Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

35 / 47
第三十五話 試練

 学校へ向かう道は、やけに静かだった。

 

 朝の光。

 

 見慣れた通学路。

 

 電柱の影。

 

 アスファルトの匂い。

 

 遠くで鳴る自転車のベル。

 

 どれも知っている。

 

 知っているはずなのに、ひどく遠い。

 

 スバルは、制服の袖を握った。

 

 重い。

 

 ただの布が、鎧みたいに重い。

 

 でも、今は脱ぎ捨てたいとは思わなかった。

 

 父に言った。

 

 母に言った。

 

 行ってくる、と。

 

 なら、行かなければならない。

 

 行って、終わらせなければならない。

 

 逃げ続けた場所へ。

 

 置き去りにした自分へ。

 

 スバルは校門の前で足を止めた。

 

 胸の奥が冷える。

 

 ここから先へ進めなかった。

 

 何度も、何度も。

 

 靴を履いて玄関までは行けた日もある。

 

 制服に袖を通せた日もある。

 

 鞄を持てた日もある。

 

 けれど、ここまで来ることはほとんどなかった。

 

 来られたとしても、中へ入れなかった。

 

 それが、今、目の前にある。

 

「……行くぞ」

 

 誰に向けた言葉でもなかった。

 

 自分に向けた言葉だった。

 

 スバルは一歩を踏み出す。

 

 校門を越える。

 

 その瞬間、足元の影がわずかに揺れた。

 

 けれど、世界は消えない。

 

 まだ終わりではない。

 

 校舎へ向かう。

 

 廊下を歩く。

 

 誰もいない。

 

 生徒の声も、教師の声も、足音もない。

 

 学校という形をしているのに、学校の中身だけが抜け落ちている。

 

 スバルは、自分の教室の前で立ち止まった。

 

 手を伸ばす。

 

 扉に触れる。

 

 指先が震えていた。

 

 情けない。

 

 そう思う。

 

 けれど、その震えを否定しなかった。

 

 怖いものは怖い。

 

 逃げた場所なのだから、怖くて当たり前だ。

 

 スバルは深く息を吸った。

 

 父の声を思い出す。

 

 母の声を思い出す。

 

 エミリアの声を思い出す。

 

 レムの声を思い出す。

 

 そして、ユイの声も思い出す。

 

 倒れないで。

 

 順番を決めなさい。

 

 立って。

 

 スバルは扉を開けた。

 

 教室の中は、朝の光に満ちていた。

 

 机が並んでいる。

 

 黒板がある。

 

 窓際のカーテンが、風もないのにかすかに揺れている。

 

 誰もいない。

 

 そのはずだった。

 

 ただ一人。

 

 窓際の席に、白い髪の少女が座っていた。

 

 黒い衣。

 

 整いすぎた顔。

 

 人間のようで、人間ではない空気。

 

 スバルは眉をひそめる。

 

 記憶の奥で、白い草原と茶の香りがかすかに揺れた。

 

「……お前」

 

 少女は微笑んだ。

 

「やあ、ナツキ・スバル」

 

 その声を聞いた瞬間、曖昧だったものが少しだけ輪郭を取り戻す。

 

 強欲の魔女。

 

 エキドナ。

 

 完全には思い出せない。

 

 けれど、自分はこの相手と一度会っている。

 

 そう理解した。

 

「ここで待ってたのかよ」

 

「待っていた、と言うより、ここが終点だからね」

 

 エキドナは席に座ったまま、楽しげに頬杖をつく。

 

「第一の試練。過去と向き合うこと。君はそこへ至り、ここまで歩いてきた」

 

「……覗いてたのか」

 

「試験官だからね」

 

「趣味が悪い」

 

「それは否定しないよ」

 

「否定しろよ、少しは」

 

 スバルは教室の中へ入る。

 

 一歩ずつ。

 

 昔の自分が恐れていた場所。

 

 その教室の中で、スバルは白い魔女と向かい合った。

 

「親父と母さんに会った」

 

「見ていたよ」

 

「本当に最悪だな」

 

「そうかな。君にとって必要な時間だったはずだ」

 

