Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

45 / 46
第四十五話 嘘つきたちの夜

 ロズワールとの賭けは成立した。

 

 屋敷を救う。

 

 聖域を解放する。

 

 エミリアを立たせる。

 

 ベアトリスを連れ出す。

 

 大兎を退ける。

 

 そのすべてを成し遂げれば、ロズワールは叡智の書を捨て、エミリアの王選に本気で力を貸す。

 

 失敗すれば、スバルはロズワールの望む形になる。

 

 一つだけを選び、それ以外を切り捨てる存在に。

 

 ロズワールの部屋を出た後、スバルは廊下で一度だけ息を吐いた。

 

 まだ、怖い。

 

 だが、昨夜とは違う。

 

 今は、何をするべきかが見えている。

 

 まずは、聖域の根に触れる。

 

 リューズと話す。

 

 それから、エミリアだ。

 

 廊下の先に、ラムが立っていた。

 

 腕を組み、壁に背を預けている。

 

「遅いわね、バルス」

 

「お前、そこで待ってたのか」

 

「ええ。バルスが妙に勝負師ぶった顔でロズワール様の部屋に入っていったものだから」

 

「勝負師ぶった顔って何だよ」

 

「身の程を知らない顔よ」

 

「ひでえ」

 

 ラムはいつも通りだった。

 

 そのいつも通りが、少しだけありがたい。

 

「賭けは成立した」

 

「聞こえていたわ」

 

「どこまで?」

 

「大体」

 

「盗み聞きじゃねえか」

 

「聞こえる場所で話したバルスが悪いわ」

 

 ラムは悪びれない。

 

 そして、少しだけ目を細めた。

 

「エミリア様を信じるのね」

 

「ああ」

 

「なら、信じた顔をしなさい」

 

 スバルは言葉を止めた。

 

「不安そうな顔で信じると言われても、信じられる側が困るわ」

 

「……そうだな」

 

「ええ、そうよ」

 

 ラムはロズワールの部屋の扉へ視線を向けた。

 

「ラムはロズワール様の味方よ」

 

「知ってる」

 

「でも、エミリア様が立つことも望んでいる」

 

「矛盾してないか」

 

「人は矛盾したままでも動くものよ」

 

 それだけ言って、ラムはスバルの横を通り過ぎた。

 

「バルス」

 

「何だよ」

 

「せいぜい、見苦しく足掻きなさい」

 

「それ、応援か?」

 

「応援よ」

 

 扉が閉まる。

 

 スバルは廊下に一人残され、苦く笑った。

 

「わかりにくい応援だな、ほんと」

 

 それでも、胸の奥に残ったものは悪くなかった。

 

 信じるなら、信じた顔をしろ。

 

 スバルは頬を軽く叩いた。

 

 オットーに殴られた側がまだ痛む。

 

「……痛って」

 

 その痛みを抱えたまま、スバルは外へ出た。

 

 外には、一本の木があった。

 

 いや、正確には木のふりをしているオットーがいた。

 

 幹の陰に身を寄せ、枝葉に紛れたつもりでいる。

 

 妙に不自然な姿勢だった。

 

「……何してんだ、オットー」

 

 オットーがびくりと肩を跳ねさせた。

 

「見つかりましたか」

 

「見つからないと思ったのか?」

 

「薄暗ければ木に見えるかと」

 

「見えねえよ。木はそんなに挙動不審じゃねえ」

 

「失礼ですね!」

 

 オットーが木のふりをやめて出てくる。

 

 少し離れたところにはユイもいた。

 

 ユイは普通に立っている。

 

「ユイさんは隠れなかったのか」

 

「隠れる必要がないもの」

 

「ですよね」

 

 オットーが肩を落とした。

 

 スバルは二人へ向き直る。

 

「賭けは成立した」

 

「条件は?」

 

 ユイが聞く。

 

「俺が全部救う。屋敷も、聖域も。成功したらロズワールは本を捨てる。失敗したら、俺はあいつの言う通りになる」

 

