馬車の灯りは、案外すぐに見つかった。
王都の夜道を行く竜車の灯りは、石畳の上に淡く揺れていた。
エミリアが御者に声をかけ、短く事情を説明する。
その間、スバルはユイに支えられたまま、ぼんやりと空を見上げていた。
見知らぬ星空。
見知らぬ街。
見知らぬ世界。
けれど、さっきまであった血の匂いは、もう遠くなっている。
それだけで、少しだけ現実感が薄くなった。
「スバルくん、乗れる?」
ユイの声が近くで聞こえる。
「乗れる。乗れるけど……たぶん、降りる時には死体みたいになってるかも」
「物騒な冗談ね」
「冗談で言ってるうちは、まだ大丈夫ってことで」
「それなら、今は大丈夫じゃなさそうね」
「厳しいな、ユイさん……」
そう言いながらも、スバルはユイの手を借りて竜車に乗り込んだ。
竜車の中は、思っていたより揺れが少なかった。
座席に腰を下ろした瞬間、全身から力が抜ける。
自分がどれだけ無理をしていたのか、座ったことでようやくわかった。
足が重い。
腕がだるい。
喉が痛い。
目の奥が熱い。
腹には傷がないのに、何度も裂かれた記憶だけが、まだそこにこびりついている。
エミリアが向かいの席に座り、心配そうにスバルを見る。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫って言うと嘘になるけど、大丈夫じゃないって言うほどでもない……気がする」
「それ、全然大丈夫じゃない人の言い方よ」
「俺も途中でそう思った」
スバルは力なく笑った。
パックがエミリアの肩の近くで丸くなる。
「リア、この子、意識飛ぶと思うよ」
「やっぱり?」
「うん。糸が切れかけてる」
「糸って何の糸だよ……」
「気力の糸」
「的確なのやめてくれ」
そう返したところで、スバルの視界がぐらりと揺れた。
慌てて座席の縁を掴む。
だが、指先に力が入らない。
ユイが隣に座り、そっと肩を支えた。
「少し休んだ方がいいわ」
「……いや、寝たら、また」
言いかけて、スバルは口を閉じた。
また。
その言葉は危ない。
この場で言えば、意味を問われる。
死んだら戻る。
眠ったらどこに戻るかわからない。
そんな恐怖を、誰にも説明できない。
スバルは唇を噛んだ。
エミリアが不思議そうにこちらを見る。
「また?」
「……悪い。なんでもない」
「なんでもない顔じゃないわ」
「今の俺、たぶん何言っても顔に出るんだよな」
「出ていると思う」
「そっか……」
スバルは天井を見上げた。
竜車がゆっくり動き出す。
車輪の音。
竜の足音。
夜風。
エミリアの静かな気配。
ユイの手の温度。
パックの小さな吐息。
どれも、死の匂いではなかった。
だからこそ、怖かった。
信じていいのか。
このまま眠っていいのか。
目を閉じて、また果物屋の前に戻ったりしないのか。
エミリアがまた自分を知らない顔で見たりしないのか。
ユイがまた初めましてと微笑むのではないか。
スバルの手が震える。
それを、ユイがそっと包んだ。
エミリアには見えない角度で。
何も知らない顔のまま。
「大丈夫よ」
ユイは柔らかく言った。
「今は、ちゃんと休んでいいの」
スバルの喉が詰まった。
休んでいい。
それだけの言葉だった。
未来を知っているような響きはない。
死に戻りを知っていると悟られる言葉でもない。
ただ、目の前で限界を迎えている少年に向ける、優しい慰め。
「……ユイさん」
「なあに?」
「起きたら……ちゃんと、いる?」
エミリアが少し目を見開いた。
ユイも、ほんの一瞬だけ黙った。
それは、今日会ったばかりの相手に向けるには、少し重すぎる問いだった。
けれど、ユイは笑った。
頼れるお姉さんの顔で。
「ええ。そばにいるわ」
「……そっか」
「だから、今は休んで」
スバルは、もう抗えなかった。
瞼が落ちる。
意識が沈む。
最後に見えたのは、エミリアが困ったように、それでも優しくこちらを見ている顔だった。
名前を呼びたかった。
でも、声にならなかった。
エミリア。
今度は間違えなかった名前。
