Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第四十話 らぶらぶらぶらぶらぶらぶゆー

「君が出会った白い飢餓。その正体について」

 

 エキドナは、そう言ってカップを置いた。

 

 白い茶会の空気が、ほんの少し変わる。

 

 ついさっきまで、スバルは泣いていた。

 

 誰にも言えなかった秘密を、ようやく口にして、みっともなく泣いた。

 

 死に戻り。

 

 死んだら戻る。

 

 その言葉を、初めて誰かに言えた。

 

 言えてしまった。

 

 それだけで、胸の奥で凍りついていたものが砕け、あふれ出した。

 

 エキドナは、それを聞いた。

 

 受け止めるように。

 

 慰めるように。

 

 だが、その白い瞳の奥には、やはり別の色がある。

 

 知りたいという欲。

 

 暴きたいという飢え。

 

 それでも、今のスバルには、その手が必要だった。

 

 誰にも言えない秘密を聞いてくれた相手。

 

 今、この茶会でだけは、死に戻りを話せる相手。

 

 だから、スバルは涙を拭い、椅子に座り直した。

 

「その前に、一つだけ聞かせろ」

 

「いいとも。君が尋ねることなら、僕はできる限り答えよう」

 

「死に戻りに、限界はあるのか」

 

 エキドナの目が細くなる。

 

「限界?」

 

「ああ。何回まで、とか。どこまで戻る、とか。あの魔女が、どこまで俺にそれをさせる気なのか」

 

 口にしただけで、背筋が冷えた。

 

 だが、心臓は掴まれない。

 

 サテラの影は来ない。

 

 それが逆に、現実味を奪っていた。

 

 エキドナは少し考えるように指を顎へ添える。

 

「正確な答えは、僕にも出せない。これは僕の推測になる」

 

「それでもいい」

 

「では、言おう。君の死に戻りに、単純な回数制限はない可能性が高い」

 

 スバルは息を止めた。

 

「……ない?」

 

「少なくとも、君が心配しているような、あと何回で終わる、という種類のものではなさそうだ。あれは権能だ。しかも、嫉妬の魔女の執着が根にある」

 

「執着……」

 

「彼女は君を失わせたくない。君に失敗させたくない。だから、君は死ぬことでやり直しの機会を与えられる」

 

「そんなの……」

 

 スバルの声が低くなる。

 

「そんなの、優しさみたいに言うなよ」

 

「優しさかどうかは、受け取る側の問題だね」

 

 エキドナは淡々と言った。

 

「ただ、仕組みとしてはそうだ。君は失敗をなかったことにするために戻る。あるいは、彼女が君に望む結果へ近づくために戻される」

 

「じゃあ、レムは」

 

 言った瞬間、胸が痛んだ。

 

 レム。

 

 名前も記憶も食べられ、世界から存在を消された少女。

 

 眠り続ける、青い髪の少女。

 

「レムは、どうして戻せなかった」

 

 声が震える。

 

「俺は、戻った。戻ったのに、レムはあのままだ。クルシュさんも記憶を失ったままだ。俺の死に戻りは、何でも直せるんじゃねえのか」

 

「何でも、ではない」

 

 エキドナは静かに言った。

 

「君の死に戻りは、君の望むすべてを叶える力ではない。戻る地点は、君が自由に選べるわけではない。君が救いたいものと、権能が戻す地点は、必ずしも一致しない」

 

「じゃあ……」

 

 スバルの指が震える。

 

「じゃあ、俺がどれだけ死んでも、届かないものはあるってことかよ」

 

「あるだろうね」

 

 即答だった。

 

 残酷なほど、あっさりした答え。

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

「ふざけんなよ……」

 

「ふざけてはいない。君が知るべき現実だ」

 

 エキドナは、スバルをまっすぐ見る。

 

「君は死に戻りを、すべてを救うための万能の鍵として扱おうとしている。だが、それは違う。君が死ねば道は開くかもしれない。けれど、その道が望む場所へ続くとは限らない」

