教室の扉を開けた瞬間、スバルは息を止めた。
そこは、かつて逃げた場所だった。
机が並んでいる。
黒板がある。
窓から朝の光が差し込んでいる。
けれど、生徒はいない。
教師もいない。
誰の笑い声も、誰の視線もない。
ただ、窓際の席に一人だけ座っている少女がいた。
白い髪。
黒い衣――ではなく、見慣れたはずの制服。
だが、その姿は教室に似合っているようで、決定的に浮いていた。
強欲の魔女、エキドナ。
「やあ、ナツキ・スバル」
彼女は、当然のように微笑んだ。
スバルは顔をしかめる。
「……まず言わせろ」
「なんだい?」
「制服、似合ってるのが腹立つ」
エキドナは目を瞬かせ、それから楽しそうに笑った。
「最初の感想がそれかい?」
「他に何言えってんだよ。魔女が人の記憶の教室で制服着て待ってる状況、どこから突っ込めばいいかわかんねえんだよ」
「ここは君の記憶を元にした場所だ。なら、僕も場に合わせるべきだろう?」
「場に合わせるなら、まず出てけ」
「それは困るね。僕は試験官のようなものだから」
「趣味の悪い試験官だな」
「否定はしないよ」
「否定しろよ」
軽口を叩きながら、スバルは教室へ入った。
一歩。
また一歩。
昔なら、この場所に入るだけで息が詰まった。
笑われる気がした。
比べられる気がした。
自分が父のようになれないことを、ここで何度も思い知らされた。
だが、今は違う。
怖さは消えていない。
けれど、それだけではない。
父がいた。
母がいた。
行ってこいと言われた。
いってらっしゃいと言われた。
だから、足は止まらなかった。
「ここが、終点か」
「第一の試練の、ね」
エキドナは頬杖をついたまま、スバルを見る。
「君は過去と向き合った。父と話し、母と話し、逃げていた場所へ足を踏み入れた。十分だ」
「十分、ね」
スバルは教室の中を見渡した。
懐かしい。
苦しい。
腹立たしい。
それでも、もうここに置いていかれているわけではない。
「最悪だったよ」
「そうかい」
「しんどかった。逃げたかった。泣いた。情けなかった」
「うん」
「でも、必要だった」
その言葉に、エキドナの目が細くなる。
「いい答えだ」
「勝手に採点すんな」
「試験官だからね」
「だから腹立つんだよ」
スバルは拳を握る。
「俺は、父さんにも母さんにも、何も返せないかもしれない。もう会えないかもしれない。なのに、行けって言われた」
「だから、君は行く?」
「ああ」
迷いはなかった。
「戻らなきゃいけない場所がある。待たせてる奴がいる。助けたい人がいる。取り戻したい人がいる。だから戻る」
「欲張りだね」
「悪いかよ」
「いいや」
エキドナは、楽しそうに微笑む。
「実に人間らしい」
「褒めてんのか馬鹿にしてんのか、どっちだ」
「両方かな」
「やっぱ最悪だな、お前」
スバルは吐き捨てた。
だが、以前ほどエキドナに呑まれてはいない。
足元が、少しだけ固まっている。
「で、俺は?」
「君は第一の試練を突破した」
エキドナは淡々と言った。
「過去と向き合い、そこから目を逸らさなかった。君には次へ進む資格がある」
「第一、ってことは」
「試練は三つある。過去、現在、未来。聖域を解放するには、それらすべてを越える必要がある」
「一回で終わらせてくれるほど、優しくねえってことか」
「理解が早いね」
「褒めんな」
「褒めているよ」
「だから褒めんなって」
スバルは舌打ちする。
「なあ」
「なんだい?」
「俺が試練を受け続ければ、聖域は解放できるのか」
エキドナは、すぐには答えなかった。
その沈黙が答えのようなものだった。
「理屈の上では、君にも資格がある」
「なら――」
「けれど、それで君の望む結果になるかは別だ」
スバルは眉を寄せる。
「エミリアたんが越えなきゃ意味がないってことか」
「少なくとも、その意味を望んでいる者はいるだろうね」
「ロズワールか」
「彼の名前を出すのが早いね」
「言いそうなんだよ、あいつが」
「実際、言うだろうね」
「やっぱ知ってんじゃねえか」
「知っていることと、語ることは別だよ」
「魔女も道化師も、遠回しにしか喋れねえのか」
「直接答えを渡すより、君が自分で辿り着く方が面白いからね」
「本当に最悪だな!」
エキドナは笑った。
その視線が、ほんの一瞬だけ教室の端へ向く。
そこには、ユイがいた。
虚飾で自分の存在を薄め、試練の端に潜り込んでいる。
スバルには見えない。
父にも母にも見えなかった。
今も、スバルの認識には引っかからない。
だが、エキドナだけは違う。
彼女は完全にユイを見ていた。
ユイは、無言で見返す。
言わないで。
その意思だけを目に乗せる。
エキドナは口元をわずかに緩めた。
言わない。
少なくとも、今は。
その沈黙が善意ではないことは、ユイにもわかっていた。