それを胸の奥で抱えたまま、スバルの意識は暗く沈んだ。
ユイは、肩にもたれかかってきたスバルを支えた。
彼の呼吸は浅い。
眠っているというより、気を失ったに近い。
エミリアが身を乗り出す。
「スバル、大丈夫?」
「眠っただけだと思うわ。ずっと張り詰めていたみたいだから」
「……そう」
エミリアは心配そうに眉を寄せた。
「あなた、本当に今日会ったばかりなのよね?」
「ええ」
ユイは迷わず頷く。
「今日、あの盗品蔵で」
「それにしては、ずいぶん慣れているように見えたわ」
「困っている人の支え方には、少し慣れているの」
「そうなの?」
「ええ。頼られるお姉さんでいたいから」
冗談めかした言い方。
けれど、エミリアは笑わなかった。
ユイの横顔を見つめる。
「あなたも、無理しているんじゃない?」
「私?」
「傷、痛むでしょう」
ユイは脇腹に視線を落とした。
布に滲んだ血は、もう大きく広がってはいない。
浅い傷。
本当に浅い。
けれど、普通の人間なら痛みで顔をしかめてもおかしくない。
ユイは穏やかに笑った。
「少しだけ」
「少しだけでも、痛いものは痛いわ」
「優しいのね」
「普通のことよ」
エミリアは真面目にそう言った。
ユイは、その真面目さに少しだけ目を細める。
この子は、本当にそう思っている。
誰かを心配するのは普通。
傷ついている人を放っておけないのも普通。
そういう優しさを、当たり前のものとして差し出してくる。
だから、スバルは惹かれる。
だから、傷つく。
だから、曇る。
ユイは胸の奥で、甘く息を吐いた。
竜車は夜の王都を抜けていく。
揺れの中、スバルは深く眠っていた。
その寝顔は、ひどく幼く見えた。
泣き疲れた子どものように。
エミリアはそれを見て、小さく呟く。
「この人、何をそんなに怖がっていたのかしら」
ユイは答えなかった。
答えられるはずがない。
答えてはいけない。
だから、ただスバルの髪にかかった埃をそっと払った。
「きっと、怖いものを見たのよ」
「……そうね」
「でも、生きているわ」
「ええ」
エミリアは頷いた。
「生きているなら、休めるもの」
その言葉に、ユイは微笑む。
そう。
生きているなら休める。
そして、目が覚めればまた苦しめる。
なんて優しい地獄だろう。
どれほど走ったのか、スバルにはわからなかった。
意識が浮かび上がった時、まず感じたのは柔らかさだった。
背中が痛くない。
床ではない。
石畳でも、盗品蔵の埃っぽい板の上でもない。
柔らかい寝台。
清潔な布の匂い。
窓の向こうから差し込む光。
小鳥の声。
「……知らん天井だ」
掠れた声で呟く。
自分で言ってから、スバルは少しだけ固まった。
生きている。
戻っていない。
果物屋の前ではない。
盗品蔵でもない。
朝だ。
知らない部屋だ。
でも、死に戻りの始まりではない。
「……続いてる」
スバルは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥から、何かが抜け落ちそうになる。
安心なのか。
恐怖なのか。
よくわからない。
ただ、涙が出そうになった。
その時、扉が小さく開いた。
スバルはびくりと肩を跳ねさせる。
入ってきたのは、青い髪の少女だった。
短い髪。
整った顔立ち。
メイド服。
淡々とした無表情。
手には水差しと布が乗った盆。
少女は、スバルが起きているのを見ると、静かに瞬きをした。
「お目覚めですか、客人様」
「……メイドだ」
思わず出た第一声に、少女は少しだけ首を傾げた。
「はい。メイドです」
「本物のメイドだ……」
「偽物のメイドが存在するかは存じませんが、少なくともレムはこの屋敷のメイドです」
「レム」
スバルは、その名を繰り返した。
今聞いた名前。
ちゃんと、この世界で聞いた名前。
「レムっていうのか」
「はい。レムと申します」
青髪の少女――レムは、丁寧に頭を下げた。
動きに無駄がない。
表情も大きく動かない。
けれど、目はじっとスバルを観察している。
優しいというより、警戒。
