「君が出会った白い飢餓。その正体について」
エキドナは、そう言ってカップを置いた。
白い茶会の空気が、ほんの少し変わる。
ついさっきまで、スバルは泣いていた。
誰にも言えなかった秘密を、ようやく口にして、みっともなく泣いた。
死に戻り。
死んだら戻る。
その言葉を、初めて誰かに言えた。
言えてしまった。
それだけで、胸の奥で凍りついていたものが砕け、あふれ出した。
エキドナは、それを聞いた。
受け止めるように。
慰めるように。
だが、その白い瞳の奥には、やはり別の色がある。
知りたいという欲。
暴きたいという飢え。
それでも、今のスバルには、その手が必要だった。
誰にも言えない秘密を聞いてくれた相手。
今、この茶会でだけは、死に戻りを話せる相手。
だから、スバルは涙を拭い、椅子に座り直した。
「その前に、一つだけ聞かせろ」
「いいとも。君が尋ねることなら、僕はできる限り答えよう」
「死に戻りに、限界はあるのか」
エキドナの目が細くなる。
「限界?」
「ああ。何回まで、とか。どこまで戻る、とか。あの魔女が、どこまで俺にそれをさせる気なのか」
口にしただけで、背筋が冷えた。
だが、心臓は掴まれない。
サテラの影は来ない。
それが逆に、現実味を奪っていた。
エキドナは少し考えるように指を顎へ添える。
「正確な答えは、僕にも出せない。これは僕の推測になる」
「それでもいい」
「では、言おう。君の死に戻りに、単純な回数制限はない可能性が高い」
スバルは息を止めた。
「……ない?」
「少なくとも、君が心配しているような、あと何回で終わる、という種類のものではなさそうだ。あれは権能だ。しかも、嫉妬の魔女の執着が根にある」
「執着……」
「彼女は君を失わせたくない。君に失敗させたくない。だから、君は死ぬことでやり直しの機会を与えられる」
「そんなの……」
スバルの声が低くなる。
「そんなの、優しさみたいに言うなよ」
「優しさかどうかは、受け取る側の問題だね」
エキドナは淡々と言った。
「ただ、仕組みとしてはそうだ。君は失敗をなかったことにするために戻る。あるいは、彼女が君に望む結果へ近づくために戻される」
「じゃあ、レムは」
言った瞬間、胸が痛んだ。
レム。
名前も記憶も食べられ、世界から存在を消された少女。
眠り続ける、青い髪の少女。
「レムは、どうして戻せなかった」
声が震える。
「俺は、戻った。戻ったのに、レムはあのままだ。クルシュさんも記憶を失ったままだ。俺の死に戻りは、何でも直せるんじゃねえのか」
「何でも、ではない」
エキドナは静かに言った。
「君の死に戻りは、君の望むすべてを叶える力ではない。戻る地点は、君が自由に選べるわけではない。君が救いたいものと、権能が戻す地点は、必ずしも一致しない」
「じゃあ……」
スバルの指が震える。
「じゃあ、俺がどれだけ死んでも、届かないものはあるってことかよ」
「あるだろうね」
即答だった。
残酷なほど、あっさりした答え。
スバルは歯を食いしばった。
「ふざけんなよ……」
「ふざけてはいない。君が知るべき現実だ」
エキドナは、スバルをまっすぐ見る。
「君は死に戻りを、すべてを救うための万能の鍵として扱おうとしている。だが、それは違う。君が死ねば道は開くかもしれない。けれど、その道が望む場所へ続くとは限らない」
「……」
「だからこそ、君は情報を求めるべきだ。死ぬ前に、考えるべきだ。死を手札にするのではなく、最後に残る選択肢として扱うべきだ」
スバルは、何も言えなかった。
自分の命の価値を軽く見すぎている。
さっきエキドナに言われた言葉が、胸の奥で重く沈む。
死ねば戻る。
だから死ねる。
そう思っていた。
思わなければ、前へ進めなかった。
けれど、死は痛い。
怖い。
戻っても、苦しみは消えない。
そして、戻っても救えないものがある。
それを認めるのは、あまりにも苦しかった。
「……わかった」
スバルは、かすれた声で言った。
「なら、情報だ。教えてくれ。あの兎は何なんだ」
エキドナの表情が、少しだけ講義を始める教師のようなものに変わった。
「君が遭遇したのは、大兎だ」
「大兎……」