面白がっているのだ。
スバルが知らないまま進むことも、ユイが知らないふりを続けることも、その全部を楽しんでいる。
それでも、今はその沈黙を利用するしかない。
「なあ」
スバルは、エキドナが別の場所を見たことに気づかず言った。
「なんだい?」
「俺、ちゃんと言えたと思うか」
「誰に?」
「父さんと、母さんに」
エキドナは、少しだけ目を瞬かせた。
「それを僕に聞くのかい?」
「聞いた俺が馬鹿だった」
「いいや。答えよう」
エキドナは、珍しく穏やかな声で言った。
「君は言えたよ。少なくとも、君自身がずっと言うべきだと思っていた言葉は」
「……そっか」
「満足かい?」
「満足じゃねえよ」
スバルは笑った。
泣きそうな顔で。
「でも、よかった」
教室の輪郭が薄れていく。
机が白くほどける。
黒板が光に溶ける。
窓の外の景色が遠ざかる。
スバルは、最後にもう一度だけ教室を見渡した。
逃げた場所。
怖かった場所。
止まっていた場所。
それでも、自分の一部だった場所。
「行ってくる」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、確かに必要な言葉だった。
エキドナは微笑んだ。
「行ってらっしゃい、ナツキ・スバル」
白い光が弾けた。
次に目を開けた時、そこは墓所だった。
冷たい石の床。
湿った空気。
体に残る重さ。
そして、すぐ近くにいるユイ。
「……戻った、のか」
「ええ。戻ったわ」
ユイは何も知らない顔で頷いた。
ただ待っていただけのように。
スバルは体を起こそうとして、すぐに顔を上げる。
「エミリアたん!」
少し離れた場所で、エミリアが膝をついていた。
肩を震わせ、頬に涙を流している。
目は開いている。
だが、スバルを見ていない。
遠い過去に囚われたまま、小さくうわ言のように呟いている。
「違う……私じゃない……違うの……」
「エミリア!」
スバルは駆け寄った。
すぐに肩へ触れようとして、寸前で手を止める。
過去に触れられるのは痛い。
自分の試練を越えた今だからこそ、それはわかる。
外から無理やり終わらせれば、余計に傷つくかもしれない。
けれど、このまま放っておくこともできない。
「エミリア。聞こえるか。俺だ。スバルだ」
返事はない。
「戻ってこい。今すぐ越えろなんて言わねえ。怖いなら怖いでいい。泣いたっていい。だから、戻ってこい」
エミリアの瞳が、一瞬だけ揺れた。
「ス、バル……?」
「ああ。俺だ」
その瞬間、エミリアの体から力が抜けた。
スバルは咄嗟に抱き止める。
「エミリア!」
「限界よ」
ユイが低く言った。
「外へ出しましょう。これ以上は危険」
「……わかった」
スバルはエミリアを抱き上げ、墓所の出口へ向かった。
夜気が肌を刺す。
墓所の外には、ガーフィールと聖域の住人たちがいた。
全員の視線が、腕の中のエミリアへ集まる。
期待。
落胆。
不安。
責めるような沈黙。
「……駄目だったのか」
ガーフィールが低く言った。
「その言い方、やめろ」
スバルの声も低くなる。
「今夜は越えられなかった。それだけだ」
「同じことだろうが」
「同じじゃねえ」
スバルはエミリアを抱えたまま、ガーフィールを睨んだ。
「一回倒れたら終わりなのか。怖がったら資格なしなのか。そんなわけねえだろ」
ガーフィールは舌打ちした。
だが、すぐに住人たちへ顔を向ける。
「散れ。見せ物じゃねぇ」
低い声だった。
荒い。
ぶっきらぼう。
けれど、その一言で、住人たちのざわめきが止まった。
「姫様は倒れた。今日は終わりだ。文句がある奴は俺様に言え」
誰も、それ以上は何も言わなかった。
期待も不満も抱えたまま、住人たちは少しずつ離れていく。
スバルは一瞬、ガーフィールを見る。
ガーフィールは視線を逸らした。
「早く連れてけ。冷える」
「……ああ」
「落とすんじゃねぇぞ」
「落とすかよ」
「ならいい」
それだけ言って、ガーフィールは背を向けた。
乱暴な奴だ。
敵意もある。
信用もされていない。
それでも、今の一言はエミリアを守るためのものだった。
エミリアは部屋へ運ばれた。
ラムが香を焚き、寝台を整える。
ユイは水を用意し、エミリアの呼吸を確認した。
やがて、エミリアの表情は少しだけ和らぐ。
眠っている。
けれど、安らかとは言えない。
瞼の奥で、まだ何かを見ているようだった。
スバルは、寝台の横に座り込む。
「……」
自分が試練を越えたことは、言わなかった。
言えなかった。
今それを言えば、エミリアを余計に追い詰める。
スバルには、そう思えた。
だから、黙った。
「スバルくん」
ユイが声をかける。
「今夜は休んで。あなたも墓所に入った直後よ」
「休めると思うか?」
「思わない。でも、座っていることはできる」
