Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第四十一話 地獄なら知っている

 影が、聖域を呑んでいた。

 

 黒い。

 

 あまりにも黒い。

 

 夜の闇ではない。

 

 光が届かないのではなく、光そのものを食い潰しているような黒だった。

 

 家々が沈む。

 

 木々が沈む。

 

 地面が黒に塗り潰される。

 

 人の声も、足音も、息遣いも、すべてが飲み込まれていく。

 

「愛してる」

 

 その声だけが、消えなかった。

 

「愛してる」

 

 耳元で囁かれているようで、世界そのものが同じ言葉を繰り返しているようでもあった。

 

「愛してる」

 

 スバルは、動けなかった。

 

 目の前にいる黒い外套の女。

 

 顔は見えない。

 

 けれど、その存在だけで、心臓が鷲掴みにされる。

 

 近づいてくる。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 影を連れて。

 

 世界を塗り潰しながら。

 

「――ボケっとしてんじゃねぇ!」

 

 横合いから、荒々しい声が飛んだ。

 

 ガーフィールだった。

 

 スバルの体が乱暴に引っ掴まれ、視界がひっくり返る。

 

 次の瞬間には、屋根の上へ放り投げられるように運ばれていた。

 

「がっ……!」

 

「黙ってろ! 舌噛むぞ!」

 

 ガーフィールは獣じみた動きで屋根を蹴り、壁を蹴り、黒い影から距離を取る。

 

 眼下では、影がなおも広がっていた。

 

 聖域の家々が沈む。

 

 森が沈む。

 

 人の気配が消えていく。

 

「何だよ、あれ……!」

 

 スバルの声は震えていた。

 

 ガーフィールは答えない。

 

 ただ、その顔は青ざめていた。

 

 あのガーフィールが。

 

 強がりも、罵倒も忘れて、黒い影を睨んでいる。

 

 獣としての本能が、あれを危険だと叫んでいるのだ。

 

「エミリア……オットー……ラム……ユイさん……」

 

 名前を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 誰の声もない。

 

 すべてが影に呑まれていく。

 

「レム……ペトラ……フレデリカ……ベア子……」

 

 届くはずのない名前まで、喉から漏れた。

 

 屋敷は遠い。

 

 ここからでは見えない。

 

 けれど、黒い影は聖域を呑み込んでいる。

 

 このまま何もできなければ、どこまで広がるのかもわからない。

 

「ふざけんな……」

 

 スバルの喉が震えた。

 

「俺、茶会で……やっと、やっと……」

 

「茶会?」

 

 ガーフィールの耳が、その言葉を拾った。

 

「てめぇ、何の話してやがる」

 

「……」

 

「さっきも言ってたな。サテラって。あれが何なのか、てめぇ知ってんのか」

 

 スバルは答えられない。

 

 知っている。

 

 知らない。

 

 どちらも正しい。

 

 どちらも言えない。

 

 ガーフィールの鼻が、ひくりと動いた。

 

 その顔が、さらに険しくなる。

 

「やっぱり臭ぇ」

 

「……」

 

「てめぇ、さっきよりずっと臭ぇぞ。魔女の臭いだ。魔女教徒どもからする、あの胸糞悪ぃ臭い」

 

 スバルの息が詰まる。

 

 ガーフィールは、スバルの胸ぐらを掴みかけて、影を警戒して手を止めた。

 

「言え。てめぇ、魔女教と何か関係あんのか」

 

「違う」

 

「即答かよ」

 

「違う。それだけは違う」

 

「じゃあ、何でそんな臭いさせてやがる」

 

「……言えない」

 

 ガーフィールの目が細くなる。

 

「またそれか」

 

「悪い」

 

「悪いで済むかよ。てめぇが黙ってる間に、全部呑まれてんだぞ」

 

 返す言葉はなかった。

 

 その時、森の奥から足音が響いた。

 

 揃いすぎた足音。

 

 同じ歩幅。

 

 同じ速度。

 

 同じ呼吸。

 

 まるで、いくつもの人形が同じ命令で動いているような音だった。

 

 現れたのは、リューズだった。

 

 一人ではない。

 

 二人。

 

 三人。

 

 十人。

 

 同じ顔。

 

 同じ背丈。

 

 同じ姿の少女たちが、森から無言で出てくる。

 

 リューズの複製体。

 

 彼女たちは何も言わなかった。

 

 叫ばない。

 

 怯えない。

 

 ただ、影へ向かって並ぶ。

 

 ガーフィールが奥歯を噛み鳴らした。

 

「……やるしかねぇか」

 

「ガーフィール、何を――」

 

「黙って見てろ」

 

 ガーフィールの体が軋んだ。

 

 骨が鳴る。

 

 筋肉が膨れ上がる。

 

 黄金の毛が肌を覆う。

 

 少年の姿が、巨大な獣へ変わっていく。

 

 虎とも獅子ともつかない、圧倒的な魔獣の姿。

 

 獣化したガーフィールが、黒い影に向かって咆哮した。

 

