次に目を開けた時、スバルはまず、息をした。
吸う。
吐く。
肺が動く。
喉は裂けていない。
腹も、腕も、指も、白い獣に食われていない。
左目に手を当てる。
ある。
潰されていない。
血も流れていない。
あの、赤く弾けた視界はもうない。
けれど、記憶だけが残っていた。
雪。
白い兎。
肉を噛み千切られる感覚。
這いずって辿り着いた墓所。
そして、冷たい唇。
「……っ」
スバルは口元を押さえた。
死の味が、まだ唇に残っている気がした。
墓所の石床は冷たい。
すぐ横に、エミリアが倒れていた。
試練に呑まれたまま、苦しげに眉を寄せている。
まだ壊れていない。
まだ、あの空っぽの笑顔ではない。
まだ、スバルだけを世界にしていない。
まだ間に合う。
「……戻った」
声が掠れる。
戻った。
また。
戻ってしまった。
屋敷には届かなかった。
ペトラも、フレデリカも、レムも、ベアトリスも。
聖域では、エミリアが壊れた。
ロズワールは雪を降らせた。
ラムを貫き、ガーフィールを殺し、ユイまで――。
胸を貫かれ、血だまりに沈んだ。
呼吸もなく、指先も動かず、スバルの目には完全に死んだように見えた。
「……ふざけんな」
怒りはある。
けれど、燃え上がらない。
あまりにも多くを見すぎて、怒りは氷のように胸の奥で固まっていた。
スバルは拳を握る。
「全部だ」
エミリアだけではない。
屋敷だけではない。
聖域だけではない。
ベアトリスも。
レムも。
ペトラも。
フレデリカも。
ラムも。
ガーフィールも。
ユイも。
全部。
一つだけを選ぶのではない。
全部を選ぶ。
それが無謀でも、馬鹿げていても、スバルにはもう、それ以外の答えがなかった。
スバルはエミリアの肩に手を置いた。
「エミリア」
呼びかける。
エミリアの睫毛が震えた。
ゆっくりと、紫紺の瞳が開かれる。
「……スバル?」
「ああ。俺だ」
「私……また、駄目だったの?」
エミリアの声は細い。
「今はいい」
「よくないよ。私、また逃げて……」
「今は休め」
「でも、聖域のみんなが……」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ」
エミリアは弱く首を振った。
「私が頑張らなきゃいけないのに。私が、試練を越えなきゃいけないのに」
「頑張る時は来る」
スバルは、できるだけ静かに言った。
「でも、今じゃない」
「スバル?」
「今、無理に立たなくていい。俺が、少しだけ時間を作る」
エミリアは不安げにスバルを見る。
「どこか行くの?」
「ああ」
「また、私を置いて?」
その言葉に、スバルの胸が詰まった。
前の世界のエミリアが重なる。
置いていかないで。
ここにいて。
私だけを見て。
あの声が、耳の奥で蘇る。
スバルは奥歯を噛み、首を振った。
「置いていくんじゃない」
「……」
「戻るために行く」
エミリアは、泣きそうな顔をした。
その表情が、まだ壊れていないことに、スバルは胸の底で安堵した。
「じゃあ、約束して」
「約束?」
「戻ってきて」
スバルは息を呑む。
重い言葉だった。
守れなかった世界がある。
戻ったのに遅すぎた世界がある。
それでも、言うしかない。
「戻る」
スバルは言った。
「ちゃんと戻る」
エミリアは、小さく頷いた。
スバルはエミリアを抱き起こす。
体が重い。
いや、エミリアが重いのではない。
スバル自身の心が重い。
それでも、彼女を支えて墓所を出る。
墓所の外に、ユイがいた。
少し離れた場所で待っていた彼女は、スバルがエミリアを支えて出てくるのを見ると、すぐに近づいてきた。
「エミリアは?」
「寝かせる。手伝ってくれ」
「わかった」
ユイは余計なことを聞かなかった。
ただ、エミリアの反対側に回り、肩を支える。
エミリアは申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい、ユイ」
「謝らなくていいわ」
「でも、私……」
「今は休む。それが必要なことよ」
ユイの声は淡々としていた。
外側だけを見れば、冷静な助言だった。
だが、内側は違う。
ユイは、スバルの顔を横目で見ていた。
左目を確認した直後の動き。
唇を押さえた仕草。
エミリアへの過剰な慎重さ。
前の周回で何を見たか、だいたい読み取れる。
そして何より、スバルの目に残っている喪失の影。
ラム。
ガーフィール。
自分。
ユイは胸の奥に浮かぶ甘い満足を、呼吸の底へ押し込んだ。
効いている。
自分の死んだふりは、ちゃんとスバルに刺さっている。
だが、顔には出さない。
スバルに悟られては意味がない。
ユイは心配している少女の顔で、エミリアを寝所へ運ぶのを手伝った。
エミリアを寝かせると、彼女はすぐに疲労に沈むように眠りについた。
試練に削られた心と体が、限界だったのだろう。
スバルはしばらく、その寝顔を見ていた。
壊れていない。
まだ、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
ユイは部屋の入口で待っていた。
「行くのね」
「ああ」
「墓所へ?」
「エキドナに聞く」
「一人で?」
「一人で行く」
「私も行くわ」
スバルは振り返った。
「ユイさん」
「中には入らない。外で待つ」
「危ないかもしれない」
「危なくない場所なんて、もうないでしょう」
「……それはそうだけどよ」
スバルは苦く笑う。
前の世界で、ユイは死んだ。
そう見えた。
だからこそ、今ここで生きている彼女を連れていくことに、胸がざわつく。
だが、彼女は外で待つと言っている。
墓所の中へ入るのはスバルだけ。
なら、まだいい。
「わかった」
スバルは頷いた。
「ただし、外で待っててくれ」
「ええ」
「何が起きても、中には来るな」
「約束はできない」
「そこはしろよ」
「あなたが危険なら、破る」
スバルは苦笑した。
ユイは、その内心を知る由もない顔で、静かに立っている。
本当は知っている。
この後、何があるか。
第二の試練。
ありうべからざる今。
エキドナの契約。
魔女たちの茶会。
サテラ。
そして、ロズワールとの対話。
全部、知っている。
だからこそ、ついていく。
見届けるために。
スバルがまた曇る、その瞬間を。
二人は墓所へ向かった。
夜の聖域は静かだった。
墓所の入口に着くと、ユイは足を止める。
「私はここで待つ」
