スバルは、一人で歩き出した。
背後で、オットーが何かを言いたげに息を呑む気配がした。
ユイも、黙ってこちらを見ている。
パトラッシュは不満げに鼻を鳴らした。
それでも、スバルは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
足が止まれば、きっと誰かを連れていきたくなる。
そうなれば、また巻き込む。
前の世界で、ユイは死んだ。
そう見えた。
ラムも、ガーフィールも、ロズワールの前で死んだ。
あの血の匂いを覚えている。
床に広がった赤を覚えている。
それを知っているのは、スバルだけだ。
だから、今だけは一人で行く。
ロズワールがどこまで知っているのか。
何を目的に動いているのか。
聖域を、屋敷を、エミリアを、どこまで利用するつもりなのか。
それを確かめる。
ロズワールの部屋の前に着いた。
扉の前で、スバルは一度だけ息を整える。
茶会の白い光が、まだ瞼の裏に残っていた。
エキドナの差し出した手。
ベアトリスの四百年を「興味深い」と語った顔。
そして、サテラの声。
あなたを、救って。
自分を救う。
自分を大切にする。
そんなこと、まだわからない。
けれど、少なくとも今、ここへ誰かを連れてこないことだけは選べた。
スバルは扉を開けた。
部屋の中は薄暗い。
寝台の上で、包帯姿のロズワールが半身を起こしていた。
眠っていた様子はない。
まるで、スバルが来るのを最初から知っていたように。
「やぁ、スバルくん」
ロズワールは、いつもの調子で言った。
「ずいぶんと、ひどい顔をしているねぇ」
「お前にだけは言われたくねえよ」
「それもそうだねぇ」
ロズワールは薄く笑う。
その笑みが、スバルの神経を逆撫でした。
スバルは部屋に入り、扉を閉める。
部屋には二人だけ。
「墓所に入れなくなった」
スバルは言った。
ロズワールの目が、わずかに細くなる。
「そうかい」
「驚かねえんだな」
「君に起こることは、常識だけでは測れないからねぇ」
「その言い方、やめろ」
「なら、こう言おう。君が何かを見てきたのだろうとは思っていた」
スバルは息を止めた。
ロズワールは、寝台脇に置かれた黒い本に指を添える。
叡智の書。
スバルの視線がそこへ吸い寄せられる。
「その本に、どこまで書いてある」
「すべてではないよ」
「じゃあ、何が書いてある」
「必要なことだ」
「お前にとって、か」
「そうだねぇ」
ロズワールは隠さない。
スバルは奥歯を噛む。
「俺が普通の失敗では終わらないことも?」
「確信している」
「仕組みは」
「知らない」
ロズワールは即答した。
「君がどんな条件でそれを成すのか。どんな代償を払っているのか。誰がそれを与えたのか。そこまでは知らない」
「なら、知ったような顔をするな」
「完全には知らない。だが、使えることは知っている」
「使える?」
スバルの声が低くなる。
ロズワールは静かに頷いた。
「君は、失敗を次へ持ち越せる。ならば、その力は未来を選別するためにある」
「選別……」
「そう。不要な結果を捨て、望む結果へ近づく。君には、それができる」
「俺の痛みを、道具みたいに言うな」
「道具ではない。希望だよ」
ロズワールの声は、ひどく穏やかだった。
「君は、私の希望だ」
スバルは言葉を失った。
希望。
その響きが、あまりにも歪んで聞こえた。
「希望って……何だよ」
「私の願いを叶えるための希望だ」
ロズワールは言った。
「先生へ至るための、唯一の道標だ」
「エキドナか」
その名を出した瞬間、ロズワールの瞳がかすかに揺れた。
「会ったのかい?」
「会った」
「先生は、どうだった?」
「最悪だった」
スバルは即答した。
「ベア子の四百年を、興味深いって言った。誰とも決めていなかった“その人”を待たせ続けて、それを見たかっただけだって言った」
