死んだ。
また、死んだ。
その事実だけが、胸の中に重く沈んでいた。
「……っ、が、はっ!」
冷たい石の床の上で、スバルは息を吸った。
肺が痛い。
喉が焼ける。
腹を押さえた手の下に、傷はない。
だが、痛みだけは残っている。
エルザの刃。
禁書庫。
ベアトリスの震えた顔。
大切そうに抱えられていた黒い本。
ペトラの手。
ラムの風。
フレデリカの咆哮。
ユイの血。
全部が、まだそこにあった。
目の前には墓所の床。
遠くには、過去に囚われたまま震えるエミリア。
そして、すぐ近くにユイがいた。
「……スバルくん?」
ユイの声がした。
彼女は無傷だった。
肩も裂けていない。
横腹にも血はない。
当然だ。
まだ何も起きていない。
まだ、誰も死んでいない。
それなのに、スバルの中ではもう何度も死んでいる。
何度も失っている。
「スバルくん、腹を押さえているわ」
ユイが膝をついたまま、スバルを見ていた。
「痛むの?」
「……痛くない」
「嘘ね」
「嘘でも、今はそれで通す」
ユイは黙った。
その沈黙が、スバルの嘘を許したわけではないことはわかる。
彼女は見ている。
スバルの呼吸。
指の震え。
目の焦点。
スバルが何かを知っていて、それを言えないのだと、もう気づいている。
「何かあったのね」
「……」
「言えない?」
スバルは答えなかった。
答えられるはずがなかった。
喉の奥に、黒い手がある。
死に戻り。
それを口にすれば、あの手が心臓を握り潰す。
ユイは、短く息を吐いた。
「わかった。今は聞かない」
「……いいのかよ」
「よくはないわ。でも、言えないものを無理に吐かせるつもりはない」
「……」
「ただし、行動で示して。あなたが何を怖がっているか、何を急ぐか、誰を守ろうとしているか。私はそこから拾う」
スバルは唇を噛んだ。
何も言えない。
それでも、完全に一人ではない。
その事実だけで、わずかに息が吸えた。
墓所の奥で、エミリアの声が震えた。
「違う……私じゃない……違うの……」
スバルは立ち上がる。
足元がふらついた。
だが、止まれない。
「エミリア」
膝をつき、声をかける。
「聞こえるか。俺だ。スバルだ」
エミリアの目は、ここを見ていない。
過去の中にいる。
「今すぐ越えろなんて言わねえ。怖いなら怖いでいい。泣いたっていい。だから、戻ってこい。戻ってきてくれ」
エミリアの瞳が、かすかに揺れた。
「ス、バル……?」
「ああ。俺だ」
その瞬間、エミリアの体から力が抜けた。
スバルは抱き止める。
もう何度も繰り返した動きだった。
だが、慣れることなどない。
この軽さにも。
この涙にも。
自分が彼女を救えていない事実にも。
「外へ」
ユイが言った。
「これ以上は危険よ」
「ああ」
スバルはエミリアを抱き上げ、墓所を出た。
外には、ラムとガーフィールがいた。
ラムは静かにこちらを見ている。
ガーフィールは腕を組み、不機嫌そうに立っていた。
その後ろには、聖域の住人たち。
視線が集まる。
期待。
落胆。
不安。
失望。
その全部が、腕の中のエミリアへ突き刺さっているように見えた。
「……駄目だったのか」
ガーフィールが言った。
スバルは、怒鳴らなかった。
前なら、噛みついていたかもしれない。
だが、今は知っている。
ガーフィールは乱暴だ。
口も悪い。
信用もできない。
それでも、エミリアを見世物にするような視線を嫌う。
無理をしている者を見ていないわけではない。
「今夜は、無理だった」
「同じことだろうが」
「違う」
スバルは、声を抑えて言った。
「一回倒れたら終わりじゃない。怖がったら資格なしってわけでもない。今は休ませる」
ガーフィールは舌打ちした。
それから、住人たちへ顔を向ける。
「散れ」
低い声だった。
「見てても何も変わらねぇ。姫様は今日は終わりだ。文句がある奴は俺様に言え」
荒い言い方だった。
だが、住人たちはその声に押されるように離れていく。
ガーフィールは、エミリアを一瞥してから言った。
「早く連れてけ。夜は冷える」
「……ああ」
礼は言わない。
言えば、また嫌がられる。
それ以上に、今のスバルには、礼を言う余裕がなかった。
エミリアを休ませる部屋へ運ぶ。
