Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第四十四話 夜の森の友人

 スバルは、一人で歩き出した。

 

 背後で、オットーが何かを言いたげに息を呑む気配がした。

 

 ユイも、黙ってこちらを見ている。

 

 パトラッシュは不満げに鼻を鳴らした。

 

 それでも、スバルは振り返らなかった。

 

 振り返れば、足が止まる。

 

 足が止まれば、きっと誰かを連れていきたくなる。

 

 そうなれば、また巻き込む。

 

 前の世界で、ユイは死んだ。

 

 そう見えた。

 

 ラムも、ガーフィールも、ロズワールの前で死んだ。

 

 あの血の匂いを覚えている。

 

 床に広がった赤を覚えている。

 

 それを知っているのは、スバルだけだ。

 

 だから、今だけは一人で行く。

 

 ロズワールがどこまで知っているのか。

 

 何を目的に動いているのか。

 

 聖域を、屋敷を、エミリアを、どこまで利用するつもりなのか。

 

 それを確かめる。

 

 ロズワールの部屋の前に着いた。

 

 扉の前で、スバルは一度だけ息を整える。

 

 茶会の白い光が、まだ瞼の裏に残っていた。

 

 エキドナの差し出した手。

 

 ベアトリスの四百年を「興味深い」と語った顔。

 

 そして、サテラの声。

 

 あなたを、救って。

 

 自分を救う。

 

 自分を大切にする。

 

 そんなこと、まだわからない。

 

 けれど、少なくとも今、ここへ誰かを連れてこないことだけは選べた。

 

 スバルは扉を開けた。

 

 部屋の中は薄暗い。

 

 寝台の上で、包帯姿のロズワールが半身を起こしていた。

 

 眠っていた様子はない。

 

 まるで、スバルが来るのを最初から知っていたように。

 

「やぁ、スバルくん」

 

 ロズワールは、いつもの調子で言った。

 

「ずいぶんと、ひどい顔をしているねぇ」

 

「お前にだけは言われたくねえよ」

 

「それもそうだねぇ」

 

 ロズワールは薄く笑う。

 

 その笑みが、スバルの神経を逆撫でした。

 

 スバルは部屋に入り、扉を閉める。

 

 部屋には二人だけ。

 

「墓所に入れなくなった」

 

 スバルは言った。

 

 ロズワールの目が、わずかに細くなる。

 

「そうかい」

 

「驚かねえんだな」

 

「君に起こることは、常識だけでは測れないからねぇ」

 

「その言い方、やめろ」

 

「なら、こう言おう。君が何かを見てきたのだろうとは思っていた」

 

 スバルは息を止めた。

 

 ロズワールは、寝台脇に置かれた黒い本に指を添える。

 

 叡智の書。

 

 スバルの視線がそこへ吸い寄せられる。

 

「その本に、どこまで書いてある」

 

「すべてではないよ」

 

「じゃあ、何が書いてある」

 

「必要なことだ」

 

「お前にとって、か」

 

「そうだねぇ」

 

 ロズワールは隠さない。

 

 スバルは奥歯を噛む。

 

「俺が普通の失敗では終わらないことも?」

 

「確信している」

 

「仕組みは」

 

「知らない」

 

 ロズワールは即答した。

 

「君がどんな条件でそれを成すのか。どんな代償を払っているのか。誰がそれを与えたのか。そこまでは知らない」

 

「なら、知ったような顔をするな」

 

「完全には知らない。だが、使えることは知っている」

 

「使える?」

 

 スバルの声が低くなる。

 

 ロズワールは静かに頷いた。

 

「君は、失敗を次へ持ち越せる。ならば、その力は未来を選別するためにある」

 

「選別……」

 

「そう。不要な結果を捨て、望む結果へ近づく。君には、それができる」

 

「俺の痛みを、道具みたいに言うな」

 

「道具ではない。希望だよ」

 

 ロズワールの声は、ひどく穏やかだった。

 

「君は、私の希望だ」

 

 スバルは言葉を失った。

 

 希望。

 

 その響きが、あまりにも歪んで聞こえた。

 

「希望って……何だよ」

 

「私の願いを叶えるための希望だ」

 

 ロズワールは言った。

 

「先生へ至るための、唯一の道標だ」

 

「エキドナか」

 

 その名を出した瞬間、ロズワールの瞳がかすかに揺れた。

 

「会ったのかい?」

 

「会った」

 

「先生は、どうだった?」

 

「最悪だった」

 

 スバルは即答した。

 

「ベア子の四百年を、興味深いって言った。誰とも決めていなかった“その人”を待たせ続けて、それを見たかっただけだって言った」

 

 ロズワールは黙って聞いていた。

 

 否定しない。

 

 驚きもしない。

 

 それが、スバルの怒りをさらに煽った。

 

