暗闇の外へ出た瞬間、スバルは眩しさに目を細めた。
足が震える。
三日間、縛られ、目隠しをされ、ろくに動かせなかった体は、思った以上に重かった。
膝が笑う。
喉は乾き、腕には縄の痕が残っている。
それでも倒れなかったのは、隣にオットーがいたからだ。
肩を貸してくれている。
自分よりずっと頼りなさそうな顔で。
自分よりずっと怖がっている顔で。
それでも、離さない。
「スバルさん、足元、気をつけてください」
「……お前に言われると、ちょっと不安になるな」
「助けられている立場で言いますか、それ」
「悪い。口が勝手に」
「その口が動くなら、まだ大丈夫そうですね」
オットーはそう言って、ほっとしたように笑った。
スバルは、その横顔を見た。
友人。
そう言った。
自分を助ける理由として、あまりにも当然のように。
その言葉の重みが、まだ胸に残っている。
「……オットー」
「何ですか?」
「ありがとな」
「ですから、感謝はあとでいいですって」
「今言わねえと、言いそびれそうでさ」
オットーは一瞬だけ黙り、すぐに眉を寄せた。
「そういう不吉なことを言うの、やめてください」
「悪い」
「本当に悪いと思っています?」
「ちょっと思ってる」
「ちょっと!」
いつもの調子。
それが、今は信じられないほどありがたかった。
だが、その小さな空気は長く続かなかった。
木陰から、人影が出てきた。
ラムだった。
腕を組み、いつも通り涼しい顔をしている。
まるで、三日間監禁されていたスバルを見ても、特別な驚きなどないような顔だった。
「遅いわ、バルス」
「第一声それかよ……」
「元気そうね」
「どこを見てそう思った」
「口だけは動いているもの」
「そこしか見てないのかよ」
ラムはオットーへ視線を向ける。
「オットーも、よくやったわ」
「えっ。ラムさんに褒められると、逆に怖いんですが」
「なら取り消すわ」
「早い!」
ラムは短く息を吐き、それから表情を引き締めた。
「移動するわ。ここで長く話していると、ガーフに気づかれる」
「ガーフィールは?」
「あなたが消えたあと、当然のように捜索に加わっていたわ。表向きはね」
「表向き?」
「あなたを閉じ込めた本人が、あなたを探す側にいたということよ」
スバルは奥歯を噛んだ。
ガーフィール。
乱暴で、疑い深くて、聖域を守ろうとしている。
悪意だけではない。
それはわかる。
だが、わかることと許せることは違う。
「エミリアたんは」
スバルが聞くと、ラムの表情がわずかに曇った。
「試練に挑み続けているわ」
「……」
「何度も失敗している。あなたがいなくなって、不安定になっていた。ロズワール様の言葉で、どうにか立っている状態よ」
胸が痛んだ。
三日。
自分が何もできずに縛られていた三日間。
エミリアは一人で墓所へ向かっていた。
何度も。
何度も。
スバルは拳を握る。
「俺は、何やってんだ……」
「落ち込むのは後にしなさい」
ラムは冷たく言った。
「今は考えるべきことがある。まず、ガーフの動き」
「ガーフィールは俺を逃がさないだろ」
「ええ。でも、あの子にも縛りがある」
「縛り?」
「エミリア様が墓所で試練を受けている間、ガーフは墓所から離れにくい。聖域の守護者としての役目があるから」
オットーが頷く。
「つまり、その時間を使えば、こちらは動ける可能性があるということです」
「そのために、ラムはロズワール様の指示で動いているわ」
「ロズワールの指示……」
スバルの声が低くなる。
ラムはすぐに目を細めた。
「バルス。ロズワール様を疑うのは勝手だけれど、今は利用できるものは利用しなさい」
「……わかってる」
「わかっている顔ではないわね」
「わかってる。納得してないだけだ」
「なら十分よ」
その時、横の茂みがかすかに揺れた。
スバルは反射的に身構える。
だが、そこから出てきたのはガーフィールではなかった。
ユイだった。
白い髪に、草葉がついている。
呼吸は乱れていない。
けれど、目だけが鋭かった。
「見つけた」
「ユイさん……」
「戻らなかったら探すと言ったわ」
「……悪い」
「謝罪は後」
ユイは近づき、スバルの手首、顔色、立ち方を順に見る。
「三日。水分不足。拘束痕。体力低下。まともに走れる状態ではないわね」
