Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第三十六話 踏み出した一歩

 教室の扉を開けた瞬間、スバルは息を止めた。

 

 そこは、かつて逃げた場所だった。

 

 机が並んでいる。

 

 黒板がある。

 

 窓から朝の光が差し込んでいる。

 

 けれど、生徒はいない。

 

 教師もいない。

 

 誰の笑い声も、誰の視線もない。

 

 ただ、窓際の席に一人だけ座っている少女がいた。

 

 白い髪。

 

 黒い衣――ではなく、見慣れたはずの制服。

 

 だが、その姿は教室に似合っているようで、決定的に浮いていた。

 

 強欲の魔女、エキドナ。

 

「やあ、ナツキ・スバル」

 

 彼女は、当然のように微笑んだ。

 

 スバルは顔をしかめる。

 

「……まず言わせろ」

 

「なんだい?」

 

「制服、似合ってるのが腹立つ」

 

 エキドナは目を瞬かせ、それから楽しそうに笑った。

 

「最初の感想がそれかい?」

 

「他に何言えってんだよ。魔女が人の記憶の教室で制服着て待ってる状況、どこから突っ込めばいいかわかんねえんだよ」

 

「ここは君の記憶を元にした場所だ。なら、僕も場に合わせるべきだろう?」

 

「場に合わせるなら、まず出てけ」

 

「それは困るね。僕は試験官のようなものだから」

 

「趣味の悪い試験官だな」

 

「否定はしないよ」

 

「否定しろよ」

 

 軽口を叩きながら、スバルは教室へ入った。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 昔なら、この場所に入るだけで息が詰まった。

 

 笑われる気がした。

 

 比べられる気がした。

 

 自分が父のようになれないことを、ここで何度も思い知らされた。

 

 だが、今は違う。

 

 怖さは消えていない。

 

 けれど、それだけではない。

 

 父がいた。

 

 母がいた。

 

 行ってこいと言われた。

 

 いってらっしゃいと言われた。

 

 だから、足は止まらなかった。

 

「ここが、終点か」

 

「第一の試練の、ね」

 

 エキドナは頬杖をついたまま、スバルを見る。

 

「君は過去と向き合った。父と話し、母と話し、逃げていた場所へ足を踏み入れた。十分だ」

 

「十分、ね」

 

 スバルは教室の中を見渡した。

 

 懐かしい。

 

 苦しい。

 

 腹立たしい。

 

 それでも、もうここに置いていかれているわけではない。

 

「最悪だったよ」

 

「そうかい」

 

「しんどかった。逃げたかった。泣いた。情けなかった」

 

「うん」

 

「でも、必要だった」

 

 その言葉に、エキドナの目が細くなる。

 

「いい答えだ」

 

「勝手に採点すんな」

 

「試験官だからね」

 

「だから腹立つんだよ」

 

 スバルは拳を握る。

 

「俺は、父さんにも母さんにも、何も返せないかもしれない。もう会えないかもしれない。なのに、行けって言われた」

 

「だから、君は行く?」

 

「ああ」

 

 迷いはなかった。

 

「戻らなきゃいけない場所がある。待たせてる奴がいる。助けたい人がいる。取り戻したい人がいる。だから戻る」

 

「欲張りだね」

 

「悪いかよ」

 

「いいや」

 

 エキドナは、楽しそうに微笑む。

 

「実に人間らしい」

 

「褒めてんのか馬鹿にしてんのか、どっちだ」

 

「両方かな」

 

「やっぱ最悪だな、お前」

 

 スバルは吐き捨てた。

 

 だが、以前ほどエキドナに呑まれてはいない。

 

 足元が、少しだけ固まっている。

 

「で、俺は?」

 

「君は第一の試練を突破した」

 

 エキドナは淡々と言った。

 

「過去と向き合い、そこから目を逸らさなかった。君には次へ進む資格がある」

 

「第一、ってことは」

 

「試練は三つある。過去、現在、未来。聖域を解放するには、それらすべてを越える必要がある」

 

「一回で終わらせてくれるほど、優しくねえってことか」

 

「理解が早いね」

 

「褒めんな」

 

「褒めているよ」

 

「だから褒めんなって」

 

 スバルは舌打ちする。

 

「なあ」

 

「なんだい?」

 

「俺が試練を受け続ければ、聖域は解放できるのか」

 

 エキドナは、すぐには答えなかった。

 

 その沈黙が答えのようなものだった。

 

「理屈の上では、君にも資格がある」

 

「なら――」

 

「けれど、それで君の望む結果になるかは別だ」

 

 スバルは眉を寄せる。

 

「エミリアたんが越えなきゃ意味がないってことか」

 

「少なくとも、その意味を望んでいる者はいるだろうね」

 

「ロズワールか」

 

「彼の名前を出すのが早いね」

 

「言いそうなんだよ、あいつが」

 

「実際、言うだろうね」

 

「やっぱ知ってんじゃねえか」

 

「知っていることと、語ることは別だよ」

 

「魔女も道化師も、遠回しにしか喋れねえのか」

 

「直接答えを渡すより、君が自分で辿り着く方が面白いからね」

 

「本当に最悪だな!」

 

 エキドナは笑った。

 

 その視線が、ほんの一瞬だけ教室の端へ向く。

 

 そこには、ユイがいた。

 

 虚飾で自分の存在を薄め、試練の端に潜り込んでいる。

 

 スバルには見えない。

 

 父にも母にも見えなかった。

 

 今も、スバルの認識には引っかからない。

 

 だが、エキドナだけは違う。

 

 彼女は完全にユイを見ていた。

 

 ユイは、無言で見返す。

 

 言わないで。

 

 その意思だけを目に乗せる。

 

 エキドナは口元をわずかに緩めた。

 

 言わない。

 

 少なくとも、今は。

 

 その沈黙が善意ではないことは、ユイにもわかっていた。

 

 面白がっているのだ。

 

 スバルが知らないまま進むことも、ユイが知らないふりを続けることも、その全部を楽しんでいる。

 

