ロズワールとの対面は、その日の少し後に行われた。
ラムに案内され、スバルとユイは応接間へ通された。
高い天井。
磨き込まれた床。
壁に飾られた絵画。
どこを見ても、スバルの知る一般家庭とは桁が違う。
場違い。
その言葉が、これほど似合う場所もなかった。
そして、その部屋の中央にいた男は、屋敷そのものよりさらに場違いだった。
派手な服。
道化のような化粧。
左右で色の違う瞳。
長い手足。
芝居じみた笑み。
「やぁ、よぉーく来てくれたねぇ。私はロズワール・L・メイザース。この屋敷の主をしている者だよ」
独特の抑揚。
耳に残る声。
スバルは一瞬、返事に詰まった。
エミリアも、ラムも、レムもいる。
ユイも隣に立っている。
ここで変な反応をすれば、また怪しまれる。
そう思って、スバルは慌てて頭を下げた。
「ナツキ・スバルです。昨夜は、その……世話になりました」
ユイも隣で静かに礼をする。
「ユイと申します。治療と部屋を用意していただき、ありがとうございました」
「いやいやぁ。エミリア様を助けてくれた二人を、粗末には扱えないからねぇ」
ロズワールの視線が、まずスバルへ。
次に、ユイへ。
笑っている。
けれど、見ている。
スバルにも、それはなんとなくわかった。
この男は、変人のふりをしているだけではない。
何かを測っている。
それが気味悪かった。
「さて、スバルくん。君は昨夜、ラインハルトを呼び、結果としてエミリア様の徽章を取り戻す助けとなった。報酬を与えるのが筋というものだろうねぇ」
「報酬……」
スバルはその言葉を反芻した。
金。
宿。
食事。
身分証のようなもの。
文字を覚える時間。
自分に必要なものは、いくらでもある。
けれど、そのどれよりも先に思い浮かんだのは、ここに残る理由だった。
エミリアのそばにいたい。
ユイがいる場所にいたい。
何より、行く当てもない自分が、この世界で立っているための足場がほしい。
「じゃあ……ここで働かせてくれ」
言った瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
エミリアが目を瞬かせる。
ラムは少しだけ眉を上げる。
レムの視線が、静かに鋭くなる。
ロズワールは笑みを深めた。
「ほぉう。金品ではなく、雇用を望むと」
「ああ。俺、金もないし、文字も読めないし、行く当てもない。ただ飯食わせてもらうのも落ち着かねえし、働けるなら働きたい」
「ずいぶん殊勝だねぇ」
「殊勝っていうか、必死なだけだよ」
スバルは苦笑した。
「この世界のこと、俺は何も知らない。何もしないで置いてもらうより、何かしてた方がまだ気が楽だ」
エミリアが心配そうに言う。
「でも、スバル。まだ体調も戻っていないでしょう?」
「そこは回復してからで。いきなり全力労働はさすがに俺も危ないし」
スバルは言葉を選んだ。
死ぬ。
その単語を、軽く口にすることがもうできなくなっていた。
王都で何度も終わった記憶が、胸の奥にこびりついている。
ロズワールは楽しそうに手を叩く。
「いいだろう。では、スバルくんにはこの屋敷で使用人の仕事を体験してもらうとしよう。指導はラムとレムに任せるよ」
「ロズワール様」
レムが静かに声を上げた。
反対ではない。
けれど、警戒を含んだ声だった。
ロズワールはそれをわかった上で笑う。
「心配はいらないよぉ。何かあれば、君たちが見ていればいい」
「……かしこまりました」
レムは頭を下げた。
スバルはその横顔を見る。
やはり、警戒されている。
当然だ。
でも、少し痛い。
昨日まで、レムに看病されたわけではない。
レムと親しくなったわけでもない。