 同時に、リューズ複製体たちが走り出す。

 

 無言で。

 

 無表情で。

 

 影の中へ。

 

 一体目が飛び込んだ瞬間、白い光が爆ぜた。

 

 魔力の爆発。

 

 複製体の体そのものを弾けさせるような、自爆。

 

 影の表面が一瞬だけ押し返される。

 

 だが、すぐに黒が戻る。

 

 二体目。

 

 三体目。

 

 四体目。

 

 無言の少女たちが、次々と影へ身を投げる。

 

 光が弾ける。

 

 黒が呑む。

 

 光が弾ける。

 

 黒が呑む。

 

「やめろ……」

 

 スバルの喉から、掠れた声が漏れた。

 

「やめろよ……!」

 

 誰にも届かない。

 

 リューズたちは答えない。

 

 ガーフィールも振り返らない。

 

 黄金の獣が影へ突っ込む。

 

 爪が黒を裂く。

 

 牙が黒に食らいつく。

 

 だが、影は傷ついたそばから埋まっていく。

 

 黒い腕が伸びた。

 

 ガーフィールの脚へ絡みつく。

 

 獣化した巨体が暴れる。

 

 だが、次の影が背へ巻きつき、首へ巻きつき、胴を締め上げる。

 

 ガーフィールが吠えた。

 

 怒り。

 

 恐怖。

 

 悔しさ。

 

 全部を込めた咆哮。

 

 だが、その口を黒い影が塞いだ。

 

 黄金の獣が、黒に沈む。

 

「ガーフィール!」

 

 スバルは叫んだ。

 

 返事はない。

 

 リューズ複製体たちも、もうほとんど残っていない。

 

 最後の一体が、無言で影へ身を投げた。

 

 白い光。

 

 そして、黒。

 

 世界には、スバルと影だけが残った。

 

 黒い外套の女が近づいてくる。

 

「愛してる」

 

「来るな……」

 

「愛してる」

 

「来るなって言ってんだろ……!」

 

 スバルは後ずさる。

 

 だが、逃げ場はない。

 

 影が足首に絡みつく。

 

 冷たい。

 

 重い。

 

 触れられた場所から、自分という輪郭が溶け出すようだった。

 

「愛してる」

 

 影がスバルを包む。

 

 視界が黒くなる。

 

 耳元で、声が何度も繰り返される。

 

「愛してる」

 

「愛してる」

 

「愛してる」

 

 黒の中で、記憶が流れ込んでくる。

 

 聖域の古い記憶。

 

 結晶の中で眠る少女。

 

 リューズ・メイエル。

 

 同じ顔の複製体。

 

 古い実験場。

 

 墓所。

 

 試練。

 

 強欲の使徒。

 

 知らないはずのものが、黒い影の中でスバルの内側へ流れ込んでくる。

 

 そして、それらを塗り潰すように、声が響く。

 

「愛してる」

 

 愛している。

 

 だから、全部いらない。

 

 愛している。

 

 だから、君だけいればいい。

 

 愛している。

 

 だから、君以外を呑み込む。

 

「ふざ、けんな……」

 

 スバルは、黒の中で歯を食いしばった。

 

 これは愛じゃない。

 

 こんなものを認めてたまるか。

 

 エミリアがいた。

 

 レムがいた。

 

 オットーがいた。

 

 ラムがいた。

 

 ガーフィールがいた。

 

 ユイがいた。

 

 ペトラがいた。

 

 フレデリカがいた。

 

 ベアトリスがいた。

 

 みんながいた。

 

 自分だけが残ればいいなんて、そんな結末を認めるものか。

 

 手首に、布の感触があった。

 

 ペトラの白いスカーフ。

 

 柔らかかった布が、黒の中で硬く変じる。

 

 布の端が、氷の刃のように鋭くなった。

 

 スバルは、それを握った。

 

 死ねる。

 

 そう理解した瞬間、黒い声が揺れた。

 

「愛してる」

 

 スバルは、泣きそうな顔で笑った。

 

「悪いな」

 

 誰に言ったのか、自分でもわからない。

 

 ペトラへか。

 

 レムへか。

 

 エミリアへか。

 

 ユイへか。

 

 それとも、この影の中で自分を抱きしめようとする女へか。

 

「俺は、お前だけのものにはならない」

 

 鋭く変じた白い布を、自分の喉へ突き立てた。

 

 熱いものが溢れる。

 

 息が詰まる。

 

 影が強くスバルを抱きしめた。

 

 逃がすまいとするように。

 

 拒むように。

 

「愛してる」

 

 声が変わった。

 

 黒い外套の向こうで、誰かが泣いたような気がした。

 

 スバルは、最後の力でその外套へ手を伸ばした。

 

 指が布を掴む。

 

 引く。

 

 黒い外套が、ずれた。

 

 その下の顔が見えた。

 

 銀の髪。

 

 紫紺の瞳。

 

 涙に濡れた顔。

 