ラムが香を焚き、寝台を整える。
ユイは水を用意し、エミリアの呼吸を確認した。
エミリアは眠っている。
だが、眉はかすかに震えていた。
まだ、過去の残滓が彼女を離していない。
スバルは壁際に立ったまま、じっとそれを見ていた。
屋敷へ行きたい。
今すぐ走りたい。
レムを助けたい。
ペトラを助けたい。
ベアトリスに、あの本のことを問い詰めたい。
エルザを止めたい。
だが、ここで走れば、また同じことになる。
何かを変えなければならない。
けれど、変えすぎれば、別の場所が壊れる。
「スバルくん」
ユイが呼んだ。
「座って」
「時間がない」
「だから座って。立ったまま考えると、あなたは走り出す」
スバルは、言い返せなかった。
図星だった。
今の自分は、少しでも目を離されれば走る。
レムの部屋へ。
禁書庫へ。
死へ。
スバルは椅子に腰を下ろした。
ユイは、正面に立つ。
「屋敷ね」
「……」
「あなたは屋敷を怖がっている。前から気にしていたけれど、今はもっと強い」
「……屋敷に、戻る必要がある」
スバルは言った。
「フレデリカの石。ベア子。ペトラ。レム。全部、確認しなきゃいけない」
「理由はそれだけ?」
「……それだけじゃない」
「言えない?」
「ああ」
ユイは頷いた。
「わかった。今はそれでいい」
「いいのかよ」
「よくはない。でも、聞いても言えないのでしょう」
「……悪い」
「謝るより、生きて戻って」
その言葉が胸に刺さった。
生きて戻る。
それがどれほど難しいか、スバルだけが知っている。
翌朝。
スバルは、できるだけ普通に振る舞った。
エミリアが目を覚ましたときも。
試練の失敗に怯えたときも。
聖域の住人たちの空気が重く沈んでいたときも。
スバルは、なるべく前の流れをなぞった。
変えすぎてはいけない。
そう思った。
何もかもを一気に変えようとして、何度も死んだ。
なら、今度は少しずつ変える。
そう考えた。
考えたつもりだった。
だが、ロズワールの休む家の外で、オットーに声をかけられた。
「スバルさん」
「なんだ、オットー」
振り返ると、オットーは困ったような顔をしていた。
普段なら、何か言う前に無駄な前置きが三つは入る。
だが、この時のオットーは違った。
「スバルさん、妙に落ち着いていませんか?」
「……」
スバルは、呼吸を忘れた。
オットーは慌てて両手を振る。
「あ、責めているわけではありません。ただ、エミリア様はあの状態ですし、聖域から出られない問題も何も解決していません。なのに、スバルさんは……なんというか、次に何が起きるかを考えている顔をしているというか」
「俺が?」
「はい」
「冷静に見えるってことか」
「冷静というより、無理に冷静なふりをしているように見えます」
鋭い。
スバルはそう思った。
オットーは戦闘で頼れる人間ではない。
空気を読めるようで、読めない。
商人らしく損得を考えるくせに、肝心なところで損な役を引く。
だが、人を見る目はある。
今のスバルの異常を、見逃さない程度には。
「……ありがとな、オットー」
「え?」
「俺、ちゃんと考えられてるってことだろ」
「そういう意味で言ったわけではないんですが」
「そういう意味にしとく」
スバルは無理やり笑った。
オットーは、さらに困った顔になる。
「スバルさん、そうやって無理に笑うの、あまり上手くありませんよ」
「うるせえな。商人なら、もうちょい相手を気持ちよく騙されてやれよ」
「商人だからこそ、怪しい笑顔には敏感なんです」
「俺の笑顔は怪しいのか」
「だいぶ」
「ひでえ」
軽口。
それだけで、少しだけ息ができた。
だが、その空気は長く続かなかった。
「おい」
低い声。
ガーフィールだった。
腕を組み、獣のような目でスバルを見ている。
「ちょっと来い」
「俺が?」
「他に誰がいんだよ」
オットーが、露骨に身を引いた。
「あ、僕は……」
「商人は関係ねぇ。引っ込んでろ」
「はい、引っ込みます」
「引っ込み早すぎだろ」
「状況判断です!」
オットーは小声で言い返した。
だが、彼の目には心配があった。
「スバルさん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。ちょっと行ってくる」