「ああ」
「戻ってきて」
「戻る」
「本当に?」
スバルは少しだけ目を伏せた。
「本当に」
ユイは頷いた。
スバルは墓所の中へ入る。
白い石の回廊。
冷たい空気。
静寂。
奥へ進みながら、胸の内で呼びかける。
エキドナ。
聞きたいことがある。
ロズワール。
ベアトリス。
叡智の書。
雪。
大兎。
聖域。
全部を救う道。
その瞬間、足元の感覚が消えた。
視界が白く滲む。
肉体がどこか遠くへ沈む。
耳の奥に、声が落ちた。
静かで。
無機質で。
拒否を許さない声。
「――ありうべからざる今を見ろ」
その言葉が、胸の奥に杭のように打ち込まれた。
過去ではない。
第一の試練のように、自分の過去と向き合うのではない。
今。
ありえないはずの今。
あってはならないはずの今。
スバルが死んだ後に続いてしまったかもしれない現在。
それを、見ろ。
「……なんだよ、それ」
スバルの声は、白い闇に吸い込まれた。
次に見えたのは、クルシュ邸の一室だった。
ベッド。
眠るレム。
その傍らで倒れている自分。
首が裂け、血が床に広がっている。
スバルはすぐに理解した。
レムを救おうとして、自分で喉を裂いた時。
死ねば戻れると信じた。
戻った。
だから、その世界は終わったと思っていた。
違う。
扉が開く。
「スバル!」
エミリアが駆け込んでくる。
彼女はスバルの死体に駆け寄り、膝から崩れ落ちた。
血に濡れた首。
動かない体。
開いたままの目。
エミリアの手が震える。
「嘘……嘘、だよね……?」
返事はない。
死んでいる。
エミリアはスバルの肩を揺する。
「起きて。ねえ、スバル、起きてよ。私、まだ……まだちゃんと、言えてないことがあるのに」
スバルは叫ぼうとした。
ここにいる。
違う。
それはもう終わった。
でも、声は届かない。
エミリアは泣いていた。
泣きながら、死んだスバルを抱きしめていた。
その後ろからヴィルヘルムが現れ、息を呑む。
すぐにフェリスが呼ばれる。
フェリスはスバルの首に手を当て、治癒を試みた。
だが、血は戻らない。
死は覆らない。
やがて、フェリスの手が止まる。
彼の顔には、怒りがあった。
悲しみより先に、怒り。
なぜこんなことをした。
なぜ残された者を考えなかった。
なぜ、レムの傍で死んだ。
言葉にならない怒りが、フェリスの肩を震わせている。
ヴィルヘルムは静かに目を閉じていた。
老剣士は泣かない。
だが、声が沈んでいる。
若者の死を悼む声。
守れなかったことを悔いる声。
エミリアは、スバルの胸に額を押し当てていた。
「好きって、言ったのに……」
その言葉が、スバルの心臓を刺した。
「一緒にいるって、言ったのに……」
やめろ。
スバルは耳を塞ごうとする。
手は動かない。
体はない。
視界だけがある。
試練は言う。
ありうべからざる今を見ろ。
世界が暗転する。
次に見えたのは、荒れた戦場だった。
魔女教との戦いの後。
地面に倒れている自分。
ペテルギウスに肉体を奪われ、ユリウスとフェリスに殺してもらった後の世界。
スバルは覚えている。
殺してくれと頼んだ。
そうしなければ、皆を傷つけるから。
だから死んだ。
戻った。
終わったと思っていた。
だが、ここにも続きがあった。
エミリアが、死んだスバルへ近づいていた。
彼女の顔は真っ白だった。
ユリウスは剣を収めている。
騎士として立っている。
だが、その瞳の奥は重い。
友というには、まだ言葉も時間も足りなかった。
だが、共に戦い、最後に重すぎる役目を託してきた男。
その死体を前に、ユリウスは騎士として立ち尽くしている。
フェリスは、声を荒げていた。
どうして、と。
また、と。
救えなかった、と。
エミリアは、死んだスバルの顔に触れた。
汚れた頬を拭う。
血を拭う。
「スバルは、私に何も言ってくれなかった」
エミリアの声は小さい。
「どうして、いつも一人で決めちゃうの……?」
スバルは息を失った。
そうだ。
何も言っていない。
言えなかった。
死に戻りを口にすれば、心臓を掴まれる。
誰かが傷つく。
だから黙った。
でも、黙った結果、残された者は何も知らない。
なぜ死んだのか。
何を背負っていたのか。
どうして助けを求めなかったのか。
何も知らない。
ただ、死体だけが残る。
また暗転する。
次は、崖下だった。
屋敷の近く。
レムを救うために、崖から飛び降りた時。
地面に叩きつけられた自分。
血に濡れた体。
その近くにラムが立っていた。
冷たい顔。
けれど、その目は冷たくない。
怒っている。
いや、怒りの形をした混乱だった。
「最後まで、わけのわからない男ね」
言葉は鋭い。
だが、声がわずかに揺れている。
なぜ死んだのか。
なぜレムを救おうとしたのか。
なぜそこまでして、何も説明しなかったのか。
ラムにはわからない。
わからないまま、スバルを罵ることしかできない。
その横に、ベアトリスがいた。
小さな精霊は俯いている。
「馬鹿なのよ」
ベアトリスは呟いた。
「お前は、本当に、馬鹿なのよ」
その手は震えていた。
それでも、扉を開けてやってきた騒がしい男が、こんな場所で死んでいる。
ベアトリスは泣いていた。
怒りながら。
呆れながら。
それでも、泣いていた。
「ベア子……」
声は届かない。
また暗転する。
今度は、氷の世界だった。
白い終わり。
凍りついた空気。
巨大な獣。
契約を失い、世界を凍らせるパック。
死んだエミリア。
そこへ現れる、剣聖。
ラインハルト。
パックは、スバルを罪の一つとして数える。
エミリアを救えなかった者として。
そして、自分自身もまた、エミリアを救えなかった獣として。
ラインハルトは止める。
パックは止まらない。
竜剣が抜かれる。
世界が裂ける。
氷が砕ける。
白い終わりが、英雄の一振りで断たれる。
残るのは、英雄だけ。
何も救えなかった英雄だけ。
「やめろ……」
スバルは声を絞り出した。
終わらない。
盗品蔵で死んだ後。
屋敷で殺された後。
ペテルギウスに体を奪われた後。
自分で喉を裂いた後。
飛び降りた後。
凍りついた後。
見たくない終わりばかりが、次々に突きつけられる。
どれも、ありえないはずだった。
あってはならないはずだった。
スバルが戻ったから、消えたはずだった。
でも、試練は言う。
ありうべからざる今を見ろ。
もしも続いていたなら。