「必要だったよ」

 

 スバルは、素直に認めた。

 

「最悪で、しんどくて、逃げ出したくて、でも必要だった」

 

「いい答えだ」

 

 エキドナは目を細める。

 

「君は、自分の過去を否定しなかった。逃げた自分も、父に憧れた自分も、母に言葉を返せなかった自分も、全部抱え直した」

 

「勝手にまとめんな」

 

「不正確だったかな?」

 

「……合ってるのが腹立つ」

 

 エキドナは、くすりと笑う。

 

「君は自分を嫌っている。けれど、君を生んだ者たちは、君を嫌っていなかった。それを知ることは、君にとって大きい」

 

「わかってる」

 

 スバルは拳を握る。

 

「俺は、親父にも母さんにも、何も返せないかもしれない。もう二度と会えないかもしれない。でも、それでも……行けって言ってもらえた」

 

「だから、行く?」

 

「ああ」

 

 スバルは、まっすぐエキドナを見る。

 

「俺には、戻らなきゃいけない場所がある。助けたい人がいる。取り戻したい人がいる。待たせてる奴らがいる」

 

 その言葉に、エキドナの瞳が細くなる。

 

「君は多くのものを抱えている。失ったもの。忘れられたもの。眠ったままのもの。まだ救えるかもしれないもの」

 

 スバルの表情が硬くなった。

 

 エキドナは、特定の名を出さなかった。

 

 それでも、スバルにはわかる。

 

 胸の奥で眠る青い髪の少女。

 

 誰も覚えていない名前。

 

 自分だけが、まだ手放していない存在。

 

「……言われなくても、わかってる」

 

「そうだろうね」

 

「俺は忘れねえ」

 

 その声は低かった。

 

「誰が忘れても、俺だけは忘れねえ。だから、戻る。戻って、全部どうにかする」

 

「全部、か」

 

「笑うなよ」

 

「笑わないよ。今の君の欲は、とても興味深い」

 

「そういうところが最悪なんだよ」

 

 スバルは吐き捨てた。

 

 けれど、立っている。

 

 目を逸らしていない。

 

 エキドナは、その姿を満足そうに見ていた。

 

「エミリアも待っている」

 

 エキドナが言う。

 

 今度は、スバルはすぐに反応した。

 

 墓所で膝をついていた姿が頭をよぎる。

 

 泣いていた。

 

 震えていた。

 

 何かに怯えていた。

 

 スバルは自分の過去を越えた。

 

 けれど、エミリアはまだ越えられていない。

 

 それを思い出して、胸が苦しくなる。

 

「エミリアたんは、まだ……」

 

「彼女の試練は、君のものとは違う」

 

 エキドナは静かに言った。

 

「君が見た過去には、君を送り出す者たちがいた。だが、彼女の過去が同じように優しいとは限らない」

 

「知ってるのか」

 

「僕は試練を司る者だからね」

 

「だったら、どうすればいい」

 

 スバルは詰め寄った。

 

「エミリアたんを助けるには、どうすればいい。聖域を出るには、どうすればいい。ロズワールは何を考えてる。ガーフィールは何を――」

 

「一度に聞きすぎだよ」

 

「こっちは時間がねえんだよ」

 

「時間はある。少なくとも、君が思っているよりはね」

 

「そういう言い方をする奴は、大体大事なことを隠してる」

 

「鋭いね」

 

「褒めんな」

 

 エキドナは肩をすくめる。

 

「答えをすべて与えることはできない。試練は、本人が向き合うものだ。君が代わりに彼女の過去を越えることはできない」

 

「でも、俺が試練を受けることはできるんだろ」

 

「君には資格がある」

 

「なら、俺が全部越えたら聖域は解放できるのか」

 

 エキドナはすぐには答えなかった。

 

 その沈黙が、スバルを苛立たせる。

 

「答えろよ」

 

「理屈の上では、可能性はある」

 

「なら――」

 

「だが、それで本当に君の望む結果になるかは別だ」

 

 スバルは舌打ちした。

 

「ロズワールも似たようなこと言いそうだな」

 