 

「……」

 

「だからこそ、君は情報を求めるべきだ。死ぬ前に、考えるべきだ。死を手札にするのではなく、最後に残る選択肢として扱うべきだ」

 

 スバルは、何も言えなかった。

 

 自分の命の価値を軽く見すぎている。

 

 さっきエキドナに言われた言葉が、胸の奥で重く沈む。

 

 死ねば戻る。

 

 だから死ねる。

 

 そう思っていた。

 

 思わなければ、前へ進めなかった。

 

 けれど、死は痛い。

 

 怖い。

 

 戻っても、苦しみは消えない。

 

 そして、戻っても救えないものがある。

 

 それを認めるのは、あまりにも苦しかった。

 

「……わかった」

 

 スバルは、かすれた声で言った。

 

「なら、情報だ。教えてくれ。あの兎は何なんだ」

 

 エキドナの表情が、少しだけ講義を始める教師のようなものに変わった。

 

「君が遭遇したのは、大兎だ」

 

「大兎……」

 

「三大魔獣の一角。白鯨、黒蛇、そして大兎。君たちはすでに白鯨を退けているね」

 

「白鯨と同じ……」

 

 スバルは喉を鳴らした。

 

 白鯨。

 

 霧。

 

 消される存在。

 

 ヴィルヘルムの剣。

 

 クルシュたちとの共闘。

 

 あの化け物と同じ格の存在が、あの兎だというのか。

 

「大兎は、単体の強さで言えば白鯨ほどではない」

 

「なら――」

 

「だが、厄介さは別だ」

 

 エキドナは遮った。

 

「白鯨は巨大な一つの脅威だった。対して大兎は群れだ。小さな個体が無数に存在し、食欲に従ってあらゆるものを食い尽くす」

 

 スバルの体が震えた。

 

 雪。

 

 白い兎。

 

 無数の口。

 

 自分の足を、腹を、腕を食らう小さな歯。

 

 息が乱れる。

 

「……あいつらは、何なんだ。なんで、あんなものがいる」

 

「作った者がいる」

 

「作った?」

 

「暴食の魔女、ダフネ」

 

 エキドナは、その名を口にした。

 

「三大魔獣は、彼女の手によるものだ。白鯨も、大兎も、黒蛇もね」

 

「魔女が……」

 

 スバルの声が低くなる。

 

「また、魔女かよ」

 

「魔女とは、そういうものだよ。世界へ傷跡を残す」

 

「お前が言うな」

 

「僕も例外ではないからね」

 

 エキドナは悪びれなかった。

 

 スバルは、拳を握る。

 

「倒し方は」

 

「大兎は、個体をいくら倒しても終わらない」

 

「全部殺すしかないってことか」

 

「そうだ。しかも、一匹残せば意味がない。群れを一箇所に集めて、まとめて消し去る必要がある」

 

「無理だろ、そんなの」

 

「普通ならね」

 

 エキドナは、スバルの反応を楽しむように目を細めた。

 

「ただし、性質を知れば方法は考えられる」

 

「性質?」

 

「大兎は、強いマナに引き寄せられる。餌を求める本能だね。濃いマナの気配に誘われる」

 

 スバルは、ゆっくり顔を上げた。

 

「強いマナ……」

 

「そして、群れはばらばらに見えても、獲物への執着は全体で繋がっている。だから釣るなら、一箇所へ集めることは不可能ではない」

 

 スバルの頭が、少しずつ動き出す。

 

 強いマナへ引き寄せる。

 

 群れをまとめる。

 

 全てを同時に倒す。

 

 無理だ。

 

 そう思う。

 

 だが、完全に無理ではない。

 

 少なくとも、白鯨の時と同じだ。

 

 性質を知れば、戦い方を作れる。

 

「詳しい話は、本人に聞くのが一番だろうね」

 

 エキドナが言った。

 

「本人?」

 