 エミリアと同じ顔。

 

 けれど、違う。

 

 そこにいるのは、嫉妬の魔女。

 

 サテラ。

 

「……エミリア……?」

 

 違う。

 

 似ているだけだ。

 

 でも、似すぎている。

 

 だから、胸が痛い。

 

 サテラは泣いていた。

 

 泣きながら、スバルを見ている。

 

「愛してる」

 

 今度の声は、黒い呪いではなく、痛いほどの願いに聞こえた。

 

 スバルの意識が薄れていく。

 

 死が近い。

 

 戻る。

 

 また戻る。

 

 けれど、一つだけ、今度は違った。

 

 スバルは、その涙を見た。

 

 サテラの顔を見た。

 

 だから、言った。

 

「……お前も、救ってやる」

 

 声になったかどうかはわからない。

 

 それでも、言った。

 

「絶対……救ってやる」

 

 サテラの瞳が揺れた。

 

 スバルの視界が黒に沈む。

 

 死ぬ。

 

 死んだ。

 

 そして。

 

「――っ!」

 

 目を開けた瞬間、スバルは喉を押さえた。

 

 呼吸ができない。

 

 喉に傷はない。

 

 血もない。

 

 けれど、突き刺した感触だけが残っている。

 

 白いスカーフは、手首に巻かれたままだ。

 

 柔らかい布に戻っている。

 

 ペトラの結び目も、そのまま。

 

 場所は墓所。

 

 冷たい石の床。

 

 傍らには、エミリアがいる。

 

 倒れている。

 

 いや、眠っているだけだ。

 

 試練の後。

 

 第一の試練を終え、戻ってきた直後。

 

 スバルは、震える手でエミリアへ触れようとした。

 

 だが、指が止まった。

 

 サテラの顔が重なる。

 

 同じ銀の髪。

 

 同じ紫紺の瞳。

 

 泣いていた顔。

 

 エミリアではない。

 

 ここにいるのはエミリアだ。

 

 わかっている。

 

 わかっているのに、手が動かない。

 

「スバルくん」

 

 入口側から声がした。

 

 ユイだった。

 

 墓所の壁際に立っている。

 

 エミリアの試練を邪魔しない距離で、けれど何かあればすぐに動ける位置。

 

 彼女はスバルの顔を見て、すぐに異変を悟った。

 

「大丈夫?」

 

「……大丈夫じゃない」

 

 嘘をつく余裕はなかった。

 

 ユイは近づきかけて、止まった。

 

「触っていい?」

 

「少し、待ってくれ」

 

「わかった」

 

 それだけ言って、ユイは距離を保った。

 

 踏み込まない。

 

 問い詰めない。

 

 けれど、離れない。

 

 その距離が、今はありがたかった。

 

「スバル……?」

 

 エミリアが目を覚ました。

 

 ぼんやりとした紫紺の瞳が、スバルを見上げる。

 

 また、サテラの涙が重なる。

 

 スバルは喉を鳴らした。

 

「スバル?」

 

 エミリアは、自分の震えより先に、スバルの異変に気づいた。

 

「どうしたの? すごく……怖い顔してる」

 

「違う」

 

 スバルはすぐに言った。

 

「違うんだ。エミリアが怖いんじゃない。俺が……俺が、ちょっと、駄目になってるだけで」

 

「スバルが?」

 

「ああ」

 

 声が掠れる。

 

「悪い。今、ちゃんとできない」

 

 エミリアはしばらく黙っていた。

 

 それから、自分の震えを押し殺すようにして、スバルの方へ膝を寄せた。

 

「私、今はたぶん、スバルに慰めてもらう方だと思ってた」

 

「……そうだな」

 

「でも、スバルの方が、泣きそう」

 

「泣いてねえよ」

 

「泣きそう」

 

 否定できなかった。

 

 エミリアは、ゆっくり手を伸ばす。

 

 スバルが逃げないように。

 

 怖がらせないように。

 

 その指先が、スバルの頬へ触れた。

 

「大丈夫?」

 

 その一言で、胸の奥が崩れそうになった。

 

「……大丈夫じゃない」

 

 スバルは小さく答えた。

 

 エミリアの瞳が揺れる。

 

「でも」

 

 スバルは息を吐いた。

 

「大丈夫にする」

 

「……無理してる」

 

「してる」

 

「そこは否定しないの?」

 

「否定できるほど、余裕がない」

 

 エミリアは、困ったように眉を下げた。

 

 その表情は、サテラではなかった。

 

 エミリアだった。

 

 優しくて、不器用で、傷つきやすくて、それでも誰かを心配できるエミリア。

 

 スバルは、ようやく少しだけ息を吸えた。

 

「悪い、エミリア」

 

「謝らなくていいよ」

 

「いや、謝らせてくれ。俺、今はちゃんとお前を支えられない」

 

「うん」

 

「でも、戻る。ちゃんと戻るから」

 

「……うん」

 

 エミリアは頷いた。

 

 その頷きに押されるように、スバルは立ち上がった。

 