「お前は、それでもあいつを先生って呼ぶんだな」

 

「当然だ」

 

 迷いのない声だった。

 

「先生は、先生だ」

 

「狂ってる」

 

「そうだろうねぇ」

 

 ロズワールは、あっさり認めた。

 

「だが、狂わなければ、一つを見続けることはできない」

 

「俺に、それをやれって言うのか」

 

「そうだよ」

 

 ロズワールは穏やかに言った。

 

「君は、エミリア様だけを見ればいい」

 

「ふざけんな」

 

「ふざけてはいない。私は本気だ」

 

 ロズワールの声に、いつもの道化めいた揺らぎが薄くなる。

 

「君は欲張りすぎる。屋敷も、聖域も、エミリア様も、ベアトリスも、村人も、仲間も、全部を救おうとする」

 

「悪いか」

 

「悪くはない。美しい願いだ」

 

 ロズワールは続けた。

 

「だが、美しい願いは、現実を越えられない」

 

「……」

 

「君には選択が必要だ。何を取り、何を捨てるのか。その覚悟が必要だ」

 

「選ぶってのは、捨てるってことか」

 

「そうだ」

 

「お前は、何を捨てた」

 

「すべて」

 

 ロズワールは即答する。

 

「先生以外の、すべてを」

 

 スバルの背筋が冷えた。

 

 わかっていた。

 

 ロズワールがそういう男だということは、前の世界で見ていた。

 

 それでも、本人の口から聞くと、寒気が違った。

 

「お前は……本当に、それでいいのか」

 

「いいか悪いかではない。そうでなければ、私は私でいられない」

 

「……」

 

「だから、君にもそうなってほしい」

 

 スバルは黙る。

 

 ロズワールは、スバルの沈黙を肯定の余地と見たのか、穏やかに続けた。

 

「君は、まだ感情に振り回されている。人の死に怯え、自分の痛みに怯え、誰かを失うことを恐れている」

 

「当たり前だろ」

 

「それが邪魔になる」

 

「邪魔?」

 

「君が、望む未来へ進む上ではねぇ」

 

 スバルの拳が震える。

 

「お前は、人の心を何だと思ってる」

 

「必要なら、捨てるべきものだ」

 

 その答えは、あまりにも自然だった。

 

 スバルは、深く息を吸った。

 

 怒鳴りそうになるのを、必死に抑える。

 

 ここで感情だけをぶつけても意味がない。

 

 聞かなければならないことがある。

 

 確かめなければならないことがある。

 

「屋敷が危ない」

 

 スバルは言った。

 

 ロズワールは微笑むだけだった。

 

「そうなのかい?」

 

「とぼけるな」

 

「私はここにいる。屋敷で何が起きるか、見ているわけではない」

 

「その本は?」

 

 スバルの視線が、黒い本へ向く。

 

「そこに、何が書かれてる。屋敷に何が起こるか。エルザが来ること。メィリィが関わってること。お前は、どこまで知ってる」

 

 ロズワールは本の表紙を撫でた。

 

「君は、本当に多くを見てきたようだ」

 

「答えろ」

 

「仮に、屋敷が襲われると知っていたとして、君はどうする?」

 

「止める」

 

「聖域は?」

 

「そっちもどうにかする」

 

「エミリア様は?」

 

「支える」

 

「ベアトリスは?」

 

「連れ出す」

 

「大兎は?」

 

「退ける」

 

 ロズワールは静かに笑った。

 

「欲張りだねぇ」

 

「それはもう聞いた」

 

「では、改めて言おう。君には選ばなければならない」

 

「選ばない」

 

「選ぶんだよ」

 

 ロズワールの声が、低くなる。

 

「そのために、私は状況を整えた」

 

 スバルの呼吸が止まった。

 

「……状況?」

 

「屋敷を襲う者たち」

 

 ロズワールは、静かに告げた。

 

「エルザ・グランヒルテ。そして、魔獣使いの少女。彼女たちを屋敷へ向かわせたのは、私だ」

 

 世界が、一瞬止まった。

 

 疑ってはいた。

 

 最悪の可能性として、頭の奥にはあった。

 

 だが、スバルは知らなかった。

 

 確証はなかった。

 

 なのに、今、本人の口から明かされた。

 

 あまりにも平然と。

 

 あまりにも当然のように。

 

「……お前が」

 

「そうだ」

 

「エルザを」

 

「うん」

 

「メィリィも」

 

「そうだねぇ」

 

「屋敷に……差し向けた」

 

「そうだ」

 

 軽い。

 

 軽すぎる。

 

 レムがいる。

 

 ペトラがいる。

 

 フレデリカがいる。

 

 ベアトリスがいる。

 

 あの屋敷に、あの殺し屋を送った。

 