「昨日もそんなこと言ってたな」
「何度でも言うわ。あなたは言わないと忘れるから」
スバルは苦笑した。
ほんの少しだけ。
その夜は、そこで終わった。
スバルは寝台の横で、椅子に座ったまま朝を待った。
ユイは部屋の隅にいた。
目を閉じていたが、眠ってはいない。
ロズワールの思惑。
聖域の結界。
エミリアを追い詰める空気。
スバルを極限まで追い込もうとする盤面。
ユイは、それらを知っている。
だが、知っていることをそのまま吐き出しても守れない。
だから、考える。
知っている未来の中で、何を守るべきか。
スバルを守る。
エミリアを守る。
レムを取り戻す道を守る。
聖域にいる人々を、できる限り守る。
壊さずに。
見失わずに。
ただ見ているだけではなく、守るために動く。
翌朝。
エミリアが目を覚ました。
顔色は悪い。
けれど、意識ははっきりしていた。
「……スバル?」
「起きたか。大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
「大丈夫な顔じゃねえけど」
「大丈夫って言いたいの」
エミリアはそう言って、無理に笑った。
スバルは何も言えなくなる。
その笑い方が痛かった。
「私、昨日……」
「倒れた」
「また、駄目だったんだね」
「またって言うな」
スバルは即座に言った。
「昨日が最初だ。だめって決めるには早すぎる」
「でも、私がやらなきゃいけないんだよね」
エミリアの声は、静かだった。
その静けさが、逆に怖い。
決意というより、自分を追い詰めるための言葉に聞こえた。
「村のみんなが、ここから出られない。私がやらなきゃ、みんな困る」
「一人で背負うな」
「でも、私が王選候補だから」
「王選候補でも、一人で壊れる必要はねえよ」
スバルは、慎重に言葉を選ぶ。
「俺は、お前の過去を代わりに越えられない。でも、戻ってくる場所にはなれる」
「戻ってくる場所?」
「ああ」
スバルは笑おうとした。
「墓所の外で待ってる。泣いてても、震えてても、怒ってても、戻ってきたら迎える。何回でも」
エミリアは、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
朝食後、聖域の事情を改めて聞くことになった。
そこには、リューズもいた。
幼い姿をした白髪の少女。
だが、口調も目も、見た目よりずっと古い。
「結界を抜ける抜け道はないのか?」
スバルが尋ねると、オットーが手を挙げた。
「つまりですね。結界に触れると混血の方々は倒れる。なら、倒れた状態で結界の外へ運べばいいのでは?」
「お前、たまに妙に現実的な案を出すよな」
「商人ですからね。抜け道を探すのは仕事みたいなものです」
「やめておいた方がよい」
リューズが静かに言った。
「結界は、肉体だけを阻むものではない。無理に抜けようとすれば、魂を置き去りにする。外へ出るのは、ただの殻じゃ」
オットーの顔色が変わる。
「それ、つまり……」
「死ぬのと変わらぬ」
「却下! 今の案は全面的に却下です!」
「判断が早いな」
「魂が置いていかれる案を再検討する商人はいません!」
スバルは唇を噛む。
抜け道はない。
結局、試練を越えるしかない。
「なら、リューズさんやガーフィールが挑むのは?」
「挑むことはできる。だが、わしらでは聖域を解放できぬ」
「なんでだよ」
「契約じゃ。聖域に属する者は、聖域を解放する役目を担えぬ」
「どいつもこいつも、契約だの条件だの……」
「そういう場所じゃ、ここは」
リューズは淡々と言った。
ユイは、そこで一歩だけ口を挟む。
「現状、安全な解放手段は、外から来た資格者が試練を越えること。ただし、エミリア様の精神的負荷は大きい。次に挑むなら、体力と気持ちを整えてからです」
リューズがユイを見る。
「そなたは冷静じゃの」
「慌てても結界は解けませんから」
「若いのに年寄りくさい」
「あなたに言われると複雑です」
スバルが少しだけ吹き出した。
重かった空気が、ほんの一瞬だけ緩む。
日中、ラムに手伝わされながら、スバルは聖域の内情を聞いた。
洗濯物を干すラムは、相変わらず涼しい顔をしている。
「全員が聖域の解放を望んでいるわけではないわ」
「閉じ込められてるのにか?」
「外を知らない者にとって、外は希望だけではないのよ」
ラムは淡々と続ける。
「現状維持を望む者もいる。外と関わらず、このまま聖域で暮らす方がいいと考える者もいる。解放派と保守派。単純に全員が同じ方向を向いているわけではないわ」
「面倒くせえな」
「人が集まれば、面倒になるものよ」
ユイは洗濯物を干しながら言った。
「だから、守る対象を間違えないことが必要です。聖域を解放するだけではなく、解放された後に残る人たちのことも考えないと」
