扉を開けた瞬間、古い紙の匂いが押し寄せた。
薄暗い禁書庫。
天井まで届く本棚。
外の屋敷とは切り離された、静まり返った空間。
その中央に、ベアトリスがいた。
小さな体で、いつもの椅子に座っている。
腕には黒い本。
スバルがこの部屋に踏み込んだ瞬間、ベアトリスは顔を上げた。
驚いた顔ではない。
だが、完全に待っていた顔でもない。
屋敷中の扉を開けて回る足音。
焦った呼び声。
それらを聞いて、いずれここへ辿り着くかもしれないと身構えていたような顔だった。
「……騒がしいのよ」
ベアトリスは、黒い本を抱き直しながら言った。
「禁書庫は、お前が走り回るための場所ではないかしら」
「悪い。今は、行儀よくしてる余裕がない」
「なら、すぐに出ていくといいのよ」
「それもできない」
「本当に、聞き分けがないのよ」
いつもの棘。
いつもの口調。
けれど、いつものやり取りにはならなかった。
スバルにはわかった。
ベアトリスは拒絶している。
怒っているからではない。
近づかれたくないから。
触れられたくない場所に、スバルが踏み込んだとわかっているから。
スバルは、ベアトリスの腕の中の黒い本を見た。
「ロズワールから聞いた」
その名を出した瞬間、ベアトリスの指がわずかに動いた。
「お前の本のこと。契約のこと。それと……“その人”のこと」
「……そう」
声は小さい。
だが、平静ではない。
ベアトリスは黒い本を胸に抱きしめる。
「なら、言いに来たのかしら」
「何を」
「お前が、その人だと」
スバルは息を止めた。
ロズワールの言葉が脳裏をよぎる。
そう言えばいい。
自分が“その人”だと。
そうすれば、ベアトリスを動かせるかもしれない。
禁書庫から連れ出せるかもしれない。
契約を終わらせることができるかもしれない。
だが、それは嘘だ。
今ここでそれを言えば、ベアトリスの四百年を利用することになる。
救うためだと自分に言い聞かせても、その嘘は彼女を踏みにじる。
スバルは、ゆっくり首を振った。
「違う」
ベアトリスの瞳が、かすかに揺れた。
「俺は、その人じゃない」
「……」
「そんな嘘はつかない」
禁書庫に沈黙が落ちた。
ベアトリスは、黒い本を抱いたまま目を伏せる。
「なら、何をしに来たのよ」
「お前を連れていく」
「ベティは行かないのよ」
「行く」
「行かない」
「行くんだ」
「どうして、お前が決めるのよ」
ベアトリスの声が尖った。
「ベティがここで何をしていたのか、何を待っていたのか、お前は何も知らないくせに」
「知らない」
スバルは認めた。
「だから、教えろ」
「……何を」
「その本のこと。契約のこと。お前が、何を待っていたのか」
「聞いてどうするのよ」
「決まってるだろ。お前をここから連れ出すために使う」
「勝手なのよ」
「ああ、勝手だ」
「開き直るんじゃないかしら!」
ベアトリスの声が跳ねる。
本棚の奥で、古い本がかすかに揺れた。
スバルは一歩近づいた。
ベアトリスは、黒い本を抱きしめる力を強める。
「その本、見せろ」
「嫌なのよ」
「ベア子」
「嫌だと言っているのよ!」
ベアトリスが椅子から立ち上がる。
小さな体で、本を守るように胸へ抱える。
スバルは歯を食いしばった。
時間はない。
エルザは来る。
屋敷の外では、フレデリカたちが逃げている。
ここで言葉だけを選んでいる余裕はない。
けれど、雑に踏み込めば、ベアトリスはさらに閉じる。
それでも、今は踏み込むしかない。
「それが、お前の未来を書いてたんだろ」
ベアトリスの目が鋭くなる。
「……ロズワールから、どこまで聞いたのよ」
「全部じゃない。けど、その本が大事なものだってことは聞いた」
「なら、それ以上知る必要はないのよ」
「ある」
「ない!」
ベアトリスが叫ぶ。
その瞬間、スバルは彼女へ手を伸ばした。
ベアトリスは避けようとする。
だが、スバルは黒い本の端を掴んだ。
「返すのよ!」
「見せろ!」
「やめるのよ!」
本が開く。
ページがめくれる。
白。
白。
白。
どこまでめくっても、白。
文字はない。
未来もない。
指示もない。
ただ、空白だけが続いていた。
スバルの息が止まる。
「……何も、書いてない」
ベアトリスは、本を奪い返した。
そして、震える手で胸へ抱きしめる。
「返すのよ」
「いつからだ」
「……」
「いつから、その本は何も書かなくなった」
ベアトリスは答えない。
唇を噛み、視線を逸らす。
だが、その沈黙こそが答えだった。
「ずっと前から、か」
「……そうなのよ」
声が小さく落ちた。
「もう、ずっと。ベティの未来は、何も示されていないのよ」
「なのに、持ってたのか」
「持っていたら悪いのよ?」
「悪いとかじゃない。けど――」
「これがなければ、ベティには本当に何も残らないのよ!」
ベアトリスの声が割れた。
怒鳴っているのに、泣いているようだった。
「何も書かれていなくても、これがベティに与えられたものだった。これがあったから、待つことに意味があると思えた。これに何かが書かれるなら、いつか終わりが来るのだと思えた」
「終わり……」
スバルは眉をひそめる。
ベアトリスは黒い本を抱いたまま、吐き出すように続けた。
「ベティは、待つように言われたのよ」
「誰に」
「……エキドナ」
その名に、スバルの胸が重くなる。
白い茶会の魔女。
知識を差し出し、好奇心で人の痛みに触れようとする強欲の魔女。
その魔女の名を、ベアトリスは母の名を呼ぶように、けれど呪いのように口にした。
「エキドナは言ったのよ。いつか、この禁書庫に“その人”が来ると」
「その人って、誰なんだ」
「知らないのよ」
即答だった。
スバルは息を呑む。
「知らない?」
「知らない。誰なのかも、いつ来るのかも、何をしてくれるのかも、何も教えられなかった。ただ、待てと言われたのよ」
ベアトリスの指が、本の表紙を強く掴む。