この世界の彼女とは、まだまともに会話もしていない。
そうわかっているのに、視線の冷たさが胸に刺さった。
ユイはロズワールへ向き直る。
「私も、しばらく置いていただけるなら、できる範囲でお手伝いします」
「君は傷があるからねぇ。まずは治すことを優先した方がいい。とはいえ、君ほどの腕がある客人を寝かせておくだけというのも惜しいけれど」
ロズワールの目が、ユイの脇腹へ流れる。
浅い傷。
けれど、エルザと斬り結んだ証。
ユイは微笑んだ。
「買いかぶりです」
「そうかなぁ」
「ええ。ただ、少し荒事に慣れているだけですわ」
「少し、ねぇ」
ロズワールは楽しそうだった。
ユイも微笑んだままだった。
そのやり取りが、スバルには少し怖く見えた。
言葉の表面は穏やかなのに、見えないところで何かが交わされている。
それでも、エミリアがいる。
ユイがいる。
ここには、昨日の血の匂いはない。
そう思うことで、スバルは自分を落ち着かせた。
翌日から、スバルの屋敷仕事が始まった。
最初に思い知ったのは、屋敷仕事というものが想像よりずっと難しいということだった。
掃除。
洗濯。
配膳。
食器の扱い。
廊下の拭き方。
部屋の整え方。
元の世界で家事を手伝ったことはある。
だが、貴族の屋敷で求められる水準はまるで違った。
「バルス、そこはもう拭いた場所よ」
「え、マジで?」
「同じ場所を三度拭く情熱があるなら、まだ拭いていない場所へ向けなさい」
「正論が痛い!」
ラムは容赦がなかった。
だが、雑ではなかった。
間違えれば必ず指摘する。
ただし、言葉の刃が鋭すぎる。
「バルス、その皿は置くものよ。割るものではないわ」
「まだ割ってない!」
「未来を見越して忠告したの」
「俺への信頼が未来形で壊滅してる!」
一方、レムは淡々としていた。
「スバル様、皿は両手で支えてください」
「こうか?」
「はい。そのまま落とさなければ大丈夫です」
「落とす前提をやめよう?」
「期待しています」
「期待の向きがおかしい!」
レムの指導は丁寧だった。
手順も正確。
説明もわかりやすい。
けれど、その視線には薄い警戒が残っている。
スバルは笑ってごまかした。
ふざけて、突っ込んで、失敗して、また笑う。
そうしていないと、自分の中にある違和感が膨らみそうだった。
ユイは時折、様子を見に来た。
脇腹の傷を理由に本格的な仕事からは外されていたが、エミリアの話し相手になったり、軽い手伝いをしたりしていた。
スバルは彼女を見るたび、少しだけ安心した。
「どう、スバルくん。お仕事は順調?」
「順調に己の無力を学んでる」
「それも大事な経験ね」
「もうちょっと前向きな経験がほしい」
ユイはくすりと笑う。
その笑みを見ると、スバルは少し楽になった。
エミリアも、何度か顔を見せた。
「スバル、そこは逆じゃない?」
「え、逆?」
「布の畳み方。レムがさっき見せていたのと違うわ」
「エミリアたん、見て覚えられるタイプ?」
「ええ。見ていれば、だいたいは」
「すげえな……俺は見て覚えて、手で忘れる」
「それは忘れるのが早すぎない?」
「俺もそう思う」
エミリアは小さく笑った。
その笑顔を見て、スバルの胸が軽くなる。
エミリアたん。
そう呼んでも、彼女は強く拒まなかった。
少し不思議そうにするだけで、その呼び方を受け入れてくれた。
それだけのことが、スバルには嬉しかった。
ちゃんと名前を呼べている。
彼女が自分でくれた名前を、今度は間違えずに呼べている。
そうして、一日目が終わった。
二日目が終わった。
三日目が終わった。
屋敷の空気に、スバルは少しずつ慣れていった。
ラムに罵られる。
レムに淡々と直される。
エミリアに心配される。