もしも、死に戻りが完全な巻き戻しではなかったなら。
もしも、スバルが逃げた世界の向こう側に、残された人々がいたなら。
見ろ。
見ろ。
見ろ。
スバルは膝をついた。
吐いた。
胃の中には何もない。
ただ、喉だけが焼ける。
「俺は……」
声が震える。
「俺は、何を救ったんだ……?」
死んできた。
何度も。
何度も。
誰かを救うために死んだ。
戻って、やり直して、成功したと思っていた。
けれど、残された世界があるのなら。
そこに悲しむ人がいるのなら。
自分だけが、次へ逃げただけではないのか。
「違う……」
自分に言い聞かせる。
「違うだろ……」
答えはない。
白い闇だけがある。
墓所の外で、ユイは静かに立っていた。
表向きは、ただ待っているだけ。
だが、虚飾で細く伸ばした視線は、試練の内側に潜り込んでいる。
スバルには気づかれない。
エキドナには、おそらく気づかれている。
それでも、止められていない。
ユイは見ていた。
スバルの第二の試練を。
死の後に残された可能性を。
自分の犠牲が救いではなく、誰かの傷として残っているかもしれないと突きつけられるスバルを。
胸の奥が震える。
美しい。
そう思った。
ひどいことだとわかっている。
けれど、あまりにも美しい。
救うために死んできた少年が、その死で誰かを救えなかったかもしれないと突きつけられる。
善意が罰に変わる。
自己犠牲が罪に見える。
それでも、スバルは目を逸らせない。
ユイは口元が緩みそうになるのを、奥歯を噛んで押さえた。
今、ここで笑うわけにはいかない。
スバルに悟られてはいけない。
彼女はただ、墓所の外で待つ少女の顔を保つ。
その仮面の奥でだけ、甘く震える。
試練の中で、スバルは崩れていた。
「もう……嫌だ……」
喉の奥から漏れた声は、子どものようだった。
「俺は……こんなの、知らない……」
その時、声がした。
「大丈夫です」
聞こえてはいけない声。
けれど、何より聞きたかった声。
スバルは顔を上げる。
青い髪。
優しい目。
レム。
「レム……?」
「はい。レムです」
彼女は微笑む。
いつものように。
スバルを信じてくれる、あの顔で。
「スバルくんは、頑張りました」
その一言で、心が崩れそうになる。
言ってほしかった。
誰かに。
いや、誰かではない。
レムに。
レムだけに。
「俺は、何もできてねえ」
「そんなことありません」
「できてねえんだよ。何度死んでも、取りこぼしてばっかりだ。俺が死んだ後のことなんか、考えたこともなかった。戻れるからって、なかったことにして……」
「それでも、スバルくんは進んできました」
「違う」
「違いません」
レムは近づいてくる。
「もう、休んでもいいんです」
「……」
「辛いことも、悲しいことも、全部レムに預けてください。スバルくんは、もう十分頑張りました」
甘い。
あまりにも甘い。
その言葉に沈めば、どれほど楽だろう。
もう背負わなくていい。
もう考えなくていい。
全部、レムが許してくれる。
そう思いかけた。
でも。
「……違う」
スバルの指が止まった。
伸ばしかけた手が、空中で震える。
「スバルくん?」
「お前は、レムじゃない」
声は震えていた。
それでも、確かだった。
「レムは俺を慰める。休めって言う。俺が苦しんでたら、絶対に手を握ってくれる。でも、俺が全部投げ出そうとしたら、そこで終わらせたりしない」
「……」
「レムは、俺を諦めさせるために優しいんじゃない。俺を立たせるために、優しいんだ」
スバルは歯を食いしばる。
「俺の好きなレムを、そんなふうに使うな」
レムの姿が揺れた。
輪郭がほどける。
青が消え、別の姿が現れる。
怯えたように肩をすくめる少女。
目を合わせることすら怖がるような魔女。
色欲の魔女。
カーミラ。
「ち、違うの……わたしは、その……」
「誰だ、お前」
「わ、わたしは……カーミラ……」
「レムの姿で、俺に何をしようとした」
「あなたが、壊れそうだったから……助けようと、しただけで……」
「助ける?」
スバルの声が冷える。
「レムの姿を使って?」
「わ、わたしの権能は……見たいものを、見せちゃうから……」
その声は怯えている。
悪意ではない。
それはわかった。
だが、許せるかどうかは別だった。
「エキドナか」
スバルは低く言った。
「また、あいつか」
スバルが詰め寄ろうとした瞬間、呼吸が止まった。
「……っ?」
息ができない。
吸うという動作を忘れる。
吐くこともできない。
胸が動かない。
心臓の音が遠ざかる。
カーミラが泣きそうな顔で何かを言っている。
声が遠い。
理解した時には、もう遅い。
スバルの視界が白く弾けた。
草原。
青い空。
白いテーブル。
そして、白い魔女。
エキドナが、いつものように座っていた。
「やあ」
彼女は穏やかに笑う。
「ずいぶんと、苦しそうな顔をしているね」
スバルは地面に倒れ込み、激しく咳き込んだ。
肺が空気を求めて痙攣する。
喉が焼ける。
ようやく呼吸が戻った。
スバルは、涙目のままエキドナを睨む。
「お前……!」
「カーミラは、君を壊さないために動いた。方法が君の神経を逆撫でするものだったことは認めるけれどね」
「レムの姿を使った時点で最悪だ」
「君が一番求めた救いの形だった」
「そういうところだよ」
スバルは拳を握る。
「人の一番柔らかいところを、平気で触る」
「必要ならね」
悪意がない。
それが最悪だった。
スバルは荒く息を整えた。
「第二の試練。あれは何だ」
「君が見た通りだよ。ありうべからざる今。君が死んだ後に、続いていたかもしれない現在」
「本当に続いてるのか」
エキドナは、すぐには答えなかった。
沈黙。
それが、スバルの胃を冷たく沈める。
「答えろ」
「断言はできない」
「……」
「試練は挑戦者の記憶、経験、知識、可能性から構成される。だから、あれを完全な現実だと言い切ることはできない」
スバルの胸に、わずかな安堵が生まれかけた。
だが、エキドナはそれを許さない。
「ただし」
「ただし?」
「君の力の仕組みを、僕は完全には知らない。君が死んだ時に世界が巻き戻るのか。あるいは、君の意識だけが別の可能性へ移るのか。そこに確証はない」
スバルの顔から血の気が引く。
「じゃあ、あれは……」
「本当にあったかもしれない。なかったかもしれない。答えを知るのは、その権能を与えた存在だけだろう」