「走る必要があるんだよ」
「だから問題なの」
ユイはラムを見る。
「状況は?」
「ガーフに追われる前にロズワール様のところへ行く。バルスには聞くべきことがあるでしょう」
ユイの目がわずかに動いた。
「ベアトリスさんのことね」
スバルは息を呑む。
ユイはスバルを見た。
「あなたは屋敷の何かを見た。ベアトリスさんについても何か知った。言えないなら言わなくていい。でも、ロズワール様には聞くべき」
「……ああ」
言えないことを、全部は言えない。
だが、ベアトリスのことなら聞ける。
あの本。
あれが何なのか。
なぜベアトリスは、あれを大事そうに抱えていたのか。
なぜ自分だけを助けたのか。
なぜ他の全員を助けなかったのか。
その答えを知っているのは、おそらくロズワールだ。
四人は、ロズワールのいる家へ向かった。
道中、スバルは何度も足をもつれさせた。
そのたびにオットーが支え、ユイが歩幅を落とす。
ラムだけが、前を向いたまま言った。
「遅いわ」
「三日縛られてた人間に言うか?」
「なら、三日前に捕まらなければよかったのよ」
「正論が雑!」
少しだけ、空気が戻る。
だが、ロズワールの部屋に入った瞬間、その空気は消えた。
ロズワールは寝台の上にいた。
包帯に巻かれ、体は痛々しい。
それなのに、顔だけはいつも通りだった。
笑っている。
こちらがどれほど苦しんでいようと、盤面が進んでいることを愉しむように。
「やぁ、スバルくぅん。無事で何よりだねぇ」
「……無事?」
スバルは低く言った。
「三日間、ガーフィールに縛られてたんだぞ」
「生きているなら、無事の範囲だよ」
「お前の範囲、広すぎんだろ」
ロズワールは笑う。
スバルは一歩前に出た。
ラムがわずかに身構える。
ユイは無言でスバルの横に立つ。
「ロズワール。聞きたいことがある」
「なんだろぉねぇ」
「ベアトリスの本だ」
ロズワールの目が、ほんのわずかに細くなった。
スバルは続ける。
「禁書庫で見た。ベア子が大事そうに抱えてた。黒い本だ。魔女教の奴らが持ってた福音に似てた」
ラムの目が動く。
オットーは息を呑んだ。
ユイは黙っている。
ロズワールは、変わらず笑っていた。
「それで、君はベアトリスを魔女教徒だと思ったのかい?」
「違うのか」
「違うよ」
即答だった。
スバルは眉を寄せる。
「なら、あれは何だ」
「叡智の書」
ロズワールは静かに言った。
「厳密には、完全なものではない。だが、魔女教徒の持つ粗悪な福音とは別物だ」
「叡智の書……」
「未来を記す書、と言えばわかりやすいかな。もっとも、ベアトリスの持つものは、今では空白だろうがね」
「空白?」
「それでも、彼女はそれに縋っている」
スバルは、禁書庫でのベアトリスを思い出した。
本を抱きしめる小さな手。
取られまいとするような仕草。
怒り。
怯え。
孤独。
「じゃあ、ベア子は何なんだ」
「禁書庫の司書だよ」
「それだけじゃないだろ」
「そうだねぇ。彼女は契約に縛られている」
「契約……」
「長い長い間、彼女は禁書庫を守ってきた。ある人物を待ちながら」
スバルの目が鋭くなる。
「ある人物?」
「彼女にとっての、その人」
「その人……?」
意味がわからない。
だが、その言葉が引っかかった。
ベアトリスの表情。
あの本。
ロズワールの「問え」という伝言。
全部が、その言葉へ繋がっているように思えた。
「ベアトリスを動かしたいのなら」
ロズワールは、穏やかに続けた。
「君が言えばいい。自分こそが、その人だと」
スバルの顔が歪む。
「……は?」
「彼女の契約には、抜け道がある。君がそう告げれば、彼女は君に従う可能性がある」
「ふざけんな」
スバルの声が低くなる。
「それ、騙せってことだろ」
「救うための方便とも言える」
「言えねえよ」
スバルは吐き捨てた。
「ベア子は、あの本に縋ってた。何かを待ってる顔だった。そこにつけ込めって言うのか」
「君は屋敷を救いたいのだろう?」
「そうだよ」
「なら、使える手は使うべきだ」
「……お前、本当にそういうところ最悪だな」
ロズワールは笑った。
「褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてねえ」