 それでも、今はその沈黙を利用するしかない。

 

「なあ」

 

 スバルは、エキドナが別の場所を見たことに気づかず言った。

 

「なんだい?」

 

「俺、ちゃんと言えたと思うか」

 

「誰に?」

 

「父さんと、母さんに」

 

 エキドナは、少しだけ目を瞬かせた。

 

「それを僕に聞くのかい?」

 

「聞いた俺が馬鹿だった」

 

「いいや。答えよう」

 

 エキドナは、珍しく穏やかな声で言った。

 

「君は言えたよ。少なくとも、君自身がずっと言うべきだと思っていた言葉は」

 

「……そっか」

 

「満足かい?」

 

「満足じゃねえよ」

 

 スバルは笑った。

 

 泣きそうな顔で。

 

「でも、よかった」

 

 教室の輪郭が薄れていく。

 

 机が白くほどける。

 

 黒板が光に溶ける。

 

 窓の外の景色が遠ざかる。

 

 スバルは、最後にもう一度だけ教室を見渡した。

 

 逃げた場所。

 

 怖かった場所。

 

 止まっていた場所。

 

 それでも、自分の一部だった場所。

 

「行ってくる」

 

 誰に向けた言葉でもなかった。

 

 けれど、確かに必要な言葉だった。

 

 エキドナは微笑んだ。

 

「行ってらっしゃい、ナツキ・スバル」

 

 白い光が弾けた。

 

 次に目を開けた時、そこは墓所だった。

 

 冷たい石の床。

 

 湿った空気。

 

 体に残る重さ。

 

 そして、すぐ近くにいるユイ。

 

「……戻った、のか」

 

「ええ。戻ったわ」

 

 ユイは何も知らない顔で頷いた。

 

 ただ待っていただけのように。

 

 スバルは体を起こそうとして、すぐに顔を上げる。

 

「エミリアたん!」

 

 少し離れた場所で、エミリアが膝をついていた。

 

 肩を震わせ、頬に涙を流している。

 

 目は開いている。

 

 だが、スバルを見ていない。

 

 遠い過去に囚われたまま、小さくうわ言のように呟いている。

 

「違う……私じゃない……違うの……」

 

「エミリア!」

 

 スバルは駆け寄った。

 

 すぐに肩へ触れようとして、寸前で手を止める。

 

 過去に触れられるのは痛い。

 

 自分の試練を越えた今だからこそ、それはわかる。

 

 外から無理やり終わらせれば、余計に傷つくかもしれない。

 

 けれど、このまま放っておくこともできない。

 

「エミリア。聞こえるか。俺だ。スバルだ」

 

 返事はない。

 

「戻ってこい。今すぐ越えろなんて言わねえ。怖いなら怖いでいい。泣いたっていい。だから、戻ってこい」

 

 エミリアの瞳が、一瞬だけ揺れた。

 

「ス、バル……?」

 

「ああ。俺だ」

 

 その瞬間、エミリアの体から力が抜けた。

 

 スバルは咄嗟に抱き止める。

 

「エミリア!」

 

「限界よ」

 

 ユイが低く言った。

 

「外へ出しましょう。これ以上は危険」

 

「……わかった」

 

 スバルはエミリアを抱き上げ、墓所の出口へ向かった。

 

 夜気が肌を刺す。

 

 墓所の外には、ガーフィールと聖域の住人たちがいた。

 

 全員の視線が、腕の中のエミリアへ集まる。

 

 期待。

 

 落胆。

 

 不安。

 

 責めるような沈黙。

 

「……駄目だったのか」

 

 ガーフィールが低く言った。

 

「その言い方、やめろ」

 

 スバルの声も低くなる。

 

「今夜は越えられなかった。それだけだ」

 

「同じことだろうが」

 

「同じじゃねえ」

 

 スバルはエミリアを抱えたまま、ガーフィールを睨んだ。

 

「一回倒れたら終わりなのか。怖がったら資格なしなのか。そんなわけねえだろ」

 

 ガーフィールは舌打ちした。

 

 だが、すぐに住人たちへ顔を向ける。

 

「散れ。見せ物じゃねぇ」

 

 低い声だった。

 

 荒い。

 

 ぶっきらぼう。

 

 けれど、その一言で、住人たちのざわめきが止まった。

 

「姫様は倒れた。今日は終わりだ。文句がある奴は俺様に言え」

 

 誰も、それ以上は何も言わなかった。

 

 期待も不満も抱えたまま、住人たちは少しずつ離れていく。

 

 スバルは一瞬、ガーフィールを見る。

 

 ガーフィールは視線を逸らした。

 

「早く連れてけ。冷える」

 

「……ああ」

 

「落とすんじゃねぇぞ」

 

「落とすかよ」

 

「ならいい」

 

 それだけ言って、ガーフィールは背を向けた。

 

 乱暴な奴だ。

 

 敵意もある。

 

 信用もされていない。

 

 それでも、今の一言はエミリアを守るためのものだった。

 

 エミリアは部屋へ運ばれた。

 

 ラムが香を焚き、寝台を整える。

 

 ユイは水を用意し、エミリアの呼吸を確認した。

 

 やがて、エミリアの表情は少しだけ和らぐ。

 

 眠っている。

 

 けれど、安らかとは言えない。

 

 瞼の奥で、まだ何かを見ているようだった。

 

 スバルは、寝台の横に座り込む。

 

「……」

 

 自分が試練を越えたことは、言わなかった。

 

 言えなかった。

 

 今それを言えば、エミリアを余計に追い詰める。

 

 スバルには、そう思えた。

 

 だから、黙った。

 

「スバルくん」

 

 ユイが声をかける。

 

「今夜は休んで。あなたも墓所に入った直後よ」

 

「休めると思うか?」

 

「思わない。でも、座っていることはできる」

 

「昨日もそんなこと言ってたな」

 

「何度でも言うわ。あなたは言わないと忘れるから」

 

 スバルは苦笑した。

 