「だから待った。扉が開くたびに思った。今度こそ、その人かもしれないって」
「……」
「違った。何度も、何度も違った。扉が開くたびに期待して、裏切られて、それでも次の扉を待ってしまう。期待したくないのに、期待してしまう」
声が震える。
「四百年なのよ」
ベアトリスは、スバルを見た。
「四百年、ベティはここで待っていたのよ」
スバルは何も言えなかった。
四百年。
想像できる長さではない。
孤独という言葉で済ませられる時間ではない。
扉が開くたびに胸が鳴り、違うと知るたびに裏切られ、それでもまた待つ。
そんなものを、少女の形をした精霊が一人で抱えていた。
「それでも、この本が未来を示しているうちは、まだよかった」
ベアトリスは言った。
「何かが書かれているなら、まだベティには道があると思えた。意味があると思えた。でも、もう何も書かれない」
黒い本を抱く手が、震える。
「つまり、ベティの未来は終わったのよ」
「違う」
スバルは即座に言った。
ベアトリスの目が揺れる。
「何も書かれてないからって、お前の未来が終わったことにはならない」
「わかったようなことを言うんじゃないのよ」
「わかってねえよ」
「なら黙っているかしら!」
「黙らない」
スバルは前へ出る。
「お前が、その本に縛られてることはわかった。エキドナとの契約でここにいることも、その人を待ってたことも、少しだけわかった」
「少しだけで、何ができるのよ」
「少ししかわかってないから、全部は言えない。でも、一つだけ言える」
「何を」
「ここから出ろ」
ベアトリスの顔が強張る。
「……簡単に言うのよ」
「簡単じゃないのはわかってる」
「わかってない!」
ベアトリスの周囲で、陰のマナが揺れた。
空気が重くなる。
「ベティは契約でここにいる。禁書庫を守るために。その人を待つために。四百年、ずっとそうしてきたのよ。お前が急に来て、出ろと言って、それで出られるなら、ベティはとっくに――!」
言葉が途切れた。
とっくに、何だったのか。
出ていたのか。
逃げていたのか。
死んでいたのか。
ベアトリス自身にも、続きがわからないようだった。
「なら、終わらせよう」
スバルは言った。
「待つのを終わらせよう。契約に縛られるのを終わらせよう。その本に未来を決めさせるのを終わらせよう」
「どうやって」
「お前が選ぶ」
ベアトリスは、目を見開いた。
「ベティが?」
「ああ」
「ベティが、自分で?」
「そうだ」
ベアトリスの顔に、怯えが浮かぶ。
それは、拒絶よりも深いものだった。
四百年、誰かに決められた役割を守ってきた少女に、急に「選べ」と言う。
それがどれほど怖いことなのか、スバルは今さら気づいた。
だが、言葉を引っ込めるわけにはいかない。
「エキドナに言われたからじゃない。本に書かれてるからじゃない。その人が来たからでもない。お前が決めるんだ、ベア子」
「無理なのよ」
「無理じゃない」
「無理なの!」
ベアトリスが叫ぶ。
「ベティにはできない! そんなこと、できるはずがない! だって、ベティはずっと待っていたのよ。待つことしか、許されなかったのよ」
「なら、今から変えればいい」
「そんなふうに言わないで!」
ベアトリスの声が、ひび割れた。
「お前は、勝手なのよ。突然来て、その人じゃないと言って、それでも手を伸ばして、選べなんて言って」
「勝手だよ」
「そうなのよ!」
「ああ。俺は勝手だ」
「……」
「俺は勝手に、お前に死んでほしくない」
ベアトリスの表情が止まった。
スバルは、まっすぐ彼女を見る。
「俺は、その人じゃない。お前の四百年を終わらせるために用意された、都合のいい誰かじゃない」
「……」
「でも、俺はナツキ・スバルだ。ベア子を一人でここに置いていけない、ただのナツキ・スバルだ」
ベアトリスの瞳が濡れる。
けれど、それが涙として落ちる前に、彼女は顔を歪めた。
「それなら」
声が震える。
「その人じゃないなら、ベティを終わらせて」
「……何?」
「ベティを殺して」
スバルの息が止まった。
ベアトリスは、黒い本を抱いたまま言った。
「待つのを終わらせて。契約を終わらせて。もう扉の音に期待しなくていいように。もう裏切られなくていいように」
「ふざけんな」
スバルの声が低くなった。
「そんなこと、できるわけねえだろ」
「お前は勝手なのよ」
「ああ、勝手だ。何度でも言う。俺は勝手だ」
「ベティの苦しみを知らないくせに!」
「知らねえよ!」
スバルは叫んだ。
「知らねえから聞いてんだろ! 知らねえから、ここに来たんだろ! 知らねえまま、お前に死ねなんて言えるわけねえだろ!」
ベアトリスは、言葉を失った。
スバルは一歩近づく。
手を伸ばす。
「殺さない」
「……」
「俺は、お前を殺さない」
「なら、どうするのよ」
「連れていく」
「できないのよ」
「できるまでやる」
「そんなの――」
その時だった。
扉の向こうで、かすかな音がした。
足音。
近い。
スバルの背筋が凍る。
ベアトリスも、顔を上げた。
「……招かれざる客かしら」
扉が開く。
黒髪の女が立っていた。
艶やかな髪。
血を思わせる笑み。
細い体から滲む、刃のような殺気。
エルザ・グランヒルテ。
「あら」
エルザは楽しげに微笑んだ。
「ようやく当たりね」
スバルは、歯を食いしばった。
「エルザ……!」
ベアトリスが目を細める。
「どうやってここを見つけたのかしら」
「開いた扉を開けたままにして、開かない扉を探しただけよ。隠しているなら、逆に目立つもの」
「乱暴な探し方しやがって……!」
「でも、見つけられたわ」
エルザの視線が、ベアトリスへ移る。
「あなたも標的よ、小さな司書さん」
禁書庫の空気が、冷えた。
ベアトリスは黒い本を抱いたまま、静かに言う。
「禁書庫を荒らすつもりなら、許さないかしら」
「荒らすつもりはないわ」
エルザは刃を抜いた。
