Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第三十八話 ユージン

 死んだ。

 

 また、死んだ。

 

 その事実だけが、胸の中に重く沈んでいた。

 

「……っ、が、はっ!」

 

 冷たい石の床の上で、スバルは息を吸った。

 

 肺が痛い。

 

 喉が焼ける。

 

 腹を押さえた手の下に、傷はない。

 

 だが、痛みだけは残っている。

 

 エルザの刃。

 

 禁書庫。

 

 ベアトリスの震えた顔。

 

 大切そうに抱えられていた黒い本。

 

 ペトラの手。

 

 ラムの風。

 

 フレデリカの咆哮。

 

 ユイの血。

 

 全部が、まだそこにあった。

 

 目の前には墓所の床。

 

 遠くには、過去に囚われたまま震えるエミリア。

 

 そして、すぐ近くにユイがいた。

 

「……スバルくん?」

 

 ユイの声がした。

 

 彼女は無傷だった。

 

 肩も裂けていない。

 

 横腹にも血はない。

 

 当然だ。

 

 まだ何も起きていない。

 

 まだ、誰も死んでいない。

 

 それなのに、スバルの中ではもう何度も死んでいる。

 

 何度も失っている。

 

「スバルくん、腹を押さえているわ」

 

 ユイが膝をついたまま、スバルを見ていた。

 

「痛むの?」

 

「……痛くない」

 

「嘘ね」

 

「嘘でも、今はそれで通す」

 

 ユイは黙った。

 

 その沈黙が、スバルの嘘を許したわけではないことはわかる。

 

 彼女は見ている。

 

 スバルの呼吸。

 

 指の震え。

 

 目の焦点。

 

 スバルが何かを知っていて、それを言えないのだと、もう気づいている。

 

「何かあったのね」

 

「……」

 

「言えない?」

 

 スバルは答えなかった。

 

 答えられるはずがなかった。

 

 喉の奥に、黒い手がある。

 

 死に戻り。

 

 それを口にすれば、あの手が心臓を握り潰す。

 

 ユイは、短く息を吐いた。

 

「わかった。今は聞かない」

 

「……いいのかよ」

 

「よくはないわ。でも、言えないものを無理に吐かせるつもりはない」

 

「……」

 

「ただし、行動で示して。あなたが何を怖がっているか、何を急ぐか、誰を守ろうとしているか。私はそこから拾う」

 

 スバルは唇を噛んだ。

 

 何も言えない。

 

 それでも、完全に一人ではない。

 

 その事実だけで、わずかに息が吸えた。

 

 墓所の奥で、エミリアの声が震えた。

 

「違う……私じゃない……違うの……」

 

 スバルは立ち上がる。

 

 足元がふらついた。

 

 だが、止まれない。

 

「エミリア」

 

 膝をつき、声をかける。

 

「聞こえるか。俺だ。スバルだ」

 

 エミリアの目は、ここを見ていない。

 

 過去の中にいる。

 

「今すぐ越えろなんて言わねえ。怖いなら怖いでいい。泣いたっていい。だから、戻ってこい。戻ってきてくれ」

 

 エミリアの瞳が、かすかに揺れた。

 

「ス、バル……?」

 

「ああ。俺だ」

 

 その瞬間、エミリアの体から力が抜けた。

 

 スバルは抱き止める。

 

 もう何度も繰り返した動きだった。

 

 だが、慣れることなどない。

 

 この軽さにも。

 

 この涙にも。

 

 自分が彼女を救えていない事実にも。

 

「外へ」

 

 ユイが言った。

 

「これ以上は危険よ」

 

「ああ」

 

 スバルはエミリアを抱き上げ、墓所を出た。

 

 外には、ラムとガーフィールがいた。

 

 ラムは静かにこちらを見ている。

 

 ガーフィールは腕を組み、不機嫌そうに立っていた。

 

 その後ろには、聖域の住人たち。

 

 視線が集まる。

 

 期待。

 

 落胆。

 

 不安。

 

