「見つけた」
その一言が、墓所の冷たい空気に落ちた。
薄暗がりの奥で、エミリアは膝を抱えていた。
銀の髪は乱れ、頬には涙の跡が残っている。紫紺の瞳は赤く腫れ、いつものように背筋を伸ばした姿ではなかった。
そこにいたのは、置いていかれた子どものように震える少女だった。
「……スバル」
エミリアは顔を上げる。
その声には、安堵よりも先に、痛みが混じっていた。
「嘘つき」
スバルの胸が痛んだ。
言い訳はできる。
やらなければならないことがあった。ロズワールとの賭けがあった。オットーがガーフィールを引きつけている。ラムも動いている。屋敷も聖域も、全部がかかっている。
けれど、それは今のエミリアにとって、傷を消す理由にはならない。
エミリアは信じた。
手を握っていてほしいと頼んだ。
起きた時にいてほしいと願った。
そして、目を覚ました時、スバルはいなかった。
それがすべてだった。
「ごめん」
スバルは言った。
「約束、破った」
「いるって言った」
「ああ」
「いなくならないって言った」
「ああ」
「手、離さないって言った」
「ああ」
「なのに、いなかった」
「……ごめん」
エミリアの指が、服の裾を強く握りしめる。
「フォルトナ母様も、パックも、スバルも、みんなそう。いるって言うの。離れないって言うの。私を置いていかないって言うの」
声が震える。
「なのに、みんな、いなくなる」
フォルトナ。
その名が出た瞬間、スバルは息を呑んだ。
記憶が戻り始めている。
パックが離れたことで、エミリアの中に押し込められていたものが、少しずつ溢れ出している。
だが、今はその記憶を問いただす場面ではない。
今のエミリアを捕まえているのは、過去そのものではなく、置いていかれる恐怖だった。
「エミリア」
スバルは一歩踏み出そうとした。
その瞬間、体の奥が強く拒絶に震える。
墓所が、スバルを受け入れない。
胃が裏返るような感覚が込み上げ、喉が詰まる。
「……っ」
吐き気を噛み殺す。
足に力を入れる。
ここで苦しそうな顔を見せるな。
ここだけは、やせ我慢でいい。
スバルは無理やり口元を上げた。
「俺は、ここにいる」
「今だけでしょ」
エミリアは即座に返した。
「またいなくなる。私が寝たら。私が目を閉じたら。私が少し安心したら、またいなくなる」
「行かなきゃいけない時はある」
「ほら」
エミリアの顔が歪む。
「やっぱり、いなくなるんだ」
「違う」
「違わない」
「違う。離れることと、置いていくことは違う」
「同じだよ!」
エミリアの声が墓所に響いた。
「私には同じだよ! いるって言われて、信じて、目を閉じて、起きたらいない。だったら同じだよ!」
スバルは言い返せなかった。
正しいのは、エミリアだ。
彼女にとって、スバルの事情など関係ない。
結果として、彼は約束を破った。
それでも、ここで黙って終われない。
「エミリア」
「……なに」
「怒っていい」
エミリアが目を見開く。
「俺を嘘つきって言っていい。約束を破ったって責めていい。俺が悪かったところは、ちゃんと悪かったって認める」
「……」
「でも、それでも俺は、エミリアのところへ戻ってきた」
スバルは、墓所の拒絶に耐えながら膝をついた。
これ以上、奥へは進めない。
だが、視線だけは逸らさない。
「俺は、エミリアを置いていきたいんじゃない。一緒に進みたいんだ」
「一緒に?」
「ああ」
「私、進めないよ」
エミリアは俯く。
「思い出すのが怖い。パックがいなくなったのが怖い。フォルトナ母様のことを思い出すのも怖い。私が、私の知らない私になるのが怖い」
「怖くていい」
「またそれ?」
「ああ。何回でも言う。怖くていい」
スバルは息を吸う。
喉が熱い。
胃が痛い。
それでも言葉を止めない。
「怖いから駄目なんじゃない。怖いのに、それでも前を向こうとするから、エミリアはすげえんだ」
「すごくなんかない」
「すごい」
「すごくない!」
「すごいんだよ!」
スバルの声が強くなる。
エミリアが肩を震わせる。
