影が、聖域を呑んでいた。
黒い。
あまりにも黒い。
夜の闇ではない。
光が届かないのではなく、光そのものを食い潰しているような黒だった。
家々が沈む。
木々が沈む。
地面が黒に塗り潰される。
人の声も、足音も、息遣いも、すべてが飲み込まれていく。
「愛してる」
その声だけが、消えなかった。
「愛してる」
耳元で囁かれているようで、世界そのものが同じ言葉を繰り返しているようでもあった。
「愛してる」
スバルは、動けなかった。
目の前にいる黒い外套の女。
顔は見えない。
けれど、その存在だけで、心臓が鷲掴みにされる。
近づいてくる。
一歩。
また一歩。
影を連れて。
世界を塗り潰しながら。
「――ボケっとしてんじゃねぇ!」
横合いから、荒々しい声が飛んだ。
ガーフィールだった。
スバルの体が乱暴に引っ掴まれ、視界がひっくり返る。
次の瞬間には、屋根の上へ放り投げられるように運ばれていた。
「がっ……!」
「黙ってろ! 舌噛むぞ!」
ガーフィールは獣じみた動きで屋根を蹴り、壁を蹴り、黒い影から距離を取る。
眼下では、影がなおも広がっていた。
聖域の家々が沈む。
森が沈む。
人の気配が消えていく。
「何だよ、あれ……!」
スバルの声は震えていた。
ガーフィールは答えない。
ただ、その顔は青ざめていた。
あのガーフィールが。
強がりも、罵倒も忘れて、黒い影を睨んでいる。
獣としての本能が、あれを危険だと叫んでいるのだ。
「エミリア……オットー……ラム……ユイさん……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
誰の声もない。
すべてが影に呑まれていく。
「レム……ペトラ……フレデリカ……ベア子……」
届くはずのない名前まで、喉から漏れた。
屋敷は遠い。
ここからでは見えない。
けれど、黒い影は聖域を呑み込んでいる。
このまま何もできなければ、どこまで広がるのかもわからない。
「ふざけんな……」
スバルの喉が震えた。
「俺、茶会で……やっと、やっと……」
「茶会?」
ガーフィールの耳が、その言葉を拾った。
「てめぇ、何の話してやがる」
「……」
「さっきも言ってたな。サテラって。あれが何なのか、てめぇ知ってんのか」
スバルは答えられない。
知っている。
知らない。
どちらも正しい。
どちらも言えない。
ガーフィールの鼻が、ひくりと動いた。
その顔が、さらに険しくなる。
「やっぱり臭ぇ」
「……」
「てめぇ、さっきよりずっと臭ぇぞ。魔女の臭いだ。魔女教徒どもからする、あの胸糞悪ぃ臭い」
スバルの息が詰まる。
ガーフィールは、スバルの胸ぐらを掴みかけて、影を警戒して手を止めた。
「言え。てめぇ、魔女教と何か関係あんのか」
「違う」
「即答かよ」
「違う。それだけは違う」
「じゃあ、何でそんな臭いさせてやがる」
「……言えない」
ガーフィールの目が細くなる。
「またそれか」
「悪い」
「悪いで済むかよ。てめぇが黙ってる間に、全部呑まれてんだぞ」
返す言葉はなかった。
その時、森の奥から足音が響いた。
揃いすぎた足音。
同じ歩幅。
同じ速度。
同じ呼吸。
まるで、いくつもの人形が同じ命令で動いているような音だった。
現れたのは、リューズだった。
一人ではない。
二人。
三人。
十人。
同じ顔。
同じ背丈。
同じ姿の少女たちが、森から無言で出てくる。
リューズの複製体。
彼女たちは何も言わなかった。
叫ばない。
怯えない。
ただ、影へ向かって並ぶ。
ガーフィールが奥歯を噛み鳴らした。
「……やるしかねぇか」
「ガーフィール、何を――」
「黙って見てろ」
ガーフィールの体が軋んだ。
骨が鳴る。
筋肉が膨れ上がる。
黄金の毛が肌を覆う。
少年の姿が、巨大な獣へ変わっていく。
虎とも獅子ともつかない、圧倒的な魔獣の姿。
獣化したガーフィールが、黒い影に向かって咆哮した。
