「……っ、が、はっ!」
冷たい石の床に、スバルは爪を立てた。
肺が空気を求めて痙攣する。
喉が焼ける。
心臓が、胸の中で暴れている。
腹を押さえた。
傷はない。
血もない。
裂かれた肉も、こぼれた熱も、床に広がった赤も、どこにもない。
それなのに、痛みだけがあった。
腹の内側を刃でかき混ぜられた感触。
エルザの笑み。
ペトラの悲鳴。
ラムの風。
フレデリカの咆哮。
ユイが血を流しながら手を伸ばした姿。
ベアトリスの禁書庫。
そして、最後に自分へ迫った刃。
全部が、まだ目の裏に焼きついている。
死んだ。
また、死んだ。
そして戻った。
「……スバルくん?」
すぐ近くで、ユイの声がした。
スバルは顔を上げる。
ユイが膝をついて、こちらを見ていた。
肩は裂けていない。
横腹にも血はない。
腕も、指も、無事だった。
それが当たり前のはずなのに、スバルは一瞬、息が止まった。
よかった。
生きている。
まだ。
まだ、何も起きていない。
「スバルくん、腹を押さえているわ」
ユイの目が細くなる。
「痛むの?」
「……痛く、ない」
「嘘ね」
「嘘でも、今はそれで通す」
ユイは黙った。
問い詰める目ではない。
ただ、見ている。
呼吸。
指の震え。
視線の揺れ。
スバルが言えない何かを抱えていると、もう理解している目だった。
「何かあったのね」
「……」
「言えない?」
スバルは答えられなかった。
喉の奥に、黒い手がある。
死に戻り。
口にすれば、心臓を握り潰される。
だから、言えない。
言えるはずがない。
ユイは、短く息を吐いた。
「わかった。言えないなら、今は聞かない」
「……いいのかよ」
「よくはないわ。でも、無理に聞いてもあなたは壊れるだけでしょう」
「……」
「だから、行動で示して。あなたが何を怖がっているか、何を急ぐか、誰を守ろうとしているか。私はそこから拾う」
スバルは、わずかに唇を噛んだ。
言えない。
それでも、完全に一人ではない。
そのことが、少しだけ肺に空気を入れてくれる。
その時、墓所の奥で、エミリアが震える声を漏らした。
「違う……私じゃない……違うの……」
スバルは顔を上げる。
エミリアが膝をついていた。
頬に涙を流し、目を開けたまま、ここではない過去を見ている。
何度見ても、慣れるものではなかった。
助けたい。
だが、無理やり過去から引き剥がせば、それはまた別の傷になる。
スバルは膝をつき、まず声をかけた。
「エミリア。聞こえるか。俺だ。スバルだ」
返事はない。
「今すぐ越えろなんて言わねえ。怖いなら怖いでいい。泣いたっていい。だから、戻ってこい。戻ってきてくれ」
エミリアの瞳が、かすかに揺れた。
「ス、バル……?」
「ああ。俺だ」
その瞬間、エミリアの体から力が抜けた。
スバルは抱き止める。
軽い。
あまりにも軽い。
この細い体に、聖域も、王選も、過去も、すべてがのしかかっている。
「外へ」
ユイが短く言った。
「これ以上は危険よ」
「ああ」
スバルはエミリアを抱き上げ、墓所の外へ出た。
外にはガーフィールがいた。
腕を組み、苛立った顔で立っている。
その後ろに、聖域の住人たち。
視線が集まる。
期待。
不安。
落胆。
沈黙の圧。
それらが、スバルの腕の中のエミリアへ突き刺さる。
「……駄目だったのか」
ガーフィールが言った。
スバルは噛みつきかけて、止めた。
この男は乱暴だ。
口も悪い。
だが、ただの敵ではない。
エミリアを見世物にしない。
無理をしている者を見ている。
フレデリカのことになると、隠しきれない感情が出る。
スバルは、それを知っている。
「今夜は、無理だった」
「同じことだろうが」
「違う」
スバルは静かに返した。
「一回倒れたら終わりじゃない。怖がったら資格なしってわけでもない。だから、今は休ませる」
ガーフィールはスバルを睨んだ。
それから、住人たちへ顔を向ける。
