足音は、すぐそこまで来ていた。
けれど、近づいてくる気配はひとつではなかった。
ひとつは、迷いなくこちらへ向かってくる足音。
もうひとつは、少し遅れて、息を切らしながら駆けてくる軽い足音。
スバルには、その違いを考える余裕などなかった。
エルザの刃を受け止めたユイの剣が、ぎしりと鳴る。
重い。
細い短剣から放たれているとは思えないほど、殺意が乗っている。
ユイは半歩だけ足を滑らせ、力を逃がした。
エルザの刃が横へ流れ、棚に積まれていた古い木箱を裂く。
中身の布や小物がばらばらと床へ落ちた。
「あら」
エルザが笑う。
「そのお姉さん、ただの旅人にしてはずいぶん刃に慣れているのね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ユイは剣を構え直した。
今の世界では、エルザとは初対面。
だから、知っているような反応はしない。
ただ、目の前の危険な女を警戒する顔を作る。
エルザは唇を吊り上げた。
「そういう人の中身って、きっと綺麗なのよね」
「……ずいぶん悪趣味なことを言うのね」
軽口を返しながら、ユイは背後の気配を測る。
スバルは動けている。
フェルトは徽章を握ったまま後退している。
ロム爺は棍棒を構え、今にも飛びかかりそうだ。
そして、外から近づく二つの足音。
ラインハルト。
それから、もう一人。
ユイは内心だけで笑う。
間に合う。
今度は、間に合う。
ただし、自分がやりすぎてはいけない。
ここで自分がエルザを圧倒しすぎれば、不自然になる。
ラインハルトの役目を奪ってはいけない。
銀髪の少女の出番も、奪いすぎてはいけない。
頼れるお姉さんは、必死に繋ぐ。
それでいい。
「ロム爺、その子を頼む!」
スバルが叫んだ。
声は震えていた。
だが、ちゃんと出ていた。
ロム爺が舌打ちする。
「言われんでもわかっとる!」
「ちょ、勝手に仕切んな、兄ちゃん!」
「いいから下がれ! その女は本当にやばい!」
フェルトは反射的に言い返そうとして、エルザの笑みを見た瞬間、口を閉じた。
本能でわかったのだろう。
目の前の女は、話し合いでどうにかなる相手ではない。
エルザが床を蹴る。
狙いはフェルト。
ユイは踏み込んだ。
剣を横へ振り、エルザの進路を断つ。
刃と刃がぶつかり、火花が散った。
「邪魔ね」
「それが目的だから」
「守るのが好き?」
「そう見える?」
「ええ。とても」
エルザの目が細くなる。
「でも、守る人の顔じゃないわ」
ユイの表情が、一瞬だけ凍りかけた。
エルザは笑う。
「あなた、楽しんでいるでしょう?」
ユイは答えなかった。
代わりに剣を押し込み、エルザを壁際へ弾く。
ロム爺がその隙を逃さず、棍棒を振るった。
轟、と空気が鳴る。
まともに当たれば、人間の骨など簡単に砕ける一撃。
だが、エルザは笑いながら身を低くし、その下を滑るように抜けた。
「おじいさんも元気ね」
「化け物め!」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
エルザの刃が、ロム爺の脇腹へ走る。
スバルの喉が鳴った。
前の記憶が蘇ったのだろう。
ロム爺が崩れる光景。
フェルトの叫び。
血の匂い。
スバルの顔から血の気が引く。
けれど今度は、声を出した。
「ロム爺、右!」
ロム爺は反射的に体を捻る。
刃が服を裂き、皮一枚で止まった。
「ぬっ……!」
ロム爺が目を見開く。
スバルは震えながらも、拳を握っていた。
届いた。
今、ひとつ変えた。
ほんの少し。
だが、前とは違う。
ユイはそれを横目で見て、胸の奥が甘く震えるのを感じた。
よかったね、スバルくん。
ちゃんと声が出た。
何もできないだけじゃなかった。
その小さな成功が、あなたをもう少し前へ進ませる。
そして、前へ進んだ分だけ、また折れた時には綺麗に曇る。
エルザはスバルを見た。
「あら。あなた、本当に面白いわ」
その視線だけで、スバルの体が強張る。
だが、下がらない。
「面白がってんじゃねえよ……!」
「だって、怖くてたまらない顔をしているのに、まだそこにいるんだもの」
エルザが刃を回す。
「開いたら、どんな音がするのかしら」
「させない」
ユイが間に入った。
その時、盗品蔵の入り口に白い影が飛び込んできた。
「そこまでよ!」
凛とした声だった。
スバルの呼吸が止まる。
銀色の髪。
白い外套。
紫紺の瞳。
その肩の近くに浮かぶ、小さな猫のような精霊。
銀髪の少女が、盗品蔵の入口に立っていた。
息は少し乱れている。
だが、その瞳はまっすぐにエルザを見ていた。
「……あら」