 オットーの顔が引きつった。

 

「無茶ですね」

 

「知ってる」

 

「でも、やるんですね」

 

「ああ」

 

「なら、こちらも予定通り動きます」

 

 オットーは自分の胸に手を当てた。

 

「ガーフィールさんの方は、僕が引き受けます」

 

「危険だぞ」

 

「知っています」

 

「死ぬかもしれない」

 

「死にたくはありません」

 

 オットーは即答した。

 

「ですが、ナツキさん一人では足りないんでしょう」

 

「……ああ」

 

「なら、誰かの手を借りるべきです。友達とか」

 

 昨日の夜の言葉が、スバルの胸に蘇る。

 

 夜の森。

 

 深呼吸。

 

 頬への一発。

 

 友達の前でかっこつけるな。

 

「頼む」

 

「任されました」

 

 オットーは頷いた。

 

 ユイが口を挟む。

 

「ガーフィールを相手にするなら、ラムも必要になるわ」

 

「ああ。オットーだけじゃ厳しい」

 

「僕としても、そこは全面的に同意します」

 

 オットーが真顔で言った。

 

 スバルは苦笑し、それから顔を引き締める。

 

「その前に、リューズさんに会う」

 

「僕も行きますか?」

 

「いや、オットーは準備をしてくれ。ここは俺一人で行く」

 

「わかりました。ナツキさんが一人で大丈夫かは、かなり不安ですが」

 

「不安なのは否定しねえけど、ここは一人の方がいい」

 

 ユイも一歩出かけ、すぐに足を止めた。

 

「私も?」

 

「悪い。リューズさんとは、俺が直接話す」

 

「わかったわ」

 

 ユイはすぐに頷いた。

 

 ここはスバルとリューズの話だ。

 

 聖域の根。

 

 ガーフィールの過去。

 

 複製体。

 

 シーマ。

 

 ユイが横から知った顔で口を挟めば、流れが濁る。

 

 だから彼女は引いた。

 

「戻ってきたら、聞かせて」

 

「ああ。話せる範囲でな」

 

「その言い方、だいぶ聞き慣れたわ」

 

「悪い」

 

「責めてない」

 

 スバルは小さく頷き、リューズのいる場所へ向かった。

 

 淡い光に満ちた場所。

 

 そこにいた少女の姿の存在は、スバルを見るなり目を細めた。

 

「おや、スー坊」

 

 リューズはそう呼んだ。

 

「朝から妙な顔をしておるの」

 

「妙な顔って、みんなして言うなよ」

 

「では、ひどい顔と言えばよいかの?」

 

「変わってねえ」

 

 スバルは息を吐く。

 

 目の前のリューズは、これまで会ってきたリューズと同じ顔をしている。

 

 けれど、完全に同じではない。

 

 反応。

 

 間。

 

 言葉の選び方。

 

 少しずつ違う。

 

「リューズさん」

 

「なんじゃ?」

 

「俺は、あんたに協力してほしい」

 

「聖域解放のためにかえ」

 

「ああ」

 

 スバルは正面から頷いた。

 

「俺は聖域を解放する。屋敷も救う。ロズワールが俺に選ばせようとしてる盤面を壊す。そのために、あんたの協力が必要だ」

 

 リューズは、じっとスバルを見る。

 

「スー坊は、わしが聖域の解放に反対しておると思っておるようじゃな」

 

「違うのか?」

 

「違う、とは言い切れぬ。だが、単純に反対しているわけでもない」

 

「どういうことだよ」

 

「わしらには役割がある。聖域に縛られ、管理し、見守る役割がの。じゃが、閉じたままでよいと思っている者ばかりでもない」

 

 スバルは黙った。

 

 リューズは続ける。

 

「スー坊は、わしと何度も話したような口ぶりをする」

 

「……話した。たぶん、何度も」

 

「ほう?」

 

「でも、今思えば、同じリューズさんじゃなかった」

 

