Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第六話 ロズワール邸の朝

 馬車の灯りは、案外すぐに見つかった。

 

 王都の夜道を行く竜車の灯りは、石畳の上に淡く揺れていた。

 

 エミリアが御者に声をかけ、短く事情を説明する。

 

 その間、スバルはユイに支えられたまま、ぼんやりと空を見上げていた。

 

 見知らぬ星空。

 

 見知らぬ街。

 

 見知らぬ世界。

 

 けれど、さっきまであった血の匂いは、もう遠くなっている。

 

 それだけで、少しだけ現実感が薄くなった。

 

「スバルくん、乗れる?」

 

 ユイの声が近くで聞こえる。

 

「乗れる。乗れるけど……たぶん、降りる時には死体みたいになってるかも」

 

「物騒な冗談ね」

 

「冗談で言ってるうちは、まだ大丈夫ってことで」

 

「それなら、今は大丈夫じゃなさそうね」

 

「厳しいな、ユイさん……」

 

 そう言いながらも、スバルはユイの手を借りて竜車に乗り込んだ。

 

 竜車の中は、思っていたより揺れが少なかった。

 

 座席に腰を下ろした瞬間、全身から力が抜ける。

 

 自分がどれだけ無理をしていたのか、座ったことでようやくわかった。

 

 足が重い。

 

 腕がだるい。

 

 喉が痛い。

 

 目の奥が熱い。

 

 腹には傷がないのに、何度も裂かれた記憶だけが、まだそこにこびりついている。

 

 エミリアが向かいの席に座り、心配そうにスバルを見る。

 

「本当に大丈夫?」

 

「大丈夫って言うと嘘になるけど、大丈夫じゃないって言うほどでもない……気がする」

 

「それ、全然大丈夫じゃない人の言い方よ」

 

「俺も途中でそう思った」

 

 スバルは力なく笑った。

 

 パックがエミリアの肩の近くで丸くなる。

 

「リア、この子、意識飛ぶと思うよ」

 

「やっぱり?」

 

「うん。糸が切れかけてる」

 

「糸って何の糸だよ……」

 

「気力の糸」

 

「的確なのやめてくれ」

 

 そう返したところで、スバルの視界がぐらりと揺れた。

 

 慌てて座席の縁を掴む。

 

 だが、指先に力が入らない。

 

 ユイが隣に座り、そっと肩を支えた。

 

「少し休んだ方がいいわ」

 

「……いや、寝たら、また」

 

 言いかけて、スバルは口を閉じた。

 

 また。

 

 その言葉は危ない。

 

 この場で言えば、意味を問われる。

 

 死んだら戻る。

 

 眠ったらどこに戻るかわからない。

 

 そんな恐怖を、誰にも説明できない。

 

 スバルは唇を噛んだ。

 

 エミリアが不思議そうにこちらを見る。

 

「また?」

 

「……悪い。なんでもない」

 

「なんでもない顔じゃないわ」

 

「今の俺、たぶん何言っても顔に出るんだよな」

 

「出ていると思う」

 

「そっか……」

 

 スバルは天井を見上げた。

 

 竜車がゆっくり動き出す。

 

 車輪の音。

 

 竜の足音。

 

 夜風。

 

 エミリアの静かな気配。

 

 ユイの手の温度。

 

 パックの小さな吐息。

 

 どれも、死の匂いではなかった。

 

 だからこそ、怖かった。

 

 信じていいのか。

 

 このまま眠っていいのか。

 

 目を閉じて、また果物屋の前に戻ったりしないのか。

 

 エミリアがまた自分を知らない顔で見たりしないのか。

 

 ユイがまた初めましてと微笑むのではないか。

 

 スバルの手が震える。

 

 それを、ユイがそっと包んだ。

 

 エミリアには見えない角度で。

 

 何も知らない顔のまま。

 

「大丈夫よ」

 

 ユイは柔らかく言った。

 

「今は、ちゃんと休んでいいの」

 

 スバルの喉が詰まった。

 

 休んでいい。

 

 それだけの言葉だった。

 