「大丈夫じゃない人ほど、そう言うんですよ」
「経験者みたいな言い方すんな」
「商人はいろんな人を見ますので」
その横で、ユイが近づいてきた。
「私も行くわ」
ガーフィールの眉が跳ねる。
「呼ばれてんのはスバルだけだ」
「だから?」
「だから、姉ちゃんは来んな」
「リューズさんが呼んでいるなら、私が同席して困る理由は?」
「困るから困るんだよ」
「説明になっていないわ」
空気が張り詰めた。
ガーフィールの目が獣じみた色を帯びる。
ユイは一歩も引かない。
スバルは、二人の間に入った。
「ユイさん」
「何?」
「エミリアたんの側にいてくれ」
ユイの目が動く。
「あなたは?」
「すぐ戻る」
「信用できないわ」
「だろうな」
スバルは苦笑する。
「でも、今エミリアたんを一人にしたくない。オットーだけじゃ不安だし、ラムもロズワールのところにいる。ユイさんがいてくれた方がいい」
「……」
ユイは、じっとスバルを見た。
探るような目だった。
スバルが隠している恐怖も、焦りも、無理に作った冷静さも、全部見えているのだろう。
「わかった」
ユイは短く言った。
「ただし、戻らなかったら探す」
「戻るって」
「戻らなかったら探す」
「……わかった」
ガーフィールは苛立ったように舌打ちした。
「話は終わったかよ」
「ああ」
「なら来い」
ガーフィールは背を向けて歩き出した。
スバルはその後を追う。
背中に、ユイとオットーの視線を感じた。
振り返りたかった。
だが、振り返れば足が止まりそうだった。
森へ向かう道を、ガーフィールは無言で歩いた。
足取りは速い。
だが、走ってはいない。
スバルがついてこられる速度を保っている。
そういうところだけ、妙に加減している。
スバルは、その背中に声をかけた。
「なあ」
「あ?」
「フレデリカって、お前の姉貴なんだな」
ガーフィールの足が、一瞬だけ止まりかけた。
すぐにまた動く。
「誰から聞いた」
「誰からっていうか……顔に出てた」
「てめぇ、人の顔ばっか見てんじゃねぇよ。気色悪ぃ」
「顔に出す方が悪い」
「噛み砕くぞ」
「やめろ。まだ歯形を増やす趣味はない」
軽口の形をしていたが、ガーフィールの声には棘がある。
フレデリカ。
その名前は、この男の奥の柔らかい場所に触れるのだ。
「姉貴はよ」
ガーフィールが低く言った。
「十年、戻ってこなかった」
「……」
「聖域を出て、外で暮らしてる。ここの連中を置いてな」
「捨てたって思ってるのか」
ガーフィールは答えなかった。
けれど、答えないことが答えだった。
「でも、お前はフレデリカを信じてる」
「あ?」
「考えなしに動く女じゃないって、思ってるんだろ」
「知ったような口を利くな」
「知ってるわけじゃない。知りたいだけだ」
「何を」
「お前が、何に怒ってるのか」
ガーフィールは立ち止まらなかった。
だが、肩の力がわずかに変わる。
「知ってどうする」
「間違えないようにする」
「何を」
「疑う相手を」
ガーフィールは鼻を鳴らした。
それ以上は答えない。
森を抜ける。
視界が開けた。
広い草原。
聖域の中でも、どこか空気の違う場所。
そこに、リューズが立っていた。
幼い姿。
老いた目。
その違和感にも、もう驚く余裕はない。
「来たか、スバル」
「リューズさん」
スバルは息を整えた。
「俺に話って?」
「まず、フレデリカのことじゃ」
リューズは、ゆっくりと切り出した。
「そなたらは、あの娘が聖域から出られることに疑問を持っておるじゃろう」
「……ああ」
「聖域の結界は、すべての亜人を閉じ込めるものではない。条件がある」
「条件?」
「血の混じり方じゃ。あの娘は獣人と人の血を引いておるが、結界に縛られる条件からは外れておる」
スバルは眉を寄せる。
細かい理屈は難しい。
だが、ひとつだけわかる。
フレデリカが外に出られるのは、裏切りでも特権でもない。
結界の条件がそうしているだけだ。
「じゃあ、ガーフィールは」
「ガーフは縛られておる」
リューズは言った。
「ゆえに、外へは出られぬ」
「俺様の話はいい」
ガーフィールが遮る。
リューズは気にせず続けた。