 リューズの目が細くなる。

 

「気づいたか」

 

「顔は同じ。でも、違う。あんたたちは複数いる。俺が話してたリューズさんは、全部同じ一人じゃなかった」

 

「正解じゃ」

 

 リューズはあっさり認めた。

 

「わしはリューズ・アルマ。複製体の一人じゃ」

 

「アルマ……」

 

「他にもおる。役割を持つ者、従う者、例外となった者」

 

「例外?」

 

「リューズ・シーマじゃ」

 

 その名を聞いた瞬間、スバルの表情がわずかに変わる。

 

「シーマは、かつて契約を破った。墓所へ入ったガーフを連れ戻すためにの」

 

「ガーフィールを……」

 

「そうじゃ」

 

 リューズは静かに目を伏せる。

 

「あの子は、墓所で母親を見た」

 

「……母親」

 

「置いていかれたと思っておった。捨てられたと思っておった。じゃが、墓所で見たものは、あの子の中にあった答えを別の形に変えてしまった」

 

 スバルは息を呑む。

 

 フレデリカから聞いた話。

 

 ガーフィールが聖域に残る理由。

 

 外へ出ることを拒む理由。

 

 それが、ようやく一本の線で繋がる。

 

「それで、外を嫌がってるのか」

 

「怖い、という言葉だけでは足りぬの」

 

 リューズは言った。

 

「あの子にとって外は、母を奪った場所であり、姉を連れていった場所であり、自分を置き去りにした場所でもある」

 

「……」

 

「だから、ガーフは聖域を守ろうとする。閉じた場所にいれば、これ以上何も奪われぬと思っておる」

 

 スバルは拳を握った。

 

 ガーフィールは敵ではない。

 

 壁だ。

 

 越えなければならない壁。

 

 けれど、壊して終わりにしたい相手ではない。

 

「俺はガーフィールとぶつかる」

 

「避けられぬじゃろうな」

 

「でも、終わった後は友達になりたい」

 

 リューズは、少し驚いたようにスバルを見た。

 

 それから、小さく笑う。

 

「欲張りじゃな、スー坊は」

 

「知ってる」

 

「よかろう。できる範囲で力を貸そう」

 

「助かる」

 

「ただし、ガーフを甘く見るでないぞ。あの子は強い。強くて、脆い」

 

「ああ」

 

「そして、シーマもまた、あの子に関わる鍵じゃ」

 

「シーマはどこにいる?」

 

「今は姿を見せぬじゃろう。必要な時に、必要な場所へ現れる」

 

 スバルは、その言い方に引っかかりを覚えた。

 

 だが、今は時間がない。

 

「ありがとう、リューズさん」

 

「スー坊」

 

「何だ?」

 

「そなたは、ガーフを敵にしに行くのではないな?」

 

「ああ」

 

 スバルは答えた。

 

「連れ戻しに行く」

 

 リューズは満足そうに頷いた。

 

 話を終え、スバルは村へ戻った。

 

 ユイは少し離れた場所で待っていた。

 

「どうだった?」

 

「話はついた。リューズさんは、単純に聖域解放へ反対してるわけじゃない」

 

「ガーフィールは?」

 

「母親だ」

 

 スバルは短く言った。

 

「そこが鍵になる」

 

 ユイは頷いた。

 

 それ以上は聞かない。

 

 スバルが知ったことを、スバルの言葉として扱う。

 

 それが今は必要だった。

 

 次はエミリアだ。

 

 スバルはエミリアの部屋へ向かった。

 

 扉を叩く。

 

「エミリア」

 

 少し遅れて、返事があった。

 

「……スバル?」

 

 眠ってはいない声だった。

 

 スバルは扉を開ける。

 

 エミリアは部屋にいた。

 

 寝台の上に腰を下ろし、膝の上で手を握りしめている。

 

 顔色は悪い。

 

 目の下には影がある。

 

 眠れなかったのだと、すぐにわかった。

 