 そして、ロズワールは平然としている。

 

「なんで……」

 

 声が震えた。

 

「なんで、そんなことができる」

 

「必要だからだよ」

 

「何に」

 

「君を完成させるために」

 

 ロズワールは言った。

 

「君が屋敷へ向かえば、聖域に問題が残る。君が聖域に残れば、屋敷が危うい。どちらも救おうとすれば、君はどちらも取りこぼす」

 

「それを、お前が仕組んだ」

 

「そうだ」

 

「俺に選ばせるために」

 

「そう」

 

「エミリアか、それ以外か」

 

「乱暴に言えば、そうなるねぇ」

 

 スバルは、拳を振り上げそうになった。

 

 だが、体が動かなかった。

 

 怒りより先に、絶望が来た。

 

 ロズワールは止めない。

 

 エルザを止める気がない。

 

 屋敷の命を、聖域の命を、天秤にかけている。

 

 その天秤を作ったのは、ロズワール本人だ。

 

「止めろ」

 

 スバルは言った。

 

「今すぐ、止めろ」

 

「しない」

 

「ロズワール」

 

「しないよ」

 

 ロズワールの声は、静かだった。

 

 スバルは、喉が詰まるのを感じた。

 

 怒鳴っても無駄だ。

 

 殴っても、おそらく無駄だ。

 

 この男は、止まらない。

 

 目的のためなら、何でも捨てる。

 

 それが、ロズワール・L・メイザースだ。

 

 だから、スバルは崩れた。

 

 膝が床についた。

 

 拳を握ったまま、体が前へ倒れる。

 

 頭を下げる。

 

 額が床に触れる。

 

 土下座だった。

 

「頼む」

 

 声が震えた。

 

「頼む、ロズワール」

 

 ロズワールは、黙ってスバルを見ている。

 

 スバルは床に額を擦りつけた。

 

「俺が悪かった」

 

 その言葉は、自分でも何を指しているのかわからなかった。

 

 ロズワールの期待通りに動けなかったことか。

 

 屋敷も聖域も全部救うと叫んだことか。

 

 何もできずに死んできたことか。

 

 それとも、今こうして、憎い相手に頭を下げるしかないことか。

 

「俺が間違ってたなら、謝る。お前の言う通りにできなかったことも、全部、謝る」

 

 喉が焼ける。

 

 声が掠れる。

 

「だから、屋敷を襲わせるのをやめてくれ」

 

 床が冷たい。

 

 額が痛い。

 

 それでも、頭を上げられない。

 

「レムがいる。ペトラがいる。フレデリカがいる。ベアトリスもいる。あいつらは関係ないだろ。俺を追い込むなら、俺だけにしろよ」

 

 スバルの声が崩れる。

 

「頼む。許してくれ。俺が悪かったなら、俺が謝る。いくらでも謝る。だから、あいつらを巻き込むな」

 

 ロズワールは、しばらく黙っていた。

 

 部屋には、スバルの荒い息だけが響く。

 

 やがて、ロズワールの声が落ちた。

 

「スバルくん」

 

「……頼む」

 

「君は、やはり私の希望だ」

 

 スバルの息が止まった。

 

 希望。

 

 この姿を見て。

 

 床に額を擦りつけ、許しを乞い、泣きそうな声で懇願しているスバルを見て。

 

 ロズワールは、希望と言った。

 

「君は、そこまでできる」

 

 ロズワールは続ける。

 

「誰かを救うために、自分の誇りを投げ捨てることができる。憎むべき相手に頭を下げることができる。痛みを呑み込んで、望む結果のために動ける」

 

「……」

 

「だからこそ、あと一歩なんだ」

 

 スバルは、床に額をつけたまま、目を見開いた。

 

「あと一歩で、君は私と同じ場所へ来られる」

 

 その言葉で、スバルの中の何かが凍った。

 

 土下座しても。

 

 懇願しても。

 

 許しを乞うても。

 

 ロズワールには届かない。

 

 彼は、それすら材料として見ている。

 

 スバルがどこまで捨てられるか。

 

 どこまで折れられるか。

 

 どこまで一つのために自分を壊せるか。

 

 それを見て、希望と呼んでいる。

 

「……違う」

 

 スバルは呟いた。

 

「違う……違うだろ……」

 

「違わないよ」

 

 ロズワールの声は優しい。

 

 優しすぎて、吐き気がした。

 

「君は、一つを選べる。エミリア様だけを見ればいい。屋敷を捨て、聖域を捨て、他を捨てても、彼女だけを掴めばいい」

 

「違う」

 

「それが君の完成だ」

 

「違う!」

 

 スバルは叫んだ。

 

 床に手をつき、顔を上げる。

 

 涙は出ていない。

 

 けれど、顔はぐしゃぐしゃだった。

 