ロズワールは黙って聞いていた。
否定しない。
驚きもしない。
それが、スバルの怒りをさらに煽った。
「お前は、それでもあいつを先生って呼ぶんだな」
「当然だ」
迷いのない声だった。
「先生は、先生だ」
「狂ってる」
「そうだろうねぇ」
ロズワールは、あっさり認めた。
「だが、狂わなければ、一つを見続けることはできない」
「俺に、それをやれって言うのか」
「そうだよ」
ロズワールは穏やかに言った。
「君は、エミリア様だけを見ればいい」
「ふざけんな」
「ふざけてはいない。私は本気だ」
ロズワールの声に、いつもの道化めいた揺らぎが薄くなる。
「君は欲張りすぎる。屋敷も、聖域も、エミリア様も、ベアトリスも、村人も、仲間も、全部を救おうとする」
「悪いか」
「悪くはない。美しい願いだ」
ロズワールは続けた。
「だが、美しい願いは、現実を越えられない」
「……」
「君には選択が必要だ。何を取り、何を捨てるのか。その覚悟が必要だ」
「選ぶってのは、捨てるってことか」
「そうだ」
「お前は、何を捨てた」
「すべて」
ロズワールは即答する。
「先生以外の、すべてを」
スバルの背筋が冷えた。
わかっていた。
ロズワールがそういう男だということは、前の世界で見ていた。
それでも、本人の口から聞くと、寒気が違った。
「お前は……本当に、それでいいのか」
「いいか悪いかではない。そうでなければ、私は私でいられない」
「……」
「だから、君にもそうなってほしい」
スバルは黙る。
ロズワールは、スバルの沈黙を肯定の余地と見たのか、穏やかに続けた。
「君は、まだ感情に振り回されている。人の死に怯え、自分の痛みに怯え、誰かを失うことを恐れている」
「当たり前だろ」
「それが邪魔になる」
「邪魔?」
「君が、望む未来へ進む上ではねぇ」
スバルの拳が震える。
「お前は、人の心を何だと思ってる」
「必要なら、捨てるべきものだ」
その答えは、あまりにも自然だった。
スバルは、深く息を吸った。
怒鳴りそうになるのを、必死に抑える。
ここで感情だけをぶつけても意味がない。
聞かなければならないことがある。
確かめなければならないことがある。
「屋敷が危ない」
スバルは言った。
ロズワールは微笑むだけだった。
「そうなのかい?」
「とぼけるな」
「私はここにいる。屋敷で何が起きるか、見ているわけではない」
「その本は?」
スバルの視線が、黒い本へ向く。
「そこに、何が書かれてる。屋敷に何が起こるか。エルザが来ること。メィリィが関わってること。お前は、どこまで知ってる」
ロズワールは本の表紙を撫でた。
「君は、本当に多くを見てきたようだ」
「答えろ」
「仮に、屋敷が襲われると知っていたとして、君はどうする?」
「止める」
「聖域は?」
「そっちもどうにかする」
「エミリア様は?」
「支える」
「ベアトリスは?」
「連れ出す」
「大兎は?」
「退ける」
ロズワールは静かに笑った。
「欲張りだねぇ」
「それはもう聞いた」
「では、改めて言おう。君には選ばなければならない」
「選ばない」
「選ぶんだよ」
ロズワールの声が、低くなる。
「そのために、私は状況を整えた」
スバルの呼吸が止まった。
「……状況?」
「屋敷を襲う者たち」
ロズワールは、静かに告げた。
「エルザ・グランヒルテ。そして、魔獣使いの少女。彼女たちを屋敷へ向かわせたのは、私だ」
世界が、一瞬止まった。
疑ってはいた。
最悪の可能性として、頭の奥にはあった。
だが、スバルは知らなかった。
確証はなかった。
なのに、今、本人の口から明かされた。
あまりにも平然と。
あまりにも当然のように。
「……お前が」
「そうだ」
「エルザを」
「うん」
「メィリィも」
「そうだねぇ」
「屋敷に……差し向けた」
「そうだ」
軽い。
軽すぎる。
レムがいる。