 ほんの少しだけ。

 

 その夜は、そこで終わった。

 

 スバルは寝台の横で、椅子に座ったまま朝を待った。

 

 ユイは部屋の隅にいた。

 

 目を閉じていたが、眠ってはいない。

 

 ロズワールの思惑。

 

 聖域の結界。

 

 エミリアを追い詰める空気。

 

 スバルを極限まで追い込もうとする盤面。

 

 ユイは、それらを知っている。

 

 だが、知っていることをそのまま吐き出しても守れない。

 

 だから、考える。

 

 知っている未来の中で、何を守るべきか。

 

 スバルを守る。

 

 エミリアを守る。

 

 レムを取り戻す道を守る。

 

 聖域にいる人々を、できる限り守る。

 

 壊さずに。

 

 見失わずに。

 

 ただ見ているだけではなく、守るために動く。

 

 翌朝。

 

 エミリアが目を覚ました。

 

 顔色は悪い。

 

 けれど、意識ははっきりしていた。

 

「……スバル?」

 

「起きたか。大丈夫か?」

 

「うん。大丈夫」

 

「大丈夫な顔じゃねえけど」

 

「大丈夫って言いたいの」

 

 エミリアはそう言って、無理に笑った。

 

 スバルは何も言えなくなる。

 

 その笑い方が痛かった。

 

「私、昨日……」

 

「倒れた」

 

「また、駄目だったんだね」

 

「またって言うな」

 

 スバルは即座に言った。

 

「昨日が最初だ。だめって決めるには早すぎる」

 

「でも、私がやらなきゃいけないんだよね」

 

 エミリアの声は、静かだった。

 

 その静けさが、逆に怖い。

 

 決意というより、自分を追い詰めるための言葉に聞こえた。

 

「村のみんなが、ここから出られない。私がやらなきゃ、みんな困る」

 

「一人で背負うな」

 

「でも、私が王選候補だから」

 

「王選候補でも、一人で壊れる必要はねえよ」

 

 スバルは、慎重に言葉を選ぶ。

 

「俺は、お前の過去を代わりに越えられない。でも、戻ってくる場所にはなれる」

 

「戻ってくる場所?」

 

「ああ」

 

 スバルは笑おうとした。

 

「墓所の外で待ってる。泣いてても、震えてても、怒ってても、戻ってきたら迎える。何回でも」

 

 エミリアは、少しだけ目を伏せた。

 

「……ありがとう」

 

 朝食後、聖域の事情を改めて聞くことになった。

 

 そこには、リューズもいた。

 

 幼い姿をした白髪の少女。

 

 だが、口調も目も、見た目よりずっと古い。

 

「結界を抜ける抜け道はないのか?」

 

 スバルが尋ねると、オットーが手を挙げた。

 

「つまりですね。結界に触れると混血の方々は倒れる。なら、倒れた状態で結界の外へ運べばいいのでは?」

 

「お前、たまに妙に現実的な案を出すよな」

 

「商人ですからね。抜け道を探すのは仕事みたいなものです」

 

「やめておいた方がよい」

 

 リューズが静かに言った。

 

「結界は、肉体だけを阻むものではない。無理に抜けようとすれば、魂を置き去りにする。外へ出るのは、ただの殻じゃ」

 

 オットーの顔色が変わる。

 

「それ、つまり……」

 

「死ぬのと変わらぬ」

 

「却下! 今の案は全面的に却下です!」

 

「判断が早いな」

 

「魂が置いていかれる案を再検討する商人はいません!」

 

 スバルは唇を噛む。

 

 抜け道はない。

 

 結局、試練を越えるしかない。

 

「なら、リューズさんやガーフィールが挑むのは?」

 

「挑むことはできる。だが、わしらでは聖域を解放できぬ」

 

「なんでだよ」

 

「契約じゃ。聖域に属する者は、聖域を解放する役目を担えぬ」

 

「どいつもこいつも、契約だの条件だの……」

 

「そういう場所じゃ、ここは」

 

 リューズは淡々と言った。

 

 ユイは、そこで一歩だけ口を挟む。

 

「現状、安全な解放手段は、外から来た資格者が試練を越えること。ただし、エミリア様の精神的負荷は大きい。次に挑むなら、体力と気持ちを整えてからです」

 

 リューズがユイを見る。

 

「そなたは冷静じゃの」

 

「慌てても結界は解けませんから」

 

「若いのに年寄りくさい」

 

「あなたに言われると複雑です」

 

 スバルが少しだけ吹き出した。

 

 重かった空気が、ほんの一瞬だけ緩む。

 

 日中、ラムに手伝わされながら、スバルは聖域の内情を聞いた。

 

 洗濯物を干すラムは、相変わらず涼しい顔をしている。

 

「全員が聖域の解放を望んでいるわけではないわ」

 

「閉じ込められてるのにか?」

 

「外を知らない者にとって、外は希望だけではないのよ」

 

 ラムは淡々と続ける。

 

「現状維持を望む者もいる。外と関わらず、このまま聖域で暮らす方がいいと考える者もいる。解放派と保守派。単純に全員が同じ方向を向いているわけではないわ」

 

「面倒くせえな」

 

「人が集まれば、面倒になるものよ」

 

 ユイは洗濯物を干しながら言った。

 

「だから、守る対象を間違えないことが必要です。聖域を解放するだけではなく、解放された後に残る人たちのことも考えないと」

 

「そこまで考えるのかよ」

 

「守るなら、そこまで」

 

 スバルはユイを見る。

 

 彼女の声は静かだった。

 

 けれど、その言葉には芯がある。

 

 守る。

 

 ただ敵を倒すだけではない。

 

 檻から出すことも、その先で迷わせないことも含んでいる。

 

 その日の夜。

 

 エミリアは再び試練に挑むことになった。

 

 昨日の夜ではない。

 

 一晩を越えて、休んだ上での再挑戦。

 

 それでも、彼女の顔色はよくなかった。

 