スバルは拳を握る。
今すぐ殴りたい。
けれど、殴っても何も変わらない。
屋敷には時間がない。
レムがいる。
ペトラがいる。
フレデリカがいる。
ベアトリスがいる。
エルザが来る。
魔獣もいる。
だから、感情で動くわけにはいかない。
「もう一つ聞く」
「何かな」
「お前は敵か?」
部屋の空気が止まった。
ラムが息を呑む。
オットーの顔が青ざめる。
ユイは、ロズワールを見据えたまま動かない。
ロズワールは笑っていた。
少しだけ。
ひどく不気味に。
「敵ではないよ」
「味方か?」
「それもまた、単純な言葉だねぇ」
「単純でいいんだよ。答えろ」
「私は、エミリア様の味方だ」
「俺の味方じゃないんだな」
ロズワールは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
スバルは息を吐いた。
「わかった。今はそれでいい」
ロズワールの部屋を出たあと、四人は作戦を立てた。
使える移動手段は限られている。
確実に動かせるのは、パトラッシュ。
だが、全員は乗れない。
「屋敷へ行くには、パトラッシュを使うしかない」
スバルは言った。
「でも、全員は無理だ」
「なら、誰が行くかを絞るしかありません」
オットーが言う。
「僕は道案内も交渉もできますが、戦力にはなりません」
「オットーは行く」
「え、戦力にならないって今言ったんですが」
「お前がいないと、俺が変な方向に突っ走る」
「それは自覚しているんですね」
「自覚はある。改善はこれから」
「不安しかありません!」
ラムが淡々と言う。
「ラムは残るわ」
「残る?」
「ガーフを抑える役が必要よ。エミリア様が試練を受けている間、ガーフは墓所から離れにくい。でも、こちらの動きを読めば必ず追ってくる。誰かが足止めしなければならない」
「それをラムがやるのか」
「そうよ」
「無茶だろ」
「無茶はバルスだけの専売特許ではないわ」
ユイが口を開く。
「私も残る」
「ユイさんまで?」
「一拍稼ぐ」
ユイはそれ以上、説明しなかった。
ただ、短剣の柄に指を添える。
スバルは彼女を見る。
彼女が何をするつもりなのか、詳細を聞いても答えないだろう。
それに、聞くべきでもない。
彼女にも、話せることと話せないことがある。
「ガーフィールは、目だけで戦う相手じゃない」
スバルは言った。
「お前が何をしても、匂いや音で読まれるかもしれない」
「だから長くは止めない」
ユイは淡々と答える。
「ほんの少しでいい。あなたたちが動き出す時間を作る」
「……」
「全部を一人で持とうとしないで。今回は、分けるべき」
その言葉は痛かった。
正しいからだ。
全部を自分で抱えようとして、何度も死んだ。
何度も失った。
なら、分けるしかない。
誰かに任せるしかない。
「死ぬなよ」
スバルは言った。
ラムが肩をすくめる。
「バルスに言われると腹立たしいわ」
ユイは静かに答える。
「あなたも」
作戦はすぐに崩れた。
パトラッシュのもとへ向かう直前、ガーフィールが現れた。
まるで、こちらの考えを最初から読んでいたかのように。
いや、実際、読んでいたのだろう。
墓所の状況。
エミリアの試練。
パトラッシュの存在。
ロズワールの指示。
すべてを繋げれば、スバルたちが屋敷へ向かうことは見える。
「どこへ行く気だ」
ガーフィールが低く言った。
スバルは答えない。
答えれば、戦いになる。
答えなくても、戦いになる。
ラムが一歩前に出た。
「屋敷よ」
「言いやがったな」
「隠しても意味がないもの」
「聖域を放って、屋敷へ行くってか」
「聖域も放ってはいないわ。エミリア様は試練を受ける。あなたは墓所を離れられない」
ガーフィールの眉が跳ねる。
「それを狙うってか」
「狙うわ」
ラムは淡々と答えた。
「バルスたちは屋敷へ行く。ラムはあなたを止める」
「できると思ってんのか」
「思っていなければ立たないわ」
ユイがラムの横へ並ぶ。
「私も止める」
「姉ちゃん」
ガーフィールの声に、苛立ちが混じる。
「どけ」
「嫌よ」
「噛み砕くぞ」
「それでも、今はどかない」
ユイの声は静かだった。
何かを誇示するでもない。
説明するでもない。
ただ、そこに立つ。
ラムが風を纏った。
「エル・フーラ」