同時に、リューズ複製体たちが走り出す。
無言で。
無表情で。
影の中へ。
一体目が飛び込んだ瞬間、白い光が爆ぜた。
魔力の爆発。
複製体の体そのものを弾けさせるような、自爆。
影の表面が一瞬だけ押し返される。
だが、すぐに黒が戻る。
二体目。
三体目。
四体目。
無言の少女たちが、次々と影へ身を投げる。
光が弾ける。
黒が呑む。
光が弾ける。
黒が呑む。
「やめろ……」
スバルの喉から、掠れた声が漏れた。
「やめろよ……!」
誰にも届かない。
リューズたちは答えない。
ガーフィールも振り返らない。
黄金の獣が影へ突っ込む。
爪が黒を裂く。
牙が黒に食らいつく。
だが、影は傷ついたそばから埋まっていく。
黒い腕が伸びた。
ガーフィールの脚へ絡みつく。
獣化した巨体が暴れる。
だが、次の影が背へ巻きつき、首へ巻きつき、胴を締め上げる。
ガーフィールが吠えた。
怒り。
恐怖。
悔しさ。
全部を込めた咆哮。
だが、その口を黒い影が塞いだ。
黄金の獣が、黒に沈む。
「ガーフィール!」
スバルは叫んだ。
返事はない。
リューズ複製体たちも、もうほとんど残っていない。
最後の一体が、無言で影へ身を投げた。
白い光。
そして、黒。
世界には、スバルと影だけが残った。
黒い外套の女が近づいてくる。
「愛してる」
「来るな……」
「愛してる」
「来るなって言ってんだろ……!」
スバルは後ずさる。
だが、逃げ場はない。
影が足首に絡みつく。
冷たい。
重い。
触れられた場所から、自分という輪郭が溶け出すようだった。
「愛してる」
影がスバルを包む。
視界が黒くなる。
耳元で、声が何度も繰り返される。
「愛してる」
「愛してる」
「愛してる」
黒の中で、記憶が流れ込んでくる。
聖域の古い記憶。
結晶の中で眠る少女。
リューズ・メイエル。
同じ顔の複製体。
古い実験場。
墓所。
試練。
強欲の使徒。
知らないはずのものが、黒い影の中でスバルの内側へ流れ込んでくる。
そして、それらを塗り潰すように、声が響く。
「愛してる」
愛している。
だから、全部いらない。
愛している。
だから、君だけいればいい。
愛している。
だから、君以外を呑み込む。
「ふざ、けんな……」
スバルは、黒の中で歯を食いしばった。
これは愛じゃない。
こんなものを認めてたまるか。
エミリアがいた。
レムがいた。
オットーがいた。
ラムがいた。
ガーフィールがいた。
ユイがいた。
ペトラがいた。
フレデリカがいた。
ベアトリスがいた。
みんながいた。
自分だけが残ればいいなんて、そんな結末を認めるものか。
手首に、布の感触があった。
ペトラの白いスカーフ。
柔らかかった布が、黒の中で硬く変じる。
布の端が、氷の刃のように鋭くなった。
スバルは、それを握った。
死ねる。
そう理解した瞬間、黒い声が揺れた。
「愛してる」
スバルは、泣きそうな顔で笑った。
「悪いな」
誰に言ったのか、自分でもわからない。
ペトラへか。
レムへか。
エミリアへか。
ユイへか。
それとも、この影の中で自分を抱きしめようとする女へか。
「俺は、お前だけのものにはならない」
鋭く変じた白い布を、自分の喉へ突き立てた。
熱いものが溢れる。
息が詰まる。
影が強くスバルを抱きしめた。
逃がすまいとするように。
拒むように。
「愛してる」
声が変わった。
黒い外套の向こうで、誰かが泣いたような気がした。
スバルは、最後の力でその外套へ手を伸ばした。
指が布を掴む。
引く。
黒い外套が、ずれた。
その下の顔が見えた。
銀の髪。
紫紺の瞳。
涙に濡れた顔。
エミリアと同じ顔。
けれど、違う。
そこにいるのは、嫉妬の魔女。
サテラ。
「……エミリア……?」
違う。
似ているだけだ。
でも、似すぎている。
だから、胸が痛い。
サテラは泣いていた。
泣きながら、スバルを見ている。
「愛してる」
今度の声は、黒い呪いではなく、痛いほどの願いに聞こえた。