「フレデリカとガーフは姉弟じゃ。ただし、父は違う」
「異父姉弟……」
「そうじゃ。片方は外へ出られ、片方は聖域に残った」
ガーフィールの顔が険しくなる。
「リューズ様、余計なこと言わなくていい」
「余計かどうかは、聞く者次第じゃ」
リューズは静かだった。
ガーフィールは苛立っている。
だが、その苛立ちは単純な怒りだけではない。
置いていかれた痛み。
戻ってこなかった姉への怒り。
それでも捨てきれない信頼。
スバルには、その全部が少しだけ見えた気がした。
「それで、スバル」
リューズが視線を戻す。
「そなたは、どうするつもりじゃ」
「どうって」
「試練のことじゃ」
空気が変わった。
スバルは、言葉を選ぼうとした。
だが、焦りが先に出た。
屋敷。
エルザ。
魔獣。
ペトラ。
ベアトリス。
ユイ。
時間がない。
「……俺が受ける」
言った瞬間、ガーフィールの目が細くなった。
リューズの表情も、わずかに固くなる。
「俺が、エミリアたんの代わりに試練を越える。そうすれば、聖域は解放できるかもしれない」
「それは、エミリア様が越える意味を捨てるということじゃな」
「意味とか言ってる場合じゃない」
スバルの声が荒くなる。
「屋敷にはレムがいる。ペトラもいる。ベア子もいる。フレデリカも。ここにはエミリアたんがいる。聖域の人たちもいる。全部、同時に助けなきゃならないんだ」
「なぜ、屋敷をそこまで急ぐ」
リューズの問いに、スバルは言葉を失った。
なぜ。
言えない。
エルザが来るから。
魔獣が出るから。
ペトラが死ぬから。
ベアトリスが俺だけを助けるから。
何ひとつ、説明できない。
「……嫌な予感がする」
それが限界だった。
ガーフィールが鼻を鳴らす。
「嫌な予感、ねぇ」
「馬鹿にしてる場合かよ」
「馬鹿にしてるんじゃねぇ」
ガーフィールが一歩近づいた。
その鼻が、わずかに動く。
スバルの背筋が冷える。
「てめぇ、やっぱりおかしいぞ」
「何が」
「焦り方が異常だ。何か知ってる顔をしてる。なのに言わねぇ」
「……」
「それに」
ガーフィールの目が、獣のように鋭くなった。
「匂いが濃くなってやがる」
魔女の残り香。
死に戻りを繰り返すたびに濃くなる、あの匂い。
ガーフィールの敵意が、はっきりと形を持った。
「てめぇ、何者だ」
「俺は――」
「魔女教徒じゃねぇってか?」
「違う!」
「その匂いで?」
ガーフィールの声は低かった。
「前から鼻についてた。だが、今は隠しようがねぇ。てめぇからは、魔女教の連中と同じ嫌な匂いがする」
「違うんだよ!」
「証明できんのか」
スバルは言葉に詰まった。
証明できない。
死に戻りを説明できない。
魔女の残り香の理由を言えない。
言えば、死ぬ。
「……できない」
「なら黙ってろ」
リューズが、ゆっくり目を伏せた。
「スバル。そなたを、このまま自由にはできぬ」
「リューズさん……?」
「殺しはせぬ。じゃが、拘束させてもらう」
「ふざけんな!」
スバルは叫んだ。
「俺には時間がないんだ!」
「だからこそじゃ」
リューズの声は揺れなかった。
「時間がないと焦る者は、時に取り返しのつかぬことをする。今のそなたは危うい。エミリア様にも、聖域にも」
「俺は助けようとしてるんだ!」
「助けようとしている者が、必ず正しいとは限らぬ」
その言葉が刺さった。
だが、受け入れる余裕はなかった。
スバルは踵を返そうとした。
動かなければならない。
屋敷へ。
エミリアのところへ。
ユイのところへ。
どこへでも。
だが、動くより早く、ガーフィールが背後にいた。
速い。
「がっ……!」
腕を捻り上げられた。
肩に激痛が走る。
膝が崩れる。
「動くな」
「離せ、ガーフィール!」
「離すわけねぇだろ」
「屋敷が危ないんだ!」
「何が危ねぇ」
「……っ」
答えられない。
その沈黙が、ガーフィールの疑いを決定的にする。
「やっぱり言えねぇんだな」
「違う、言えないだけで――」
「同じだ」
ガーフィールの声が冷える。
「何か知ってる。けど言わねぇ。魔女の匂いをさせてる。しかも、エミリア様の試練を奪う気でいる」
「奪うんじゃない!」
「そう聞こえんだよ」
腕がさらに捻られる。
骨が軋む。
