学校へ向かう道は、やけに静かだった。
朝の光。
見慣れた通学路。
電柱の影。
アスファルトの匂い。
遠くで鳴る自転車のベル。
どれも知っている。
知っているはずなのに、ひどく遠い。
スバルは、制服の袖を握った。
重い。
ただの布が、鎧みたいに重い。
でも、今は脱ぎ捨てたいとは思わなかった。
父に言った。
母に言った。
行ってくる、と。
なら、行かなければならない。
行って、終わらせなければならない。
逃げ続けた場所へ。
置き去りにした自分へ。
スバルは校門の前で足を止めた。
胸の奥が冷える。
ここから先へ進めなかった。
何度も、何度も。
靴を履いて玄関までは行けた日もある。
制服に袖を通せた日もある。
鞄を持てた日もある。
けれど、ここまで来ることはほとんどなかった。
来られたとしても、中へ入れなかった。
それが、今、目の前にある。
「……行くぞ」
誰に向けた言葉でもなかった。
自分に向けた言葉だった。
スバルは一歩を踏み出す。
校門を越える。
その瞬間、足元の影がわずかに揺れた。
けれど、世界は消えない。
まだ終わりではない。
校舎へ向かう。
廊下を歩く。
誰もいない。
生徒の声も、教師の声も、足音もない。
学校という形をしているのに、学校の中身だけが抜け落ちている。
スバルは、自分の教室の前で立ち止まった。
手を伸ばす。
扉に触れる。
指先が震えていた。
情けない。
そう思う。
けれど、その震えを否定しなかった。
怖いものは怖い。
逃げた場所なのだから、怖くて当たり前だ。
スバルは深く息を吸った。
父の声を思い出す。
母の声を思い出す。
エミリアの声を思い出す。
レムの声を思い出す。
そして、ユイの声も思い出す。
倒れないで。
順番を決めなさい。
立って。
スバルは扉を開けた。
教室の中は、朝の光に満ちていた。
机が並んでいる。
黒板がある。
窓際のカーテンが、風もないのにかすかに揺れている。
誰もいない。
そのはずだった。
ただ一人。
窓際の席に、白い髪の少女が座っていた。
黒い衣。
整いすぎた顔。
人間のようで、人間ではない空気。
スバルは眉をひそめる。
記憶の奥で、白い草原と茶の香りがかすかに揺れた。
「……お前」
少女は微笑んだ。
「やあ、ナツキ・スバル」
その声を聞いた瞬間、曖昧だったものが少しだけ輪郭を取り戻す。
強欲の魔女。
エキドナ。
完全には思い出せない。
けれど、自分はこの相手と一度会っている。
そう理解した。
「ここで待ってたのかよ」
「待っていた、と言うより、ここが終点だからね」
エキドナは席に座ったまま、楽しげに頬杖をつく。
「第一の試練。過去と向き合うこと。君はそこへ至り、ここまで歩いてきた」
「……覗いてたのか」
「試験官だからね」
「趣味が悪い」
「それは否定しないよ」
「否定しろよ、少しは」
スバルは教室の中へ入る。
一歩ずつ。
昔の自分が恐れていた場所。
その教室の中で、スバルは白い魔女と向かい合った。
「親父と母さんに会った」
「見ていたよ」
「本当に最悪だな」
「そうかな。君にとって必要な時間だったはずだ」
「必要だったよ」
スバルは、素直に認めた。
「最悪で、しんどくて、逃げ出したくて、でも必要だった」
「いい答えだ」
エキドナは目を細める。
「君は、自分の過去を否定しなかった。逃げた自分も、父に憧れた自分も、母に言葉を返せなかった自分も、全部抱え直した」
「勝手にまとめんな」
「不正確だったかな?」
「……合ってるのが腹立つ」
エキドナは、くすりと笑う。
「君は自分を嫌っている。けれど、君を生んだ者たちは、君を嫌っていなかった。それを知ることは、君にとって大きい」
「わかってる」
スバルは拳を握る。
「俺は、親父にも母さんにも、何も返せないかもしれない。もう二度と会えないかもしれない。でも、それでも……行けって言ってもらえた」