「寝付けなかったのか」

 

「眠ろうとはしたの」

 

 エミリアは小さく笑おうとした。

 

 だが、うまく笑えていない。

 

「でも、目を閉じると、知らないはずのものが見えるの」

 

「知らないはずのもの?」

 

「うん。森。氷。みんなが眠ってる場所。私も、そこにいた気がする」

 

 スバルはゆっくり部屋に入り、距離を取って座った。

 

 近づきすぎない。

 

 けれど、離れすぎない。

 

「話せるか?」

 

「……うん。スバルになら」

 

 エミリアはぽつぽつと話し始めた。

 

 自分は長い間、氷の中にいたこと。

 

 パックに見つけられるまで、ずっと眠っていたようだったこと。

 

 森には、自分以外にも氷に閉ざされた人たちがいたこと。

 

 自分の本当の家族のことは、まだはっきりしないこと。

 

 けれど、母親のように思っていた人がいたこと。

 

 その人の名が、胸の奥に引っかかっていること。

 

「フォルトナ……」

 

 エミリアは、小さくその名をこぼした。

 

 まだ完全には思い出していない。

 

 けれど、名前だけが先に浮かび上がっている。

 

「その人が、母親みたいな人だったのか」

 

「たぶん。すごく、大事な人だった気がする」

 

 エミリアは胸元の結晶に手を触れた。

 

 パックの結晶。

 

 その光は弱い。

 

「ロズワールがね、言ったの」

 

「ロズワールが?」

 

「王になれば、できることが増える。凍った森を解かす方法も、見つかるかもしれないって」

 

 スバルは息を呑む。

 

 それが、エミリアが王選へ向かう理由。

 

 氷に閉ざされた森。

 

 眠ったままの人々。

 

 それを救いたいという願い。

 

「でもね、スバル」

 

 エミリアの声が小さくなる。

 

「それって、すごーく個人的な理由なの」

 

「個人的?」

 

「みんなのためって言ってるけど、本当は、私が知りたいの。私が取り戻したいの。私が、救いたいの」

 

 エミリアは俯いた。

 

「そんな理由で王になりたいなんて、言っていいのかな」

 

 スバルは、すぐには答えなかった。

 

 軽く流す場面ではない。

 

 エミリアは本気で、自分の願いを疑っている。

 

 だから、スバルも本気で答える。

 

「いいと思う」

 

 エミリアが顔を上げる。

 

「いいの?」

 

「ああ」

 

「だって、個人的なんだよ」

 

「個人的でいいだろ」

 

 スバルは言った。

 

「俺だってそうだ。エミリアを助けたいのも、レムを取り戻したいのも、ベア子を連れ出したいのも、ペトラたちを死なせたくないのも、全部俺がそうしたいからだ」

 

「……」

 

「自分がそうしたいって気持ちが混ざってたって、誰かを救いたい気持ちが嘘になるわけじゃない」

 

 エミリアの目が揺れた。

 

「スバルは、そう思う?」

 

「思う」

 

「本当に?」

 

「本当だ」

 

 スバルはまっすぐ見た。

 

 ここで不安な顔は見せない。

 

 信じるなら、信じた顔をしろ。

 

 ラムの言葉を思い出す。

 

「エミリアの願いは、汚くなんかない」

 

 エミリアは、少しだけ息を吐いた。

 

「スバルは、優しいね」

 

「そうでもない」

 

「ううん。優しい」

 

 少しの沈黙。

 

 それから、エミリアの瞼が重そうに落ちる。

 

 眠れていなかった体が、限界を迎え始めているのだろう。

 

 スバルは声を落とした。

 

「寝られそうか」

 

「……少しだけ」

 

 エミリアはそう言い、横になった。

 

 呼吸が落ち着いていく。

 

 スバルはしばらく見守ってから、胸元の結晶へ視線を落とす。

 

「パック」

 

 小さく呼ぶ。

 

 返事はあった。

 