スバルの意識が薄れていく。
死が近い。
戻る。
また戻る。
けれど、一つだけ、今度は違った。
スバルは、その涙を見た。
サテラの顔を見た。
だから、言った。
「……お前も、救ってやる」
声になったかどうかはわからない。
それでも、言った。
「絶対……救ってやる」
サテラの瞳が揺れた。
スバルの視界が黒に沈む。
死ぬ。
死んだ。
そして。
「――っ!」
目を開けた瞬間、スバルは喉を押さえた。
呼吸ができない。
喉に傷はない。
血もない。
けれど、突き刺した感触だけが残っている。
白いスカーフは、手首に巻かれたままだ。
柔らかい布に戻っている。
ペトラの結び目も、そのまま。
場所は墓所。
冷たい石の床。
傍らには、エミリアがいる。
倒れている。
いや、眠っているだけだ。
試練の後。
第一の試練を終え、戻ってきた直後。
スバルは、震える手でエミリアへ触れようとした。
だが、指が止まった。
サテラの顔が重なる。
同じ銀の髪。
同じ紫紺の瞳。
泣いていた顔。
エミリアではない。
ここにいるのはエミリアだ。
わかっている。
わかっているのに、手が動かない。
「スバルくん」
入口側から声がした。
ユイだった。
墓所の壁際に立っている。
エミリアの試練を邪魔しない距離で、けれど何かあればすぐに動ける位置。
彼女はスバルの顔を見て、すぐに異変を悟った。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
嘘をつく余裕はなかった。
ユイは近づきかけて、止まった。
「触っていい?」
「少し、待ってくれ」
「わかった」
それだけ言って、ユイは距離を保った。
踏み込まない。
問い詰めない。
けれど、離れない。
その距離が、今はありがたかった。
「スバル……?」
エミリアが目を覚ました。
ぼんやりとした紫紺の瞳が、スバルを見上げる。
また、サテラの涙が重なる。
スバルは喉を鳴らした。
「スバル?」
エミリアは、自分の震えより先に、スバルの異変に気づいた。
「どうしたの? すごく……怖い顔してる」
「違う」
スバルはすぐに言った。
「違うんだ。エミリアが怖いんじゃない。俺が……俺が、ちょっと、駄目になってるだけで」
「スバルが?」
「ああ」
声が掠れる。
「悪い。今、ちゃんとできない」
エミリアはしばらく黙っていた。
それから、自分の震えを押し殺すようにして、スバルの方へ膝を寄せた。
「私、今はたぶん、スバルに慰めてもらう方だと思ってた」
「……そうだな」
「でも、スバルの方が、泣きそう」
「泣いてねえよ」
「泣きそう」
否定できなかった。
エミリアは、ゆっくり手を伸ばす。
スバルが逃げないように。
怖がらせないように。
その指先が、スバルの頬へ触れた。
「大丈夫?」
その一言で、胸の奥が崩れそうになった。
「……大丈夫じゃない」
スバルは小さく答えた。
エミリアの瞳が揺れる。
「でも」
スバルは息を吐いた。
「大丈夫にする」
「……無理してる」
「してる」
「そこは否定しないの?」
「否定できるほど、余裕がない」
エミリアは、困ったように眉を下げた。
その表情は、サテラではなかった。
エミリアだった。
優しくて、不器用で、傷つきやすくて、それでも誰かを心配できるエミリア。
スバルは、ようやく少しだけ息を吸えた。
「悪い、エミリア」
「謝らなくていいよ」
「いや、謝らせてくれ。俺、今はちゃんとお前を支えられない」
「うん」
「でも、戻る。ちゃんと戻るから」
「……うん」
エミリアは頷いた。
その頷きに押されるように、スバルは立ち上がった。
ユイが横に並ぶ。
「歩ける?」
「ああ」
「嘘?」
「半分」
「なら、半分は支える」
「頼む」
墓所を出ると、外にはオットーがいた。
ガーフィールの姿はない。
ラムも、少し離れた場所へ向かったらしく、今は見当たらない。