「三大魔獣の一角。白鯨、黒蛇、そして大兎。君たちはすでに白鯨を退けているね」
「白鯨と同じ……」
スバルは喉を鳴らした。
白鯨。
霧。
消される存在。
ヴィルヘルムの剣。
クルシュたちとの共闘。
あの化け物と同じ格の存在が、あの兎だというのか。
「大兎は、単体の強さで言えば白鯨ほどではない」
「なら――」
「だが、厄介さは別だ」
エキドナは遮った。
「白鯨は巨大な一つの脅威だった。対して大兎は群れだ。小さな個体が無数に存在し、食欲に従ってあらゆるものを食い尽くす」
スバルの体が震えた。
雪。
白い兎。
無数の口。
自分の足を、腹を、腕を食らう小さな歯。
息が乱れる。
「……あいつらは、何なんだ。なんで、あんなものがいる」
「作った者がいる」
「作った?」
「暴食の魔女、ダフネ」
エキドナは、その名を口にした。
「三大魔獣は、彼女の手によるものだ。白鯨も、大兎も、黒蛇もね」
「魔女が……」
スバルの声が低くなる。
「また、魔女かよ」
「魔女とは、そういうものだよ。世界へ傷跡を残す」
「お前が言うな」
「僕も例外ではないからね」
エキドナは悪びれなかった。
スバルは、拳を握る。
「倒し方は」
「大兎は、個体をいくら倒しても終わらない」
「全部殺すしかないってことか」
「そうだ。しかも、一匹残せば意味がない。群れを一箇所に集めて、まとめて消し去る必要がある」
「無理だろ、そんなの」
「普通ならね」
エキドナは、スバルの反応を楽しむように目を細めた。
「ただし、性質を知れば方法は考えられる」
「性質?」
「大兎は、強いマナに引き寄せられる。餌を求める本能だね。濃いマナの気配に誘われる」
スバルは、ゆっくり顔を上げた。
「強いマナ……」
「そして、群れはばらばらに見えても、獲物への執着は全体で繋がっている。だから釣るなら、一箇所へ集めることは不可能ではない」
スバルの頭が、少しずつ動き出す。
強いマナへ引き寄せる。
群れをまとめる。
全てを同時に倒す。
無理だ。
そう思う。
だが、完全に無理ではない。
少なくとも、白鯨の時と同じだ。
性質を知れば、戦い方を作れる。
「詳しい話は、本人に聞くのが一番だろうね」
エキドナが言った。
「本人?」
「暴食の魔女ダフネだ」
スバルの眉が跳ねる。
「会えるのか」
「ここは僕の夢の城だ。魔女たちの魂の残滓が在る場所でもある。望むなら、彼女と話すことはできる」
「だったら、会わせてくれ」
即答だった。
エキドナは、ほんの少しだけ表情を変えた。
「ずいぶん即決だね」
「時間がない」
「危険だよ」
「今さらだ」
「君が思うより危険だ」
エキドナの声が低くなる。
「この場所では肉体の死はない。だが、精神は別だ。ここで壊れたものは、現実に戻っても壊れたままになる可能性がある」
「……」
「魔女は、普通の相手ではない。君の常識も、倫理も、反応も、彼女たちには通じない。ダフネに会うまでに、別の魔女が顔を出す可能性もある」
「それでも会う」
スバルは言った。
声は震えていた。
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
けれど、大兎の情報が必要だった。
あの白い地獄を、二度と見ないために。
誰も喰わせないために。
「俺は、あいつらを倒す。エルザも止める。屋敷も、聖域も、両方救う。だから、情報がいる」
エキドナは、しばらくスバルを見ていた。
やがて、薄く笑う。
「いいだろう。君のその無茶は、見ていて飽きない」
「褒めてんのか、それ」
「どちらでもある」
エキドナは立ち上がる。
「忠告を三つ」
「三つ?」
「まず、相手を魔女だと忘れないこと。次に、ここでの痛みや恐怖は現実ではないが、心には残ること。最後に、君が罪を自覚しているなら、それを突かれる可能性があること」
「罪……」
「君は自分を責めることに慣れすぎている。そこを喜んで弄る者もいる」
嫌な予感がした。
だが、引くつもりはなかった。
「わかった」
「では、行っておいで」
白い茶会が、すっと遠ざかった。
テーブルも、椅子も、エキドナも薄れていく。
代わりに、白い空間の中へ、小さな影が現れた。
幼い少女だった。
無邪気な顔。
くるくると変わる表情。