風が走る。
土が跳ねる。
ガーフィールの足元を削る。
同時に、ユイが一歩踏み込み、ガーフィールの真正面ではなく、わずかに外れた位置に立った。
視線を奪う角度。
呼吸を狂わせる間合い。
ガーフィールの眉が動く。
「小賢しいな」
「褒め言葉としては受け取らないわ」
「褒めてねぇよ」
スバルの腕を、オットーが引いた。
「行きます!」
「ラム! ユイさん!」
「行きなさい、バルス!」
「行って、スバルくん!」
スバルは歯を食いしばり、走った。
オットーと共に、パトラッシュの方へ。
背後で、風が轟く。
ガーフィールの怒号。
ラムの詠唱。
ユイの短い声。
すべてが遠ざかる。
パトラッシュが待っていた。
黒い地竜は、スバルを見るなり鼻を鳴らす。
まるで、遅いと言っているようだった。
「悪い、パトラッシュ」
スバルは鞍に手をかける。
だが、オットーが首を振った。
「このまま直線で結界へ行っても読まれます。村の人たちに案内を頼んであります」
「村の人たちに?」
「はい」
「巻き込んだのか!」
「もう巻き込まれています!」
オットーは声を張った。
「スバルさんを助けたい人は、僕だけじゃありません!」
その言葉に、スバルは何も言えなくなった。
森の細道に入る。
そこには、アーラム村の人々がいた。
ミルデ婆さん。
若い男たち。
女たち。
皆、不安そうな顔をしている。
それでも、スバルを見ると道を開けた。
「兄ちゃん、こっちだ!」
「早く!」
「道はわしらが知ってる!」
スバルは、喉が詰まった。
「なんで……」
オットーが言う。
「助けられたからでしょう」
「俺が?」
「ええ。あなたが彼らを助けた。だから、彼らもあなたを助ける」
「そんなの……」
そんな価値が、自分にあるのか。
問う暇はなかった。
背後から、地鳴りが来た。
木々が折れる音。
獣の咆哮。
空気が震える。
オットーの顔が青ざめる。
「もう来た……!」
森の奥から、巨大な影が現れた。
黄金の体毛。
筋肉の塊。
虎にも似た巨獣。
獣化したガーフィール。
ラムとユイはどうなった。
その問いが、スバルの頭を白くする。
しかし、答えはない。
ガーフィールの咆哮が、すべてをかき消した。
村人たちが悲鳴を上げる。
それでも、誰かが叫んだ。
「兄ちゃんを逃がせ!」
「やめろ!」
スバルは叫ぶ。
だが、男たちは棒や農具を持って前に出る。
止められるはずがない。
そんなことは誰でもわかっている。
それでも、彼らは立った。
スバルを逃がすために。
ガーフィールの巨腕が振るわれる。
木が砕ける。
地面が裂ける。
人の体が、軽々と吹き飛んだ。
「やめろおおおおおおおお!」
スバルの叫びは届かない。
村人たちは次々に倒れる。
それでも、道を開ける。
スバルを進ませる。
自分のために。
自分なんかのために。
「スバルさん!」
オットーが叫ぶ。
「止まらないで!」
「無理だ!」
「無理でも行くんです!」
「これ以上、誰かを――」
その時、ガーフィールの巨腕がスバルへ向かった。
避けられない。
スバルは動けなかった。
その前に、オットーが飛び込んだ。
「オットー――!」
鈍い音がした。
血が散った。
オットーの体が、スバルの前で崩れる。
声が出なかった。
友人。
そう言ってくれた男。
損得を考え、怖がり、それでも助けに来てくれた男。
その男が、スバルを庇って倒れている。
「……なんで」
スバルの声は震えていた。
オットーは答えない。
答えられるはずがない。
ガーフィールがまた迫る。
スバルは、その場に立ち尽くした。
村人が叫ぶ。
誰かが石を投げる。
誰かが走る。
誰かが倒れる。
世界が赤く染まっていく。
その時、黒い影が飛び込んだ。
「パトラッシュ!」
地竜がスバルの前に立った。
黒い瞳がスバルを見る。
逃げろ。
そう言っているようだった。
「やめろ……」
スバルは首を振る。
「もういい。もうやめてくれ」
パトラッシュは動かなかった。
ガーフィールの爪が振り下ろされる。
パトラッシュが、スバルを庇った。
衝撃。
血。
悲鳴。
スバルの体が吹き飛んだ。
地面に叩きつけられる。
視界が回る。
音が遠ざかる。
その向こうで、白い髪が揺れた気がした。
「スバルくん!」
ユイの声だった。