「暴食の魔女ダフネだ」

 

 スバルの眉が跳ねる。

 

「会えるのか」

 

「ここは僕の夢の城だ。魔女たちの魂の残滓が在る場所でもある。望むなら、彼女と話すことはできる」

 

「だったら、会わせてくれ」

 

 即答だった。

 

 エキドナは、ほんの少しだけ表情を変えた。

 

「ずいぶん即決だね」

 

「時間がない」

 

「危険だよ」

 

「今さらだ」

 

「君が思うより危険だ」

 

 エキドナの声が低くなる。

 

「この場所では肉体の死はない。だが、精神は別だ。ここで壊れたものは、現実に戻っても壊れたままになる可能性がある」

 

「……」

 

「魔女は、普通の相手ではない。君の常識も、倫理も、反応も、彼女たちには通じない。ダフネに会うまでに、別の魔女が顔を出す可能性もある」

 

「それでも会う」

 

 スバルは言った。

 

 声は震えていた。

 

 怖くないわけではない。

 

 むしろ、怖い。

 

 けれど、大兎の情報が必要だった。

 

 あの白い地獄を、二度と見ないために。

 

 誰も喰わせないために。

 

「俺は、あいつらを倒す。エルザも止める。屋敷も、聖域も、両方救う。だから、情報がいる」

 

 エキドナは、しばらくスバルを見ていた。

 

 やがて、薄く笑う。

 

「いいだろう。君のその無茶は、見ていて飽きない」

 

「褒めてんのか、それ」

 

「どちらでもある」

 

 エキドナは立ち上がる。

 

「忠告を三つ」

 

「三つ?」

 

「まず、相手を魔女だと忘れないこと。次に、ここでの痛みや恐怖は現実ではないが、心には残ること。最後に、君が罪を自覚しているなら、それを突かれる可能性があること」

 

「罪……」

 

「君は自分を責めることに慣れすぎている。そこを喜んで弄る者もいる」

 

 嫌な予感がした。

 

 だが、引くつもりはなかった。

 

「わかった」

 

「では、行っておいで」

 

 白い茶会が、すっと遠ざかった。

 

 テーブルも、椅子も、エキドナも薄れていく。

 

 代わりに、白い空間の中へ、小さな影が現れた。

 

 幼い少女だった。

 

 無邪気な顔。

 

 くるくると変わる表情。

 

 まるで、遊び相手を見つけた子どものように、彼女はスバルへ近づいてきた。

 

「あなたが、罪人?」

 

 少女は首を傾げる。

 

 スバルは身構えた。

 

「お前が、ダフネか?」

 

「ちがうよ」

 

 少女は笑った。

 

「わたしはテュフォン。傲慢の魔女」

 

「傲慢……」

 

 言い終える前に、少女がスバルの手を取った。

 

 握手。

 

 そう思った。

 

 次の瞬間、スバルの腕が千切れた。

 

「――っ!?」

 

 痛みはない。

 

 痛みはないはずなのに、理解が追いつかない。

 

 自分の腕がない。

 

 少女の手の中にある。

 

 スバルは息を呑んだ。

 

「な、にを……!」

 

「痛くないでしょ?」

 

 テュフォンは、無邪気に笑う。

 

「罪がなければ痛くないの。あなた、悪い人じゃないのかな?」

 

「ふざけんな、返せ!」

 

 スバルは腕を取り返そうとした。

 

 その瞬間、体が砕けた。

 

 腕。

 

 脚。

 

 胴。

 

 自分という形が、ばらばらに分かれる。

 

 痛みはない。

 

 だが、恐怖はある。

 

 自分の体が壊れる感覚。

 

 輪郭が失われる感覚。

 

 スバルは声にならない声を上げた。

 

「罪がないのに、罪があるって思ってる」

 

 テュフォンが不思議そうに言った。

 

「へんな人」

 

 体が、さらに崩れる。

 

 意識が遠のきかけた。

 