まるで、遊び相手を見つけた子どものように、彼女はスバルへ近づいてきた。
「あなたが、罪人?」
少女は首を傾げる。
スバルは身構えた。
「お前が、ダフネか?」
「ちがうよ」
少女は笑った。
「わたしはテュフォン。傲慢の魔女」
「傲慢……」
言い終える前に、少女がスバルの手を取った。
握手。
そう思った。
次の瞬間、スバルの腕が千切れた。
「――っ!?」
痛みはない。
痛みはないはずなのに、理解が追いつかない。
自分の腕がない。
少女の手の中にある。
スバルは息を呑んだ。
「な、にを……!」
「痛くないでしょ?」
テュフォンは、無邪気に笑う。
「罪がなければ痛くないの。あなた、悪い人じゃないのかな?」
「ふざけんな、返せ!」
スバルは腕を取り返そうとした。
その瞬間、体が砕けた。
腕。
脚。
胴。
自分という形が、ばらばらに分かれる。
痛みはない。
だが、恐怖はある。
自分の体が壊れる感覚。
輪郭が失われる感覚。
スバルは声にならない声を上げた。
「罪がないのに、罪があるって思ってる」
テュフォンが不思議そうに言った。
「へんな人」
体が、さらに崩れる。
意識が遠のきかけた。
その時、横から怒鳴り声が響いた。
「ちょっと! 何してるのよ!」
派手な勢いで現れた少女が、テュフォンを止めた。
スバルの砕けた体が、強引に繋ぎ直される。
腕が戻る。
足が戻る。
腹も、胸も、頭も。
身体の輪郭が戻ってきた。
「……っ、は……!」
スバルは、その場に膝をつく。
体はある。
痛みもない。
それでも、息が荒い。
「大丈夫? 大丈夫じゃないわよね。まったく、あの子はすぐこういうことをするんだから」
現れた少女は、涙目だった。
いや、涙目というより、怒って泣いているようにも見える。
「お前は……」
「ミネルヴァ」
少女は胸を張った。
「憤怒の魔女よ」
「憤怒……?」
「そう。泣いてないわよ。怒ってるの。怪我とか痛みとか、そういうのを見ると腹が立つの」
言っている意味はわかるようで、わからない。
だが、スバルの体を戻してくれたのは確かだった。
「……助かった」
「助けたんじゃないわ。腹が立ったから直しただけ」
「それでも、助かった」
ミネルヴァは、ふいと顔を背けた。
「礼なんていらないわ。どうせまた無茶する顔してるし」
「よく言われる」
「言われるなら直しなさいよ!」
怒鳴られた。
だが、その怒鳴り声は、ほんの少しだけ現実味を戻してくれた。
次の瞬間、空気が変わる。
重い。
粘つくような気配。
飢え。
ただそこにあるだけで、腹の底をかき回されるような感覚。
白い空間の奥から、何かが現れた。
拘束具のようなものに包まれた少女。
鉄の棺のような装置に閉じ込められ、奇妙な脚で支えられている。
目元は覆われ、口元だけが見える。
それでも、わかる。
これは、危険だ。
テュフォンやミネルヴァとは違う意味で。
「待たせたね」
その声は、どこか気怠げだった。
「ダフネ」
ミネルヴァが言う。
暴食の魔女。
三大魔獣を生み出した者。
スバルは、喉を鳴らした。
「お前が、ダフネか」
「そう。で、あなたは何を聞きたいの?」
ダフネは、面倒そうに言った。
「早くして。長話は好きじゃない」
「大兎の倒し方を聞きたい」
「大兎?」
ダフネの声に、わずかな反応があった。
「君、食べられたんだ」
「……ああ」
「嫌だった?」
その問いは、あまりにも淡々としていた。
スバルの顔が強張る。
「嫌に決まってるだろ」
「そっか」
ダフネは、納得したように頷いた。
「食べられるのは嫌。痛いのは嫌。怖いのは嫌。じゃあ、お腹が空くのも嫌だって、わかる?」
「……は?」
「お腹が空くのは苦しい。ずっと空いてると、痛い。何も食べられないと、怖い。だから食べる。食べれば、少しだけ楽になる」
噛み合っていない。
スバルはそう思った。
彼女は、自分がどれほど酷い目に遭ったかを理解していないわけではない。
ただ、同じ重さで“飢え”を置いている。
食べられる苦痛と、食べられない苦痛。
それを同じ天秤に乗せている。
「だからって、人を喰う化け物を作ったのか」
「化け物?」
ダフネの声に、不思議そうな色が混じる。
