Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第三十九話 命の価値

 暗闇の外へ出た瞬間、スバルは眩しさに目を細めた。

 

 足が震える。

 

 三日間、縛られ、目隠しをされ、ろくに動かせなかった体は、思った以上に重かった。

 

 膝が笑う。

 

 喉は乾き、腕には縄の痕が残っている。

 

 それでも倒れなかったのは、隣にオットーがいたからだ。

 

 肩を貸してくれている。

 

 自分よりずっと頼りなさそうな顔で。

 

 自分よりずっと怖がっている顔で。

 

 それでも、離さない。

 

「スバルさん、足元、気をつけてください」

 

「……お前に言われると、ちょっと不安になるな」

 

「助けられている立場で言いますか、それ」

 

「悪い。口が勝手に」

 

「その口が動くなら、まだ大丈夫そうですね」

 

 オットーはそう言って、ほっとしたように笑った。

 

 スバルは、その横顔を見た。

 

 友人。

 

 そう言った。

 

 自分を助ける理由として、あまりにも当然のように。

 

 その言葉の重みが、まだ胸に残っている。

 

「……オットー」

 

「何ですか?」

 

「ありがとな」

 

「ですから、感謝はあとでいいですって」

 

「今言わねえと、言いそびれそうでさ」

 

 オットーは一瞬だけ黙り、すぐに眉を寄せた。

 

「そういう不吉なことを言うの、やめてください」

 

「悪い」

 

「本当に悪いと思っています?」

 

「ちょっと思ってる」

 

「ちょっと!」

 

 いつもの調子。

 

 それが、今は信じられないほどありがたかった。

 

 だが、その小さな空気は長く続かなかった。

 

 木陰から、人影が出てきた。

 

 ラムだった。

 

 腕を組み、いつも通り涼しい顔をしている。

 

 まるで、三日間監禁されていたスバルを見ても、特別な驚きなどないような顔だった。

 

「遅いわ、バルス」

 

「第一声それかよ……」

 

「元気そうね」

 

「どこを見てそう思った」

 

「口だけは動いているもの」

 

「そこしか見てないのかよ」

 

 ラムはオットーへ視線を向ける。

 

「オットーも、よくやったわ」

 

「えっ。ラムさんに褒められると、逆に怖いんですが」

 

「なら取り消すわ」

 

「早い!」

 

 ラムは短く息を吐き、それから表情を引き締めた。

 

「移動するわ。ここで長く話していると、ガーフに気づかれる」

 

「ガーフィールは?」

 

「あなたが消えたあと、当然のように捜索に加わっていたわ。表向きはね」

 

「表向き?」

 

「あなたを閉じ込めた本人が、あなたを探す側にいたということよ」

 

 スバルは奥歯を噛んだ。

 

 ガーフィール。

 

 乱暴で、疑い深くて、聖域を守ろうとしている。

 

 悪意だけではない。

 

 それはわかる。

 

 だが、わかることと許せることは違う。

 

「エミリアたんは」

 

 スバルが聞くと、ラムの表情がわずかに曇った。

 

「試練に挑み続けているわ」

 

「……」

 

「何度も失敗している。あなたがいなくなって、不安定になっていた。ロズワール様の言葉で、どうにか立っている状態よ」

 

 胸が痛んだ。

 

 三日。

 

 自分が何もできずに縛られていた三日間。

 

 エミリアは一人で墓所へ向かっていた。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 スバルは拳を握る。

 

「俺は、何やってんだ……」

 

「落ち込むのは後にしなさい」

 

 ラムは冷たく言った。

 

「今は考えるべきことがある。まず、ガーフの動き」

 

「ガーフィールは俺を逃がさないだろ」

 

「ええ。でも、あの子にも縛りがある」

 

「縛り?」

 

「エミリア様が墓所で試練を受けている間、ガーフは墓所から離れにくい。聖域の守護者としての役目があるから」

 

 オットーが頷く。

 

「つまり、その時間を使えば、こちらは動ける可能性があるということです」

 

「そのために、ラムはロズワール様の指示で動いているわ」

 

「ロズワールの指示……」

 

 スバルの声が低くなる。

 

 ラムはすぐに目を細めた。

 

「バルス。ロズワール様を疑うのは勝手だけれど、今は利用できるものは利用しなさい」

 

「……わかってる」

 

「わかっている顔ではないわね」

 

「わかってる。納得してないだけだ」

 

「なら十分よ」

 

 その時、横の茂みがかすかに揺れた。

 

 スバルは反射的に身構える。

 

 だが、そこから出てきたのはガーフィールではなかった。

 

 ユイだった。

 

 白い髪に、草葉がついている。

 

 呼吸は乱れていない。

 

 けれど、目だけが鋭かった。

 

「見つけた」

 

「ユイさん……」

 

「戻らなかったら探すと言ったわ」

 

「……悪い」

 

「謝罪は後」

 

 ユイは近づき、スバルの手首、顔色、立ち方を順に見る。

 

「三日。水分不足。拘束痕。体力低下。まともに走れる状態ではないわね」

 

「走る必要があるんだよ」

 

「だから問題なの」

 

 ユイはラムを見る。

 

「状況は?」

 

「ガーフに追われる前にロズワール様のところへ行く。バルスには聞くべきことがあるでしょう」

 