オットーはスバルを見るなり、ぎょっとした顔になった。
「スバルさん、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃない」
「即答しないでください!」
「でも、動ける」
「それ、大丈夫とは言わないんです」
「知ってる」
スバルは短く息を吐いた。
今、起こることは言わない。
黒い影のことも。
サテラのことも。
死に戻りのことも。
そして、森の奥にある施設のことも。
言えば、説明が必要になる。
説明すれば、言えないものに触れる。
だから、何も言わない。
オットーは何か言いたげだったが、スバルの顔を見て口を閉じた。
「……休んだ方がいいですよ」
「ああ。少し、外の空気を吸ってくる」
「それ、本当に休む気あります?」
「あるように見えるか?」
「ないです」
「正直だな」
「スバルさん相手には正直でいた方がいい気がしてきました」
スバルは、ほんの少しだけ笑った。
それからエミリアを見る。
「少しだけ外に出る。すぐ戻る」
「……うん」
エミリアは不安そうだった。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「戻ってきてね」
「ああ」
ユイは黙ってスバルの隣に立った。
オットーがそれに気づく。
「ユイさんも?」
「ええ。少し空気を吸ってくるわ」
「……二人とも、変なことしないでくださいね」
「努力する」
「そこは断言してください!」
スバルは答えず、墓所から離れた。
しばらく歩いたところで、木立の影にラムの姿が見えた。
村の方へ戻る途中だったのか、彼女は一人で立っていた。
「ラム」
「何かしら、バルス」
「少し頼みがある」
「嫌よ」
「まだ何も言ってねえ」
「バルスの頼みは、大体面倒だから」
「今回は本当に面倒だ」
「なおさら嫌ね」
それでもラムは、歩き去らなかった。
スバルは声を落とす。
「ガーフィールを見ていてくれ」
ラムの表情が、わずかに変わる。
「見ている、とは?」
「俺が少し動く。あいつに邪魔されたくない。もし追ってきそうなら、止めてほしい」
「理由は?」
「今、あいつに来られると話がこじれる」
「バルスが何かを隠しているから?」
「そうだ」
正面から認めると、ラムは目を細めた。
「随分と素直ね」
「嘘を増やすなって言われたばかりだからな」
ユイが横で黙っている。
ラムは二人を見比べ、小さく息を吐いた。
「いいわ。ガーフの相手はラムがする」
「助かる」
「ただし、バルス」
「なんだ」
「ラムはあなたを信用したわけではないわ」
「わかってる」
「ロズワール様のため、エミリア様のため、そして状況が面倒だから動くだけよ」
「十分だ」
ラムはそれ以上聞かなかった。
スバルも、これ以上は言わなかった。
森の奥へ進む。
サテラに呑まれた時に得た記憶。
それを頼りに、奥へ進む。
苔むした石。
古い入口。
半ば地面に埋もれた扉。
スバルは懐から石を取り出した。
フレデリカから渡された石。
扉の前の窪みに、それを置く。
淡い光が灯る。
紋様が浮かび上がる。
重い扉が、低い音を立てて開いた。
「……開いた」
ユイが呟く。
「やっぱり、鍵だった」
中へ入る。
石造りの通路。
古い魔法の匂い。
奥へ進むほど、気配が濃くなる。
そして、見えた。
リューズと同じ顔をした少女たち。
壁際に立つ個体。
椅子に座ったまま動かない個体。
目を閉じ、眠っているような個体。
誰も話さない。
誰も感情を見せない。
人形のようで、人の形をしていた。
スバルは息を詰める。
影の中で見た少女たちと、同じ顔。
問いかけたいことがあった。
だが、飲み込んだ。
今ここで話すべきではないことがある。
知らないはずのことを、知っているように口にすれば、また何かが歪む。
ユイは黙っていた。
けれど、その横顔は硬い。
彼女は、ここに何があるのか知っていた。