 ユイが横に並ぶ。

 

「歩ける?」

 

「ああ」

 

「嘘?」

 

「半分」

 

「なら、半分は支える」

 

「頼む」

 

 墓所を出ると、外にはオットーがいた。

 

 ガーフィールの姿はない。

 

 ラムも、少し離れた場所へ向かったらしく、今は見当たらない。

 

 オットーはスバルを見るなり、ぎょっとした顔になった。

 

「スバルさん、本当に大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫じゃない」

 

「即答しないでください!」

 

「でも、動ける」

 

「それ、大丈夫とは言わないんです」

 

「知ってる」

 

 スバルは短く息を吐いた。

 

 今、起こることは言わない。

 

 黒い影のことも。

 

 サテラのことも。

 

 死に戻りのことも。

 

 そして、森の奥にある施設のことも。

 

 言えば、説明が必要になる。

 

 説明すれば、言えないものに触れる。

 

 だから、何も言わない。

 

 オットーは何か言いたげだったが、スバルの顔を見て口を閉じた。

 

「……休んだ方がいいですよ」

 

「ああ。少し、外の空気を吸ってくる」

 

「それ、本当に休む気あります?」

 

「あるように見えるか?」

 

「ないです」

 

「正直だな」

 

「スバルさん相手には正直でいた方がいい気がしてきました」

 

 スバルは、ほんの少しだけ笑った。

 

 それからエミリアを見る。

 

「少しだけ外に出る。すぐ戻る」

 

「……うん」

 

 エミリアは不安そうだった。

 

 けれど、それ以上は聞かなかった。

 

「戻ってきてね」

 

「ああ」

 

 ユイは黙ってスバルの隣に立った。

 

 オットーがそれに気づく。

 

「ユイさんも?」

 

「ええ。少し空気を吸ってくるわ」

 

「……二人とも、変なことしないでくださいね」

 

「努力する」

 

「そこは断言してください!」

 

 スバルは答えず、墓所から離れた。

 

 しばらく歩いたところで、木立の影にラムの姿が見えた。

 

 村の方へ戻る途中だったのか、彼女は一人で立っていた。

 

「ラム」

 

「何かしら、バルス」

 

「少し頼みがある」

 

「嫌よ」

 

「まだ何も言ってねえ」

 

「バルスの頼みは、大体面倒だから」

 

「今回は本当に面倒だ」

 

「なおさら嫌ね」

 

 それでもラムは、歩き去らなかった。

 

 スバルは声を落とす。

 

「ガーフィールを見ていてくれ」

 

 ラムの表情が、わずかに変わる。

 

「見ている、とは?」

 

「俺が少し動く。あいつに邪魔されたくない。もし追ってきそうなら、止めてほしい」

 

「理由は?」

 

「今、あいつに来られると話がこじれる」

 

「バルスが何かを隠しているから?」

 

「そうだ」

 

 正面から認めると、ラムは目を細めた。

 

「随分と素直ね」

 

「嘘を増やすなって言われたばかりだからな」

 

 ユイが横で黙っている。

 

 ラムは二人を見比べ、小さく息を吐いた。

 

「いいわ。ガーフの相手はラムがする」

 

「助かる」

 

「ただし、バルス」

 

「なんだ」

 

「ラムはあなたを信用したわけではないわ」

 

「わかってる」

 

「ロズワール様のため、エミリア様のため、そして状況が面倒だから動くだけよ」

 

「十分だ」

 

 ラムはそれ以上聞かなかった。

 

 スバルも、これ以上は言わなかった。

 

 森の奥へ進む。

 

 サテラに呑まれた時に得た記憶。

 

 それを頼りに、奥へ進む。

 

 苔むした石。

 

 古い入口。

 

 半ば地面に埋もれた扉。

 

 スバルは懐から石を取り出した。

 

 フレデリカから渡された石。

 

 扉の前の窪みに、それを置く。

 

 淡い光が灯る。

 

 紋様が浮かび上がる。

 

 重い扉が、低い音を立てて開いた。

 

「……開いた」

 

 ユイが呟く。

 

「やっぱり、鍵だった」

 

 中へ入る。

 

 石造りの通路。

 

 古い魔法の匂い。

 

 奥へ進むほど、気配が濃くなる。

 

 そして、見えた。

 

 リューズと同じ顔をした少女たち。

 

 壁際に立つ個体。

 

 椅子に座ったまま動かない個体。

 

 目を閉じ、眠っているような個体。

 

 誰も話さない。

 

 誰も感情を見せない。

 

 人形のようで、人の形をしていた。

 

 スバルは息を詰める。

 

 影の中で見た少女たちと、同じ顔。

 

 問いかけたいことがあった。

 

 だが、飲み込んだ。

 

 今ここで話すべきではないことがある。

 

 知らないはずのことを、知っているように口にすれば、また何かが歪む。

 

 ユイは黙っていた。

 

 けれど、その横顔は硬い。

 