 ユイの目がわずかに動いた。

 

「ベアトリスさんのことね」

 

 スバルは息を呑む。

 

 ユイはスバルを見た。

 

「あなたは屋敷の何かを見た。ベアトリスさんについても何か知った。言えないなら言わなくていい。でも、ロズワール様には聞くべき」

 

「……ああ」

 

 言えないことを、全部は言えない。

 

 だが、ベアトリスのことなら聞ける。

 

 あの本。

 

 あれが何なのか。

 

 なぜベアトリスは、あれを大事そうに抱えていたのか。

 

 なぜ自分だけを助けたのか。

 

 なぜ他の全員を助けなかったのか。

 

 その答えを知っているのは、おそらくロズワールだ。

 

 四人は、ロズワールのいる家へ向かった。

 

 道中、スバルは何度も足をもつれさせた。

 

 そのたびにオットーが支え、ユイが歩幅を落とす。

 

 ラムだけが、前を向いたまま言った。

 

「遅いわ」

 

「三日縛られてた人間に言うか?」

 

「なら、三日前に捕まらなければよかったのよ」

 

「正論が雑!」

 

 少しだけ、空気が戻る。

 

 だが、ロズワールの部屋に入った瞬間、その空気は消えた。

 

 ロズワールは寝台の上にいた。

 

 包帯に巻かれ、体は痛々しい。

 

 それなのに、顔だけはいつも通りだった。

 

 笑っている。

 

 こちらがどれほど苦しんでいようと、盤面が進んでいることを愉しむように。

 

「やぁ、スバルくぅん。無事で何よりだねぇ」

 

「……無事?」

 

 スバルは低く言った。

 

「三日間、ガーフィールに縛られてたんだぞ」

 

「生きているなら、無事の範囲だよ」

 

「お前の範囲、広すぎんだろ」

 

 ロズワールは笑う。

 

 スバルは一歩前に出た。

 

 ラムがわずかに身構える。

 

 ユイは無言でスバルの横に立つ。

 

「ロズワール。聞きたいことがある」

 

「なんだろぉねぇ」

 

「ベアトリスの本だ」

 

 ロズワールの目が、ほんのわずかに細くなった。

 

 スバルは続ける。

 

「禁書庫で見た。ベア子が大事そうに抱えてた。黒い本だ。魔女教の奴らが持ってた福音に似てた」

 

 ラムの目が動く。

 

 オットーは息を呑んだ。

 

 ユイは黙っている。

 

 ロズワールは、変わらず笑っていた。

 

「それで、君はベアトリスを魔女教徒だと思ったのかい?」

 

「違うのか」

 

「違うよ」

 

 即答だった。

 

 スバルは眉を寄せる。

 

「なら、あれは何だ」

 

「叡智の書」

 

 ロズワールは静かに言った。

 

「厳密には、完全なものではない。だが、魔女教徒の持つ粗悪な福音とは別物だ」

 

「叡智の書……」

 

「未来を記す書、と言えばわかりやすいかな。もっとも、ベアトリスの持つものは、今では空白だろうがね」

 

「空白?」

 

「それでも、彼女はそれに縋っている」

 

 スバルは、禁書庫でのベアトリスを思い出した。

 

 本を抱きしめる小さな手。

 

 取られまいとするような仕草。

 

 怒り。

 

 怯え。

 

 孤独。

 

「じゃあ、ベア子は何なんだ」

 

「禁書庫の司書だよ」

 

「それだけじゃないだろ」

 

「そうだねぇ。彼女は契約に縛られている」

 

「契約……」

 

「長い長い間、彼女は禁書庫を守ってきた。ある人物を待ちながら」

 

 スバルの目が鋭くなる。

 

「ある人物?」

 

「彼女にとっての、その人」

 

「その人……?」

 

 意味がわからない。

 

 だが、その言葉が引っかかった。

 

 ベアトリスの表情。

 

 あの本。

 

 ロズワールの「問え」という伝言。

 

 全部が、その言葉へ繋がっているように思えた。

 

「ベアトリスを動かしたいのなら」

 

 ロズワールは、穏やかに続けた。

 

「君が言えばいい。自分こそが、その人だと」

 

 スバルの顔が歪む。

 

「……は?」

 

「彼女の契約には、抜け道がある。君がそう告げれば、彼女は君に従う可能性がある」

 

「ふざけんな」

 

 スバルの声が低くなる。

 

「それ、騙せってことだろ」

 

「救うための方便とも言える」

 

「言えねえよ」

 

 スバルは吐き捨てた。

 

「ベア子は、あの本に縋ってた。何かを待ってる顔だった。そこにつけ込めって言うのか」

 

「君は屋敷を救いたいのだろう?」

 

「そうだよ」

 

「なら、使える手は使うべきだ」

 

「……お前、本当にそういうところ最悪だな」

 

 ロズワールは笑った。

 

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

「褒めてねえ」

 

 スバルは拳を握る。

 

 今すぐ殴りたい。

 

 けれど、殴っても何も変わらない。

 

 屋敷には時間がない。

 

 レムがいる。

 

 ペトラがいる。

 

 フレデリカがいる。

 

 ベアトリスがいる。

 

 エルザが来る。

 

 魔獣もいる。

 

 だから、感情で動くわけにはいかない。

 

「もう一つ聞く」

 