「俺は、お前みたいにはならない!」

 

「なるよ」

 

「ならない!」

 

「なるしかない」

 

 ロズワールは静かに言う。

 

「この世界は、君の理想を許さない」

 

 スバルは、立ち上がろうとした。

 

 足が震える。

 

 膝に力が入らない。

 

 それでも、立った。

 

「……もういい」

 

「どこへ行くんだい?」

 

「知らねえよ」

 

 自分でもわからなかった。

 

 ここにいたくない。

 

 ロズワールの声を聞きたくない。

 

 希望と呼ばれたくない。

 

 自分の懇願すら、同類になるための材料として見られたくない。

 

「逃げるのかい?」

 

 ロズワールが問う。

 

 スバルは振り返らなかった。

 

「逃げねえ」

 

 声は震えている。

 

「逃げねえよ」

 

 でも、足は扉へ向かっていた。

 

 扉を開ける。

 

 廊下へ出る。

 

 背後から、ロズワールの声が追いかけてくる。

 

「楽しみにしているよ、スバルくん」

 

 その声を聞いた瞬間、スバルは走り出した。

 

 どこへ向かっているのかもわからない。

 

 部屋ではない。

 

 エミリアのところでもない。

 

 ユイやオットーのところでもない。

 

 ただ、走った。

 

 廊下を抜ける。

 

 外へ出る。

 

 冷たい夜気が肺を刺す。

 

 息が苦しい。

 

 それでも走る。

 

 足元が見えない。

 

 森へ入る。

 

 枝が頬を打つ。

 

 草が足に絡む。

 

 石につまずく。

 

 それでも走る。

 

「くそ……くそ、くそ……!」

 

 息が切れる。

 

 胸が痛い。

 

 頭の中で、ロズワールの声が鳴り続ける。

 

 君は私の希望だ。

 

 あと一歩だ。

 

 私と同じ場所へ来られる。

 

 エミリア様だけを見ればいい。

 

 他は捨てればいい。

 

「違う……!」

 

 スバルは叫んだ。

 

「違う、違う、違う!」

 

 何が違うのか。

 

 どう違うのか。

 

 証明する方法はわからない。

 

 屋敷を救う手もない。

 

 聖域を解く手もない。

 

 エミリアを支える方法も、ベアトリスを連れ出す方法も、ガーフィールを動かす方法も、全部見えない。

 

 それでも、違う。

 

 自分はロズワールにはならない。

 

 そう叫ぶことしかできなかった。

 

 足がもつれた。

 

 地面が傾く。

 

「――っ!」

 

 スバルは派手に転んだ。

 

 土が口に入る。

 

 手のひらが擦りむける。

 

 膝が痛い。

 

 息ができない。

 

 体を起こそうとして、力が入らなかった。

 

 夜の森。

 

 冷たい地面。

 

 月明かり。

 

 スバルは、地面に這いつくばったまま、荒く息をした。

 

「どうすりゃ……」

 

 声が漏れた。

 

「どうすりゃいいんだよ……」

 

 答えはない。

 

 エキドナの手は取らなかった。

 

 サテラは自分を救えと言った。

 

 ロズワールは自分と同じになれと言った。

 

 でも、どうすればいい。

 

 全部救うと言った。

 

 生きて救うと言った。

 

 でも、方法がない。

 

 力がない。

 

 時間がない。

 

 足りない。

 

 何もかも足りない。

 

「俺は……」

 

 声が震える。

 

「俺は、どうすれば……」

 

「こんな夜中に、森で寝転がる趣味でもあるんですか」

 

 声がした。

 

 スバルは、ゆっくり顔を上げた。

 

 月明かりの中に、オットーが立っていた。

 

 肩で息をしている。

 

 部屋着に上着を引っかけただけのような格好で、髪も乱れている。

 

 それでも、目はまっすぐスバルを見ていた。

 

「……オットー」

 

「はい。オットーです」

 

 オットーは息を吐いた。

 

「部屋に戻ってくれと言われたので戻りました。ですが、あなたが戻ってこない。パトラッシュさんは落ち着かない。ユイさんも黙って窓の外を見ている。結果、僕が探しに来ることになりました」

 

「なんで……」

 

「なんで、ではありません」

 

 オットーは近づいてくる。

 

「人に部屋へ戻れと言っておいて、自分は森で転んでいる。意味がわかりません」

 

「……考えてた」

 

「見ればわかります」

 

「なら聞くなよ」

 

「考えていたというより、追い詰められて逃げ回っていた顔ですけどね」

 

 スバルは言い返せなかった。

 

 オットーはスバルの前に立つ。

 

「ナツキさん」

 

「……何だよ」

 

「息を吸ってください」

 

「は?」

 

「深くです」

 