ペトラがいる。
フレデリカがいる。
ベアトリスがいる。
あの屋敷に、あの殺し屋を送った。
そして、ロズワールは平然としている。
「なんで……」
声が震えた。
「なんで、そんなことができる」
「必要だからだよ」
「何に」
「君を完成させるために」
ロズワールは言った。
「君が屋敷へ向かえば、聖域に問題が残る。君が聖域に残れば、屋敷が危うい。どちらも救おうとすれば、君はどちらも取りこぼす」
「それを、お前が仕組んだ」
「そうだ」
「俺に選ばせるために」
「そう」
「エミリアか、それ以外か」
「乱暴に言えば、そうなるねぇ」
スバルは、拳を振り上げそうになった。
だが、体が動かなかった。
怒りより先に、絶望が来た。
ロズワールは止めない。
エルザを止める気がない。
屋敷の命を、聖域の命を、天秤にかけている。
その天秤を作ったのは、ロズワール本人だ。
「止めろ」
スバルは言った。
「今すぐ、止めろ」
「しない」
「ロズワール」
「しないよ」
ロズワールの声は、静かだった。
スバルは、喉が詰まるのを感じた。
怒鳴っても無駄だ。
殴っても、おそらく無駄だ。
この男は、止まらない。
目的のためなら、何でも捨てる。
それが、ロズワール・L・メイザースだ。
だから、スバルは崩れた。
膝が床についた。
拳を握ったまま、体が前へ倒れる。
頭を下げる。
額が床に触れる。
土下座だった。
「頼む」
声が震えた。
「頼む、ロズワール」
ロズワールは、黙ってスバルを見ている。
スバルは床に額を擦りつけた。
「俺が悪かった」
その言葉は、自分でも何を指しているのかわからなかった。
ロズワールの期待通りに動けなかったことか。
屋敷も聖域も全部救うと叫んだことか。
何もできずに死んできたことか。
それとも、今こうして、憎い相手に頭を下げるしかないことか。
「俺が間違ってたなら、謝る。お前の言う通りにできなかったことも、全部、謝る」
喉が焼ける。
声が掠れる。
「だから、屋敷を襲わせるのをやめてくれ」
床が冷たい。
額が痛い。
それでも、頭を上げられない。
「レムがいる。ペトラがいる。フレデリカがいる。ベアトリスもいる。あいつらは関係ないだろ。俺を追い込むなら、俺だけにしろよ」
スバルの声が崩れる。
「頼む。許してくれ。俺が悪かったなら、俺が謝る。いくらでも謝る。だから、あいつらを巻き込むな」
ロズワールは、しばらく黙っていた。
部屋には、スバルの荒い息だけが響く。
やがて、ロズワールの声が落ちた。
「スバルくん」
「……頼む」
「君は、やはり私の希望だ」
スバルの息が止まった。
希望。
この姿を見て。
床に額を擦りつけ、許しを乞い、泣きそうな声で懇願しているスバルを見て。
ロズワールは、希望と言った。
「君は、そこまでできる」
ロズワールは続ける。
「誰かを救うために、自分の誇りを投げ捨てることができる。憎むべき相手に頭を下げることができる。痛みを呑み込んで、望む結果のために動ける」
「……」
「だからこそ、あと一歩なんだ」
スバルは、床に額をつけたまま、目を見開いた。
「あと一歩で、君は私と同じ場所へ来られる」
その言葉で、スバルの中の何かが凍った。
土下座しても。
懇願しても。
許しを乞うても。
ロズワールには届かない。
彼は、それすら材料として見ている。
スバルがどこまで捨てられるか。
どこまで折れられるか。
どこまで一つのために自分を壊せるか。
それを見て、希望と呼んでいる。
「……違う」
スバルは呟いた。
「違う……違うだろ……」
「違わないよ」
ロズワールの声は優しい。
優しすぎて、吐き気がした。
「君は、一つを選べる。エミリア様だけを見ればいい。屋敷を捨て、聖域を捨て、他を捨てても、彼女だけを掴めばいい」
「違う」
「それが君の完成だ」
「違う!」
スバルは叫んだ。