胸の奥で、黒い手が蠢いたような気がした。
嫉妬の魔女。
サテラ。
「……俺は」
声が震える。
「俺は、あいつらを置いてきたのか?」
「その可能性を否定できない」
「お前……」
「同時に、肯定もできない」
エキドナは淡々としている。
「だから、君が触れられる現在に集中するべきだ。君が今ここにいて、今ここで選べるもの。それだけが、君に干渉できる現実だ」
「簡単に言うな」
「簡単ではないから、助言している」
エキドナは柔らかく微笑む。
「君はよくやっているよ、ナツキ・スバル」
その言葉に、スバルの呼吸がわずかに止まった。
「誰にも言えない力を抱え、何度も死に、何度も失い、それでもここまで来た。君が罪だと思っているものを、僕は罪として裁かない。君が許されないと思っていることを、僕は拒絶しない」
「……」
「君は、君にできることをしてきた」
欲しかった言葉だった。
誰かに言ってほしかった。
自分のやってきたことを、誰かに認めてほしかった。
スバルはエキドナを信用していない。
信用できない。
けれど、言葉だけは胸に染み込む。
その染み込み方が怖かった。
墓所の外で、ユイは虚飾の糸越しに茶会を見ていた。
エキドナは上手い。
人の心を理解していないように見せて、欲しい言葉の位置を正確に探る。
スバルは今、許しが欲しい。
救いが欲しい。
答えが欲しい。
エキドナは、それらを差し出す顔をしている。
痛みではなく、許しで曇る。
それもまた、甘い。
「だから、提案がある」
エキドナが言った。
「提案?」
「僕と契約しないかい」
白い草原に、風が吹いた。
エキドナは微笑む。
「僕は知識を差し出す。君が望む未来へ辿り着くため、僕の知る限りを与えよう。君が迷えば、僕が考える。君が選択肢を見失えば、僕が並べる。君が失敗の意味を掴めないなら、僕が解き明かす」
「……」
「君は一人で考えなくていい。一人で抱え込まなくていい。誰にも言えない秘密を、僕だけは聞ける。君が死によって何を得て、何を失ったのか、そのすべてを僕は受け止める」
「受け止める?」
「そう。君の死も、痛みも、後悔も、未来への手掛かりとして扱う。君が望む結末へ至るために、あらゆる可能性を検討する」
言葉は優しい。
あまりにも理性的で、頼もしい。
スバルが喉から手が出るほど欲しかったものが、そこに並んでいる。
相談できる相手。
秘密を話せる相手。
情報を持つ相手。
孤独を終わらせる相手。
しかし、スバルの胸には別の名前が引っかかっていた。
「ベア子」
エキドナの目がわずかに細くなる。
「うん」
「ベアトリスのことを教えろ」
「何を知りたい?」
「契約だ」
スバルの声が低くなる。
「あいつは、お前と契約して禁書庫にいた。“その人”を待てと言われて、四百年待ってた。けど、お前はその相手を教えてない。あいつはずっと、誰かわからない誰かを待たされてた」
「そうだね」
「そうだね、じゃねえ」
拳が震える。
「あいつは、扉が開くたびに期待してたんだぞ。違うってわかっても、また次の扉を待って。四百年だ。四百年、あいつは一人で……」
「一人ではなかったよ。禁書庫には本があった」
「そういう話じゃねえ!」
エキドナは怒りを向けられても揺れない。
「“その人”は誰だ」
スバルは言った。
「ベアトリスを終わらせるために来るはずだった“その人”。その正体を教えろ」
エキドナは微笑んだ。
「いないよ」
スバルの表情が止まった。
「……は?」
「具体的な誰かを決めていたわけじゃない」
「どういう意味だ」
「その人は、ベアトリスが選ぶものだった。彼女が、この人だと思った相手。それが“その人”になる。僕はそういうつもりだった」
スバルは、言葉を失った。
次の瞬間、怒りが込み上げる。
「じゃあ、あいつは……」
「うん」
「誰かが来るって信じて、四百年待ってたのに」
「そうだね」
「お前は、最初から誰も決めてなかったのか」
「そういうことになる」
「何のために」
「見たかったから」
エキドナは、何の悪びれもなく言った。
「ベアトリスが、何を選ぶのか。誰を選ぶのか。あるいは、選ばないのか。与えられた役目と、自分の意思。その狭間で、彼女がどんな結論を出すのか。それを知りたかった」
スバルの背筋に寒気が走った。
「お前……」
「結果として、彼女は選ばなかった。あるいは、選べないまま待つことを選んだ。四百年もの間、契約に従い、空白の本を抱き、扉の音に期待し続けた」
エキドナの瞳が、わずかに輝く。
「実に興味深い」
その瞬間、スバルの中で何かが切れた。
いい言葉を並べられた。
よくやっていると言われた。
罪ではないと言われた。
秘密を聞けると言われた。
全部、欲しかった。
欲しかったはずなのに。
今、目の前の白い魔女が、ベアトリスの四百年を「興味深い」と言った。
死にたいとまで言った少女の孤独を。
扉が開くたびに裏切られた時間を。
実験結果のように。
観察記録のように。
「ふざけるな」
スバルの声は低かった。
エキドナは目を瞬く。
「お前は、あいつを救う気なんかなかった」
「救いの定義によるね」
「黙れ」
スバルは一歩踏み出す。
「ベア子は、死にたいって言った。待つのを終わらせたいって。もう期待したくないって。俺に殺してくれって言った」
「そうだろうね」
「それを、お前は面白いと思うのか」
「面白い、という言い方が気に障るなら、興味深いと言い換えよう」
「同じだ!」
スバルは叫んだ。
「同じなんだよ! お前は、ベア子の痛みも、俺の死も、全部そうやって見るんだろ。興味深いって。知りたいって。記録して、観察して、満足するんだろ!」
エキドナは否定しない。
ただ、静かに見ている。
それが答えだった。
「契約はしない」
スバルは吐き捨てた。
エキドナの手は、まだ差し出されている。
だが、スバルはその手を見もしなかった。
「お前とは、絶対に契約しない」
「理由を聞いても?」
「今のでわからないなら、何を言っても無駄だ」
「僕の知識は必要だろう?」
「必要でも、お前はいらない」
エキドナの笑みが、わずかに止まった。
その時、別の声が響いた。
金髪の少女が現れる。
憤怒の魔女、ミネルヴァ。
さらに、怯えたようなカーミラ、無邪気なテュフォン、沈黙するダフネ、気怠げなセクメト。
魔女たちが次々と姿を現す。
彼女たちは、エキドナの契約がスバルにとって甘いだけのものではないと告げた。