「だから、行く?」
「ああ」
スバルは、まっすぐエキドナを見る。
「俺には、戻らなきゃいけない場所がある。助けたい人がいる。取り戻したい人がいる。待たせてる奴らがいる」
その言葉に、エキドナの瞳が細くなる。
「君は多くのものを抱えている。失ったもの。忘れられたもの。眠ったままのもの。まだ救えるかもしれないもの」
スバルの表情が硬くなった。
エキドナは、特定の名を出さなかった。
それでも、スバルにはわかる。
胸の奥で眠る青い髪の少女。
誰も覚えていない名前。
自分だけが、まだ手放していない存在。
「……言われなくても、わかってる」
「そうだろうね」
「俺は忘れねえ」
その声は低かった。
「誰が忘れても、俺だけは忘れねえ。だから、戻る。戻って、全部どうにかする」
「全部、か」
「笑うなよ」
「笑わないよ。今の君の欲は、とても興味深い」
「そういうところが最悪なんだよ」
スバルは吐き捨てた。
けれど、立っている。
目を逸らしていない。
エキドナは、その姿を満足そうに見ていた。
「エミリアも待っている」
エキドナが言う。
今度は、スバルはすぐに反応した。
墓所で膝をついていた姿が頭をよぎる。
泣いていた。
震えていた。
何かに怯えていた。
スバルは自分の過去を越えた。
けれど、エミリアはまだ越えられていない。
それを思い出して、胸が苦しくなる。
「エミリアたんは、まだ……」
「彼女の試練は、君のものとは違う」
エキドナは静かに言った。
「君が見た過去には、君を送り出す者たちがいた。だが、彼女の過去が同じように優しいとは限らない」
「知ってるのか」
「僕は試練を司る者だからね」
「だったら、どうすればいい」
スバルは詰め寄った。
「エミリアたんを助けるには、どうすればいい。聖域を出るには、どうすればいい。ロズワールは何を考えてる。ガーフィールは何を――」
「一度に聞きすぎだよ」
「こっちは時間がねえんだよ」
「時間はある。少なくとも、君が思っているよりはね」
「そういう言い方をする奴は、大体大事なことを隠してる」
「鋭いね」
「褒めんな」
エキドナは肩をすくめる。
「答えをすべて与えることはできない。試練は、本人が向き合うものだ。君が代わりに彼女の過去を越えることはできない」
「でも、俺が試練を受けることはできるんだろ」
「君には資格がある」
「なら、俺が全部越えたら聖域は解放できるのか」
エキドナはすぐには答えなかった。
その沈黙が、スバルを苛立たせる。
「答えろよ」
「理屈の上では、可能性はある」
「なら――」
「だが、それで本当に君の望む結果になるかは別だ」
スバルは舌打ちした。
「ロズワールも似たようなこと言いそうだな」
「彼なら、きっとそう言うだろうね」
「やっぱり知ってんじゃねえか」
「知っていることと、語ることは別だよ」
「魔女ってのは全員そうなのか? 遠回しにしか話せない呪いでもあんのか」
「いいや。ただ、直接言うよりも、君が自分で辿り着く方が面白い」
「最悪だな!」
エキドナは楽しそうに笑った。
その笑い方が、やはり腹立たしい。
だが、スバルはもう、最初に会った時ほど飲まれてはいなかった。
父に会った。
母に会った。
自分の過去を見た。
それだけで、強くなったとは思わない。
でも、足元が少しだけ固まった。
エキドナの言葉に振り回されるだけでは終わらない。
「俺は戻る」
スバルは言った。
「エミリアたんが待ってる。ユイさんも、オットーも、ラムもいる。聖域の連中もいる。ロズワールに聞かなきゃならねえこともある」
「そうだね」
「試練は越えたんだろ」
「第一の試練はね」
「なら、出せ」
「せっかちだ」
「今さらだろ」
「確かに」
エキドナは席から立ち上がった。
教室の光が、白く濃くなる。
「ナツキ・スバル。君は第一の試練を越えた。自らの過去と向き合い、そこから目を逸らさなかった」