 失望。

 

 その全部が、腕の中のエミリアへ突き刺さっているように見えた。

 

「……駄目だったのか」

 

 ガーフィールが言った。

 

 スバルは、怒鳴らなかった。

 

 前なら、噛みついていたかもしれない。

 

 だが、今は知っている。

 

 ガーフィールは乱暴だ。

 

 口も悪い。

 

 信用もできない。

 

 それでも、エミリアを見世物にするような視線を嫌う。

 

 無理をしている者を見ていないわけではない。

 

「今夜は、無理だった」

 

「同じことだろうが」

 

「違う」

 

 スバルは、声を抑えて言った。

 

「一回倒れたら終わりじゃない。怖がったら資格なしってわけでもない。今は休ませる」

 

 ガーフィールは舌打ちした。

 

 それから、住人たちへ顔を向ける。

 

「散れ」

 

 低い声だった。

 

「見てても何も変わらねぇ。姫様は今日は終わりだ。文句がある奴は俺様に言え」

 

 荒い言い方だった。

 

 だが、住人たちはその声に押されるように離れていく。

 

 ガーフィールは、エミリアを一瞥してから言った。

 

「早く連れてけ。夜は冷える」

 

「……ああ」

 

 礼は言わない。

 

 言えば、また嫌がられる。

 

 それ以上に、今のスバルには、礼を言う余裕がなかった。

 

 エミリアを休ませる部屋へ運ぶ。

 

 ラムが香を焚き、寝台を整える。

 

 ユイは水を用意し、エミリアの呼吸を確認した。

 

 エミリアは眠っている。

 

 だが、眉はかすかに震えていた。

 

 まだ、過去の残滓が彼女を離していない。

 

 スバルは壁際に立ったまま、じっとそれを見ていた。

 

 屋敷へ行きたい。

 

 今すぐ走りたい。

 

 レムを助けたい。

 

 ペトラを助けたい。

 

 ベアトリスに、あの本のことを問い詰めたい。

 

 エルザを止めたい。

 

 だが、ここで走れば、また同じことになる。

 

 何かを変えなければならない。

 

 けれど、変えすぎれば、別の場所が壊れる。

 

「スバルくん」

 

 ユイが呼んだ。

 

「座って」

 

「時間がない」

 

「だから座って。立ったまま考えると、あなたは走り出す」

 

 スバルは、言い返せなかった。

 

 図星だった。

 

 今の自分は、少しでも目を離されれば走る。

 

 レムの部屋へ。

 

 禁書庫へ。

 

 死へ。

 

 スバルは椅子に腰を下ろした。

 

 ユイは、正面に立つ。

 

「屋敷ね」

 

「……」

 

「あなたは屋敷を怖がっている。前から気にしていたけれど、今はもっと強い」

 

「……屋敷に、戻る必要がある」

 

 スバルは言った。

 

「フレデリカの石。ベア子。ペトラ。レム。全部、確認しなきゃいけない」

 

「理由はそれだけ?」

 

「……それだけじゃない」

 

「言えない?」

 

「ああ」

 

 ユイは頷いた。

 

「わかった。今はそれでいい」

 

「いいのかよ」

 

「よくはない。でも、聞いても言えないのでしょう」

 

「……悪い」

 

「謝るより、生きて戻って」

 

 その言葉が胸に刺さった。

 

 生きて戻る。

 

 それがどれほど難しいか、スバルだけが知っている。

 

 翌朝。

 

 スバルは、できるだけ普通に振る舞った。

 

 エミリアが目を覚ましたときも。

 

 試練の失敗に怯えたときも。

 

 聖域の住人たちの空気が重く沈んでいたときも。

 

 スバルは、なるべく前の流れをなぞった。

 

 変えすぎてはいけない。

 

 そう思った。

 

 何もかもを一気に変えようとして、何度も死んだ。

 

 なら、今度は少しずつ変える。

 

 そう考えた。

 

 考えたつもりだった。

 