最後には助けるかもしれない。
だが、その途中でどれだけ痛み、どれだけ失敗し、どれだけ死ぬのか。
エキドナはそれも知りたがる。
強欲だから。
人の苦しみも、選択も、失敗も、死も。
すべて知識として欲しがるから。
「……やっぱり、無理だ」
スバルは呟いた。
「俺は、お前とは組めない」
エキドナは黙っていた。
それから、ふっと笑う。
「残念だよ」
その時。
世界が震えた。
白い草原に、黒い影が落ちる。
魔女たちの表情が変わる。
影が広がる。
黒。
深い黒。
そこから、声がした。
「愛してる」
スバルの心臓が止まりかけた。
嫉妬の魔女。
サテラ。
黒い影をまとい、顔を隠した女が現れる。
「愛してる」
その声が、前の世界の影と重なる。
聖域を呑んだ影。
すべてを呑み込もうとした、逃げ場のない愛。
「お前……」
スバルの声が震える。
「お前のせいで……!」
怒りが沸く。
恐怖もある。
嫌悪もある。
なのに、胸の奥には説明できない感情もある。
懐かしさに似た何か。
「お前が、俺にこれを押しつけたんだろ……!」
サテラは答えない。
ただ言う。
「愛してる」
「それしか言えねえのかよ!」
「自分を、大切にして」
サテラの声が、静かに落ちた。
スバルは固まる。
「……は?」
「あなたを、愛して。あなたを、救って」
「ふざけんな」
声が低くなる。
「お前が俺をこんな目に遭わせておいて、俺に自分を大事にしろって言うのか」
「あなたに、生きてほしい」
「勝手なこと言ってんじゃねえ!」
スバルは叫んだ。
「俺の命は、俺が使う! 誰かを救うために必要なら、何度だって捨てる! それしかできねえんだよ!」
「違う!」
ミネルヴァが怒鳴った。
「あんた、まだわかってない! あんたが死んだら、残された人が泣くって見たばかりでしょうが!」
スバルは息を呑む。
第二の試練。
ありうべからざる今。
自分の死後に泣いていた人たち。
エミリア。
フェリス。
ヴィルヘルム。
ラム。
ベアトリス。
ユリウス。
そして、前の周回で自分が死んだと思ったユイ。
自分を大事にする。
そんなことができるなら、とっくにしている。
誰かを救うために死ぬことだけが、自分にできる唯一の価値だと思ってきた。
それを否定されたら、自分は何になる。
「あなたを、救って」
サテラは言う。
「あなた自身を、救って」
スバルは、舌を噛もうとした。
この場から逃げるために。
死ねば戻れる。
いつものように。
だが、瞬間、体が動かなかった。
魔女たちが、スバルを死なせなかった。
「なんでだよ……」
スバルの声が折れる。
「俺の命だろ……」
「違うわよ!」
ミネルヴァが怒る。
「あんたの命は、あんただけのものじゃない!」
その言葉に、スバルは何も返せなかった。
墓所の外で、ユイの虚飾の糸が震えた。
スバルが死を選ぼうとした瞬間。
ユイは、息を呑んでいた。
いや、正確には、心が躍っていた。
死を逃げ道として使おうとするスバル。
それを、魔女たちに止められるスバル。
自分の命が自分だけのものではないと突きつけられるスバル。
曇りの形が変わる。
痛みから、責任へ。
自己犠牲から、自己肯定への恐怖へ。
ユイはそれを見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
けれど、その熱はすぐに冷えた。
サテラの影が、ふとこちらを向いた気がした。
見られた。
虚飾の糸越しに。
ユイは動かない。
墓所の外で、ただ待っている少女の顔をしたまま。
だが、心の奥では警戒を最大まで引き上げる。
サテラは何も言わない。
ただ、スバルを見ている。
スバルは、膝をついていた。
呼吸が荒い。
死ねなかった。
死ぬことを止められた。
そして、初めて本当に怖くなった。
死が。
痛みが。
終わりが。
自分が死んだ後に泣く人たちが。
「……わかった、なんて言えねえ」
スバルは呟く。
「自分を好きになれとか、自分を救えとか、そんなの急に言われても無理だ」
サテラは黙っている。
「でも、死ぬのを道具にするのは……少し、考える」
サテラは、静かに頷いた。
「いつか」
彼女は言った。
「私を、殺して」
スバルは顔を上げる。
その言葉の意味はわからない。
けれど、彼女の声は祈りに似ていた。
「……俺は」
スバルは息を吐く。
「お前を殺すかどうかなんて、今は決められない」
サテラは黙っている。
「でも、もしお前が本当に救われたいなら」
スバルは、まっすぐに言った。
「俺は、お前を救う方法を探す」
サテラの影が揺れた。
顔は見えない。
けれど、スバルには、ほんの一瞬だけ、銀の髪と紫紺の瞳が見えた気がした。
エミリアに似た顔。
いや、同じ顔。
「今のは――」
問いは最後まで続かなかった。
世界が砕ける。
白も。
黒も。
魔女も。
茶会も。
すべてが遠ざかった。
そして――。
「……ぶはっ!?」
頬に、ぬめった感触。
息が詰まって、スバルは反射的に跳ね起きた。
視界に飛び込んできたのは、黒い鱗。
大きな瞳。
心配そうに鼻先を寄せる、パトラッシュの顔だった。
「パ、パトラッシュ……?」
黒い地竜は、当然のように鼻を鳴らした。
スバルは呆然と周囲を見る。
墓所の外。
白い石の入口の前。
夜の冷たい空気。
魔女の茶会ではない。
エキドナもいない。
サテラの影もない。
スバルは、墓所の外で倒れていた。
「お前……起こしてくれたのか」
パトラッシュがもう一度、頬を舐めようとする。
「待て待て待て! 起きた! 俺は起きたから二度目はいらねえ!」
「騒がしいですね、目を覚まして早々」
聞き慣れた声がした。
スバルは顔を上げる。
そこに、オットーがいた。
寝起きなのか、服は少し乱れている。
息も切れている。
だが、顔にはいつものように、呆れと心配が同居していた。
「オットー……?」
「はい、オットーです。夜中に地竜に叩き起こされて、墓所まで連れてこられたオットーです」
「なんでここに」
「だから、パトラッシュさんです。すごい勢いで僕を引っ張るものだから、何事かと思えば……」
オットーは、倒れていたスバルを見下ろした。
「案の定、あなたが倒れているわけです」
「悪い」
「謝るくらいなら、もう少し倒れない努力をしてください」
「善処する」
「その返事、信用できませんね」
短いやり取り。
それだけなのに、スバルの胸に少しだけ現実の温度が戻る。
