街。
電柱。
アスファルト。
自販機。
遠くを走る車の音。
何もかもが当然の景色だった。
当然のはずなのに、どこか遠い。
まるで、長い旅の果てに、ようやく思い出した場所のようだった。
ユイは二人の少し後ろを歩いていた。
もちろん、二人には見えていない。
スバルが振り返っても、そこにユイはいないことになっている。
ケンイチが横を見ても、視線はユイを素通りする。
虚飾で自分を薄くしたまま、ユイは静かに歩く。
スバルの生まれた街。
スバルのいた世界。
見たことのない景色なのに、彼の表情から、そこがどれほど重い場所かは伝わってくる。
「で、どうだ」
ケンイチが、隣で唐突に言った。
「何が」
「好きな子はできたか」
「いきなりそれかよ!」
「父ちゃんとしては重要事項だ」
「重要の方向性がおかしい」
「若者の青春は大事だぞ」
スバルは呆れたように返そうとした。
その瞬間、頭の奥が鋭く痛んだ。
「っ……」
足が止まる。
視界が一瞬だけ揺れる。
銀の髪。
紫紺の瞳。
柔らかい声。
スバル。
誰かが、自分の名前を呼んだ気がした。
ユイの視界にも、ほんの一瞬だけ銀色が走った。
エミリア。
スバルの記憶が、外側から叩かれている。
「スバル?」
ケンイチが振り返る。
「どうした?」
「いや……なんでもねえ」
スバルは額を押さえた。
何かがある。
何かを忘れている。
好きな子。
その言葉に、胸が反応した。
けれど、名前が出てこない。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫だって」
「大丈夫って顔じゃないぞ」
「顔で判断すんなよ」
「父ちゃんだからな。顔ぐらい見る」
ケンイチは、公園のベンチを指さした。
「座るか」
「……ああ」
二人はベンチに腰を下ろした。
木々が揺れている。
子どもの頃、ここで父と遊んだ記憶がある。
走って、転んで、負けて、悔しくて、また挑んだ。
父はいつも大きかった。
明るくて、強くて、誰からも好かれて、どこでも中心にいた。
スバルは、そんな父に憧れていた。
ユイは、少し離れたブランコの傍に立つ。
揺れていないブランコ。
朝の公園。
親子。
ここは、彼の原点だ。
そう思った。
「お前、昔から父ちゃんの真似ばっかしてたよな」
ケンイチが言った。
「髪型とか、喋り方とか、妙なテンションとか」
「妙って言うな」
「妙だろ」
「否定できねえけど」
「父ちゃんみたいになりたかったんだろ?」
スバルは黙った。
その通りだった。
父みたいになりたかった。
父のように明るく。
父のように強く。
父のように誰からも好かれる人間になりたかった。
けれど、なれなかった。
最初は目立てた。
変なことをして、笑われて、すごいと言われて、それで満足していた。
だが、周囲が変わる。
自分だけが変われない。
同じことを繰り返し、滑り、浮き、居場所を失っていく。
学校へ行けなくなった。
朝になると、体が動かなくなった。
部屋に閉じこもり、父と母の声を聞かないふりをした。
それでも、父も母も責めなかった。
それが、余計につらかった。
「俺さ」
スバルは、膝の上で拳を握った。
「親父みたいになりたかったんだ」
「うん」
「でも、なれなかった」
「うん」
「真似しても、届かなかった。周りは俺じゃなくて、親父の息子って見てる気がして。勝手に比べて、勝手に折れて、勝手に逃げた」
言葉が止まらない。
自分でも、なぜ今こんな話をしているのかわからない。
けれど、言わなければならない気がした。
「学校にも行けなくなった。母さんにいってきますも言わずに、部屋に逃げて。親父にも母さんにも、何も返せなかった」
「うん」
「俺、ずっと逃げてた」
ケンイチは茶化さなかった。
ただ、隣で聞いている。
それが、ありがたくて苦しかった。
ユイはその横顔を見ていた。