「散れ」
低い声だった。
「見てても結界は解けねぇ。姫様は今日は終わりだ。文句がある奴は俺様に言え」
荒い言い方。
けれど、それはエミリアを守る言葉だった。
住人たちは、不満と不安を残したまま、少しずつ離れていく。
スバルは、ガーフィールを見た。
「……助かる」
「礼を言うな。気色悪ぃ」
「まだ言ってねえだろ」
「顔が言ってんだよ」
ガーフィールはそっぽを向く。
「早く連れてけ。夜は冷える」
「ああ」
エミリアを部屋へ運ぶと、ラムが香を焚いた。
ユイは水を用意し、エミリアの呼吸を確かめる。
エミリアの表情は少しだけ和らいだ。
だが、安らかではない。
瞼の奥で、まだ何かを見ているようだった。
スバルは寝台の横で立ち尽くした。
腹の奥が疼く。
傷はない。
それでも、刃がまだ刺さっているように感じる。
「スバルくん」
ユイが言った。
「座って」
「……」
「命令よ。座りなさい」
スバルは椅子に腰を下ろす。
ユイはその前に立った。
「屋敷ね」
その一言に、スバルの心臓が跳ねた。
「……何が」
「あなたが今、一番怖がっている場所」
「……」
「エミリア様を心配している。でも、それだけじゃない。あなたは屋敷を怖がっている」
スバルは拳を握る。
言えない。
だが、隠しきれない。
なら、言える範囲で言うしかない。
「屋敷に戻る必要がある」
スバルは言った。
「フレデリカの石。ベア子。ペトラ。レム。全部、確認しなきゃいけない」
「今すぐ?」
「……できれば」
「エミリア様は?」
スバルは寝台を見る。
エミリアは眠っている。
苦しそうに。
ここで置いていくことはできない。
だが、屋敷も危ない。
エルザがいる。
魔獣もいる。
ペトラも、レムも、フレデリカも、ラムも、ベアトリスも、ユイも、死ぬ。
言えない。
言えないまま、それでも急がなければならない。
「朝まで待つ」
スバルは絞り出した。
「エミリアたんが起きるまでは動けない。でも、明日、必ず屋敷へ行く」
「わかった」
「止めないのか」
「止めても行くでしょう」
「……行く」
「なら、止めるより準備する」
ユイは淡々と言った。
「屋敷では、絶対に一人で動かない。走らない。誰かを見つけても、まず周囲を確認する」
「わかった」
「返事だけではなく、実行して」
「実行する」
その夜、スバルはほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、血が見える。
腹を裂く刃。
ペトラの首筋に当てられたナイフ。
ラムの声。
ユイの伸ばした手。
ベアトリスが、自分だけを禁書庫へ引き込んだ瞬間。
何度も息が詰まり、目を開けた。
そのたびに、ユイは部屋の隅にいた。
目を閉じている。
だが、眠ってはいない。
スバルは声をかけようとして、何度もやめた。
言えない。
なら、動くしかない。
翌朝。
エミリアが目を覚ました。
「……スバル?」
「起きたか。大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
「大丈夫な顔じゃねえけど」
「大丈夫って言いたいの」
無理に作った笑顔だった。
スバルの胸が痛む。
「私、昨日……」
「倒れた」
「また、駄目だったんだね」
「またって言うな」
スバルはすぐに言った。
「昨日が最初だ。駄目って決めるには早すぎる」
「でも、みんなが……」
「みんなを助けるために、エミリアたんが壊れたら意味がない」
エミリアは言葉を失う。
スバルは続けた。
「俺は、お前の過去を代わりに越えられない。でも、戻ってくる場所にはなれる」
「戻ってくる場所……」
「ああ。墓所の外で待ってる。泣いてても、震えてても、怒ってても、戻ってきたら迎える。何回でも」
エミリアは小さく俯いた。
「……ありがとう」
その後、ロズワールの休む家で話し合いが開かれた。