「何かな」

 

「お前は敵か?」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 ラムが息を呑む。

 

 オットーの顔が青ざめる。

 

 ユイは、ロズワールを見据えたまま動かない。

 

 ロズワールは笑っていた。

 

 少しだけ。

 

 ひどく不気味に。

 

「敵ではないよ」

 

「味方か?」

 

「それもまた、単純な言葉だねぇ」

 

「単純でいいんだよ。答えろ」

 

「私は、エミリア様の味方だ」

 

「俺の味方じゃないんだな」

 

 ロズワールは答えなかった。

 

 その沈黙が、答えだった。

 

 スバルは息を吐いた。

 

「わかった。今はそれでいい」

 

 ロズワールの部屋を出たあと、四人は作戦を立てた。

 

 使える移動手段は限られている。

 

 確実に動かせるのは、パトラッシュ。

 

 だが、全員は乗れない。

 

「屋敷へ行くには、パトラッシュを使うしかない」

 

 スバルは言った。

 

「でも、全員は無理だ」

 

「なら、誰が行くかを絞るしかありません」

 

 オットーが言う。

 

「僕は道案内も交渉もできますが、戦力にはなりません」

 

「オットーは行く」

 

「え、戦力にならないって今言ったんですが」

 

「お前がいないと、俺が変な方向に突っ走る」

 

「それは自覚しているんですね」

 

「自覚はある。改善はこれから」

 

「不安しかありません!」

 

 ラムが淡々と言う。

 

「ラムは残るわ」

 

「残る?」

 

「ガーフを抑える役が必要よ。エミリア様が試練を受けている間、ガーフは墓所から離れにくい。でも、こちらの動きを読めば必ず追ってくる。誰かが足止めしなければならない」

 

「それをラムがやるのか」

 

「そうよ」

 

「無茶だろ」

 

「無茶はバルスだけの専売特許ではないわ」

 

 ユイが口を開く。

 

「私も残る」

 

「ユイさんまで?」

 

「一拍稼ぐ」

 

 ユイはそれ以上、説明しなかった。

 

 ただ、短剣の柄に指を添える。

 

 スバルは彼女を見る。

 

 彼女が何をするつもりなのか、詳細を聞いても答えないだろう。

 

 それに、聞くべきでもない。

 

 彼女にも、話せることと話せないことがある。

 

「ガーフィールは、目だけで戦う相手じゃない」

 

 スバルは言った。

 

「お前が何をしても、匂いや音で読まれるかもしれない」

 

「だから長くは止めない」

 

 ユイは淡々と答える。

 

「ほんの少しでいい。あなたたちが動き出す時間を作る」

 

「……」

 

「全部を一人で持とうとしないで。今回は、分けるべき」

 

 その言葉は痛かった。

 

 正しいからだ。

 

 全部を自分で抱えようとして、何度も死んだ。

 

 何度も失った。

 

 なら、分けるしかない。

 

 誰かに任せるしかない。

 

「死ぬなよ」

 

 スバルは言った。

 

 ラムが肩をすくめる。

 

「バルスに言われると腹立たしいわ」

 

 ユイは静かに答える。

 

「あなたも」

 

 作戦はすぐに崩れた。

 

 パトラッシュのもとへ向かう直前、ガーフィールが現れた。

 

 まるで、こちらの考えを最初から読んでいたかのように。

 

 いや、実際、読んでいたのだろう。

 

 墓所の状況。

 

 エミリアの試練。

 

 パトラッシュの存在。

 

 ロズワールの指示。

 

 すべてを繋げれば、スバルたちが屋敷へ向かうことは見える。

 

「どこへ行く気だ」

 

 ガーフィールが低く言った。

 

 スバルは答えない。

 

 答えれば、戦いになる。

 

 答えなくても、戦いになる。

 

 ラムが一歩前に出た。

 

「屋敷よ」

 

「言いやがったな」

 

「隠しても意味がないもの」

 

「聖域を放って、屋敷へ行くってか」

 

「聖域も放ってはいないわ。エミリア様は試練を受ける。あなたは墓所を離れられない」

 

 ガーフィールの眉が跳ねる。

 

「それを狙うってか」

 

「狙うわ」

 

 ラムは淡々と答えた。

 

「バルスたちは屋敷へ行く。ラムはあなたを止める」

 

「できると思ってんのか」

 

「思っていなければ立たないわ」

 

 ユイがラムの横へ並ぶ。

 

「私も止める」

 

「姉ちゃん」

 

 ガーフィールの声に、苛立ちが混じる。

 

「どけ」

 

「嫌よ」

 

「噛み砕くぞ」

 

「それでも、今はどかない」

 

 ユイの声は静かだった。

 

 何かを誇示するでもない。

 

 説明するでもない。

 

 ただ、そこに立つ。

 

 ラムが風を纏った。

 

「エル・フーラ」

 

 風が走る。

 

 土が跳ねる。

 

 ガーフィールの足元を削る。

 

 同時に、ユイが一歩踏み込み、ガーフィールの真正面ではなく、わずかに外れた位置に立った。

 

 視線を奪う角度。

 

 呼吸を狂わせる間合い。

 

 ガーフィールの眉が動く。

 

「小賢しいな」

 

「褒め言葉としては受け取らないわ」

 