エルザが楽しげに目を細める。
「持ち主まで来たのね」
銀髪の少女は、床に散った品々と、傷ついた棚と、構えたままのユイ、ロム爺、そして徽章を握るフェルトを見た。
最後に、スバルを見る。
一瞬だけ、不思議そうな顔をした。
スバルは名前を呼ばなかった。
呼べなかったのではない。
呼ばなかった。
あの名を、もう二度と口にしないと決めたから。
銀髪の少女はすぐに視線を戻す。
「その徽章は私のものよ。返して」
「嫌だね!」
フェルトが即座に言い返す。
「こっちは命懸けで盗ってきたんだ。ただで返すわけないだろ!」
「盗んだものを返すのに、対価を要求するの?」
銀髪の少女の声には、焦りと怒りが混じっていた。
パックが肩の近くで尻尾を揺らす。
「なかなか強気な泥棒さんだね」
「うるさい猫!」
「精霊だよ」
そう言いながらも、パックの目はエルザから離れていない。
エルザは状況を楽しむように短剣を揺らした。
「人数が増えて、ますます素敵ね」
「素敵どころじゃないわ」
銀髪の少女が手をかざす。
空気が冷える。
小さな氷の粒が、彼女の周囲に浮かび上がった。
スバルはそれを見て、胸の奥が締めつけられた。
生きている。
戦っている。
今度は、血の海に倒れていない。
それだけで、泣きそうになる。
「そこの子、下がって!」
銀髪の少女がフェルトへ叫ぶ。
「だから勝手に仕切んなっての!」
「その女は危ない!」
「そんなの見りゃわかる!」
言い合いながらも、フェルトは後ろへ下がる。
ロム爺がその前に立つ。
ユイは銀髪の少女の横へ半歩ずれた。
「助かるわ。少しだけでも手を貸して」
銀髪の少女は一瞬だけユイを見る。
「あなたは?」
「通りすがりのお節介よ」
「……そう」
銀髪の少女は深くは聞かなかった。
今は問い詰めている場合ではない。
ユイも、余計なことは言わない。
この場では初対面。
それ以上でも、それ以下でもない。
エルザが動いた。
ユイが受ける。
銀髪の少女の氷が飛ぶ。
エルザは笑いながら身を翻し、氷を避け、そのままユイの剣へ短剣を重ねる。
金属音。
氷が壁に刺さる。
ロム爺が棍棒を振るう。
エルザはさらに後退し、床を蹴って別角度から襲いかかる。
連携は完璧ではない。
ユイと銀髪の少女は互いの呼吸を知らない。
ロム爺も割り込むタイミングを探っている。
それでも、前よりは違う。
数がいる。
スバルの声がある。
そして、もうひとつの足音が、扉の外に辿り着いた。
「待たせたね」
赤髪の青年が、盗品蔵へ入ってきた。
ラインハルト。
その姿を見た瞬間、空気が変わった。
暗く湿った盗品蔵の中に、外の光が差し込んだようだった。
スバルの肺から、詰まっていた息が漏れる。
「ラインハルト……!」
「間に合ったようでよかった」
ラインハルトは室内を一瞥した。
ユイ。
銀髪の少女。
エルザ。
ロム爺。
フェルト。
スバル。
そしてフェルトの手元にある徽章。
彼の目が、一瞬だけそこに止まる。
しかし、今は何も言わなかった。
まず目の前の脅威を見ている。
「君が、スバルの言っていた黒髪の女性かな」
ラインハルトの声は穏やかだった。
エルザは短剣を構えたまま、楽しそうに目を細める。
「そう呼ばれていたなら、きっと私のことでしょうね」
「なら、ここで刃を収めてもらえると助かる」
「嫌だと言ったら?」
「止める」
短い言葉だった。
それだけで、盗品蔵の空気がさらに重くなる。
スバルは、思わず息を呑んだ。
ラインハルトは怒鳴っていない。
殺気を撒き散らしてもいない。
なのに、エルザの纏う死の匂いが、正面から押し返されている。
ユイは壁際に下がりながら、その光景を見ていた。
やはり、違う。
ラインハルトは別格だ。
自分が虚飾で半歩ずらし、結果をごまかし、認識を歪めながらようやく届く領域を、この男はただ立っているだけで踏み越える。
嫉妬も、虚飾も、魔女の匂いも関係ない。
世界が彼に通行を許している。
そんな存在。
銀髪の少女も、ラインハルトを見て少し驚いた顔をしていた。
「ラインハルト……どうしてここに?」
「彼に呼ばれてね」
ラインハルトはスバルを示す。
銀髪の少女の視線が、再びスバルへ向いた。
スバルは、気まずそうに目を逸らしかけて、踏みとどまる。
「危ないと思ったから、呼んだ」
それだけ言った。
それ以上は言わない。
言えない。
でも、その言葉は嘘ではなかった。
銀髪の少女は何かを言いかけたが、今は戦闘中だと思い直したように口を閉じた。
エルザが身を低くする。
「素敵ね。あなたも開いてみたいわ」
「それは困るな」
ラインハルトの手が剣の柄へ向かう。