 未来を知っているような響きはない。

 

 死に戻りを知っていると悟られる言葉でもない。

 

 ただ、目の前で限界を迎えている少年に向ける、優しい慰め。

 

「……ユイさん」

 

「なあに?」

 

「起きたら……ちゃんと、いる?」

 

 エミリアが少し目を見開いた。

 

 ユイも、ほんの一瞬だけ黙った。

 

 それは、今日会ったばかりの相手に向けるには、少し重すぎる問いだった。

 

 けれど、ユイは笑った。

 

 頼れるお姉さんの顔で。

 

「ええ。そばにいるわ」

 

「……そっか」

 

「だから、今は休んで」

 

 スバルは、もう抗えなかった。

 

 瞼が落ちる。

 

 意識が沈む。

 

 最後に見えたのは、エミリアが困ったように、それでも優しくこちらを見ている顔だった。

 

 名前を呼びたかった。

 

 でも、声にならなかった。

 

 エミリア。

 

 今度は間違えなかった名前。

 

 それを胸の奥で抱えたまま、スバルの意識は暗く沈んだ。

 

 ユイは、肩にもたれかかってきたスバルを支えた。

 

 彼の呼吸は浅い。

 

 眠っているというより、気を失ったに近い。

 

 エミリアが身を乗り出す。

 

「スバル、大丈夫?」

 

「眠っただけだと思うわ。ずっと張り詰めていたみたいだから」

 

「……そう」

 

 エミリアは心配そうに眉を寄せた。

 

「あなた、本当に今日会ったばかりなのよね?」

 

「ええ」

 

 ユイは迷わず頷く。

 

「今日、あの盗品蔵で」

 

「それにしては、ずいぶん慣れているように見えたわ」

 

「困っている人の支え方には、少し慣れているの」

 

「そうなの?」

 

「ええ。頼られるお姉さんでいたいから」

 

 冗談めかした言い方。

 

 けれど、エミリアは笑わなかった。

 

 ユイの横顔を見つめる。

 

「あなたも、無理しているんじゃない?」

 

「私?」

 

「傷、痛むでしょう」

 

 ユイは脇腹に視線を落とした。

 

 布に滲んだ血は、もう大きく広がってはいない。

 

 浅い傷。

 

 本当に浅い。

 

 けれど、普通の人間なら痛みで顔をしかめてもおかしくない。

 

 ユイは穏やかに笑った。

 

「少しだけ」

 

「少しだけでも、痛いものは痛いわ」

 

「優しいのね」

 

「普通のことよ」

 

 エミリアは真面目にそう言った。

 

 ユイは、その真面目さに少しだけ目を細める。

 

 この子は、本当にそう思っている。

 

 誰かを心配するのは普通。

 

 傷ついている人を放っておけないのも普通。

 

 そういう優しさを、当たり前のものとして差し出してくる。

 

 だから、スバルは惹かれる。

 

 だから、傷つく。

 

 だから、曇る。

 

 ユイは胸の奥で、甘く息を吐いた。

 

 竜車は夜の王都を抜けていく。

 

 揺れの中、スバルは深く眠っていた。

 

 その寝顔は、ひどく幼く見えた。

 

 泣き疲れた子どものように。

 

 エミリアはそれを見て、小さく呟く。

 

「この人、何をそんなに怖がっていたのかしら」

 

 ユイは答えなかった。

 

 答えられるはずがない。

 

 答えてはいけない。

 

 だから、ただスバルの髪にかかった埃をそっと払った。

 

「きっと、怖いものを見たのよ」

 

「……そうね」

 

「でも、生きているわ」

 

「ええ」

 

 エミリアは頷いた。

 

「生きているなら、休めるもの」

 

 その言葉に、ユイは微笑む。

 

 そう。

 

 生きているなら休める。

 

 そして、目が覚めればまた苦しめる。

 

 なんて優しい地獄だろう。

 

 どれほど走ったのか、スバルにはわからなかった。

 

 意識が浮かび上がった時、まず感じたのは柔らかさだった。

 