床に手をつき、顔を上げる。
涙は出ていない。
けれど、顔はぐしゃぐしゃだった。
「俺は、お前みたいにはならない!」
「なるよ」
「ならない!」
「なるしかない」
ロズワールは静かに言う。
「この世界は、君の理想を許さない」
スバルは、立ち上がろうとした。
足が震える。
膝に力が入らない。
それでも、立った。
「……もういい」
「どこへ行くんだい?」
「知らねえよ」
自分でもわからなかった。
ここにいたくない。
ロズワールの声を聞きたくない。
希望と呼ばれたくない。
自分の懇願すら、同類になるための材料として見られたくない。
「逃げるのかい?」
ロズワールが問う。
スバルは振り返らなかった。
「逃げねえ」
声は震えている。
「逃げねえよ」
でも、足は扉へ向かっていた。
扉を開ける。
廊下へ出る。
背後から、ロズワールの声が追いかけてくる。
「楽しみにしているよ、スバルくん」
その声を聞いた瞬間、スバルは走り出した。
どこへ向かっているのかもわからない。
部屋ではない。
エミリアのところでもない。
ユイやオットーのところでもない。
ただ、走った。
廊下を抜ける。
外へ出る。
冷たい夜気が肺を刺す。
息が苦しい。
それでも走る。
足元が見えない。
森へ入る。
枝が頬を打つ。
草が足に絡む。
石につまずく。
それでも走る。
「くそ……くそ、くそ……!」
息が切れる。
胸が痛い。
頭の中で、ロズワールの声が鳴り続ける。
君は私の希望だ。
あと一歩だ。
私と同じ場所へ来られる。
エミリア様だけを見ればいい。
他は捨てればいい。
「違う……!」
スバルは叫んだ。
「違う、違う、違う!」
何が違うのか。
どう違うのか。
証明する方法はわからない。
屋敷を救う手もない。
聖域を解く手もない。
エミリアを支える方法も、ベアトリスを連れ出す方法も、ガーフィールを動かす方法も、全部見えない。
それでも、違う。
自分はロズワールにはならない。
そう叫ぶことしかできなかった。
足がもつれた。
地面が傾く。
「――っ!」
スバルは派手に転んだ。
土が口に入る。
手のひらが擦りむける。
膝が痛い。
息ができない。
体を起こそうとして、力が入らなかった。
夜の森。
冷たい地面。
月明かり。
スバルは、地面に這いつくばったまま、荒く息をした。
「どうすりゃ……」
声が漏れた。
「どうすりゃいいんだよ……」
答えはない。
エキドナの手は取らなかった。
サテラは自分を救えと言った。
ロズワールは自分と同じになれと言った。
でも、どうすればいい。
全部救うと言った。
生きて救うと言った。
でも、方法がない。
力がない。
時間がない。
足りない。
何もかも足りない。
「俺は……」
声が震える。
「俺は、どうすれば……」
「こんな夜中に、森で寝転がる趣味でもあるんですか」
声がした。
スバルは、ゆっくり顔を上げた。
月明かりの中に、オットーが立っていた。
肩で息をしている。
部屋着に上着を引っかけただけのような格好で、髪も乱れている。
それでも、目はまっすぐスバルを見ていた。
「……オットー」
「はい。オットーです」
オットーは息を吐いた。
「部屋に戻ってくれと言われたので戻りました。ですが、あなたが戻ってこない。パトラッシュさんは落ち着かない。ユイさんも黙って窓の外を見ている。結果、僕が探しに来ることになりました」
「なんで……」
「なんで、ではありません」
オットーは近づいてくる。
「人に部屋へ戻れと言っておいて、自分は森で転んでいる。意味がわかりません」
「……考えてた」
「見ればわかります」
「なら聞くなよ」
「考えていたというより、追い詰められて逃げ回っていた顔ですけどね」
スバルは言い返せなかった。
オットーはスバルの前に立つ。
「ナツキさん」
「……何だよ」
「息を吸ってください」
「は?」