 けれど、その会話の内容は、誰にも聞かせなかった。

 

 スバルとパックだけの会話だった。

 

 エミリアのために必要なこと。

 

 これから起きる別れ。

 

 そして、託されるもの。

 

 スバルは黙ってそれを聞いた。

 

 時間は過ぎ、夕方になった。

 

 エミリアが目を覚ました時、部屋には橙色の光が差していた。

 

「……パック?」

 

 エミリアは目を開けて、最初にその名を呼んだ。

 

 結晶が淡く光る。

 

 パックの声が聞こえた。

 

 いつものように柔らかい声。

 

 けれど、そこには決意があった。

 

「どうしたの、パック」

 

 エミリアの声が不安に揺れる。

 

 パックは、契約を解くことを告げた。

 

 エミリアが自分の過去に向き合うために。

 

 封じられていた記憶を取り戻すために。

 

 自分は離れなければならない、と。

 

「待って」

 

 エミリアは結晶を両手で包んだ。

 

「待って、パック。どうして? いやだよ。そんなの、急に言われても……」

 

 結晶にひびが入る。

 

 細い音。

 

 エミリアの顔が青ざめる。

 

「パック!」

 

 ひびが広がる。

 

 光が薄くなる。

 

 最後に、パックの声が何かを残した。

 

 そして、結晶は砕けた。

 

「――っ」

 

 エミリアの体が強張った。

 

 記憶の蓋が外れる。

 

 押し込められていたものが、一気に流れ込む。

 

 森。

 

 氷。

 

 声。

 

 フォルトナ。

 

 優しかった手。

 

 失われた時間。

 

「いや……」

 

 エミリアが小さく呻く。

 

「なに、これ……」

 

「エミリア!」

 

 スバルが手を伸ばす。

 

 エミリアは、そのまま意識を失った。

 

 倒れ込む体を、スバルが抱き止める。

 

「エミリア! エミリア!」

 

 返事はない。

 

 気を失っているだけだ。

 

 スバルはそう確認し、彼女を寝台へ戻した。

 

 部屋の中に、砕けた結晶だけが残る。

 

 スバルはしばらくそれを見ていた。

 

 そして、小さく呟く。

 

「……任されたからな」

 

 夜。

 

 聖域の別の場所で、ガーフィールは白い衣のリューズと向き合っていた。

 

 リューズ・シーマ。

 

 月明かりが、彼女の白い姿を淡く照らしている。

 

 ガーフィールの目には苛立ちがあった。

 

「なァ、ババア」

 

「何じゃ、ガーフ」

 

「あのナツキって奴、何なんだ」

 

「スー坊のことかえ」

 

「そうだよ」

 

 ガーフィールは舌打ちした。

 

「あいつは臭ぇ。魔女の臭いがする。あんな臭いをさせてる奴が、まともなわけねぇ」

 

 リューズ・シーマは静かにガーフィールを見る。

 

「疑っておるのかえ」

 

「疑うに決まってんだろ。エミリア様を試練に向かわせようとして、聖域を開けようとして、何を企んでやがる」

 

「スー坊は、聖域を解放すると言っておった」

 

「それが気に食わねぇんだよ」

 

 ガーフィールの声が低くなる。

 

「外に出ることが正しいって、誰が決めた」

 

 リューズ・シーマは、それ以上深くは踏み込まなかった。

 

 母親のことも、墓所で見たものも、ここでは語らない。

 

 ただ、短く言った。

 

「ガーフ。そなたは、スー坊を見極めねばならぬ」

 

「言われなくても、そうする」

 

 ガーフィールは背を向ける。

 

 疑念は晴れない。

 

 むしろ、強まっている。

 

 魔女の臭い。

 

 聖域解放。

 

 エミリアの試練。

 

 ナツキ・スバルという異物。

 

 ガーフィールは、その名を胸の奥で噛み潰すようにして、夜の中へ消えた。

 

 同じ夜。

 