 その時、横から怒鳴り声が響いた。

 

「ちょっと! 何してるのよ!」

 

 派手な勢いで現れた少女が、テュフォンを止めた。

 

 スバルの砕けた体が、強引に繋ぎ直される。

 

 腕が戻る。

 

 足が戻る。

 

 腹も、胸も、頭も。

 

 身体の輪郭が戻ってきた。

 

「……っ、は……!」

 

 スバルは、その場に膝をつく。

 

 体はある。

 

 痛みもない。

 

 それでも、息が荒い。

 

「大丈夫? 大丈夫じゃないわよね。まったく、あの子はすぐこういうことをするんだから」

 

 現れた少女は、涙目だった。

 

 いや、涙目というより、怒って泣いているようにも見える。

 

「お前は……」

 

「ミネルヴァ」

 

 少女は胸を張った。

 

「憤怒の魔女よ」

 

「憤怒……?」

 

「そう。泣いてないわよ。怒ってるの。怪我とか痛みとか、そういうのを見ると腹が立つの」

 

 言っている意味はわかるようで、わからない。

 

 だが、スバルの体を戻してくれたのは確かだった。

 

「……助かった」

 

「助けたんじゃないわ。腹が立ったから直しただけ」

 

「それでも、助かった」

 

 ミネルヴァは、ふいと顔を背けた。

 

「礼なんていらないわ。どうせまた無茶する顔してるし」

 

「よく言われる」

 

「言われるなら直しなさいよ!」

 

 怒鳴られた。

 

 だが、その怒鳴り声は、ほんの少しだけ現実味を戻してくれた。

 

 次の瞬間、空気が変わる。

 

 重い。

 

 粘つくような気配。

 

 飢え。

 

 ただそこにあるだけで、腹の底をかき回されるような感覚。

 

 白い空間の奥から、何かが現れた。

 

 拘束具のようなものに包まれた少女。

 

 鉄の棺のような装置に閉じ込められ、奇妙な脚で支えられている。

 

 目元は覆われ、口元だけが見える。

 

 それでも、わかる。

 

 これは、危険だ。

 

 テュフォンやミネルヴァとは違う意味で。

 

「待たせたね」

 

 その声は、どこか気怠げだった。

 

「ダフネ」

 

 ミネルヴァが言う。

 

 暴食の魔女。

 

 三大魔獣を生み出した者。

 

 スバルは、喉を鳴らした。

 

「お前が、ダフネか」

 

「そう。で、あなたは何を聞きたいの?」

 

 ダフネは、面倒そうに言った。

 

「早くして。長話は好きじゃない」

 

「大兎の倒し方を聞きたい」

 

「大兎?」

 

 ダフネの声に、わずかな反応があった。

 

「君、食べられたんだ」

 

「……ああ」

 

「嫌だった?」

 

 その問いは、あまりにも淡々としていた。

 

 スバルの顔が強張る。

 

「嫌に決まってるだろ」

 

「そっか」

 

 ダフネは、納得したように頷いた。

 

「食べられるのは嫌。痛いのは嫌。怖いのは嫌。じゃあ、お腹が空くのも嫌だって、わかる?」

 

「……は?」

 

「お腹が空くのは苦しい。ずっと空いてると、痛い。何も食べられないと、怖い。だから食べる。食べれば、少しだけ楽になる」

 

 噛み合っていない。

 

 スバルはそう思った。

 

 彼女は、自分がどれほど酷い目に遭ったかを理解していないわけではない。

 

 ただ、同じ重さで“飢え”を置いている。

 

 食べられる苦痛と、食べられない苦痛。

 

 それを同じ天秤に乗せている。

 

「だからって、人を喰う化け物を作ったのか」

 

「化け物?」

 

 ダフネの声に、不思議そうな色が混じる。

 

「あの子たちは、お腹を満たすための子たちだよ。世界には飢えがある。だから、食べるものが必要だった」

 

「その食べるものが人間でもいいってのか」

 

