スバルは、まず果物屋の男へ向き直った。
顔色は悪い。
足はまだ震えている。
腹に傷はないのに、短刀が入った感触だけが、生々しくそこに残っている。
けれど、今度はただ震えているだけではなかった。
何かを変えなければならない。
そうしなければ、また死ぬ。
自分だけではない。
銀髪の少女も、ロム爺も、フェルトも、ユイも。
みんな、また血の中に倒れる。
スバルは喉を鳴らし、果物屋の男に声をかけた。
「なあ、おっちゃん」
「あ? 今度はなんだよ、兄ちゃん。買うのか買わねえのか、そろそろはっきりしてくれ」
「悪い。買うのはあとで……いや、買えるようになったら買う。今は聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
スバルは一瞬だけ迷った。
あの名前を、もう一度口にすること自体が怖かった。
けれど、知らなければまた同じ間違いをする。
知らなかったでは、もう済まされない。
「サテラって名前、この国だとどういう扱いなんだ?」
果物売りの顔色が変わった。
それまでの呆れたような空気が消え、露骨な警戒と嫌悪が浮かぶ。
男は周囲を一度見回してから、低い声で言った。
「兄ちゃん。その名前を、冗談で口にするもんじゃねえぞ」
スバルは喉を鳴らす。
「……やっぱり、そういう名前なのか」
「嫉妬の魔女の名だ。普通は知らねえはずもねえって言いたいところだが……兄ちゃん、本当に何も知らねえ顔してんな」
「知らなかった」
スバルは、絞り出すように言った。
「俺、本当に知らなかったんだ」
果物売りは眉をひそめたまま、さらに声を落とす。
「なら覚えとけ。あの名は、この国じゃ忌み名みてえなもんだ。特に、銀髪だのハーフエルフだのって話と結びつくと、ろくなことにならねえ」
銀髪。
ハーフエルフ。
その言葉だけで、スバルの脳裏に少女の顔が浮かんだ。
紫紺の瞳。
傷ついた表情。
静かな拒絶。
――その名前で、呼ばないで。
果物売りは知らない。
スバルが、その名を誰に向けて呼んだのか。
知らないまま、ただ一般常識として忠告しているだけだ。
それなのに、その言葉は正確にスバルの胸を抉った。
「……最低だな、俺」
「何したかは知らねえが、知らなかったなら次から気をつけろ。名前ひとつで、人を傷つけることもある」
「……ああ」
スバルは頷いた。
「もう呼ばねえ。絶対に」
ひとつ、変えた。
たったそれだけのことなのに、胸の奥に少しだけ芯が戻る。
次に必要なのは、戦力だった。
エルザは強い。
異常に強い。
ユイも強い。あの黒髪の女と真正面から斬り結び、何度もスバルの前に立った。
銀髪の少女も、パックも、ロム爺も戦える。
それでも、死んだ。
なら、もっと強い誰かを探さなければならない。
自分では駄目だ。
それは、嫌というほどわかった。
路地裏のチンピラ三人にも勝てなかった自分が、エルザをどうにかできるはずがない。
頼る。
誰かを頼る。
情けないと思っても、頼らなければまた同じことになる。
「おっちゃん。騎士とか衛兵のいる場所、わかるか?」
「騎士様に何の用だ?」
「人が死ぬかもしれない用」
「物騒だな、おい」
「物騒なんだよ、今」
果物売りはしばらくスバルを見ていた。
青ざめた顔。
震える手。
けれど、目だけは妙に必死だったからか、深く追及はしなかった。
「大通りを真っすぐ行け。噴水のある広場に出る。そこから右手の方に詰所がある」
「助かる!」
スバルは走り出そうとして、足を止めた。
路地。
短刀。
血。
その記憶が、足首に絡みつく。
同じ道を通るな。
人の多い場所を選べ。
視界を広く持て。
逃げ道を確認しろ。
スバルは深く息を吸った。
怖い。
まだ怖い。
でも、怖いままでいい。
怖くないふりをして死ぬより、怖いまま生き残る方がいい。
スバルは大通りへ踏み出した。
ユイは、少し離れた市場の影からその背中を追った。
スバルはもう、ふらふらと彷徨ってはいなかった。
足取りは不安定だ。
何度も周囲を見回している。
腰に刃物を下げた者とすれ違うたびに、肩が跳ねる。
それでも、行き先はある。
助けを探している。