「そこまで考えるのかよ」
「守るなら、そこまで」
スバルはユイを見る。
彼女の声は静かだった。
けれど、その言葉には芯がある。
守る。
ただ敵を倒すだけではない。
檻から出すことも、その先で迷わせないことも含んでいる。
その日の夜。
エミリアは再び試練に挑むことになった。
昨日の夜ではない。
一晩を越えて、休んだ上での再挑戦。
それでも、彼女の顔色はよくなかった。
墓所の前には、聖域の住人たちが集まっている。
期待と不安。
そして、今度こそという圧。
その視線が、エミリアの細い背中に乗っていた。
「本当に行くのか」
スバルが聞く。
エミリアは頷いた。
「うん。行く」
「無理はするなよ」
「無理じゃないよ。私がやるって決めたの」
その声は震えていた。
決めたというより、決めなければならないと思い込んでいる声だった。
ユイが、静かに近づく。
「エミリア様」
「なに?」
「戻れなくなりそうなら、声を出してください」
「声?」
「助けてでも、怖いでも、嫌でも、何でもいい。外にいる人間が気づけるように」
エミリアは、少しだけ驚いた顔をした。
そして、弱く笑う。
「うん。ありがとう、ユイ」
エミリアは墓所へ入っていった。
待つ時間は長かった。
スバルは落ち着かず、何度も入口を見る。
その横で、ガーフィールが腕を組んでいた。
「てめぇ、墓所に入って戻ってきたんだよな」
「ああ」
「姫様はああなった」
「……言いたいことがあるなら言えよ」
「別に」
「別にって顔じゃねえだろ」
ガーフィールは鼻を鳴らす。
「無理して立ってる奴は、見てりゃわかる」
「エミリアたんのことか」
「姫様だけじゃねぇよ」
「俺もかよ」
「てめぇもだ」
その声は乱暴だった。
だが、敵意だけではなかった。
ガーフィールは墓所の入口を見たまま続ける。
「聖域の連中は待ってる。けど、待ってる奴らの目が、全部優しいわけじゃねぇ」
「……わかってる」
「わかってんなら、姫様が出てきた時に余計なこと言うな。潰れるぞ」
スバルは驚いてガーフィールを見る。
ガーフィールは視線を合わせない。
「なんだよ」
「いや……」
「変な目で見んな。気色悪ぃ」
「お前、意外と見てるんだな」
「うるせぇ」
ガーフィールは、さらに顔を背ける。
「それと、フレデリカの石。持ってんだろ」
「これか」
スバルは胸元の石に触れる。
「あれを渡した理由、フレデリカ本人に聞く必要がある」
「姉貴を疑うのか」
「疑いたくはねえ。でも、確認はする」
「……」
ガーフィールは黙った。
フレデリカの名が出ると、彼の態度がわずかに変わる。
スバルはそれを見逃さなかった。
だが、問い詰める前に、墓所の光が揺らいだ。
中から、泣き声が聞こえた。
「エミリア!」
スバルは走り出す。
墓所の入口から、エミリアがふらつきながら出てきた。
頬は涙で濡れている。
息は乱れ、目は怯えていた。
「ごめん……また、だめだった……」
「謝るな」
スバルは彼女を支える。
「謝るな、エミリア」
「でも、私、また……」
「今日はもういい」
「でも、みんなが……」
「いいって言ってんだ!」
少し強い声になってしまった。
エミリアがびくりとする。
スバルはすぐに表情を歪めた。
「悪い。怒鳴るつもりじゃなかった」
周囲の住人たちがざわめく。
そのざわめきを、ガーフィールが一喝した。
「散れ!」
声が夜を叩いた。
「姫様は終わりだ。今日はもう何もねぇ。見てても結界は解けねぇぞ」
乱暴な言い方だった。
けれど、住人たちはその声に押されるように離れていく。
ガーフィールは、最後にエミリアをちらりと見た。
「早く連れてけ。寒ぃ」
「……助かった」
「礼を言うな。別にてめぇのためじゃねぇ」
「わかってる」
「なら黙って運べ」
ユイが二人の間に入るように、そっと声を置く。
「戻りましょう。今のエミリア様に必要なのは、次の試練ではなく休息です」
エミリアは、何も言えずに俯いた。
その後、スバルはロズワールの元へ向かった。
我慢できなかった。
エミリアがまた泣いている。
それなのに、あの道化師はベッドの上で笑っている。
それが、どうしても許せなかった。
ロズワールの部屋。
包帯だらけの体。
それでも、変わらない笑み。
「ロズワール」
「やぁ、スバルくぅん」
「聞きたいことがある」
「なんだろぉねぇ」
スバルは一歩前へ出る。
「お前、魔女教がエミリアを狙うって知ってたな」
空気が止まった。
ラムの目がわずかに細くなる。
ユイは黙って立っていた。
知っている。
ロズワールが何を考え、何を捨て、何をスバルへ押しつけたのか。
けれど、ここはスバルが自分の言葉で問い詰める場面だ。
ユイは、口を挟まない。
「知ってたのに、エミリアに言わなかった。村にも言わなかった。屋敷にもいなかった」