「彼なら、きっとそう言うだろうね」

 

「やっぱり知ってんじゃねえか」

 

「知っていることと、語ることは別だよ」

 

「魔女ってのは全員そうなのか? 遠回しにしか話せない呪いでもあんのか」

 

「いいや。ただ、直接言うよりも、君が自分で辿り着く方が面白い」

 

「最悪だな!」

 

 エキドナは楽しそうに笑った。

 

 その笑い方が、やはり腹立たしい。

 

 だが、スバルはもう、最初に会った時ほど飲まれてはいなかった。

 

 父に会った。

 

 母に会った。

 

 自分の過去を見た。

 

 それだけで、強くなったとは思わない。

 

 でも、足元が少しだけ固まった。

 

 エキドナの言葉に振り回されるだけでは終わらない。

 

「俺は戻る」

 

 スバルは言った。

 

「エミリアたんが待ってる。ユイさんも、オットーも、ラムもいる。聖域の連中もいる。ロズワールに聞かなきゃならねえこともある」

 

「そうだね」

 

「試練は越えたんだろ」

 

「第一の試練はね」

 

「なら、出せ」

 

「せっかちだ」

 

「今さらだろ」

 

「確かに」

 

 エキドナは席から立ち上がった。

 

 教室の光が、白く濃くなる。

 

「ナツキ・スバル。君は第一の試練を越えた。自らの過去と向き合い、そこから目を逸らさなかった」

 

 その声は、先ほどまでの軽さを少しだけ失っていた。

 

 試験官の声。

 

 魔女の声。

 

「君は次へ進む資格を得た」

 

「次、か」

 

「聖域を解放するには、まだ先がある」

 

「だろうな」

 

 スバルは苦笑する。

 

「一回で終わらせてくれるほど、優しくねえもんな」

 

「よくわかっている」

 

「褒めんな」

 

「それも二度目だ」

 

「何度でも言う」

 

 エキドナは微笑む。

 

 その視線が、ほんの一瞬だけ教室の端へ向いた。

 

 そこには、ユイがいた。

 

 虚飾で隠れたまま。

 

 スバルには見えない。

 

 試練の一部でもない。

 

 だが、たしかにそこにいる。

 

 エキドナの目は、ユイを捉えていた。

 

 ユイは無言で見返す。

 

 言うな。

 

 その視線だけで伝える。

 

 エキドナは口元をわずかに緩めた。

 

 言わない。

 

 少なくとも、今は。

 

 その沈黙が善意ではなく、興味から来るものだとわかっていても、ユイは今だけそれを受け入れた。

 

 スバルには気づかれない。

 

 スバルは、エキドナが一瞬だけ別の場所を見たことには気づかなかった。

 

「なあ」

 

 スバルは言った。

 

「なんだい?」

 

「俺、親父と母さんに、ちゃんと言えたと思うか」

 

 エキドナは少しだけ目を細めた。

 

「それを僕に聞くのかい?」

 

「聞いた俺が馬鹿だった」

 

「いいや。答えよう」

 

 エキドナは、珍しく穏やかな声で言った。

 

「君は言えたよ。少なくとも、君自身が言うべきだと思っていた言葉は」

 

 スバルは目を伏せる。

 

「……そっか」

 

「満足かい?」

 

「満足じゃねえよ」

 

 スバルは笑った。

 

 少しだけ泣きそうな顔で。

 

「でも、よかった」

 

「そうか」

 

「ああ」

 

 教室の輪郭が薄れていく。

 

 机が白くほどける。

 

 黒板が光に溶ける。

 

 窓の外の景色が、遠ざかる。

 

 スバルは最後に、もう一度だけ教室を見た。

 

 逃げた場所。

 

 怖かった場所。

 

 止まっていた場所。

 

 でも、もう置いていかない。

 

 その場所も、自分の一部だ。

 

「行ってくる」

 

 誰にともなく、スバルは言った。

 

 エキドナは微笑む。

 

「行ってらっしゃい、ナツキ・スバル」

 

 白い光が弾けた。

 