「食べられるなら、食べ物だよ」

 

 スバルは、言葉を失った。

 

 無理だ。

 

 この相手に、普通の倫理をぶつけても意味がない。

 

 怒りをぶつけても、彼女には届かない。

 

 だから、聞くべきことだけを聞く。

 

 そうしなければならない。

 

「大兎は、どうすれば倒せる」

 

「全部殺せばいい」

 

「それが無理だから聞いてるんだよ」

 

「無理じゃないよ。全部まとめればいい」

 

 ダフネは、淡々と答える。

 

「大兎は、強いマナに寄ってくる。おいしそうなマナがあれば、群れはそこへ集まる」

 

「餌で釣るってことか」

 

「そう。強いマナを持った子を餌にするといい」

 

 スバルの脳裏に、いくつかの顔が浮かぶ。

 

 エミリア。

 

 ロズワール。

 

 ベアトリス。

 

 そして、パック。

 

 だが、すぐに首を振る。

 

 誰かを餌にする。

 

 その言葉だけで、胃がひっくり返りそうだった。

 

「集めたあとは」

 

「一匹も残さないこと」

 

 ダフネは言った。

 

「残ったら、また増える。だから、集めて、逃がさず、まとめて消す」

 

「簡単に言うなよ」

 

「簡単かどうかは、やる人の問題」

 

「……」

 

「でも、君はやるんでしょ?」

 

 スバルは、拳を握る。

 

「やる」

 

 声は震えていた。

 

 だが、言葉は揺らがなかった。

 

「俺は、あいつらを倒す。白鯨だって倒した。大兎も倒す。黒蛇だって、いつか必要なら倒す」

 

 ダフネは、くすりと笑った。

 

「そっか」

 

 その声には、怒りも悲しみもない。

 

 ただ、少しだけ面白そうな響きがあった。

 

「食べる側が勝つか、食べられる側が抗うか。どっちでも、飢えは消えないけどね」

 

 白い空間が揺れる。

 

 ダフネの姿が遠のいていく。

 

 スバルは、最後に叫んだ。

 

「大兎は強いマナで集める! 全部逃がさずに消す! それでいいんだな!」

 

「うん」

 

 ダフネの声が遠くなる。

 

「お腹を空かせた子たちは、きっと来るよ」

 

 次の瞬間、白い茶会へ戻っていた。

 

 テーブル。

 

 椅子。

 

 紅茶。

 

 エキドナ。

 

 スバルは、荒い息を吐きながら椅子に座っていた。

 

「お疲れさま」

 

 エキドナが言った。

 

「随分と賑やかな顔合わせだったね」

 

「……お前、先に言えよ。あんなのが出るって」

 

「言っただろう。魔女は普通ではないと」

 

「限度があるだろ」

 

「あるかな?」

 

 エキドナは楽しそうだった。

 

 スバルは、頭を押さえる。

 

 テュフォン。

 

 ミネルヴァ。

 

 ダフネ。

 

 どいつもこいつも、常識が通じない。

 

 だが、情報は得た。

 

 大兎は強いマナへ寄る。

 

 群れを一箇所に集める。

 

 一匹も逃がさず、まとめて消す。

 

 無理難題だ。

 

 でも、完全な闇ではない。

 

「大兎は、何とかする」

 

 スバルは言った。

 

「問題は、エルザだ。屋敷の襲撃。聖域の解放。ベア子。エミリアたんの試練。ロズワール……」

 

「問題は山積みだね」

 

「楽しそうに言うな」

 

「実際、興味深い」

 

「強欲め」

 

「その通り」

 

 エキドナは悪びれない。

 

 スバルは、深く息を吐いた。

 

「ここで聞いたこと、俺は覚えて帰れるのか」

 

「そのままでは保証できないね」

 

「……やっぱりか」

 

「以前の茶会で君が僕を覚えていたいと願った。その願いがあったから、今回は君もここを認識できている。けれど、ここで得た情報を現実へ持ち帰るなら、相応の対価が必要だ」