「殺すだけ」
スバルが構えるより早く、ベアトリスが小さく指を鳴らした。
「シャマク」
完成したのは、ベアトリスの魔法だった。
黒い霧が、禁書庫を満たした。
視界が消える。
距離も方向も曖昧になる。
エルザの刃が、闇の中で空を裂く。
ベアトリスの小さな手が、スバルの袖を掴んだ。
「走るのよ!」
「ベア子!」
「勘違いするんじゃないのよ。ここで死なれると迷惑なだけかしら!」
「その言い訳、今は採用しとく!」
スバルは、ベアトリスに引かれるように禁書庫を飛び出した。
背後で、エルザの笑い声が闇に溶けた。
会話は、終わっていない。
何も解決していない。
ベアトリスはまだ選べていない。
スバルもまだ、彼女の手を掴みきれていない。
それでも、禁書庫の扉は開いた。
四百年閉じていた部屋から、ベアトリスは一歩だけ外へ出た。
自分の意思ではないと言い張りながら。
それでも、スバルの袖を掴んだまま。
廊下へ出た瞬間、屋敷の空気が変わった。
禁書庫の閉じた匂いではない。
外の空気。
廊下の冷たさ。
そして、血の気配。
「フレデリカたちは村へ向かったはずだ」
スバルは走りながら言った。
「合流する。パトラッシュもいる。まだ間に合うかもしれない」
「お前は、まだそんなことを言っているのよ」
「言うさ」
「どこまでも欲張りなのよ」
「欲張りで結構だ」
ベアトリスは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
スバルの袖を掴む手は、まだ離れない。
屋敷の外へ飛び出す。
村へ向かう道。
息が切れる。
足がもつれる。
それでも走る。
パトラッシュ。
フレデリカ。
ペトラ。
レム。
間に合え。
間に合ってくれ。
祈るように走るスバルの前に、小さな影が立っていた。
紫がかった髪。
見覚えのある顔。
アーラム村の子どもたちの中にいた少女。
「……お前」
スバルの声が凍る。
「メィリィ……?」
少女は、にこりと笑った。
「覚えててくれたんだぁ。うれしいなぁ」
草むらが揺れる。
低い唸り声。
魔獣。
複数。
いや、もっと多い。
スバルの胃が冷たく沈む。
「お前が、魔獣使いか」
「そうだよぉ」
メィリィは、悪びれずに答えた。
「お兄さん、また会ったねぇ」
「フレデリカたちはどこだ」
スバルの声が低くなる。
「金髪のメイドさんと、小さいメイドさん?」
「答えろ」
「もういないよ」
世界が止まった。
「……何だって?」
「邪魔だったから。お姉さんも、小さい子も」
メィリィは首を傾げる。
「お兄さん、怒ってる?」
白いスカーフが、手首で揺れた。
ペトラが笑って、巻いてくれたもの。
帰ってきてください。
その声が、耳の奥で響く。
「レムは」
スバルは、震える声で聞いた。
「れむ?」
メィリィは、本当にわからない顔をした。
「誰、それ」
胸が裂けた。
そうだ。
レムは忘れられている。
存在を喰われている。
だから、メィリィは知らない。
知るはずがない。
怒りと絶望が、喉の奥で絡まる。
ベアトリスが一歩前へ出た。
「そこをどくのよ」
「やだぁ」
メィリィが笑う。
魔獣たちが姿を現す。
牙。
爪。
赤い目。
ベアトリスの周囲に陰のマナが集まる。
その小さな背中が、スバルの前に立つ。
「ベア子」
「下がっているかしら」
冷たい声。
だが、スバルにはわかる。
怒っている。
ベアトリスも、怒っている。
その瞬間、背後から声がした。
「子ども相手に、本気を出すの?」
エルザ。
早い。
スバルが振り向くより先に、黒い影のような女が迫った。
ベアトリスの手が動く。
「エル・ミーニャ」
陰の魔法が走る。
エルザの体が弾かれ、地面に叩きつけられる。
続けざまに、結晶めいた影の刃が彼女を貫いた。
黒いドレスが裂け、血が散る。
エルザの体が、動かなくなる。
「……やったのか?」
スバルの声は震えていた。
ベアトリスは険しい顔で息を吐く。
「油断するんじゃないのよ」
そう言いながらも、彼女の意識はメィリィへ向いた。
魔獣使い。
子どもの姿をした敵。
ベアトリスの手に、再びマナが集まる。
メィリィの笑顔が、少しだけ固まった。
「待て、ベア子!」
スバルは反射的に叫んだ。
「何を止めるのよ!」
「相手は子どもだ!」
「敵なのよ!」
「それでも――!」
その一瞬。
致命的な一瞬。
倒れていたはずのエルザが、起き上がった。
音もなく。
気配もなく。
笑みを浮かべたまま。
「優しいのね」
刃が走った。
ベアトリスの体が震えた。
腹部から、刃が覗いている。
「……ベア子?」
スバルの声が掠れた。
ベアトリスが、ゆっくりと振り返る。
金の瞳が、驚いたように見開かれている。
血が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
白い服が赤く染まっていく。
「ベア子!」
スバルは叫んだ。
ベアトリスの小さな体を抱き留める。
小さい。
あまりにも小さい。
軽い。
なのに、流れる血だけが重かった。
エルザの刃が、次にスバルを狙った。
熱い痛みが左目を貫く。
世界の半分が赤く弾けた。
「が、ああああああッ!」
スバルは叫ぶ。
立っていられない。
痛みで意識が飛びかける。
それでも、ベアトリスを離せない。
「ベア子、ベア子!」
「……うるさい、のよ」
ベアトリスの声は、かすれていた。
血に濡れた手が、スバルの服を掴む。
「石……」
「石?」
「フレデリカの……石を」
スバルは震える手で、懐を探った。
フレデリカから渡された石。
リューズの施設を開いた石。
それを、ベアトリスの小さな手に握らせる。
ベアトリスは血に濡れた指で、それを握りしめた。
「何する気だ」
「決まってるのよ」
「やめろ」
スバルは、何をしようとしているのか直感した。
「俺だけ逃がすな」
「逃がすのよ」
「ふざけんな! お前も来い!」