原作の流れを、すべて知っている。
リューズ・メイエル。
複製体。
強欲の使徒。
ガーフィールが抱える過去。
いずれスバルがぶつかる、いくつもの壁。
知っている。
知っているからこそ、何も言えなかった。
ここで自分が口を滑らせれば、スバルの選択が変わる。
ガーフィールの傷を、本人のいない場所で暴くことになる。
リューズたちの四百年を、軽い解説にしてしまう。
それは違う。
ユイは、唇を結ぶ。
自分はただの観客では終わらない。
だが、何でも先に言えばいいわけではない。
守るために、黙る。
その選択もまた、介入だった。
さらに奥へ進む。
広い空間。
巨大な結晶。
その中に、一人の少女が眠っていた。
リューズと同じ顔。
だが、どの複製体とも違う。
「……リューズ・メイエル」
スバルが呟く。
その時、背後から声がした。
「そこまで辿り着いたなら、話さねばならぬようじゃな」
振り返る。
リューズがいた。
片方は、いつもの老成した雰囲気のリューズ。
もう片方は、無機質でありながら、先ほどの無言の複製体とは違っていた。
言葉と意思を持つ個体。
「そこにおるのが、原初。リューズ・メイエルじゃ」
リューズは結晶を見上げる。
「わしらは、あの子をもとにして作られた複製体。器を作り、役目を与えられたもの」
「複製体……」
「外に並んでいた者らは下位の複製体じゃ。命令を受け、役割を果たすための器。強い自我は持たぬ」
スバルは拳を握った。
だが、それ以上は聞かない。
今は、知るべきことと、聞くべきでないことを分ける。
「俺は、どうしてここに入れた」
「そなたが、強欲の使徒となったからじゃ」
「強欲の……使徒?」
「エキドナ様の茶を受け入れた者。エキドナ様と繋がり、我ら複製体への一定の命令権を得た者」
「俺が、命令権を……」
「そうじゃ。ただし、万能ではない。制約もある。そなたの言葉が、我らにとって無視しがたいものとなった、という程度に受け取るがよい」
ユイがスバルを横目で見る。
スバルは短く頷いた。
「……便利な力みたいに思うなってことだな」
「そう受け取れるなら、十分じゃ」
リューズは、結晶へ視線を戻した。
「ここは、聖域と呼ばれる前、エキドナ様の実験場じゃった。命を保存し、魂を器へ移す研究。その礎として、このリューズ・メイエルがここにある」
「礎……」
「細かな事情を、今すべて語ることはできぬ。語るべき相手も、時も、まだ違う」
その言い方に、スバルは踏み込みかけた言葉を止めた。
ここで聞きすぎてはいけない。
今のリューズが話す範囲は、ここまでだ。
「ガーフィールも、強欲の使徒なのか」
それだけは聞いた。
リューズは静かに頷く。
「そうじゃ。あの子も墓所に入り、エキドナ様に触れた」
「試練を受けたから」
「そうじゃ」
「何を見たかは?」
「それは、わしから語ることではない」
即答だった。
スバルは頷く。
「わかった」
「そなたが何を見たのかも、わしは聞かぬ。だが、ここへ辿り着いた以上、無関係ではおれぬ」
「無関係では、か」
「そうじゃ。聖域にいる者は、皆どこかで繋がっておる。そなたがその一端を見たというだけのこと」
リューズの言葉は、そこで止まった。
ベアトリスの名は出ない。
ロズワールの意図も語られない。
今ここで、そこまで踏み込む場面ではない。
スバルは、結晶の中のリューズ・メイエルをもう一度見た。
そして、静かに息を吐く。
「ありがとう。リューズさん」
「礼を言われるほどのことではない」
「それでもだ」
リューズは、少しだけ目を細めた。
施設を出る頃には、夜はさらに深くなっていた。
森を戻る途中、スバルはエミリアと出会った。
彼女は一人で立っていた。
月明かりの下、白い髪が淡く光っている。
顔色は悪い。
けれど、スバルを見ると、少しだけ表情を緩めた。
「スバル」
「エミリア」
真面目な声で名を呼ぶ。
エミリアは、スバルの顔を覗き込む。
「また、怖い顔してる」