スバルが普段、どれだけ大げさに笑っても、どれだけふざけても、その根にはこれがある。
父のようになれなかったこと。
自分の価値を見失ったこと。
逃げたこと。
その逃げた自分を、まだ許せていないこと。
ユイは口を開きかけて、閉じた。
ここで言葉を挟むことはできない。
そもそも、届かない。
届かせてはいけない。
これはスバルの試練だ。
自分は覗き見ているだけ。
「ごめん」
スバルは言った。
「俺、ずっと迷惑かけてた。何もできなくて、何も返せなくて、それで……」
そこまで言った時、また頭が痛んだ。
今度は、さっきより強い。
銀の髪。
白い服。
膝をつく少女。
墓所。
聖域。
ロズワール。
レム。
青い髪の少女。
自分を信じてくれた声。
スバル君。
そして、エミリアの声。
スバル。
「――っ!」
スバルは胸を押さえた。
思い出す。
少しずつ。
ここは現実ではない。
墓所の中だ。
試練だ。
エミリアが悲鳴を上げ、自分は墓所へ飛び込んだ。
過去と向き合え。
そう言われた。
これは、自分の過去だ。
父と母。
逃げた日々。
言えなかった言葉。
置いてきた世界。
「……思い出した」
スバルは掠れた声で呟いた。
「俺、行かなきゃいけない場所がある」
ケンイチは黙っている。
まるで、最初からそれを知っていたような顔で。
「好きな子もいる」
「そうか」
「大事な人もいる。俺を信じてくれた人がいる。俺が守りたい人がいる。助けなきゃいけない人たちがいる」
「そうか」
「でも、俺……親父と母さんに何も言わずにいなくなった」
声が震える。
「あの日、母さんにいってらっしゃいって言われたのに、俺、返さなかった。何も言わずに出て、それで……もう戻れないかもしれない」
ケンイチは、ゆっくり息を吐いた。
「スバル」
「……なんだよ」
「お前は、父ちゃんに何かを返すために生まれてきたわけじゃない」
スバルの喉が詰まる。
「親ってのはな、子どもに何かしてもらいたくて親をやってるんじゃない。勝手に生んで、勝手に育てて、勝手に心配して、勝手に喜んでるだけだ」
「でも、俺は……」
「でもも何もない」
ケンイチは、スバルの頭に手を置いた。
昔と同じ、大きな手。
「父ちゃんは、お前が父ちゃんみたいになれなかったからって、がっかりしたことはない」
「……」
「お前はお前だ。ナツキ・スバルだ。父ちゃんの続きじゃない」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
ずっと欲しかった言葉だった。
けれど、聞くのが怖かった言葉でもあった。
ユイは、目を伏せる。
温かい言葉だった。
痛いほどに。
スバルがここで救われることを、彼女は願っていた。
願っている自分に、少しだけ驚いた。
曇らせを見るのが好き。
壊れかけた人間が、それでも立つ姿を見るのが好き。
そう思っていた。
けれど、今は。
この親子の会話を、茶化せなかった。
「俺、戻れないかもしれない」
「ああ」
「親孝行も、できないかもしれない」
「ああ」
「それでも、行っていいのかよ」
ケンイチは笑った。
いつものように明るく。
けれど、目元だけ少し優しく。
「行くんだろ?」
「……行く」
「なら行け。胸張って行け。うちの息子が、誰かのために走るって決めたなら、父ちゃんは止めない」
スバルの視界が滲む。
「親父」
「ただし」
ケンイチは人差し指を立てる。
「母ちゃんにはちゃんと言えよ」
「何を」
「いってきます、だ」
その言葉に、スバルの胸がまた痛んだ。
あの日、言えなかった言葉。
ずっと残っていた後悔。
スバルは袖で涙を拭った。
「……ああ」
帰り道、父はいつものようにくだらない話をした。
スバルも突っ込んだ。
泣いた顔をごまかすように。
ケンイチは気づいていたはずだ。
それでも、触れなかった。
家に戻ると、母が玄関先で待っていた。