「無理なのよ」
「無理じゃねえ!」
「無理なの!」
ベアトリスの声が、かすかに強くなる。
スバルの腕の中で、彼女は血を吐くように息をした。
「ベティは……もう」
「言うな」
「終わりなのよ」
「言うな!」
「……お前は、勝手なのよ」
ベアトリスは、薄く笑った。
「その人じゃないくせに、手を伸ばして。ベティを、置いていかないって言って」
「当たり前だろ」
「本当に……馬鹿なのよ」
声は震えている。
泣いているようだった。
「でも……少しだけ、嬉しかったかしら」
石が光る。
転移の光。
スバルの体を包む。
「やめろ、ベア子!」
「お前は、生きるのよ」
「ベア子!」
「終わるのは、ベティだけでいいのよ」
「ふざけんな! 勝手に終わるな!」
光が強くなる。
距離が遠ざかる。
ベアトリスの顔が、白く滲む。
スバルは手を伸ばす。
届かない。
「ベア子――!」
世界が歪む。
ロズワール邸も。
エルザも。
メィリィも。
血に濡れたベアトリスも。
すべてが白く消えた。
次にスバルが叩きつけられたのは、石の床だった。
「ぐっ……!」
左目が熱い。
血が流れている。
視界の半分が赤く滲む。
呼吸が荒い。
体中が痛い。
だが、生きている。
生きてしまっている。
スバルは歯を食いしばり、体を起こした。
見覚えのある場所。
ガーフィールに閉じ込められた、あの場所。
「戻された……」
ベアトリスに。
また、自分だけ。
「くそ……くそ、くそッ!」
拳で床を叩く。
痛い。
痛いだけだ。
何も戻らない。
ペトラ。
フレデリカ。
ベアトリス。
屋敷。
全部、届かなかった。
スバルはよろめきながら立ち上がる。
誰の声も聞こえない。
人の足音もない。
閉じ込められていた場所を抜け、外へ出た。
冷たい風が吹き込んだ。
白いものが、空から落ちていた。
雪。
聖域に、雪が降っている。
「……なんで」
スバルは呟いた。
この雪は、自然ではない。
大兎。
茶会で聞いた名前が、脳裏を過ぎる。
魔力に誘われる白い災厄。
この雪が続けば、来る。
来てしまう。
「エミリア……!」
スバルは、ふらつきながら走った。
痛む目を押さえ、血を拭い、墓所へ向かう。
誰とも会わなかった。
村人の姿もない。
オットーの声もない。
ガーフィールの怒鳴り声もない。
ユイの姿もない。
雪の中、聖域は異様に静まり返っていた。
静かすぎる。
まるで、もうすべてが終わったあとのように。
だが、終わってなどいない。
終わらせてたまるか。
スバルは墓所へ走る。
足がもつれる。
左目が熱い。
血が頬を伝う。
体中が痛い。
それでも、止まらない。
墓所の入口へ辿り着く。
白い石。
冷たい空気。
重い沈黙。
中へ入る。
そこに、エミリアがいた。
座っている。
待っていたように。
いや、実際に待っていたのだろう。
「スバル」
エミリアは顔を上げた。
笑っていた。
その笑顔が、スバルの知るエミリアと少し違った。
柔らかい。
優しい。
けれど、何かが抜け落ちている。
「帰ってきてくれたんだね」
「……エミリア」
「待ってたの」
その言葉は、責めるようでいて、責めていなかった。
だからこそ、怖かった。
スバルは左目を押さえたまま、ふらつく足でエミリアへ近づく。
痛みで視界が揺れる。
血が頬を伝う。
だが、エミリアは悲鳴を上げなかった。
傷を見て、痛そうに眉を寄せただけだった。
「ひどい怪我」
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ」
エミリアは、スバルの頬へ手を伸ばした。
冷たい指先。
優しい手つき。
それなのに、その優しさがひどく不安定だった。
「スバル、どこに行ってたの?」
「屋敷だ」
「私を置いて?」
スバルの息が止まる。
エミリアはすぐに首を振った。
「ううん。怒ってないよ。スバルは戻ってきてくれたもの」
「違う。怒っていいんだ」
「どうして?」
「俺は、お前を置いていった」
「でも、帰ってきてくれた」
エミリアは笑った。
壊れそうな顔で。
「だから、いいの」
「よくない」
「いいの」
エミリアの声は穏やかだった。
穏やかすぎた。
「私、頑張ったんだよ。何度も、何度も、試練を受けようとしたの。でも、駄目だった。怖くて、頭の中がぐちゃぐちゃになって、何度やっても駄目で……」
「……」
「でも、スバルが信じてくれたから。私ならできるって、スバルが言ってくれたから」
その言葉は、責めていない。
責めていないから、余計に刺さった。
信じた。
任せた。
そして、置いていった。
それが、今のエミリアをここまで追い詰めた。
「外、雪が降ってるの」
「ああ」
「みんな、私のせいだって言うの。私が半魔だから。銀髪だから。私がいるから、聖域がこんなことになったんだって」
「違う」
スバルは即座に言った。
「違う。雪はお前のせいじゃない」
「でも、みんなが言ってたよ」
「みんなが言っても違う」
「スバルは優しいね」
エミリアは微笑んだ。
その笑顔が、怖かった。
世界の全部を、スバル一人に縮めている。
村人も。
試練も。
雪も。
自分自身さえも。
全部、スバルに預けてしまおうとしている。
「スバルだけは、私を見てくれる」
「エミリア」
「スバルだけは、私を置いていかないよね」
スバルは答えられなかった。
置いていった。
実際に。
手紙を残して。
屋敷へ向かって。
そして、戻ってきた時には、屋敷もベアトリスも届かなかった。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「俺が、ちゃんとできなかった」
「そんなことないよ」
エミリアは、スバルの頭をそっと引き寄せた。
「休んで。ここにいて。私がいるから」
膝を差し出す。
スバルの体は限界だった。
血が足りない。
痛みが引かない。