エミリア。
オットー。
ガーフィール。
ラム。
リューズ。
ユイ。
そしてスバル。
話題は、墓所の試練だった。
スバルは焦っていた。
屋敷へ行きたい。
だが、エミリアのことも放っておけない。
聖域を解放しなければ、状況は動かない。
焦りが、言葉を急かす。
「なあ」
スバルは口を開いた。
「俺にも資格があるなら、俺がエミリアたんの試練を手伝うことはできないのか」
空気が変わった。
エミリアの顔が強張る。
「スバルが……?」
「ああ。俺が中で何かできるなら――」
「待って」
エミリアの声が震えた。
「スバルは、私じゃ無理だって思ってるの?」
「違う。そうじゃなくて――」
「じゃあ、どうして代わりにやろうとするの?」
スバルは言葉に詰まる。
代わりにやる。
そんなつもりではなかった。
助けたかった。
支えたかった。
でも、エミリアにはそう聞こえた。
お前では無理だから、俺がやる。
そう突きつけられたように。
「エミリアたん、俺は――」
「ごめん。少し、一人にして」
エミリアは立ち上がり、部屋を出ていった。
スバルは、伸ばしかけた手を止めた。
「……やっちまった」
オットーが気まずそうに眉を下げる。
「スバルさん、今のは少し……」
「わかってる」
わかっている。
でも、遅い。
屋敷のこと。
エルザのこと。
死の記憶。
それらに押されて、言葉を間違えた。
ガーフィールが壁にもたれたまま鼻を鳴らす。
「姫様は、てめぇに信じてほしかったんだろ」
「……」
「代わりにやるって聞こえりゃ、そりゃ傷つく」
「お前に正論言われると刺さるな」
「刺さっとけ」
ユイは静かに言った。
「追いかけるなら、謝るために。説得するためではなく」
「……ああ」
スバルは立ち上がった。
外に出ると、エミリアは木陰にいた。
スバルは近づきすぎず、少し離れて立ち止まる。
「エミリア」
「……なに?」
「悪かった」
エミリアは振り向かない。
「俺、焦ってた。お前を信じてないわけじゃない。けど、そう聞こえたなら俺が悪い」
「……」
「俺は、お前の代わりにはなれない。お前の過去も、お前の怖さも、俺が勝手に越えられるものじゃない」
「うん」
「だから、代わりじゃなくて、戻ってくる場所になりたい。昨日言ったこと、本気だから」
エミリアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……わかった」
完全に届いたわけではない。
傷が消えたわけでもない。
だが、今はこれ以上踏み込むべきではなかった。
その後、リューズとガーフィールに呼ばれた。
森の入口近くで、リューズが足を止める。
「ロズワールは、エミリア様に試練を越えさせたいと思っておる」
「……やっぱりか」
「聖域を解放するだけなら、別の手もあるかもしれぬ。じゃが、ロズワールが望むのは、エミリア様が自ら越えることじゃ」
「王選のためか」
「それもあろうな」
ガーフィールが腕を組む。
「俺様たちは、ロズワールの言うことを無視できねぇ。あいつはこの土地の管理者だ。聖域の維持にも関わる」
「だからって、エミリアたんが潰れるのを見てるだけなのか」
「見てるだけじゃねぇよ」
ガーフィールの声が低くなる。
「俺様だって、姫様が潰れるのを見たいわけじゃねぇ」
スバルは黙った。
この男は、乱暴だ。
だが、無関心ではない。
どうにもならない状況に苛立っている。
守りたいものを守りきれないことに、怒っている。
「屋敷へ行く」
スバルは言った。
「フレデリカの石の件を確認する。ペトラとレムの無事も見たい。ベア子にも聞くべきことがある」
ガーフィールの眉が動いた。
「姉貴を疑うのか」
「疑いたくはない。でも、確認はする」
「……」
「お前がフレデリカを気にしてるのはわかる。だから、余計にちゃんと聞く」
「わかったような口を利くな」
「わかってないから聞くんだよ」