「そうか?」
「うん。すごーく」
困ったように笑う。
「私の方が、心配される側のはずなのにね」
「心配してるよ」
「でも、スバルも心配」
スバルは何も返せなかった。
「私、試練が怖い」
「ああ」
「何を見たのか、全部は言えない。でも、すごく怖かった。自分が自分じゃなくなるみたいで……もう一度行くのが、怖い」
「怖くていい」
スバルは言った。
「怖いのを、なかったことにしなくていい」
「……」
「俺も怖い。正直、怖いことだらけだ」
エミリアの瞳が揺れる。
スバルは白いスカーフに触れた。
「でも、怖いままでも、進まなきゃいけない時がある」
「スバルは、進めるの?」
「進む」
「無理してない?」
「してる」
「また否定しないんだ」
「否定できる余裕がない」
エミリアは少し笑った。
その笑顔を見て、サテラの顔が少し遠ざかる。
「俺は、エミリアを信じてる」
スバルは言った。
「でも、今は俺にもやらなきゃいけないことがある。だから、少しだけ待っててくれ」
「……どこかへ行くの?」
スバルは答えなかった。
エミリアはその沈黙を見て、小さく息を吐く。
「スバルは、隠し事が多いね」
「悪い」
「うん。悪い」
意外な返しに、スバルは目を丸くした。
エミリアは少し頬を膨らませる。
「でも、今は怒らない。帰ってきたら、ちゃんと話して」
「ああ」
「約束」
「約束する」
その夜、スバルはほとんど眠れなかった。
部屋の外には、ユイがいた。
「寝られそう?」
「寝る努力をする」
「なら、努力して」
「厳しいな」
「甘い言葉をかけると、あなたは無茶の理由にするから」
「否定しづらい」
少し沈黙が落ちる。
「帰ってきてから話して」
「全部じゃなくていいんだろ」
「ええ。言える分だけでいい」
「わかった」
「約束が増えたわね」
「重いな」
「増やしたのはあなたよ」
翌朝。
まだ聖域が薄暗いうちに、スバルは起きた。
エミリア宛の手紙を書く。
勝手に屋敷へ戻ること。
必ず戻ること。
試練を一人で抱え込むなということ。
最後に一文。
――約束は守る。
紙を畳み、見つけやすい場所へ置いた。
外に出ると、パトラッシュが待っていた。
ユイもいた。
「やっぱり、一人で行くのね」
「止めるか?」
「止めても行くでしょう」
「行く」
「なら、見送る」
ユイは白いスカーフを見る。
「帰らないとね」
「帰るよ」
「嘘にしないで」
「するつもりはない」
ユイは、そう言うスバルを見上げた。
彼女は、これからの流れを知っている。
この朝のガーフィールとの衝突。
屋敷へ戻ること。
ペトラたちの避難。
禁書庫。
ベアトリス。
そして、ここから先も、まだ終わりではないこと。
知っている。
だからこそ、怖かった。
知識は万能ではない。
むしろ、知っているほどに、言えないことが増える。
今、彼に「ガーフィールはあなたを魔女教の関係者だと疑っている」と言えば、スバルは構える。
構えれば、会話の形が変わる。
必要な衝突が、違うものになる。
逆に黙れば、彼は傷つく。
そのどちらも、ユイにはわかっていた。
だから、彼女は選ぶ。
黙って、見送る。
ただし、何もしないのではない。
目を離さない。
戻ってきた時に、受け止められるように。
「スバルくん」
「ん?」
「ガーフィールさんは、あなたを簡単には通さないと思う」
「だろうな」
「疑っているわ。あなたの匂いを」
スバルの表情がわずかに硬くなった。
「魔女の臭いか」
「ええ」
「……そっか。まあ、そうだよな」
「でも、彼は敵じゃない」
「わかってる」
「敵じゃないけれど、牙は向ける。そういう人よ」
「うん。知ってる」
ユイはほんの少しだけ目を伏せた。
「なら、行って」
「止めないんだな」
「止めたら、あなたは止まる?」
「止まらない」
「だから、止めない」
ユイはパトラッシュの首を撫でた。
「連れて帰ってきて」
それは、スバルに言ったのか。