心が、屋敷の光景を何度も反芻している。
ペトラ。
フレデリカ。
レム。
ベアトリス。
届かなかったものたち。
足から力が抜け、スバルはエミリアの膝に崩れ落ちた。
エミリアの手が、スバルの髪を撫でる。
「大丈夫」
エミリアは囁いた。
「私がいるよ」
「エミリア……雪は、ロズワールだ」
エミリアの手が止まらない。
「ロズワールが?」
「ああ。お前じゃない。お前のせいじゃない」
「そっか」
返事は遠かった。
理解しているのか、していないのか。
どちらでもいいというように。
今のエミリアにとって重要なのは、雪の原因ではない。
スバルがここにいるかどうかだけだった。
「俺、行かなきゃ」
「どこに?」
「ロズワールのところへ」
「だめ」
優しい声だった。
あまりにも優しい声で、エミリアは言った。
「スバルは、ここにいて」
「エミリア」
「ここにいて。私のそばにいて。私だけを見て。私も、スバルだけを見るから」
スバルの背筋が冷える。
これは、エミリアの本当の願いではない。
追い詰められ、壊れかけ、世界から責められ、最後に残った糸へ縋っているだけだ。
その糸が、スバルだっただけだ。
「私、スバルがいれば大丈夫」
「違う」
「違わないよ」
「違うんだ、エミリア」
「スバルは、私を好きって言ってくれたよね」
スバルは息を詰める。
「私も、スバルが好き」
「……」
「好き。大好き。だから、もうどこにも行かないで」
その声が、影の中で聞いた声と重なった。
愛してる。
愛してる。
愛してる。
逃げ場のない愛。
全部を呑み込む愛。
目の前にいるのはエミリアだ。
サテラではない。
それでも、今のエミリアの依存は、あの黒い影の声に近すぎた。
スバルは、歯を食いしばって体を起こす。
「俺は行く」
エミリアの手が止まった。
「どうして?」
「雪を止める。お前のせいじゃないって、証明する」
「行かないで」
「行く」
「行かないで」
幼い声だった。
スバルは、膝から離れる。
エミリアの指が、名残惜しそうに服を掴んだ。
「スバル」
「戻る」
「本当?」
「ああ」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
エミリアは、泣きそうに笑った。
「じゃあ、待ってる」
その言葉を背に、スバルは墓所を出た。
雪が降っている。
白い。
静かだ。
静かすぎる。
墓所の外には、ガーフィールがいた。
その隣に、リューズの複製体が立っている。
ガーフィールは苛立ちを隠していなかった。
目は血走り、牙が剥き出しになっている。
「おい」
彼は低く言った。
「姫様は何て言ってた」
「……エミリアじゃない」
「あ?」
「雪を降らせてるのは、エミリアじゃない。止められる状態でもない」
ガーフィールの目が鋭くなる。
「じゃあ誰だ」
スバルは、片目で雪の向こうを睨んだ。
「ロズワールだ」
その名が出た瞬間、ガーフィールの怒りの向きが変わった。
ただ苛立っていた獣が、明確な獲物を見つけたように。
「……あの道化が?」
「ああ」
「根拠は」
「この雪でエミリアを追い詰めて、俺を動かす。それをやる意味があるのは、あいつだけだ」
「推測じゃねぇか」
「本人に聞く」
ガーフィールは奥歯を噛んだ。
納得したわけではない。
だが、止める理由もなかった。
そこへ、ラムが現れた。
雪の中でも、表情は変わらない。
だが、スバルには、その静けさがかえって異様に見えた。
「バルス」
「ラム。ロズワールのところへ行く」
「そう」
「止めるか?」
「止めても、行くのでしょう」
「ああ」
ラムは小さく息を吐いた。
「なら、ラムも行くわ」
ガーフィールが苛立ったようにラムを見る。
「ラム、お前、何か知ってんのか」
「知っていることも、知らないこともあるわ」
「またそれかよ」
「今はそれで十分よ」
ガーフィールは舌打ちする。
リューズ複製体は何も言わない。
ただ、雪の中で無表情に立っている。
少し離れたところに、ユイがいた。
村人たちを抑えていたのだろう。
肩に雪を積もらせ、息を切らしている。
彼女は、スバルたちの向かう先を見て顔を強張らせた。
外から見れば、それは明らかな動揺だった。
ロズワールが何をするのか。
ラムがどうなるのか。
ガーフィールがどうなるのか。
それを予感してしまった人間の顔。
けれど、内側は違った。
ユイは知っている。
これから起こることを、全部知っている。
ロズワールが雪を降らせた理由。
エミリアを孤立させる意図。
ラムを貫く腕。
ガーフィールの絶叫。
自分がここで死んだように見せかけるべきこと。
スバルを折るために用意された、残酷すぎる会話。
そして、大兎。
この世界でロズワールがどこまでやるかを、ユイは知っている。
だからこそ、彼女は表情を作った。
驚いた顔。
恐怖した顔。
止めたいのに間に合わない顔。
今ここで、すべてを知っていることを悟られるわけにはいかない。
スバルにも。
ガーフィールにも。
ラムにも。
そして、ロズワールにも。
ユイは唇を噛む。
それは演技だった。
だが、唇の奥に灯る熱は演技ではなかった。
胸が高鳴っている。
この先、スバルはまた壊れる。
また届かない。
また、自分だけが覚えている痛みを抱えて、血の味を噛みしめる。
ペトラも。
フレデリカも。
ベアトリスも。
ラムも。
ガーフィールも。
ロズワールも。
そして、自分も。
全部が、スバルの心を曇らせるための重石になる。
そう思うと、ユイの腹の底に、甘い歓喜が滲んだ。
ひどい。
自分でもそう思う。
けれど、否定はしない。
人が死ぬことそのものに心を痛めるほど、ユイは綺麗ではない。
スバルが曇る。
それが見られる。
それだけで、この凄惨な場面に意味を見いだしてしまう。
だが、その顔は絶対に見せない。
ここで笑えば終わる。
ここで喜びを滲ませれば、スバルに悟られる。
ロズワールにも、利用される。