「なんで――」

 

「いいから」

 

 妙に強い声だった。

 

 スバルは、言われるままに息を吸った。

 

 冷たい夜気が肺に入る。

 

「もっと深く」

 

「……っ」

 

「吐いて」

 

 スバルは息を吐いた。

 

「もう一度。吸って」

 

 吸う。

 

「吐いて」

 

 吐く。

 

 荒れていた呼吸が、少しだけ整う。

 

 頭の中で暴れていたロズワールの声が、ほんのわずか遠ざかった。

 

 その瞬間だった。

 

 オットーの拳が、スバルの頬を殴った。

 

 鈍い音が、夜の森に響く。

 

「ぐっ……!?」

 

 スバルの視界が横に跳ねた。

 

 頬が熱い。

 

 痛い。

 

 死の痛みではない。

 

 大兎に食われる痛みでもない。

 

 現実に引き戻される痛みだった。

 

「お前……!」

 

 スバルは頬を押さえ、オットーを睨む。

 

 けれど、オットーの方がもっと怒っていた。

 

「いい加減にしてください!」

 

 オットーの声が、夜の森に響いた。

 

「友達の前でまで、かっこつけてどうするんですか!」

 

 スバルは、息を呑んだ。

 

「苦しいなら苦しいと言ってください。怖いなら怖いと言ってください。助けてほしいなら、助けてほしいと言ってください」

 

「……」

 

「言えないことがあるのはわかりました。なら、言えるところだけ言えばいい。全部説明できないなら、全部説明できないまま頼ればいい」

 

「そんな簡単に……」

 

「簡単じゃありませんよ!」

 

 オットーはさらに踏み込んだ。

 

「でも、一人で転がっているよりはマシです。誰かの手を借りればいいじゃないですか。友達とか!」

 

 その言葉が、胸に刺さった。

 

 友達。

 

 誰かの手。

 

 借りればいい。

 

 スバルの中で、何かが崩れそうになる。

 

 白い魔女の契約ではない。

 

 黒い影の愛でもない。

 

 ロズワールの狂った希望でもない。

 

 ただの人間が、夜の森で怒っている。

 

 その普通さが、どうしようもなく痛かった。

 

「俺は……」

 

 スバルの声が震えた。

 

「何も言えねえかもしれない」

 

「はい」

 

「大事なことを隠すかもしれない」

 

「はい」

 

「お前を危ない目に遭わせるかもしれない」

 

「それは嫌ですね」

 

「嫌なのかよ」

 

「嫌に決まっているでしょう」

 

 オットーは即答した。

 

「ですが、それとこれとは別です」

 

 スバルは顔を歪めた。

 

「巻き込まれて死ぬかもしれないんだぞ」

 

「死にたくはありません。僕は商人ですし、できれば安全に長生きしたいです」

 

「なら――」

 

「でも、友人が一人で死にそうな顔をしているのを放っておくのも嫌です」

 

 スバルは何も言えなかった。

 

 オットーは、拳を握ったまま、息を荒くしている。

 

 その時だった。

 

「そこまで」

 

 静かな声が、二人の間に落ちた。

 

 ユイだった。

 

 木々の影から現れた彼女は、月明かりを受けて白く浮かび上がっている。

 

 息は少し乱れていた。

 

 追ってきたのだ。

 

 スバルが目を見開く。

 

「ユイさん……」

 

「部屋に戻れとは言われたわ」

 

 ユイは淡々と言った。

 

「でも、戻ってきたあなたが部屋にいないなら、探すに決まっているでしょう」

 

「……」

 

 ユイはスバルの頬を見た。

 

 赤くなっている。

 

 次にオットーの拳を見る。

 

 まだ握られている。

 

 そして、スバルの手も、反射的に握られていた。

 

 殴られた痛みと混乱で、思わず殴り返しそうになっていたのだろう。

 

 ユイは二人の間へ一歩入った。

 

「殴るのは一回で十分よ」

 

「ユイさん、これはですね」

 

「わかってる」

 

 ユイはオットーを見る。

 

「あなたが正しいことを言ったのも、わかっているわ」

 

 オットーは言葉に詰まった。

 

 ユイは次にスバルを見る。

 

「スバルくん」

 

「……何だよ」

 

「殴り返したら、ただの喧嘩になる」

 

「……」

 

「今、必要なのは喧嘩じゃない。話すことよ」

 

 スバルは、握っていた拳をゆっくり開いた。

 

 オットーも、深く息を吐いて拳を下ろす。

 

 ユイは、それを見届けてから少しだけ下がった。

 

 邪魔をしすぎない。

 

 ここは、オットーの場面だ。

 

 ユイは知っている。

 

 スバルを今立たせるのは、自分ではない。

 

 けれど、殴り合いになって流れを壊すなら止める。

 