ユイに笑われながら励まされる。
ロズワールには時折、妙な目で観察される。
そして、扉の先で偶然出会った禁書庫の少女、ベアトリスには、初対面から不機嫌そうに睨まれた。
「なんなのよ、お前。勝手に入ってきて、勝手に驚いて、勝手に騒いで。迷惑極まりないのよ」
「いや、扉開けたらここだったんだよ!」
「それはお前の運が悪いだけかしら」
「運のせいで不法侵入扱い!?」
ベアトリスは小さく、尊大で、ひどく不機嫌そうだった。
けれど、屋敷の誰とも違う空気をまとっていた。
スバルは彼女にも軽口を叩き、追い出され、また別の日に扉を開けては別の部屋へ繋がる。
そんな日々が続くうちに、スバルは少しずつ思い始めていた。
ここでなら、やっていけるかもしれない。
エミリアの近くにいられる。
ユイもいる。
怖い記憶は消えないけれど、上書きできるかもしれない。
終わらない朝を、取り戻せるかもしれない。
ユイは、その変化を見ていた。
スバルが屋敷を居場所だと思い始める、その過程を。
朝の挨拶で少し笑うこと。
ラムの毒舌に慣れてきたこと。
レムの冷たい視線に気づきながらも、笑ってごまかすこと。
エミリアの名前を呼ぶたびに、ほんの少し救われた顔をすること。
その全部が、ユイには甘かった。
ああ。
根を張り始めている。
この屋敷に。
この人たちに。
この朝に。
なら、終わる時はきっと、もっと苦しい。
四日目。
レムと共に村へ買い出しに行くことになった。
アーラム村。
ロズワール邸の近くにある、小さな村。
スバルにとっては、初めて屋敷の外へ出て、周辺の暮らしに触れる機会だった。
「村か。異世界村イベントってやつだな」
「異世界村イベント、とはなんですか?」
レムが荷物を整えながら尋ねる。
「現地住民との交流を深め、子どもたちに懐かれ、なんやかんやで好感度が上がるやつ」
「よくわかりませんが、村では迷惑をかけないようお願いします」
「すごい自然に俺が迷惑をかける前提だな」
「違うのですか?」
「否定しきれないのが悔しい」
レムは淡々としている。
だが、昨日までよりほんの少しだけ会話が柔らかい気がした。
スバルはそれを勝手に希望として受け取った。
エミリアが見送りに来る。
「スバル、無理しないでね」
「大丈夫だって。村で俺の社交性を見せつけてくるから」
「社交性は見せつけるものではないと思うけれど」
「じゃあ、にじませてくる」
「それなら……いいのかしら?」
エミリアは少し考える。
スバルは笑った。
「行ってくる、エミリアたん」
「ええ。行ってらっしゃい、スバル」
名前を呼ばれる。
それだけで、スバルは少し元気になる。
ユイも玄関近くに立っていた。
まだ本調子ではないという理由で同行はしない。
表向きには。
「気をつけてね、スバルくん」
「おう。お土産話、期待しててくれ」
「楽しみにしているわ」
ユイは微笑む。
その笑みは、いつもの頼れるお姉さんのものだった。
けれど内側では、別のものが静かに息づいている。
行ってらっしゃい、スバルくん。
今日、あなたは村で子どもたちと笑う。
犬に似た小さな魔獣に噛まれる。
傷は小さい。
だから誰も深刻に受け止めない。
でも、それが呪いになる。
四日目の夜、あなたは眠る。
そして、二度と目を覚まさない。
少なくとも、この世界では。
最初の屋敷の死は、魔獣ウルガルムの呪いによる衰弱死。
ユイは知っている。
知っていて、止めない。
死ななければ、スバルはこの屋敷の異常を理解できない。
自分がなぜ終わったのか、最初はわからない。
だからこそ、疑う。
怖がる。
曇る。
その過程が必要だ。
ユイは、表ではただ優しく手を振った。
スバルも手を振り返し、レムと共に屋敷を出る。