 だが、ロズワールの休む家の外で、オットーに声をかけられた。

 

「スバルさん」

 

「なんだ、オットー」

 

 振り返ると、オットーは困ったような顔をしていた。

 

 普段なら、何か言う前に無駄な前置きが三つは入る。

 

 だが、この時のオットーは違った。

 

「スバルさん、妙に落ち着いていませんか?」

 

「……」

 

 スバルは、呼吸を忘れた。

 

 オットーは慌てて両手を振る。

 

「あ、責めているわけではありません。ただ、エミリア様はあの状態ですし、聖域から出られない問題も何も解決していません。なのに、スバルさんは……なんというか、次に何が起きるかを考えている顔をしているというか」

 

「俺が?」

 

「はい」

 

「冷静に見えるってことか」

 

「冷静というより、無理に冷静なふりをしているように見えます」

 

 鋭い。

 

 スバルはそう思った。

 

 オットーは戦闘で頼れる人間ではない。

 

 空気を読めるようで、読めない。

 

 商人らしく損得を考えるくせに、肝心なところで損な役を引く。

 

 だが、人を見る目はある。

 

 今のスバルの異常を、見逃さない程度には。

 

「……ありがとな、オットー」

 

「え?」

 

「俺、ちゃんと考えられてるってことだろ」

 

「そういう意味で言ったわけではないんですが」

 

「そういう意味にしとく」

 

 スバルは無理やり笑った。

 

 オットーは、さらに困った顔になる。

 

「スバルさん、そうやって無理に笑うの、あまり上手くありませんよ」

 

「うるせえな。商人なら、もうちょい相手を気持ちよく騙されてやれよ」

 

「商人だからこそ、怪しい笑顔には敏感なんです」

 

「俺の笑顔は怪しいのか」

 

「だいぶ」

 

「ひでえ」

 

 軽口。

 

 それだけで、少しだけ息ができた。

 

 だが、その空気は長く続かなかった。

 

「おい」

 

 低い声。

 

 ガーフィールだった。

 

 腕を組み、獣のような目でスバルを見ている。

 

「ちょっと来い」

 

「俺が?」

 

「他に誰がいんだよ」

 

 オットーが、露骨に身を引いた。

 

「あ、僕は……」

 

「商人は関係ねぇ。引っ込んでろ」

 

「はい、引っ込みます」

 

「引っ込み早すぎだろ」

 

「状況判断です!」

 

 オットーは小声で言い返した。

 

 だが、彼の目には心配があった。

 

「スバルさん、本当に大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だ。ちょっと行ってくる」

 

「大丈夫じゃない人ほど、そう言うんですよ」

 

「経験者みたいな言い方すんな」

 

「商人はいろんな人を見ますので」

 

 その横で、ユイが近づいてきた。

 

「私も行くわ」

 

 ガーフィールの眉が跳ねる。

 

「呼ばれてんのはスバルだけだ」

 

「だから?」

 

「だから、姉ちゃんは来んな」

 

「リューズさんが呼んでいるなら、私が同席して困る理由は?」

 

「困るから困るんだよ」

 

「説明になっていないわ」

 

 空気が張り詰めた。

 

 ガーフィールの目が獣じみた色を帯びる。

 

 ユイは一歩も引かない。

 

 スバルは、二人の間に入った。

 

「ユイさん」

 

「何?」

 

「エミリアたんの側にいてくれ」

 

 ユイの目が動く。

 

「あなたは?」

 

「すぐ戻る」

 

「信用できないわ」

 

「だろうな」

 

 スバルは苦笑する。

 

「でも、今エミリアたんを一人にしたくない。オットーだけじゃ不安だし、ラムもロズワールのところにいる。ユイさんがいてくれた方がいい」

 

「……」

 

 ユイは、じっとスバルを見た。

 

 探るような目だった。

 

 スバルが隠している恐怖も、焦りも、無理に作った冷静さも、全部見えているのだろう。

 

「わかった」

 

 ユイは短く言った。

 