ガーフィールは舌打ちした。
だが、それ以上は噛みつかなかった。
ロズワールの部屋へ向かう。
包帯だらけの道化師は、変わらず笑っていた。
「屋敷へ戻りたい」
スバルは言った。
「フレデリカの石、ベアトリスへの話、ペトラとレムの安否確認。理由はそれで足りるだろ」
「足りるねぇ」
ロズワールは笑う。
「ただし、君一人では不安だ。ラムを連れていくといい」
「ラムを?」
「屋敷のことなら、ラムの方が慣れているだろう?」
ラムは無表情で頷く。
「ラムは構わないわ」
ユイが口を開いた。
「私も行きます」
「ユイくぅんも?」
「守るためです」
「何を?」
「屋敷に残っている人たちを」
ロズワールはユイを見た。
探るような目。
ユイは動じない。
知らないふりの仮面を外さない。
「いいだろう」
ロズワールは言う。
「それと、ベアトリスにはこう伝えるといい。ロズワールが問えと言った、と」
「何を問うんだよ」
「彼女ならわかる」
「本当に不親切だな」
「そういうものさ」
翌日。
屋敷へ向かう準備が整えられた。
ジャージの手首の部分んから、小さなお守りが覗く。
ラムがそれを見た。
「それ、ペトラから?」
「ああ。屋敷を出る前にもらった。メイド見習いになったって、張り切ってた」
「そう」
ラムの目が、わずかに柔らかくなる。
「なら、無事を確認してきなさい」
「言われなくても」
ガーフィールが竜車の前で待っていた。
「途中まで送る」
「お前が?」
「不満かよ」
「いや、意外だっただけだ」
「結界の近くまでだ。そっから先は勝手に行け」
竜車には、スバル、ラム、ユイが乗った。
道中、ガーフィールは不機嫌そうに手綱を握っている。
スバルは、胸元の石に触れた。
「なあ、ガーフィール」
「あ?」
「フレデリカって、お前の何なんだ」
「……姉貴だ」
短い答え。
スバルは、初めて聞いたように目を見開く。
「姉貴?」
「それ以上聞くな」
「聞くだろ普通」
「聞くなっつってんだよ」
ガーフィールの声は荒い。
けれど、スバルは踏み込みすぎない。
「わかった」
「……素直だな」
「踏み込まれたくないことぐらい、誰にでもあるだろ」
「気持ち悪ぃこと言うな」
「そこまで言う?」
ガーフィールは舌打ちし、それから低く言った。
「姉貴は、考えなしに動く女じゃねぇ。何かあるなら、理由がある」
「信じてるんだな」
「うるせぇ」
結界の手前で、ガーフィールは竜車を止めた。
「ここまでだ」
「助かった」
「礼はいらねぇ」
ガーフィールはラムへ石を渡す。
「姉貴と揉めたら、それを見せろ。何か言うだろ」
ラムが受け取る。
「預かるわ」
「あと」
ガーフィールはスバルを睨んだ。
「姫様に、無理すんなって言っとけ。俺様が言うと角が立つ」
スバルは目を丸くする。
「お前……」
「何だよ」
「いや、何でもない」
「変な顔すんな。行け」
「ああ。戻る」
「死んでも戻れ」
その言葉に、スバルの心臓が跳ねた。
ガーフィールは何も知らない。
ただの乱暴な言い方だ。
それでも、今のスバルには重すぎた。
「……死なずに戻る」
「そうしろ」
結界を越え、屋敷へ向かう。
ロズワール邸は静かだった。
静かすぎた。
庭に人影はない。
玄関にも気配が薄い。
ラムが眉をひそめる。
「フレデリカの気配が薄いわね」
スバルの腹の奥が疼く。
前はここで走った。
レムの部屋へ一直線に向かい、そこで奇襲された。
今回は違う。
「走らない」
スバルは自分に言い聞かせた。
ユイが頷く。
「確認しながら進む」
廊下を進む。
ラムが先を見て、ユイが横を確認する。
スバルは焦りを押し殺して歩いた。
レムの部屋の前。
扉を開ける。
「レム」
寝台の上に、レムはいた。
静かに眠っている。
無事だ。
少なくとも、今は。
部屋に血はない。
窓にも異変はない。
スバルは、ようやく細く息を吐いた。
「レムさんは無事」