 彼女は、ここに何があるのか知っていた。

 

 原作の流れを、すべて知っている。

 

 リューズ・メイエル。

 

 複製体。

 

 強欲の使徒。

 

 ガーフィールが抱える過去。

 

 いずれスバルがぶつかる、いくつもの壁。

 

 知っている。

 

 知っているからこそ、何も言えなかった。

 

 ここで自分が口を滑らせれば、スバルの選択が変わる。

 

 ガーフィールの傷を、本人のいない場所で暴くことになる。

 

 リューズたちの四百年を、軽い解説にしてしまう。

 

 それは違う。

 

 ユイは、唇を結ぶ。

 

 自分はただの観客では終わらない。

 

 だが、何でも先に言えばいいわけではない。

 

 守るために、黙る。

 

 その選択もまた、介入だった。

 

 さらに奥へ進む。

 

 広い空間。

 

 巨大な結晶。

 

 その中に、一人の少女が眠っていた。

 

 リューズと同じ顔。

 

 だが、どの複製体とも違う。

 

「……リューズ・メイエル」

 

 スバルが呟く。

 

 その時、背後から声がした。

 

「そこまで辿り着いたなら、話さねばならぬようじゃな」

 

 振り返る。

 

 リューズがいた。

 

 片方は、いつもの老成した雰囲気のリューズ。

 

 もう片方は、無機質でありながら、先ほどの無言の複製体とは違っていた。

 

 言葉と意思を持つ個体。

 

「そこにおるのが、原初。リューズ・メイエルじゃ」

 

 リューズは結晶を見上げる。

 

「わしらは、あの子をもとにして作られた複製体。器を作り、役目を与えられたもの」

 

「複製体……」

 

「外に並んでいた者らは下位の複製体じゃ。命令を受け、役割を果たすための器。強い自我は持たぬ」

 

 スバルは拳を握った。

 

 だが、それ以上は聞かない。

 

 今は、知るべきことと、聞くべきでないことを分ける。

 

「俺は、どうしてここに入れた」

 

「そなたが、強欲の使徒となったからじゃ」

 

「強欲の……使徒?」

 

「エキドナ様の茶を受け入れた者。エキドナ様と繋がり、我ら複製体への一定の命令権を得た者」

 

「俺が、命令権を……」

 

「そうじゃ。ただし、万能ではない。制約もある。そなたの言葉が、我らにとって無視しがたいものとなった、という程度に受け取るがよい」

 

 ユイがスバルを横目で見る。

 

 スバルは短く頷いた。

 

「……便利な力みたいに思うなってことだな」

 

「そう受け取れるなら、十分じゃ」

 

 リューズは、結晶へ視線を戻した。

 

「ここは、聖域と呼ばれる前、エキドナ様の実験場じゃった。命を保存し、魂を器へ移す研究。その礎として、このリューズ・メイエルがここにある」

 

「礎……」

 

「細かな事情を、今すべて語ることはできぬ。語るべき相手も、時も、まだ違う」

 

 その言い方に、スバルは踏み込みかけた言葉を止めた。

 

 ここで聞きすぎてはいけない。

 

 今のリューズが話す範囲は、ここまでだ。

 

「ガーフィールも、強欲の使徒なのか」

 

 それだけは聞いた。

 

 リューズは静かに頷く。

 

「そうじゃ。あの子も墓所に入り、エキドナ様に触れた」

 

「試練を受けたから」

 

「そうじゃ」

 

「何を見たかは?」

 

「それは、わしから語ることではない」

 

 即答だった。

 

 スバルは頷く。

 

「わかった」

 

「そなたが何を見たのかも、わしは聞かぬ。だが、ここへ辿り着いた以上、無関係ではおれぬ」

 

「無関係では、か」

 

「そうじゃ。聖域にいる者は、皆どこかで繋がっておる。そなたがその一端を見たというだけのこと」

 

 リューズの言葉は、そこで止まった。

 

 ベアトリスの名は出ない。

 

 ロズワールの意図も語られない。

 

 今ここで、そこまで踏み込む場面ではない。

 

 スバルは、結晶の中のリューズ・メイエルをもう一度見た。

 

 そして、静かに息を吐く。

 

「ありがとう。リューズさん」

 

「礼を言われるほどのことではない」

 

「それでもだ」

 

 リューズは、少しだけ目を細めた。

 

 施設を出る頃には、夜はさらに深くなっていた。

 

 森を戻る途中、スバルはエミリアと出会った。

 

 彼女は一人で立っていた。

 

 月明かりの下、白い髪が淡く光っている。

 

 顔色は悪い。

 

 けれど、スバルを見ると、少しだけ表情を緩めた。

 

「スバル」

 

「エミリア」

 

 真面目な声で名を呼ぶ。

 

 エミリアは、スバルの顔を覗き込む。

 

「また、怖い顔してる」

 

「そうか?」

 

「うん。すごーく」

 

 困ったように笑う。

 

「私の方が、心配される側のはずなのにね」

 