 墓所の前には、聖域の住人たちが集まっている。

 

 期待と不安。

 

 そして、今度こそという圧。

 

 その視線が、エミリアの細い背中に乗っていた。

 

「本当に行くのか」

 

 スバルが聞く。

 

 エミリアは頷いた。

 

「うん。行く」

 

「無理はするなよ」

 

「無理じゃないよ。私がやるって決めたの」

 

 その声は震えていた。

 

 決めたというより、決めなければならないと思い込んでいる声だった。

 

 ユイが、静かに近づく。

 

「エミリア様」

 

「なに?」

 

「戻れなくなりそうなら、声を出してください」

 

「声?」

 

「助けてでも、怖いでも、嫌でも、何でもいい。外にいる人間が気づけるように」

 

 エミリアは、少しだけ驚いた顔をした。

 

 そして、弱く笑う。

 

「うん。ありがとう、ユイ」

 

 エミリアは墓所へ入っていった。

 

 待つ時間は長かった。

 

 スバルは落ち着かず、何度も入口を見る。

 

 その横で、ガーフィールが腕を組んでいた。

 

「てめぇ、墓所に入って戻ってきたんだよな」

 

「ああ」

 

「姫様はああなった」

 

「……言いたいことがあるなら言えよ」

 

「別に」

 

「別にって顔じゃねえだろ」

 

 ガーフィールは鼻を鳴らす。

 

「無理して立ってる奴は、見てりゃわかる」

 

「エミリアたんのことか」

 

「姫様だけじゃねぇよ」

 

「俺もかよ」

 

「てめぇもだ」

 

 その声は乱暴だった。

 

 だが、敵意だけではなかった。

 

 ガーフィールは墓所の入口を見たまま続ける。

 

「聖域の連中は待ってる。けど、待ってる奴らの目が、全部優しいわけじゃねぇ」

 

「……わかってる」

 

「わかってんなら、姫様が出てきた時に余計なこと言うな。潰れるぞ」

 

 スバルは驚いてガーフィールを見る。

 

 ガーフィールは視線を合わせない。

 

「なんだよ」

 

「いや……」

 

「変な目で見んな。気色悪ぃ」

 

「お前、意外と見てるんだな」

 

「うるせぇ」

 

 ガーフィールは、さらに顔を背ける。

 

「それと、フレデリカの石。持ってんだろ」

 

「これか」

 

 スバルは胸元の石に触れる。

 

「あれを渡した理由、フレデリカ本人に聞く必要がある」

 

「姉貴を疑うのか」

 

「疑いたくはねえ。でも、確認はする」

 

「……」

 

 ガーフィールは黙った。

 

 フレデリカの名が出ると、彼の態度がわずかに変わる。

 

 スバルはそれを見逃さなかった。

 

 だが、問い詰める前に、墓所の光が揺らいだ。

 

 中から、泣き声が聞こえた。

 

「エミリア!」

 

 スバルは走り出す。

 

 墓所の入口から、エミリアがふらつきながら出てきた。

 

 頬は涙で濡れている。

 

 息は乱れ、目は怯えていた。

 

「ごめん……また、だめだった……」

 

「謝るな」

 

 スバルは彼女を支える。

 

「謝るな、エミリア」

 

「でも、私、また……」

 

「今日はもういい」

 

「でも、みんなが……」

 

「いいって言ってんだ!」

 

 少し強い声になってしまった。

 

 エミリアがびくりとする。

 

 スバルはすぐに表情を歪めた。

 

「悪い。怒鳴るつもりじゃなかった」

 

 周囲の住人たちがざわめく。

 

 そのざわめきを、ガーフィールが一喝した。

 

「散れ!」

 

 声が夜を叩いた。

 

「姫様は終わりだ。今日はもう何もねぇ。見てても結界は解けねぇぞ」

 

 乱暴な言い方だった。

 

 けれど、住人たちはその声に押されるように離れていく。

 

 ガーフィールは、最後にエミリアをちらりと見た。

 

「早く連れてけ。寒ぃ」

 

「……助かった」

 

「礼を言うな。別にてめぇのためじゃねぇ」

 

「わかってる」

 

「なら黙って運べ」

 

 ユイが二人の間に入るように、そっと声を置く。

 

「戻りましょう。今のエミリア様に必要なのは、次の試練ではなく休息です」

 

 エミリアは、何も言えずに俯いた。

 

 その後、スバルはロズワールの元へ向かった。

 

 我慢できなかった。

 

 エミリアがまた泣いている。

 

 それなのに、あの道化師はベッドの上で笑っている。

 

 それが、どうしても許せなかった。

 

 ロズワールの部屋。

 

 包帯だらけの体。

 

 それでも、変わらない笑み。

 

「ロズワール」

 

「やぁ、スバルくぅん」

 

「聞きたいことがある」

 

「なんだろぉねぇ」

 

 スバルは一歩前へ出る。

 

「お前、魔女教がエミリアを狙うって知ってたな」

 

 空気が止まった。

 

 ラムの目がわずかに細くなる。

 

 ユイは黙って立っていた。

 

 知っている。

 

 ロズワールが何を考え、何を捨て、何をスバルへ押しつけたのか。

 

 けれど、ここはスバルが自分の言葉で問い詰める場面だ。

 

 ユイは、口を挟まない。

 

「知ってたのに、エミリアに言わなかった。村にも言わなかった。屋敷にもいなかった」

 

「結果としては、君がうまくやった」

 

 ロズワールは静かに言った。

 

 スバルの顔が歪む。

 

「結果?」

 

「白鯨を討ち、他陣営を動かし、魔女教を退けた。君は素晴らしい働きをしたよ」

 

「ふざけんな」

 

 スバルの声が低くなる。

 

「何人死んだと思ってる。何回、全部終わりかけたと思ってる。エミリアがどれだけ傷ついたと思ってる」

 

「それでも、君は成功した」

 

 ロズワールは笑う。

 

「私は君ならできると信じていた」

 

 その言葉に、スバルの中で何かが切れた。

 