ユイが言う。
「でも、安心するのは早い」
「ああ」
ラムは寝台の上の少女をじっと見ていた。
青い髪。
自分とよく似た顔。
それなのに、心には何も引っかからない。
ラムの眉がわずかに動く。
「この子が、バルスの言うレムね」
「ああ」
「不思議ね。見れば見るほど、何かを忘れている気がする」
スバルは息を呑んだ。
ラムは続ける。
「でも、思い出せない。腹立たしいわ」
「ラム……」
「その顔をやめなさい。ラムは同情される趣味はないわ」
「……悪い」
「謝る暇があるなら、やるべきことをしなさい」
ラムはそう言って、部屋を出た。
廊下の奥から足音がした。
現れたのはペトラだった。
「あ、スバル様!」
スバルの胸が締めつけられる。
生きている。
無事だ。
「ペトラ」
スバルは膝をつき、彼女の肩を確認した。
「怪我は?」
「え? ありませんけど……どうしたんですか?」
「確認したかっただけだ」
ペトラは不思議そうに首を傾げる。
ラムが尋ねた。
「フレデリカは?」
「少し前まで一緒でした。今は屋敷の見回りに」
スバルは息を整えた。
まだ悲鳴はない。
まだ間に合っている。
なら、先にフレデリカと話す。
リビングへ向かうと、フレデリカはそこにいた。
いつものように背筋を伸ばし、メイドとしての所作を崩さない。
「お帰りなさいませ、スバル様、ラム、ユイ様」
「ああ。聞きたいことがある」
「その前に、お茶を」
「この状況でか?」
「この状況だからこそです」
フレデリカは紅茶を用意した。
ラムは一口飲み、すぐに眉を寄せる。
「相変わらず、味が重いわね」
「開口一番にそれですか」
「事実よ」
「ラムの舌が繊細すぎるのです」
「ラムは可憐だから」
「可憐な方は、自分で可憐とは言いません」
「ラムほど可憐なら許されるわ」
スバルは思わず口を挟んだ。
「この状況でメイド同士の口撃戦始めるのやめない?」
「バルスは黙っていなさい」
「スバル様はお静かに」
「息ぴったりかよ!」
ほんの少し空気が緩む。
だが、スバルはすぐに表情を引き締めた。
「フレデリカ。お前がエミリアたんに渡した石。あれは何だ」
フレデリカの表情が変わった。
「石、ですか」
「墓所で光って、俺たちは聖域へ飛ばされた。偶然じゃないだろ」
フレデリカは口を開こうとした。
だが、言葉が出なかった。
唇が震え、眉が苦しげに寄る。
何かを言おうとしている。
けれど、言えない。
見えない鎖が、喉を締めているようだった。
「フレデリカ?」
「……申し訳、ありません」
フレデリカは、絞り出すように言った。
「その件について、私は……お答えできません」
「答えられない?」
「はい」
「知らないんじゃなくて、言えないのか」
フレデリカは黙る。
否定も肯定もしない。
それが、答えだった。
ラムが石を出す。
「これをガーフから預かったわ。あなたと揉めたら見せろと」
「ガーフが……」
フレデリカの声が揺れた。
スバルは、その反応を見逃さない。
「ガーフィールは、お前の弟なんだな」
フレデリカは目を伏せた。
長い沈黙。
そして、苦しそうに唇を噛む。
「……申し訳ありません」
それだけだった。
答えられない。
弟だと認めることすら、容易ではない。
誓約。
その二文字が、スバルの頭に浮かんだ。
ユイが静かに言う。
「誓約に縛られているのね」
フレデリカは、ユイを見た。
答えない。
だが、その沈黙が肯定だった。
「聖域のことも、石のことも、ガーフィールのことも、話せる範囲が制限されている」
「……」
「なら、質問を変えるわ」
ユイは一歩前に出る。
「あなたは、エミリア様たちを害するつもりで石を渡した?」
フレデリカは、今度はすぐに首を振った。
「いいえ」
そこだけは、はっきりと言えた。
「スバル様たちを傷つける意図など、ありません」
「それは言えるのね」
「はい」
スバルは息を吐いた。