 

「対価」

 

 スバルは眉を寄せる。

 

「何を払えばいい」

 

「物でいい」

 

「物?」

 

「君にとって意味のあるものが望ましい。価値は、金銭ではなく感情で決まる」

 

 スバルは自分の持ち物を探った。

 

 何かあるか。

 

 剣もない。

 

 金目の物もない。

 

 そこで、指先が布に触れた。

 

 白いスカーフ。

 

 ペトラが、出発前に手首へ巻いてくれたもの。

 

 不器用な結び目。

 

 小さな手。

 

 お守りです、と言った少女の顔。

 

 絶対、戻ってきてくださいね、と言った声。

 

 スバルの手が止まる。

 

「……これかよ」

 

「それがいい」

 

 エキドナは即答した。

 

 スバルは、白い布を握る。

 

 ペトラの顔が浮かぶ。

 

 小さな手。

 

 笑顔。

 

 そして、前のループで手だけになった感触。

 

 喉が詰まる。

 

「これを渡せば、記憶を持ち帰れるのか」

 

「そうだね。正確には、僕が受け取るのはそれに宿る意味だ。現実の物自体が消えるわけではない」

 

「ややこしいな」

 

「魔女との取引とは、そういうものだよ」

 

 スバルは、白いスカーフを見つめた。

 

 ペトラ。

 

 絶対に助ける。

 

 これを対価にすることが、彼女を捨てることにならないように。

 

 むしろ、彼女を救うために。

 

 スバルは、白い布を差し出した。

 

「持ってけ」

 

 エキドナは、それを受け取る仕草をした。

 

 現実の布は、スバルの手元に残っている。

 

 けれど、何かが少しだけ抜けたような感覚があった。

 

 思い出が消えたわけではない。

 

 ただ、その重みの一部を、魔女に触れられたような感覚。

 

「確かに受け取った」

 

 エキドナは満足そうに言った。

 

「これで、君はここでのことを覚えて現実へ戻れる」

 

「……悪趣味な対価だな」

 

「君が大切にしているからこそ、価値がある」

 

「やっぱり悪趣味だ」

 

「強欲だからね」

 

 エキドナは微笑む。

 

 その笑みは白く、甘く、危うかった。

 

「それと、ナツキ・スバル」

 

「何だ」

 

「君に伝えておくべきことがある。けれど、今の君はもう戻る時間だ」

 

「おい、待てよ。そういう言い方が一番困るんだよ」

 

「困るだろうね」

 

「わざとか」

 

「もちろん」

 

 エキドナは、少しだけ楽しそうに笑った。

 

「次に君がここへ来る時、君はまた選ぶことになる。その時、今日のことを覚えているかどうかは大きい」

 

「……」

 

「だから、忘れないように。ナツキ・スバル。君が吐き出したものも、手に入れたものも、すべて君のものだ」

 

 白い世界が、少しずつ薄れていく。

 

 茶会が終わる。

 

 現実へ戻る。

 

 スバルは立ち上がろうとして、最後にエキドナを見た。

 

「エキドナ」

 

「なんだい?」

 

「聞いてくれて、助かった」

 

 エキドナの目が、わずかに細まる。

 

「それは、感謝かな」

 

「……そうだよ」

 

「なら、受け取っておこう」

 

 エキドナは楽しそうに笑った。

 

「また会おう、ナツキ・スバル」

 

 白が消える。

 

 茶会が遠ざかる。

 

 スバルの意識は、現実へ引き戻された。

 

 目を開ける。

 

 墓所の外。

 

 夜の空気。

 

 地面の冷たさ。

 

 そして、違和感。

 

 静かすぎる。

 

 誰もいない。

 

 いや、違う。

 

 いる。

 

 黒いものが、聖域を覆っていた。

 

 影。

 

 粘つくような黒い影が、地面を這い、建物を包み、木々を呑み込んでいる。

 