「俺は知ってる。エミリアがどれだけ怖がりで、どれだけ泣き虫で、どれだけ自分のことを信じられないか。そういうところも知ってる」
「だったら……」
「でも、それでもエミリアは誰かのために立とうとする。自分が傷ついても、誰かを助けようとする。困ってるやつを放っておけない。自分が嫌われるかもしれないってわかってても、手を伸ばす」
エミリアの目が揺れる。
「だから俺は、エミリアが好きだ」
「……それ、また言うの?」
「何度でも言う」
「そんなの、理由にならないよ」
「なる」
「ならない」
「なるんだよ」
スバルは、はっきり言った。
「俺は、エミリアを信じられるから好きなんじゃない。好きだから、信じたいんだ」
エミリアは息を呑む。
「好きだから……信じる?」
「ああ」
「そんなの、ずるい」
「ずるくていい」
「好きって言えば、全部通ると思ってるの?」
「思ってない」
「じゃあ、どうしてそんなに言えるの」
「言わなきゃ、エミリアに届かないからだ」
スバルは手を伸ばした。
届かない距離ではない。
だが、エミリアが動かなければ触れられない。
「エミリアが自分を信じられないなら、俺が信じる。エミリアが自分を嫌いなら、俺が好きだって言う。エミリアが嘘つきって言うなら、俺は謝って、もう一回戻ってくる」
「……」
「何度でもだ」
エミリアは泣いていた。
目元から大粒の涙がこぼれ、頬を伝って落ちる。
「私、面倒くさいよ」
「知ってる」
「泣くよ」
「知ってる」
「怒るよ」
「怒られる」
「また逃げるかもしれない」
「追いかける」
「また嘘つきって言うかも」
「言われたら、ちゃんと聞く」
「それでも?」
「それでも」
スバルは、もう一度言った。
「それでも、俺はエミリアが好きだ」
エミリアは、震えながら立ち上がった。
足元は不安定だった。
それでも、墓所の影から一歩踏み出す。
スバルの手が届く場所へ。
泣きながら、怒りながら、まだ信じられない顔をしながら。
彼女は、スバルの胸元を掴んだ。
「証明して」
かすれた声だった。
「スバルの好きが、本当だって」
スバルは目を見開いた。
エミリアは逃げない。
目を逸らさない。
信じる理由を、震えながら求めている。
その一歩を、墓所の外から見ていたユイは、息を呑んだ。
ここで自分が前へ出てはいけない。
ここはスバルとエミリアの場面だ。
けれど、ただ見ているだけでもない。
スバルが言葉を尽くすたびに、エミリアの中の凍りついたものが少しずつ軋む。
その音が聞こえる気がした。
ユイは、喉の奥にこみ上げる熱を押し殺す。
スバルは弱い。
墓所に拒まれ、吐き気を堪え、足を震わせている。
それでも、エミリアへ向ける言葉だけは熱を失っていない。
ユイは思った。
これが、今のナツキ・スバルの強さなのだと。
死んでやり直す力ではない。
誰かを好きだと叫び、信じる理由を無理やりにでも差し出す力。
それを目の前で見せられて、エミリアは揺れている。
ユイは一歩だけ、墓所の入口へ近づいた。
声はかけない。
ただ、そこにいる。
エミリアがもし崩れ落ちたなら支えられる距離。
スバルがもし墓所の拒絶に耐えきれず倒れたなら受け止められる距離。
物語の芯を奪わず、確かにそこにいる距離。
スバルは、そっとエミリアへ距離を詰めた。
「嫌なら、逃げていい」
そう言った。
エミリアは逃げなかった。
だから、スバルは彼女に口づけた。
墓所の冷たい空気の中で、触れた唇は震えていた。
エミリアも。
スバルも。
長くはない。
けれど、軽くもない。
言葉だけでは足りなかった想いを、乱暴ではなく、けれど確かに伝えるための口づけだった。
離れた時、エミリアはぽかんとスバルを見ていた。
泣き腫らした目。
赤くなった頬。
怒っていたはずなのに、どうしていいかわからない顔。
「……今の」
「証明」
「証明って、こういうことなの?」
「俺の中では、かなり本気の証明だ」
「……ずるい」
「またそれか」
「ずるいよ、スバル」
エミリアは泣きながら、ほんの少し笑った。
完全に立ち直ったわけではない。
フォルトナの記憶も、パックの別れも、置いていかれる恐怖も、まだ胸の中にある。