当然だ。
スバルは見知らぬ男で、昨夜エミリアに連れてこられた客人。
しかも、素性不明。
自分でも怪しいと思う。
「えっと……ここは?」
「ロズワール様の屋敷です。エミリア様が、あなたともう一人の客人様をお連れになりました」
「もう一人……ユイさんか」
「はい」
スバルは、そこで体を起こそうとした。
瞬間、頭がぐらりと揺れる。
「うお……」
「急に起き上がらない方がよろしいかと」
レムが淡々と言う。
「体に大きな外傷はありませんが、疲労と消耗が強いと伺っています」
「誰から?」
「エミリア様と、ベアトリス様からです」
「ベアトリス様?」
知らない名前。
スバルは瞬きをする。
レムは盆を机に置きながら答えた。
「禁書庫を預かる方です。昨夜、最低限の診断と処置をしてくださいました」
「俺、そんなことされてたのか」
「眠っておられましたので」
「完全に意識なかったんだな……」
スバルは額に手を当てた。
記憶は、竜車の中で途切れている。
ユイに支えられ、エミリアに心配され、パックに魔法で補助されて。
そこから先がない。
目が覚めたら、この屋敷。
ちゃんと続いている。
スバルは、布団をぎゅっと握った。
「……よかった」
小さな声だった。
レムが視線を向ける。
「何がでしょうか」
「戻ってなかった」
「戻る?」
「あ、いや」
スバルは慌てて首を振る。
「寝ぼけた。気にしないでくれ」
「そうですか」
レムはそれ以上追及しなかった。
しかし、視線は少しだけ鋭くなった気がした。
まずい。
スバルは内心で冷や汗をかく。
気を抜くな。
ここはもう、死の直後ではない。
話す言葉は残る。
誰かに聞かれる。
不審に思われる。
スバルは深呼吸した。
「えっと、レムさん」
「レムで構いません」
「じゃあ、レム。エミリアは?」
その名前を口にした瞬間、自分でも少し胸が跳ねた。
ちゃんと呼べた。
まだ、その事実が嬉しい。
レムは淡々と答える。
「エミリア様は、ただいま朝の支度をされています。後ほどこちらへいらっしゃるかと」
「そっか」
「ユイ様も、別室で手当てを受けられています」
「怪我、大丈夫なのか?」
「浅い傷です。ですが、動き回るには感心しない状態です」
「ユイさん、動き回りそうだな……」
「すでに一度、部屋を出ようとなさったので、姉様が止めました」
「姉様?」
「姉のラムです」
「ラムとレム」
スバルは思わず呟く。
「双子か何か?」
「はい。双子です」
「メイドの双子……情報量がすごいな、この屋敷」
レムは少しだけ首を傾げた。
「情報量、ですか」
「こっちの話」
スバルは力なく笑った。
すると、扉の外から別の声がした。
「朝から随分と騒がしい客人ね」
扉が開く。
入ってきたのは、桃色の髪の少女だった。
レムとよく似た顔立ち。
けれど、髪の色と雰囲気が違う。
片目を髪で隠し、どこか冷めた目をしている。
同じメイド服。
彼女はスバルを一瞥すると、遠慮なく言った。
「起きて早々、間抜けな顔をしているわね」
「初対面の第一声がそれ!?」
「安心しなさい。褒めてはいないわ」
「知ってるよ!」
思わず声が出た。
だが、そのやり取りで少しだけ体のこわばりが解ける。
桃髪の少女は淡々と続けた。
「ラムよ。この屋敷のメイド。そちらの出来のいい方が妹のレム」
「自分で出来のいい方って言わないんだな」
「事実と願望は分けるべきでしょう」
「なるほど、辛辣」
レムは特に反論しなかった。
慣れているのだろう。
ラムはスバルの顔色を見て、少しだけ眉を動かした。
「思ったよりは起きられているのね」
「俺、そんなにやばかった?」
「昨夜は死体のように運ばれてきたと聞いているわ」
「死体みたいは比喩でもやめてほしいんだけどな……」
スバルの声が少しだけ沈む。
ラムはそれに気づいたのか、気づかなかったのか、表情を変えない。
「なら、もっと生者らしい顔をすることね」
スバルは黙った。
それは、皮肉のようでいて、妙に刺さった。
生者らしい顔。
自分は今、生きている。
だから、その顔をしろ。