だから、ユイは怒りの形を作る。
怒っているふりをする。
悲しんでいるふりをする。
耐えきれずに飛び出す少女を演じる。
それが、今この場で彼女が選ぶべき仮面だった。
スバルと目が合った。
ユイは何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
スバルも頷き返し、ロズワールの部屋へ向かう。
ユイは、その後を追った。
ロズワールの部屋。
扉の向こうは静かだった。
雪の気配すら遠い。
スバルは扉を開ける。
包帯に巻かれた男が、寝台の上にいた。
ロズワール・L・メイザース。
いつもの道化めいた笑み。
だが、その笑みは、いつも以上に静かだった。
まるで、ここへ来ることが最初から決まっていたとでも言うように。
「やぁ、スバルくん」
ロズワールは穏やかに言った。
「その様子だと、屋敷ではずいぶん苦労したようだねぇ」
スバルは、挨拶を返さない。
まっすぐに問う。
「雪を降らせたのは、お前か」
ロズワールは答えない。
ただ、口元をゆっくりと吊り上げた。
沈黙。
その沈黙だけで、十分だった。
「答えろ」
「そうだよ」
あまりにも軽く、ロズワールは言った。
「聖域に雪を降らせたのは、私だ」
ガーフィールが低く唸った。
床が軋む。
「てめぇ……!」
彼が踏み出そうとする。
ラムが、その前に立った。
「ラム、どけ」
「待ちなさい、ガーフ」
「待てるかよ!」
ガーフィールの声が跳ねる。
「こいつがやったんだぞ! 姫様が責められて、みんな凍えて、あの雪が――!」
「その通りだ」
ロズワールは遮った。
平然と。
何も悪びれず。
「私は、エミリア様を孤立させるために雪を降らせた」
スバルの胃が冷たく沈む。
「孤立……?」
「聖域の人々に恐れられ、責められ、追い詰められる。試練に失敗し続ける心に、さらに負荷がかかる。そうすれば、彼女は寄る辺を失う」
ロズワールは、スバルを見る。
「そして、君に縋る」
スバルの拳が震えた。
「エミリアを壊すために、雪を降らせたのか」
「壊すためではないよ」
ロズワールは微笑む。
「君に、彼女を選ばせるためだ」
「何だよ、それ」
「君は多くを見すぎる。多くを掴もうとしすぎる。屋敷、聖域、ベアトリス、村人、仲間、そしてエミリア様。全部を救おうとする」
「当たり前だ」
「当たり前ではない」
ロズワールの声は、低く、静かだった。
「選ぶということは、捨てるということだよ。君はそれを認めない。だから、失う」
「お前が失わせてるんだろうが!」
「そうだよ」
即答だった。
スバルは息を呑む。
「私は、君に失わせている。君が本当に必要な一つを選べるようになるまで」
ガーフィールが吠えた。
「もういい」
その声は、獣の唸りに近かった。
「ラム、どけ。今すぐこいつを潰す」
「どかないわ」
「なんでだよ!」
「ロズワール様だからよ」
「理由になってねぇ!」
「ラムには十分な理由よ」
ガーフィールの顔が歪む。
怒り。
困惑。
痛み。
全部が混ざっていた。
「お前、こいつが何してるかわかってんのか」
「わかっているわ」
「なら、なんで守る!」
ラムは少しだけ振り返った。
その目はガーフィールではなく、ロズワールを見ていた。
「守っているのではないわ」
ラムの声は、ひどく静かだった。
「ラムは、見届けているの」
その瞬間だった。
ロズワールが動いた。
包帯姿の体が、寝台から消えるように飛び出す。
速い。
あまりにも速い。
ラムが反応する。
ガーフィールも動こうとする。
だが、間に合わない。
ロズワールの腕が、ラムの胸を貫いた。
そして、その背後にいたガーフィールの体まで穿つ。
赤が散る。
雪の白さが、部屋の中にまで滲んだようだった。
「……ラム?」
ガーフィールの声が、幼くなった。
ラムは咳き込み、血を吐いた。
それでも、すぐには倒れない。
貫かれたまま、目だけを動かす。
「ガーフ……」
「ラム、ラム、なんで……」
ガーフィールは、震える手でラムを支えようとする。
血が流れる。
止まらない。
彼の掌を滑り落ちていく。
スバルは動けなかった。
理解が追いつかない。
ロズワールが、ラムを。
ラムごと、ガーフィールを。
「何してんだよ……」
声が漏れた。
かすれた、自分のものではないような声だった。
「お前、何してんだよ……ロズワール……!」
それは激怒ではなかった。
叫び散らす怒りではない。
炎のように燃え上がる怒りではない。
あまりにも多くを見すぎて。
あまりにも多くを失いすぎて。
スバルの怒りは、喉の奥で凍っていた。
熱ではなく、冷たさとしてそこにある。
ロズワールは腕を引き抜いた。
ラムの体が崩れる。
ガーフィールが、それを必死に抱き留める。
「ラム! おい、ラム!」
その叫びは、獣ではなかった。
ただの少年の声だった。
ガーフィールはラムの傷へ手を当て、何かをしようとする。
治そうとしているのか。
縋っているのか。
自分でもわかっていないようだった。
「死ぬな、ラム、死ぬなって……!」
その姿を、ロズワールは見下ろした。
痛ましげではなく。
冷淡でもなく。
ただ、決まっていたことを確認するように。
「ガーフィール」
ロズワールは静かに言った。
「その優しさは、君の強さであり、弱さでもあるねぇ」
次の瞬間、彼の脚が振り抜かれた。
鈍い音。
ガーフィールの体が跳ねる。
ラムを抱いたまま、力が抜けていく。
頭から、血が広がった。
スバルの喉が引きつる。
「ガーフィール……」
ユイが駆け出した。
知っていた。
全部、知っていた。
ラムが貫かれることも。
ガーフィールが崩れることも。
ロズワールが何一つ迷わないことも。
そして、ここでスバルの中にまた一つ、消えない傷が刻まれることも。
だから、この瞬間に自分がどう動くべきかも、ユイは考えていた。
ここで何もしなければ、あまりにも不自然だ。
