しばらく、部屋には静かな時間が流れた。
スバルはベッドの上で横になったまま、ユイの手を握っていた。
力を込めすぎている自覚はあった。
けれど、離せなかった。
離した瞬間に、また何かが消えてしまうような気がした。
レムは水差しを置いたまま、部屋の隅に控えている。
エミリアはベッドのそばで、不安そうにスバルの顔を見ていた。
そしてユイは、何も知らない顔で、ただ彼の手を包んでいた。
「……ごめん」
ようやく、スバルが言った。
声は掠れていた。
「朝から変なとこ見せた」
「変ではないわ」
エミリアがすぐに言う。
「怖い夢を見たあとなら、誰だって混乱するもの」
「夢……」
スバルは小さく繰り返した。
夢。
そう言ってくれるのはありがたい。
けれど、違う。
夢ではない。
あの四日間は、夢ではなかった。
皿の重さも、雑巾の湿り気も、ラムの毒舌も、レムの手順も、エミリアの笑顔も、ユイの手の温度も、村の子どもたちの声も、指先の小さな痛みも。
全部、はっきり覚えている。
覚えているのに、ここにはない。
そのことが、スバルの胸をじわじわと締めつける。
「夢、だったら……」
言いかけて、スバルは口を閉じた。
これ以上は危ない。
夢ではないと言えば、その先を聞かれる。
その先は、言えない。
言えば、あの冷たい手が来る。
心臓を掴む。
自分だけで済むかどうかもわからない。
スバルは震える息を吐いた。
「いや。なんでもない」
「なんでもない顔ではありません」
レムが静かに言った。
その声に、スバルの肩が少し跳ねた。
レムは淡々としている。
だが、目は鋭い。
ただの心配ではない。
観察している。
疑っている。
スバルは、その視線に気づいて奥歯を噛んだ。
四日間の記憶の中では、レムは仕事を教えてくれた。
淡々としていて、厳しくて、それでもちゃんと見てくれていた。
その彼女が、今は完全にこちらを怪しんでいる。
当然だ。
スバルは自分でも思う。
今の自分は、どう見ても怪しい。
寝起きに叫んだ。
意味不明なことを言いかけた。
エミリアを拒んだ。
ユイに縋った。
過去にあったはずの出来事を思い出し、けれど説明できない。
怪しまれない方がおかしい。
「……レム」
「はい」
「悪かった。さっき叫んだの、八つ当たりみたいなもんだ。お前が何かしたわけじゃない」
レムは少しだけ目を伏せた。
「レムは、客人様を落ち着かせようとしただけです」
「わかってる。だから、ごめん」
「謝罪は受け取ります」
短い返事。
許された、という感じではない。
ただ、受理された。
そんな返事だった。
それでもスバルは、少しだけ肩の力を抜いた。
エミリアが心配そうに言う。
「今日は、無理に動かない方がいいわ。ロズワールにも、話は私からしておくから」
「ロズワール……」
その名を聞いて、スバルは視線を落とした。
四日間の記憶の中で、ロズワールと会った。
報酬を聞かれた。
自分はここで働きたいと言った。
それで屋敷仕事が始まった。
だが、今回はどうする。
同じ選択をしていいのか。
同じ選択をすれば、また四日目に何かが起きるかもしれない。
何が原因かはわからない。
けれど、同じように過ごせば、同じ結果になる可能性がある。
なら、変えなければならない。
何を。
どこを。
わからない。
それが怖い。
「……俺、今日は」
スバルは言葉を選ぶ。
核心は言えない。
でも、行動は変えられる。
「今日は、そういう話……少し待ってもらっていいか」
エミリアが目を瞬かせた。
「もちろんよ。まだ体調も悪そうだもの」
「いや、体調っていうか……頭が追いついてない。何をするにしても、ちょっと考えたい」
「そうね。その方がいいと思う」
エミリアは優しく頷いた。
その優しさが、胸に痛い。
このエミリアは、まだ何も知らない。
それでも心配してくれる。
そのたびに、スバルは自分の中の四日間を思い出してしまう。
「ユイさん」
スバルは、握った手を見た。
「悪い。もう大丈夫……ではないけど、離しても大丈夫だ」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんなら、もう少しこのままでいいわ」
ユイはそう言って、手を離さなかった。
エミリアが少しだけ微笑む。
「ユイは、すごく面倒見がいいのね」
「頼れるお姉さんでいたいので」
「ふふ。昨日もそんなことを言っていたわ」
昨日。
その言葉に、スバルの胸が少しだけ軋む。
昨日。
この世界では、王都から来た夜のこと。
スバルにとっては、もっと先の時間があった。
なのに、エミリアにとっては昨日でしかない。
スバルは目を閉じた。
飲み込め。
言うな。
顔に出すな。
自分に言い聞かせる。
けれど、完全には隠せない。
ユイは、その苦しそうな横顔を見ていた。
ああ。
ちゃんと考え始めた。