 次にスバルが目を開けた時、そこは墓所だった。

 

 冷たい石の床。

 

 湿った空気。

 

 体に残る重さ。

 

 そして、すぐ近くにいるユイ。

 

「……戻った、のか」

 

 スバルは掠れた声で言った。

 

 ユイは、何事もなかったような顔で頷く。

 

「ええ。戻ったわ」

 

 その声を聞いた瞬間、スバルはようやく現実へ帰ってきた実感を得た。

 

 父の家ではない。

 

 母の声もない。

 

 教室でもない。

 

 聖域。

 

 墓所。

 

 エミリア。

 

「エミリアたん!」

 

 スバルは跳ね起きようとして、体勢を崩した。

 

 ユイが肩を支える。

 

「急に動かないで」

 

「エミリアたんは!?」

 

「まだ試練の中よ」

 

 その言葉で、スバルの顔が強張る。

 

 少し離れた場所で、エミリアが膝をついていた。

 

 苦しげに肩を震わせている。

 

 頬には涙。

 

 唇は何かを拒むように小さく動いている。

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

「俺は……越えたのに」

 

「エミリア様の試練は、エミリア様のものよ」

 

「わかってる」

 

「なら、今あなたがすることを考えて」

 

 スバルは深呼吸する。

 

 父の声を思い出す。

 

 母の声を思い出す。

 

 ここでただ感情のままに動けば、また同じだ。

 

 守りたいなら、考えろ。

 

 支えたいなら、順番を間違えるな。

 

「声をかける」

 

「ええ」

 

「反応がなければ?」

 

「外へ運ぶ。これ以上長く中に置くのは危険」

 

「わかった」

 

 スバルはエミリアの傍へ膝をつく。

 

「エミリア。聞こえるか。俺だ。スバルだ」

 

 返事はない。

 

 肩が震える。

 

「大丈夫だ。今すぐ越えろなんて言わねえ。怖いなら怖いでいい。泣いたっていい。だから、戻ってこい」

 

 エミリアの唇がわずかに動いた。

 

「いや……」

 

 幼い声だった。

 

 スバルの胸が締めつけられる。

 

「やめて……見たくない……」

 

「エミリア!」

 

 スバルは、そっと肩に触れた。

 

 墓所の空気が一度強く揺れる。

 

 拒むような圧。

 

 けれど、スバルは手を離さなかった。

 

「俺だ。お前を無理やり連れ出しに来たんじゃねえ。戻る場所を教えに来た」

 

 エミリアの瞳が、一瞬だけ揺れた。

 

「……ス、バル?」

 

「ああ。俺だ」

 

 スバルは頷く。

 

「戻ってこい、エミリア」

 

 だが、次の瞬間、エミリアの顔が苦痛に歪んだ。

 

「だめ……私、まだ……」

 

 そのまま、体から力が抜ける。

 

 スバルは咄嗟に抱き止めた。

 

「エミリア!」

 

「限界よ」

 

 ユイが短く言う。

 

「外へ出すべき」

 

 スバルは歯を食いしばる。

 

 エミリアを抱き上げた。

 

 軽い。

 

 驚くほど軽い。

 

「悪い、エミリア。今は連れてく」

 

 ユイが先導する。

 

 墓所の出口へ向かう足取りは重い。

 

 スバル自身も試練から戻ったばかりで、体の芯がぐらついている。

 

 それでも、倒れられない。

 

 出口の光が見えた。

 

 外へ出ると、夜気が肌を刺した。

 

 墓所の前には、ガーフィールがいた。

 

 腕を組み、金の瞳でこちらを睨んでいる。

 

 周囲には聖域の住人たちも集まっていた。

 

 彼らの視線が、スバルの腕の中のエミリアへ集中する。

 

「……駄目だったのか」

 

 ガーフィールの声は低い。

 

 スバルの眉が動く。

 

「駄目って決めつけんな」

 

「見りゃわかるだろ。試練を越えた顔じゃねぇ」

 

「今夜は、越えられなかっただけだ」

 

「同じことだろうが」

 

「同じじゃねえ」

 