 スバルの背筋が凍った。

 

「なんだ、これ……」

 

 声が掠れる。

 

 影の中から、人影が現れた。

 

 黒い外套。

 

 顔は見えない。

 

 けれど、わかる。

 

 その存在だけで、心臓が潰れそうになる。

 

 影の女が、スバルへ手を伸ばす。

 

 そして、囁いた。

 

「愛してる」

 

 その言葉が、耳に入った瞬間、全身が硬直した。

 

「愛してる」

 

 影が近づく。

 

「愛してる」

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

「愛してる」

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 同じ言葉。

 

 優しいはずの言葉。

 

 けれど、そこには逃げ場のない執着があった。

 

「愛してる」

 

 スバルは動けない。

 

 死に戻りを口にした。

 

 茶会で。

 

 エキドナの城で。

 

 それでも、届いたのか。

 

 罰なのか。

 

 嫉妬なのか。

 

 影が、スバルを抱きしめようとする。

 

 その瞬間、横から何かが飛び込んだ。

 

「ボケっとしてんじゃねぇ!」

 

 ガーフィールだった。

 

 スバルの体が乱暴に引きずられる。

 

 影の腕が空を切る。

 

 次の瞬間、スバルはガーフィールに抱えられ、屋根の上へ投げ出されるように連れていかれていた。

 

「がっ……!」

 

「黙ってろ」

 

 ガーフィールの顔は青ざめていた。

 

 あのガーフィールが。

 

 強がりも、皮肉もなく。

 

 ただ、明らかに警戒している。

 

「何だよ、あれ……」

 

 スバルは震える声で言った。

 

 白が消える。

 

 茶会が遠ざかる。

 

 スバルの意識は、現実へ引き戻された。

 

 目を開ける。

 

 墓所の外。

 

 夜の空気。

 

 地面の冷たさ。

 

 そして、違和感。

 

 静かすぎる。

 

 誰もいない。

 

 いや、違う。

 

 いる。

 

 黒いものが、聖域を覆っていた。

 

 影。

 

 粘つくような黒い影が、地面を這い、建物を包み、木々を呑み込んでいる。

 

 スバルの背筋が凍った。

 

「なんだ、これ……」

 

 声が掠れる。

 

 人の声がしない。

 

 ついさっきまで、そこにいたはずの気配がない。

 

 エミリア。

 

 オットー。

 

 ラム。

 

 ユイ。

 

 ガーフィール。

 

 リューズ。

 

 聖域の住人たち。

 

 名前を思い浮かべるたび、胸の奥が冷たくなっていく。

 

 黒い影は、ただ広がっているだけではなかった。

 

 生き物のように蠢き、這い、飲み込み、何もかもを自分の内側へ引きずり込んでいる。

 

「エミリア……?」

 

 呼んだ。

 

 返事はない。

 

「ユイさん……?」

 

 返事はない。

 

 代わりに、影の奥から何かが現れた。

 

 黒い外套。

 

 顔は見えない。

 

 けれど、その存在だけで、スバルの心臓が潰れそうになる。

 

 近づいてくる。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 影を連れて。

 

 世界を黒く塗り潰しながら。

 

 そして、囁いた。

 

「愛してる」

 

 その言葉が、耳に入った瞬間、全身が硬直した。

 

「愛してる」

 

 影が近づく。

 

「愛してる」

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

「愛してる」

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 同じ言葉。

 

 優しいはずの言葉。

 

 けれど、そこには逃げ場のない執着があった。

 

 それは、愛ではなく鎖だった。

 

 温もりではなく、底なしの沼だった。

 

「愛してる」

 

 スバルは動けない。

 

 死に戻りを口にした。

 

 茶会で。

 

 エキドナの夢の城で。

 

 それでも、届いたのか。

 

 罰なのか。

 

 嫉妬なのか。

 

 あの影は、スバルへ向かって手を伸ばしてくる。

 

 抱きしめようとしている。

 