その声は、先ほどまでの軽さを少しだけ失っていた。
試験官の声。
魔女の声。
「君は次へ進む資格を得た」
「次、か」
「聖域を解放するには、まだ先がある」
「だろうな」
スバルは苦笑する。
「一回で終わらせてくれるほど、優しくねえもんな」
「よくわかっている」
「褒めんな」
「それも二度目だ」
「何度でも言う」
エキドナは微笑む。
その視線が、ほんの一瞬だけ教室の端へ向いた。
そこには、ユイがいた。
虚飾で隠れたまま。
スバルには見えない。
試練の一部でもない。
だが、たしかにそこにいる。
エキドナの目は、ユイを捉えていた。
ユイは無言で見返す。
言うな。
その視線だけで伝える。
エキドナは口元をわずかに緩めた。
言わない。
少なくとも、今は。
その沈黙が善意ではなく、興味から来るものだとわかっていても、ユイは今だけそれを受け入れた。
スバルには気づかれない。
スバルは、エキドナが一瞬だけ別の場所を見たことには気づかなかった。
「なあ」
スバルは言った。
「なんだい?」
「俺、親父と母さんに、ちゃんと言えたと思うか」
エキドナは少しだけ目を細めた。
「それを僕に聞くのかい?」
「聞いた俺が馬鹿だった」
「いいや。答えよう」
エキドナは、珍しく穏やかな声で言った。
「君は言えたよ。少なくとも、君自身が言うべきだと思っていた言葉は」
スバルは目を伏せる。
「……そっか」
「満足かい?」
「満足じゃねえよ」
スバルは笑った。
少しだけ泣きそうな顔で。
「でも、よかった」
「そうか」
「ああ」
教室の輪郭が薄れていく。
机が白くほどける。
黒板が光に溶ける。
窓の外の景色が、遠ざかる。
スバルは最後に、もう一度だけ教室を見た。
逃げた場所。
怖かった場所。
止まっていた場所。
でも、もう置いていかない。
その場所も、自分の一部だ。
「行ってくる」
誰にともなく、スバルは言った。
エキドナは微笑む。
「行ってらっしゃい、ナツキ・スバル」
白い光が弾けた。
次にスバルが目を開けた時、そこは墓所だった。
冷たい石の床。
湿った空気。
体に残る重さ。
そして、すぐ近くにいるユイ。
「……戻った、のか」
スバルは掠れた声で言った。
ユイは、何事もなかったような顔で頷く。
「ええ。戻ったわ」
その声を聞いた瞬間、スバルはようやく現実へ帰ってきた実感を得た。
父の家ではない。
母の声もない。
教室でもない。
聖域。
墓所。
エミリア。
「エミリアたん!」
スバルは跳ね起きようとして、体勢を崩した。
ユイが肩を支える。
「急に動かないで」
「エミリアたんは!?」
「まだ試練の中よ」
その言葉で、スバルの顔が強張る。
少し離れた場所で、エミリアが膝をついていた。
苦しげに肩を震わせている。
頬には涙。
唇は何かを拒むように小さく動いている。
スバルは歯を食いしばった。
「俺は……越えたのに」
「エミリア様の試練は、エミリア様のものよ」
「わかってる」
「なら、今あなたがすることを考えて」
スバルは深呼吸する。
父の声を思い出す。
母の声を思い出す。
ここでただ感情のままに動けば、また同じだ。
守りたいなら、考えろ。
支えたいなら、順番を間違えるな。
「声をかける」
「ええ」
「反応がなければ?」
「外へ運ぶ。これ以上長く中に置くのは危険」
「わかった」
スバルはエミリアの傍へ膝をつく。
「エミリア。聞こえるか。俺だ。スバルだ」
返事はない。
肩が震える。
「大丈夫だ。今すぐ越えろなんて言わねえ。怖いなら怖いでいい。泣いたっていい。だから、戻ってこい」
エミリアの唇がわずかに動いた。
「いや……」
幼い声だった。
スバルの胸が締めつけられる。
「やめて……見たくない……」
「エミリア!」
スバルは、そっと肩に触れた。
墓所の空気が一度強く揺れる。
拒むような圧。
けれど、スバルは手を離さなかった。