アーラム村は、思っていたより明るい場所だった。
畑。
家々。
行き交う村人。
子どもたちの声。
屋敷とは違う、生活の匂いがある。
スバルは物珍しそうにあちこちを見る。
「おお、村だ。ちゃんと村だ」
「村ですので」
「レム、その返し強いな」
「事実を述べました」
「それが一番強いんだよな」
買い出しを進めるうちに、子どもたちが寄ってきた。
珍しい客人。
変な格好。
妙な口調。
スバルはすぐに囲まれた。
「兄ちゃん、どこから来たんだ?」
「遠いところからだな」
「どれくらい遠い?」
「説明すると長くなるくらい遠い」
「なにそれ!」
子どもたちは笑う。
スバルも笑った。
鬼ごっこまがいの遊びに巻き込まれ、変なポーズを披露し、失敗して笑われる。
レムは少し離れた場所でそれを見ていた。
呆れているようで、完全に止めはしない。
子どもたちに囲まれるスバルの姿は、少なくとも害のある人間には見えなかった。
その中に、小さな犬のような生き物がいた。
子どもたちに混じって、足元をうろついている。
スバルはしゃがみ込み、手を伸ばした。
「お、なんだお前。かわいい顔してんな」
小さな獣は、尻尾を振るような仕草をした。
スバルが笑って、さらに手を伸ばす。
その瞬間。
ちくり、と痛みが走った。
「いてっ」
指先に小さな歯形。
血が少しだけ滲んだ。
子どもが笑う。
「あー、噛まれた!」
「こいつ、たまに噛むんだよ!」
「先に言えよ!」
スバルは指を振りながら苦笑した。
痛い。
だが、大した傷ではない。
ほんの少し血が出ただけ。
レムが近づいてくる。
「スバル様?」
「ああ、大丈夫。ちょっと噛まれただけ」
「見せてください」
レムは傷を確認する。
小さい。
浅い。
血もすぐ止まりそうだ。
「洗っておいた方がよろしいかと」
「了解。犬に負けた男として、ちゃんと処置します」
「犬ではないかもしれません」
「え?」
「いえ。念のためです」
レムはそう言ったが、それ以上深く追及はしなかった。
その時点では、誰も知らない。
その小さな傷こそが、スバルの命を奪うものだと。
買い出しを終えたスバルは、夕方前に屋敷へ戻った。
「ただいまー!」
玄関で声を上げる。
ラムが顔を出し、すぐに眉をひそめた。
「騒がしいわね、バルス。村に置いてこられればよかったのに」
「帰宅早々ひどい!」
「事実よ」
「願望じゃなくて!?」
レムは荷物を運びながら淡々と報告する。
エミリアも出迎えに来た。
「おかえり、スバル。村はどうだった?」
「子どもたちに大人気だった」
「本当?」
「たぶん。笑われてたけど、あれは人気に含めていいはず」
「含めていいのかしら」
エミリアは困ったように笑う。
ユイも少し遅れて姿を見せた。
「おかえりなさい、スバルくん」
「ただいま、ユイさん。土産話ならあるぞ。俺、村の犬っぽいやつに負けた」
スバルは指を見せる。
小さな歯形。
ほとんど塞がりかけている。
エミリアが眉を寄せる。
「噛まれたの?」
「ちょっとな。大したことないって」
「ちゃんと洗った?」
「レム監修のもとで処置済み」
「ならいいけれど……」
ユイはその指先を見た。
ほんの小さな傷。
見た目には、どうということのない怪我。
けれどユイには、それが死の印に見えた。
スバルの命を吸い上げる呪いの入口。
彼自身がまだ知らない死因。
ユイは、心配そうな顔を作った。
「無理はしないでね」
「噛まれた指一本で休んでたら、ラムに雑巾以下認定される」
「否定はしないわ」
いつの間にかいたラムが言った。
「否定してくれ!」
屋敷に笑いが起きる。
スバルも笑った。
その笑顔は、本物だった。