「ただし、戻らなかったら探す」

 

「戻るって」

 

「戻らなかったら探す」

 

「……わかった」

 

 ガーフィールは苛立ったように舌打ちした。

 

「話は終わったかよ」

 

「ああ」

 

「なら来い」

 

 ガーフィールは背を向けて歩き出した。

 

 スバルはその後を追う。

 

 背中に、ユイとオットーの視線を感じた。

 

 振り返りたかった。

 

 だが、振り返れば足が止まりそうだった。

 

 森へ向かう道を、ガーフィールは無言で歩いた。

 

 足取りは速い。

 

 だが、走ってはいない。

 

 スバルがついてこられる速度を保っている。

 

 そういうところだけ、妙に加減している。

 

 スバルは、その背中に声をかけた。

 

「なあ」

 

「あ?」

 

「フレデリカって、お前の姉貴なんだな」

 

 ガーフィールの足が、一瞬だけ止まりかけた。

 

 すぐにまた動く。

 

「誰から聞いた」

 

「誰からっていうか……顔に出てた」

 

「てめぇ、人の顔ばっか見てんじゃねぇよ。気色悪ぃ」

 

「顔に出す方が悪い」

 

「噛み砕くぞ」

 

「やめろ。まだ歯形を増やす趣味はない」

 

 軽口の形をしていたが、ガーフィールの声には棘がある。

 

 フレデリカ。

 

 その名前は、この男の奥の柔らかい場所に触れるのだ。

 

「姉貴はよ」

 

 ガーフィールが低く言った。

 

「十年、戻ってこなかった」

 

「……」

 

「聖域を出て、外で暮らしてる。ここの連中を置いてな」

 

「捨てたって思ってるのか」

 

 ガーフィールは答えなかった。

 

 けれど、答えないことが答えだった。

 

「でも、お前はフレデリカを信じてる」

 

「あ?」

 

「考えなしに動く女じゃないって、思ってるんだろ」

 

「知ったような口を利くな」

 

「知ってるわけじゃない。知りたいだけだ」

 

「何を」

 

「お前が、何に怒ってるのか」

 

 ガーフィールは立ち止まらなかった。

 

 だが、肩の力がわずかに変わる。

 

「知ってどうする」

 

「間違えないようにする」

 

「何を」

 

「疑う相手を」

 

 ガーフィールは鼻を鳴らした。

 

 それ以上は答えない。

 

 森を抜ける。

 

 視界が開けた。

 

 広い草原。

 

 聖域の中でも、どこか空気の違う場所。

 

 そこに、リューズが立っていた。

 

 幼い姿。

 

 老いた目。

 

 その違和感にも、もう驚く余裕はない。

 

「来たか、スバル」

 

「リューズさん」

 

 スバルは息を整えた。

 

「俺に話って?」

 

「まず、フレデリカのことじゃ」

 

 リューズは、ゆっくりと切り出した。

 

「そなたらは、あの娘が聖域から出られることに疑問を持っておるじゃろう」

 

「……ああ」

 

「聖域の結界は、すべての亜人を閉じ込めるものではない。条件がある」

 

「条件?」

 

「血の混じり方じゃ。あの娘は獣人と人の血を引いておるが、結界に縛られる条件からは外れておる」

 

 スバルは眉を寄せる。

 

 細かい理屈は難しい。

 

 だが、ひとつだけわかる。

 

 フレデリカが外に出られるのは、裏切りでも特権でもない。

 

 結界の条件がそうしているだけだ。

 

「じゃあ、ガーフィールは」

 

「ガーフは縛られておる」

 

 リューズは言った。

 

「ゆえに、外へは出られぬ」

 

「俺様の話はいい」

 

 ガーフィールが遮る。

 

 リューズは気にせず続けた。

 

「フレデリカとガーフは姉弟じゃ。ただし、父は違う」

 

「異父姉弟……」

 

「そうじゃ。片方は外へ出られ、片方は聖域に残った」

 

 ガーフィールの顔が険しくなる。

 