「あの子たちは、お腹を満たすための子たちだよ。世界には飢えがある。だから、食べるものが必要だった」
「その食べるものが人間でもいいってのか」
「食べられるなら、食べ物だよ」
スバルは、言葉を失った。
無理だ。
この相手に、普通の倫理をぶつけても意味がない。
怒りをぶつけても、彼女には届かない。
だから、聞くべきことだけを聞く。
そうしなければならない。
「大兎は、どうすれば倒せる」
「全部殺せばいい」
「それが無理だから聞いてるんだよ」
「無理じゃないよ。全部まとめればいい」
ダフネは、淡々と答える。
「大兎は、強いマナに寄ってくる。おいしそうなマナがあれば、群れはそこへ集まる」
「餌で釣るってことか」
「そう。強いマナを持った子を餌にするといい」
スバルの脳裏に、いくつかの顔が浮かぶ。
エミリア。
ロズワール。
ベアトリス。
そして、パック。
だが、すぐに首を振る。
誰かを餌にする。
その言葉だけで、胃がひっくり返りそうだった。
「集めたあとは」
「一匹も残さないこと」
ダフネは言った。
「残ったら、また増える。だから、集めて、逃がさず、まとめて消す」
「簡単に言うなよ」
「簡単かどうかは、やる人の問題」
「……」
「でも、君はやるんでしょ?」
スバルは、拳を握る。
「やる」
声は震えていた。
だが、言葉は揺らがなかった。
「俺は、あいつらを倒す。白鯨だって倒した。大兎も倒す。黒蛇だって、いつか必要なら倒す」
ダフネは、くすりと笑った。
「そっか」
その声には、怒りも悲しみもない。
ただ、少しだけ面白そうな響きがあった。
「食べる側が勝つか、食べられる側が抗うか。どっちでも、飢えは消えないけどね」
白い空間が揺れる。
ダフネの姿が遠のいていく。
スバルは、最後に叫んだ。
「大兎は強いマナで集める! 全部逃がさずに消す! それでいいんだな!」
「うん」
ダフネの声が遠くなる。
「お腹を空かせた子たちは、きっと来るよ」
次の瞬間、白い茶会へ戻っていた。
テーブル。
椅子。
紅茶。
エキドナ。
スバルは、荒い息を吐きながら椅子に座っていた。
「お疲れさま」
エキドナが言った。
「随分と賑やかな顔合わせだったね」
「……お前、先に言えよ。あんなのが出るって」
「言っただろう。魔女は普通ではないと」
「限度があるだろ」
「あるかな?」
エキドナは楽しそうだった。
スバルは、頭を押さえる。
テュフォン。
ミネルヴァ。
ダフネ。
どいつもこいつも、常識が通じない。
だが、情報は得た。
大兎は強いマナへ寄る。
群れを一箇所に集める。
一匹も逃がさず、まとめて消す。
無理難題だ。
でも、完全な闇ではない。
「大兎は、何とかする」
スバルは言った。
「問題は、エルザだ。屋敷の襲撃。聖域の解放。ベア子。エミリアたんの試練。ロズワール……」
「問題は山積みだね」
「楽しそうに言うな」
「実際、興味深い」
「強欲め」
「その通り」
エキドナは悪びれない。
スバルは、深く息を吐いた。
「ここで聞いたこと、俺は覚えて帰れるのか」
「そのままでは保証できないね」
「……やっぱりか」
「以前の茶会で君が僕を覚えていたいと願った。その願いがあったから、今回は君もここを認識できている。けれど、ここで得た情報を現実へ持ち帰るなら、相応の対価が必要だ」
「対価」
スバルは眉を寄せる。
「何を払えばいい」
「物でいい」
「物?」
「君にとって意味のあるものが望ましい。価値は、金銭ではなく感情で決まる」
スバルは自分の持ち物を探った。
何かあるか。
剣もない。
金目の物もない。
そこで、指先が布に触れた。
白いスカーフ。
ペトラが、出発前に手首へ巻いてくれたもの。
不器用な結び目。
小さな手。
お守りです、と言った少女の顔。
絶対、戻ってきてくださいね、と言った声。
スバルの手が止まる。
「……これかよ」
「それがいい」
エキドナは即答した。
スバルは、白い布を握る。
ペトラの顔が浮かぶ。
小さな手。
笑顔。
そして、前のループで手だけになった感触。
喉が詰まる。
「これを渡せば、記憶を持ち帰れるのか」
「そうだね。正確には、僕が受け取るのはそれに宿る意味だ。現実の物自体が消えるわけではない」
「ややこしいな」