だから、ユイはもっと嬉しくなる。
夜が来た。
四日目の夜。
スバルはいつもより疲れていた。
村で子どもたちと遊び、買い出しを手伝い、帰ってからも少し仕事をした。
夕食の時には、すでに眠そうにしていた。
「スバル、今日は早めに休んだ方がいいわ」
エミリアが言う。
「そうする。さすがに村キッズたちの体力を舐めてた」
「子どもは元気ですから」
レムが静かに言う。
「レムも子どもの相手、慣れてるよな」
「村へ行くことはありますので」
「俺より絶対懐かれてた」
「スバル様は珍獣扱いだったかと」
「珍獣!?」
ラムが紅茶を置きながら言う。
「珍しい分、価値はあるかもしれないわね」
「ラムから初めて価値を認められた気がする!」
「勘違いよ」
「速攻で否定!」
いつもの軽口。
いつもの屋敷。
ほんの数日で作られた、薄くて脆い日常。
スバルはそれに安心していた。
自分でも気づかないうちに。
夜、自室に戻ったスバルは、ベッドに倒れ込んだ。
「疲れた……でも、悪くない」
小さく呟く。
指の傷が、少し疼いた。
だが、すぐに気にならなくなる。
眠気の方が強かった。
怖さはあった。
眠ることへの恐怖。
目を閉じたら、どこかに戻るかもしれないという不安。
それでも、この数日で少し薄れていた。
何度眠っても、朝が来た。
同じ部屋で目覚めた。
エミリアがいて、ユイがいて、ラムとレムがいて。
終わらない朝が続いた。
だから、今夜もそうだと思ってしまった。
「明日も……仕事か」
スバルは目を閉じる。
「エミリアたんに、いいとこ見せねえとな……」
眠りが落ちてくる。
重い。
深い。
妙に冷たい眠気。
指先が冷える。
胸が重い。
呼吸が浅くなる。
夢の中で、何かが体の奥から引き抜かれていく感覚があった。
痛みはない。
叫ぶこともできない。
ただ、力が抜けていく。
体が沈む。
意識が薄れる。
それが死だと、スバルは最後まで気づかなかった。
四日目の夜。
村で受けた魔獣ウルガルムの呪いによって、ナツキ・スバルは眠ったまま命を落とした。
誰にも看取られず。
自分の死因も知らないまま。
次に目を開けた時、そこは寝台の上だった。
柔らかな朝の光。
見覚えのある天井。
清潔な布団。
そして、聞き覚えのある声。
「お目覚めですか、客人様」
青い髪のメイドが、静かに言った。
スバルは、瞬きをした。
一度。
二度。
目の前にいる少女を見る。
青い髪。
メイド服。
無表情。
レム。
その名前を、もう知っている。
知っているのに。
彼女は、昨日まで積み重ねた時間など何もなかったように、静かに立っている。
スバルの喉が、ひゅ、と鳴った。
「……は?」
声が出た。
小さく、間抜けな声だった。
スバルは布団を掴んだ。
手を見る。
指を見る。
噛まれたはずの傷がない。
血の跡もない。
疼きもない。
体の重さもない。
昨夜感じた冷たい眠気も、胸を圧迫するような苦しさもない。
ない。
ない。
何もない。
「あ、れ……?」
「客人様?」
レムがわずかに首を傾げる。
スバルは、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
心臓が動いている。
息もしている。
生きている。
生きているのに。
あの四日間が、なくなっている。
「嘘だろ……」
スバルは呟いた。
次の瞬間、体を跳ね起こした。
「う、わっ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
布団が跳ねる。
レムが一歩退く。
スバルは構わず、手を見て、腕を見て、腹を押さえ、喉を撫で、胸を叩いた。