血に濡れていた。
肩を押さえ、足を引きずりながら、それでもこちらへ走ってくる。
彼女の動きはいつもより鈍い。
それでも、ガーフィールの進路へ割り込もうとする。
だが、獣化したガーフィールは止まらない。
目だけではない。
匂い。
音。
振動。
獣は、世界を丸ごと捉えている。
ユイがどれほど間合いを狂わせようとしても、力ずくで踏み越えてくる。
「逃げて!」
ユイが叫んだ。
スバルは動けなかった。
オットーが倒れている。
村人たちが倒れている。
パトラッシュが倒れている。
ラムの姿は見えない。
フレデリカも、レムも、ペトラも、屋敷で待っている。
誰も救えていない。
何ひとつ守れていない。
また。
まただ。
ガーフィールの咆哮が、世界を裂いた。
そこで、スバルの意識は途切れた。
次に目を覚ました時、世界は白かった。
冷たい。
頬に触れるものが雪だと気づくまで、少し時間がかかった。
「……なんだ、これ」
聖域だった。
だが、知っている聖域ではなかった。
木々は凍りつき、地面は雪に覆われている。
人の声がない。
足音もない。
ただ、白い静寂だけがある。
スバルは体を起こそうとした。
動かない。
寒い。
痛い。
何が起きた。
オットーは。
パトラッシュは。
ラムは。
ユイは。
エミリアは。
誰もいない。
「……エミリア」
返事はない。
「ユイさん」
返事はない。
「オットー」
返事はない。
雪だけが降っている。
その時、小さな音がした。
きゅう。
きゅう。
雪の上を、何かが跳ねる音。
白いものがいた。
兎。
小さく、丸く、愛らしいはずの姿。
だが、その口元には、底なしの飢えがあった。
一匹。
二匹。
三匹。
十匹。
百匹。
数えられない。
白い雪の上を、白い兎が埋め尽くしていく。
大兎。
その名が、頭の奥で響いた。
スバルは後ずさろうとした。
体が動かない。
一匹が跳ねた。
足に痛みが走る。
「ぎ、ああああああああああああああ!」
喰われている。
生きたまま。
肉を。
骨を。
声を。
白い小さな口が、スバルを喰っている。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
死ぬ。
死にたい。
でも、すぐには死ねない。
まだ喰われている。
まだ生きている。
叫びは雪に吸われる。
誰も来ない。
誰も助けない。
誰もいない。
白い世界で、スバルは小さな命たちに喰い尽くされていった。
そして。
「――っ」
目を開けた。
呼吸ができなかった。
喉が震える。
手が震える。
足が、腹が、腕が、まだ喰われている気がした。
スバルは地面に倒れ込んでいた。
墓所の外。
夜。
目の前には、エミリアがいた。
涙に濡れた顔で、こちらを見ている。
「スバル……?」
エミリアがいる。
立っている。
試練を越えたのだ。
第一の試練を。
死に戻りの起点が、変わった。
その事実が、スバルの心をさらに抉った。
戻れない。
もう、監禁前には戻れない。
オットーが助けに来る前には戻れない。
ガーフィールに捕まる前には戻れない。
ここから。
ここからやり直せというのか。
「スバル? どうしたの?」
エミリアの声が遠い。
別の声も聞こえた。
「スバルくん!」
ユイが駆け寄ってくる。
無傷だ。
生きている。
それなのに、スバルは顔を上げられなかった。
オットーの血。
村人たちの死。
パトラッシュの体。
雪。
兎。
兎。
兎。
「……あ」
声が漏れた。
「……あ、ああ」
崩れた。
もう立っていられなかった。
スバルは地面に膝をつき、頭を抱える。
「いやだ……」
小さな声だった。
「いやだ、いやだ、いやだ……」
「スバルくん」
ユイが膝をつく。
「触るわ」
返事を待たず、ユイがスバルの肩に手を置いた。
その温度に、スバルはびくりと震えた。
「食うな……」
ユイの手が止まる。
「食うな……やめろ……もう、やめてくれ……」
エミリアが息を呑む。
「スバル……?」
ユイの顔が強張る。
何が起きたのか、彼女にはわからない。
だが、スバルが壊れかけていることはわかる。
「スバルくん、私よ。ユイ。あなたを食べたりしない」
「……」
「ここにいる。見て」
スバルは、ゆっくり顔を上げた。
ユイがいる。
エミリアがいる。