だが、そこで止まった。
わずかな間。
スバルには何が起きたのかわからなかった。
ラインハルトは少しだけ困ったように笑う。
「どうやら、これは今抜くべき相手ではないらしい」
「え、抜けないの!?」
スバルが思わず叫ぶ。
ラインハルトは苦笑した。
「心配しなくていい。剣がなくても、できることはある」
「その台詞、強いやつしか言っちゃ駄目なやつだろ!」
「なら、問題ないかな」
あまりにも自然に言われて、スバルは一瞬返す言葉を失った。
その間に、ラインハルトは近くに転がっていた古い剣を拾った。
盗品の山の中に紛れていた、手入れも怪しい量産品。
ラインハルトの手に収まった瞬間、それが別物に見えた。
エルザが笑う。
「それで私を相手にするの?」
「十分だと思う」
次の瞬間、エルザが消えた。
いや、そう見えるほど速く動いた。
ユイでも反応を遅らせれば見失う速度。
だが、ラインハルトはそこにいた。
剣が振られる。
金属音。
エルザの短剣が弾かれた。
彼女の体が宙を舞い、壁を蹴って体勢を立て直す。
スバルは目を見開いた。
「すげ……」
それしか出てこなかった。
エルザは着地し、今度は床を這うように低く走る。
狙いはラインハルトではない。
スバル。
あるいはフェルト。
弱いところを狙う。
スバルの体が固まる。
だが、ユイが動いた。
スバルの前に半歩出る。
同時に、銀髪の少女の氷がスバルの前の床を覆う。
さらにラインハルトの剣が、エルザの進路を断った。
エルザは笑いながら反転する。
「三人がかりなんて、嬉しいわ」
「嬉しがるところじゃないわ」
銀髪の少女が言った。
「私は補助よ」
ユイは剣を構え直し、静かに続ける。
「主役を張るほど目立ちたがりじゃないの」
スバルは思わずユイを見る。
今のユイは、頼れるお姉さんそのものだった。
自分の前に立ち、無理に前へ出すぎず、けれど決して逃げない。
その背中に、スバルはまた胸を締めつけられる。
何も知らないはずなのに。
今のユイにとって、自分はさっき会ったばかりの相手のはずなのに。
それでも、また守ろうとしている。
スバルは拳を握った。
違う。
今度は、ただ守られて終わるな。
「そこの子!」
「ああ!? 今度はなんだよ!」
「徽章を落とすな! あと、出口から離れすぎるな! エルザはたぶん、逃げ道を潰してくる!」
「なんであんたがそんなこと――」
「いいから!」
スバルの声が必死すぎて、フェルトは舌打ちしながらも従った。
ロム爺が彼女の前に立つ。
「ちっ、わけのわからん兄ちゃんだが、今は聞いてやれ」
「ロム爺まで!」
「死にたくなきゃな」
スバルは息を吐いた。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
変わっている。
誰かが動いてくれる。
自分の声で。
それが信じられないくらい、胸に熱かった。
エルザはラインハルトと数合打ち合った。
打ち合った、というより、ラインハルトがすべて受け止め、弾き、押し返している。
銀髪の少女の氷が逃げ道を塞ぎ、ユイが弱い方へ刃が流れないように軌道を潰す。
エルザは速い。
鋭い。
殺しの技術だけなら、恐ろしく完成されている。
だが、今の盗品蔵には、前と違って届く手がいくつもあった。
ユイは、あえて手数を絞る。
必要な時だけ、エルザの逃げ道を塞ぐ。
スバルやフェルトへ流れそうな刃だけを止める。
それ以上はしない。
ラインハルトと銀髪の少女がいる以上、過剰に力を見せる必要はない。
エルザの短剣が、唐突に軌道を変えた。
狙いはスバルでもフェルトでもない。
ユイの脇腹。
一度目の世界で裂かれた場所。
もちろん、今のエルザはそんなことを知らない。
だが、その軌道を見た瞬間、スバルの顔が青ざめた。
「ユイさん!」
叫び。
ユイはその声にほんの少しだけ反応を遅らせる。
エルザの刃が服を裂いた。
皮膚を薄く掠め、血が一筋流れる。
致命傷ではない。
浅い。
浅くした。
ユイは後ろへ跳び、表情を歪める。
スバルの顔がまた壊れかけた。
「また……!」
言いかけて、止まる。
今度は飲み込んだ。
偉い。
ユイは内心でそう思う。
ちゃんと学んでいる。
今の世界では、まだ“また”ではない。
それを言えば、周囲に疑われる。
スバルはそれを理解し始めている。
だから苦しい。
だから、いい。
「平気よ」
ユイは穏やかに言った。
「浅いわ」
「浅くても血が出てんだろ!」
「心配してくれるの?」
「するに決まってんだろ!」
スバルは怒鳴った。
その声は、怯えていた。
怒りというより、恐怖だった。
また自分のせいで傷ついた。
そう思っている顔。