「心配してるよ」

 

「でも、スバルも心配」

 

 スバルは何も返せなかった。

 

「私、試練が怖い」

 

「ああ」

 

「何を見たのか、全部は言えない。でも、すごく怖かった。自分が自分じゃなくなるみたいで……もう一度行くのが、怖い」

 

「怖くていい」

 

 スバルは言った。

 

「怖いのを、なかったことにしなくていい」

 

「……」

 

「俺も怖い。正直、怖いことだらけだ」

 

 エミリアの瞳が揺れる。

 

 スバルは白いスカーフに触れた。

 

「でも、怖いままでも、進まなきゃいけない時がある」

 

「スバルは、進めるの?」

 

「進む」

 

「無理してない?」

 

「してる」

 

「また否定しないんだ」

 

「否定できる余裕がない」

 

 エミリアは少し笑った。

 

 その笑顔を見て、サテラの顔が少し遠ざかる。

 

「俺は、エミリアを信じてる」

 

 スバルは言った。

 

「でも、今は俺にもやらなきゃいけないことがある。だから、少しだけ待っててくれ」

 

「……どこかへ行くの?」

 

 スバルは答えなかった。

 

 エミリアはその沈黙を見て、小さく息を吐く。

 

「スバルは、隠し事が多いね」

 

「悪い」

 

「うん。悪い」

 

 意外な返しに、スバルは目を丸くした。

 

 エミリアは少し頬を膨らませる。

 

「でも、今は怒らない。帰ってきたら、ちゃんと話して」

 

「ああ」

 

「約束」

 

「約束する」

 

 その夜、スバルはほとんど眠れなかった。

 

 部屋の外には、ユイがいた。

 

「寝られそう?」

 

「寝る努力をする」

 

「なら、努力して」

 

「厳しいな」

 

「甘い言葉をかけると、あなたは無茶の理由にするから」

 

「否定しづらい」

 

 少し沈黙が落ちる。

 

「帰ってきてから話して」

 

「全部じゃなくていいんだろ」

 

「ええ。言える分だけでいい」

 

「わかった」

 

「約束が増えたわね」

 

「重いな」

 

「増やしたのはあなたよ」

 

 翌朝。

 

 まだ聖域が薄暗いうちに、スバルは起きた。

 

 エミリア宛の手紙を書く。

 

 勝手に屋敷へ戻ること。

 

 必ず戻ること。

 

 試練を一人で抱え込むなということ。

 

 最後に一文。

 

 ――約束は守る。

 

 紙を畳み、見つけやすい場所へ置いた。

 

 外に出ると、パトラッシュが待っていた。

 

 ユイもいた。

 

「やっぱり、一人で行くのね」

 

「止めるか?」

 

「止めても行くでしょう」

 

「行く」

 

「なら、見送る」

 

 ユイは白いスカーフを見る。

 

「帰らないとね」

 

「帰るよ」

 

「嘘にしないで」

 

「するつもりはない」

 

 ユイは、そう言うスバルを見上げた。

 

 彼女は、これからの流れを知っている。

 

 この朝のガーフィールとの衝突。

 

 屋敷へ戻ること。

 

 ペトラたちの避難。

 

 禁書庫。

 

 ベアトリス。

 

 そして、ここから先も、まだ終わりではないこと。

 

 知っている。

 

 だからこそ、怖かった。

 

 知識は万能ではない。

 

 むしろ、知っているほどに、言えないことが増える。

 

 今、彼に「ガーフィールはあなたを魔女教の関係者だと疑っている」と言えば、スバルは構える。

 

 構えれば、会話の形が変わる。

 

 必要な衝突が、違うものになる。

 

 逆に黙れば、彼は傷つく。

 

 そのどちらも、ユイにはわかっていた。

 

 だから、彼女は選ぶ。

 

 黙って、見送る。

 

 ただし、何もしないのではない。

 

 目を離さない。

 

 戻ってきた時に、受け止められるように。

 

「スバルくん」

 

「ん?」

 

「ガーフィールさんは、あなたを簡単には通さないと思う」

 

「だろうな」

 

「疑っているわ。あなたの匂いを」

 

 スバルの表情がわずかに硬くなった。

 

「魔女の臭いか」

 

「ええ」

 

「……そっか。まあ、そうだよな」

 

「でも、彼は敵じゃない」

 

「わかってる」

 

「敵じゃないけれど、牙は向ける。そういう人よ」

 

「うん。知ってる」

 

 ユイはほんの少しだけ目を伏せた。

 

「なら、行って」

 

「止めないんだな」

 

「止めたら、あなたは止まる?」

 

「止まらない」

 

「だから、止めない」

 

 ユイはパトラッシュの首を撫でた。

 

「連れて帰ってきて」

 

 それは、スバルに言ったのか。

 

 パトラッシュに言ったのか。

 

 たぶん、両方だった。

 

 パトラッシュに跨る。

 

 その瞬間、前方に人影が立った。

 

 ガーフィールだった。

 