同じことをしたら、同じことが起きるかもしれない。
でも、何を変えればいいかわからない。
誰を疑えばいいかわからない。
それでも、周囲は何も知らない顔で優しくしてくる。
この孤独。
この疑心。
この行き場のない恐怖。
ユイは表情だけは穏やかに、内側で甘く笑った。
しばらくして、エミリアとレムは部屋を出た。
エミリアはロズワールへ話を通しに。
レムは朝の仕事へ戻るために。
部屋には、スバルとユイだけが残った。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
それでもスバルは、すぐには口を開かなかった。
言っていいこと。
言ってはいけないこと。
その境目がわからない。
ユイは、静かに椅子へ腰を下ろした。
「少しは落ち着いた?」
「落ち着いた……のかな」
スバルは乾いた笑いを漏らす。
「落ち着いたっていうか、叫ぶ体力が切れた」
「それは落ち着いたとは言わないかもしれないわね」
「だよな」
スバルは天井を見る。
知らない天井。
でも、もう知っている天井。
その矛盾が気持ち悪い。
「ユイさん」
「なあに?」
「俺、さっき変なこと言ったよな」
「ええ。少し」
「少しか?」
「かなり」
「正直だな」
「隠しても仕方ないでしょう?」
ユイの声は柔らかい。
責める響きはない。
それが、逆につらい。
スバルは布団を握った。
「……怖い夢を見たってことで、通せると思うか?」
「完全には難しいかもしれないわ」
「だよな」
「でも、昨夜あなたは本当に疲れていた。盗品蔵でのこともあった。知らない場所で目覚めて混乱した、という説明なら、少なくともエミリアさんは納得してくれると思う」
「レムは?」
ユイは少しだけ間を置いた。
「警戒はするでしょうね」
「だよなあ……」
スバルは苦笑する。
レムの視線を思い出す。
あの無表情。
薄い警戒。
記憶の中で少しだけ柔らかくなった気がした距離が、また初期値に戻っている。
いや、それどころか、今朝の自分のせいでさらに悪化したかもしれない。
「最悪だ」
スバルは呟く。
「いや、最悪ってほどじゃないか。盗品蔵に比べりゃ、まだここにいるし、腹も裂けてないし……」
腹。
裂ける。
その言葉で、スバルは口を閉じた。
直接核心ではない。
けれど、自分の中で記憶が蘇る。
盗品蔵。
血。
エルザ。
ユイの傷。
そして、屋敷で眠った夜。
痛みのない終わり。
どちらが怖いのか、わからない。
「……なんでだよ」
スバルは低く言った。
「何が悪かったんだ。俺、ちゃんとやってたつもりだったんだ。仕事も覚えようとして、レムともラムとも、エミリアたんとも……」
そこまで言って、スバルは口を閉じた。
危ない。
この世界では、まだ仕事などしていない。
ラムとまともに話してもいない。
自分だけが、知っている。
「……いや」
スバルは頭を振る。
「夢の話だ。夢の話」
「ええ」
ユイは、それ以上追及しなかった。
助かった。
しかし、スバルは余計に青ざめる。
言葉が漏れる。
自分が知っていることを、知らないはずのこの世界で言いかける。
危ない。
危なすぎる。
この調子では、いつか致命的なことを口走る。
スバルは両手で顔を覆った。
「無理だろ、こんなの……」
「スバルくん」
「無理だって。全部覚えてるのに、知らないふりしなきゃいけない。相手は何も知らない。俺だけが覚えてる。俺だけが……」
そこで胸が冷えた。
言い過ぎた。
核心に近づいている。
スバルは息を止める。
ユイはすぐに、静かに言った。
「怖い夢の内容は、無理に話さなくていいわ」
その言葉が、逃げ道になった。
スバルは荒い息を吐く。
「……夢、な」
「ええ」
「便利だな、夢って」
「そうね」
「でも、便利すぎて嫌になる」
スバルは目を伏せた。
涙は出なかった。
出たら楽になるのかもしれない。
でも出ない。
ただ、胸の奥が重い。
「俺、どうすればいいと思う?」
問いかけてから、スバルは苦笑した。
「悪い。聞かれても困るよな」
「困るわね」
「即答かよ」
「だって、あなたが何を怖がっているのか、私には全部はわからないもの」
ユイは、あくまでそう言った。
全部はわからない。
知っているとは言わない。
理解しているとは言わない。
それでも、手は離さない。
「でも、今のあなたが無理をするべきではないことはわかるわ」
「無理しないと、何も変わらないかもしれない」
「何かを変えたいの?」
スバルは答えかけて、止まった。
胸は痛まない。
だが、言葉を選ばなければならない。
「……同じことをしたくない」
それだけ言った。
ユイは頷く。
「なら、今できる範囲で、負担を減らすことね」
「負担を減らす……」
「今日は無理に何かを始めない。客人として休む。それだけでも、少しは落ち着けるかもしれないわ」