 拳が上がる。

 

 だが、振り下ろされる前にラムが動いた。

 

 スバルの腕を掴み、止める。

 

「ラム、離せ!」

 

「離さないわ」

 

「お前、こいつが何言ってるかわかってんのか!」

 

「わかっているわ」

 

 ラムの声は静かだった。

 

「ロズワール様のしたことを、ラムは肯定しない」

 

「だったら――」

 

「けれど、ラムはロズワール様のメイドよ」

 

 スバルは言葉を失う。

 

 ラムの目は揺れていなかった。

 

 怒りがないわけではない。

 

 失望がないわけでもない。

 

 けれど、彼女はそれでもロズワールの側に立つ。

 

 それが、ラムだった。

 

 ロズワールは、ゆっくりと続ける。

 

「魔女教の襲撃は、エミリア様の王選にとって利用できる災厄だった。彼女を狙う敵を退けたという実績は、彼女への恐れを覆す材料になる」

 

「利用、だと」

 

「君は感情的だねぇ」

 

「当たり前だろうが!」

 

 スバルは叫ぶ。

 

「人の命を駒みたいに言うな!」

 

「駒だよ」

 

 ロズワールの声が、ひどく平坦になる。

 

「私も、君も、エミリア様も、ラムも、ガーフィールも、聖域の住人も。目的のために動く盤上の駒だ」

 

「俺は違う」

 

「そうかな」

 

「違う!」

 

 スバルは拳を震わせる。

 

「俺は、誰かを助けたいから動いた。お前の思惑通りに動いたんじゃねえ」

 

「だが、結果は私の望みに近づいた」

 

 ロズワールは微笑む。

 

「君は便利だよ、スバルくん。私の想定以上にね」

 

 スバルの息が荒くなる。

 

 ユイは、その横で静かに言った。

 

「ロズワール様」

 

「なんだい、ユイくぅん」

 

「これ以上話せば、今夜は収拾がつきません」

 

「止めるのかい?」

 

「守るためです」

 

 ロズワールの目がわずかに動く。

 

「何を?」

 

「今壊すべきでないものを」

 

 スバルはユイを見る。

 

 何を守るのか。

 

 エミリアか。

 

 自分か。

 

 ラムか。

 

 この場か。

 

 わからない。

 

 だが、ユイの声は、今ここで拳を振り抜くことを止めていた。

 

 ロズワールは小さく笑う。

 

「面白い言い方だ」

 

「面白がらなくて結構です」

 

「いいだろう。今夜はここまでにしよう」

 

「勝手に終わらせんな!」

 

「スバルくん」

 

 ユイが低く呼ぶ。

 

「エミリア様のところへ」

 

 その一言で、スバルは歯を食いしばった。

 

 そうだ。

 

 今、優先すべきはロズワールを殴ることではない。

 

 エミリアだ。

 

 彼女はまた試練に失敗し、傷ついている。

 

 スバルは拳を下ろした。

 

「……まだ終わってねえからな」

 

「もちろん」

 

 ロズワールは笑った。

 

「楽しみにしているよ」

 

 部屋を出ると、スバルは壁に拳を叩きつけそうになった。

 

 だが、寸前で止める。

 

 ユイが隣にいる。

 

「殴らなかったわね」

 

「……殴ったら、エミリアたんのところに行く前に手を痛める」

 

「正解」

 

「お前の言い方、たまに変なところで効くよな」

 

「効いたならよかったわ」

 

 スバルは息を吐き、墓所の方へ向かった。

 

 エミリアは、墓所の外にいた。

 

 月明かりの下、石段に座り込んでいる。

 

 膝を抱え、肩を震わせていた。

 

 スバルが近づくと、彼女は顔を上げる。

 

「スバル……」

 

「ここにいたのか」

 

「部屋にいると、みんなに心配かけちゃうから」

 

「外にいても心配する」

 

「そっか」

 

 エミリアは、小さく笑おうとして失敗した。

 

「私、まただめだったね」

 

「だめって言うな」

 

「でも、だめだったよ。私は何度やっても……」

 

「お前の試練は、お前のものだ」

 

「……」

 

「俺は、お前が何を見てるのか知らない。無理に聞くつもりもない。でも、同じやり方で越えられるとは思ってねえ」

 

「……怖いの」

 

 エミリアの声は、小さかった。

 

「見たくないものがあるの。思い出したくないのに、見せられる。私が、私じゃなくなるみたいで……」

 

「うん」

 

「私、王選候補なのに。みんなを助けなきゃいけないのに。こんなんじゃ……」

 

「エミリア」

 

 スバルは、彼女の名前を呼んだ。

 

「怖いなら怖いでいい」

 

「よくないよ」

 

「よくなくても、そうなんだろ」

 

 エミリアの瞳が揺れる。

 

「怖がるなって言っても、怖いもんは怖い。俺もそうだった。親父と母さんに会うの、怖かった。学校に行くのも怖かった」

 

「スバルも?」

 

「ああ」

 

 スバルは苦笑する。

 

「俺、格好悪いところだらけだったよ。逃げたことも、言えなかったことも、全部見た」

 

「でも……」

 

「越えた、なんて簡単に言えるほど格好よくはない。ただ、抱えて戻ってきたんだと思う」

 

「抱えて……」

 

「なかったことにはできない。でも、それでも前に進む。そういう感じだ」

 

 エミリアは膝を抱く手に力を込める。

 

「私にも、できるかな」

 

「今すぐできるって言ったら、嘘になる」

 

 スバルは正直に言った。

 

 エミリアが少しだけ目を見開く。

 

「でも、できるようになるまで一緒に考える。戻ってくる場所にはなる。何回でも言う」

 

「戻ってくる場所……」

 

「そうだ」

 

 スバルは笑った。

 

「墓所の外で待ってる。泣いて出てきても、震えて出てきても、怒って出てきても、俺がいる。ユイさんもいる。オットーも、ラムも、たぶん何だかんだでガーフィールもいる」

 