けれど、もう一人で膝を抱えてはいなかった。
スバルの手を握っていた。
「私、まだ怖い」
「ああ」
「まだ、信じられるかどうかわからない」
「ああ」
「でも……」
エミリアは、スバルの手を握った。
「ちょっとだけ、信じてみる。スバルの好きって言葉を」
スバルは小さく息を吐いた。
「十分だ」
ユイは、その言葉を聞いて静かに目を伏せた。
胸の奥に、奇妙な熱が残っている。
スバルが、言葉でエミリアを引き上げた。
そして、エミリアが自分の足で、ほんの少しだけ前へ出た。
この場面に、自分は必要以上に触れなかった。
けれど、確かにいた。
エミリアが崩れそうな時に支える位置に。
スバルが言葉を選び間違えそうな時に、背中を押せる位置に。
物語の芯を奪わず、そこにいる。
それが、今のユイの役目だった。
――少し前。
遺跡では、ガーフィールとオットーが向き合っていた。
ガーフィールは低く唸るように言う。
「どけよ」
「どきません」
オットーは答えた。
膝は笑っている。
喉も乾いている。
それでも、声だけは何とか整えた。
「僕の役目は、あなたをここで足止めすることです」
「正直に言いやがる」
「嘘をついても、あなた相手ではすぐに剥がれそうですから」
「なら、正直に聞いてやる。あいつはどこだ」
「教えません」
「あいつは何を企んでやがる」
「企んでいるというより、頑張っている最中です」
「ふざけんな」
「かなり真面目です」
ガーフィールの目が細くなる。
「てめぇ、自分が何してるかわかってんのか」
「わかっています」
「俺様相手に時間稼ぎ? 自殺志願にしちゃ回りくどいなァ」
「死にたくはありませんよ。僕はまだ商人として大成功していませんし、借金も完済したいですし、できれば平穏な老後も欲しいです」
「なら、どけ」
「嫌です」
即答。
ガーフィールの表情が一瞬止まった。
「……あ?」
「嫌です、と言いました」
「なんでそこまであいつに肩入れする」
「友人ですから」
オットーは言った。
「ナツキさんは、僕の友人です。友人が一人で無茶をしようとしているなら、止めるなり、支えるなり、代わりに殴られるなりするのが筋でしょう」
「馬鹿か、てめぇ」
「よく言われます」
「命を賭ける理由が、それかよ」
「ええ」
オットーはほんの少し笑った。
「僕は、そういう理由で動く人間です」
ガーフィールが地を蹴った。
その動きは速すぎた。
オットーの目には追えない。
だが、耳には届く。
いや、耳ではない。
虫が叫ぶ。
右。
小鳥が羽ばたく。
上。
土の中の小動物が震える。
来る。
「っ!」
オットーは横へ飛んだ。
直後、ガーフィールの拳が、彼がいた場所を砕く。
石の床がひび割れ、破片が飛び散った。
「逃げんのはうめぇじゃねぇか」
「それくらいしか取り柄がありませんので!」
オットーは叫び返し、遺跡の柱の陰へ滑り込む。
ガーフィールが追う。
その瞬間、足元が崩れた。
「――っ?」
床に仕込まれていた細い縄が切れ、土と葉に隠された穴が口を開ける。
そこへ、虫の群れが一斉に湧いた。
ガーフィールの足元を這い上がり、視界を塞ぎ、鼻先へまとわりつく。
「うぜぇ!」
ガーフィールが腕を振るう。
虫の群れが散る。
だが、その一瞬でオットーは距離を取る。
「小細工ばっかりしやがって!」
「小細工しかできない人間もいるんですよ!」
オットーは走る。
走りながら、周囲へ呼びかける。
鳥。
虫。
鼠。
地面を這う小さな命たち。
彼らの声が、一斉にオットーの頭へ流れ込む。
右へ。
危ない。
後ろ。
飛んで。
来る。
近い。
多すぎる。
音が、声が、意識を埋める。
「ぐ、ぅ……っ」
こめかみが割れそうに痛む。
鼻の奥が熱くなり、口の端に血が滲む。
使いすぎだ。
この加護は便利だが、万能ではない。
大量の声を一度に拾えば、脳が焼ける。
それでも、止められない。
止まれば終わる。
ガーフィールは、ただ力任せに追っているだけではない。
獣の勘で罠を読み、オットーの逃げ道を潰しに来ている。
遺跡の柱が砕かれる。
床が割れる。
隠していた縄が千切られる。