「深くです」
「なんで――」
「いいから」
妙に強い声だった。
スバルは、言われるままに息を吸った。
冷たい夜気が肺に入る。
「もっと深く」
「……っ」
「吐いて」
スバルは息を吐いた。
「もう一度。吸って」
吸う。
「吐いて」
吐く。
荒れていた呼吸が、少しだけ整う。
頭の中で暴れていたロズワールの声が、ほんのわずか遠ざかった。
その瞬間だった。
オットーの拳が、スバルの頬を殴った。
鈍い音が、夜の森に響く。
「ぐっ……!?」
スバルの視界が横に跳ねた。
頬が熱い。
痛い。
死の痛みではない。
大兎に食われる痛みでもない。
現実に引き戻される痛みだった。
「お前……!」
スバルは頬を押さえ、オットーを睨む。
けれど、オットーの方がもっと怒っていた。
「いい加減にしてください!」
オットーの声が、夜の森に響いた。
「友達の前でまで、かっこつけてどうするんですか!」
スバルは、息を呑んだ。
「苦しいなら苦しいと言ってください。怖いなら怖いと言ってください。助けてほしいなら、助けてほしいと言ってください」
「……」
「言えないことがあるのはわかりました。なら、言えるところだけ言えばいい。全部説明できないなら、全部説明できないまま頼ればいい」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃありませんよ!」
オットーはさらに踏み込んだ。
「でも、一人で転がっているよりはマシです。誰かの手を借りればいいじゃないですか。友達とか!」
その言葉が、胸に刺さった。
友達。
誰かの手。
借りればいい。
スバルの中で、何かが崩れそうになる。
白い魔女の契約ではない。
黒い影の愛でもない。
ロズワールの狂った希望でもない。
ただの人間が、夜の森で怒っている。
その普通さが、どうしようもなく痛かった。
「俺は……」
スバルの声が震えた。
「何も言えねえかもしれない」
「はい」
「大事なことを隠すかもしれない」
「はい」
「お前を危ない目に遭わせるかもしれない」
「それは嫌ですね」
「嫌なのかよ」
「嫌に決まっているでしょう」
オットーは即答した。
「ですが、それとこれとは別です」
スバルは顔を歪めた。
「巻き込まれて死ぬかもしれないんだぞ」
「死にたくはありません。僕は商人ですし、できれば安全に長生きしたいです」
「なら――」
「でも、友人が一人で死にそうな顔をしているのを放っておくのも嫌です」
スバルは何も言えなかった。
オットーは、拳を握ったまま、息を荒くしている。
その時だった。
「そこまで」
静かな声が、二人の間に落ちた。
ユイだった。
木々の影から現れた彼女は、月明かりを受けて白く浮かび上がっている。
息は少し乱れていた。
追ってきたのだ。
スバルが目を見開く。
「ユイさん……」
「部屋に戻れとは言われたわ」
ユイは淡々と言った。
「でも、戻ってきたあなたが部屋にいないなら、探すに決まっているでしょう」
「……」
ユイはスバルの頬を見た。
赤くなっている。
次にオットーの拳を見る。
まだ握られている。
そして、スバルの手も、反射的に握られていた。
殴られた痛みと混乱で、思わず殴り返しそうになっていたのだろう。
ユイは二人の間へ一歩入った。
「殴るのは一回で十分よ」
「ユイさん、これはですね」
「わかってる」
ユイはオットーを見る。
「あなたが正しいことを言ったのも、わかっているわ」
オットーは言葉に詰まった。
ユイは次にスバルを見る。
「スバルくん」
「……何だよ」
「殴り返したら、ただの喧嘩になる」
「……」
「今、必要なのは喧嘩じゃない。話すことよ」
スバルは、握っていた拳をゆっくり開いた。
オットーも、深く息を吐いて拳を下ろす。
ユイは、それを見届けてから少しだけ下がった。
邪魔をしすぎない。