「魔女との取引とは、そういうものだよ」
スバルは、白いスカーフを見つめた。
ペトラ。
絶対に助ける。
これを対価にすることが、彼女を捨てることにならないように。
むしろ、彼女を救うために。
スバルは、白い布を差し出した。
「持ってけ」
エキドナは、それを受け取る仕草をした。
現実の布は、スバルの手元に残っている。
けれど、何かが少しだけ抜けたような感覚があった。
思い出が消えたわけではない。
ただ、その重みの一部を、魔女に触れられたような感覚。
「確かに受け取った」
エキドナは満足そうに言った。
「これで、君はここでのことを覚えて現実へ戻れる」
「……悪趣味な対価だな」
「君が大切にしているからこそ、価値がある」
「やっぱり悪趣味だ」
「強欲だからね」
エキドナは微笑む。
その笑みは白く、甘く、危うかった。
「それと、ナツキ・スバル」
「何だ」
「君に伝えておくべきことがある。けれど、今の君はもう戻る時間だ」
「おい、待てよ。そういう言い方が一番困るんだよ」
「困るだろうね」
「わざとか」
「もちろん」
エキドナは、少しだけ楽しそうに笑った。
「次に君がここへ来る時、君はまた選ぶことになる。その時、今日のことを覚えているかどうかは大きい」
「……」
「だから、忘れないように。ナツキ・スバル。君が吐き出したものも、手に入れたものも、すべて君のものだ」
白い世界が、少しずつ薄れていく。
茶会が終わる。
現実へ戻る。
スバルは立ち上がろうとして、最後にエキドナを見た。
「エキドナ」
「なんだい?」
「聞いてくれて、助かった」
エキドナの目が、わずかに細まる。
「それは、感謝かな」
「……そうだよ」
「なら、受け取っておこう」
エキドナは楽しそうに笑った。
「また会おう、ナツキ・スバル」
白が消える。
茶会が遠ざかる。
スバルの意識は、現実へ引き戻された。
目を開ける。
墓所の外。
夜の空気。
地面の冷たさ。
そして、違和感。
静かすぎる。
誰もいない。
いや、違う。
いる。
黒いものが、聖域を覆っていた。
影。
粘つくような黒い影が、地面を這い、建物を包み、木々を呑み込んでいる。
スバルの背筋が凍った。
「なんだ、これ……」
声が掠れる。
影の中から、人影が現れた。
黒い外套。
顔は見えない。
けれど、わかる。
その存在だけで、心臓が潰れそうになる。
影の女が、スバルへ手を伸ばす。
そして、囁いた。
「愛してる」
その言葉が、耳に入った瞬間、全身が硬直した。
「愛してる」
影が近づく。
「愛してる」
一歩。
また一歩。
「愛してる」
何度も。
何度も。
同じ言葉。
優しいはずの言葉。
けれど、そこには逃げ場のない執着があった。
「愛してる」
スバルは動けない。
死に戻りを口にした。
茶会で。
エキドナの城で。
それでも、届いたのか。
罰なのか。
嫉妬なのか。
影が、スバルを抱きしめようとする。
その瞬間、横から何かが飛び込んだ。
「ボケっとしてんじゃねぇ!」
ガーフィールだった。
スバルの体が乱暴に引きずられる。
影の腕が空を切る。
次の瞬間、スバルはガーフィールに抱えられ、屋根の上へ投げ出されるように連れていかれていた。
「がっ……!」
「黙ってろ」
ガーフィールの顔は青ざめていた。
あのガーフィールが。
強がりも、皮肉もなく。
ただ、明らかに警戒している。
「何だよ、あれ……」
スバルは震える声で言った。
白が消える。
茶会が遠ざかる。
スバルの意識は、現実へ引き戻された。
目を開ける。
墓所の外。
夜の空気。
地面の冷たさ。
そして、違和感。
静かすぎる。
誰もいない。
いや、違う。
いる。
黒いものが、聖域を覆っていた。
影。
粘つくような黒い影が、地面を這い、建物を包み、木々を呑み込んでいる。
スバルの背筋が凍った。
「なんだ、これ……」
声が掠れる。
人の声がしない。
ついさっきまで、そこにいたはずの気配がない。
エミリア。
オットー。
ラム。
ユイ。
ガーフィール。
リューズ。
聖域の住人たち。
名前を思い浮かべるたび、胸の奥が冷たくなっていく。
黒い影は、ただ広がっているだけではなかった。
生き物のように蠢き、這い、飲み込み、何もかもを自分の内側へ引きずり込んでいる。