仕込んだ罠が、次々と力で押し潰されていく。
「てめぇの策は、それで終わりか?」
「まさか!」
オットーは強がった。
本当は、かなり終わりに近い。
だが、終わりだと悟られれば、その瞬間に潰される。
だから、笑う。
引きつった笑顔で。
「商人は、最後まで在庫を隠しておくものです!」
「なら、全部吐き出させてやるよ!」
ガーフィールの蹴りが石床を砕く。
破片が散弾のように飛ぶ。
オットーは身を捻ったが、避けきれなかった破片が肩を裂く。
「がっ……!」
足がもつれる。
倒れかける。
そこへガーフィールが迫る。
金色の瞳が、獣のように光る。
「終わりだ」
拳が振り下ろされる。
その瞬間、風が走った。
鋭い刃のような風が、ガーフィールの軌道を切り裂く。
ガーフィールが舌打ちして飛び退く。
オットーの前に、桃色の髪が揺れた。
「情けないわね、オットー」
「ラムさん!」
「時間稼ぎにしても、もう少し見苦しくないやり方はなかったの?」
「助けに来て第一声がそれですか!」
「褒めているのよ」
「どこがですか!」
ラムは涼しい顔で言い、ガーフィールへ向き直る。
「ガーフ」
「ラム……てめぇもあいつ側かよ」
「ラムはラムの思う方に立っているだけよ」
「ロズワールはどうした」
「ロズワール様はロズワール様。今この場で、あなたを止める理由とは別」
「わけわかんねぇ」
「わからなくて結構」
ガーフィールは歯を剥いた。
「あいつはそんなに信用できる奴かよ」
「信用?」
ラムは少しだけ目を細めた。
「バルスは愚かで、浅はかで、無謀で、説明不足で、顔に出やすく、すぐ調子に乗る男よ」
「言い過ぎでは!?」
オットーが横から叫ぶ。
ラムは無視した。
「でも、肝心な時だけは妙に間がいい」
「それが信用する理由かよ」
「十分でしょう」
ラムは手を掲げる。
風が集まる。
ガーフィールは低く唸る。
「どけ、ラム。俺様はシーマを――」
「行かせないわ」
「邪魔すんな!」
ガーフィールが踏み込む。
速い。
だが、ラムも動く。
体を半歩ずらし、風の刃を走らせる。
ガーフィールは腕で受け、強引に距離を詰める。
オットーが叫ぶ。
「左です!」
ガーフィールの視線が一瞬だけ動く。
虫の群れが足元から跳ね、鳥が視界を横切る。
ほんのわずかな隙。
ラムは逃さない。
「アル・フーラ」
風が渦を巻く。
圧縮された暴風が、槍のようにガーフィールへ叩き込まれた。
「が、ぁっ――!」
ガーフィールの体が吹き飛ぶ。
遺跡の石壁が砕け、土煙が上がる。
獣じみた咆哮が、聖域へ響き渡った。
墓所の前で、ユイはその咆哮を聞いた。
スバルとエミリアは、まだ墓所の中にいる。
ユイは中の会話には踏み込まなかった。
それはスバルとエミリアの場面だ。
けれど、外から来るものを止めるのは、自分の役目だった。
ユイは墓所の階段の下へ視線を向ける。
森の奥から、足音が近づいてきた。
乱暴で、重い。
土を抉るような足取り。
血と土と怒りの匂いをまとって、金色の獣が姿を現す。
ガーフィールだった。
傷だらけだった。
服は裂け、体には風の刃の跡が刻まれている。
息は荒い。
だが、目は死んでいない。
むしろ、怒りでぎらぎらと燃えていた。
階段の下。
ガーフィールは、墓所の入口を見上げた。
その視線の先に、まだスバルはいない。
代わりに、ユイが立っている。
「……どけ」
ガーフィールが低く言った。
ユイは動かなかった。
「どけって言ってんだよ」
「ここは通せないわ」
「あいつは中か」
ユイは答えない。
答えなかったことが、答えになった。
ガーフィールの口元が歪む。
「てめぇも、あいつ側かよ」
「私は、私の立つ場所にいるだけ」
「ラムみてぇなこと言いやがる」
ガーフィールが地を蹴った。
速い。
傷だらけでも、獣の速度は落ちていない。
まともに受ければ、ユイの体など一撃で吹き飛ぶ。
だから、受けない。
ユイの瞳が細くなる。
視線がずれる。
距離が一拍、狂う。
ガーフィールの拳が、ユイの肩を砕くはずの軌道を通り抜け、空を裂いた。
「チッ!」
ガーフィールが即座に体を捻る。