「ない……傷が、ない。なんで、なんでだよ。噛まれたのに。村で、犬みたいなやつに、噛まれて……いや、違う、あれ、いつだ。昨日? いや、昨日じゃない。今日は……今日は、何日目だ?」
言葉が止まらない。
頭の中で時間がぐちゃぐちゃになる。
盗品蔵。
竜車。
屋敷。
レム。
ラム。
ベアトリス。
仕事。
村。
子どもたち。
噛まれた指。
夜。
眠り。
冷たさ。
そして、朝。
「客人様、落ち着いてください」
レムの声が少し低くなる。
警戒している。
当然だ。
目覚めたばかりの客人が、突然叫び、体をまさぐり、意味不明なことを口走っている。
怪しいどころではない。
「落ち着けって……落ち着けるかよ……!」
スバルは布団を握りしめた。
指先が震えている。
呼吸が浅い。
胸が詰まる。
言わなければ。
何が起きたのか。
自分が何を経験したのか。
けれど、口にしようとした瞬間、胸の奥に冷たい指が触れた。
「俺は、昨日――」
そこで止まる。
止まらざるを得なかった。
心臓が掴まれる。
見えない手が、肉の内側から直接握り潰そうとしているような感覚。
「っ、ぁ……!」
スバルは胸を押さえた。
冷たい汗が噴き出す。
喉が詰まる。
呼吸が止まりかける。
言えない。
言ってはいけない。
わかっている。
何度も思い知らされた。
これ以上踏み込めば、何かが来る。
自分だけでは済まないかもしれない。
「客人様?」
レムの目が細くなる。
スバルは口元を押さえた。
「違う……違う、なんでもない。俺は、何も……何も言ってない」
「そのようには見えませんが」
「見えなくていい……見なくていい……!」
声が震える。
レムは動かなかった。
警戒したまま、しかしすぐに取り押さえることもしない。
異常な客人。
そう判断している顔だった。
スバルは布団の上で膝を抱え、荒い息を吐く。
「夢……か?」
違う。
夢ではない。
夢にしては、ラムの毒舌も、レムの手順も、エミリアの笑顔も、ユイの手の温度も、あまりにはっきりしすぎている。
でも、それ以外に説明できない。
説明しようとすれば、胸の奥の冷たい手がまた動く。
「……っ、くそ……」
スバルは歯を食いしばった。
涙が出そうだった。
怖い。
理由が分からない。
何が起きたのか分からない。
誰が敵なのかも分からない。
ただ、四日間が消えた。
自分だけが覚えている。
その事実だけが、喉の奥に詰まっていた。
「ユイさんは」
スバルは顔を上げた。
「ユイさんはどこだ!?」
あまりの勢いに、レムがわずかに眉を動かす。
「ユイ様なら、別室で手当てを受けられています」
「いる……?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「本当に、いるんだな?」
声が震える。
レムの警戒が増す。
それでも、スバルは止まれない。
「昨日と同じ? いや、同じじゃない。今は、屋敷に来た朝で……でも、ユイさんは……」
言えない。
言えないけれど、確かめたい。
スバルはベッドから降りようとした。
足がもつれる。
体は健康なはずなのに、心が追いついていない。
床に膝をつきかける。
レムが手を伸ばす。
「危険です」
「いい、行く……ユイさんに会わせてくれ」
「今は落ち着いてください」
「落ち着いてる場合じゃないんだよ!」
また叫んでしまった。
スバルは息を荒げる。
レムは硬い表情でスバルを見る。
このままだと、完全に不審者だ。
わかっている。
わかっているのに、止まらない。
そこへ、扉の外から足音がした。
軽い足音。
そして、少し遅れて聞こえる声。
「レム、何かあったの?」
エミリアの声だった。
スバルは、凍りついた。
扉が開く。
エミリアが顔を出す。
白い服。
銀色の髪。