パトラッシュに言ったのか。
たぶん、両方だった。
パトラッシュに跨る。
その瞬間、前方に人影が立った。
ガーフィールだった。
腕を組み、道を塞いでいる。
昨日の墓所の前のような穏やかさはない。
明確な苛立ち。
獲物を前にした獣のような圧。
「どこ行く気だ」
「屋敷」
スバルは隠さなかった。
「一人でか」
「ああ」
「寝ぼけてんのか、てめぇ」
「起きてるよ。嫌になるくらいにな」
ガーフィールが一歩近づく。
鼻が、ひくりと動いた。
その目が、すぐに険しくなる。
「……臭ぇ」
低い声だった。
「やっぱり臭ぇ。てめぇ、昨日よりもさらにひでぇぞ」
「魔女の臭い、か」
スバルが言うと、ガーフィールの目が鋭くなった。
「なんでてめぇが自分でそれを言う」
「言われると思ったから」
「慣れてやがるのか?」
「……慣れたくはない」
ガーフィールは奥歯を噛む。
「魔女教徒どもと同じ臭いをさせてる奴が、勝手に聖域を抜ける。姫様に紙切れ一枚残して、屋敷へ行く。怪しむなって方が無理だろうが」
「怪しんでいい」
「あ?」
「疑っていい。でも、俺は行く」
「ふざけんな」
牙が剥き出しになる。
「てめぇは何も言わねぇ。何も見せねぇ。そのくせ勝手に動く。しかもその臭いだ。俺様に、てめぇが魔女教の関係者じゃねぇってどう信じろってんだよ」
「信じなくていい」
空気が凍った。
ガーフィールの眉が跳ねる。
「てめぇ、舐めてんのか」
「信じなくていい。今すぐ信じろなんて言わない」
スバルは、ガーフィールを見下ろした。
「でも、通してくれ」
「通すわけねぇだろ」
「なら、止めろ」
短い言葉。
ユイが息を呑む。
ガーフィールの低い唸りが、朝の空気を震わせた。
「俺様が本気で止めたら、てめぇなんざ一歩も進めねぇぞ」
「知ってる」
「なら、なんでそんな目をしてやがる」
「知ってるからだ」
「あ?」
「お前が強いのも、怖いのも、俺を止めようと思えば簡単に止められるのも知ってる。それでも、俺は行く」
「てめぇに、何がわかる」
「わからないことの方が多い」
「だったら黙って――」
「でも、地獄は知ってる」
スバルは、ガーフィールをまっすぐ見た。
「地獄なら知っている」
ガーフィールの動きが止まる。
「何もできずに見てるだけの地獄も、自分だけが残される地獄も、助けたい相手に手が届かない地獄も、自分の命を捨てなきゃ次に進めない地獄も、知ってる」
白いスカーフを握る。
「だから行く。知らないから逃げるんじゃない。知ってるから、二度と同じにしないために行く」
「……気に入らねぇ」
ガーフィールは低く言った。
「てめぇのその目、反吐が出るくらい気に入らねぇ」
「俺も気に入ってない」
「俺様は、てめぇを信じたわけじゃねぇ」
「わかってる」
「その臭いも、てめぇの隠し事も、何一つ納得してねぇ」
「それでいい」
「よくねぇよ!」
ガーフィールの怒声が響いた。
「よくねぇに決まってんだろうが! 何もわからねぇ奴を通して、何か起きたらどうすんだ! 姫様はどうなる! 聖域はどうなる!」
「戻ってきて、どうにかする」
「簡単に言うな!」
「簡単じゃない。でも、やる」
「根拠は」
「帰るって約束した」
スバルは白いスカーフを見せる。
「それだけで十分だ」
長い沈黙。
ガーフィールは拳を握った。
今にも殴りかかりそうな姿勢のまま、しかし道を塞ぐ足を半歩だけずらす。
「……勝手にしろ」
「いいのか」
「勘違いすんな。納得なんざしてねぇ」
「わかってる」
「てめぇが戻らなかったら、俺様が直々に噛み砕きに行く」
「戻らなかったら、できねえだろ」
「戻ってこいって言ってんだよ!」
怒鳴られた。
スバルは、一瞬だけ目を見開く。
ガーフィールは気まずそうに顔を歪め、そっぽを向いた。
「……さっさと行け。気が変わる前に」
「ああ」
スバルは手綱を握る。
「行くぞ、パトラッシュ」
黒い地竜が走り出す。
聖域の森を抜ける。