「リューズ様、余計なこと言わなくていい」

 

「余計かどうかは、聞く者次第じゃ」

 

 リューズは静かだった。

 

 ガーフィールは苛立っている。

 

 だが、その苛立ちは単純な怒りだけではない。

 

 置いていかれた痛み。

 

 戻ってこなかった姉への怒り。

 

 それでも捨てきれない信頼。

 

 スバルには、その全部が少しだけ見えた気がした。

 

「それで、スバル」

 

 リューズが視線を戻す。

 

「そなたは、どうするつもりじゃ」

 

「どうって」

 

「試練のことじゃ」

 

 空気が変わった。

 

 スバルは、言葉を選ぼうとした。

 

 だが、焦りが先に出た。

 

 屋敷。

 

 エルザ。

 

 魔獣。

 

 ペトラ。

 

 ベアトリス。

 

 ユイ。

 

 時間がない。

 

「……俺が受ける」

 

 言った瞬間、ガーフィールの目が細くなった。

 

 リューズの表情も、わずかに固くなる。

 

「俺が、エミリアたんの代わりに試練を越える。そうすれば、聖域は解放できるかもしれない」

 

「それは、エミリア様が越える意味を捨てるということじゃな」

 

「意味とか言ってる場合じゃない」

 

 スバルの声が荒くなる。

 

「屋敷にはレムがいる。ペトラもいる。ベア子もいる。フレデリカも。ここにはエミリアたんがいる。聖域の人たちもいる。全部、同時に助けなきゃならないんだ」

 

「なぜ、屋敷をそこまで急ぐ」

 

 リューズの問いに、スバルは言葉を失った。

 

 なぜ。

 

 言えない。

 

 エルザが来るから。

 

 魔獣が出るから。

 

 ペトラが死ぬから。

 

 ベアトリスが俺だけを助けるから。

 

 何ひとつ、説明できない。

 

「……嫌な予感がする」

 

 それが限界だった。

 

 ガーフィールが鼻を鳴らす。

 

「嫌な予感、ねぇ」

 

「馬鹿にしてる場合かよ」

 

「馬鹿にしてるんじゃねぇ」

 

 ガーフィールが一歩近づいた。

 

 その鼻が、わずかに動く。

 

 スバルの背筋が冷える。

 

「てめぇ、やっぱりおかしいぞ」

 

「何が」

 

「焦り方が異常だ。何か知ってる顔をしてる。なのに言わねぇ」

 

「……」

 

「それに」

 

 ガーフィールの目が、獣のように鋭くなった。

 

「匂いが濃くなってやがる」

 

 魔女の残り香。

 

 死に戻りを繰り返すたびに濃くなる、あの匂い。

 

 ガーフィールの敵意が、はっきりと形を持った。

 

「てめぇ、何者だ」

 

「俺は――」

 

「魔女教徒じゃねぇってか?」

 

「違う!」

 

「その匂いで?」

 

 ガーフィールの声は低かった。

 

「前から鼻についてた。だが、今は隠しようがねぇ。てめぇからは、魔女教の連中と同じ嫌な匂いがする」

 

「違うんだよ!」

 

「証明できんのか」

 

 スバルは言葉に詰まった。

 

 証明できない。

 

 死に戻りを説明できない。

 

 魔女の残り香の理由を言えない。

 

 言えば、死ぬ。

 

「……できない」

 

「なら黙ってろ」

 

 リューズが、ゆっくり目を伏せた。

 

「スバル。そなたを、このまま自由にはできぬ」

 

「リューズさん……?」

 

「殺しはせぬ。じゃが、拘束させてもらう」

 

「ふざけんな!」

 

 スバルは叫んだ。

 

「俺には時間がないんだ!」

 

「だからこそじゃ」

 

 リューズの声は揺れなかった。

 

「時間がないと焦る者は、時に取り返しのつかぬことをする。今のそなたは危うい。エミリア様にも、聖域にも」

 

「俺は助けようとしてるんだ!」

 