紫紺の瞳。
心配そうな表情。
「スバル?」
名前を呼ばれた。
その瞬間、スバルの顔が歪んだ。
この声を知っている。
この呼び方を知っている。
四日間の中で、何度も聞いた。
でも、今のエミリアは知らない。
まだ、何も知らない。
スバルが屋敷で働くと決めたことも。
エミリアたんと呼んだことも。
村へ行ったことも。
夜に何が起きたのかも。
「……エミリア」
名前を呼ぶ。
声が震えた。
エミリアは心配そうに近づく。
「どうしたの? 顔色が……」
「来るな」
小さく言った。
自分でも驚くほど、弱い声だった。
エミリアが止まる。
「スバル?」
「ごめん……今、優しくされたら、無理だ」
スバルは両手で顔を覆った。
「また、知らない顔で……心配されたら、俺……」
言えない。
言葉にできない。
それでも、感情だけが溢れる。
怖い。
怖い。
怖い。
何が起きたのか分からないのが怖い。
眠るのが怖い。
目覚めた朝が、何もかも消しているのが怖い。
優しかった人たちが、自分を知らない顔に戻るのが怖い。
自分だけが覚えていることが、怖い。
エミリアは何も言えなかった。
レムも、動けない。
そこへ、さらに廊下から足音がした。
ゆっくりとした足取り。
傷を庇うような、わずかに遅い歩き方。
スバルは顔を上げる。
扉の向こうに、ユイが立っていた。
白い布で脇腹を押さえ、顔色は少し悪い。
けれど、その表情は穏やかだった。
「おはよう、スバルくん」
その声を聞いた瞬間、スバルの中の何かが切れた。
「ユイさん……!」
スバルは立ち上がろうとして、足をもつれさせた。
そのまま床へ倒れかける。
ユイが歩み寄り、支える。
今の世界では、ただの心配するお姉さんとして。
「危ないわ」
「いた……」
スバルは震えながら言った。
「いた……ユイさん、いた……」
「ええ。いるわ」
その言葉は、前と同じようで、少し違う。
ただ目の前の彼を安心させるだけの言葉。
けれどスバルには、それだけで十分だった。
彼はユイの袖を掴んだ。
子どものように。
縋るように。
「俺……俺、あの、四日目に……いや、違う。言えない。言ったら駄目だ。けど、何かがあって……でも、わかんねえ。何が起きたのか、誰がやったのか、何もわかんねえ。寝てただけなんだ。屋敷で、普通に、明日も仕事だって思って……なのに、起きたらここで……レムがいて……全部、なくなって……」
危ない言葉が混じりかけている。
死に戻りの核心へ近づきかけている。
ユイは、スバルの口元へそっと手を添えた。
優しく。
止めるように。
「スバルくん」
声は柔らかい。
「今は、少しだけ息をして」
「でも」
「息をして」
スバルは言葉を止めた。
ユイを見る。
その目は、泣きそうだった。
壊れそうだった。
ユイは内心で、甘く震える。
いい。
とてもいい。
原因のわからない終わり。
眠ったまま奪われた命。
積み重ねた四日間が、自分以外から消える恐怖。
そして、誰にも説明できない孤独。
盗品蔵の時とは違う。
これは、日常の中で突然奪われる終わりだ。
救いだと思った屋敷が、恐怖の場所に変わる瞬間だ。
こんな顔をしてくれるんだね、スバルくん。
ユイは、表ではただ心配そうに眉を寄せる。
「大丈夫。ここにいるわ」
それ以上は言わない。
先を知っているようなことは言わない。
死に戻りを肯定しない。
ただ、今この場で取り乱している少年を支える言葉だけを渡す。
エミリアが不安そうに問う。
「ユイ、スバルは……」
「混乱しているのだと思うわ」
ユイは答えた。
「昨夜のこともあったし、目覚めてすぐ知らない場所で、不安が一気に出たのかもしれない」
嘘ではない。
説明のすべてではないだけだ。