 腕を組み、道を塞いでいる。

 

 昨日の墓所の前のような穏やかさはない。

 

 明確な苛立ち。

 

 獲物を前にした獣のような圧。

 

「どこ行く気だ」

 

「屋敷」

 

 スバルは隠さなかった。

 

「一人でか」

 

「ああ」

 

「寝ぼけてんのか、てめぇ」

 

「起きてるよ。嫌になるくらいにな」

 

 ガーフィールが一歩近づく。

 

 鼻が、ひくりと動いた。

 

 その目が、すぐに険しくなる。

 

「……臭ぇ」

 

 低い声だった。

 

「やっぱり臭ぇ。てめぇ、昨日よりもさらにひでぇぞ」

 

「魔女の臭い、か」

 

 スバルが言うと、ガーフィールの目が鋭くなった。

 

「なんでてめぇが自分でそれを言う」

 

「言われると思ったから」

 

「慣れてやがるのか?」

 

「……慣れたくはない」

 

 ガーフィールは奥歯を噛む。

 

「魔女教徒どもと同じ臭いをさせてる奴が、勝手に聖域を抜ける。姫様に紙切れ一枚残して、屋敷へ行く。怪しむなって方が無理だろうが」

 

「怪しんでいい」

 

「あ?」

 

「疑っていい。でも、俺は行く」

 

「ふざけんな」

 

 牙が剥き出しになる。

 

「てめぇは何も言わねぇ。何も見せねぇ。そのくせ勝手に動く。しかもその臭いだ。俺様に、てめぇが魔女教の関係者じゃねぇってどう信じろってんだよ」

 

「信じなくていい」

 

 空気が凍った。

 

 ガーフィールの眉が跳ねる。

 

「てめぇ、舐めてんのか」

 

「信じなくていい。今すぐ信じろなんて言わない」

 

 スバルは、ガーフィールを見下ろした。

 

「でも、通してくれ」

 

「通すわけねぇだろ」

 

「なら、止めろ」

 

 短い言葉。

 

 ユイが息を呑む。

 

 ガーフィールの低い唸りが、朝の空気を震わせた。

 

「俺様が本気で止めたら、てめぇなんざ一歩も進めねぇぞ」

 

「知ってる」

 

「なら、なんでそんな目をしてやがる」

 

「知ってるからだ」

 

「あ?」

 

「お前が強いのも、怖いのも、俺を止めようと思えば簡単に止められるのも知ってる。それでも、俺は行く」

 

「てめぇに、何がわかる」

 

「わからないことの方が多い」

 

「だったら黙って――」

 

「でも、地獄は知ってる」

 

 スバルは、ガーフィールをまっすぐ見た。

 

「地獄なら知っている」

 

 ガーフィールの動きが止まる。

 

「何もできずに見てるだけの地獄も、自分だけが残される地獄も、助けたい相手に手が届かない地獄も、自分の命を捨てなきゃ次に進めない地獄も、知ってる」

 

 白いスカーフを握る。

 

「だから行く。知らないから逃げるんじゃない。知ってるから、二度と同じにしないために行く」

 

「……気に入らねぇ」

 

 ガーフィールは低く言った。

 

「てめぇのその目、反吐が出るくらい気に入らねぇ」

 

「俺も気に入ってない」

 

「俺様は、てめぇを信じたわけじゃねぇ」

 

「わかってる」

 

「その臭いも、てめぇの隠し事も、何一つ納得してねぇ」

 

「それでいい」

 

「よくねぇよ!」

 

 ガーフィールの怒声が響いた。

 

「よくねぇに決まってんだろうが! 何もわからねぇ奴を通して、何か起きたらどうすんだ! 姫様はどうなる! 聖域はどうなる!」

 

「戻ってきて、どうにかする」

 

「簡単に言うな!」

 

「簡単じゃない。でも、やる」

 

「根拠は」

 

「帰るって約束した」

 

 スバルは白いスカーフを見せる。

 

「それだけで十分だ」

 

 長い沈黙。

 

 ガーフィールは拳を握った。

 

 今にも殴りかかりそうな姿勢のまま、しかし道を塞ぐ足を半歩だけずらす。

 

「……勝手にしろ」

 

「いいのか」

 

「勘違いすんな。納得なんざしてねぇ」

 

「わかってる」

 

「てめぇが戻らなかったら、俺様が直々に噛み砕きに行く」

 

「戻らなかったら、できねえだろ」

 

「戻ってこいって言ってんだよ!」

 

 怒鳴られた。

 

 スバルは、一瞬だけ目を見開く。

 

 ガーフィールは気まずそうに顔を歪め、そっぽを向いた。

 

「……さっさと行け。気が変わる前に」

 

「ああ」

 

 スバルは手綱を握る。

 

「行くぞ、パトラッシュ」

 

 黒い地竜が走り出す。

 

 聖域の森を抜ける。

 

 結界を越える。

 

 背後に、ガーフィールとユイの姿が小さくなる。

 