「助けようとしている者が、必ず正しいとは限らぬ」

 

 その言葉が刺さった。

 

 だが、受け入れる余裕はなかった。

 

 スバルは踵を返そうとした。

 

 動かなければならない。

 

 屋敷へ。

 

 エミリアのところへ。

 

 ユイのところへ。

 

 どこへでも。

 

 だが、動くより早く、ガーフィールが背後にいた。

 

 速い。

 

「がっ……!」

 

 腕を捻り上げられた。

 

 肩に激痛が走る。

 

 膝が崩れる。

 

「動くな」

 

「離せ、ガーフィール!」

 

「離すわけねぇだろ」

 

「屋敷が危ないんだ!」

 

「何が危ねぇ」

 

「……っ」

 

 答えられない。

 

 その沈黙が、ガーフィールの疑いを決定的にする。

 

「やっぱり言えねぇんだな」

 

「違う、言えないだけで――」

 

「同じだ」

 

 ガーフィールの声が冷える。

 

「何か知ってる。けど言わねぇ。魔女の匂いをさせてる。しかも、エミリア様の試練を奪う気でいる」

 

「奪うんじゃない!」

 

「そう聞こえんだよ」

 

 腕がさらに捻られる。

 

 骨が軋む。

 

 視界が揺れた。

 

「スバル」

 

 リューズの声が遠く聞こえる。

 

「すまぬな」

 

「リューズさん!」

 

「ガーフ」

 

「ああ」

 

 次の瞬間、首筋に衝撃が落ちた。

 

 視界が白く弾ける。

 

 倒れ込む寸前、スバルが最後に見たのは、ガーフィールの苦い顔だった。

 

 怒っている。

 

 疑っている。

 

 だが、楽しんでいる顔ではない。

 

 守るために、敵かもしれないものを排除する顔。

 

 理解したくなかった。

 

 理解する前に、意識が闇へ落ちた。

 

 次に目を覚ました時、そこは暗い場所だった。

 

 湿った土の匂い。

 

 石の冷たさ。

 

 腕が縛られている。

 

 口には布を噛まされている。

 

 目隠し。

 

 身動きが取れない。

 

「……っ、ん……!」

 

 声を出そうとしても、布に塞がれる。

 

 体を動かす。

 

 縄が肉に食い込むだけだった。

 

 暗い。

 

 息苦しい。

 

 時間がわからない。

 

 どれほど眠っていた。

 

 屋敷はどうなった。

 

 エミリアは。

 

 ユイは。

 

 レムは。

 

 ペトラは。

 

 焦りだけが、胸を焼く。

 

 どれくらい経ったのか。

 

 足音が近づいた。

 

 目隠しが外される。

 

 口の布も外された。

 

 目の前に、ガーフィールがいた。

 

「騒ぐな」

 

「ガーフィール……!」

 

「騒ぐなっつったろ」

 

 首元を掴まれ、壁へ叩きつけられる。

 

「ぐっ……!」

 

「てめぇ、何者だ」

 

「だから、俺は――」

 

「魔女教徒じゃねぇってか?」

 

 ガーフィールの目が光る。

 

「その匂いで?」

 

「違う」

 

「違うって言えば済むと思ってんのか」

 

「違うんだよ!」

 

 スバルは叫んだ。

 

「俺は魔女教じゃない。魔女教なんか、死ぬほど嫌いだ!」

 

「死ぬほど、ねぇ」

 

 ガーフィールは鼻を鳴らす。

 

 スバルは、自分の言葉に息を詰まらせた。

 

 死ぬほど。

 

 今の自分が言うには、あまりにも重い言葉だった。

 

「てめぇは焦りすぎてる。何かを知ってる顔をしてる。けど何も言わねぇ。しかも、魔女の臭いをぷんぷんさせてやがる」

 

「言えないんだよ……」

 

「あ?」

 

「言えないことだってあるんだよ!」

 

「なら信用できねぇ」

 

 即答だった。

 