ユイは優しく笑う。
「ありがとう、スバルくん」
その一言に、スバルは息を詰まらせた。
銀髪の少女が、そのやり取りに一瞬だけ目を向ける。
けれど、今は問わない。
エルザがうっとりと笑う。
「本当に、いい関係ね」
「初対面よ」
ユイは即答した。
エルザの笑みが深くなる。
「そういうことにしておきましょう」
その瞬間、ラインハルトが踏み込んだ。
速い。
エルザの笑みが消える。
剣が振り抜かれる。
轟音。
盗品蔵そのものが悲鳴を上げた。
壁が大きく裂け、外の空気が一気に流れ込む。
粉塵が舞い、木材が軋む。
エルザはかろうじて直撃を避けたが、肩口から血を流していた。
「……素晴らしいわ」
エルザが、心底楽しそうに呟く。
「でも、今日はここまでかしら」
「逃がすと思うかい?」
ラインハルトが静かに問う。
エルザは視線を巡らせた。
ラインハルト。
銀髪の少女。
ユイ。
ロム爺。
フェルト。
スバル。
そして、裂けた壁。
「逃げられると思うわ」
エルザが床を蹴る。
ユイは動いた。
ラインハルトも動いた。
銀髪の少女の氷も飛ぶ。
だが、エルザは逃げるために自分の血を使った。
倒れた棚を蹴り、粉塵を巻き上げ、視界を潰す。
同時に短剣を投げる。
狙いはスバル。
ラインハルトの剣がそれを弾いた。
銀髪の少女の氷が、砕けた刃片を床へ落とす。
その一瞬で、エルザの姿が壁の外へ消える。
ユイは追える。
虚飾を使えば、今の逃走先を誤認させることもできる。
だが、追わない。
ここでエルザが逃げることも、大きな流れの一部だ。
ラインハルトも深追いはしなかった。
室内に残された者たちの安全を優先したのだろう。
粉塵が落ち着いていく。
誰も倒れていない。
誰も腹を裂かれていない。
ロム爺も立っている。
フェルトも生きている。
銀髪の少女も生きている。
スバルも生きている。
ユイは、それを確認してから剣を下ろした。
スバルは、しばらく何も言えなかった。
ただ、震える息を吐いた。
「……生きてる」
小さな声だった。
「みんな、生きてる……」
膝から力が抜けそうになる。
だが、倒れなかった。
その前に、ユイがそっと腕を支えた。
「大丈夫?」
何も知らない顔で。
今この場で初めて、彼の消耗に気づいたように。
スバルはユイを見た。
血のついた服。
浅い傷。
それでも笑う顔。
前の世界とは違う。
今度は、まだ間に合った。
「……大丈夫」
スバルは声を震わせながら言った。
「大丈夫、だと思う」
「そう」
ユイは優しく頷いた。
「なら、よかった」
その言葉に、スバルの目が滲みかける。
だが、泣かなかった。
まだ終わっていない。
まだ大事なものが残っている。
銀髪の少女が、フェルトへ向き直った。
「その徽章を返して。お願い」
「嫌だね。これはあたしが――」
言いかけて、フェルトはラインハルトの表情を見た。
穏やかだ。
だが、ただの確認ではない。
何かを確信しかけている顔。
ラインハルトは静かに言った。
「その前に、僕にも確認させてもらえるかな」
「なんで騎士様まで出てくるんだよ」
「それは、君が思っている以上に重要なものかもしれない」
スバルは息を整えながら、その様子を見る。
ユイも、隣で何も知らない顔をしている。
けれど内心では、もう次の流れを見ていた。
フェルト。
徽章。
ラインハルト。
王選。
ここから、物語はまた大きく動く。
スバルは地獄を越えて、ようやく一つ救った。
けれど、終わりではない。
むしろ、始まりだ。
ラインハルトは続けた。
「その徽章は、王選に関わるものだ。候補者を示すためのものでもある」
空気が変わった。
スバルには、その意味のすべてはわからない。
王選。
候補者。
けれど、それがただの盗難事件では済まない言葉だということだけはわかった。
銀髪の少女は唇を結んだ。
フェルトは、意味がわからないという顔をしている。
「王選? 候補者? 何言ってんだ?」
「君がその徽章に触れていること自体が、重要なんだ」
ラインハルトはそう言って、ゆっくり手を差し出す。
「少しだけでいい。見せてほしい」
「嫌だね。なんか知らねえけど、渡したら面倒になるのだけはわかる」
「すでに十分、面倒だと思うけれどね」
パックが小さく呟く。
「うるさい猫!」
「猫じゃないよ。精霊だよ」
そのやり取りに、ほんの少しだけ場の緊張が揺らいだ。
だが、すぐに戻る。
ラインハルトは強引に奪わない。
銀髪の少女も、焦りを抑えている。
スバルはその空気の中で、奥歯を噛んだ。
何か言わなければ。
けれど、余計なことを言えばまた不自然になる。
「フェルト」
「あ?」