ここで冷静すぎれば、ロズワールに余計な疑念を持たれる。
ここで本気で止めに入りすぎれば、流れそのものを壊す。
なら、怒る。
止めようとする。
そして、殺される。
死んだように見せる。
スバルに、さらに一つ失わせる。
それが、この場でユイが選んだ演技だった。
「やめて!」
叫びは、自然に出た。
演技として用意したはずの声は、自分でも驚くほど鋭かった。
けれど、その怒りは本物ではない。
本物に見えるよう整えた、怒りの形だった。
ラムの血が赤いことも。
ガーフィールの声が痛々しいことも。
スバルの表情が凍りついていることも。
全部、見えている。
そして、その全部がスバルを曇らせる材料になると思うと、ユイの心の底に甘い満足が広がる。
その満足を、怒りの声で覆い隠す。
悲鳴で塗り潰す。
誰にも見えないように、心の奥底へ押し込める。
何も知らずに耐えきれなくなった少女のように。
ロズワールへ向かって駆ける。
その足取りは、わずかに遅い。
間に合わないとわかる程度に。
けれど、周囲から見れば必死に見える速度で。
ロズワールは、視線だけをユイへ向ける。
「君も来るのかい」
穏やかな声だった。
次の瞬間、空気が歪んだ。
見えない刃のような魔力が、ユイの胸を貫いた。
正確には、貫いたように見えた。
ユイは、その瞬間に虚飾を被せた。
痛みは本物。
衝撃も本物。
だが、致命の軌道だけをほんのわずかにずらす。
同時に、胸を裂かれたように見せる。
血が溢れたように見せる。
呼吸を止める。
脈を隠す。
瞳から光が抜けるように、表情を落とす。
自分が死んだという認識を、周囲の感覚へ滑り込ませる。
虚飾。
真実を塗り替えるのではなく、認識の縁をずらす。
生きているものを、死んでいるように見せる。
それだけなら、できる。
「ユイさん!」
スバルの声が、裂けた。
ユイの体が壁へ叩きつけられる。
背中を強かに打つ。
痛い。
これは本当に痛い。
だが、今は反応してはいけない。
ユイは床に崩れ落ちた。
血だまりが広がる。
胸から赤が流れているように見える。
呼吸はない。
指先も動かない。
瞳は半ば閉じ、床の一点を見つめたまま。
死体の形。
完璧に。
スバルが一歩、ユイへ向かいかけた。
だが、足が止まる。
ラム。
ガーフィール。
ユイ。
一度に失いすぎて、体が動かない。
怒りはある。
確かにある。
けれど、爆発しない。
胸の奥で凍りついたまま、冷たく重く沈んでいる。
「……ロズワール」
スバルの声は低かった。
怒鳴らない。
叫ばない。
ただ、低い。
「お前……今、何をした」
「必要なことをしただけだよ」
ロズワールは、ユイの死体に見えるものを一瞥した。
ほんのわずかに、目を細める。
ユイは動かない。
呼吸もしない。
心臓も、虚飾で外からは感じ取れないように隠している。
ロズワールの視線が、胸の奥まで入ってくるようだった。
だが、彼はすぐに興味を薄めた。
「彼女は少し、余計なものを見すぎていたようだからね」
ユイは、死んだふりをしたまま内心で笑った。
余計なものを見すぎている。
その通り。
だが、まだ見ている。
この場のすべてを。
スバルの凍った怒りも。
ロズワールの気持ち悪いほど静かな執着も。
血だまりの中で、自分の死を信じているスバルの横顔も。
全部、見ている。
最高だった。
だが、その歓喜は、まばたき一つにも出さない。
ユイは死体でいなければならない。
スバルの中で、今だけは本当に死んでいなければならない。
ロズワールは、視線をスバルへ戻す。
「さて」
その声は、また穏やかだった。
床にはラムとガーフィールの血。
壁際には死んだように倒れたユイ。
そのすべてを背景に、ロズワールは微笑んでいる。
「これで、君と話せる」
「話……?」
スバルの声は乾いていた。
「これで?」
「そうだよ」
ロズワールは、血に濡れた手を気にも留めず、寝台脇の黒い本へ手を伸ばした。
スバルの目が、その本に吸い寄せられる。
「福音書……」
「似ているが、少し違う」
ロズワールは、本の表紙を撫でた。
愛おしげに。
祈るように。
「これは、私を導くものだ。私が四百年、従い続けた道標」
「四百年……」
「私はね、スバルくん」
ロズワールの声が、少しだけ低くなる。
「一つだけを見ている」
「一つ?」
「先生だ」
その一言で、スバルにはわかった。
エキドナ。
白い魔女。
ロズワールが、四百年の果てまで追い続けているもの。
「先生を取り戻す。そのために必要なら、私は何でもする。誰を犠牲にしてもいい。自分の命でさえ、道の途中に置いていける」
「狂ってる」
「そうだろうね」
ロズワールは、否定しなかった。
「でも、狂わなければ、一つだけを見続けることはできない」
「俺に、それをしろって言うのか」
「そうだ」
ロズワールはスバルを見る。
「君は、エミリア様だけを見ればいい」
「ふざけんな」
声は荒くない。
けれど、芯が冷えていた。
「彼女以外を切り捨てろ」
「ふざけんな」
もう一度。
今度はさらに低く。
「俺は、全部救う」
「できない」
「やる」
「できないよ」
ロズワールの返事は、あまりにも静かだった。
「君は屋敷を選んだ。だから聖域が壊れた。聖域を選べば、屋敷が壊れる。両方を救おうとすれば、両方とも取りこぼす」
「それをお前が仕組んだからだろ」
「そうだよ」
ロズワールは頷く。
「君に、どちらかを選ばせるためにね」
「なんでそこまでする」
「君が、私に似ているからだ」
「似てない」
「似ているよ」
「似てない」
スバルは、今度は叫ばなかった。
叫ぶ力がないのではない。
叫んでしまえば、自分の中の何かが崩れるとわかっていた。
だから、低く、削るように否定した。
「俺は、お前みたいにはならない」
「今はね」
ロズワールの声は、ひどく柔らかかった。