ここは、オットーの場面だ。
ユイは知っている。
スバルを今立たせるのは、自分ではない。
けれど、殴り合いになって流れを壊すなら止める。
それだけでいい。
オットーは改めてスバルを見た。
「ナツキさん。あなたは一人で何でも抱えすぎです」
「……」
「話せないことがあるなら、それはそれで構いません。でも、助けを求めることまでやめないでください」
スバルは俯いた。
喉が詰まる。
助けてくれ。
その一言が、喉の奥に引っかかっている。
ロズワールに土下座した。
許してくれと頼んだ。
止めてくれと懇願した。
それなのに届かなかった。
今度は、友達に頼る。
それは、土下座よりもずっと難しい気がした。
「……俺は」
声が震える。
「どうしたらいいか、わかんねえ」
「はい」
「全部救いたいって言った。でも、方法がねえ。屋敷も、聖域も、エミリアも、ベア子も、全部だ。全部救いたいのに、手が足りない。時間も足りない。俺だけじゃ、どうにもならない」
「はい」
「でも、誰かを頼ったら、そいつが危ない目に遭うかもしれない」
「はい」
「怖えんだよ」
最後の言葉は、ほとんど息だった。
スバルは俯いた。
「怖いんだ。誰かを巻き込むのが。俺のせいで、取り返しのつかないことになるのが。俺だけじゃ、どうにもならないのに、誰かに頼るのも怖い」
言えないことは、まだある。
言えないまま、スバルは震えていた。
オットーは黙って聞いていた。
ユイも黙っていた。
月明かりの中、三人の影が揺れる。
「怖いなら、なおさら一人で抱えないでください」
オットーは言った。
「一人で抱えた恐怖は、勝手に大きくなります。誰にも見せないうちに、手がつけられなくなる」
「商人っぽくねえこと言うな」
「商人だから言うんです。荷物は分けた方が運びやすい」
その言い方が、あまりにもオットーらしかった。
スバルは、笑いそうになった。
でも、笑う前に、目の奥が熱くなる。
「オットー」
「はい」
「ユイさん」
「ええ」
「……助けてくれ」
小さな声だった。
情けない声だった。
けれど、確かに口から出た。
オットーは、少しだけ目を丸くした。
ユイは、静かに目を伏せた。
スバルが頼った。
死に戻りを明かさずに。
全部を話せないまま。
それでも、誰かの手を借りようとした。
流れは、壊れていない。
むしろ、強くなった。
ユイは、内心で笑みそうになるのを抑えた。
ここで笑うのは違う。
今は、味方の顔をする場面だ。
「はい。任されました」
オットーが言った。
少し軽く。
でも、確かに重さを受け止めた声で。
ユイも頷く。
「私も手を貸すわ」
「……悪い」
「謝るところではないわ」
「でも」
「ありがとうでいい」
スバルは少しだけ黙る。
そして、かすれた声で言った。
「ありがとう」
ユイは頷いた。
オットーは手を差し出す。
スバルは、その手を見る。
エキドナの白い手ではない。
契約の手ではない。
万能の知識を持つ手でもない。
ただの友人の手。
スバルは、その手を取った。
オットーが力を込めて引き上げる。
スバルはよろめきながらも立ち上がった。
頬がまだ痛い。
その痛みが、妙にありがたかった。
「痛えよ」
「殴りましたから」
「普通に言えよ」
「普通に言って聞く人なら殴りません」
「言い返せねえ」
スバルは、少しだけ笑った。
夜の森はまだ暗い。
問題は何一つ解決していない。
屋敷。
聖域。
ロズワール。
ベアトリス。
大兎。
ガーフィール。
エミリア。
全部、これからだ。
それでも、スバルはもう、地面に這いつくばってはいなかった。
「作戦を考える」
スバルは言った。
「手伝え」
「もちろんです」
オットーは当然のように頷く。
「友人ですから」
「私もいるわ」
ユイが言った。
「ただし、無茶をするなら止める」
「……する前提かよ」
「するでしょう」
「否定できねえ」