 エミリアの部屋で、スバルは目を覚ましたエミリアの傍にいた。

 

 顔色は悪い。

 

 記憶の断片に揺さぶられ、パックを失い、エミリアは不安の底にいる。

 

「スバル」

 

「どうした」

 

「手、握ってて」

 

 小さな声だった。

 

「いいよ」

 

 スバルは手を差し出す。

 

 エミリアは、その手を両手で包み込むように握った。

 

「ごめんね、お願い」

 

「謝らなくていい」

 

「うん……でも、ごめん」

 

 スバルは首を横に振る。

 

「ここにいる」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「いなくならない?」

 

「いなくならない」

 

 その言葉を口にする時、スバルの胸は痛んだ。

 

 やらなければならないことがある。

 

 動かなければ、屋敷も聖域も救えない。

 

 けれど今のエミリアには、その言葉が必要だった。

 

「起きた時、いる?」

 

 エミリアが聞く。

 

 スバルは一瞬だけ息を詰めた。

 

 そして答える。

 

「いる」

 

 エミリアは安心したように目を閉じた。

 

「なら、寝る」

 

「ああ。寝ろ」

 

「手、離さないでね」

 

「離さない」

 

 エミリアは、スバルの手を握ったまま眠った。

 

 呼吸が静かになる。

 

 スバルはその手を見つめていた。

 

 しばらくして、彼はそっと指を抜いた。

 

 エミリアの手が微かに動く。

 

 スバルは胸を痛めながら、小さく呟く。

 

「ごめん」

 

 そして部屋を出た。

 

 扉が閉まる。

 

 ほどなくして、エミリアは目を覚ました。

 

 手の中が空だった。

 

「……スバル?」

 

 返事はない。

 

 部屋は静かだった。

 

 胸元には、もうパックの結晶もない。

 

 あるはずの声も、温もりもない。

 

「スバル……?」

 

 もう一度呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 その瞬間、記憶の断片が胸を刺した。

 

 置いていかれる。

 

 約束したのに。

 

 いると言ったのに。

 

 いなくならないと言ったのに。

 

「フォルトナ母様の、嘘つき……」

 

 声が震える。

 

「パックの、嘘つき……」

 

 布団を握りしめる手が白くなる。

 

「スバルの……嘘つき」

 

 小さな声は、誰にも届かなかった。

 

 翌日。

 

 聖域は朝から騒がしかった。

 

 エミリアがいない。

 

 村人たちが不安げに行き交い、ラムが指示を飛ばしている。

 

 スバルはその場にはいない。

 

 彼はエミリアの向かいそうな場所を探すため、別行動を取っていた。

 

 その騒ぎの中へ、ガーフィールが現れた。

 

 顔には苛立ちがある。

 

「何の騒ぎだァ?」

 

 ラムが振り返った。

 

「エミリア様が見当たらないのよ」

 

「……あ?」

 

 ガーフィールの目が細くなる。

 

「いなくなったってことかよ」

 

「言葉通りよ」

 

「チッ」

 

 ガーフィールは舌打ちした。

 

 捜索に加わるように周囲を見回し、まずは近場の家々へ足を向ける。

 

 誰かが見ていないか。

 

 どこかに隠れていないか。

 

 そうして探すうちに、リューズたちのいる家へ辿り着いた。

 

 扉を開ける。

 

 中を確認する。

 

 そこに、いるはずの白い姿がなかった。

 

 リューズ・シーマがいない。

 

 ガーフィールの表情が険しくなる。

 

「……なんで、いねぇ」

 

 エミリアの失踪。

 

 聖域のざわめき。

 

 そして、シーマの不在。

 

 嫌な予感が、胸の奥で繋がる。

 

「まさか……」

 

 ガーフィールは短く吐き捨て、家を飛び出した。

 

 向かう先は、遺跡。

 

 かつて墓所と並んで、聖域の根に触れる場所。

 

 リューズ・シーマがいるとすれば、そこだ。

 