「俺だ。お前を無理やり連れ出しに来たんじゃねえ。戻る場所を教えに来た」
エミリアの瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……ス、バル?」
「ああ。俺だ」
スバルは頷く。
「戻ってこい、エミリア」
だが、次の瞬間、エミリアの顔が苦痛に歪んだ。
「だめ……私、まだ……」
そのまま、体から力が抜ける。
スバルは咄嗟に抱き止めた。
「エミリア!」
「限界よ」
ユイが短く言う。
「外へ出すべき」
スバルは歯を食いしばる。
エミリアを抱き上げた。
軽い。
驚くほど軽い。
「悪い、エミリア。今は連れてく」
ユイが先導する。
墓所の出口へ向かう足取りは重い。
スバル自身も試練から戻ったばかりで、体の芯がぐらついている。
それでも、倒れられない。
出口の光が見えた。
外へ出ると、夜気が肌を刺した。
墓所の前には、ガーフィールがいた。
腕を組み、金の瞳でこちらを睨んでいる。
周囲には聖域の住人たちも集まっていた。
彼らの視線が、スバルの腕の中のエミリアへ集中する。
「……駄目だったのか」
ガーフィールの声は低い。
スバルの眉が動く。
「駄目って決めつけんな」
「見りゃわかるだろ。試練を越えた顔じゃねぇ」
「今夜は、越えられなかっただけだ」
「同じことだろうが」
「同じじゃねえ」
スバルはエミリアを抱えたまま、ガーフィールを睨んだ。
「一回倒れたら終わりなのか。怖がったら資格なしなのか。そんなわけねえだろ」
「聖域の連中は待ってんだよ」
「わかってる」
「本当にわかってんのかよ」
「わかってるから、言ってんだ!」
声が夜に響いた。
住人たちのざわめきが一瞬止まる。
「こいつは鍵じゃねえ。道具でもねえ。エミリアだ。怖がっても、倒れても、また立てる。俺はそう信じる」
ガーフィールは黙った。
その目には、まだ敵意がある。
けれど、さっきまでのように噛みつく勢いは少しだけ薄れていた。
「……綺麗事だな」
「ああ。綺麗事だ」
スバルは言い切った。
「でも、綺麗事を捨てたら、俺は俺でいられねえ」
ガーフィールは舌打ちした。
「連れてけ。倒れた奴を墓所に置いとく趣味はねぇ」
「最初からそう言え」
「調子に乗んな」
敵意は消えない。
だが、道は開いた。
ユイはスバルの横へつき、住人たちの視線を静かに見返した。
責める視線。
不安な視線。
落胆した視線。
その全てを受け止めながら、彼女は言った。
「今夜は休ませます。明日以降、改めて考えます」
誰に向けた言葉かは曖昧だった。
ガーフィールへ。
住人へ。
スバルへ。
建物へ戻ると、ラムが待っていた。
彼女はエミリアの姿を見て、眉をわずかに動かす。
「やはり、簡単にはいかないのね」
「ラム」
「寝室へ。ロズワール様にはラムから伝えるわ」
「いや、俺も行く」
「その顔で?」
「どんな顔だよ」
「今すぐロズワール様の顔面を殴りたい顔」
「……否定はしねえけど、殴らねえよ」
「信用できないわね」
ラムはそう言いながらも、エミリアを寝かせる準備を始めた。
ユイも手伝う。
布を替え、水を用意し、エミリアの呼吸を確認する。
スバルは寝台の横に座り込んだ。
「エミリアたん」
呼びかけても、返事はない。
苦しげな表情は、少しだけ和らいでいる。
それでも、瞼の奥ではまだ何かを見ているようだった。
「俺、ちょっとだけ進めた」
スバルは小さく言った。
「だから、お前も大丈夫だなんて、簡単には言わねえ。でも、次は一緒に考える。一人にはしねえ」
ユイはその言葉を聞きながら、手を止めない。
スバルの頬には、まだ涙の跡が残っている。
彼は、自分が見られていたことを知らない。
父と母との会話も。
教室でエキドナと向き合ったことも。
校門を越えた瞬間も。
全部、自分だけのものだと思っている。
そうであるべきなのだ。