オットーが呆れたようにため息をつき、ユイが小さく頷く。
三人は、夜の森を抜けた。
その後、彼らは眠らなかった。
スバルが知っていること。
言える範囲のこと。
屋敷に襲撃者が来ること。
聖域に雪が降れば、大兎が来ること。
ロズワールが、その状況を利用してスバルに選択を迫っていること。
エミリアを孤立させてはいけないこと。
ベアトリスを禁書庫から連れ出さなければならないこと。
ガーフィールの存在が、避けて通れない壁になること。
全部は話せない。
それでも、話せる部分を切り出す。
オットーは何度も聞き返し、商人らしく条件を並べ直した。
ユイは黙って聞き、必要なところだけ言葉を挟む。
彼女は、知りすぎないように。
けれど、空気にならないように。
スバルが見落としそうな一点へ、そっと視線を向けさせる。
「ロズワールは、あなたに選ばせたい」
ユイは言った。
「なら、選ばない構図を作る必要があるわ」
「選ばない構図?」
「屋敷と聖域を、同時に動かす」
オットーが頷く。
「人手を分ける、ということですね」
「そうだ」
スバルは頷く。
「俺一人じゃ足りない。だから、分ける」
口に出す。
それだけで、少しだけ形が見えた。
夜が薄くなっていく。
空の端が、かすかに白む。
朝が来る。
決着のための朝ではない。
賭けを始めるための朝だ。
スバルは立ち上がった。
「ロズワールに会う」
オットーが頷く。
「今度は?」
「宣戦布告だ」
ユイも立ち上がる。
「私たちは?」
「近くにいてくれ。けど、話すのは俺がやる」
「わかったわ」
「危なくなったら?」
オットーが聞く。
スバルは少しだけ笑った。
「その時は止めてくれ。友達として」
「ようやく少し学びましたね」
「うるせえ」
朝の聖域は、静かだった。
ロズワールの部屋へ向かう道を、スバルは歩く。
昨日の夜とは違う。
足はまだ重い。
頬は痛い。
心は怖がっている。
それでも、一人ではない。
扉の前に立つ。
今度は、逃げ込むように来たのではない。
土下座して許しを乞うためでもない。
賭けを持ちかけるために来た。
スバルは扉を開けた。
ロズワールは、やはり起きていた。
包帯姿のまま、寝台の上でスバルを待つように座っている。
「おはよう、スバルくん」
ロズワールは言った。
「昨晩は、よく眠れたかい?」
「寝てねえよ」
「だろうねぇ」
ロズワールは笑う。
「顔つきが変わった」
「殴られたからな」
「誰に?」
「友達に」
その言葉に、ロズワールの目がわずかに動いた。
スバルは部屋に入る。
少し離れたところで、オットーとユイが控えている。
ロズワールはそれを見て、興味深そうに目を細めた。
「今日は一人ではないんだねぇ」
「ああ」
「昨晩は、一人で来たのに」
「一人じゃ足りねえって、ようやくわかった」
「それは成長かな。それとも後退かな」
「どっちでもいい」
スバルは、まっすぐロズワールを見た。
「賭けをしよう」
ロズワールの笑みが、わずかに止まる。
「賭け?」
「ああ」
スバルは一歩前に出る。
「俺は、聖域を解放する。エミリアを立たせる。屋敷も救う。ベアトリスも連れ出す。大兎も退ける。お前が俺に選ばせようとしてる全部を、俺は選ばずに救う」
「欲張りだねぇ」
「知ってる」
スバルは笑った。
エキドナに言われた言葉を思い出す。
強欲。
なら、それでいい。
「俺は欲張りだ。全部欲しい。全部救いたい」
「それができなければ?」
「お前の勝ちでいい」
オットーが小さく息を呑んだ。
ユイも目を細める。
スバルは続ける。
「俺が失敗したら、お前の言う通り、俺は間違ってたって認める。お前が作った盤面で、俺が全部救えないって証明されたことになる」
「では、君が成功したら?」
「その本を捨てろ」
スバルは、ロズワールの傍らにある黒い本を指した。
叡智の書。