 ユイは手を振らなかった。

 

 ただ、まっすぐ見ていた。

 

 スバルの背中が遠ざかる。

 

 原作で見た場面。

 

 知っていたはずの一幕。

 

 けれど、目の前で見るそれは、画面の向こうの出来事ではなかった。

 

 彼の背中は小さい。

 

 あまりにも小さい。

 

 それでも、折れない。

 

 折れそうになりながら、前へ進む。

 

 ユイは唇を噛んだ。

 

 この先に待つものを知っている。

 

 エルザ。

 

 屋敷。

 

 禁書庫。

 

 ベアトリス。

 

 そして、まだいくつも残る失敗と選択。

 

 知っている。

 

 でも、彼が自分の足で行かなければ意味がない。

 

 だから、ユイは見送る。

 

 ただ見送るだけではない。

 

 戻ってきた時、彼が倒れる場所になるために。

 

 エミリアが壊れないように。

 

 オットーが支えられるように。

 

 ガーフィールが完全に敵にならないように。

 

 ここで守る。

 

 それが、今の自分の役目だった。

 

「……帰ってきて」

 

 小さな声は、朝の森に溶けた。

 

 スバルには届かない。

 

 けれど、パトラッシュが一度だけ耳を動かしたように見えた。

 

 ロズワール邸に着くと、屋敷は静かだった。

 

 静かすぎる。

 

 血の前触れのような静寂。

 

 スバルは玄関へ走った。

 

「フレデリカ!」

 

 扉を開ける。

 

 すぐに足音が返ってきた。

 

「スバル様? お一人ですか?」

 

「ああ。説明は後だ」

 

「何が――」

 

「屋敷を出る準備をしてくれ。今すぐだ。村へ避難する」

 

 フレデリカの表情が変わる。

 

「何かあったのですね」

 

「これから起きる」

 

 フレデリカは、スバルの目を見た。

 

 迷いは一瞬だった。

 

「承知しました」

 

「ペトラは?」

 

「厨房に」

 

「レムを運ぶ準備をしてくれ。まず村へ。距離を取るんだ」

 

「レム……スバル様が仰っていた、眠っている方ですね」

 

「ああ」

 

 小さな足音が近づいた。

 

「スバル様?」

 

 ペトラだった。

 

 エプロン姿で、目を丸くしている。

 

 スバルは胸が詰まりそうになった。

 

 生きている。

 

 手も、声も、顔も、全部ある。

 

「ペトラ」

 

「どうしたんですか? そんなに慌てて……」

 

「逃げるぞ。屋敷から出る。村へ行く。今すぐ」

 

 ペトラは驚きながらも、スバルの手首を見た。

 

 白いスカーフ。

 

「あ……ちゃんと、持っててくれたんですね」

 

「当たり前だ」

 

 スバルはスカーフを握る。

 

「これのおかげで、帰ってきた」

 

 ペトラの顔が少し赤くなる。

 

「そんな、大げさです」

 

「大げさじゃない」

 

 スバルは真剣に言った。

 

「だから今度は、俺がちゃんと連れて帰る。ペトラも、レムも、フレデリカも」

 

 ペトラは、小さく頷いた。

 

「はい」

 

 フレデリカがすぐに指示を出す。

 

「ペトラ、最低限の荷物を。私はレム様を」

 

「はい!」

 

「スバル様は?」

 

「俺は、ベア子のところへ行く」

 

 フレデリカの表情が強張る。

 

「ベアトリス様の禁書庫へ?」

 

「ああ」

 

「危険です」

 

「知ってる」

 

「なら――」

 

「でも、行く。ベア子も連れていく」

 

 ロズワールの言った通りに、「その人」だと嘘をつくつもりはない。

 

 けれど、ベアトリスを置いていくつもりもない。

 

 あの禁書庫に。

 

 あの空白の本に。

 

 彼女を一人で縛り続けるつもりはない。

 

 フレデリカは、短く息を吐いた。

 

「わかりました。どうか、ご無事で」

 

「そっちこそ」

 

 スバルは廊下を走った。

 

 扉。

 

 扉。

 

 扉。

 

 禁書庫の扉は、どこにあるかわからない。

 

 けれど、探す。

 

 何度でも開ける。

 

「ベア子!」

 

 扉を開ける。

 

 違う。

 

「ベアトリス!」

 

 また違う。

 

「いるんだろ! 出てこい!」

 

 三つ目の扉に手をかけた瞬間、スバルは息を止めた。

 

 扉の向こうから、本の匂いがした。

 

 古い紙。

 

 閉ざされた空気。

 

 禁書庫。

 

 心臓が、強く鳴る。

 

 スバルは、扉を開けた。

 

 薄暗い部屋。

 

 無数の本棚。

 

 そして、その中央に、小さな少女の影があった。

 

 彼女は、驚いていなかった。

 

 まるで、スバルが来ることを最初から知っていたように。

 

 黒い本を抱きしめたまま、静かにそこに立っていた。

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