 スバルはエミリアを抱えたまま、ガーフィールを睨んだ。

 

「一回倒れたら終わりなのか。怖がったら資格なしなのか。そんなわけねえだろ」

 

「聖域の連中は待ってんだよ」

 

「わかってる」

 

「本当にわかってんのかよ」

 

「わかってるから、言ってんだ!」

 

 声が夜に響いた。

 

 住人たちのざわめきが一瞬止まる。

 

「こいつは鍵じゃねえ。道具でもねえ。エミリアだ。怖がっても、倒れても、また立てる。俺はそう信じる」

 

 ガーフィールは黙った。

 

 その目には、まだ敵意がある。

 

 けれど、さっきまでのように噛みつく勢いは少しだけ薄れていた。

 

「……綺麗事だな」

 

「ああ。綺麗事だ」

 

 スバルは言い切った。

 

「でも、綺麗事を捨てたら、俺は俺でいられねえ」

 

 ガーフィールは舌打ちした。

 

「連れてけ。倒れた奴を墓所に置いとく趣味はねぇ」

 

「最初からそう言え」

 

「調子に乗んな」

 

 敵意は消えない。

 

 だが、道は開いた。

 

 ユイはスバルの横へつき、住人たちの視線を静かに見返した。

 

 責める視線。

 

 不安な視線。

 

 落胆した視線。

 

 その全てを受け止めながら、彼女は言った。

 

「今夜は休ませます。明日以降、改めて考えます」

 

 誰に向けた言葉かは曖昧だった。

 

 ガーフィールへ。

 

 住人へ。

 

 スバルへ。

 

 建物へ戻ると、ラムが待っていた。

 

 彼女はエミリアの姿を見て、眉をわずかに動かす。

 

「やはり、簡単にはいかないのね」

 

「ラム」

 

「寝室へ。ロズワール様にはラムから伝えるわ」

 

「いや、俺も行く」

 

「その顔で?」

 

「どんな顔だよ」

 

「今すぐロズワール様の顔面を殴りたい顔」

 

「……否定はしねえけど、殴らねえよ」

 

「信用できないわね」

 

 ラムはそう言いながらも、エミリアを寝かせる準備を始めた。

 

 ユイも手伝う。

 

 布を替え、水を用意し、エミリアの呼吸を確認する。

 

 スバルは寝台の横に座り込んだ。

 

「エミリアたん」

 

 呼びかけても、返事はない。

 

 苦しげな表情は、少しだけ和らいでいる。

 

 それでも、瞼の奥ではまだ何かを見ているようだった。

 

「俺、ちょっとだけ進めた」

 

 スバルは小さく言った。

 

「だから、お前も大丈夫だなんて、簡単には言わねえ。でも、次は一緒に考える。一人にはしねえ」

 

 ユイはその言葉を聞きながら、手を止めない。

 

 スバルの頬には、まだ涙の跡が残っている。

 

 彼は、自分が見られていたことを知らない。

 

 父と母との会話も。

 

 教室でエキドナと向き合ったことも。

 

 校門を越えた瞬間も。

 

 全部、自分だけのものだと思っている。

 

 そうであるべきなのだ。

 

「ユイさん」

 

 スバルが顔を上げる。

 

「俺、試練を越えた」

 

「ええ」

 

「親父と、母さんに会った」

 

 ユイの指が、ほんのわずかに止まる。

 

 すぐに動かす。

 

 知らないふり。

 

 聞いているふり。

 

 初めて知ったふり。

 

「そう」

 

「言えなかったこと、言ってきた。いってきますって、ちゃんと言えた」

 

「……よかったわね」

 

「ああ」

 

 スバルは顔を伏せた。

 

「よかった」

 

 その声は、本当に小さかった。

 

 ユイの胸が痛んだ。

 

 覗いたことを後悔しているのか。

 

 それとも、見届けられたことに満足しているのか。

 

 自分でもわからない。

 

 ただ一つだけ、はっきりしている。

 

 このことをスバルには言えない。

 

 少なくとも、今は。

 

 ロズワールの部屋へ向かう廊下は、静かだった。

 