ガーフィールも少し離れた場所にいる。
ラムもいる。
オットーも。
オットー。
生きている。
スバルはオットーを見た。
オットーは不安そうに立っている。
何も知らない顔で。
友人だから助けに来たことも。
スバルを庇って死んだことも。
何も知らない顔で。
その瞬間、スバルの胸が潰れた。
立ち上がれない。
息ができない。
世界が揺れる。
そして、白い光がスバルを包んだ。
気づけば、そこは茶会の席だった。
白かった。
何もかもが白い。
雪ではない。
あの、肌を刺す冷たさもない。
肉を食い千切る小さな歯もない。
兎の鳴き声もない。
ただ、どこまでも平坦で、現実味のない白。
白い空。
白い野。
白いテーブル。
白い椅子。
そして、その向こうに座る白い魔女。
「やあ、ナツキ・スバル」
エキドナは、何事もなかったように微笑んでいた。
その声を聞いた瞬間、スバルの体が跳ねた。
「っ……!」
椅子から転げ落ちそうになる。
慌てて自分の腕を見る。
足を見る。
腹を見る。
喰われていない。
肉はある。
骨もある。
指も、爪も、足も、腹も、全部ある。
なのに、痛みだけが残っている。
大兎の歯が、まだ皮膚の下に潜っているようだった。
「……ここ、は」
「僕の夢の城だよ。二度目だから、少しは見覚えがあるだろう?」
エキドナは、涼しい顔で紅茶を注いでいる。
その所作があまりにも穏やかで、スバルの中の地獄と噛み合わない。
直前まで喰われていた。
生きたまま、白い兎の群れに。
助けを呼んでも誰も来ず、肉を削られ、骨を噛まれ、意識が途切れるまで食われ続けた。
それなのに、目の前の魔女は茶を淹れている。
「……なんで」
スバルの声は掠れていた。
「なんで、俺は……」
「壊れずに済んだのか、という話なら、いくつか理由はある」
エキドナはカップを置き、指を一本立てる。
「ひとつは、君の中に根付いた怠惰の魔女因子が、ある程度安定してきていること」
指が、もう一本立つ。
「もうひとつは、僕が君をここへ呼んだこと」
エキドナは微笑む。
「君の精神は、あのままでは持たなかっただろう。だから、少しばかり引き上げた」
「……助けた、ってことか」
「そう受け取ってくれても構わない」
その言い方に、スバルは顔を歪めた。
「ずいぶん、恩着せがましいな」
「実際、恩を売っているからね」
「……強欲」
「もちろん」
エキドナは悪びれない。
「僕は強欲の魔女だ。無償の善意などと、つまらない言い方はしないよ」
スバルは、吐き気をこらえるように息を吸った。
目の前の茶を見下ろす。
白い湯気。
穏やかな香り。
それが逆に気持ち悪い。
喉の奥には、まだ血と肉の味が残っている気がする。
「……俺は、戻ったのか」
「そうだね。君は死に、そして戻った」
エキドナはあっさり言った。
あっさりと。
あまりにも自然に。
スバルは、目を見開いた。
「今、なんて……」
「君は死んだ。そして戻った」
エキドナは首を傾げる。
「違うのかい?」
心臓が跳ねた。
いつもなら、その言葉に近づくだけで喉が詰まる。
黒い手が来る。
心臓を掴む。
あるいは、周囲の誰かを罰する。
なのに、何も起きない。
スバルは震える手で胸を押さえた。
「……なんで」
「ここは僕の城だ」
エキドナは静かに言った。
「外とは少し事情が違う。君を縛るものが、ここでは同じようには働かない」
「じゃあ……」
声が震えた。
「じゃあ、ここなら……」
言えるのか。
口にしても、死なないのか。
誰かを殺さないのか。
あの手に心臓を握られないのか。
スバルは唇を開く。
だが、声が出ない。
怖い。
ずっと言えなかった。
言おうとして、何度も止められた。
心臓を掴まれた。
エミリアを殺しかけた。
だから、体が覚えている。
言ってはいけない。
これは、絶対に口にしてはいけないことだと。
「……俺、は」
声がひび割れる。
エキドナは急かさない。
ただ、じっと見ている。
その目は優しいようで、違う。
知りたがっている目だ。
スバルの中身を。
スバルの秘密を。
スバルの死を。
それでも、その目の前でしか言えない。
今、この場でしか。
「俺は……死んだら、戻る」
口にした。
何も起きない。
心臓は掴まれない。
黒い手は来ない。