視界が揺れた。
「スバル」
リューズの声が遠く聞こえる。
「すまぬな」
「リューズさん!」
「ガーフ」
「ああ」
次の瞬間、首筋に衝撃が落ちた。
視界が白く弾ける。
倒れ込む寸前、スバルが最後に見たのは、ガーフィールの苦い顔だった。
怒っている。
疑っている。
だが、楽しんでいる顔ではない。
守るために、敵かもしれないものを排除する顔。
理解したくなかった。
理解する前に、意識が闇へ落ちた。
次に目を覚ました時、そこは暗い場所だった。
湿った土の匂い。
石の冷たさ。
腕が縛られている。
口には布を噛まされている。
目隠し。
身動きが取れない。
「……っ、ん……!」
声を出そうとしても、布に塞がれる。
体を動かす。
縄が肉に食い込むだけだった。
暗い。
息苦しい。
時間がわからない。
どれほど眠っていた。
屋敷はどうなった。
エミリアは。
ユイは。
レムは。
ペトラは。
焦りだけが、胸を焼く。
どれくらい経ったのか。
足音が近づいた。
目隠しが外される。
口の布も外された。
目の前に、ガーフィールがいた。
「騒ぐな」
「ガーフィール……!」
「騒ぐなっつったろ」
首元を掴まれ、壁へ叩きつけられる。
「ぐっ……!」
「てめぇ、何者だ」
「だから、俺は――」
「魔女教徒じゃねぇってか?」
ガーフィールの目が光る。
「その匂いで?」
「違う」
「違うって言えば済むと思ってんのか」
「違うんだよ!」
スバルは叫んだ。
「俺は魔女教じゃない。魔女教なんか、死ぬほど嫌いだ!」
「死ぬほど、ねぇ」
ガーフィールは鼻を鳴らす。
スバルは、自分の言葉に息を詰まらせた。
死ぬほど。
今の自分が言うには、あまりにも重い言葉だった。
「てめぇは焦りすぎてる。何かを知ってる顔をしてる。けど何も言わねぇ。しかも、魔女の臭いをぷんぷんさせてやがる」
「言えないんだよ……」
「あ?」
「言えないことだってあるんだよ!」
「なら信用できねぇ」
即答だった。
「聖域にいる連中を守るためなら、怪しい奴は縛る。それだけだ」
「屋敷が危ないんだ!」
言えたのはそこまでだった。
だが、その先が出ない。
誰が。
いつ。
なぜ。
説明しようとすると、黒い手が喉元に迫る。
「何が危ねぇ」
「……」
「言えねぇのか」
「……言えない」
「だったら、ここで黙ってろ」
ガーフィールは再び布を掴む。
「待て!」
「待たねぇ」
「ユイさんはどうした!」
その言葉に、ガーフィールの手が止まった。
「姉ちゃんは探してる」
「なら――」
「だから余計に面倒なんだよ」
ガーフィールは舌打ちした。
「あの姉ちゃん、やたら鋭い。リューズ様が押さえてなきゃ、ここまで嗅ぎつけてたかもしれねぇ」
「ユイさんに何かしたら――」
「してねぇよ」
ガーフィールは苛立ったように言う。
「今はな。だが、てめぇが変な真似すりゃ話は別だ」
「……」
「大人しくしてろ」
再び口を塞がれる。
目隠しも戻される。
足音が遠ざかる。
暗闇が戻った。
何もできない。
動けない。
屋敷へ行けない。
エミリアのところへも戻れない。
ユイが探している。
オットーはどうしている。
ラムは。
リューズは。
時間だけが過ぎていく。
一日。
二日。
三日。
正確な時間はわからない。
喉は乾き、体は痛み、意識は何度も途切れた。
そのたびに、スバルは屋敷を思い出した。
ペトラの手。
ベアトリスの本。
エルザの刃。
思い出すたびに、縛られた腕を動かそうとして、縄が肉に食い込む。
何もできない。
それが、一番苦しかった。
やがて、足音が聞こえた。
ガーフィールのものではない。
もっと軽い。
慌てていて、慎重で、それでいてどこか抜けている足音。
目隠しが外される。
光が刺さる。
スバルは目を細めた。
「スバルさん!」
そこにいたのは、オットーだった。
汗だくで、息を切らし、手には水筒を持っている。
彼は慌てて口の布を外した。
「大丈夫ですか!?」
「オットー……?」
声が掠れていた。
オットーは水筒を口元へ運ぶ。
「飲んでください。ゆっくりです」
水が喉を通る。
痛い。
けれど、生き返るようだった。
「なんで……」
「なんでって、探したからですよ!」
オットーは縄をほどきながら言う。