「その徽章、たぶん本当にやばいものだ。売って金にするだけじゃ済まない。あんたがそれを持ってるだけで、騎士とか貴族とか、そういうのに目をつけられるかもしれない」
「……脅してんのか?」
「違う。俺はただ、もう誰にも死んでほしくないだけだ」
フェルトが黙った。
その言葉だけは、妙に重かった。
スバルの顔色は悪い。
手は震えている。
服も汚れている。
戦えるようには見えない。
それなのに、その声には嘘ではない切実さがあった。
ロム爺が、低く息を吐いた。
「フェルト」
「ロム爺……」
「ここは一度、騎士様の言うことを聞け。あの腸狩りが来た時点で、ただの取引じゃ済まん話になっとる」
「でもよ」
「命あっての金じゃ」
フェルトは悔しそうに唇を噛んだ。
やがて、乱暴に徽章をラインハルトへ投げる。
「見るだけだからな! 勝手に持ってくなよ!」
ラインハルトはそれを受け取った。
その瞬間。
徽章が、淡く光った。
空気が止まる。
フェルトが目を見開く。
「……は?」
銀髪の少女も、息を呑んだ。
パックが小さく目を細める。
ラインハルトの表情が、はっきりと変わった。
驚き。
確信。
そして、何か重いものを受け止めるような静けさ。
「やはり」
ラインハルトは呟いた。
「君は、王選候補者の資格を持っている」
フェルトは何を言われたのかわからない顔をした。
「はあ!? 何言ってんだ、あんた!」
「突然のことで混乱するのは当然だと思う。でも、この徽章が反応した以上、君を見過ごすことはできない」
「ふざけんな! あたしは盗人だぞ! 王様だの候補者だの、そんなもん知るか!」
フェルトは叫ぶ。
ロム爺も険しい顔をした。
銀髪の少女は徽章を見つめたまま、複雑な表情をしている。
スバルは、話の規模についていけていなかった。
ただ、わかることがある。
これは、もうただ盗まれたものを取り返す話ではない。
自分が死んで戻った先で、ようやく止めた地獄の向こうに、もっと大きな流れが待っていた。
ユイは、何も知らない顔でその場に立っていた。
けれど内心では、静かに微笑んでいる。
ここからだ。
物語が大きく動く。
スバルくん、あなたが命を削って守ったものは、ただの夜の事件では終わらない。
守ったからこそ、もっと大きな渦に巻き込まれる。
それを知った時、あなたはどんな顔をするのかな。
ラインハルトはフェルトへ向き直る。
「すまないが、君には同行してもらう必要がある」
「嫌だって言ったら?」
「それでも、連れていく」
穏やかな声だった。
だが、拒否できる余地はなかった。
フェルトは身構える。
ロム爺が前に出ようとした。
しかし、フェルトがそれを手で止める。
「ロム爺、いい」
「フェルト」
「こいつ相手じゃ無理だ。さっきの女より、たぶんもっとやばい」
フェルトは悔しそうに言う。
ラインハルトは否定しなかった。
ただ、静かに頭を下げた。
「乱暴に扱うつもりはない。君の身の安全は保証する」
「騎士様の保証なんて、貧民街のガキに何の価値があるんだよ」
「それでも、約束する」
フェルトは舌打ちした。
スバルは何か言おうとして、言葉を飲み込む。
ここで自分が何を言える。
フェルトを助けたかった。
死なせたくなかった。
それは叶った。
けれど今度は、彼女が別の形で連れていかれようとしている。
命は助かった。
でも自由は守れない。
それが正しいのか、間違っているのか、スバルにはわからない。
その迷いを、ユイは見逃さなかった。
ああ。
そう。
助けるって、そういうことだよ。
死なせなければ全部救えるわけじゃない。
誰かを生かした先にも、別の不幸や不自由や選択がある。
そのことを知って、また曇っていく。
ユイはスバルの隣に立った。
「大丈夫?」
何も知らない顔で問う。
スバルは小さく首を振った。
「わかんねえ」
「そう」
「俺、助けられたのか?」
ユイは、すぐには答えなかった。
ここで簡単に肯定してしまうのは簡単だ。
でも、それでは浅い。
だから、優しく、少しだけ重い言葉を選ぶ。
「少なくとも、今ここにいる人たちは生きているわ」
「……それだけ?」
「それだけじゃない?」
ユイは穏やかに言った。
「命が残っているなら、選ぶ余地も残る。怒ることも、逃げることも、誰かを恨むこともできる。死んでしまったら、それもできない」
スバルの顔が歪む。
死んだらできない。
その言葉は、彼にだけ別の意味で刺さった。
死んでも戻る。
けれど、それは自分だけだ。
他の誰かは死んだら終わり。
だから、自分が戻ってでも助けなければならない。
その思いが、また彼の肩に重く乗る。
「……そう、だよな」