エキドナは黙っている。
スバルは、信じられないものを見るように自分の胸を押さえた。
「俺は、死に戻りしてる」
言えた。
言えてしまった。
その瞬間、胸の奥でずっと固まっていたものが、音を立てて崩れた。
「俺は、死んだら戻るんだ」
一度出た言葉は、止まらなかった。
「殺されても、喰われても、潰されても、戻る。俺だけが覚えてる。みんなが死んだことも、俺が死んだことも、誰が何を言ったかも、誰が俺を助けて死んだかも、全部……俺だけが覚えてる」
視界が滲む。
白いテーブルが歪む。
「誰にも言えなかった。言おうとしたら、心臓を掴まれる。無理に言おうとしたら、俺だけじゃなくて……周りまで……」
エミリアの顔が浮かぶ。
あの時の、倒れた彼女。
スバルのせいで死んだ彼女。
喉が詰まる。
「言えなかったんだよ……」
声が崩れた。
「ずっと、言えなかった。誰にも。レムにも、エミリアたんにも、ユイさんにも、誰にも……!」
涙が落ちた。
止まらなかった。
「みんな死ぬんだ。俺の前で。俺のために。俺を助けようとして。オットーが、村のみんなが、パトラッシュが……ユイさんも、ラムも、フレデリカも、ペトラも、レムも……!」
手で顔を覆う。
それでも涙は止まらない。
「なのに、戻ったら誰も知らないんだよ。俺だけが覚えてる。俺だけが、何回も、何回も、何回も……!」
言葉が嗚咽に変わる。
もう、形にならない。
スバルはテーブルに額を押しつけるように俯いた。
「怖かった……」
小さな声が漏れた。
「痛かった……苦しかった……誰かに、言いたかった……」
白い空間に、スバルの声だけが落ちる。
エキドナはしばらく何も言わなかった。
それから、椅子を引く音がした。
近づいてくる足音。
白い魔女が、スバルのそばに立つ。
「そうか」
彼女の声は、ひどく穏やかだった。
「君は、そんなものを一人で抱えていたんだね」
その言葉は、優しかった。
優しく聞こえた。
聞こえてしまった。
スバルは顔を上げない。
上げられない。
「誰にも理解されず、誰にも共有できず、失敗だけを積み上げて、それでも前へ進もうとしてきた」
エキドナの声が、耳に染み込む。
「それは、つらかっただろう」
「……っ」
「苦しかっただろう」
また、涙が溢れた。
「痛かっただろう」
「……やめろ」
スバルは、震える声で言った。
だが、それは拒絶ではなかった。
聞きたくないのに、聞きたかった。
認められたくないのに、認めてほしかった。
誰かに、そう言ってほしかった。
痛かっただろう。
苦しかっただろう。
怖かっただろう。
お前は、一人でよく耐えたのだと。
「やめて……くれ……」
「いいや」
エキドナは静かに言った。
「やめないよ」
椅子を引く音がした。
白い足音が近づく。
気づけば、エキドナはスバルのそばに立っていた。
彼女は少しだけ屈み、スバルの顔を覗き込む。
「君が言えなかったことを、僕は聞ける」
「……」
「君が抱えていたものを、僕は知ることができる」
その言葉には、やはり強欲があった。
知りたい。
欲しい。
暴きたい。
そんな魔女の本質が、穏やかな声音の底に沈んでいる。
けれど、それでも。
「だから、言っていい」
今のスバルには、その言葉が救いだった。
「ここでは、君は黙らなくていい。怯えなくていい。誰かを巻き込むと恐れなくていい」
エキドナの手が、そっとスバルの頭に触れた。
温度の薄い手。
夢の中の、現実ではない手。
けれど、その手は確かにそこにあった。
「吐き出していいんだ、ナツキ・スバル」
その瞬間、スバルの中に残っていた最後の意地が折れた。
「う、ぁ……」
声が漏れる。
子どものような声だった。
「俺、俺……ずっと……!」
「うん」
「ずっと、誰かに言いたかった……!」
「うん」
「俺だけじゃ、もう無理だった……!」
「うん」
「でも、言えなくて……言ったら、殺されて……俺だけじゃなくて、エミリアたんまで……!」
「うん」
エキドナは頷く。
短く。
静かに。
受け止めるように。
許すように。
その奥に、魔女としての欲があることを、スバルはまだ見ない。
見られない。
今はただ、誰かが聞いてくれているという事実に縋るしかなかった。
「俺は……俺は、何回も死んでる」
「うん」