「聖域にいる連中を守るためなら、怪しい奴は縛る。それだけだ」

 

「屋敷が危ないんだ!」

 

 言えたのはそこまでだった。

 

 だが、その先が出ない。

 

 誰が。

 

 いつ。

 

 なぜ。

 

 説明しようとすると、黒い手が喉元に迫る。

 

「何が危ねぇ」

 

「……」

 

「言えねぇのか」

 

「……言えない」

 

「だったら、ここで黙ってろ」

 

 ガーフィールは再び布を掴む。

 

「待て!」

 

「待たねぇ」

 

「ユイさんはどうした!」

 

 その言葉に、ガーフィールの手が止まった。

 

「姉ちゃんは探してる」

 

「なら――」

 

「だから余計に面倒なんだよ」

 

 ガーフィールは舌打ちした。

 

「あの姉ちゃん、やたら鋭い。リューズ様が押さえてなきゃ、ここまで嗅ぎつけてたかもしれねぇ」

 

「ユイさんに何かしたら――」

 

「してねぇよ」

 

 ガーフィールは苛立ったように言う。

 

「今はな。だが、てめぇが変な真似すりゃ話は別だ」

 

「……」

 

「大人しくしてろ」

 

 再び口を塞がれる。

 

 目隠しも戻される。

 

 足音が遠ざかる。

 

 暗闇が戻った。

 

 何もできない。

 

 動けない。

 

 屋敷へ行けない。

 

 エミリアのところへも戻れない。

 

 ユイが探している。

 

 オットーはどうしている。

 

 ラムは。

 

 リューズは。

 

 時間だけが過ぎていく。

 

 一日。

 

 二日。

 

 三日。

 

 正確な時間はわからない。

 

 喉は乾き、体は痛み、意識は何度も途切れた。

 

 そのたびに、スバルは屋敷を思い出した。

 

 ペトラの手。

 

 ベアトリスの本。

 

 エルザの刃。

 

 思い出すたびに、縛られた腕を動かそうとして、縄が肉に食い込む。

 

 何もできない。

 

 それが、一番苦しかった。

 

 やがて、足音が聞こえた。

 

 ガーフィールのものではない。

 

 もっと軽い。

 

 慌てていて、慎重で、それでいてどこか抜けている足音。

 

 目隠しが外される。

 

 光が刺さる。

 

 スバルは目を細めた。

 

「スバルさん!」

 

 そこにいたのは、オットーだった。

 

 汗だくで、息を切らし、手には水筒を持っている。

 

 彼は慌てて口の布を外した。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「オットー……?」

 

 声が掠れていた。

 

 オットーは水筒を口元へ運ぶ。

 

「飲んでください。ゆっくりです」

 

 水が喉を通る。

 

 痛い。

 

 けれど、生き返るようだった。

 

「なんで……」

 

「なんでって、探したからですよ!」

 

 オットーは縄をほどきながら言う。

 

「スバルさんがいなくなって、みんな大騒ぎです。エミリア様はずっと不安そうで、ラムさんも動いていますし、ユイさんなんてほとんど寝ずに探していました」

 

「ユイさんが……」

 

「ええ。怖いくらい冷静でしたけど、静かに怒っていました。ガーフィールさんを見る目が、とても商談向きではありませんでした」

 

 スバルは、少しだけ笑いそうになった。

 

 だが、喉が痛くてうまく笑えない。

 

「どれくらい経った」

 

「三日です」

 

「三日……」

 

 頭が白くなる。

 

 三日。

 

 屋敷は。

 

 レムは。

 

 ペトラは。

 

 ベアトリスは。

 

 スバルの顔色を見て、オットーが慌てる。

 

「落ち着いてください。今は脱出が先です」

 

「お前、ガーフィールに見つかったらまずいだろ」

 

「まずいですよ!」

 

「じゃあ、なんで来たんだ」

 

 オットーは、縄をほどく手を止めた。

 

「なんでって……」

 

 困ったように眉を寄せる。

 