「褒めてねぇよ」

 

 スバルの腕を、オットーが引いた。

 

「行きます!」

 

「ラム! ユイさん!」

 

「行きなさい、バルス!」

 

「行って、スバルくん!」

 

 スバルは歯を食いしばり、走った。

 

 オットーと共に、パトラッシュの方へ。

 

 背後で、風が轟く。

 

 ガーフィールの怒号。

 

 ラムの詠唱。

 

 ユイの短い声。

 

 すべてが遠ざかる。

 

 パトラッシュが待っていた。

 

 黒い地竜は、スバルを見るなり鼻を鳴らす。

 

 まるで、遅いと言っているようだった。

 

「悪い、パトラッシュ」

 

 スバルは鞍に手をかける。

 

 だが、オットーが首を振った。

 

「このまま直線で結界へ行っても読まれます。村の人たちに案内を頼んであります」

 

「村の人たちに?」

 

「はい」

 

「巻き込んだのか!」

 

「もう巻き込まれています!」

 

 オットーは声を張った。

 

「スバルさんを助けたい人は、僕だけじゃありません!」

 

 その言葉に、スバルは何も言えなくなった。

 

 森の細道に入る。

 

 そこには、アーラム村の人々がいた。

 

 ミルデ婆さん。

 

 若い男たち。

 

 女たち。

 

 皆、不安そうな顔をしている。

 

 それでも、スバルを見ると道を開けた。

 

「兄ちゃん、こっちだ!」

 

「早く!」

 

「道はわしらが知ってる!」

 

 スバルは、喉が詰まった。

 

「なんで……」

 

 オットーが言う。

 

「助けられたからでしょう」

 

「俺が?」

 

「ええ。あなたが彼らを助けた。だから、彼らもあなたを助ける」

 

「そんなの……」

 

 そんな価値が、自分にあるのか。

 

 問う暇はなかった。

 

 背後から、地鳴りが来た。

 

 木々が折れる音。

 

 獣の咆哮。

 

 空気が震える。

 

 オットーの顔が青ざめる。

 

「もう来た……!」

 

 森の奥から、巨大な影が現れた。

 

 黄金の体毛。

 

 筋肉の塊。

 

 虎にも似た巨獣。

 

 獣化したガーフィール。

 

 ラムとユイはどうなった。

 

 その問いが、スバルの頭を白くする。

 

 しかし、答えはない。

 

 ガーフィールの咆哮が、すべてをかき消した。

 

 村人たちが悲鳴を上げる。

 

 それでも、誰かが叫んだ。

 

「兄ちゃんを逃がせ!」

 

「やめろ!」

 

 スバルは叫ぶ。

 

 だが、男たちは棒や農具を持って前に出る。

 

 止められるはずがない。

 

 そんなことは誰でもわかっている。

 

 それでも、彼らは立った。

 

 スバルを逃がすために。

 

 ガーフィールの巨腕が振るわれる。

 

 木が砕ける。

 

 地面が裂ける。

 

 人の体が、軽々と吹き飛んだ。

 

「やめろおおおおおおおお!」

 

 スバルの叫びは届かない。

 

 村人たちは次々に倒れる。

 

 それでも、道を開ける。

 

 スバルを進ませる。

 

 自分のために。

 

 自分なんかのために。

 

「スバルさん!」

 

 オットーが叫ぶ。

 

「止まらないで!」

 

「無理だ!」

 

「無理でも行くんです!」

 

「これ以上、誰かを――」

 

 その時、ガーフィールの巨腕がスバルへ向かった。

 

 避けられない。

 

 スバルは動けなかった。

 

 その前に、オットーが飛び込んだ。

 

「オットー――!」

 

 鈍い音がした。

 

 血が散った。

 

 オットーの体が、スバルの前で崩れる。

 

 声が出なかった。

 

 友人。

 

 そう言ってくれた男。

 

 損得を考え、怖がり、それでも助けに来てくれた男。

 

 その男が、スバルを庇って倒れている。

 

「……なんで」

 

 スバルの声は震えていた。

 

 オットーは答えない。

 

 答えられるはずがない。

 

 ガーフィールがまた迫る。

 

 スバルは、その場に立ち尽くした。

 

 村人が叫ぶ。

 

 誰かが石を投げる。

 

 誰かが走る。

 

 誰かが倒れる。

 

 世界が赤く染まっていく。

 

 その時、黒い影が飛び込んだ。

 

「パトラッシュ!」

 

 地竜がスバルの前に立った。

 

 黒い瞳がスバルを見る。

 

 逃げろ。

 

 そう言っているようだった。

 

「やめろ……」

 

 スバルは首を振る。

 

「もういい。もうやめてくれ」

 

 パトラッシュは動かなかった。

 

 ガーフィールの爪が振り下ろされる。

 

 パトラッシュが、スバルを庇った。

 

 衝撃。

 

 血。

 

 悲鳴。

 

 スバルの体が吹き飛んだ。

 

 地面に叩きつけられる。

 

 視界が回る。

 

 音が遠ざかる。

 

 その向こうで、白い髪が揺れた気がした。

 

「スバルくん!」

 

 ユイの声だった。

 

 血に濡れていた。

 

 肩を押さえ、足を引きずりながら、それでもこちらへ走ってくる。

 

 彼女の動きはいつもより鈍い。

 