 それだけでいい。

 

 オットーは改めてスバルを見た。

 

「ナツキさん。あなたは一人で何でも抱えすぎです」

 

「……」

 

「話せないことがあるなら、それはそれで構いません。でも、助けを求めることまでやめないでください」

 

 スバルは俯いた。

 

 喉が詰まる。

 

 助けてくれ。

 

 その一言が、喉の奥に引っかかっている。

 

 ロズワールに土下座した。

 

 許してくれと頼んだ。

 

 止めてくれと懇願した。

 

 それなのに届かなかった。

 

 今度は、友達に頼る。

 

 それは、土下座よりもずっと難しい気がした。

 

「……俺は」

 

 声が震える。

 

「どうしたらいいか、わかんねえ」

 

「はい」

 

「全部救いたいって言った。でも、方法がねえ。屋敷も、聖域も、エミリアも、ベア子も、全部だ。全部救いたいのに、手が足りない。時間も足りない。俺だけじゃ、どうにもならない」

 

「はい」

 

「でも、誰かを頼ったら、そいつが危ない目に遭うかもしれない」

 

「はい」

 

「怖えんだよ」

 

 最後の言葉は、ほとんど息だった。

 

 スバルは俯いた。

 

「怖いんだ。誰かを巻き込むのが。俺のせいで、取り返しのつかないことになるのが。俺だけじゃ、どうにもならないのに、誰かに頼るのも怖い」

 

 言えないことは、まだある。

 

 言えないまま、スバルは震えていた。

 

 オットーは黙って聞いていた。

 

 ユイも黙っていた。

 

 月明かりの中、三人の影が揺れる。

 

「怖いなら、なおさら一人で抱えないでください」

 

 オットーは言った。

 

「一人で抱えた恐怖は、勝手に大きくなります。誰にも見せないうちに、手がつけられなくなる」

 

「商人っぽくねえこと言うな」

 

「商人だから言うんです。荷物は分けた方が運びやすい」

 

 その言い方が、あまりにもオットーらしかった。

 

 スバルは、笑いそうになった。

 

 でも、笑う前に、目の奥が熱くなる。

 

「オットー」

 

「はい」

 

「ユイさん」

 

「ええ」

 

「……助けてくれ」

 

 小さな声だった。

 

 情けない声だった。

 

 けれど、確かに口から出た。

 

 オットーは、少しだけ目を丸くした。

 

 ユイは、静かに目を伏せた。

 

 スバルが頼った。

 

 死に戻りを明かさずに。

 

 全部を話せないまま。

 

 それでも、誰かの手を借りようとした。

 

 流れは、壊れていない。

 

 むしろ、強くなった。

 

 ユイは、内心で笑みそうになるのを抑えた。

 

 ここで笑うのは違う。

 

 今は、味方の顔をする場面だ。

 

「はい。任されました」

 

 オットーが言った。

 

 少し軽く。

 

 でも、確かに重さを受け止めた声で。

 

 ユイも頷く。

 

「私も手を貸すわ」

 

「……悪い」

 

「謝るところではないわ」

 

「でも」

 

「ありがとうでいい」

 

 スバルは少しだけ黙る。

 

 そして、かすれた声で言った。

 

「ありがとう」

 

 ユイは頷いた。

 

 オットーは手を差し出す。

 

 スバルは、その手を見る。

 

 エキドナの白い手ではない。

 

 契約の手ではない。

 

 万能の知識を持つ手でもない。

 

 ただの友人の手。

 

 スバルは、その手を取った。

 

 オットーが力を込めて引き上げる。

 

 スバルはよろめきながらも立ち上がった。

 

 頬がまだ痛い。

 

 その痛みが、妙にありがたかった。

 

「痛えよ」

 

「殴りましたから」

 

「普通に言えよ」

 

「普通に言って聞く人なら殴りません」

 

「言い返せねえ」

 

 スバルは、少しだけ笑った。

 

 夜の森はまだ暗い。

 

 問題は何一つ解決していない。

 

 屋敷。

 

 聖域。

 

 ロズワール。

 

 ベアトリス。

 

 大兎。

 

 ガーフィール。

 

 エミリア。

 

 全部、これからだ。

 

 それでも、スバルはもう、地面に這いつくばってはいなかった。

 

「作戦を考える」

 

 スバルは言った。

 

「手伝え」

 

「もちろんです」

 

 オットーは当然のように頷く。

 

「友人ですから」

 

「私もいるわ」

 

 ユイが言った。

 

「ただし、無茶をするなら止める」

 

「……する前提かよ」

 

「するでしょう」

 

「否定できねえ」

 

 オットーが呆れたようにため息をつき、ユイが小さく頷く。

 

 三人は、夜の森を抜けた。

 