「結果としては、君がうまくやった」
ロズワールは静かに言った。
スバルの顔が歪む。
「結果?」
「白鯨を討ち、他陣営を動かし、魔女教を退けた。君は素晴らしい働きをしたよ」
「ふざけんな」
スバルの声が低くなる。
「何人死んだと思ってる。何回、全部終わりかけたと思ってる。エミリアがどれだけ傷ついたと思ってる」
「それでも、君は成功した」
ロズワールは笑う。
「私は君ならできると信じていた」
その言葉に、スバルの中で何かが切れた。
拳が上がる。
だが、振り下ろされる前にラムが動いた。
スバルの腕を掴み、止める。
「ラム、離せ!」
「離さないわ」
「お前、こいつが何言ってるかわかってんのか!」
「わかっているわ」
ラムの声は静かだった。
「ロズワール様のしたことを、ラムは肯定しない」
「だったら――」
「けれど、ラムはロズワール様のメイドよ」
スバルは言葉を失う。
ラムの目は揺れていなかった。
怒りがないわけではない。
失望がないわけでもない。
けれど、彼女はそれでもロズワールの側に立つ。
それが、ラムだった。
ロズワールは、ゆっくりと続ける。
「魔女教の襲撃は、エミリア様の王選にとって利用できる災厄だった。彼女を狙う敵を退けたという実績は、彼女への恐れを覆す材料になる」
「利用、だと」
「君は感情的だねぇ」
「当たり前だろうが!」
スバルは叫ぶ。
「人の命を駒みたいに言うな!」
「駒だよ」
ロズワールの声が、ひどく平坦になる。
「私も、君も、エミリア様も、ラムも、ガーフィールも、聖域の住人も。目的のために動く盤上の駒だ」
「俺は違う」
「そうかな」
「違う!」
スバルは拳を震わせる。
「俺は、誰かを助けたいから動いた。お前の思惑通りに動いたんじゃねえ」
「だが、結果は私の望みに近づいた」
ロズワールは微笑む。
「君は便利だよ、スバルくん。私の想定以上にね」
スバルの息が荒くなる。
ユイは、その横で静かに言った。
「ロズワール様」
「なんだい、ユイくぅん」
「これ以上話せば、今夜は収拾がつきません」
「止めるのかい?」
「守るためです」
ロズワールの目がわずかに動く。
「何を?」
「今壊すべきでないものを」
スバルはユイを見る。
何を守るのか。
エミリアか。
自分か。
ラムか。
この場か。
わからない。
だが、ユイの声は、今ここで拳を振り抜くことを止めていた。
ロズワールは小さく笑う。
「面白い言い方だ」
「面白がらなくて結構です」
「いいだろう。今夜はここまでにしよう」
「勝手に終わらせんな!」
「スバルくん」
ユイが低く呼ぶ。
「エミリア様のところへ」
その一言で、スバルは歯を食いしばった。
そうだ。
今、優先すべきはロズワールを殴ることではない。
エミリアだ。
彼女はまた試練に失敗し、傷ついている。
スバルは拳を下ろした。
「……まだ終わってねえからな」
「もちろん」
ロズワールは笑った。
「楽しみにしているよ」
部屋を出ると、スバルは壁に拳を叩きつけそうになった。
だが、寸前で止める。
ユイが隣にいる。
「殴らなかったわね」
「……殴ったら、エミリアたんのところに行く前に手を痛める」
「正解」
「お前の言い方、たまに変なところで効くよな」
「効いたならよかったわ」
スバルは息を吐き、墓所の方へ向かった。
エミリアは、墓所の外にいた。
月明かりの下、石段に座り込んでいる。
膝を抱え、肩を震わせていた。
スバルが近づくと、彼女は顔を上げる。
「スバル……」
「ここにいたのか」
「部屋にいると、みんなに心配かけちゃうから」
「外にいても心配する」
「そっか」
エミリアは、小さく笑おうとして失敗した。
「私、まただめだったね」
「だめって言うな」
「でも、だめだったよ。私は何度やっても……」
「お前の試練は、お前のものだ」
「……」
「俺は、お前が何を見てるのか知らない。無理に聞くつもりもない。でも、同じやり方で越えられるとは思ってねえ」
「……怖いの」
エミリアの声は、小さかった。
「見たくないものがあるの。思い出したくないのに、見せられる。私が、私じゃなくなるみたいで……」
「うん」
「私、王選候補なのに。みんなを助けなきゃいけないのに。こんなんじゃ……」
「エミリア」
スバルは、彼女の名前を呼んだ。
「怖いなら怖いでいい」
「よくないよ」
「よくなくても、そうなんだろ」
エミリアの瞳が揺れる。
「怖がるなって言っても、怖いもんは怖い。俺もそうだった。親父と母さんに会うの、怖かった。学校に行くのも怖かった」
「スバルも?」
「ああ」
スバルは苦笑する。
「俺、格好悪いところだらけだったよ。逃げたことも、言えなかったことも、全部見た」
「でも……」
「越えた、なんて簡単に言えるほど格好よくはない。ただ、抱えて戻ってきたんだと思う」
「抱えて……」