「ガーフィールも?」

 

「たぶん文句言いながらな」

 

 エミリアは、少しだけ笑った。

 

 ほんの少しだけ。

 

 でも、それは確かに笑顔だった。

 

 その夜は、長かった。

 

 けれど、ようやく明けた。

 

 翌日。

 

 屋敷へ向かう準備が整えられた。

 

 フレデリカの石の件。

 

 ベアトリスへの問い。

 

 ペトラの安否。

 

 そして、レム。

 

 スバルは、屋敷へ戻る必要があった。

 

 出発前、ラムがスバルの胸元を見て言った。

 

「それ、ペトラから?」

 

「ん? ああ」

 

 スバルは、お守りを摘まむ。

 

「屋敷を出る前にもらった。メイド見習いになったって張り切ってた」

 

「そう」

 

 ラムの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「なら、無事を確認してきなさい」

 

「言われなくても」

 

「それと、フレデリカの件で揉めたら、ベアトリスに聞きなさい」

 

「ベア子に?」

 

「ロズワール様からの伝言よ。ベアトリスに、ロズワール様が問えと言った、と」

 

「何を聞けってんだよ」

 

「そこまでは聞いていないわ」

 

「不親切すぎる!」

 

 ユイは横で、その伝言を黙って聞いた。

 

 ベアトリス。

 

 禁書庫。

 

 ロズワールの問い。

 

 そこにも、守らなければならないものがある。

 

 ガーフィールが竜車の前で腕を組んでいた。

 

「途中まで送る」

 

「お前が?」

 

「不満かよ」

 

「いや、意外だっただけだ」

 

 ガーフィールは鼻を鳴らす。

 

「結界の近くまでだ。そっから先は勝手に行け」

 

 竜車が動き出す。

 

 ガーフィールは不機嫌そうに手綱を握っていた。

 

 道中、スバルは胸元の石に触れる。

 

「なあ、ガーフィール」

 

「あ?」

 

「フレデリカって、お前の何なんだ」

 

「……姉貴だ」

 

 短い答えだった。

 

 スバルは目を瞬かせる。

 

「姉貴?」

 

「それ以上聞くな」

 

「いや、聞くだろ普通」

 

「聞くなっつってんだよ」

 

 声は荒い。

 

 だが、怒りの奥に別のものがあった。

 

 簡単に踏み込まれたくない場所。

 

 切り捨てたわけではない相手。

 

 スバルは、それ以上踏み込まなかった。

 

 結界の手前で、ガーフィールは竜車を止めた。

 

「ここまでだ」

 

「助かった」

 

「礼はいらねぇ」

 

 ガーフィールは、スバルへ石を返すように差し出した。

 

「姉貴と揉めたら、それを見せろ。何か言うだろ」

 

「……信じてるのか、フレデリカを」

 

「てめぇに関係ねぇ」

 

「関係あるから戻るんだよ」

 

 ガーフィールは舌打ちした。

 

 しばらく沈黙してから、ぶっきらぼうに言う。

 

「姉貴は、考えなしに動く女じゃねぇ。何かあるなら、理由がある」

 

「それ、信じてるってことじゃねえのか」

 

「うるせぇ」

 

 ガーフィールはスバルを睨む。

 

「てめぇも、余計なところで腹立つ目をするな」

 

「どんな目だよ」

 

「人の奥を見ようとする目だ」

 

「……悪い」

 

「謝んな。調子狂う」

 

 ユイが口を開く。

 

「屋敷では、別行動を避けます。最初にレムさんの部屋を確認。その後、ペトラさん、フレデリカさん、ベアトリスさん」

 

「お前、仕切るな」

 

 ガーフィールが睨む。

 

 ユイは静かに見返した。

 

「守るためです」

 

「あ?」

 

「スバルくんを。屋敷にいる人たちを。可能な限り」

 

 ガーフィールは、しばらくユイを見る。

 

 それから鼻を鳴らした。

 

「なら、守ってみせろよ」

 

「ええ」

 

「……あと」

 

 ガーフィールは、言いにくそうに視線を逸らした。

 

「姫様に、無理すんなって言っとけ。俺様が言うと角が立つ」

 

 スバルは目を丸くした。

 

「お前、やっぱり――」

 

「うるせぇ! 行け!」

 

 怒鳴られ、スバルは苦笑しながら結界を越えた。

 

 ユイも続く。

 

 薄い膜を抜けるような感覚だけが体を撫でた。

 

 そこから先、二人は急いでロズワール邸へ向かった。

 

 屋敷は、静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 庭に人影はない。

 

 玄関も開かない。

 

 いつもの屋敷の気配が、どこか欠けている。

 

「……おかしい」

 

 ユイが低く言う。

 

 スバルも、すぐに顔を強張らせた。

 

「フレデリカ!」

 

 返事はない。

 

「ペトラ!」

 

 声は、広い玄関に吸い込まれて消える。

 

 スバルの胸に、嫌な予感が膨れ上がる。

 

「レム……!」

 

 スバルは走り出した。

 

 ユイも後を追う。

 

「走るなら、警戒もして」

 

「わかってる!」

 

「わかっている人の走り方じゃないわ」

 

「今それ言う!?」

 

 廊下を駆け抜ける。

 

 レムの部屋へ。

 

 扉を開ける。

 

「レム!」

 

 寝台の上に、レムはいた。

 

 静かに眠っている。

 

 少なくとも、目に見える範囲では無事だった。

 

 スバルは息を吐きかける。

 

「よかっ……」

 

 だが、ユイの目は部屋全体を見ていた。

 

 窓。

 

 カーテン。

 

 床。

 

 扉の陰。

 

 影の濃さ。

 

 空気の湿り。

 

 ここには、誰かがいる。

 

 あるいは、いた。

 

「スバルくん」

 

「なんだよ」

 

「安心するのは後。レムさんに異変がないか確認したら、すぐ出る」

 

 スバルは頷き、眠るレムのそばへ膝をついた。

 