 背中が痛くない。

 

 床ではない。

 

 石畳でも、盗品蔵の埃っぽい板の上でもない。

 

 柔らかい寝台。

 

 清潔な布の匂い。

 

 窓の向こうから差し込む光。

 

 小鳥の声。

 

「……知らん天井だ」

 

 掠れた声で呟く。

 

 自分で言ってから、スバルは少しだけ固まった。

 

 生きている。

 

 戻っていない。

 

 果物屋の前ではない。

 

 盗品蔵でもない。

 

 朝だ。

 

 知らない部屋だ。

 

 でも、死に戻りの始まりではない。

 

「……続いてる」

 

 スバルは、ゆっくりと息を吐いた。

 

 胸の奥から、何かが抜け落ちそうになる。

 

 安心なのか。

 

 恐怖なのか。

 

 よくわからない。

 

 ただ、涙が出そうになった。

 

 その時、扉が小さく開いた。

 

 スバルはびくりと肩を跳ねさせる。

 

 入ってきたのは、青い髪の少女だった。

 

 短い髪。

 

 整った顔立ち。

 

 メイド服。

 

 淡々とした無表情。

 

 手には水差しと布が乗った盆。

 

 少女は、スバルが起きているのを見ると、静かに瞬きをした。

 

「お目覚めですか、客人様」

 

「……メイドだ」

 

 思わず出た第一声に、少女は少しだけ首を傾げた。

 

「はい。メイドです」

 

「本物のメイドだ……」

 

「偽物のメイドが存在するかは存じませんが、少なくともレムはこの屋敷のメイドです」

 

「レム」

 

 スバルは、その名を繰り返した。

 

 今聞いた名前。

 

 ちゃんと、この世界で聞いた名前。

 

「レムっていうのか」

 

「はい。レムと申します」

 

 青髪の少女――レムは、丁寧に頭を下げた。

 

 動きに無駄がない。

 

 表情も大きく動かない。

 

 けれど、目はじっとスバルを観察している。

 

 優しいというより、警戒。

 

 当然だ。

 

 スバルは見知らぬ男で、昨夜エミリアに連れてこられた客人。

 

 しかも、素性不明。

 

 自分でも怪しいと思う。

 

「えっと……ここは?」

 

「ロズワール様の屋敷です。エミリア様が、あなたともう一人の客人様をお連れになりました」

 

「もう一人……ユイさんか」

 

「はい」

 

 スバルは、そこで体を起こそうとした。

 

 瞬間、頭がぐらりと揺れる。

 

「うお……」

 

「急に起き上がらない方がよろしいかと」

 

 レムが淡々と言う。

 

「体に大きな外傷はありませんが、疲労と消耗が強いと伺っています」

 

「誰から?」

 

「エミリア様と、ベアトリス様からです」

 

「ベアトリス様?」

 

 知らない名前。

 

 スバルは瞬きをする。

 

 レムは盆を机に置きながら答えた。

 

「禁書庫を預かる方です。昨夜、最低限の診断と処置をしてくださいました」

 

「俺、そんなことされてたのか」

 

「眠っておられましたので」

 

「完全に意識なかったんだな……」

 

 スバルは額に手を当てた。

 

 記憶は、竜車の中で途切れている。

 

 ユイに支えられ、エミリアに心配され、パックに魔法で補助されて。

 

 そこから先がない。

 

 目が覚めたら、この屋敷。

 

 ちゃんと続いている。

 

 スバルは、布団をぎゅっと握った。

 

「……よかった」

 

 小さな声だった。

 

 レムが視線を向ける。

 

「何がでしょうか」

 

「戻ってなかった」

 

「戻る?」

 

「あ、いや」

 

 スバルは慌てて首を振る。

 

「寝ぼけた。気にしないでくれ」

 

「そうですか」

 

 レムはそれ以上追及しなかった。

 

 しかし、視線は少しだけ鋭くなった気がした。

 

 まずい。

 

 スバルは内心で冷や汗をかく。

 

 気を抜くな。

 

 ここはもう、死の直後ではない。

 