 その後、彼らは眠らなかった。

 

 スバルが知っていること。

 

 言える範囲のこと。

 

 屋敷に襲撃者が来ること。

 

 聖域に雪が降れば、大兎が来ること。

 

 ロズワールが、その状況を利用してスバルに選択を迫っていること。

 

 エミリアを孤立させてはいけないこと。

 

 ベアトリスを禁書庫から連れ出さなければならないこと。

 

 ガーフィールの存在が、避けて通れない壁になること。

 

 全部は話せない。

 

 それでも、話せる部分を切り出す。

 

 オットーは何度も聞き返し、商人らしく条件を並べ直した。

 

 ユイは黙って聞き、必要なところだけ言葉を挟む。

 

 彼女は、知りすぎないように。

 

 けれど、空気にならないように。

 

 スバルが見落としそうな一点へ、そっと視線を向けさせる。

 

「ロズワールは、あなたに選ばせたい」

 

 ユイは言った。

 

「なら、選ばない構図を作る必要があるわ」

 

「選ばない構図?」

 

「屋敷と聖域を、同時に動かす」

 

 オットーが頷く。

 

「人手を分ける、ということですね」

 

「そうだ」

 

 スバルは頷く。

 

「俺一人じゃ足りない。だから、分ける」

 

 口に出す。

 

 それだけで、少しだけ形が見えた。

 

 夜が薄くなっていく。

 

 空の端が、かすかに白む。

 

 朝が来る。

 

 決着のための朝ではない。

 

 賭けを始めるための朝だ。

 

 スバルは立ち上がった。

 

「ロズワールに会う」

 

 オットーが頷く。

 

「今度は?」

 

「宣戦布告だ」

 

 ユイも立ち上がる。

 

「私たちは?」

 

「近くにいてくれ。けど、話すのは俺がやる」

 

「わかったわ」

 

「危なくなったら?」

 

 オットーが聞く。

 

 スバルは少しだけ笑った。

 

「その時は止めてくれ。友達として」

 

「ようやく少し学びましたね」

 

「うるせえ」

 

 朝の聖域は、静かだった。

 

 ロズワールの部屋へ向かう道を、スバルは歩く。

 

 昨日の夜とは違う。

 

 足はまだ重い。

 

 頬は痛い。

 

 心は怖がっている。

 

 それでも、一人ではない。

 

 扉の前に立つ。

 

 今度は、逃げ込むように来たのではない。

 

 土下座して許しを乞うためでもない。

 

 賭けを持ちかけるために来た。

 

 スバルは扉を開けた。

 

 ロズワールは、やはり起きていた。

 

 包帯姿のまま、寝台の上でスバルを待つように座っている。

 

「おはよう、スバルくん」

 

 ロズワールは言った。

 

「昨晩は、よく眠れたかい?」

 

「寝てねえよ」

 

「だろうねぇ」

 

 ロズワールは笑う。

 

「顔つきが変わった」

 

「殴られたからな」

 

「誰に?」

 

「友達に」

 

 その言葉に、ロズワールの目がわずかに動いた。

 

 スバルは部屋に入る。

 

 少し離れたところで、オットーとユイが控えている。

 

 ロズワールはそれを見て、興味深そうに目を細めた。

 

「今日は一人ではないんだねぇ」

 

「ああ」

 

「昨晩は、一人で来たのに」

 

「一人じゃ足りねえって、ようやくわかった」

 

「それは成長かな。それとも後退かな」

 

「どっちでもいい」

 

 スバルは、まっすぐロズワールを見た。

 

「賭けをしよう」

 

 ロズワールの笑みが、わずかに止まる。

 

「賭け?」

 

「ああ」

 

 スバルは一歩前に出る。

 

「俺は、聖域を解放する。エミリアを立たせる。屋敷も救う。ベアトリスも連れ出す。大兎も退ける。お前が俺に選ばせようとしてる全部を、俺は選ばずに救う」

 

「欲張りだねぇ」

 

「知ってる」

 

 スバルは笑った。

 

 エキドナに言われた言葉を思い出す。

 

 強欲。

 

 なら、それでいい。

 

「俺は欲張りだ。全部欲しい。全部救いたい」

 

「それができなければ?」

 

「お前の勝ちでいい」

 

 オットーが小さく息を呑んだ。

 

 ユイも目を細める。

 

 スバルは続ける。

 

「俺が失敗したら、お前の言う通り、俺は間違ってたって認める。お前が作った盤面で、俺が全部救えないって証明されたことになる」

 

「では、君が成功したら?」

 

「その本を捨てろ」

 

 スバルは、ロズワールの傍らにある黒い本を指した。

 

 叡智の書。

 

 ロズワールの狂気の支柱。

 