ロズワールの狂気の支柱。
「お前が縋ってるそれを捨てて、俺たちに協力しろ。エミリアを王にするために、ちゃんと力を貸せ」
ロズワールは黙った。
部屋の空気が変わる。
今までのような軽い笑いではない。
ロズワールの異なる色の瞳が、スバルをじっと見つめる。
「君は、自分が何を言っているかわかっているのかい?」
「ああ」
「その賭けは、君にとって逃げ道をなくすものだよ」
「逃げ道なら、昨日の夜に散々探した」
「見つかったかい?」
「見つからなかった」
スバルは答えた。
「だから、作る」
ロズワールは、少しだけ笑った。
「君は本当に、無茶を言う」
「言うだけならただだ」
「実行は?」
「する」
「君一人で?」
「一人じゃない」
スバルは、背後を見ない。
だが、そこにいる。
オットー。
ユイ。
そして、ここにはいないが、パトラッシュも。
これから頼るべき相手たちも。
「俺は、誰かの手を借りる。友達とかにな」
オットーが、背後で小さく咳払いをした。
ユイは静かに目を伏せた。
ロズワールは、その二人を見て、またスバルを見る。
「君の本には、彼のことが書かれていなかったのかな」
スバルは言った。
ロズワールの視線がオットーへ向く。
「オットー・スーウェン」
ロズワールは、彼の名を口にした。
「彼は、確かに面白い存在だねぇ」
オットーは緊張したように背筋を伸ばす。
スバルは続けた。
「お前の本が全部を決めてるわけじゃない。そこから外れるやつがいる。俺は、そいつらの手を借りる」
「なるほど」
ロズワールは静かに笑った。
「君は、盤面を変えるつもりか」
「そうだ」
「私の望む選択を、拒否する」
「ああ」
「そのために、すべてを救う」
「そうだ」
沈黙。
ロズワールは本へ手を置いた。
指先が、表紙をゆっくり撫でる。
それから、彼はスバルを見た。
「いいだろう」
スバルの呼吸が止まりかける。
「その賭け、受けよう」
ロズワールは言った。
「君が聖域を解放し、屋敷を救い、私の仕掛けた選択を乗り越えるというのなら。その時は、私は君の勝ちを認めよう」
「本も捨てるんだな」
「条件通りに」
「エミリアに協力するんだな」
「それも含めて、君の望む形で」
ロズワールは微笑む。
「ただし、君が失敗した時は」
「……」
「君は、私と同じになる」
その声には、昨日の夜と同じ冷たさがあった。
「一つだけを選び、それ以外を捨てる。そういう存在に」
スバルは、拳を握った。
怖い。
怖くないはずがない。
失敗したら、ロズワールの言葉が現実になる。
屋敷も、聖域も、誰かも、きっと取りこぼす。
それでも。
昨日の夜、オットーに殴られた頬がまだ痛い。
ユイに止められた拳の感触が残っている。
友達の前でかっこつけるな。
誰かの手を借りればいい。
その言葉が、胸にある。
「ならねえよ」
スバルは言った。
「俺は、お前にはならない」
ロズワールは笑った。
「楽しみにしているよ」
「楽しむな」
「無理だねぇ」
昨日と同じやり取り。
けれど、昨日とは違う。
スバルはもう、床に額を擦りつけていない。
立っている。
そして、一人ではない。
「賭けは成立だ」
スバルは言った。
「ああ」
ロズワールは頷いた。
「賭けは成立だ」
部屋の空気が、静かに張り詰めた。
盤面は変わった。
ロズワールが作った選択の檻。
その中で、スバルはあえて全部を選ぶと宣言した。
勝てる保証はない。
道筋も、まだ完全には見えていない。
けれど、始まった。
スバルはロズワールに背を向ける。
扉へ向かう。
その背に、ロズワールの声がかかった。
「スバルくん」
「何だ」
「君が本当に、すべてを救えるか。見せてもらうよ」
スバルは振り返らずに答えた。
「見てろ」
扉を開ける。
朝の光が、廊下の向こうから差し込んでいた。
夜は終わった。
だが、本当の勝負は、ここから始まる。