疑う相手を間違えたくない。
フレデリカは何かを隠している。
だが、それは悪意ではない。
言えないのだ。
言わないのではなく。
ラムは紅茶を置いた。
「少なくとも、フレデリカが意図してバルスたちを罠にかけたわけではないようね」
「ラムがそう言うなら、信じる」
「バルスにしては素直ね」
「今は、疑う相手を間違えたくない」
その瞬間、ユイが窓の方へ目を向けた。
「……来ます」
「何が?」
スバルが聞くより早く、扉が開いた。
黒髪の女が立っていた。
長い髪。
艶やかな笑み。
手にした刃。
そして、その腕に抱えられている少女。
「ペトラ!」
スバルが叫んだ。
ペトラの喉元に、冷たい刃が当てられていた。
彼女は震えながら、必死に泣き声をこらえている。
「ス、スバル様……」
「あら」
女が微笑む。
「怖い顔。いいわ。そういう顔も好き」
エルザ・グランヒルテ。
腸狩り。
スバルの腹を何度も裂いた女。
「ペトラを離せ」
「命令されるのは嫌いではないけれど、従うのはあまり好きではないわ」
エルザは、ペトラの首筋へ刃を近づける。
薄く赤い線が浮かんだ。
「動かないで。動いたら、この子の中身から見ることになるわ」
部屋の空気が凍った。
ラムの指先にマナが集まる。
ユイは短剣に手をかけた。
フレデリカの目が獣のように細くなる。
だが、誰も動けない。
ペトラが人質だ。
失敗すれば、即座に死ぬ。
スバルは、喉の奥で息を殺した。
考えろ。
叫ぶな。
飛び込むな。
同じ失敗を繰り返すな。
エルザは楽しそうに全員を見渡す。
「さて、どうしましょうか。順番に開くのも楽しそうだけれど」
ラムが低く言う。
「目的は何?」
「お仕事よ」
「誰に雇われたのかしら」
「それを言うのは、美しくないわ」
「美学で仕事をする暗殺者は面倒ね」
「褒め言葉として受け取るわ」
スバルはペトラを見る。
ペトラは震えている。
それでも、泣き叫ばない。
必死に耐えている。
スバルは歯を食いしばった。
その時、ユイが小さく言った。
「スバルくん」
「……何だ」
「一瞬だけ、ずらす」
「できるのか」
「成功する保証はない。でも、やるなら今」
スバルは息を吸う。
ラムが目だけで合図を拾った。
フレデリカも膝に力を込める。
ユイの指先が動く。
虚飾が、部屋の認識を薄く歪める。
ペトラの位置。
刃の角度。
エルザの視線。
それらが、一瞬だけ、ほんのわずかにずれる。
エルザの目が細くなった。
「あら」
「今!」
スバルが飛び込む。
ラムが風魔法を放つ。
「エル・フーラ!」
風が床を削り、エルザの足元を崩す。
フレデリカが獣のように跳び込む。
ユイの短剣が、刃の向きを逸らす。
スバルの手がペトラの体を掴んだ。
「ペトラ!」
「スバル様!」
引き剥がす。
だが、エルザの刃は速い。
肩を掠めた。
「ぐっ!」
血が飛ぶ。
それでも、ペトラは腕の中にいた。
生きている。
「走って!」
ユイの声。
スバルはペトラを抱え、部屋を飛び出した。
背後でフレデリカが吠える。
金色の獣。
爪と刃がぶつかる音。
ラムの風。
ユイの短剣。
エルザの笑い声。
廊下へ出たところで、ラムが追いつく。
「バルス、ペトラを連れて下がりなさい」
「ラムは!」
「足止めするわ」
「無茶だ!」
「無茶はバルスだけの特権ではないの」
ラムはそう言い、風を纏う。
「フーラ」
鋭い風が廊下を走る。
エルザの進路を塞ぐ。
スバルはペトラを抱え直した。
逃げる。
レムを助ける。
ベアトリスにも聞かなければならない。
だが、廊下の奥から低い唸り声がした。
魔獣。
犬とも狼ともつかない異形が、暗がりから現れる。
「なんで、ここに……!」
エルザだけではない。
魔獣までいる。
ペトラが小さく悲鳴を漏らす。
スバルは彼女を背に庇う。
その時、ラムが叫んだ。
「バルス!」
風が走る。
「エル・フーラ!」
魔獣の体が横へ吹き飛ぶ。