「ユイさん」
スバルが顔を上げる。
「俺、試練を越えた」
「ええ」
「親父と、母さんに会った」
ユイの指が、ほんのわずかに止まる。
すぐに動かす。
知らないふり。
聞いているふり。
初めて知ったふり。
「そう」
「言えなかったこと、言ってきた。いってきますって、ちゃんと言えた」
「……よかったわね」
「ああ」
スバルは顔を伏せた。
「よかった」
その声は、本当に小さかった。
ユイの胸が痛んだ。
覗いたことを後悔しているのか。
それとも、見届けられたことに満足しているのか。
自分でもわからない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
このことをスバルには言えない。
少なくとも、今は。
ロズワールの部屋へ向かう廊下は、静かだった。
スバル、ユイ、ラム。
少し後ろに、ガーフィールの気配もある。
あからさまについてきているわけではない。
だが、こちらを警戒しているのはわかった。
ロズワールは、寝台の上で変わらず包帯に巻かれていた。
それでも、笑みだけはいつも通りだ。
「おや、戻ったようだねぇ」
その声を聞いた瞬間、スバルの拳が固まりかける。
ユイが小さく言った。
「順番」
「……わかってる」
スバルは深呼吸する。
「エミリアは倒れた。試練は越えられてない」
「だろぉねぇ」
「その言い方やめろ」
「初めから簡単ではないと思っていた、という意味だよ」
「お前、本当に……」
スバルは言葉を噛み殺す。
怒鳴るな。
聞け。
順番だ。
「俺は越えた」
その言葉に、ロズワールの目がわずかに開いた。
「ほぉ」
「第一の試練。自分の過去を見た。越えた」
「素晴らしい」
ロズワールは、ゆっくりと笑った。
「やはり君には資格があった」
「なら、俺が代わりに越えればいいのか」
空気が止まる。
ラムがスバルを見る。
廊下側の気配も、わずかに濃くなる。
ロズワールだけが笑っていた。
「理屈としては、可能性はある」
「なら――」
「けれど、それでは意味が薄い」
ロズワールの声は静かだった。
「聖域を解放することだけが目的ならば、君が試みる道もあるだろう。だが、エミリア様が王選候補として立つためには、彼女自身が試練を越える必要がある」
「またそれか」
「大事なことだよ」
「エミリアが壊れてもか?」
スバルの声が低くなる。
「王選のためなら、あいつを何度でも墓所に放り込むのか」
「スバルくん」
ロズワールの声から、わずかに茶化す色が消える。
「彼女は、それを選ぶだろう」
「それと、お前が追い込むのは別だ」
「追い込む?」
「違うのかよ」
スバルは一歩前に出る。
「お前は、エミリアが試練を受けるしかない状況を作ってる。村人を聖域に置いて、結界を解くには試練しかないって言って、王選候補なら越えろって空気にしてる」
ロズワールは答えない。
笑みだけが残る。
それが、スバルの苛立ちをさらに煽った。
「お前は何を知ってる。何を狙ってる」
「今は、まだ話す時ではないねぇ」
「またそれかよ」
ユイは、その答えを聞きながらロズワールを見ていた。
知らないわけではない。
彼が何を望み、何を待ち、どこへスバルたちを追い込もうとしているのか。
ユイは知っている。
けれど、それを今ここで暴けば、盤面が崩れる。
ロズワールは疑われるだけでは止まらない。
むしろ、疑われることすら予定に含めている。
だから、ユイは知らないふりをする。
知らないふりをしながら、必要なところだけをずらす。
「少なくとも、今夜エミリア様に二度目を受けさせるべきではありません」
ユイが横から口を挟む。
ロズワールの視線がユイへ移る。
「理由は?」
「消耗が大きすぎます。意識は戻っていない。精神的な負荷も不明。続ければ、試練に向き合う前に壊れる可能性があります」
「君は、随分と彼女を庇うねぇ」