 話す言葉は残る。

 

 誰かに聞かれる。

 

 不審に思われる。

 

 スバルは深呼吸した。

 

「えっと、レムさん」

 

「レムで構いません」

 

「じゃあ、レム。エミリアは?」

 

 その名前を口にした瞬間、自分でも少し胸が跳ねた。

 

 ちゃんと呼べた。

 

 まだ、その事実が嬉しい。

 

 レムは淡々と答える。

 

「エミリア様は、ただいま朝の支度をされています。後ほどこちらへいらっしゃるかと」

 

「そっか」

 

「ユイ様も、別室で手当てを受けられています」

 

「怪我、大丈夫なのか?」

 

「浅い傷です。ですが、動き回るには感心しない状態です」

 

「ユイさん、動き回りそうだな……」

 

「すでに一度、部屋を出ようとなさったので、姉様が止めました」

 

「姉様?」

 

「姉のラムです」

 

「ラムとレム」

 

 スバルは思わず呟く。

 

「双子か何か?」

 

「はい。双子です」

 

「メイドの双子……情報量がすごいな、この屋敷」

 

 レムは少しだけ首を傾げた。

 

「情報量、ですか」

 

「こっちの話」

 

 スバルは力なく笑った。

 

 すると、扉の外から別の声がした。

 

「朝から随分と騒がしい客人ね」

 

 扉が開く。

 

 入ってきたのは、桃色の髪の少女だった。

 

 レムとよく似た顔立ち。

 

 けれど、髪の色と雰囲気が違う。

 

 片目を髪で隠し、どこか冷めた目をしている。

 

 同じメイド服。

 

 彼女はスバルを一瞥すると、遠慮なく言った。

 

「起きて早々、間抜けな顔をしているわね」

 

「初対面の第一声がそれ!?」

 

「安心しなさい。褒めてはいないわ」

 

「知ってるよ!」

 

 思わず声が出た。

 

 だが、そのやり取りで少しだけ体のこわばりが解ける。

 

 桃髪の少女は淡々と続けた。

 

「ラムよ。この屋敷のメイド。そちらの出来のいい方が妹のレム」

 

「自分で出来のいい方って言わないんだな」

 

「事実と願望は分けるべきでしょう」

 

「なるほど、辛辣」

 

 レムは特に反論しなかった。

 

 慣れているのだろう。

 

 ラムはスバルの顔色を見て、少しだけ眉を動かした。

 

「思ったよりは起きられているのね」

 

「俺、そんなにやばかった?」

 

「昨夜は死体のように運ばれてきたと聞いているわ」

 

「死体みたいは比喩でもやめてほしいんだけどな……」

 

 スバルの声が少しだけ沈む。

 

 ラムはそれに気づいたのか、気づかなかったのか、表情を変えない。

 

「なら、もっと生者らしい顔をすることね」

 

 スバルは黙った。

 

 それは、皮肉のようでいて、妙に刺さった。

 

 生者らしい顔。

 

 自分は今、生きている。

 

 だから、その顔をしろ。

 

 そう言われた気がした。

 

 扉の外で、小さな足音が近づいてくる。

 

 次に現れたのは、エミリアだった。

 

 昨夜の疲れを残しながらも、白い服に着替え、髪も整えられている。

 

 スバルを見て、ほっとしたように表情を緩めた。

 

「スバル、起きたのね」

 

 その声を聞いた瞬間、スバルの胸が詰まった。

 

 朝。

 

 屋敷。

 

 エミリア。

 

 ちゃんと続いている。

 

「……おう」

 

 声が震えないように、短く返す。

 

 エミリアはベッドのそばまで来る。

 

「気分はどう?」

 

「最悪とまでは言わないけど、最高には程遠い」

 

「それだけ言えれば、少しは大丈夫そうね」

 

「判断基準が雑じゃない?」

 

「昨日のあなたよりは、ずっとましだもの」

 

「昨日の俺、そんなにひどかったか」

 

「ええ。すごーく」

 

 エミリアは少しだけ強調して言った。

 