「エルザに腹を裂かれた。魔獣に呪われた。白鯨に喰われた。ペテルギウスに殺された。自分で死んだこともある。大兎に……生きたまま、喰われた」
言葉にするたびに、体が震える。
けれど、止まらない。
「死にたくなかった。毎回、死にたくなかった。でも、戻らなきゃ救えないって思った。死ななきゃ変えられないって思った。だから……」
スバルは、手で顔を覆った。
「俺、自分の命を道具みたいにしてた」
その声は、ひどく小さかった。
「でも、痛いんだよ……怖いんだよ……! 死ぬのに慣れるなんて、できるわけねえだろ……!」
エキドナは、黙って聞いていた。
白い空間に、スバルの嗚咽だけが響く。
やがて、彼女は静かに言った。
「君は、自分の命の価値を軽く見すぎている」
スバルの肩が震えた。
「君にとっては、死ねば戻るのかもしれない。やり直せるのかもしれない。けれど、死ぬ瞬間の苦痛も、恐怖も、絶望も、君の中には残る」
「……」
「それを積み重ねてなお、君は自分を使い捨てようとしている」
エキドナの声は淡々としている。
しかし、その言葉は鋭かった。
「それは、君が思うほど賢い選択ではない」
「じゃあ……どうすりゃいいんだよ」
スバルは、顔を上げた。
目は赤く腫れている。
声は掠れている。
「俺には力がない。剣も魔法も、何もない。俺ができるのは、死んで覚えて、次に繋げることだけだ。だったら、それを使うしかないだろ……!」
「本当に、それだけかい?」
エキドナが問い返す。
スバルは答えられなかった。
「君は今、ここにいる。誰にも言えなかったことを、僕に言えた。なら、君はもう完全な孤独ではない」
「……」
「少なくとも、ここではね」
その言い方は、優しかった。
けれど、どこかずるかった。
ここでは。
この茶会では。
この魔女の城では。
それはつまり、ここから出ればまた違うということでもある。
だが、スバルはその危うさを考えきれなかった。
ただ、縋りたかった。
「エキドナ」
「なんだい?」
「俺は……どうすればいい」
エキドナは、すぐには答えなかった。
白い指が、スバルの頭から離れる。
彼女は自分の席へ戻り、静かに腰を下ろした。
紅茶のカップを持ち上げる。
一口飲む。
そして、いつものような微笑を浮かべた。
「それを考えるために、まずは君が知っていることを整理しよう」
「整理……」
「君が見たもの。君が失敗した理由。君がまだ知らないこと。大兎、屋敷、聖域、ロズワール、ベアトリス、ガーフィール。問題は絡み合っている」
スバルは、涙を拭う。
「教えてくれるのか」
「僕に答えられる範囲ならね」
「条件は?」
エキドナは、少しだけ目を細めた。
「そうだね。まずは、君が僕に話してくれたことへの礼を言ってもらおうかな」
「礼?」
「僕は君の秘密を聞いた。君は、誰にも言えなかったものを吐き出せた。なら、君は少し楽になったはずだ」
「……」
「だから、感謝が欲しい」
ひどく素直な欲だった。
飾り気のない、魔女の欲。
スバルは、泣き腫らした目でエキドナを見る。
「お前、本当に強欲だな」
「もちろん」
エキドナは楽しそうに笑った。
「僕は強欲の魔女だからね」
スバルは、深く息を吸った。
まだ、体は震えている。
心はぐちゃぐちゃだ。
信用していい相手ではない。
それはわかる。
けれど、今はこの魔女の知識が必要だった。
この茶会でだけでも、言葉を交わせる相手が必要だった。
「……ありがとう」
スバルは、かすれた声で言った。
「聞いてくれて。……俺の話を」
エキドナは、満足げに目を細める。
「どういたしまして、ナツキ・スバル」
その笑みは、救いのように見えた。
そして同時に、ひどく危険だった。
けれど、スバルはもう逃げなかった。
涙を拭い、白い魔女の前に座り直す。
「教えてくれ」
スバルは言った。
「俺が見たあの兎は、何なんだ」
エキドナは、カップを置く。
茶会の空気が、少しだけ変わった。
「それを知りたいなら、話は少し長くなる」
「構わない」
「なら、始めよう」
エキドナは微笑む。
「君が出会った白い飢餓。その正体について」
白い茶会は続いていく。
涙の余韻を残したまま。
救いに似た罠の中で。
それでも、スバルはようやく、前を見るための言葉を手に入れようとしていた。