「レム。悪い、少しだけ確認するぞ」

 

 返事はない。

 

 当然だ。

 

 それでも、スバルは声をかける。

 

「屋敷が変なんだ。だから、ちょっとだけ警戒態勢な。俺たちが守る。だから、お前はそのまま寝てろ」

 

 その言葉に、ユイは一瞬だけ目を伏せた。

 

 誰も覚えていない少女へ、スバルだけが当たり前のように話しかける。

 

 それは痛くて、同時に強かった。

 

 だが、次の瞬間。

 

 床に落ちた赤いものが目に入った。

 

 血。

 

 扉の陰から、廊下へ続く血の跡。

 

 スバルの表情が凍る。

 

「……なんだ、これ」

 

「後ろ!」

 

 ユイの声が飛んだ。

 

 黒い影が動く。

 

 刃が、音もなく走った。

 

 スバルの腹を狙う、迷いのない一閃。

 

 ユイはスバルの襟を掴んで引いた。

 

 だが、エルザの刃は速い。

 

 避けきれない。

 

「ぐ、あ……っ!」

 

 スバルの脇腹が裂けた。

 

 血が床に散る。

 

 スバルは膝をつく。

 

 その視線の先で、影から女が姿を現した。

 

 長い黒髪。

 

 艶やかな笑み。

 

 手にした刃。

 

 王都の盗品蔵で、スバルの腹を裂いた女。

 

「エルザ……!」

 

 女は、ゆっくり微笑んだ。

 

「久しぶりね。あなたの中身、また見せてもらえるかしら」

 

 ユイが前へ出る。

 

 スバルとレムを背に庇う位置。

 

 指先に虚飾の薄い膜をまとわせる。

 

 視線をずらす。

 

 距離を誤らせる。

 

 気配を一拍遅らせる。

 

 ただの幻ではない。

 

 認識そのものに飾りをかける。

 

 エルザの目が、面白そうに細くなった。

 

「あら。あなた、少し変わっているのね」

 

「褒め言葉としては受け取らないわ」

 

「いいえ、褒めているの」

 

 エルザの刃が揺れる。

 

 次の瞬間、彼女の体が消えたように見えた。

 

 速い。

 

 ユイは即座に横へ踏み込む。

 

 スバルの位置を虚飾で半歩ずらして見せながら、自分は刃の軌道へ割り込んだ。

 

 短剣を抜く。

 

 金属音。

 

 エルザの刃と、ユイの短剣がぶつかった。

 

 重い。

 

 見た目以上に、刃に乗った力が重い。

 

 ユイの手首が痺れる。

 

「っ……!」

 

「あら、受けたのね」

 

 エルザが笑う。

 

「そういう子、嫌いじゃないわ」

 

「私は嫌いよ」

 

 ユイは刃を弾き、後ろへ下がる。

 

 しかし、エルザはすでに次の角度から入ってくる。

 

 腹。

 

 喉。

 

 太腿。

 

 どれも、動きを奪い、苦しませ、開くための刃筋。

 

 ユイは虚飾で自分の位置をずらす。

 

 一撃目を空振りさせる。

 

 二撃目を短剣で逸らす。

 

 三撃目は避けきれず、袖が裂けた。

 

 血が一筋、腕を伝う。

 

「ユイさん!」

 

「叫ばないで。位置が割れる」

 

「もう割れてんだろ!」

 

「さらに悪くなる」

 

 スバルは脇腹を押さえながら、レムの寝台の前に立つ。

 

 痛い。

 

 熱い。

 

 視界が揺れる。

 

 けれど、退けない。

 

 レムがいる。

 

 ユイが戦っている。

 

 ここで倒れるわけにはいかない。

 

 エルザはユイの虚飾に惑わされながらも、完全には崩れない。

 

 笑っている。

 

 戦いを楽しんでいる。

 

 人の命を、開ける箱のように見ている。

 

「あなたのその力、目が滑るわ。距離が変わる。いるのにいない。いないのにいる。素敵ね」

 

「最悪の評価ね」

 

「でも、完全ではない」

 

 エルザの足が床を蹴る。

 

 次の瞬間、彼女は虚飾でずらしたはずの位置へ、最短で踏み込んできた。

 

 ユイの目が見開かれる。

 

 読まれた。

 

 完全にではない。

 

 だが、勘で補われた。

 

 刃が迫る。

 

 ユイは体を捻る。

 

 腹は避けた。

 

 だが、肩口を深く裂かれる。

 

「っ、あ……!」

 

 血が飛ぶ。

 

「ユイさん!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 ユイは膝をつきかけ、踏みとどまった。

 

「まだ、動ける」

 

「無理すんな!」

 

「あなたにだけは言われたくないわ」

 

 ユイは息を整える。

 

 守る。

 

 そのために来た。

 

 スバルを守る。

 

 レムを守る。

 

 屋敷にいるはずのペトラも、フレデリカも。

 

 守れるだけ、守る。

 

 エルザが刃を舐めるように見つめ、微笑んだ。

 

「その目、いいわ。守るものが多い人の目ね」

 

「だったら?」

 

「そういう人ほど、開いた時に綺麗なの」

 

 ユイは短剣を構え直す。

 

 スバルも、血で滑る手を握りしめた。

 

「ユイさん、レムを頼む」

 

「あなたは?」

 

「時間を稼ぐ」

 

「それは私の役目よ」

 

「俺だって役に立つ」

 

「立つなら死なないで」

 

「善処する」

 

「実行」

 

「……実行する」

 

 スバルは、痛む脇腹を押さえながら、エルザへ向き直る。

 

「エルザ。お前を雇ったのは誰だ」

 

「あら。いきなり尋問?」

 

「答えろ」

 

「答えたら、あなたの腸を見せてくれる?」

 

「誰が見せるか」

 

「残念」

 

 エルザは笑う。

 

 その笑みは、会話を楽しんでいるようで、まるで隙がない。

 

 スバルは、エルザの視線を引きつけるように一歩前へ出た。

 