スバルは小さく言った。
「生きてるんだよな、みんな」
「ええ」
ユイは頷いた。
「あなたが声を出したから」
スバルは息を呑んだ。
ラインハルトを呼んだ。
ロム爺に警告した。
フェルトを逃がそうとした。
ユイが傷ついた時、「また」と言いかけて飲み込んだ。
全部、まだ小さなことだ。
けれど、前とは違った。
何もできなかった自分とは、少しだけ違った。
それを認めるのが怖かった。
認めてしまえば、次も頑張らなければならない。
自分にはできることがあると、背負わなければならない。
スバルは震える拳を握った。
その時、銀髪の少女が近づいてきた。
スバルは息を止める。
名前を呼ばない。
余計なことを言わない。
彼女はスバルの前で立ち止まり、少しだけ首を傾げた。
「あなた、大丈夫?」
「……え?」
「顔色が悪いわ。怪我はしていない?」
感謝ではなかった。
当然だ。
銀髪の少女は、スバルが何度死んだかも知らない。
どれだけ必死にここまで来たのかも知らない。
ただ、目の前にいる少年が、今にも倒れそうな顔をしているから心配している。
それだけだった。
それだけで、スバルには十分すぎた。
「怪我は……してない」
スバルは喉を震わせながら答えた。
「してない、はず」
「はず?」
「いや、大丈夫。大丈夫だ」
銀髪の少女はまだ疑わしそうだった。
パックもスバルをじっと見る。
「体より心の方が危なそうだけどね」
「猫に心配されるとか、俺もいよいよだな……」
「猫じゃないってば」
スバルは、小さく笑いかけた。
笑いきれなかった。
でも、少しだけ息ができた。
銀髪の少女は、そんなスバルを不思議そうに見ている。
この少年は、自分を知っているような顔をする。
でも、知らないふりをしている。
名前も呼ばない。
妙に距離を取っている。
怪しい。
それでも、悪意は感じない。
少なくとも、今この場では。
「あなた、名前は?」
銀髪の少女が聞いた。
スバルは一瞬、固まった。
今度は、自分から名乗る番だ。
「ナツキ・スバル」
スバルは、ゆっくりと言った。
「スバルでいい」
「そう。スバル」
彼女はその名を繰り返した。
それだけで、スバルの胸が締めつけられる。
前の世界では、彼女に忘れられていた。
当然だ。
世界が巻き戻ったから。
けれど今、この世界では名前を呼ばれた。
消えない今の出来事として。
スバルは奥歯を噛んだ。
泣くな。
まだ、泣くな。
ユイは、その横顔をじっと見ていた。
いい。
報われきらない顔。
感謝されたわけではない。
全てを理解されたわけでもない。
ただ、名前を聞かれただけ。
それでも、彼にとっては救いになってしまう。
なんて小さくて、痛々しい救い。
銀髪の少女は少しだけ迷った。
その視線が、一瞬だけラインハルトへ向く。
王選。
徽章。
候補者。
この場は、軽く名を交わすだけの場所ではない。
けれど、目の前の少年は自分の名を明かした。
助けを呼び、場を繋ぎ、今にも倒れそうな顔で、それでも名前を名乗った。
なら、自分だけが隠れたままでいるのは違う。
銀髪の少女は、そう思ったように小さく息を吐いた。
「私はエミリア」
スバルの呼吸が止まった。
その名前は、彼女自身の声で差し出された。
禁忌の名ではない。
偽りの名でもない。
今、この世界で、彼女が選んで告げた名前。
「エミリア。ただのエミリアよ」
スバルは、ゆっくりとその名を噛みしめた。
間違えないように。
失くさないように。
壊さないように。
「……エミリア」
小さく呼ぶ。
声が震えていた。
エミリアは少しだけ目を瞬かせた。
「ええ」
それだけの返事だった。
それだけで、スバルの胸はいっぱいになった。
今度は間違えなかった。
彼女がくれた名前を、彼女の前で呼べた。
それは、スバルにとってあまりにも大きなことだった。
ユイは、頼れるお姉さんの顔で二人を見守る。
そして胸の奥で、甘く囁いた。
よかったね、スバルくん。
名前を間違えなかったね。
ちゃんと、彼女がくれた名前を呼べたね。
その小さな救いを、大事に抱えていて。
きっとまた、それがあなたを苦しめるから。
ラインハルトが、軽く咳払いをした。
空気を戻すための、控えめな音だった。
「名乗りを遮るようで申し訳ないけれど、僕は彼女を連れていく。王都への報告も急がなければならない」
フェルトは嫌そうに顔を歪めた。
「わかってるよ。何度も言うな」
「ロム爺殿」
ラインハルトがロム爺を見る。
ロム爺は、棍棒を握ったまま動かなかった。
そして、フェルトを一度見てから、ラインハルトへ向き直る。
「……フェルトを頼む」
「はい」