「遅かったね」
「父と息子の大事な話をしてた」
ケンイチが胸を張る。
ナホコは首を傾げた。
「そうなの?」
「そうだ」
「じゃあ、お昼は何にしようか」
「切り替え早いな、母さん」
「お昼は大事だから」
いつもの調子。
その柔らかさに、スバルは笑ってしまった。
今度は、少し自然に。
それから、スバルは制服に着替えた。
学校へ向かう。
そこもまた、自分が逃げた場所だ。
行けなくなった場所。
止まってしまった場所。
試練は、そこへ行けと言っているのだろう。
玄関で靴を履く。
母が横に立っている。
父は少し離れて、腕を組みながら見ている。
「スバル」
ナホコが言った。
「気をつけてね」
普通の言葉。
いつもの言葉。
あの日、自分が返せなかった言葉に続くもの。
スバルは立ち止まった。
振り返る。
母を見る。
父を見る。
「母さん」
「なあに?」
「俺、たぶん、親孝行できない」
ナホコは目を瞬かせた。
「そっか」
「戻れないかもしれない。もう、二人の老後の面倒とか、そういうの、できないかもしれない」
「うん」
「ごめん」
ナホコは、少しだけ考えるように首を傾げた。
そして、いつもの柔らかな声で言った。
「スバルが元気でいてくれたらいいよ」
「……」
「お父さんもお母さんも、スバルに何かを返してほしくて一緒にいたわけじゃないから」
父と似たようなことを、母は母の言葉で言った。
それがまた、スバルの胸を揺らした。
「でも、心配はするよ」
「うん」
「だから、行くなら気をつけてね」
ナホコは笑った。
スバルは涙をこらえきれなかった。
「……いってきます」
ようやく言えた。
あの日、言えなかった言葉。
ずっと残っていた後悔。
それを、今。
母は嬉しそうに笑った。
「いってらっしゃい」
父も、玄関の奥で大きく手を振る。
「行ってこい、スバル!」
「ああ!」
スバルは玄関を出た。
朝の光が眩しい。
制服の袖で涙を拭う。
足は、学校へ向かっていた。
逃げ続けた場所へ。
過去と向き合うために。
けれど、もう一人ではなかった。
父の言葉。
母の声。
そして、思い出した名前たち。
エミリア。
レム。
ユイ。
オットー。
ラム。
聖域に残された人々。
全部が、スバルの背中を押している。
ユイは、その後ろ姿を見送った。
虚飾で隠れたまま。
誰にも見えない観客として。
だが、その胸の奥だけは、少しだけ乱れていた。
「……あなたは、そうやって立つのね」
声はスバルには届かない。
届かせる気もない。
その時、背後に白い気配が生まれた。
振り返らなくてもわかる。
エキドナだ。
白い髪の魔女は、姿を完全には現さない。
けれど、その好奇心だけは濃く漂っている。
――見てしまったね。
そう言われた気がした。
ユイは前を向いたまま、唇だけを動かす。
「ええ」
――彼には言わないのかい?
「言う理由がないわ」
――君は優しいのか、残酷なのか、判断に困る。
「判断しなくていい」
――無理だよ。僕は知りたい。
「でしょうね」
エキドナは笑う。
ユイの虚飾も、試練の隙間から覗いたことも、すべて見抜いている。
それでも、スバルには明かさない。
なぜなら、その方が面白いから。
ユイにも、それはわかった。
「悪趣味ね」
声には出さない。
エキドナにも、声としては届かない。
それでも、魔女は笑っている。
ユイはスバルの背中を見る。
学校へ向かう彼は、まだ試練の途中にいる。
親に向き合い、言えなかった言葉を言った。
けれど、逃げ続けた場所はまだ残っている。
教室。
学校。
自分が止まった場所。
そこへ行って、ようやく第一の試練は形を成す。
墓所の現実では、スバルの指がわずかに動いた。
ユイは虚飾を解かない。
もう少しだけ、見る。
彼がどこまで自分の過去を背負い直すのか。
それを、最後まで見届けるために。
第一の試練は、まだ続いていた。