 ユイがその意図を悟り、レムの寝台側へ下がる。

 

 その一瞬を、エルザは見逃さなかった。

 

「守るものがあると、動きが素直になるわ」

 

 エルザが踏み込む。

 

 狙いは、スバルではない。

 

 レム。

 

「させるか!」

 

 スバルが飛び込む。

 

 ユイも同時に動く。

 

 虚飾でレムの位置を一瞬だけずらして見せる。

 

 エルザの刃が空を切る。

 

 だが、その直後、エルザの膝がスバルの腹へ入った。

 

「がっ……!」

 

 裂かれた脇腹に衝撃が響く。

 

 視界が白く弾けた。

 

 スバルの体が床へ叩きつけられる。

 

「スバルくん!」

 

 ユイが叫ぶ。

 

 その叫びに、エルザの刃が反応する。

 

 ユイは避けようとするが、肩の傷で動きが鈍った。

 

 刃が横腹を掠める。

 

 深くはない。

 

 だが、確実に体力を削られる。

 

「っ……」

 

「あなたも、そろそろ限界ね」

 

「まだよ」

 

「強がりは好きよ」

 

「好かれたくないわ」

 

 ユイは短剣を握り直す。

 

 だが、手が震えている。

 

 虚飾は万能ではない。

 

 エルザのような相手には、一度二度なら通じても、だんだん見切られる。

 

 スバルは床に倒れたまま、レムの方を見る。

 

 眠っている。

 

 何も知らずに。

 

 誰からも忘れられて。

 

 それでも、そこにいる。

 

「レム……」

 

 手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 エルザの刃が、ゆっくりとスバルへ向いた。

 

「やっぱり、あなたから先にしましょうか。あの時と同じように」

 

 盗品蔵。

 

 腹を裂かれた夜。

 

 死んだ瞬間の熱と冷たさが蘇る。

 

 スバルは息を荒げる。

 

 逃げろ。

 

 ユイを逃がせ。

 

 レムを守れ。

 

 ペトラを探せ。

 

 フレデリカを探せ。

 

 ベアトリスに聞け。

 

 やるべきことが多すぎる。

 

 なのに、体が動かない。

 

「ユイ、さん……」

 

「喋らないで」

 

 ユイが、スバルの前に立とうとする。

 

 だが、エルザの動きが一拍早い。

 

 黒い影が滑る。

 

 刃が、スバルの腹へ沈んだ。

 

「――あ」

 

 熱い。

 

 熱い。

 

 熱い。

 

 腹の中を、何かがかき混ぜる。

 

 呼吸ができない。

 

 声が出ない。

 

 視界が滲む。

 

「スバルくん!」

 

 ユイの声が遠い。

 

 エルザの笑みが近い。

 

「やっぱり、いいわ。あなたの中は、とても温かい」

 

 スバルは、震える手でエルザの腕を掴もうとした。

 

 届かない。

 

 指先が空を掴む。

 

 血が溢れる。

 

 床が赤く染まる。

 

 レム。

 

 ユイさん。

 

 エミリアたん。

 

 ペトラ。

 

 フレデリカ。

 

 ベア子。

 

 まだ、何もできていない。

 

 守ると決めたのに。

 

 戻る場所になると言ったのに。

 

 何も。

 

 何も。

 

「……ざ、けんな」

 

 声にならない声が漏れる。

 

 死にたくない。

 

 でも、死ぬ。

 

 この感覚を、スバルは知っている。

 

 何度も味わった。

 

 慣れたくないのに、体が覚えている。

 

 冷たさが足先から上がってくる。

 

 痛みが遠ざかる。

 

 音が遠くなる。

 

 最後に見えたのは、血に濡れたユイがこちらへ手を伸ばしている姿だった。

 

 彼女の口が動く。

 

 何かを言っている。

 

 聞こえない。

 

 届かない。

 

 世界が黒く潰れる。

 

 死ぬ。

 

 死んだ。

 

 ――そして。

 

「……っ、が、はっ!」

 

 スバルは、冷たい石の床の上で息を吸った。

 

 肺に空気が入る。

 

 喉が焼ける。

 

 心臓が暴れる。

 

 腹に手を当てる。

 

 傷はない。

 

 血もない。

 

 けれど、痛みだけが記憶として残っている。

 

 視界が揺れる。

 

 湿った空気。

 

 冷たい石の床。

 

 墓所。

 

 あの教室ではない。

 

 屋敷でもない。

 

 エルザの刃もない。

 

 戻った。

 

 死に戻った。

 

 すぐ近くで、ユイが膝をついていた。

 

 彼女は、何も知らない顔でこちらを見ている。

 

 あるいは、何も知らないふりをしている。

 

「……スバルくん?」

 

 その声が、遠く聞こえた。

 

 少し離れた場所で、エミリアがまだ震えている。

 

 あの時と同じ。

 

 第一の試練を越えた直後。

 

 エルザに殺される前。

 

 屋敷へ戻る前。

 

 ロズワールと対峙する前。

 

 すべてが、巻き戻っている。

 

 スバルは腹を押さえたまま、震えた。

 

 血の感触が消えない。

 

 刃の冷たさが消えない。

 

 ユイが血を流していた姿が、目に焼きついている。

 

「スバルくん、どうしたの?」

 

 ユイの声。

 

 知らないはずの声。

 

 それでも、スバルにはまともに返せなかった。

 

 喉が震える。

 

 言えるはずがない。

 

 言えば、あの黒い手が来る。

 

 だから、スバルはただ息を吸った。

 

 そして、墓所の奥で震えるエミリアの方を見た。

 

 ここからだ。

 

 ここから、やり直す。

 

 屋敷にはエルザがいる。

 

 レムが危ない。

 

 ペトラも、フレデリカも、ベアトリスも。

 

 そして、ユイも。

 

 守るべきものが、増えすぎている。

 

 それでも、スバルは歯を食いしばった。

 

 今度こそ。

 

 今度こそ、誰も殺させない。

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