「けれど、君は何度折れても立ち上がる。失敗を抱えて、それでも先へ進む。私の書は、その君をここへ導いた。なら、私は君を完成させる」
スバルの喉が凍る。
ロズワールは、スバルの胸の奥にあるものを正確には知らない。
名前も。
仕組みも。
それが誰に与えられたものかも。
だが、彼は確信している。
スバルが、この終わりで終わらないことを。
それが、何より気持ち悪かった。
「この私は、ここで終わっても構わない」
ロズワールは言った。
「君がこの終わりを持って先へ進むなら、私の役目は果たされる」
「この世界を、捨てるっていうのか」
「捨てる?」
ロズワールは、少しだけ笑った。
「言い方は任せるよ。私は私の目的のために、必要な一手を打つだけだ」
「ラムは死んだ」
スバルの声が震える。
「ガーフィールも死んだ。ユイさんも死んだ。ここにいるお前も、これから死ぬ。どこかに続きがあるからって、ここで死んだ奴らがなかったことになるわけじゃない」
ロズワールの笑みが、わずかに薄くなった。
「君がそれを言うのかい?」
「……」
「君こそ、いくつもの終わりを背負っているのではないのかな。だから苦しい。だから迷う。だから、救えない」
スバルは言葉に詰まる。
痛いところを突かれた。
失敗した世界。
置いてきた死。
自分だけが覚えている痛み。
それらは消えていない。
なかったことになんて、できていない。
「俺は、忘れてない」
スバルは震える声で言った。
「誰も、なかったことになんかしてない」
「なら、なおさら選ぶべきだ」
ロズワールは言う。
「苦しみを増やさないために。一つだけを掴むために」
「違う」
「何が違う?」
「最初から切り捨てる理由にはならない」
ロズワールは、静かに目を細めた。
「惜しいねぇ」
「何がだよ」
「あと少しで、君は私になれる」
「ならない」
即答だった。
怒鳴らない。
ただ、拒絶する。
「俺は、お前にはならない」
窓の外で、雪が揺れた。
不自然に。
ざわり、と白いものが蠢く。
雪ではない。
丸い体。
白い毛。
赤い目。
一匹。
二匹。
数えきれないほど。
大兎。
スバルの血の気が引いた。
「来たのか……」
「雪に誘われてね」
ロズワールは、窓の方へ歩く。
その声は穏やかだった。
「この世界は、もう終わりだ」
「お前も死ぬんだぞ」
「構わないよ」
ロズワールは振り返る。
「この私は、やるべきことをやった」
「勝手に終わらせるな」
「終わらせるのではない。託すんだよ」
「託す?」
「君にね」
ロズワールはスバルの襟を掴んだ。
抵抗する力は残っていない。
片目は潰れ、体は傷だらけ。
スバルは引きずられるように窓際へ連れていかれる。
外には、大兎。
白い海のように蠢く死。
「見ておくといい」
ロズワールは言った。
「これが、選べなかった結果だ」
「やめろ……」
「覚えておくといい」
ロズワールは、スバルを窓の外へ突き出す。
「君が、本当に選ぶべきものを」
「やめろ」
スバルの声は、もう大きくなかった。
けれど、確かに怒っていた。
冷たく。
低く。
深く。
それでも、ロズワールは止まらない。
スバルの体が、宙へ投げ出された。
世界が回る。
雪。
白い獣。
赤い目。
冷たい空気。
地面に叩きつけられ、肺から息が消える。
上を見る。
ロズワールが窓際に立っていた。
その顔には、笑みがある。
勝利の笑みではない。
敗北の笑みでもない。
信仰に殉じる者の笑み。
白い大兎が、ロズワールの体へ群がった。
肉が裂ける。
血が散る。
それでも、ロズワールは叫ばなかった。
最後まで、笑っていた。
スバルは叫ぼうとした。
声が出ない。
白い獣たちが、今度はスバルへ向く。
赤い目。
無数の歯。
小さな体。
大兎。
痛みが来た。
一匹が指を噛む。
次が腕を裂く。
次が腹へ食いつく。
痛み。
痛み。
痛み。
世界が白と赤に染まる。
死ねない。
すぐには死ねない。
スバルは叫びにならない声を漏らしながら、雪の上を這った。
「エミリア……」
墓所へ。
エミリアのところへ。
片目は見えない。
体はもう、ほとんど自分のものではない。
それでも、這う。
歯で息を噛みしめながら。
肉を食われながら。
血を流しながら。
墓所へ。
戻る。
戻らなければならない。
雪の中に、誰かの声が聞こえた気がした。
ユイの声だった。
叫んでいる。
呼んでいる。
その声は、本当はもう出ていない。
ユイは死体のふりをして、ロズワールの部屋の床に転がっている。
けれど、スバルの耳には聞こえた気がした。
届かなかった声として。
また守れなかった誰かの声として。
その錯覚さえ、ユイが見たら喜ぶだろう。
スバルが壊れていく。
届かない手を伸ばし続ける。
全部を救うと言いながら、また何もかも取りこぼしていく。
その姿が、ユイにはたまらなく甘い。
けれど、スバルはもう振り返れない。
墓所へ。
エミリアのところへ。
ただ、それだけを目指して這った。
スバルは、墓所の入口へ辿り着いた。
白い石の中へ、血を引きずって転がり込む。
そこに、エミリアがいた。
彼女は驚かなかった。
ただ、待っていたように微笑んだ。
「おかえり、スバル」
スバルは声を出せなかった。
エミリアは膝を差し出す。
「ここにおいで」
血に濡れた体を、彼女が抱える。
優しく。
優しく。
壊れた優しさで。
「大丈夫。私がいるよ」
スバルの意識が遠のく。
エミリアの手が、髪を撫でる。
「愛してる」
その声が、遠くでサテラの声と重なる。
けれど、今ここにいるのはエミリアだ。
壊れてしまったエミリア。
スバルを待ち続けて、スバルだけを見ているエミリア。
「エミ……リア……」
口から血がこぼれる。
エミリアは、泣きそうに笑った。
「もう、どこにも行かないでね」
彼女の顔が近づく。
冷たい唇が、スバルの唇に触れた。
白い墓所。
赤い血。
壊れた愛。
死の味。
スバルの意識は、そこで途切れた。