 それでも、ガーフィールの進路へ割り込もうとする。

 

 だが、獣化したガーフィールは止まらない。

 

 目だけではない。

 

 匂い。

 

 音。

 

 振動。

 

 獣は、世界を丸ごと捉えている。

 

 ユイがどれほど間合いを狂わせようとしても、力ずくで踏み越えてくる。

 

「逃げて!」

 

 ユイが叫んだ。

 

 スバルは動けなかった。

 

 オットーが倒れている。

 

 村人たちが倒れている。

 

 パトラッシュが倒れている。

 

 ラムの姿は見えない。

 

 フレデリカも、レムも、ペトラも、屋敷で待っている。

 

 誰も救えていない。

 

 何ひとつ守れていない。

 

 また。

 

 まただ。

 

 ガーフィールの咆哮が、世界を裂いた。

 

 そこで、スバルの意識は途切れた。

 

 次に目を覚ました時、世界は白かった。

 

 冷たい。

 

 頬に触れるものが雪だと気づくまで、少し時間がかかった。

 

「……なんだ、これ」

 

 聖域だった。

 

 だが、知っている聖域ではなかった。

 

 木々は凍りつき、地面は雪に覆われている。

 

 人の声がない。

 

 足音もない。

 

 ただ、白い静寂だけがある。

 

 スバルは体を起こそうとした。

 

 動かない。

 

 寒い。

 

 痛い。

 

 何が起きた。

 

 オットーは。

 

 パトラッシュは。

 

 ラムは。

 

 ユイは。

 

 エミリアは。

 

 誰もいない。

 

「……エミリア」

 

 返事はない。

 

「ユイさん」

 

 返事はない。

 

「オットー」

 

 返事はない。

 

 雪だけが降っている。

 

 その時、小さな音がした。

 

 きゅう。

 

 きゅう。

 

 雪の上を、何かが跳ねる音。

 

 白いものがいた。

 

 兎。

 

 小さく、丸く、愛らしいはずの姿。

 

 だが、その口元には、底なしの飢えがあった。

 

 一匹。

 

 二匹。

 

 三匹。

 

 十匹。

 

 百匹。

 

 数えられない。

 

 白い雪の上を、白い兎が埋め尽くしていく。

 

 大兎。

 

 その名が、頭の奥で響いた。

 

 スバルは後ずさろうとした。

 

 体が動かない。

 

 一匹が跳ねた。

 

 足に痛みが走る。

 

「ぎ、ああああああああああああああ!」

 

 喰われている。

 

 生きたまま。

 

 肉を。

 

 骨を。

 

 声を。

 

 白い小さな口が、スバルを喰っている。

 

 痛い。

 

 痛い。

 

 痛い。

 

 痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 死ぬ。

 

 死にたい。

 

 でも、すぐには死ねない。

 

 まだ喰われている。

 

 まだ生きている。

 

 叫びは雪に吸われる。

 

 誰も来ない。

 

 誰も助けない。

 

 誰もいない。

 

 白い世界で、スバルは小さな命たちに喰い尽くされていった。

 

 そして。

 

「――っ」

 

 目を開けた。

 

 呼吸ができなかった。

 

 喉が震える。

 

 手が震える。

 

 足が、腹が、腕が、まだ喰われている気がした。

 

 スバルは地面に倒れ込んでいた。

 

 墓所の外。

 

 夜。

 

 目の前には、エミリアがいた。

 

 涙に濡れた顔で、こちらを見ている。

 

「スバル……?」

 

 エミリアがいる。

 

 立っている。

 

 試練を越えたのだ。

 

 第一の試練を。

 

 死に戻りの起点が、変わった。

 

 その事実が、スバルの心をさらに抉った。

 

 戻れない。

 

 もう、監禁前には戻れない。

 

 オットーが助けに来る前には戻れない。

 

 ガーフィールに捕まる前には戻れない。

 

 ここから。

 

 ここからやり直せというのか。

 

「スバル? どうしたの?」

 

 エミリアの声が遠い。

 

 別の声も聞こえた。

 

「スバルくん!」

 

 ユイが駆け寄ってくる。

 

 無傷だ。

 

 生きている。

 

 それなのに、スバルは顔を上げられなかった。

 

 オットーの血。

 

 村人たちの死。

 

 パトラッシュの体。

 

 雪。

 

 兎。

 

 兎。

 

 兎。

 

「……あ」

 

 声が漏れた。

 

「……あ、ああ」

 

 崩れた。

 

 もう立っていられなかった。

 

 スバルは地面に膝をつき、頭を抱える。

 

「いやだ……」

 

 小さな声だった。

 

「いやだ、いやだ、いやだ……」

 

「スバルくん」

 

 ユイが膝をつく。

 

「触るわ」

 

 返事を待たず、ユイがスバルの肩に手を置いた。

 

 その温度に、スバルはびくりと震えた。

 

「食うな……」

 

 ユイの手が止まる。

 

「食うな……やめろ……もう、やめてくれ……」

 

 エミリアが息を呑む。

 

「スバル……?」

 

 ユイの顔が強張る。

 

 何が起きたのか、彼女にはわからない。

 

 だが、スバルが壊れかけていることはわかる。

 

「スバルくん、私よ。ユイ。あなたを食べたりしない」

 