自分の弱さを認めたうえで、足りないものを補おうとしている。
ユイは目を細める。
いい。
それでいい。
誰かを救おうとするなら、まず自分が何もできないことを知らなければならない。
スバルはそれを知った。
腹を裂かれて。
刺されて。
泣いて。
ようやく知った。
だから、今の彼は美しい。
頼りなくて、情けなくて、それでも前に進んでいる。
ユイは近づかない。
まだ声はかけない。
彼の決意に、自分の手を混ぜるのはまだ早い。
スバルは広場に出た。
噴水の水音が響いている。
人通りが多い。
商人の声。
子どもの笑い声。
荷馬車の車輪が石畳を叩く音。
平和な日常の真ん中で、スバルだけが別の世界から迷い込んだような顔をしていた。
「詰所……詰所ってどれだよ。文字読めねえの、本当にきついな……」
看板はある。
だが読めない。
この世界の言葉は聞き取れるのに、文字は理解できない。
スバルは誰かに聞こうとして、周囲を見回した。
その時。
「おい、そこの兄ちゃん」
声がかかった。
スバルの体が硬直する。
ゆっくり振り向く。
三人組。
路地裏の男たち。
スバルを刺した連中だった。
この世界では、まだ何もしていない。
けれどスバルは覚えている。
短刀が腹に入る感触を。
血が抜けていく冷たさを。
あの時の自分の惨めさを。
「……っ」
息が詰まる。
一人がにやにや笑って近づこうとした。
「なんだよ、そんな怖い顔して。ちょっと話を聞かせてもらうだけだって」
「ここで聞く」
スバルは言った。
声は震えていた。
だが、前のように後ずさるだけではなかった。
「近づくな」
「あ?」
「近づくなって言った」
男たちの表情が変わる。
人目がある。
ここは路地裏ではない。
それだけで、スバルはほんの少しだけ踏みとどまれた。
「強がんなよ、兄ちゃん」
「強がってんだよ」
スバルは、引きつった笑みを浮かべた。
「強がらなきゃ、立ってらんねえんだよ」
短刀を持っていた男の手が、腰のあたりへ動く。
その瞬間、スバルの腹が記憶だけで痛んだ。
だが、ここで黙ったら終わる。
スバルは息を吸った。
「衛兵! 誰か――」
「そこまでにしておいた方がいい」
穏やかな声が、広場に落ちた。
空気が変わった。
スバルも、男たちも、周囲の数人も、声の方を見る。
赤い髪の青年が立っていた。
白い騎士服。
まっすぐな背筋。
腰には剣。
けれど、手は柄にかかっていない。
それでも、男たちの空気が一瞬で萎んだ。
「騎士様かよ……」
一人が小さく吐き捨てる。
青年は柔らかく微笑む。
「彼に用があるなら、僕を通してくれるかな」
「いや、別に。ちょっと道を聞こうとしただけだ」
「そう。それならよかった」
青年が一歩近づく。
ただそれだけで、男たちは一歩下がった。
「人を怖がらせるような聞き方は、あまり感心しないね」
声は穏やかだった。
だが、逆らう余地はなかった。
男たちは悔しそうに顔を歪め、やがて背を向けて去っていった。
スバルは、その背中が見えなくなるまで動けなかった。
赤髪の青年がスバルへ向き直る。
「大丈夫かい?」
スバルは、ようやく息を吐いた。
「……助かった」
「それならよかった」
「いや、本当に助かった。命の恩人って言葉、今の俺にはけっこう洒落にならないんだけど、それでも言わせてくれ。ありがとう」
青年は少し驚いたように目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「どういたしまして。僕はラインハルト。ラインハルト・ヴァン・アストレアだ」
「ラインハルト……」
スバルはその名前を口の中で繰り返す。
強い。
間違いなく強い。
エルザのような殺意ではない。
ユイのような底の見えなさでもない。
ただ、そこにいるだけで場を正すような強さ。
「俺はナツキ・スバル。スバルでいい」
「スバルだね。よろしく」
差し出された手を、スバルは握った。
温かかった。
強く握られているのに、痛くない。
こんな普通の優しさだけで、少し泣きそうになる。
だが、泣いている場合ではない。
「ラインハルト。頼みがある」
「何かな」
「盗まれたものを取り返したい」