だが、ラムの顔色は悪い。
消耗が激しい。
「走りなさい」
「お前は!」
「囮ぐらいはできるわ」
「ふざけんな!」
「ふざけていないわ」
ラムの声は冷たい。
「レムとベアトリスを捨てて逃げる選択もある。けれど、バルスはそれを選ばないのでしょう」
「当たり前だ!」
「なら、時間を作るしかない」
スバルは言葉を失う。
ラムはレムを覚えていない。
それでも、スバルがその選択をしないことは理解している。
「感傷は後よ。行きなさい」
スバルは走った。
ペトラを抱え、廊下を駆ける。
途中で、ユイが合流した。
肩から血を流している。
だが、まだ立っている。
「ユイさん!」
「レムさんの部屋へ。フレデリカさんがエルザを止めている。でも長くはもたない」
「フレデリカは生きてるのか」
「今は」
その答えが、胸に刺さる。
三人でレムの部屋へ向かう。
扉を開ける。
レムは眠っていた。
スバルはペトラを下ろし、レムを抱き上げる。
眠ったままの少女。
誰も覚えていない少女。
でも、置いていけるはずがない。
「行くぞ」
「ええ」
廊下へ出る。
その瞬間、スバルの意識が一瞬、白く飛んだ。
痛み。
何かが刺さった。
腕か、肩か。
小さな針。
毒か。
視界が揺れる。
「スバルくん!」
ユイの声が遠い。
ペトラの叫びも聞こえる。
レムを抱えている感覚が消えかける。
足がもつれる。
廊下が歪む。
誰かが戦っている。
ラムの風。
フレデリカの咆哮。
ユイの声。
ペトラの手。
必死に握った、小さな手。
守る。
守らなきゃ。
その意識だけが残る。
だが、次に目を開けた時、スバルは廊下の床に倒れていた。
手の中に、何かを握っている。
小さな手。
ペトラの手。
スバルは、息を吐きかけた。
けれど、すぐに違和感に気づく。
軽い。
あまりにも軽い。
握っているのは、ペトラの手だけだった。
その先がない。
「……え?」
声が漏れた。
理解が追いつかない。
目の前に、小さな手がある。
温かかったはずの手。
助けたはずの手。
その手だけが、自分の手の中にあった。
「ペトラ……?」
声が震えた。
返事はない。
返るはずがない。
スバルの喉から、音にならない悲鳴が漏れた。
その瞬間、近くの扉が開いた。
小さな手が伸び、スバルの襟を掴む。
視界が反転する。
スバルだけが、扉の向こうへ引き込まれた。
ユイの手は届かない。
ラムもいない。
フレデリカもいない。
レムもいない。
ペトラもいない。
スバルだけが、禁書庫の床へ転がった。
本棚に囲まれた部屋。
薄暗い空気。
金髪の少女。
ベアトリス。
「まったく、騒がしいのよ」
スバルは床に倒れたまま、息を荒げた。
手の中に、ペトラの手の感触が残っている。
現物はもうない。
扉を越えたことで、離れたのか。
消えたのか。
わからない。
ただ、感触だけが残っている。
「ベア子……」
「助けたわけではないのよ。うるさかっただけかしら」
その言葉に、スバルの中で何かが切れた。
「なんで……」
ベアトリスが顔をしかめる。
「何よ」
「なんで、俺だけなんだよ」
スバルは体を起こす。
血と汗でぐしゃぐしゃの顔で、ベアトリスを睨む。
「なんで俺だけ助けた。ペトラは? レムは? ラムは? フレデリカは? ユイさんは?」
「……」
「外でみんな死んでるんだぞ! お前、わかってるのかよ!」
ベアトリスは黙っていた。
小さな手が、胸元の本を抱きしめる。
大切そうに。
誰にも取られまいとするように。
その本を見て、スバルの目が止まった。
黒い装丁。
禍々しい気配。
どこかで見たことがある。
ペテルギウスが持っていた本。
魔女教徒たちが縋っていた、あの本に似ている。
「……それ」
スバルの声が低くなる。
「なんだよ、その本」
ベアトリスの肩が震えた。
彼女は本をさらに強く抱いた。
「関係ないのよ」
「関係ないわけねえだろ!」