「……」

 

「ここにいる。見て」

 

 スバルは、ゆっくり顔を上げた。

 

 ユイがいる。

 

 エミリアがいる。

 

 ガーフィールも少し離れた場所にいる。

 

 ラムもいる。

 

 オットーも。

 

 オットー。

 

 生きている。

 

 スバルはオットーを見た。

 

 オットーは不安そうに立っている。

 

 何も知らない顔で。

 

 友人だから助けに来たことも。

 

 スバルを庇って死んだことも。

 

 何も知らない顔で。

 

 その瞬間、スバルの胸が潰れた。

 

 立ち上がれない。

 

 息ができない。

 

 世界が揺れる。

 

 そして、白い光がスバルを包んだ。

 

 気づけば、そこは茶会の席だった。

 

 白かった。

 

 何もかもが白い。

 

 雪ではない。

 

 あの、肌を刺す冷たさもない。

 

 肉を食い千切る小さな歯もない。

 

 兎の鳴き声もない。

 

 ただ、どこまでも平坦で、現実味のない白。

 

 白い空。

 

 白い野。

 

 白いテーブル。

 

 白い椅子。

 

 そして、その向こうに座る白い魔女。

 

「やあ、ナツキ・スバル」

 

 エキドナは、何事もなかったように微笑んでいた。

 

 その声を聞いた瞬間、スバルの体が跳ねた。

 

「っ……!」

 

 椅子から転げ落ちそうになる。

 

 慌てて自分の腕を見る。

 

 足を見る。

 

 腹を見る。

 

 喰われていない。

 

 肉はある。

 

 骨もある。

 

 指も、爪も、足も、腹も、全部ある。

 

 なのに、痛みだけが残っている。

 

 大兎の歯が、まだ皮膚の下に潜っているようだった。

 

「……ここ、は」

 

「僕の夢の城だよ。二度目だから、少しは見覚えがあるだろう?」

 

 エキドナは、涼しい顔で紅茶を注いでいる。

 

 その所作があまりにも穏やかで、スバルの中の地獄と噛み合わない。

 

 直前まで喰われていた。

 

 生きたまま、白い兎の群れに。

 

 助けを呼んでも誰も来ず、肉を削られ、骨を噛まれ、意識が途切れるまで食われ続けた。

 

 それなのに、目の前の魔女は茶を淹れている。

 

「……なんで」

 

 スバルの声は掠れていた。

 

「なんで、俺は……」

 

「壊れずに済んだのか、という話なら、いくつか理由はある」

 

 エキドナはカップを置き、指を一本立てる。

 

「ひとつは、君の中に根付いた怠惰の魔女因子が、ある程度安定してきていること」

 

 指が、もう一本立つ。

 

「もうひとつは、僕が君をここへ呼んだこと」

 

 エキドナは微笑む。

 

「君の精神は、あのままでは持たなかっただろう。だから、少しばかり引き上げた」

 

「……助けた、ってことか」

 

「そう受け取ってくれても構わない」

 

 その言い方に、スバルは顔を歪めた。

 

「ずいぶん、恩着せがましいな」

 

「実際、恩を売っているからね」

 

「……強欲」

 

「もちろん」

 

 エキドナは悪びれない。

 

「僕は強欲の魔女だ。無償の善意などと、つまらない言い方はしないよ」

 

 スバルは、吐き気をこらえるように息を吸った。

 

 目の前の茶を見下ろす。

 

 白い湯気。

 

 穏やかな香り。

 

 それが逆に気持ち悪い。

 

 喉の奥には、まだ血と肉の味が残っている気がする。

 

「……俺は、戻ったのか」

 

「そうだね。君は死に、そして戻った」

 

 エキドナはあっさり言った。

 

 あっさりと。

 

 あまりにも自然に。

 

 スバルは、目を見開いた。

 

「今、なんて……」

 

「君は死んだ。そして戻った」

 

 エキドナは首を傾げる。

 

「違うのかい?」

 

 心臓が跳ねた。

 

 いつもなら、その言葉に近づくだけで喉が詰まる。

 

 黒い手が来る。

 

 心臓を掴む。

 

 あるいは、周囲の誰かを罰する。

 

 なのに、何も起きない。

 

 スバルは震える手で胸を押さえた。

 

「……なんで」

 

「ここは僕の城だ」

 

 エキドナは静かに言った。

 

「外とは少し事情が違う。君を縛るものが、ここでは同じようには働かない」

 

「じゃあ……」

 

 声が震えた。

 

「じゃあ、ここなら……」

 

 言えるのか。

 

 口にしても、死なないのか。

 

 誰かを殺さないのか。

 

 あの手に心臓を握られないのか。

 

 スバルは唇を開く。

 

 だが、声が出ない。

 

 怖い。

 

 ずっと言えなかった。

 

 言おうとして、何度も止められた。

 

 心臓を掴まれた。

 

 エミリアを殺しかけた。

 

 だから、体が覚えている。

 

 言ってはいけない。

 

 これは、絶対に口にしてはいけないことだと。

 

「……俺、は」

 

 声がひび割れる。

 

 エキドナは急かさない。

 

 ただ、じっと見ている。

 

 その目は優しいようで、違う。

 

 知りたがっている目だ。

 

 スバルの中身を。

 

 スバルの秘密を。

 