「エミリア……?」
呼んだ。
返事はない。
「ユイさん……?」
返事はない。
代わりに、影の奥から何かが現れた。
黒い外套。
顔は見えない。
けれど、その存在だけで、スバルの心臓が潰れそうになる。
近づいてくる。
一歩。
また一歩。
影を連れて。
世界を黒く塗り潰しながら。
そして、囁いた。
「愛してる」
その言葉が、耳に入った瞬間、全身が硬直した。
「愛してる」
影が近づく。
「愛してる」
一歩。
また一歩。
「愛してる」
何度も。
何度も。
同じ言葉。
優しいはずの言葉。
けれど、そこには逃げ場のない執着があった。
それは、愛ではなく鎖だった。
温もりではなく、底なしの沼だった。
「愛してる」
スバルは動けない。
死に戻りを口にした。
茶会で。
エキドナの夢の城で。
それでも、届いたのか。
罰なのか。
嫉妬なのか。
あの影は、スバルへ向かって手を伸ばしてくる。
抱きしめようとしている。
包み込もうとしている。
逃がさないと告げるように。
その瞬間、横から何かが飛び込んだ。
「ボケっとしてんじゃねぇ!」
乱暴な声。
ガーフィールだった。
スバルの体が、強引に引きずられる。
影の腕が、空を切った。
「がっ……!」
「黙ってろ、噛み殺されてぇのか!」
次の瞬間、スバルはガーフィールに抱えられ、地面を蹴って跳び上がっていた。
風が顔を打つ。
屋根の上へ。
さらに高い場所へ。
ガーフィールは、スバルを乱暴に放り出すように降ろした。
スバルは屋根瓦の上に転がり、咳き込む。
「何だよ、あれ……」
震える声で問う。
ガーフィールは答えない。
答えられないのか。
答えたくないのか。
あのガーフィールが、青ざめた顔で影を見下ろしていた。
強がりも、罵倒も、余裕もない。
獣じみた本能が、あれを危険だと叫んでいるのだ。
眼下で、黒い影が聖域を呑んでいく。
家が沈む。
木々が沈む。
地面が黒く塗り潰される。
人の気配は、もうほとんど残っていない。
「エミリア……オットー……ラム……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
「ユイさん……!」
声を張り上げる。
それでも、返事はない。
影は、答えの代わりに蠢くだけだった。
そして、黒い外套の女が顔を上げる。
顔は見えない。
けれど、スバルを見ている。
間違いなく。
ただ、スバルだけを。
「愛してる」
また、その言葉。
耳に入るたび、心臓が冷たく握られる。
スバルは震えながら、茶会の記憶を思い出す。
死に戻りを口にした。
エキドナに聞かせた。
誰にも言えなかった秘密を、ついに吐き出した。
その代償のように、現実では黒い影が広がっている。
ただし、今のスバルには、何が起きたのか正確にはわからない。
ロズワールがどうなったのかも。
エミリアがどうなったのかも。
ユイがどこにいるのかも。
誰が生きていて、誰がもう呑まれたのかも。
わからない。
ただ一つだけ、わかることがある。
これは、自分を求めている。
自分だけを見ている。
自分を逃がすつもりがない。
「……サテラ」
唇が、勝手にその名を形作った。
ガーフィールが鋭くスバルを見る。
「てめぇ、今なんつった」
「……」
「答えろ。あれが何なのか、てめぇ知ってんのか」
スバルは答えられない。
知らない。
知っている。
どちらも正しい。
どちらも言えない。
黒い影は、屋根の下でさらに広がっていく。
そして、ゆっくりと向きを変えた。
聖域の奥へ。
屋敷のある方角へ。
何かを探すように。
何もかもを呑み込みながら。
「まずい……」
スバルは呟いた。
「このままだと、全部……」
ガーフィールが歯を食いしばる。
「言われなくてもわかってんだよ」
影の中から、また声がした。
「愛してる」
逃げ場のない愛。
世界を呑む嫉妬。
スバルは、ガーフィールに掴まれたまま、その声を聞いていた。
白い茶会でようやく吐き出した秘密は、現実に戻った瞬間、黒い影となって彼を追いかけてきた。
何が起きているのか、まだわからない。
誰が無事なのかも、わからない。
ただ、世界がまた壊れ始めていることだけは、嫌というほどわかった。