「お前が縋ってるそれを捨てて、俺たちに協力しろ。エミリアを王にするために、ちゃんと力を貸せ」

 

 ロズワールは黙った。

 

 部屋の空気が変わる。

 

 今までのような軽い笑いではない。

 

 ロズワールの異なる色の瞳が、スバルをじっと見つめる。

 

「君は、自分が何を言っているかわかっているのかい?」

 

「ああ」

 

「その賭けは、君にとって逃げ道をなくすものだよ」

 

「逃げ道なら、昨日の夜に散々探した」

 

「見つかったかい?」

 

「見つからなかった」

 

 スバルは答えた。

 

「だから、作る」

 

 ロズワールは、少しだけ笑った。

 

「君は本当に、無茶を言う」

 

「言うだけならただだ」

 

「実行は?」

 

「する」

 

「君一人で?」

 

「一人じゃない」

 

 スバルは、背後を見ない。

 

 だが、そこにいる。

 

 オットー。

 

 ユイ。

 

 そして、ここにはいないが、パトラッシュも。

 

 これから頼るべき相手たちも。

 

「俺は、誰かの手を借りる。友達とかにな」

 

 オットーが、背後で小さく咳払いをした。

 

 ユイは静かに目を伏せた。

 

 ロズワールは、その二人を見て、またスバルを見る。

 

「君の本には、彼のことが書かれていなかったのかな」

 

 スバルは言った。

 

 ロズワールの視線がオットーへ向く。

 

「オットー・スーウェン」

 

 ロズワールは、彼の名を口にした。

 

「彼は、確かに面白い存在だねぇ」

 

 オットーは緊張したように背筋を伸ばす。

 

 スバルは続けた。

 

「お前の本が全部を決めてるわけじゃない。そこから外れるやつがいる。俺は、そいつらの手を借りる」

 

「なるほど」

 

 ロズワールは静かに笑った。

 

「君は、盤面を変えるつもりか」

 

「そうだ」

 

「私の望む選択を、拒否する」

 

「ああ」

 

「そのために、すべてを救う」

 

「そうだ」

 

 沈黙。

 

 ロズワールは本へ手を置いた。

 

 指先が、表紙をゆっくり撫でる。

 

 それから、彼はスバルを見た。

 

「いいだろう」

 

 スバルの呼吸が止まりかける。

 

「その賭け、受けよう」

 

 ロズワールは言った。

 

「君が聖域を解放し、屋敷を救い、私の仕掛けた選択を乗り越えるというのなら。その時は、私は君の勝ちを認めよう」

 

「本も捨てるんだな」

 

「条件通りに」

 

「エミリアに協力するんだな」

 

「それも含めて、君の望む形で」

 

 ロズワールは微笑む。

 

「ただし、君が失敗した時は」

 

「……」

 

「君は、私と同じになる」

 

 その声には、昨日の夜と同じ冷たさがあった。

 

「一つだけを選び、それ以外を捨てる。そういう存在に」

 

 スバルは、拳を握った。

 

 怖い。

 

 怖くないはずがない。

 

 失敗したら、ロズワールの言葉が現実になる。

 

 屋敷も、聖域も、誰かも、きっと取りこぼす。

 

 それでも。

 

 昨日の夜、オットーに殴られた頬がまだ痛い。

 

 ユイに止められた拳の感触が残っている。

 

 友達の前でかっこつけるな。

 

 誰かの手を借りればいい。

 

 その言葉が、胸にある。

 

「ならねえよ」

 

 スバルは言った。

 

「俺は、お前にはならない」

 

 ロズワールは笑った。

 

「楽しみにしているよ」

 

「楽しむな」

 

「無理だねぇ」

 

 昨日と同じやり取り。

 

 けれど、昨日とは違う。

 

 スバルはもう、床に額を擦りつけていない。

 

 立っている。

 

 そして、一人ではない。

 

「賭けは成立だ」

 

 スバルは言った。

 

「ああ」

 

 ロズワールは頷いた。

 

「賭けは成立だ」

 

 部屋の空気が、静かに張り詰めた。

 

 盤面は変わった。

 

 ロズワールが作った選択の檻。

 

 その中で、スバルはあえて全部を選ぶと宣言した。

 

 勝てる保証はない。

 

 道筋も、まだ完全には見えていない。

 

 けれど、始まった。

 

 スバルはロズワールに背を向ける。

 

 扉へ向かう。

 

 その背に、ロズワールの声がかかった。

 

「スバルくん」

 

「何だ」

 

「君が本当に、すべてを救えるか。見せてもらうよ」

 

 スバルは振り返らずに答えた。

 

「見てろ」

 

 扉を開ける。

 

 朝の光が、廊下の向こうから差し込んでいた。

 

 夜は終わった。

 

 だが、本当の勝負は、ここから始まる。

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