スバルは叫んだ。
「ロズワールが、お前に問えって言った。だから聞く。お前は何を隠してる。ロズワールと何を知ってる。なんでそんな、魔女教の福音みたいな本を大事そうに抱えてるんだよ!」
「違う!」
ベアトリスが叫んだ。
その声には、怒りよりも悲鳴が混ざっていた。
「これは、ベティの……ベティのものなのよ!」
「答えになってねえ!」
「お前に何がわかるのよ!」
ベアトリスの瞳が揺れている。
怒っている。
怯えている。
傷ついている。
けれど、スバルは止まれなかった。
外でみんな死んでいる。
ペトラが死んだ。
ユイも、ラムも、フレデリカも、レムも。
ベアトリスは、スバルだけを助けた。
なぜ。
なぜ、みんなではなく。
「俺だけ助けて、どうしろってんだよ……!」
スバルは床を叩いた。
「俺一人だけ生き残って、何の意味があるんだよ!」
ベアトリスは本を抱きしめたまま、唇を噛んでいる。
その姿は、ひどく小さかった。
禁書庫の主でも、精霊でもなく。
ただ、長すぎる時間の中で何かに縋っている少女のようだった。
だが、問い詰める時間は終わった。
扉の向こうから、足音が聞こえた。
ゆっくりと。
確実に。
近づいてくる。
ベアトリスの顔が強張る。
スバルも振り向く。
扉が、開いた。
黒い髪。
赤い唇。
血に濡れた刃。
エルザが、微笑んでいた。
「見つけたわ」
スバルの腹の奥が凍る。
逃げ場はない。
ユイはいない。
ラムもいない。
フレデリカもいない。
ペトラもいない。
レムもいない。
ここには、スバルとベアトリスだけ。
ベアトリスが手をかざす。
「ミーニャ!」
陰の魔弾が走る。
だが、エルザは身体を沈めるようにして避けた。
刃が閃く。
速い。
スバルは動けない。
毒のせいか。
恐怖のせいか。
それとも、手の中に残るペトラの感触のせいか。
刃が、腹へ沈んだ。
「――あ」
熱い。
熱い。
また、同じ場所。
腹の中を、かき回される。
「スバル!」
ベアトリスの声が聞こえる。
遠い。
近い。
どちらかわからない。
スバルは倒れながら、エルザの腕を掴もうとした。
力が入らない。
「……まだ、聞いて……ねえ……」
ベアトリスのことも。
あの本のことも。
ロズワールのことも。
何も終わっていない。
何一つ守れていない。
エルザが微笑む。
「あなたの中は、本当に温かいわ」
血が広がる。
床が近い。
ベアトリスが何かを叫んでいる。
本を抱えたまま。
泣きそうな顔で。
その顔が、最後に滲んだ。
ペトラ。
レム。
ラム。
フレデリカ。
ユイ。
ベアトリス。
誰も守れなかった。
また。
また。
また。
「……今度、こそ」
声にならない声で、スバルは呟いた。
世界が黒く潰れる。
死ぬ。
死んだ。
――そして。
「……っ、が、はっ!」
スバルは、冷たい石の床の上で息を吸った。
墓所。
湿った空気。
腹に傷はない。
だが、痛みは残っている。
ペトラの手。
ベアトリスの本。
エルザの刃。
ユイの声。
全部が残っている。
すぐ近くで、ユイが膝をついていた。
「……スバルくん?」
彼女は無傷だった。
肩も、横腹も裂けていない。
その姿を見た瞬間、スバルは息を詰まらせた。
生きている。
まだ。
まだ、間に合う。
少し離れた場所で、エミリアが震えている。
第一の試練を終えた直後。
また、ここへ戻った。
スバルは、腹を押さえたまま歯を食いしばる。
屋敷にはエルザがいる。
魔獣もいる。
ペトラは殺された。
ラムも、フレデリカも、ユイも、レムも救えなかった。
ベアトリスはスバルだけを助けた。
そして、あの本を大切そうに抱えていた。
魔女教の福音に似た、本。
ロズワールは、何かを知っている。
ガーフィールは乱暴だが、敵ではない。
守るべきものが多すぎる。
足りないものが多すぎる。
それでも、スバルは息を吸った。
何度でも。
何度でも。
今度こそ、間に合わせる。