「なかったことにはできない。でも、それでも前に進む。そういう感じだ」
エミリアは膝を抱く手に力を込める。
「私にも、できるかな」
「今すぐできるって言ったら、嘘になる」
スバルは正直に言った。
エミリアが少しだけ目を見開く。
「でも、できるようになるまで一緒に考える。戻ってくる場所にはなる。何回でも言う」
「戻ってくる場所……」
「そうだ」
スバルは笑った。
「墓所の外で待ってる。泣いて出てきても、震えて出てきても、怒って出てきても、俺がいる。ユイさんもいる。オットーも、ラムも、たぶん何だかんだでガーフィールもいる」
「ガーフィールも?」
「たぶん文句言いながらな」
エミリアは、少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
でも、それは確かに笑顔だった。
その夜は、長かった。
けれど、ようやく明けた。
翌日。
屋敷へ向かう準備が整えられた。
フレデリカの石の件。
ベアトリスへの問い。
ペトラの安否。
そして、レム。
スバルは、屋敷へ戻る必要があった。
出発前、ラムがスバルの胸元を見て言った。
「それ、ペトラから?」
「ん? ああ」
スバルは、お守りを摘まむ。
「屋敷を出る前にもらった。メイド見習いになったって張り切ってた」
「そう」
ラムの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「なら、無事を確認してきなさい」
「言われなくても」
「それと、フレデリカの件で揉めたら、ベアトリスに聞きなさい」
「ベア子に?」
「ロズワール様からの伝言よ。ベアトリスに、ロズワール様が問えと言った、と」
「何を聞けってんだよ」
「そこまでは聞いていないわ」
「不親切すぎる!」
ユイは横で、その伝言を黙って聞いた。
ベアトリス。
禁書庫。
ロズワールの問い。
そこにも、守らなければならないものがある。
ガーフィールが竜車の前で腕を組んでいた。
「途中まで送る」
「お前が?」
「不満かよ」
「いや、意外だっただけだ」
ガーフィールは鼻を鳴らす。
「結界の近くまでだ。そっから先は勝手に行け」
竜車が動き出す。
ガーフィールは不機嫌そうに手綱を握っていた。
道中、スバルは胸元の石に触れる。
「なあ、ガーフィール」
「あ?」
「フレデリカって、お前の何なんだ」
「……姉貴だ」
短い答えだった。
スバルは目を瞬かせる。
「姉貴?」
「それ以上聞くな」
「いや、聞くだろ普通」
「聞くなっつってんだよ」
声は荒い。
だが、怒りの奥に別のものがあった。
簡単に踏み込まれたくない場所。
切り捨てたわけではない相手。
スバルは、それ以上踏み込まなかった。
結界の手前で、ガーフィールは竜車を止めた。
「ここまでだ」
「助かった」
「礼はいらねぇ」
ガーフィールは、スバルへ石を返すように差し出した。
「姉貴と揉めたら、それを見せろ。何か言うだろ」
「……信じてるのか、フレデリカを」
「てめぇに関係ねぇ」
「関係あるから戻るんだよ」
ガーフィールは舌打ちした。
しばらく沈黙してから、ぶっきらぼうに言う。
「姉貴は、考えなしに動く女じゃねぇ。何かあるなら、理由がある」
「それ、信じてるってことじゃねえのか」
「うるせぇ」
ガーフィールはスバルを睨む。
「てめぇも、余計なところで腹立つ目をするな」
「どんな目だよ」
「人の奥を見ようとする目だ」
「……悪い」
「謝んな。調子狂う」
ユイが口を開く。
「屋敷では、別行動を避けます。最初にレムさんの部屋を確認。その後、ペトラさん、フレデリカさん、ベアトリスさん」
「お前、仕切るな」
ガーフィールが睨む。
ユイは静かに見返した。
「守るためです」
「あ?」
「スバルくんを。屋敷にいる人たちを。可能な限り」
ガーフィールは、しばらくユイを見る。
それから鼻を鳴らした。
「なら、守ってみせろよ」
「ええ」
「……あと」
ガーフィールは、言いにくそうに視線を逸らした。
「姫様に、無理すんなって言っとけ。俺様が言うと角が立つ」
スバルは目を丸くした。
「お前、やっぱり――」
「うるせぇ! 行け!」
怒鳴られ、スバルは苦笑しながら結界を越えた。
ユイも続く。
薄い膜を抜けるような感覚だけが体を撫でた。
そこから先、二人は急いでロズワール邸へ向かった。
屋敷は、静かだった。
静かすぎた。
庭に人影はない。
玄関も開かない。
いつもの屋敷の気配が、どこか欠けている。
「……おかしい」
ユイが低く言う。
スバルも、すぐに顔を強張らせた。
「フレデリカ!」
返事はない。
「ペトラ!」
声は、広い玄関に吸い込まれて消える。
スバルの胸に、嫌な予感が膨れ上がる。
「レム……!」
スバルは走り出した。
ユイも後を追う。