 スバル、ユイ、ラム。

 

 少し後ろに、ガーフィールの気配もある。

 

 あからさまについてきているわけではない。

 

 だが、こちらを警戒しているのはわかった。

 

 ロズワールは、寝台の上で変わらず包帯に巻かれていた。

 

 それでも、笑みだけはいつも通りだ。

 

「おや、戻ったようだねぇ」

 

 その声を聞いた瞬間、スバルの拳が固まりかける。

 

 ユイが小さく言った。

 

「順番」

 

「……わかってる」

 

 スバルは深呼吸する。

 

「エミリアは倒れた。試練は越えられてない」

 

「だろぉねぇ」

 

「その言い方やめろ」

 

「初めから簡単ではないと思っていた、という意味だよ」

 

「お前、本当に……」

 

 スバルは言葉を噛み殺す。

 

 怒鳴るな。

 

 聞け。

 

 順番だ。

 

「俺は越えた」

 

 その言葉に、ロズワールの目がわずかに開いた。

 

「ほぉ」

 

「第一の試練。自分の過去を見た。越えた」

 

「素晴らしい」

 

 ロズワールは、ゆっくりと笑った。

 

「やはり君には資格があった」

 

「なら、俺が代わりに越えればいいのか」

 

 空気が止まる。

 

 ラムがスバルを見る。

 

 廊下側の気配も、わずかに濃くなる。

 

 ロズワールだけが笑っていた。

 

「理屈としては、可能性はある」

 

「なら――」

 

「けれど、それでは意味が薄い」

 

 ロズワールの声は静かだった。

 

「聖域を解放することだけが目的ならば、君が試みる道もあるだろう。だが、エミリア様が王選候補として立つためには、彼女自身が試練を越える必要がある」

 

「またそれか」

 

「大事なことだよ」

 

「エミリアが壊れてもか?」

 

 スバルの声が低くなる。

 

「王選のためなら、あいつを何度でも墓所に放り込むのか」

 

「スバルくん」

 

 ロズワールの声から、わずかに茶化す色が消える。

 

「彼女は、それを選ぶだろう」

 

「それと、お前が追い込むのは別だ」

 

「追い込む?」

 

「違うのかよ」

 

 スバルは一歩前に出る。

 

「お前は、エミリアが試練を受けるしかない状況を作ってる。村人を聖域に置いて、結界を解くには試練しかないって言って、王選候補なら越えろって空気にしてる」

 

 ロズワールは答えない。

 

 笑みだけが残る。

 

 それが、スバルの苛立ちをさらに煽った。

 

「お前は何を知ってる。何を狙ってる」

 

「今は、まだ話す時ではないねぇ」

 

「またそれかよ」

 

 ユイは、その答えを聞きながらロズワールを見ていた。

 

 知らないわけではない。

 

 彼が何を望み、何を待ち、どこへスバルたちを追い込もうとしているのか。

 

 ユイは知っている。

 

 けれど、それを今ここで暴けば、盤面が崩れる。

 

 ロズワールは疑われるだけでは止まらない。

 

 むしろ、疑われることすら予定に含めている。

 

 だから、ユイは知らないふりをする。

 

 知らないふりをしながら、必要なところだけをずらす。

 

「少なくとも、今夜エミリア様に二度目を受けさせるべきではありません」

 

 ユイが横から口を挟む。

 

 ロズワールの視線がユイへ移る。

 

「理由は?」

 

「消耗が大きすぎます。意識は戻っていない。精神的な負荷も不明。続ければ、試練に向き合う前に壊れる可能性があります」

 

「君は、随分と彼女を庇うねぇ」

 

「庇っているのではなく、状況を見ています」

 

「冷静だ」

 

「冷静でなければ、あなたと話せません」

 

 ロズワールは愉快そうに笑った。

 

「なるほど。それで?」

 

「明日以降、情報を整理した上で再挑戦するべきです。その間に、スバルくんが試練で得た感覚、エミリア様の反応、墓所の条件を確認する」

 

「合理的だねぇ」

 

「合理的でなければ困る状況です」

 

 スバルはユイを見る。

 