ラインハルトの目が、少し真剣になる。
「盗まれたもの?」
「ああ。銀髪で、紫っぽい目の女の子の大事な徽章だ。金髪の小さい子に盗まれて、たぶん貧民街の盗品蔵に流れる」
ラインハルトの表情が、わずかに変わった。
「徽章、か」
「ああ。大事なものなんだろ? 俺はそれを持ち主に返したい」
「君は、その持ち主の知り合いなのかい?」
スバルは言葉に詰まった。
知り合い。
違う。
彼女にとって、スバルは知らない相手だ。
それは何度も突きつけられた。
けれど、スバルにとっては違う。
助けられた。
傷つけた。
死なせた。
今度こそ助けたい。
「……知り合いじゃない」
スバルは、絞り出すように言った。
「でも、助けたいんだ」
ラインハルトは、スバルをじっと見た。
疑われている。
当然だ。
スバルの話は怪しい。
知らない相手の徽章を取り返したい。
盗品蔵に行くと知っている。
黒髪の女が来ることも知っている。
説明できないことばかりだ。
それでも、ここで黙ったら何も変わらない。
「それと、もうひとつ」
「なんだい?」
「その盗品蔵に、黒髪の女が来る。たぶん、相当強い。そいつは、交渉がこじれたら全員殺す」
ラインハルトの目が細くなる。
「なぜ、それを知っているんだい?」
当然の問いだった。
スバルは喉を鳴らす。
死に戻りのことは言えない。
言おうとするだけで、胸の奥に冷たいものが触れる気がする。
言うな。
そう本能が警告している。
「……見たんだ」
「その女を?」
「ああ。目を見た。あれは、人を殺す目だった」
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
「信じられないのはわかる。でも、放っておいたら死人が出る。俺は、それを止めたい」
ラインハルトは、しばらく黙っていた。
広場の喧騒だけが、二人の間を流れていく。
やがて、彼は頷いた。
「わかった」
スバルの目が見開かれる。
「本当か?」
「君の話には不自然な点がある。だけど、見過ごすには不穏すぎる」
ラインハルトは静かに言った。
「僕も動こう」
胸の奥が熱くなる。
「助かる。本当に、助かる」
「礼はまだ早いよ。全員を無事に帰してからでいい」
全員。
その言葉に、スバルの拳が震えた。
全員。
今度こそ。
銀髪の少女も。
フェルトも。
ロム爺も。
ユイも。
誰も死なせない。
「盗品蔵の場所はわかるかい?」
「だいたいなら」
スバルは、記憶の中の道を必死にたどりながら説明した。
完全ではない。
だが、貧民街の盗品蔵という情報だけで、ラインハルトには十分だったらしい。
「君は先に向かうんだね」
「ああ。俺が交渉する。危なくなったら呼ぶ」
「わかった。少し離れてついていく。大声で呼んでくれれば、必ず駆けつける」
「必ず?」
「必ず」
その返事は、まっすぐだった。
スバルは息を吸い、頷いた。
「行ってくる」
「気をつけて、スバル」
スバルは広場を出て、貧民街へ向かった。
ユイは、そのやり取りを遠くから見ていた。
ラインハルト・ヴァン・アストレア。
やはり、近くで見ると異常な存在だった。
戦えば勝てない。
虚飾を使っても、届かない。
世界そのものが彼の味方をしているような男。
けれど、今はそれでいい。
スバルは自分でその札を掴んだ。
自分の弱さを認め、誰かを頼った。
それは、とても良い成長だった。
ユイは声に出さず、胸の奥で囁く。
よくできました。
その調子で足掻いて。
それでも届かない瞬間が来たら、私は何も知らない顔でそばに立つから。
ユイはスバルとは別の道を選んだ。
同じ道を辿って偶然出会うには不自然だ。
盗品蔵で合流するなら、合流するための理由がいる。
怪しい取引の噂を聞いた。
貧民街に不穏な気配があった。
困っている人を見かけた。
どれでもいい。
頼れるお姉さんは、偶然そこに現れる。
そう見えればいい。
ユイが盗品蔵へ近づいた時、スバルはすでに中へ入っていた。
扉の隙間から、低い声が聞こえる。
ロム爺。
それから、スバルの声。
緊張している。
けれど、前よりはっきりしていた。
少しして、軽い足音が近づいてくる。
フェルトだ。