そう言われた気がした。
扉の外で、小さな足音が近づいてくる。
次に現れたのは、エミリアだった。
昨夜の疲れを残しながらも、白い服に着替え、髪も整えられている。
スバルを見て、ほっとしたように表情を緩めた。
「スバル、起きたのね」
その声を聞いた瞬間、スバルの胸が詰まった。
朝。
屋敷。
エミリア。
ちゃんと続いている。
「……おう」
声が震えないように、短く返す。
エミリアはベッドのそばまで来る。
「気分はどう?」
「最悪とまでは言わないけど、最高には程遠い」
「それだけ言えれば、少しは大丈夫そうね」
「判断基準が雑じゃない?」
「昨日のあなたよりは、ずっとましだもの」
「昨日の俺、そんなにひどかったか」
「ええ。すごーく」
エミリアは少しだけ強調して言った。
その言い方が、妙に柔らかい。
スバルは思わず笑いそうになる。
すると、扉の向こうからさらに足音がした。
今度は、ゆっくりとした足取り。
入ってきたのはユイだった。
白い布で脇腹を押さえ、少しだけ顔色は悪い。
けれど、表情は穏やかだった。
「おはよう、スバルくん」
その声を聞いた瞬間、スバルは息を止めた。
いる。
ちゃんといる。
竜車の中で聞いた言葉を思い出す。
起きたら、そばにいる。
その約束が、守られていた。
スバルは唇を震わせる。
「……いた」
小さな声だった。
ユイは目を細める。
「ええ。いるわ」
その返事に、スバルの視界が少し滲んだ。
泣きたくない。
泣く場面ではない。
ラムもレムもいる。
エミリアもいる。
知らない屋敷で、いきなり泣くのはさすがに情けない。
それでも、胸がいっぱいだった。
ユイは何も知らない顔で微笑む。
まるで、昨夜の不安など知らないように。
まるで、何度も同じ時間を越えてきたことなどないように。
でも、スバルは知っている。
ユイも知っている。
その二人だけの秘密が、スバルの胸を締めつける。
そして、ユイの胸を甘く満たす。
ラムが二人を見比べ、淡々と言った。
「ずいぶん感動的な再会のようだけれど、廊下で倒れかけながら来た人間がする顔ではないわね」
「ラム」
エミリアがたしなめる。
ユイは苦笑した。
「ごめんなさい。スバルくんが起きたと聞いたら、少し心配で」
「少しではない顔色です」
レムが静かに指摘する。
「戻って休まれた方がよろしいかと」
「そうね。そうするわ」
「絶対しない人の返事だ、それ」
スバルがぼそりと言うと、ユイは笑った。
「ばれた?」
「ばれるだろ」
その軽いやり取りに、エミリアが少し安心したように笑う。
だが、ラムとレムは別だった。
二人の視線には、警戒が混じっている。
当然だ。
昨夜、素性不明の男女がエミリアに連れてこられた。
一人はひどく消耗していた。
もう一人はエルザと斬り結べるだけの腕を持っている。
怪しまれないはずがない。
スバルは、それに気づいて喉を鳴らした。
屋敷に来られた。
エミリアの名前を呼べた。
ユイもいた。
でも、これで安心ではない。
ここから、また新しい場所で、新しい疑いが始まる。
ラムが淡々と告げる。
「ロズワール様は、後ほどお会いになるそうよ。客人二人に興味がおありのようだから」
「ロズワール……ここの主人か」
「そうよ。粗相のないように」
「粗相しない自信がないんだけど」
「なら黙っていればいいわ」
「辛辣!」
スバルは思わず突っ込んだ。
その声は弱いが、確かに生きている人間の声だった。
ユイはそれを見て、そっと微笑む。
いい朝だ。
死なずに迎えた朝。
消えなかった会話。
新しく名前を聞き、新しく警戒され、新しく居場所を与えられた朝。
スバルはまだ知らない。
この屋敷にも、死があることを。
疑いがあることを。
優しさと温もりの中に、彼を裂く刃が隠れていることを。
ユイは、それを知っている。
知っていて、何も知らない顔でそばに立つ。
頼れるお姉さんとして。
スバルがこの朝を救いだと思ってしまう、その瞬間を見届けながら。
彼が次に曇る時、その救いがどれほど深く胸を抉るのかを、楽しみにしながら。