外したはずの拳の勢いを殺さず、そのまま回転するように蹴りへ繋げる。
ユイは後ろへ跳ぶ。
だが、風圧だけで頬が切れた。
赤い線が、白い肌に走る。
「やるじゃねぇか」
「そっちこそ、傷だらけでも化け物ね」
「化け物扱いは慣れてんだよ!」
ガーフィールが再び踏み込む。
ユイは虚飾で足元の影をずらす。
階段の段差を一段分、錯覚させる。
ガーフィールの踏み込みがわずかに狂った。
その隙に、ユイは短く詠唱する。
「エル・ミーニャ」
細い光弾が複数走る。
狙いは直撃ではない。
視界を塞ぐ。
足を止める。
一拍だけ遅らせる。
ガーフィールは腕を振るい、光弾を弾き飛ばした。
だが、一つが肩口を掠める。
「小細工ばっかりしやがって!」
「正面からやったら勝てないもの」
「わかってんならどけ!」
「だから、どかない」
ユイはさらに一歩、階段下から墓所入口への線を塞ぐ。
スバルとエミリアは、まだ階段の上。
会話が終わるまで。
スバルが出てくるまで。
ほんの少しでいい。
この獣を止める。
ガーフィールの目が、獣のそれに変わった。
次の踏み込みは、さっきより速い。
虚飾で視界をずらす。
けれど、今度は反応が違った。
ガーフィールは目ではなく、匂いと気配でユイを追った。
拳が来る。
ユイは避ける。
避けきれない。
肩に衝撃が走った。
「っ……!」
骨が軋む。
完全には入っていない。
だが、かすっただけで体勢が崩れる。
ガーフィールは逃さない。
「捕まえたぜ」
低い声。
その手が、ユイの腕を掴もうと伸びる。
瞬間、墓所の奥から声が響いた。
「そこまでだ、ガーフィール!」
ガーフィールの動きが止まる。
ユイも、荒い息を吐きながら視線を上げた。
墓所の階段の上。
入口の影から、スバルが現れる。
その横には、エミリアがいた。
まだ顔は青い。
目は赤い。
それでも、スバルの隣に立っている。
二人は階段の上。
ガーフィールは階段の下。
その中間に、ユイが立っていた。
スバルはユイの傷を見た。
頬の切り傷。
肩を押さえる手。
荒い呼吸。
それだけで、何があったかは十分だった。
「ユイさん」
「大丈夫」
ユイは即答した。
少し無理をしている声だった。
スバルは、そこに気づいた。
けれど、今は踏み込まない。
ガーフィールから目を逸らさず、スバルは言う。
「エミリアのそばにいてくれ」
ユイは一瞬だけスバルを見る。
その言葉の意味を理解する。
ここから先は、スバルがガーフィールと向き合う場面だ。
ユイが前に出続ければ、流れがずれる。
けれど、役目がなくなるわけではない。
エミリアを守る。
スバルの背を守る。
そして、必要ならいつでも割って入る。
「わかったわ」
ユイは短く答え、階段を上がる。
ガーフィールが追おうとするが、スバルが一歩前に出た。
階段の上から、ガーフィールを見下ろす形になる。
「相手は俺だ」
スバルは言った。
ガーフィールは、階段下から睨み上げる。
金色の瞳がぎらついた。
「ようやく出てきやがったか」
「待たせたな」
「待ってねぇよ」
低い唸り。
怒り。
疑念。
焦り。
全部を混ぜた視線が、スバルを射抜く。
ユイはエミリアの横へ戻った。
エミリアは、まだ震えている。
けれど、ユイがそばに立つと、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「ユイ……怪我」
「かすり傷よ」
「でも」
「今は、スバルくんを見る時」
ユイは静かに言った。
エミリアは、スバルを見る。
階段の上に立つスバル。
階段の下で牙を剥くガーフィール。
その間に、言葉ではなく覚悟が張り詰めている。
ユイは、エミリアの少し斜め前に立った。
守れる位置。
スバルの邪魔をしない位置。
物語の中心に割り込まず、けれど確かにそこにいる位置。
スバルは階段の上から、ガーフィールへ向き直る。
墓所の中では、やせ我慢で笑った。
ここからは、別の勝負だ。
ガーフィールを倒すためではない。
連れ戻すための勝負。
「話そうぜ、ガーフィール」
スバルは言った。
「お前と、ちゃんと向き合いに来た」