 ガーフィールは迷わず走った。

 

 そして、遺跡へ足を踏み入れた瞬間、声が響く。

 

「お待ちしていました」

 

 ガーフィールが足を止める。

 

 そこにいたのは、オットーだった。

 

 緊張した顔で、それでも逃げずに立っている。

 

「……何してやがる、てめぇ」

 

「見ての通り、お留守番です」

 

「ふざけてんのか」

 

「かなり真面目です」

 

 オットーは喉を鳴らす。

 

 怖くないわけではない。

 

 目の前にいるのはガーフィールだ。

 

 まともにぶつかれば、自分など一瞬で潰される。

 

 それでも、ここに立っている。

 

「ナツキさんはここにはいません」

 

「あァ?」

 

「主役が不在の間、相手をするのは脇役の役目です」

 

 ガーフィールの目が細くなる。

 

「ナツキ・スバルの差し金か」

 

「友人としての協力です」

 

「どけ」

 

「どきません」

 

 オットーは即答した。

 

 その声は少し震えていた。

 

 だが、引いていない。

 

「僕は、あなたを止めに来たわけではありません」

 

「なら何だ」

 

「時間を稼ぎに来ました」

 

 ガーフィールの口元が獣のように歪む。

 

「正直だなァ」

 

「嘘をついても見抜かれそうなので」

 

「見逃すと思ってんのか」

 

「思っていません」

 

 オットーは一歩、後ろへ引く。

 

 逃げるためではない。

 

 誘導するために。

 

「ですが、こちらにも準備があります」

 

「準備ィ?」

 

「ええ。商人は段取りが命ですから」

 

 その瞬間、遺跡の外で小さな音が鳴った。

 

 鳥の羽ばたき。

 

 草むらのざわめき。

 

 小動物の足音。

 

 オットーの加護が、周囲に張り巡らされている。

 

 ガーフィールの眉が動く。

 

「てめぇ……」

 

「では、始めましょう」

 

 オットーは、引きつった笑みを浮かべた。

 

「ナツキさんが主役をやっている間、こちらはこちらで頑張ります」

 

 ガーフィールが地を蹴った。

 

 遺跡の空気が弾ける。

 

 一方、その頃。

 

 スバルは墓所へ向かって走っていた。

 

 エミリアが向かう場所。

 

 置いていかれたと思った彼女が、それでも隠れに行く場所。

 

 墓所。

 

 白い石の入口が見えた瞬間、スバルの胃が重く沈んだ。

 

 資格はない。

 

 もう、スバルは墓所に受け入れられない。

 

 近づくだけで、体の奥が拒絶に震える。

 

 ここだけは、やせ我慢で行くしかない。

 

「エミリア!」

 

 声を張る。

 

 返事はない。

 

 スバルは入口へ近づく。

 

 喉が詰まる。

 

 胃がひっくり返りそうになる。

 

 足が震える。

 

 それでも、顔だけは笑わせた。

 

 墓所の薄暗がりの奥。

 

 石段の影。

 

 そこに、白い姿があった。

 

 エミリアだった。

 

 膝を抱え、隠れるように座っている。

 

 銀の髪が顔を覆い、肩が微かに震えていた。

 

「……エミリア」

 

 呼びかける。

 

 エミリアの肩が跳ねた。

 

 ゆっくり顔が上がる。

 

 目は赤い。

 

 泣いたのだ。

 

 長く。

 

 何度も。

 

「スバル……?」

 

 怯えた声。

 

 責める声。

 

 縋りたい声。

 

 全部が混ざっていた。

 

 スバルは一歩踏み出そうとして、体の奥が拒絶に震えた。

 

「……っ」

 

 吐き気を飲み込む。

 

 足に力を入れる。

 

 今、苦しそうな顔を見せるな。

 

 ここだけは、やせ我慢でいい。

 

 スバルは無理やり笑った。

 

「見つけた」

 

 その一言が、墓所の冷たい空気に落ちた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。