 助かった。

 

 自分だけなら、今の会話は怒りで押し潰していたかもしれない。

 

 ロズワールはしばらく黙り、それから肩をすくめるように微笑んだ。

 

「いいだろう。今夜は休むといい」

 

「言われなくてもそうする」

 

「ただし、スバルくん」

 

「なんだよ」

 

「君が試練を越えられたからといって、エミリア様の役目が消えたわけではない」

 

「……わかってる」

 

「本当に?」

 

「わかってるって言ってんだろ」

 

 スバルはそれだけ言って、部屋を出た。

 

 廊下に出た瞬間、壁を殴りたい衝動が込み上げる。

 

 だが、殴らなかった。

 

 拳を握りしめ、震える腕を下ろす。

 

 ユイが横に立つ。

 

「殴らなかったわね」

 

「成長しただろ」

 

「ええ。少しずつね」

 

「少しずつかよ」

 

「一気に変わったら怖いでしょう」

 

「それもそうか」

 

 スバルは息を吐いた。

 

 怒りは残っている。

 

 ロズワールへの疑念も、聖域への焦りも、レムへの痛みも、エミリアへの不安も。

 

 全部残っている。

 

 けれど、今は全部に押し潰されてはいない。

 

 父に言われた。

 

 行け、と。

 

 母に言われた。

 

 気をつけて、と。

 

 なら、無茶をするだけでは駄目だ。

 

 気をつけて進まなければならない。

 

「ユイさん」

 

「何?」

 

「さっき、戻った時に言っただろ。戻ったわねって」

 

「ええ」

 

「あれ、なんか……助かった」

 

 ユイは一瞬だけ黙った。

 

 それから、いつもの調子で答える。

 

「なら、言ってよかったわ」

 

「……ありがとな」

 

「ええ」

 

 それだけで終わった。

 

 余計な軽口はなかった。

 

 スバルは少しだけ笑い、すぐにエミリアの部屋へ戻った。

 

 彼女はまだ眠っていた。

 

 苦しげな表情は少しだけ和らいでいる。

 

 スバルは寝台の横に座る。

 

「エミリアたん」

 

 声をかける。

 

「俺、ちょっとだけ前に進めた。だから、お前も大丈夫だなんて簡単には言わねえけど……一緒に考える。今度は一人にしねえ」

 

 返事はない。

 

 けれど、スバルはそれでよかった。

 

 今は眠っていていい。

 

 明日また、考えればいい。

 

 どう支えるか。

 

 どう試練に向き合うか。

 

 どう聖域を解放するか。

 

 どうロズワールの意図を暴くか。

 

 どうレムを取り戻すか。

 

 順番を決めて、一つずつ。

 

 ユイは窓辺には行かなかった。

 

 墓所の方角も見なかった。

 

 ただ、部屋の隅で椅子に腰を下ろし、眠るエミリアと、その傍にいるスバルを見ていた。

 

 ロズワールの思惑は知っている。

 

 聖域でこれから何が起きるかも、おおよそ知っている。

 

 だが、知っていることと、今すぐ正解を選べることは違う。

 

 下手に動けば、ロズワールは別の手を打つ。

 

 ガーフィールは疑う。

 

 エミリアは追い詰められる。

 

 スバルは自分を責める。

 

  だから、ユイは考える。

 

 知っている未来の中で、何を守るべきか。

 

 スバルを守る。

 

 エミリアを守る。

 

 レムを取り戻す道を守る。

 

 聖域にいる人々を、できる限り守る。

 

 壊さずに。

 

 見失わずに。

 

 ただ見ているだけではなく、守るために動く。

 

 聖域の一日目は、静かに終わっていく。

 

 スバルは第一の試練を越えた。

 

 エミリアは、まだ越えられていない。

 

 ロズワールは、予定通りに盤面を進めようとしている。

 

 ガーフィールは、まだこちらを信用していない。

 

 そしてユイは、知らないふりの仮面をかぶったまま、次に動くべき一手を探していた。

 

 夜は深くなっていく。

 

 聖域の解放は、まだ遠い。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。