レムは沈黙していた。
目は鋭い。
だが、今は口を挟まない。
エミリアはスバルの顔を見て、胸を痛めたように眉を下げる。
「スバル……」
「ごめん」
スバルは掠れた声で言った。
「ごめん、エミリア。レムも……ごめん。俺、変なこと言った。違うんだ。いや、違わないけど……でも、説明できなくて……」
「今は無理に話さなくていいわ」
エミリアが言った。
その優しさが、またスバルに刺さった。
スバルは顔を歪める。
泣きそうになる。
でも、泣けなかった。
泣いたら、もっと崩れる気がした。
ユイはスバルの肩を支えた。
「ベッドに戻りましょう」
「……うん」
スバルは小さく頷いた。
立ち上がる足に力が入らない。
今の体は健康なはずなのに。
心が、四日目の夜に置き去りにされている。
ベッドに戻され、布団をかけられる。
レムは水を用意した。
エミリアはそばに立ち、心配そうに見ている。
ユイはベッドの横に座った。
スバルは、その手を離せなかった。
「……ユイさん」
「なあに?」
「俺、寝たんだ」
「ええ」
「普通に、寝たんだ。痛くなかった。誰も来なかった。なのに……」
声が震える。
「なのに、朝が変だった」
言い換えた。
ギリギリで飲み込んだ。
胸の奥の冷たい手は、まだそこにいる。
言葉を間違えれば、すぐに握り潰される。
ユイは目を伏せた。
「怖かったのね」
「怖いよ……」
スバルはようやく認めた。
「怖い。怖いんだよ。だって、わかんねえんだ。何が悪かったのか。誰を疑えばいいのか。何を避ければいいのか。わかんねえのに、また……」
また。
その先を言おうとした瞬間、胸がきしんだ。
「っ……!」
スバルは言葉を止めた。
エミリアが息を呑む。
レムの視線も動く。
ユイはすぐに言葉を重ねた。
「怖い夢の感覚が残っているのかもしれないわ」
スバルはユイを見た。
夢。
そういうことにしてくれている。
助かった。
でも、苦しい。
夢ではない。
自分にとっては現実だった。
「……夢なら、よかった」
スバルは呟いた。
「本当に、夢ならよかったのに」
部屋に沈黙が落ちる。
エミリアが、そっと言った。
「スバル。今は休んで。何か必要なら、言って」
スバルは目を閉じた。
休むのが怖い。
眠るのが怖い。
けれど、起きていても震えが止まらない。
「……眠りたくない」
小さな声だった。
「寝たら、また同じことになるかもしれない」
エミリアが表情を曇らせる。
レムの目がさらに細くなる。
ユイは、スバルの手を握る力をほんの少し強めた。
「眠らなくてもいいわ」
ユイは静かに言った。
「ただ、横になっていましょう」
「……うん」
「呼吸だけ、ゆっくり」
スバルは頷く。
子どものように。
何度も。
何度も。
彼はまだ、自分の死因を知らない。
魔獣の呪いだと知らない。
村で噛まれた小さな傷が原因だと知らない。
ただ、屋敷で眠った後に全てが失われたという事実だけを抱えている。
だから、この屋敷そのものが怖くなる。
この寝台が怖くなる。
この朝が怖くなる。
そして、それでもここにいるしかない。
ユイは、スバルの震える手を包みながら、胸の奥で静かに微笑んだ。
そう。
ここからだよ、スバルくん。
盗品蔵では、敵が見えていた。
刃が見えていた。
血が見えていた。
でも、この屋敷では違う。
優しい人たち。
温かい食事。
仕事。
笑い声。
その中で、あなたは終わる。
何が敵かわからないまま。
誰を信じればいいかわからないまま。
その疑いが、あなたをもっと綺麗に曇らせる。
ユイは表情を変えなかった。
ただ、頼れるお姉さんとして、スバルのそばにいた。
何も知らない顔で。
震える少年の手を、優しく握り続けながら。