「走るなら、警戒もして」
「わかってる!」
「わかっている人の走り方じゃないわ」
「今それ言う!?」
廊下を駆け抜ける。
レムの部屋へ。
扉を開ける。
「レム!」
寝台の上に、レムはいた。
静かに眠っている。
少なくとも、目に見える範囲では無事だった。
スバルは息を吐きかける。
「よかっ……」
だが、ユイの目は部屋全体を見ていた。
窓。
カーテン。
床。
扉の陰。
影の濃さ。
空気の湿り。
ここには、誰かがいる。
あるいは、いた。
「スバルくん」
「なんだよ」
「安心するのは後。レムさんに異変がないか確認したら、すぐ出る」
スバルは頷き、眠るレムのそばへ膝をついた。
「レム。悪い、少しだけ確認するぞ」
返事はない。
当然だ。
それでも、スバルは声をかける。
「屋敷が変なんだ。だから、ちょっとだけ警戒態勢な。俺たちが守る。だから、お前はそのまま寝てろ」
その言葉に、ユイは一瞬だけ目を伏せた。
誰も覚えていない少女へ、スバルだけが当たり前のように話しかける。
それは痛くて、同時に強かった。
だが、次の瞬間。
床に落ちた赤いものが目に入った。
血。
扉の陰から、廊下へ続く血の跡。
スバルの表情が凍る。
「……なんだ、これ」
「後ろ!」
ユイの声が飛んだ。
黒い影が動く。
刃が、音もなく走った。
スバルの腹を狙う、迷いのない一閃。
ユイはスバルの襟を掴んで引いた。
だが、エルザの刃は速い。
避けきれない。
「ぐ、あ……っ!」
スバルの脇腹が裂けた。
血が床に散る。
スバルは膝をつく。
その視線の先で、影から女が姿を現した。
長い黒髪。
艶やかな笑み。
手にした刃。
王都の盗品蔵で、スバルの腹を裂いた女。
「エルザ……!」
女は、ゆっくり微笑んだ。
「久しぶりね。あなたの中身、また見せてもらえるかしら」
ユイが前へ出る。
スバルとレムを背に庇う位置。
指先に虚飾の薄い膜をまとわせる。
視線をずらす。
距離を誤らせる。
気配を一拍遅らせる。
ただの幻ではない。
認識そのものに飾りをかける。
エルザの目が、面白そうに細くなった。
「あら。あなた、少し変わっているのね」
「褒め言葉としては受け取らないわ」
「いいえ、褒めているの」
エルザの刃が揺れる。
次の瞬間、彼女の体が消えたように見えた。
速い。
ユイは即座に横へ踏み込む。
スバルの位置を虚飾で半歩ずらして見せながら、自分は刃の軌道へ割り込んだ。
短剣を抜く。
金属音。
エルザの刃と、ユイの短剣がぶつかった。
重い。
見た目以上に、刃に乗った力が重い。
ユイの手首が痺れる。
「っ……!」
「あら、受けたのね」
エルザが笑う。
「そういう子、嫌いじゃないわ」
「私は嫌いよ」
ユイは刃を弾き、後ろへ下がる。
しかし、エルザはすでに次の角度から入ってくる。
腹。
喉。
太腿。
どれも、動きを奪い、苦しませ、開くための刃筋。
ユイは虚飾で自分の位置をずらす。
一撃目を空振りさせる。
二撃目を短剣で逸らす。
三撃目は避けきれず、袖が裂けた。
血が一筋、腕を伝う。
「ユイさん!」
「叫ばないで。位置が割れる」
「もう割れてんだろ!」
「さらに悪くなる」
スバルは脇腹を押さえながら、レムの寝台の前に立つ。
痛い。
熱い。
視界が揺れる。
けれど、退けない。
レムがいる。
ユイが戦っている。
ここで倒れるわけにはいかない。
エルザはユイの虚飾に惑わされながらも、完全には崩れない。
笑っている。
戦いを楽しんでいる。
人の命を、開ける箱のように見ている。
「あなたのその力、目が滑るわ。距離が変わる。いるのにいない。いないのにいる。素敵ね」
「最悪の評価ね」
「でも、完全ではない」
エルザの足が床を蹴る。
次の瞬間、彼女は虚飾でずらしたはずの位置へ、最短で踏み込んできた。
ユイの目が見開かれる。
読まれた。
完全にではない。
だが、勘で補われた。
刃が迫る。
ユイは体を捻る。
腹は避けた。
だが、肩口を深く裂かれる。
「っ、あ……!」
血が飛ぶ。
「ユイさん!」
スバルが叫ぶ。
ユイは膝をつきかけ、踏みとどまった。
「まだ、動ける」
「無理すんな!」
「あなたにだけは言われたくないわ」
ユイは息を整える。
守る。
そのために来た。
スバルを守る。
レムを守る。
屋敷にいるはずのペトラも、フレデリカも。
守れるだけ、守る。
エルザが刃を舐めるように見つめ、微笑んだ。
「その目、いいわ。守るものが多い人の目ね」
「だったら?」
「そういう人ほど、開いた時に綺麗なの」
ユイは短剣を構え直す。
スバルも、血で滑る手を握りしめた。
「ユイさん、レムを頼む」
「あなたは?」
「時間を稼ぐ」
「それは私の役目よ」
「俺だって役に立つ」
「立つなら死なないで」
「善処する」
「実行」
「……実行する」
スバルは、痛む脇腹を押さえながら、エルザへ向き直る。