 スバルの死を。

 

 それでも、その目の前でしか言えない。

 

 今、この場でしか。

 

「俺は……死んだら、戻る」

 

 口にした。

 

 何も起きない。

 

 心臓は掴まれない。

 

 黒い手は来ない。

 

 エキドナは黙っている。

 

 スバルは、信じられないものを見るように自分の胸を押さえた。

 

「俺は、死に戻りしてる」

 

 言えた。

 

 言えてしまった。

 

 その瞬間、胸の奥でずっと固まっていたものが、音を立てて崩れた。

 

「俺は、死んだら戻るんだ」

 

 一度出た言葉は、止まらなかった。

 

「殺されても、喰われても、潰されても、戻る。俺だけが覚えてる。みんなが死んだことも、俺が死んだことも、誰が何を言ったかも、誰が俺を助けて死んだかも、全部……俺だけが覚えてる」

 

 視界が滲む。

 

 白いテーブルが歪む。

 

「誰にも言えなかった。言おうとしたら、心臓を掴まれる。無理に言おうとしたら、俺だけじゃなくて……周りまで……」

 

 エミリアの顔が浮かぶ。

 

 あの時の、倒れた彼女。

 

 スバルのせいで死んだ彼女。

 

 喉が詰まる。

 

「言えなかったんだよ……」

 

 声が崩れた。

 

「ずっと、言えなかった。誰にも。レムにも、エミリアたんにも、ユイさんにも、誰にも……!」

 

 涙が落ちた。

 

 止まらなかった。

 

「みんな死ぬんだ。俺の前で。俺のために。俺を助けようとして。オットーが、村のみんなが、パトラッシュが……ユイさんも、ラムも、フレデリカも、ペトラも、レムも……!」

 

 手で顔を覆う。

 

 それでも涙は止まらない。

 

「なのに、戻ったら誰も知らないんだよ。俺だけが覚えてる。俺だけが、何回も、何回も、何回も……!」

 

 言葉が嗚咽に変わる。

 

 もう、形にならない。

 

 スバルはテーブルに額を押しつけるように俯いた。

 

「怖かった……」

 

 小さな声が漏れた。

 

「痛かった……苦しかった……誰かに、言いたかった……」

 

 白い空間に、スバルの声だけが落ちる。

 

 エキドナはしばらく何も言わなかった。

 

 それから、椅子を引く音がした。

 

 近づいてくる足音。

 

 白い魔女が、スバルのそばに立つ。

 

「そうか」

 

 彼女の声は、ひどく穏やかだった。

 

「君は、そんなものを一人で抱えていたんだね」

 

 その言葉は、優しかった。

 

 優しく聞こえた。

 

 聞こえてしまった。

 

 スバルは顔を上げない。

 

 上げられない。

 

「誰にも理解されず、誰にも共有できず、失敗だけを積み上げて、それでも前へ進もうとしてきた」

 

 エキドナの声が、耳に染み込む。

 

「それは、つらかっただろう」

 

「……っ」

 

「苦しかっただろう」

 

 また、涙が溢れた。

 

「痛かっただろう」

 

「……やめろ」

 

 スバルは、震える声で言った。

 

 だが、それは拒絶ではなかった。

 

 聞きたくないのに、聞きたかった。

 

 認められたくないのに、認めてほしかった。

 

 誰かに、そう言ってほしかった。

 

 痛かっただろう。

 

 苦しかっただろう。

 

 怖かっただろう。

 

 お前は、一人でよく耐えたのだと。

 

「やめて……くれ……」

 

「いいや」

 

 エキドナは静かに言った。

 

「やめないよ」

 

 椅子を引く音がした。

 

 白い足音が近づく。

 

 気づけば、エキドナはスバルのそばに立っていた。

 

 彼女は少しだけ屈み、スバルの顔を覗き込む。

 

「君が言えなかったことを、僕は聞ける」

 

「……」

 

「君が抱えていたものを、僕は知ることができる」

 

 その言葉には、やはり強欲があった。

 

 知りたい。

 

 欲しい。

 

 暴きたい。

 

 そんな魔女の本質が、穏やかな声音の底に沈んでいる。

 

 けれど、それでも。

 

「だから、言っていい」

 

 今のスバルには、その言葉が救いだった。

 

「ここでは、君は黙らなくていい。怯えなくていい。誰かを巻き込むと恐れなくていい」

 

 エキドナの手が、そっとスバルの頭に触れた。

 

 温度の薄い手。

 

 夢の中の、現実ではない手。

 

 けれど、その手は確かにそこにあった。

 

「吐き出していいんだ、ナツキ・スバル」

 

 その瞬間、スバルの中に残っていた最後の意地が折れた。

 

「う、ぁ……」

 

 声が漏れる。

 

 子どものような声だった。

 

「俺、俺……ずっと……!」

 

「うん」

 

「ずっと、誰かに言いたかった……!」

 

「うん」

 

「俺だけじゃ、もう無理だった……!」

 

「うん」

 

「でも、言えなくて……言ったら、殺されて……俺だけじゃなくて、エミリアたんまで……!」

 

「うん」

 

 エキドナは頷く。

 

 短く。

 

 静かに。

 

 受け止めるように。

 

 許すように。

 

 その奥に、魔女としての欲があることを、スバルはまだ見ない。

 