結界を越える。
背後に、ガーフィールとユイの姿が小さくなる。
ユイは手を振らなかった。
ただ、まっすぐ見ていた。
スバルの背中が遠ざかる。
原作で見た場面。
知っていたはずの一幕。
けれど、目の前で見るそれは、画面の向こうの出来事ではなかった。
彼の背中は小さい。
あまりにも小さい。
それでも、折れない。
折れそうになりながら、前へ進む。
ユイは唇を噛んだ。
この先に待つものを知っている。
エルザ。
屋敷。
禁書庫。
ベアトリス。
そして、まだいくつも残る失敗と選択。
知っている。
でも、彼が自分の足で行かなければ意味がない。
だから、ユイは見送る。
ただ見送るだけではない。
戻ってきた時、彼が倒れる場所になるために。
エミリアが壊れないように。
オットーが支えられるように。
ガーフィールが完全に敵にならないように。
ここで守る。
それが、今の自分の役目だった。
「……帰ってきて」
小さな声は、朝の森に溶けた。
スバルには届かない。
けれど、パトラッシュが一度だけ耳を動かしたように見えた。
ロズワール邸に着くと、屋敷は静かだった。
静かすぎる。
血の前触れのような静寂。
スバルは玄関へ走った。
「フレデリカ!」
扉を開ける。
すぐに足音が返ってきた。
「スバル様? お一人ですか?」
「ああ。説明は後だ」
「何が――」
「屋敷を出る準備をしてくれ。今すぐだ。村へ避難する」
フレデリカの表情が変わる。
「何かあったのですね」
「これから起きる」
フレデリカは、スバルの目を見た。
迷いは一瞬だった。
「承知しました」
「ペトラは?」
「厨房に」
「レムを運ぶ準備をしてくれ。まず村へ。距離を取るんだ」
「レム……スバル様が仰っていた、眠っている方ですね」
「ああ」
小さな足音が近づいた。
「スバル様?」
ペトラだった。
エプロン姿で、目を丸くしている。
スバルは胸が詰まりそうになった。
生きている。
手も、声も、顔も、全部ある。
「ペトラ」
「どうしたんですか? そんなに慌てて……」
「逃げるぞ。屋敷から出る。村へ行く。今すぐ」
ペトラは驚きながらも、スバルの手首を見た。
白いスカーフ。
「あ……ちゃんと、持っててくれたんですね」
「当たり前だ」
スバルはスカーフを握る。
「これのおかげで、帰ってきた」
ペトラの顔が少し赤くなる。
「そんな、大げさです」
「大げさじゃない」
スバルは真剣に言った。
「だから今度は、俺がちゃんと連れて帰る。ペトラも、レムも、フレデリカも」
ペトラは、小さく頷いた。
「はい」
フレデリカがすぐに指示を出す。
「ペトラ、最低限の荷物を。私はレム様を」
「はい!」
「スバル様は?」
「俺は、ベア子のところへ行く」
フレデリカの表情が強張る。
「ベアトリス様の禁書庫へ?」
「ああ」
「危険です」
「知ってる」
「なら――」
「でも、行く。ベア子も連れていく」
ロズワールの言った通りに、「その人」だと嘘をつくつもりはない。
けれど、ベアトリスを置いていくつもりもない。
あの禁書庫に。
あの空白の本に。
彼女を一人で縛り続けるつもりはない。
フレデリカは、短く息を吐いた。
「わかりました。どうか、ご無事で」
「そっちこそ」
スバルは廊下を走った。
扉。
扉。
扉。
禁書庫の扉は、どこにあるかわからない。
けれど、探す。
何度でも開ける。
「ベア子!」
扉を開ける。
違う。
「ベアトリス!」
また違う。
「いるんだろ! 出てこい!」
三つ目の扉に手をかけた瞬間、スバルは息を止めた。
扉の向こうから、本の匂いがした。
古い紙。
閉ざされた空気。
禁書庫。
心臓が、強く鳴る。
スバルは、扉を開けた。
薄暗い部屋。
無数の本棚。
そして、その中央に、小さな少女の影があった。
彼女は、驚いていなかった。
まるで、スバルが来ることを最初から知っていたように。
黒い本を抱きしめたまま、静かにそこに立っていた。