「エルザ。お前を雇ったのは誰だ」
「あら。いきなり尋問?」
「答えろ」
「答えたら、あなたの腸を見せてくれる?」
「誰が見せるか」
「残念」
エルザは笑う。
その笑みは、会話を楽しんでいるようで、まるで隙がない。
スバルは、エルザの視線を引きつけるように一歩前へ出た。
ユイがその意図を悟り、レムの寝台側へ下がる。
その一瞬を、エルザは見逃さなかった。
「守るものがあると、動きが素直になるわ」
エルザが踏み込む。
狙いは、スバルではない。
レム。
「させるか!」
スバルが飛び込む。
ユイも同時に動く。
虚飾でレムの位置を一瞬だけずらして見せる。
エルザの刃が空を切る。
だが、その直後、エルザの膝がスバルの腹へ入った。
「がっ……!」
裂かれた脇腹に衝撃が響く。
視界が白く弾けた。
スバルの体が床へ叩きつけられる。
「スバルくん!」
ユイが叫ぶ。
その叫びに、エルザの刃が反応する。
ユイは避けようとするが、肩の傷で動きが鈍った。
刃が横腹を掠める。
深くはない。
だが、確実に体力を削られる。
「っ……」
「あなたも、そろそろ限界ね」
「まだよ」
「強がりは好きよ」
「好かれたくないわ」
ユイは短剣を握り直す。
だが、手が震えている。
虚飾は万能ではない。
エルザのような相手には、一度二度なら通じても、だんだん見切られる。
スバルは床に倒れたまま、レムの方を見る。
眠っている。
何も知らずに。
誰からも忘れられて。
それでも、そこにいる。
「レム……」
手を伸ばす。
届かない。
エルザの刃が、ゆっくりとスバルへ向いた。
「やっぱり、あなたから先にしましょうか。あの時と同じように」
盗品蔵。
腹を裂かれた夜。
死んだ瞬間の熱と冷たさが蘇る。
スバルは息を荒げる。
逃げろ。
ユイを逃がせ。
レムを守れ。
ペトラを探せ。
フレデリカを探せ。
ベアトリスに聞け。
やるべきことが多すぎる。
なのに、体が動かない。
「ユイ、さん……」
「喋らないで」
ユイが、スバルの前に立とうとする。
だが、エルザの動きが一拍早い。
黒い影が滑る。
刃が、スバルの腹へ沈んだ。
「――あ」
熱い。
熱い。
熱い。
腹の中を、何かがかき混ぜる。
呼吸ができない。
声が出ない。
視界が滲む。
「スバルくん!」
ユイの声が遠い。
エルザの笑みが近い。
「やっぱり、いいわ。あなたの中は、とても温かい」
スバルは、震える手でエルザの腕を掴もうとした。
届かない。
指先が空を掴む。
血が溢れる。
床が赤く染まる。
レム。
ユイさん。
エミリアたん。
ペトラ。
フレデリカ。
ベア子。
まだ、何もできていない。
守ると決めたのに。
戻る場所になると言ったのに。
何も。
何も。
「……ざ、けんな」
声にならない声が漏れる。
死にたくない。
でも、死ぬ。
この感覚を、スバルは知っている。
何度も味わった。
慣れたくないのに、体が覚えている。
冷たさが足先から上がってくる。
痛みが遠ざかる。
音が遠くなる。
最後に見えたのは、血に濡れたユイがこちらへ手を伸ばしている姿だった。
彼女の口が動く。
何かを言っている。
聞こえない。
届かない。
世界が黒く潰れる。
死ぬ。
死んだ。
――そして。
「……っ、が、はっ!」
スバルは、冷たい石の床の上で息を吸った。
肺に空気が入る。
喉が焼ける。
心臓が暴れる。
腹に手を当てる。
傷はない。
血もない。
けれど、痛みだけが記憶として残っている。
視界が揺れる。
湿った空気。
冷たい石の床。
墓所。
あの教室ではない。
屋敷でもない。
エルザの刃もない。
戻った。
死に戻った。
すぐ近くで、ユイが膝をついていた。
彼女は、何も知らない顔でこちらを見ている。
あるいは、何も知らないふりをしている。
「……スバルくん?」
その声が、遠く聞こえた。
少し離れた場所で、エミリアがまだ震えている。
あの時と同じ。
第一の試練を越えた直後。
エルザに殺される前。
屋敷へ戻る前。
ロズワールと対峙する前。
すべてが、巻き戻っている。
スバルは腹を押さえたまま、震えた。
血の感触が消えない。
刃の冷たさが消えない。
ユイが血を流していた姿が、目に焼きついている。
「スバルくん、どうしたの?」
ユイの声。
知らないはずの声。
それでも、スバルにはまともに返せなかった。
喉が震える。
言えるはずがない。
言えば、あの黒い手が来る。
だから、スバルはただ息を吸った。
そして、墓所の奥で震えるエミリアの方を見た。
ここからだ。
ここから、やり直す。
屋敷にはエルザがいる。
レムが危ない。
ペトラも、フレデリカも、ベアトリスも。
そして、ユイも。
守るべきものが、増えすぎている。
それでも、スバルは歯を食いしばった。
今度こそ。
今度こそ、誰も殺させない。