「騎士様の返事なんぞ信用できんが」
ロム爺は低く言った。
「それでも今は、あんたに預けるしかないらしい」
「責任を持ちます」
「軽く言うな。儂にとっては、それが全部じゃ」
ラインハルトは真っ直ぐに頷いた。
「軽くは言いません」
フェルトは舌打ちした。
「ロム爺」
「なんじゃ」
「勝手に死ぬなよ」
「お前もな」
「当たり前だ」
短い別れだった。
けれど、その短さの中に、長い時間があった。
フェルトは振り返らないようにして、ラインハルトの横へ歩いた。
ラインハルトは最後にスバルへ視線を向ける。
「スバル。君にも、いずれ話を聞かせてもらうことになると思う」
「……だよな」
「でも、今は休むべきだ」
ラインハルトは穏やかに言った。
「君は立っているだけで精一杯に見える」
「みんなして俺の限界を見抜きすぎじゃねえ?」
「それだけ顔に出ているんだよ」
「マジか……」
スバルは乾いた笑いを漏らした。
ラインハルトは微笑んだあと、エミリアへ視線を移す。
「彼を頼めるかな」
「ええ。そのつもりよ」
エミリアは即答した。
スバルが驚いて顔を上げる。
「え、いや、待て。頼むって、どこに?」
「ここで休ませるわけにはいかないでしょう?」
エミリアは周囲を見回した。
裂けた壁。
散らばった品々。
血の跡。
倒れた棚。
どう見ても、負傷者や消耗した人間を置いていける場所ではない。
「それは、まあ……そうだけど」
「それに、あなたはさっきから今にも倒れそうな顔をしているわ。ちゃんと手当てを受けた方がいい」
「手当てって言っても、俺、宿とか……いや、そもそも金もないし、文字も読めないし、行く当てもないんだけど」
言ってから、スバルは自分で顔を引きつらせた。
「……あれ。口にすると俺、思った以上に詰んでるな」
エミリアは、目を丸くした。
「どうしてそれを先に言わないの?」
「いや、言うタイミングがなかったというか、腸を開かれかけてる時に宿なし無一文アピールするのもどうかなって……」
「それはそうかもしれないけれど」
エミリアは困ったように眉を下げる。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「それなら、なおさら放っておけないわ」
「いや、でも」
「私が滞在している屋敷があるの。そこなら休める部屋もあるし、手当てもできる」
「屋敷?」
「ええ。ロズワールの屋敷よ」
ロズワール。
その名を、スバルは知らない。
けれど、屋敷という言葉だけで、また自分の知らない大きな世界へ踏み込むのだとわかった。
少し怖い。
だが、今は拒む力も理由もない。
エミリアはユイへ視線を向けた。
「あなたも来て。怪我をしているでしょう?」
「私は平気よ」
「平気でも、手当ては必要よ」
エミリアの声は柔らかいが、譲らなかった。
「あなたは私を助けてくれた。ここで放っていくなんてできないわ」
ユイは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、困ったように笑う。
「……本当にお人好しなのね」
「そうかしら」
「ええ。とても」
ユイはそう言って、スバルを見る。
スバルは、すでにほとんど立っているのがやっとだった。
目の焦点が時々揺れる。
それでも必死に意識を繋ぎ止めている。
「では、お言葉に甘えさせてもらうわ。私も、スバルくんをこのまま放っておくのは心配だから」
スバルは小さく呻いた。
「俺、完全に要介護扱い……」
「違うわ」
エミリアが真面目に言う。
「今はちゃんと休むべき人扱いよ」
「それはそれで、なんか刺さる……」
パックがふわりとスバルの近くへ寄る。
「少しだけ体を支えるよ。歩けなくなると運ぶのが大変だからね」
「優しいのか現実的なのか」
「両方」
パックの魔力が、淡くスバルの体を包む。
冷たい。
けれど不快ではない。
むしろ、熱くなりすぎた頭の奥を冷ましてくれるようだった。
スバルは、少しだけ呼吸が楽になる。
「……助かる」
「どういたしまして」
エミリアは徽章を胸元にしまい、壊れた盗品蔵を見回した。
ロム爺が、散らばった品々の中に立っている。
彼の顔には疲れと諦めと、それでも倒れない強さがあった。
「ロム爺さん」
エミリアが声をかける。
「ごめんなさい。あなたの場所をこんなふうにしてしまって」
「嬢ちゃんが壊したわけではなかろう」
「でも、私の徽章が原因で騒ぎになったのは本当だから」
「なら、フェルトを無事に返してくれれば、それでいい」
ロム爺の声は低かった。
エミリアは、真剣に頷く。
「約束はできないわ。私にそこまでの力はないもの。でも、できることはする」