 包み込もうとしている。

 

 逃がさないと告げるように。

 

 その瞬間、横から何かが飛び込んだ。

 

「ボケっとしてんじゃねぇ!」

 

 乱暴な声。

 

 ガーフィールだった。

 

 スバルの体が、強引に引きずられる。

 

 影の腕が、空を切った。

 

「がっ……!」

 

「黙ってろ、噛み殺されてぇのか!」

 

 次の瞬間、スバルはガーフィールに抱えられ、地面を蹴って跳び上がっていた。

 

 風が顔を打つ。

 

 屋根の上へ。

 

 さらに高い場所へ。

 

 ガーフィールは、スバルを乱暴に放り出すように降ろした。

 

 スバルは屋根瓦の上に転がり、咳き込む。

 

「何だよ、あれ……」

 

 震える声で問う。

 

 ガーフィールは答えない。

 

 答えられないのか。

 

 答えたくないのか。

 

 あのガーフィールが、青ざめた顔で影を見下ろしていた。

 

 強がりも、罵倒も、余裕もない。

 

 獣じみた本能が、あれを危険だと叫んでいるのだ。

 

 眼下で、黒い影が聖域を呑んでいく。

 

 家が沈む。

 

 木々が沈む。

 

 地面が黒く塗り潰される。

 

 人の気配は、もうほとんど残っていない。

 

「エミリア……オットー……ラム……」

 

 名前を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

「ユイさん……!」

 

 声を張り上げる。

 

 それでも、返事はない。

 

 影は、答えの代わりに蠢くだけだった。

 

 そして、黒い外套の女が顔を上げる。

 

 顔は見えない。

 

 けれど、スバルを見ている。

 

 間違いなく。

 

 ただ、スバルだけを。

 

「愛してる」

 

 また、その言葉。

 

 耳に入るたび、心臓が冷たく握られる。

 

 スバルは震えながら、茶会の記憶を思い出す。

 

 死に戻りを口にした。

 

 エキドナに聞かせた。

 

 誰にも言えなかった秘密を、ついに吐き出した。

 

 その代償のように、現実では黒い影が広がっている。

 

 ただし、今のスバルには、何が起きたのか正確にはわからない。

 

 ロズワールがどうなったのかも。

 

 エミリアがどうなったのかも。

 

 ユイがどこにいるのかも。

 

 誰が生きていて、誰がもう呑まれたのかも。

 

 わからない。

 

 ただ一つだけ、わかることがある。

 

 これは、自分を求めている。

 

 自分だけを見ている。

 

 自分を逃がすつもりがない。

 

「……サテラ」

 

 唇が、勝手にその名を形作った。

 

 ガーフィールが鋭くスバルを見る。

 

「てめぇ、今なんつった」

 

「……」

 

「答えろ。あれが何なのか、てめぇ知ってんのか」

 

 スバルは答えられない。

 

 知らない。

 

 知っている。

 

 どちらも正しい。

 

 どちらも言えない。

 

 黒い影は、屋根の下でさらに広がっていく。

 

 そして、ゆっくりと向きを変えた。

 

 聖域の奥へ。

 

 屋敷のある方角へ。

 

 何かを探すように。

 

 何もかもを呑み込みながら。

 

「まずい……」

 

 スバルは呟いた。

 

「このままだと、全部……」

 

 ガーフィールが歯を食いしばる。

 

「言われなくてもわかってんだよ」

 

 影の中から、また声がした。

 

「愛してる」

 

 逃げ場のない愛。

 

 世界を呑む嫉妬。

 

 スバルは、ガーフィールに掴まれたまま、その声を聞いていた。

 

 白い茶会でようやく吐き出した秘密は、現実に戻った瞬間、黒い影となって彼を追いかけてきた。

 

 何が起きているのか、まだわからない。

 

 誰が無事なのかも、わからない。

 

 ただ、世界がまた壊れ始めていることだけは、嫌というほどわかった。

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