白い茶会。
ありうべからざる今。
サテラの言葉。
エキドナの契約。
全部がまだ胸の奥で渦巻いている。
けれど、目の前にはオットーがいる。
パトラッシュがいる。
そして、少し離れた場所にユイも立っていた。
ユイは、スバルが起きたのを見て、静かに息を吐いた。
「起きたのね」
「ああ……なんとか」
「顔色は最悪だけど」
「それは今さらだ」
「今さらで済ませないで」
ユイの声は静かだった。
だが、表情には心配がある。
少なくとも、スバルにはそう見えた。
スバルは、ゆっくり立ち上がった。
足元がふらつく。
オットーが咄嗟に手を伸ばす。
「危ないですよ」
「大丈夫だ」
「大丈夫な人間は、今みたいな立ち方をしません」
「うるせえな……」
そう言いながら、スバルは墓所の入口を見た。
白い石。
静かな闇。
さっきまで入れた場所。
茶会へ繋がった場所。
エキドナと話し、魔女たちと向き合い、サテラの声を聞いた場所。
スバルは、足を一歩出した。
確かめたかった。
もう一度、入れるのか。
まだ、自分に試練へ触れる資格があるのか。
エキドナにもう一度問いを投げられるのか。
あるいは、完全に切られたのか。
「ナツキさん?」
オットーが怪訝そうに呼ぶ。
スバルは答えなかった。
墓所の入口へ足をかける。
その瞬間だった。
「――っ!」
体の奥が、裏返った。
拒絶。
墓所そのものが、スバルを受け入れない。
胸を掴まれる。
喉が詰まる。
視界が歪む。
胃の奥がせり上がる。
「ぐ、ぅ……っ」
「ナツキさん!?」
オットーが声を上げる。
スバルは膝をついた。
石床に手をつき、耐えきれずに吐いた。
「おえっ……げほっ、ぐ……!」
胃液が地面に散る。
何も食べていないのに、体は吐こうとする。
涙が滲む。
喉が焼ける。
スバルは、震える手で口元を拭った。
「……入れねえ」
声が掠れた。
「さっきまで、入れたのに……」
オットーは戸惑った顔をする。
「何があったんですか」
「……いろいろだ」
「いろいろで済ませる顔じゃないでしょう」
「今は、全部は話せない」
スバルは、はっきりと言った。
オットーは目を細める。
問い詰めようとする。
だが、スバルの顔色を見て、言葉を飲み込んだ。
「では、話せるところだけでいいです」
「……ロズワールのところへ行く」
スバルは言った。
オットーの表情が変わる。
「ロズワール様のところへ?」
「ああ」
「こんな夜中に?」
「今じゃなきゃ駄目だ」
「理由は」
スバルは一瞬、黙った。
死に戻りは言えない。
茶会のすべてを話すこともできない。
ロズワールがどこまで知っているかも、ここで全部明かせない。
だから、言葉を選ぶ。
「確かめたいことがある」
「それだけですか」
「それだけじゃない。でも、今言えるのはそこまでだ」
オットーは不満げに眉を寄せた。
だが、スバルの声に嘘がないことはわかったのだろう。
「危険なんですか」
「たぶん」
「たぶんで行くんですか」
「行く」
スバルは立ち上がる。
まだ足元は揺れている。
吐いたばかりで、体は重い。
それでも、行かなければならない。
ロズワール。
雪。
叡智の書。
エミリアを追い詰める仕掛け。
ベアトリスの契約。
一つだけを選べと笑った男。
今、確かめるべき相手は、エキドナではない。
サテラでもない。
ロズワールだ。
「一人で行く」
スバルは言った。
オットーが目を見開く。
「何を言っているんですか」
「これは、一人で行く」
「だから、どうしてそこで一人になるんですか。あなた、さっき倒れていたんですよ」
「それでもだ」
スバルは、短く言い切った。
ユイも一歩前に出る。
「私も行く」
「駄目だ」
即答だった。
ユイの足が止まる。
スバルは、彼女を見た。
前の世界で血だまりに倒れていた姿が、脳裏をよぎる。
胸を貫かれ、動かなかったユイ。
呼吸もなく、完全に死んだように見えたユイ。
この世界の彼女は、その記憶を持っていない。
スバルだけが覚えている。
だから、連れていけない。
「ユイさんも、オットーも、部屋に戻ってくれ」
「理由は?」
ユイが静かに聞く。
スバルは、答えに詰まる。
全部は言えない。
お前が前の世界で死んだように見えたから、などと言えるはずがない。
「ロズワールと、二人で話したい」
「……」
「話せることと、話せないことがある。あいつが何を知っているのか、どこまで踏み込んでくるのか、俺一人で確かめたい」
「危険です」
オットーが言った。
「危険なのはわかってる」
「わかっていて行くんですか」
「ああ」
「ナツキさん」
「頼む」
スバルは、オットーを見る。
そして、ユイを見る。
「今だけは、一人で行かせてくれ。二人は、部屋に戻っていてくれ」
その声には、無茶を通す強引さだけではないものがあった。
恐怖。
怒り。
そして、覚悟。
オットーは何か言いかけたが、結局、唇を噛んで黙った。
ユイも、すぐには動かなかった。
内側では、流れを確認している。
ここはスバルが一人でロズワールへ向かう。
それでいい。
この世界ではユイがいる。
それでも、スバルが一人を選ぶ理由はできた。
前周のユイの死。
スバルだけが覚えている喪失。
ユイは小さく息を吐いた。
「わかったわ」
スバルは少し驚いた顔をした。
「いいのか」
「止めても行くでしょう」
「……ああ」
「なら、部屋に戻る」
ユイは、静かに言った。
「ただし、戻ってきて」
スバルは目を伏せた。
戻る。
またその言葉だ。
重い。
それでも、今度は逃げずに頷く。
「戻る」
オットーが不満そうに腕を組んだ。
「僕は納得していませんからね」
「わかってる」
「帰ってきたら、話せる範囲で話してください」
「それもわかってる」
「本当でしょうね」
「たぶん」
「そこは断言してください!」
オットーの抗議を背に、スバルは少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚く。
だが、すぐに表情を引き締めた。
墓所はもう、自分を受け入れない。
エキドナの手は取らなかった。
サテラの言葉は、まだ胸に残っている。
自分を救え。
自分を大切にしろ。
急にはできない。
でも、少なくとも今、無意味に誰かを巻き込まない選択はできる。
スバルは墓所に背を向けた。
ユイとオットーが、部屋へ戻っていく気配を背中で聞く。