「庇っているのではなく、状況を見ています」
「冷静だ」
「冷静でなければ、あなたと話せません」
ロズワールは愉快そうに笑った。
「なるほど。それで?」
「明日以降、情報を整理した上で再挑戦するべきです。その間に、スバルくんが試練で得た感覚、エミリア様の反応、墓所の条件を確認する」
「合理的だねぇ」
「合理的でなければ困る状況です」
スバルはユイを見る。
助かった。
自分だけなら、今の会話は怒りで押し潰していたかもしれない。
ロズワールはしばらく黙り、それから肩をすくめるように微笑んだ。
「いいだろう。今夜は休むといい」
「言われなくてもそうする」
「ただし、スバルくん」
「なんだよ」
「君が試練を越えられたからといって、エミリア様の役目が消えたわけではない」
「……わかってる」
「本当に?」
「わかってるって言ってんだろ」
スバルはそれだけ言って、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、壁を殴りたい衝動が込み上げる。
だが、殴らなかった。
拳を握りしめ、震える腕を下ろす。
ユイが横に立つ。
「殴らなかったわね」
「成長しただろ」
「ええ。少しずつね」
「少しずつかよ」
「一気に変わったら怖いでしょう」
「それもそうか」
スバルは息を吐いた。
怒りは残っている。
ロズワールへの疑念も、聖域への焦りも、レムへの痛みも、エミリアへの不安も。
全部残っている。
けれど、今は全部に押し潰されてはいない。
父に言われた。
行け、と。
母に言われた。
気をつけて、と。
なら、無茶をするだけでは駄目だ。
気をつけて進まなければならない。
「ユイさん」
「何?」
「さっき、戻った時に言っただろ。戻ったわねって」
「ええ」
「あれ、なんか……助かった」
ユイは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で答える。
「なら、言ってよかったわ」
「……ありがとな」
「ええ」
それだけで終わった。
余計な軽口はなかった。
スバルは少しだけ笑い、すぐにエミリアの部屋へ戻った。
彼女はまだ眠っていた。
苦しげな表情は少しだけ和らいでいる。
スバルは寝台の横に座る。
「エミリアたん」
声をかける。
「俺、ちょっとだけ前に進めた。だから、お前も大丈夫だなんて簡単には言わねえけど……一緒に考える。今度は一人にしねえ」
返事はない。
けれど、スバルはそれでよかった。
今は眠っていていい。
明日また、考えればいい。
どう支えるか。
どう試練に向き合うか。
どう聖域を解放するか。
どうロズワールの意図を暴くか。
どうレムを取り戻すか。
順番を決めて、一つずつ。
ユイは窓辺には行かなかった。
墓所の方角も見なかった。
ただ、部屋の隅で椅子に腰を下ろし、眠るエミリアと、その傍にいるスバルを見ていた。
ロズワールの思惑は知っている。
聖域でこれから何が起きるかも、おおよそ知っている。
だが、知っていることと、今すぐ正解を選べることは違う。
下手に動けば、ロズワールは別の手を打つ。
ガーフィールは疑う。
エミリアは追い詰められる。
スバルは自分を責める。
だから、ユイは考える。
知っている未来の中で、何を守るべきか。
スバルを守る。
エミリアを守る。
レムを取り戻す道を守る。
聖域にいる人々を、できる限り守る。
壊さずに。
見失わずに。
ただ見ているだけではなく、守るために動く。
聖域の一日目は、静かに終わっていく。
スバルは第一の試練を越えた。
エミリアは、まだ越えられていない。
ロズワールは、予定通りに盤面を進めようとしている。
ガーフィールは、まだこちらを信用していない。
そしてユイは、知らないふりの仮面をかぶったまま、次に動くべき一手を探していた。
夜は深くなっていく。
聖域の解放は、まだ遠い。