「ロム爺、戻ったぞ……って、なんだよこいつ」
その声を聞いて、ユイは扉の外で足を止めた。
まだ。
もう少し待つ。
今はスバルの交渉の時間だ。
彼が自分で手を伸ばすところを、奪ってはいけない。
中では、スバルが携帯電話を出したらしい。
フェルトの驚いた声。
ロム爺の興味深そうな唸り。
交渉は進んでいる。
悪くない。
ユイはそこで、扉を叩いた。
中の空気が止まる。
「今度は誰だ」
ロム爺の声。
ユイは扉を開けた。
薄暗い室内に、三つの視線が向く。
ロム爺。
フェルト。
スバル。
そして、スバルの手の中にある見慣れた携帯電話。
ユイは、それを初めて見るものとして目を細めた。
「ここで、盗まれた品の取引があると聞いたのだけど」
フェルトが即座に徽章を隠す。
「なんだよ、また客か?」
「また?」
ユイは首を傾げる。
フェルトはスバルを顎で示した。
「こいつも客。変な光る板と交換だってよ」
「そう」
ユイは、そこで初めてスバルを見たように視線を向けた。
柔らかく微笑む。
「初めまして。私はユイ。あなたは?」
スバルの喉が動いた。
その目が、一瞬だけ揺れる。
初めまして。
また、その言葉。
けれど今度のスバルは崩れなかった。
奥歯を噛み、震えを押し込める。
「……ナツキ・スバル」
声は少し掠れていた。
「スバルでいい」
「スバルくんね」
ユイが名前を呼ぶと、スバルの表情がわずかに歪んだ。
血の中でその名を呼ばれた記憶があるのだろう。
ユイは知らない顔をする。
今初めて名前を聞いた顔。
今初めて、彼を気にかけた顔。
「で、ユイさんは何しに来たんだ?」
「盗品の取引があると聞いたから、少し気になって。危ない話なら止めようと思ったの」
「頼れるお姉さんかよ」
思わず出たような言葉だった。
ユイは小さく笑う。
「そう見える?」
「……見えるよ」
スバルは目を逸らした。
その声には、何度も見た者だけが持つ重さがあった。
フェルトが面倒くさそうに割り込む。
「で、どうすんだよ。買うのか買わねえのか。こっちは高い方に売るだけだぞ」
「買う」
スバルは即答した。
「それ、こっちのミーティアと交換だ」
「こっちのお姉さんは?」
フェルトがユイを見る。
ユイは徽章へ視線を落とし、少しだけ考えるふりをした。
「私は、それが本来の持ち主に戻るなら構わないわ」
「持ち主?」
「盗品なんだから持ち主がいるのは当然でしょう?」
「説教なら帰れよ」
「説教ではないわ。ただ、その品はたぶん、あなたが思っているより面倒なものよ」
フェルトの表情が変わる。
「脅してんのか?」
「忠告よ」
空気が張り詰める。
その時だった。
扉の外に、冷たい気配が立った。
ユイは剣の柄に指を添える。
スバルの顔から血の気が引く。
彼は気配で気づいたのではない。
記憶で気づいた。
エルザが来る。
その死の予感を、体が覚えている。
扉が開いた。
黒髪の女が、優雅に微笑んで立っていた。
「あら。先客が多いのね」
エルザ・グランヒルテ。
死の記憶そのもの。
スバルの呼吸が乱れる。
けれど、今度は後ろへ下がるだけではなかった。
震える足で、一歩横へ出る。
ユイの背中に隠れきらない位置へ。
「フェルト、ロム爺、下がれ」
「あ?」
「そいつは客じゃない」
スバルは、腹の底から声を絞り出した。
「殺しに来てる」
エルザが楽しそうに目を細める。
「あなた、面白いことを言うのね」
ユイは剣を抜いた。
「否定しないのね」
「否定した方がよかったかしら?」
ロム爺が棍棒へ手を伸ばす。
フェルトが徽章を握ったまま後退する。
スバルは息を吸った。
怖い。
怖い。
怖い。
だが、叫ぶ。
「ラインハルトォォォ――!」
盗品蔵の外へ向けて、スバルは全力で叫んだ。
その声と同時に、エルザが動く。
速い。
ユイも踏み込む。
刃と剣がぶつかり、暗い室内に火花が散った。
ユイの腕に重い衝撃が走る。
エルザは笑っている。
だが、その笑みがほんの少しだけ変わった。
外から、足音が近づいている。
迷いのない足音。
約束された救援の音。
スバルは震える拳を握りしめた。
血の匂いが満ちる前に。
誰かが倒れる前に。
この地獄を、ここで止めるために。