パトラッシュだけが、少し不満そうに鼻を鳴らした。
「お前も、少し待っててくれ」
スバルは、黒い地竜の首筋に手を置いた。
「これは、俺が一人で聞かなきゃいけない話だ」
パトラッシュは納得していないようだった。
それでも、スバルの手を振り払うことはなかった。
スバルは歩き出した。
向かう先は、ロズワールの元。
全部は話せない。
全部は明かせない。
けれど、確かめなければならない。
白い魔女ではなく。
黒い影でもなく。
今度は、道化の仮面を被った人間と向き合うために。
ロズワールの部屋の前に立つ頃には、吐き気は少しだけ収まっていた。
だが、胸の奥の重さは消えない。
スバルは扉の前で息を整える。
一度、拳を握る。
そして、扉を開けた。
部屋の中は静かだった。
包帯に巻かれたロズワールが、寝台の上で身を起こしている。
夜中だというのに、まるでスバルが来ることを知っていたように、眠っている様子はなかった。
異なる色の瞳が、スバルを見た。
「やぁ、スバルくん」
ロズワールは、いつもの調子で言った。
「ずいぶんと、ひどい顔をしているねぇ」
「お前に言われたくねえよ」
「それはそうかもしれないねぇ。私も、今は人の顔色を笑える立場ではない」
ロズワールは軽く肩をすくめた。
包帯がわずかに軋む。
スバルは扉を閉める。
部屋には二人だけ。
ユイもいない。
オットーもいない。
パトラッシュもいない。
ここから先は、一人で確かめる。
「墓所に入れなくなった」
スバルは切り出した。
ロズワールの目が、わずかに細くなる。
「そうかい」
「驚かないんだな」
「驚くべきことかな?」
「普通は驚く」
「君に起きることは、普通では測れないからねぇ」
スバルの拳がわずかに震える。
「お前は、どこまで知ってる」
「何についてかな?」
「俺についてだ」
ロズワールは、少しだけ笑った。
答えを先延ばしにするような笑み。
スバルは続ける。
「俺が失敗した後、別の可能性へ進めること。お前は、それを知ってる」
ロズワールの瞳が、静かにスバルを映す。
「確信している、という表現が近いねぇ」
「仕組みは?」
「知らない」
即答だった。
「君が何を代償にしているのか。どういう条件でそれが起こるのか。誰が与えたものなのか。正確なところは、私にはわからない」
「なら、なんでそこまで断言できる」
「私には、道標がある」
ロズワールの手が、寝台の傍らに置かれた黒い本へ触れた。
スバルは、その本を見る。
ベアトリスの白紙の本とは違う。
こちらは、まだロズワールを導いている本。
叡智の書。
あるいは、それに類するもの。
「その本に、俺のことが書いてあるのか」
「すべてではない。だが、必要なだけは」
「必要なだけ?」
「君が、私の目的に必要な存在であること。君が、普通の失敗では終わらないこと。そして、君を正しく導けば、私の望む未来に近づけること」
「正しく導く?」
スバルの声が低くなる。
「前の……いや」
言いかけて、止める。
前の世界。
そう言いそうになった。
言えない。
言えば、どこまで踏み込まれるかわからない。
ロズワールは、そのわずかな言い淀みを見逃さなかった。
口元が、わずかに歪む。
「言葉を選んでいるねぇ」
「当たり前だ」
「そうだね。君には、言えないことが多すぎる」
スバルは息を呑む。
ロズワールは続ける。
「だが、私は君が何を抱えているか、完全には知らない。だからこそ、君自身に選んでもらう必要がある」
「何を」
「一つを」
その言葉に、スバルの背筋が冷えた。
前の世界で聞いた言葉。
ロズワールは知らないはずの会話。
しかし、同じ場所へ辿り着く。
「君は欲張りだ」
ロズワールは言った。
「屋敷も、聖域も、エミリア様も、ベアトリスも、村人たちも、仲間たちも。全部を救おうとしている」
「悪いか」
「悪くはないよ。美しい願いだ」
ロズワールは穏やかに笑う。
「だが、美しいだけでは届かない」
「……」
「選ぶということは、捨てるということだ。君は、それを嫌がる。けれど、嫌がる限り、君は何も掴めない」
「お前は、何を捨てた」
「すべて」
ロズワールは、あまりにも自然に答えた。
「私は、先生以外のすべてを捨てた」
先生。
エキドナ。
白い魔女。
スバルは、茶会で見たエキドナの顔を思い出す。
ベアトリスの四百年を、興味深いと言った魔女。
そして、その魔女だけを見続ける男が、目の前にいる。
「狂ってる」
「そうだろうね」
ロズワールは、否定しなかった。
「だが、狂わなければ、一つを見続けることはできない」
「俺に、それをやれって?」
「そうだ」
ロズワールの声は静かだった。
「君は、エミリア様だけを見ればいい」
「ふざけるな」
スバルの声は低く落ちた。
「俺は、お前にはならない」
「今は、そう言うだろうねぇ」
「これからもだ」
「強がりだ」
「違う」
「違わないよ」
ロズワールは、優しく言う。
「君は、まだ死をうまく使えていない」
その言葉に、スバルの全身が強張った。
「……何?」
「君が持つその力は、使い方次第で、どこまでも未来を選び直せる。なのに君は、失敗の痛みに怯え、残された可能性に囚われ、まだ自分の死を特別なものとして扱っている」
「お前……」
「死を恐れるな、とは言わない。だが、君はその恐怖さえ使うべきだ。目的のために。たった一つの、守るべきもののために」
スバルの胸の奥で、ミネルヴァの声が蘇る。
あんたの命は、あんただけのものじゃない。
サテラの声も。
あなたを、救って。
スバルは奥歯を噛む。
「お前とエキドナは、似てるな」
ロズワールの眉がわずかに動いた。
「興味深い言い方だ」
「あいつは、俺の死を知りたがった。俺がどこで失敗して、どこで折れて、どうやって進むのか。全部、知識として欲しがった」
「先生らしい」
「そう言うと思ったよ」
スバルは吐き捨てる。
「お前も同じだ。俺の死を、道具として見てる。俺がどれだけ痛いか、誰が泣くか、そんなの関係ない。ただ、お前の目的に使えるかどうかだけだ」
「違うとは言わない」
「言えよ、少しは」
「嘘は好きではないのでねぇ」
ロズワールは微笑む。
その笑みが、スバルの怒りを冷たくする。
「屋敷を襲わせたのは、お前か」
スバルは言った。
ロズワールは、瞬き一つせずに答える。
「そうだよ」
あまりにも軽かった。
スバルの呼吸が止まる。
「エルザを雇ったのは、私だ」