 そして、当たり前のように言った。

 

「友達を助けに来るのに、理由が必要ですか?」

 

 スバルは瞬きをした。

 

 うまく聞き取れなかった。

 

「……ユージン?」

 

「違います! 友人です! 友達!」

 

「お前が、俺の?」

 

「他に誰がいるんですか!」

 

 オットーは怒ったように言う。

 

「確かに、僕は商人です。損得も考えます。危ないことは嫌いです。ガーフィールさんには脅されましたし、正直めちゃくちゃ怖いです!」

 

「じゃあ、なんで」

 

「だから言ってるでしょう!」

 

 オットーの声が震えた。

 

「友達だからです!」

 

 その言葉に、スバルは固まった。

 

 友達。

 

 あまりにも普通で。

 

 あまりにも場違いで。

 

 あまりにも救いだった。

 

 何度も死んだ。

 

 何度も失敗した。

 

 何度も一人で抱え込んだ。

 

 全部を自分でどうにかしなければならないと思っていた。

 

 それなのに、目の前の商人は、汗だくで、怖がりながら、損得を口にしながら、それでも言ったのだ。

 

 友達だから助けに来た、と。

 

「……は」

 

 スバルの喉から、変な声が漏れた。

 

「はは」

 

「な、なんで笑うんですか!」

 

「いや……悪い」

 

 笑いが止まらない。

 

 乾いた喉が痛む。

 

 体も痛い。

 

 状況は最悪だ。

 

 屋敷も、聖域も、何も解決していない。

 

 それでも、笑ってしまった。

 

 自分は、どれほど一人でいるつもりだったのか。

 

 どれほど、周りを見ていなかったのか。

 

 オットーがいた。

 

 ユイがいた。

 

 エミリアがいた。

 

 ラムがいた。

 

 ガーフィールでさえ、敵だけではない。

 

 それなのに、スバルはずっと、自分だけで全部を抱えようとしていた。

 

「悪い、オットー」

 

「本当に失礼ですよ、今の笑いは!」

 

「違うんだ」

 

 スバルは、まだ少し笑いながら言った。

 

「嬉しかったんだよ」

 

 オットーは目を丸くする。

 

「……そういうことなら、まあ、許しますけど」

 

「ありがとな」

 

「感謝はあとです。今は逃げますよ。ガーフィールさんに見つかったら終わりです」

 

「どうやってここを見つけた」

 

「いろいろです。僕にも、僕なりの手段がありますから」

 

 オットーは得意げに言いかけ、すぐに顔を引き締めた。

 

「それと、ラムさんも近くにいます。ユイさんは別方向を探しているはずですが、合流できれば心強い」

 

「ラムも?」

 

「ええ。全員が何もしていなかったわけじゃありません」

 

 その言葉が、胸に刺さった。

 

 全員が。

 

 何もしていなかったわけじゃない。

 

 自分だけが動いているつもりだった。

 

 自分だけが苦しんでいるつもりだった。

 

 そんな傲慢を、オットーの言葉が殴った。

 

 縄が解ける。

 

 スバルは立ち上がろうとして、ふらついた。

 

 オットーが肩を貸す。

 

「無理しないでください」

 

「無理はする」

 

「そこは反省してください!」

 

「努力する」

 

「信用できません!」

 

 暗い場所の出口へ向かう。

 

 外の空気が近づく。

 

 その時、遠くで低い唸りのような声が響いた。

 

「……出やがったな」

 

 ガーフィールの声だった。

 

 オットーの顔が引きつる。

 

「早すぎません!?」

 

「お前、逃げる準備は?」

 

「ありますけど、完璧ではありません!」

 

「十分だ」

 

「どこがですか!?」

 

 スバルは、オットーの肩を借りながら笑った。

 

 今度の笑いは、さっきより少しだけ力があった。

 

「行くぞ、オットー」

 

「はい!」

 

 暗闇の外へ。

 

 友人の肩を借りて、スバルは一歩を踏み出した。

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