「スバルさんがいなくなって、みんな大騒ぎです。エミリア様はずっと不安そうで、ラムさんも動いていますし、ユイさんなんてほとんど寝ずに探していました」
「ユイさんが……」
「ええ。怖いくらい冷静でしたけど、静かに怒っていました。ガーフィールさんを見る目が、とても商談向きではありませんでした」
スバルは、少しだけ笑いそうになった。
だが、喉が痛くてうまく笑えない。
「どれくらい経った」
「三日です」
「三日……」
頭が白くなる。
三日。
屋敷は。
レムは。
ペトラは。
ベアトリスは。
スバルの顔色を見て、オットーが慌てる。
「落ち着いてください。今は脱出が先です」
「お前、ガーフィールに見つかったらまずいだろ」
「まずいですよ!」
「じゃあ、なんで来たんだ」
オットーは、縄をほどく手を止めた。
「なんでって……」
困ったように眉を寄せる。
そして、当たり前のように言った。
「友達を助けに来るのに、理由が必要ですか?」
スバルは瞬きをした。
うまく聞き取れなかった。
「……ユージン?」
「違います! 友人です! 友達!」
「お前が、俺の?」
「他に誰がいるんですか!」
オットーは怒ったように言う。
「確かに、僕は商人です。損得も考えます。危ないことは嫌いです。ガーフィールさんには脅されましたし、正直めちゃくちゃ怖いです!」
「じゃあ、なんで」
「だから言ってるでしょう!」
オットーの声が震えた。
「友達だからです!」
その言葉に、スバルは固まった。
友達。
あまりにも普通で。
あまりにも場違いで。
あまりにも救いだった。
何度も死んだ。
何度も失敗した。
何度も一人で抱え込んだ。
全部を自分でどうにかしなければならないと思っていた。
それなのに、目の前の商人は、汗だくで、怖がりながら、損得を口にしながら、それでも言ったのだ。
友達だから助けに来た、と。
「……は」
スバルの喉から、変な声が漏れた。
「はは」
「な、なんで笑うんですか!」
「いや……悪い」
笑いが止まらない。
乾いた喉が痛む。
体も痛い。
状況は最悪だ。
屋敷も、聖域も、何も解決していない。
それでも、笑ってしまった。
自分は、どれほど一人でいるつもりだったのか。
どれほど、周りを見ていなかったのか。
オットーがいた。
ユイがいた。
エミリアがいた。
ラムがいた。
ガーフィールでさえ、敵だけではない。
それなのに、スバルはずっと、自分だけで全部を抱えようとしていた。
「悪い、オットー」
「本当に失礼ですよ、今の笑いは!」
「違うんだ」
スバルは、まだ少し笑いながら言った。
「嬉しかったんだよ」
オットーは目を丸くする。
「……そういうことなら、まあ、許しますけど」
「ありがとな」
「感謝はあとです。今は逃げますよ。ガーフィールさんに見つかったら終わりです」
「どうやってここを見つけた」
「いろいろです。僕にも、僕なりの手段がありますから」
オットーは得意げに言いかけ、すぐに顔を引き締めた。
「それと、ラムさんも近くにいます。ユイさんは別方向を探しているはずですが、合流できれば心強い」
「ラムも?」
「ええ。全員が何もしていなかったわけじゃありません」
その言葉が、胸に刺さった。
全員が。
何もしていなかったわけじゃない。
自分だけが動いているつもりだった。
自分だけが苦しんでいるつもりだった。
そんな傲慢を、オットーの言葉が殴った。
縄が解ける。
スバルは立ち上がろうとして、ふらついた。
オットーが肩を貸す。
「無理しないでください」
「無理はする」
「そこは反省してください!」
「努力する」
「信用できません!」
暗い場所の出口へ向かう。
外の空気が近づく。
その時、遠くで低い唸りのような声が響いた。
「……出やがったな」
ガーフィールの声だった。
オットーの顔が引きつる。
「早すぎません!?」
「お前、逃げる準備は?」
「ありますけど、完璧ではありません!」
「十分だ」
「どこがですか!?」
スバルは、オットーの肩を借りながら笑った。
今度の笑いは、さっきより少しだけ力があった。
「行くぞ、オットー」
「はい!」
暗闇の外へ。
友人の肩を借りて、スバルは一歩を踏み出した。