「……」
「屋敷を襲わせるためにね」
「レムがいる」
「そうだね」
「ペトラもいる。フレデリカもいる。ベアトリスもいる」
「そうだ」
「死ぬかもしれない」
「その可能性はある」
スバルの拳が震えた。
だが、叫ばない。
怒りは、冷えたままだ。
「やめろ」
スバルは言った。
「エルザを止めろ」
「できない」
「できない?」
「しない、と言うべきかな」
ロズワールは静かだった。
「屋敷への襲撃は必要だ」
「何のために」
「君に選ばせるために」
スバルの口の中が乾く。
「屋敷か、聖域か」
「そう」
「エミリアか、レムたちか」
「乱暴に言えば、そうなる」
「お前……!」
「君が屋敷へ行けば、聖域が崩れる。君が聖域に残れば、屋敷が危うい。両方を救おうとすれば、君はどちらも取りこぼす」
「それを、お前が仕組んだんだろうが」
「そうだよ」
即答。
悪びれない。
反省もしない。
ロズワールは、ただ目的のために必要な布石を置いたと言う顔をしている。
「私は、君に完成してほしい」
「完成?」
「私と同じように、一つだけを選べる存在に」
「俺は、お前にはならない」
「なるよ」
ロズワールは言った。
「君は、そうなるしかない。そうでなければ、君の望む未来には届かない」
「違う」
「違わない」
「違うって言ってんだろ」
スバルは一歩前に出る。
「俺は全部救う」
「できない」
「やる」
「できないよ、スバルくん」
ロズワールの声は、穏やかすぎた。
「この世界は、君の理想に合わせてできてはいない。手を伸ばせば届くほど、都合よくはない」
「知ってる」
「なら、なぜ認めない」
「認めたら、終わりだからだ」
スバルは、ロズワールを睨んだ。
「一つしか選べないって認めたら、俺はその瞬間に、お前と同じになる。何かを切り捨てるのが当然になる。誰かが死んでも、目的のためだって言えるようになる」
「それが強さだ」
「違う。それは、お前がそうじゃなきゃ耐えられなかっただけだ」
ロズワールの目が、わずかに細くなった。
初めて、表情に小さな亀裂が入った。
「君は、私を理解したつもりかい?」
「理解なんかしたくねえよ」
スバルは言う。
「でも、わかったことはある。お前は、自分が捨てたから、俺にも捨てさせたいんだ。自分だけが狂ってるんじゃないって、証明したいんだろ」
沈黙。
ロズワールは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと笑う。
「面白いねぇ」
「笑うな」
「いや、面白いよ。君はやはり、先生が興味を持つだけのことはある」
「その言い方も嫌いだ」
「だろうねぇ」
ロズワールは、黒い本へ手を置いた。
「けれど、忘れないことだ。君が何を叫ぼうと、状況は変わらない。屋敷は襲われる。聖域は解放されない。エミリア様は試練を越えられない。そして、君は墓所に入れなくなった」
「……」
「つまり、君はもう、彼女の代わりに試練を背負うこともできない」
スバルは唇を噛む。
痛いところを突かれた。
墓所に拒まれた。
資格を失った。
もう、自分がエミリアの代わりに試練を越えることはできない。
「なら、エミリアに越えさせる」
「彼女にできるかな?」
「やらせるんじゃない。支える」
「それで間に合うと?」
「間に合わせる」
ロズワールは、ふっと息を吐いた。
「君は本当に欲張りだ」
「ああ」
スバルは認めた。
「俺は欲張りだ。全部欲しい。全部救いたい。全部取り返したい」
「その結果、また失う」
「それでもだ」
「また死ぬ」
「それでも、生きて救う」
ロズワールの目が、わずかに変わった。
死んで救う、ではない。
生きて救う。
その言葉が、ロズワールには少しだけ異物だったのかもしれない。
「茶会で、何かあったようだねぇ」
ロズワールが言った。
スバルは答えない。
ロズワールはそれ以上踏み込まなかった。
だが、わかっている顔をしていた。
「君は、先生の手を取らなかった」
「……」
「そういう顔をしている」
「だったら何だ」
「惜しいことをしたねぇ」
「俺はそう思ってない」
「先生の知識は、君の助けになったはずだ」
「そうだろうな」
スバルは認めた。
「でも、あいつの手は取らない」
「では、誰の手を取る?」
ロズワールが問う。
スバルはすぐには答えなかった。
脳裏に浮かんだのは、オットーだった。
パトラッシュだった。
ユイだった。
エミリアだった。
レムだった。
ベアトリスだった。
まだ頼り方も、救い方も、全部わかっているわけではない。
だが、少なくとも、白い魔女の手ではない。
ロズワールのような、血に濡れた執着の手でもない。
「お前じゃない誰かだ」
スバルは言った。
ロズワールは笑った。
「曖昧だねぇ」
「今はそれでいい」
スバルは踵を返す。
「話は終わりかい?」
「今はな」
「屋敷の件は変わらないよ」
「変えさせる」
「聖域も変わらない」
「変える」
「私も変わらない」
その言葉に、スバルは足を止めた。
振り返る。
「それは、どうかな」
ロズワールの目が細くなる。
「俺は、お前の思い通りにはならない」
「楽しみにしているよ」
「楽しむな」
「無理だねぇ」
ロズワールは、また道化のように笑った。
けれど、その笑みの奥には、確かな執着があった。
先生。
エキドナ。
四百年。
叡智の書。
そのすべてに縛られた男が、そこにいる。
スバルは、扉へ向かった。
部屋を出る直前、ロズワールの声が背にかかる。
「スバルくん」
「何だ」
「君が本当に全部を救うというなら、証明してみせるといい」
「言われなくても」
スバルは扉を開ける。
「証明してやるよ」
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、スバルは大きく息を吐いた。
足が震えていた。
怒りで。
恐怖で。
それでも、倒れなかった。
部屋へ戻れと言ったユイとオットーは、きっと完全には納得していない。
それでも、今は一人で聞く必要があった。
ロズワールは、屋敷を襲わせた。
ロズワールは、スバルを選ばせようとしている。
ロズワールは、スバルを自分と同じにしようとしている。
そしてスバルは、それを拒む。
「全部、救う」
廊下の暗がりで、スバルは小さく呟いた。
「死ぬためじゃなく、生きて救う」
その言葉は、まだ頼りない。
けれど、確かにそこにあった。