「正直な嬢ちゃんじゃ」
ロム爺は苦く笑った。
「その方が、まだ信用できる」
スバルは、そのやり取りをぼんやりと聞いていた。
誰も死ななかった。
だから、こんな会話が残っている。
謝ることも、頼むことも、苦く笑うこともできる。
それが、ひどく重くて、少しだけ温かかった。
ラインハルトはフェルトを伴い、先に盗品蔵を出た。
フェルトは最後まで振り返らなかった。
振り返れば、何かが崩れると思ったのかもしれない。
ロム爺も声をかけなかった。
ただ、その背中が見えなくなるまで立っていた。
エミリアはそれを見届けてから、スバルへ向き直る。
「私たちも行きましょう。馬車を呼べる場所まで歩ける?」
「歩ける」
スバルは即答した。
次の瞬間、足がふらついた。
ユイが支える。
エミリアが眉を寄せる。
「歩けていないわ」
「今のは……立ち上がり確認というか」
「確認結果、駄目そうね」
「厳しい」
「厳しくしているつもりはないのだけど」
エミリアは困ったように言った。
その声に、スバルはまた少しだけ笑いそうになる。
優しい。
でも容赦がない。
それが、妙に彼女らしかった。
もちろん、今のスバルは彼女をよく知っているわけではない。
この世界の彼女とは、まだ出会ったばかりだ。
それでも、死の記憶の向こうにある彼女の優しさを、スバルは知ってしまっている。
だからこそ、苦しい。
だからこそ、名前を呼べたことが嬉しい。
「エミリア」
スバルは、もう一度だけ名前を呼んだ。
エミリアが振り向く。
「なに?」
「……いや」
言葉が続かなかった。
ありがとう。
ごめん。
助けたかった。
死なせたくなかった。
今度は間違えなかった。
言いたいことは山ほどある。
けれど、そのほとんどは言えない。
今の彼女が知らないことだから。
「名前、教えてくれてありがとな」
結局、言えたのはそれだけだった。
エミリアは少し驚いた顔をして、それから小さく微笑んだ。
「名前くらいで、そんなに大げさにお礼を言われることじゃないわ」
「俺にとっては、けっこう大事だったんだよ」
スバルはそう言って、目を逸らした。
エミリアは不思議そうにする。
だが、深くは聞かなかった。
今は、彼を休ませる方が先だと思ったのだろう。
「そう」
エミリアは静かに言った。
「なら、どういたしまして」
その一言で、スバルの目がまた滲みかける。
ユイは隣で、その横顔を見ていた。
いい。
本当にいい。
名前を呼べただけで救われてしまう。
そんな小さな救いが、彼をまた歩かせる。
そして、歩いた先で傷つく。
なんて綺麗な循環だろう。
盗品蔵を出ると、夜風が肌を撫でた。
血と埃の匂いが少しずつ薄れていく。
王都の夜は、何事もなかったかのように遠くでざわめいていた。
スバルは、ユイに支えられながら歩き出す。
エミリアが前を歩き、パックがその肩の近くを漂う。
ロム爺は盗品蔵の入口に立ち、何も言わずに見送っていた。
スバルは一度だけ振り返る。
盗品蔵。
何度も死んだ場所。
ようやく誰も死ななかった場所。
その壊れた建物が、月明かりの下に沈んでいる。
「……終わったんだよな」
小さく呟いた。
ユイが隣で答える。
「この夜はね」
「この夜は、か」
「ええ」
ユイは優しく微笑む。
「明日は、また別の一日よ」
スバルは苦笑した。
「優しいのか怖いのか、わかんねえな」
「優しいつもりよ」
「そっか」
歩く。
足元は頼りない。
体は限界に近い。
けれど、今度は死に戻りの始まりへ向かっているのではない。
誰かが生きている夜の続きを歩いている。
エミリアが振り返る。
「スバル、ユイ。もう少しだけ頑張って。馬車を拾えれば、屋敷までは休めるから」
自分の名前が、彼女の声で呼ばれた。
スバルは一瞬だけ足を止めかける。
だが、止まらなかった。
「……おう」
短く返す。
それ以上声を出すと、何かが漏れそうだった。
ユイはスバルの腕を支えたまま、前を向く。
ロズワールの屋敷。
そこには、また新しい舞台がある。
青い髪の少女。
桃色の髪の少女。
禁書庫の幼い司書。
道化の領主。
そして、またスバルが曇るための種がいくつもある。
ユイは、胸の奥で静かに微笑んだ。
さあ、行こう。
あなたがようやく掴んだ救いの先へ。
あなたがまだ知らない屋敷へ。
そこでまた、優しい顔をしてそばにいてあげる。
頼れるお姉さんとして。
何も知らないふりをして。
あなたの絶望が、次にどんな形で咲くのかを、一番近くで見るために。
夜の王都を、三人と一匹は歩いていく。
死の戻らない夜の続きを越えて。
ロズワール邸へ向かう馬車の灯りを探しながら。