 その言い方が、妙に柔らかい。

 

 スバルは思わず笑いそうになる。

 

 すると、扉の向こうからさらに足音がした。

 

 今度は、ゆっくりとした足取り。

 

 入ってきたのはユイだった。

 

 白い布で脇腹を押さえ、少しだけ顔色は悪い。

 

 けれど、表情は穏やかだった。

 

「おはよう、スバルくん」

 

 その声を聞いた瞬間、スバルは息を止めた。

 

 いる。

 

 ちゃんといる。

 

 竜車の中で聞いた言葉を思い出す。

 

 起きたら、そばにいる。

 

 その約束が、守られていた。

 

 スバルは唇を震わせる。

 

「……いた」

 

 小さな声だった。

 

 ユイは目を細める。

 

「ええ。いるわ」

 

 その返事に、スバルの視界が少し滲んだ。

 

 泣きたくない。

 

 泣く場面ではない。

 

 ラムもレムもいる。

 

 エミリアもいる。

 

 知らない屋敷で、いきなり泣くのはさすがに情けない。

 

 それでも、胸がいっぱいだった。

 

 ユイは何も知らない顔で微笑む。

 

 まるで、昨夜の不安など知らないように。

 

 まるで、何度も同じ時間を越えてきたことなどないように。

 

 でも、スバルは知っている。

 

 ユイも知っている。

 

 その二人だけの秘密が、スバルの胸を締めつける。

 

 そして、ユイの胸を甘く満たす。

 

 ラムが二人を見比べ、淡々と言った。

 

「ずいぶん感動的な再会のようだけれど、廊下で倒れかけながら来た人間がする顔ではないわね」

 

「ラム」

 

 エミリアがたしなめる。

 

 ユイは苦笑した。

 

「ごめんなさい。スバルくんが起きたと聞いたら、少し心配で」

 

「少しではない顔色です」

 

 レムが静かに指摘する。

 

「戻って休まれた方がよろしいかと」

 

「そうね。そうするわ」

 

「絶対しない人の返事だ、それ」

 

 スバルがぼそりと言うと、ユイは笑った。

 

「ばれた?」

 

「ばれるだろ」

 

 その軽いやり取りに、エミリアが少し安心したように笑う。

 

 だが、ラムとレムは別だった。

 

 二人の視線には、警戒が混じっている。

 

 当然だ。

 

 昨夜、素性不明の男女がエミリアに連れてこられた。

 

 一人はひどく消耗していた。

 

 もう一人はエルザと斬り結べるだけの腕を持っている。

 

 怪しまれないはずがない。

 

 スバルは、それに気づいて喉を鳴らした。

 

 屋敷に来られた。

 

 エミリアの名前を呼べた。

 

 ユイもいた。

 

 でも、これで安心ではない。

 

 ここから、また新しい場所で、新しい疑いが始まる。

 

 ラムが淡々と告げる。

 

「ロズワール様は、後ほどお会いになるそうよ。客人二人に興味がおありのようだから」

 

「ロズワール……ここの主人か」

 

「そうよ。粗相のないように」

 

「粗相しない自信がないんだけど」

 

「なら黙っていればいいわ」

 

「辛辣!」

 

 スバルは思わず突っ込んだ。

 

 その声は弱いが、確かに生きている人間の声だった。

 

 ユイはそれを見て、そっと微笑む。

 

 いい朝だ。

 

 死なずに迎えた朝。

 

 消えなかった会話。

 

 新しく名前を聞き、新しく警戒され、新しく居場所を与えられた朝。

 

 スバルはまだ知らない。

 

 この屋敷にも、死があることを。

 

 疑いがあることを。

 

 優しさと温もりの中に、彼を裂く刃が隠れていることを。

 

 ユイは、それを知っている。

 

 知っていて、何も知らない顔でそばに立つ。

 

 頼れるお姉さんとして。

 

 スバルがこの朝を救いだと思ってしまう、その瞬間を見届けながら。

 

 彼が次に曇る時、その救いがどれほど深く胸を抉るのかを、楽しみにしながら。

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