 見られない。

 

 今はただ、誰かが聞いてくれているという事実に縋るしかなかった。

 

「俺は……俺は、何回も死んでる」

 

「うん」

 

「エルザに腹を裂かれた。魔獣に呪われた。白鯨に喰われた。ペテルギウスに殺された。自分で死んだこともある。大兎に……生きたまま、喰われた」

 

 言葉にするたびに、体が震える。

 

 けれど、止まらない。

 

「死にたくなかった。毎回、死にたくなかった。でも、戻らなきゃ救えないって思った。死ななきゃ変えられないって思った。だから……」

 

 スバルは、手で顔を覆った。

 

「俺、自分の命を道具みたいにしてた」

 

 その声は、ひどく小さかった。

 

「でも、痛いんだよ……怖いんだよ……! 死ぬのに慣れるなんて、できるわけねえだろ……!」

 

 エキドナは、黙って聞いていた。

 

 白い空間に、スバルの嗚咽だけが響く。

 

 やがて、彼女は静かに言った。

 

「君は、自分の命の価値を軽く見すぎている」

 

 スバルの肩が震えた。

 

「君にとっては、死ねば戻るのかもしれない。やり直せるのかもしれない。けれど、死ぬ瞬間の苦痛も、恐怖も、絶望も、君の中には残る」

 

「……」

 

「それを積み重ねてなお、君は自分を使い捨てようとしている」

 

 エキドナの声は淡々としている。

 

 しかし、その言葉は鋭かった。

 

「それは、君が思うほど賢い選択ではない」

 

「じゃあ……どうすりゃいいんだよ」

 

 スバルは、顔を上げた。

 

 目は赤く腫れている。

 

 声は掠れている。

 

「俺には力がない。剣も魔法も、何もない。俺ができるのは、死んで覚えて、次に繋げることだけだ。だったら、それを使うしかないだろ……!」

 

「本当に、それだけかい?」

 

 エキドナが問い返す。

 

 スバルは答えられなかった。

 

「君は今、ここにいる。誰にも言えなかったことを、僕に言えた。なら、君はもう完全な孤独ではない」

 

「……」

 

「少なくとも、ここではね」

 

 その言い方は、優しかった。

 

 けれど、どこかずるかった。

 

 ここでは。

 

 この茶会では。

 

 この魔女の城では。

 

 それはつまり、ここから出ればまた違うということでもある。

 

 だが、スバルはその危うさを考えきれなかった。

 

 ただ、縋りたかった。

 

「エキドナ」

 

「なんだい?」

 

「俺は……どうすればいい」

 

 エキドナは、すぐには答えなかった。

 

 白い指が、スバルの頭から離れる。

 

 彼女は自分の席へ戻り、静かに腰を下ろした。

 

 紅茶のカップを持ち上げる。

 

 一口飲む。

 

 そして、いつものような微笑を浮かべた。

 

「それを考えるために、まずは君が知っていることを整理しよう」

 

「整理……」

 

「君が見たもの。君が失敗した理由。君がまだ知らないこと。大兎、屋敷、聖域、ロズワール、ベアトリス、ガーフィール。問題は絡み合っている」

 

 スバルは、涙を拭う。

 

「教えてくれるのか」

 

「僕に答えられる範囲ならね」

 

「条件は?」

 

 エキドナは、少しだけ目を細めた。

 

「そうだね。まずは、君が僕に話してくれたことへの礼を言ってもらおうかな」

 

「礼?」

 

「僕は君の秘密を聞いた。君は、誰にも言えなかったものを吐き出せた。なら、君は少し楽になったはずだ」

 

「……」

 

「だから、感謝が欲しい」

 

 ひどく素直な欲だった。

 

 飾り気のない、魔女の欲。

 

 スバルは、泣き腫らした目でエキドナを見る。

 

「お前、本当に強欲だな」

 

「もちろん」

 

 エキドナは楽しそうに笑った。

 

「僕は強欲の魔女だからね」

 

 スバルは、深く息を吸った。

 

 まだ、体は震えている。

 

 心はぐちゃぐちゃだ。

 

 信用していい相手ではない。

 

 それはわかる。

 

 けれど、今はこの魔女の知識が必要だった。

 

 この茶会でだけでも、言葉を交わせる相手が必要だった。

 

「……ありがとう」

 

 スバルは、かすれた声で言った。

 

「聞いてくれて。……俺の話を」

 

 エキドナは、満足げに目を細める。

 

「どういたしまして、ナツキ・スバル」

 

 その笑みは、救いのように見えた。

 

 そして同時に、ひどく危険だった。

 

 けれど、スバルはもう逃げなかった。

 

 涙を拭い、白い魔女の前に座り直す。

 

「教えてくれ」

 

 スバルは言った。

 

「俺が見たあの兎は、何なんだ」

 

 エキドナは、カップを置く。

 

 茶会の空気が、少しだけ変わった。

 

「それを知りたいなら、話は少し長くなる」

 

「構わない」

 

「なら、始めよう」

 

 エキドナは微笑む。

 

「君が出会った白い飢餓。その正体について」

 

 白い茶会は続いていく。

 

 涙の余韻を残したまま。

 

 救いに似た罠の中で。

 

 それでも、スバルはようやく、前を見るための言葉を手に入れようとしていた。

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