ユイの言葉は自然だった。
この場のスバルの状態を見て言える範囲の助言。
先を知っているような言い方ではない。
スバルはそこに少しだけ救われた。
「……そうだな」
「ええ」
「今日は客人として休む。それでいいか」
「いいと思うわ」
「ユイさん」
「なあに?」
「俺、たぶん今日、めちゃくちゃ情けない」
「昨日からそうだったわ」
「ひどくない?」
「でも、頑張っているのも知っているわ」
スバルは黙った。
その言葉はずるい。
情けないと言われても、頑張っていると言われても、どちらも胸に刺さる。
「……そっか」
「ええ」
「じゃあ、情けなくてもいいか」
「少しだけなら」
「制限つきかよ」
スバルはかすかに笑った。
本当にかすかな笑いだった。
でも、笑った。
ユイはそれを見て、目を細める。
砕けきらない。
折れかけても、まだ笑おうとする。
その強さがあるからこそ、もっと曇らせたくなる。
少しして、ロズワールとの対面が行われた。
応接間へ向かう廊下で、スバルは何度も深呼吸した。
知っている廊下。
知っている扉。
知っている応接間。
けれど、この世界ではまだ初めての場所。
その矛盾に、足元がふわつく。
ユイは隣を歩いていた。
何も言わない。
ただ、スバルが立ち止まりそうになるたび、ほんの少しだけ歩調を緩める。
それだけで、スバルは前へ進めた。
応接間の扉が開く。
ロズワールがいた。
派手な服。
道化のような化粧。
左右で色の違う瞳。
間延びした声。
「やぁ、よぉーく来てくれたねぇ」
聞いたことのある声。
けれど、彼は何も知らない。
前に会ったことも。
報酬を聞いたことも。
スバルがそこで働きたいと言ったことも。
何も知らない。
スバルは拳を握った。
顔に出すな。
震えるな。
吐きそうになるな。
「ナツキ・スバルです。昨夜は、その……世話になりました」
前と同じように、頭を下げる。
同じ言葉を選んだ自分に、少しだけ吐き気がした。
ユイも隣で静かに礼をする。
「ユイと申します。治療と部屋を用意していただき、ありがとうございました」
ロズワールは笑う。
「いやいやぁ。エミリア様を助けてくれた二人を、粗末には扱えないからねぇ」
ここまでは、よく似ている。
スバルは喉を鳴らした。
エミリアがそばにいる。
レムが控えている。
ラムも部屋の端に立っている。
視線が集まる。
ロズワールが、スバルへ向き直った。
「さて、スバルくん。昨夜の件については、改めて礼を言わせてもらおう。君がラインハルトを呼んだことは、結果としてエミリア様の助けになった」
ロズワールは笑っていた。
あの独特の、間延びした声で。
「そこで、報酬の話だ。君が望むものを聞かせてもらえるかなぁ?」
同じだ。
ここまでは、記憶の中とよく似ている。
スバルの喉が鳴った。
記憶の中では、ここで働かせてくれと言った。
その結果、屋敷仕事をして、村へ行って、四日目の夜に――
そこまで考えた瞬間、胸の奥が冷えた。
言葉にしてはいけない。
考えるだけならまだいい。
けれど、口にすれば、あの見えない手が来る。
スバルは唇を噛み、ゆっくりと言った。
「……しばらく、この屋敷に置いてほしい」
エミリアが少し驚いたように目を瞬かせる。
レムの視線が、静かに鋭くなった。
ロズワールは、にたりと笑う。
「ほぉう。金品ではなく、滞在を望むと」
「ああ」
「理由を聞いても?」
「行く当てがない。金もない。文字も読めない。あと……今の俺は、正直かなり混乱してる」
スバルは自分の手を見た。
震えは、完全には止まっていない。
「何かして返すとか、そういうことを言える状態じゃない。何かしたい気持ちはある。でも、今はたぶん、まともに動けない」
記憶の中の自分なら、ここで見栄を張った。
役に立とうとした。
居場所を得るために、無理やり前へ出た。
でも、今はできない。
怖い。
何をしたら同じ場所へ繋がるのか、わからない。
「だから、少しだけ時間がほしい。落ち着くまででいい。客人として置いてもらえないか」
ロズワールはスバルを見た。
笑っている。
だが、その目は奥まで覗き込んでくるようだった。
「なるほどぉ。自分の状態を見て、無理を避ける判断をしたわけだ」
「……そういうことにしてくれ」
「いいだろう」
ロズワールはあっさり頷いた。
「エミリア様を助けた報酬としては、十分に妥当だ。君にはしばらく客人として滞在してもらおう」
スバルは、小さく息を吐いた。
ひとつ変えた。
記憶とは違う言葉を選んだ。
それで何が変わるのかは、まだわからない。
けれど、少なくとも同じ道をそのまま歩くことは避けた。
エミリアがほっとしたように言う。
「私も、その方がいいと思うわ。今のスバルは、ちゃんと休んだ方がいいもの」
「エミリアたんにそう言われると、ちょっと情けなさが増すな」
「情けなくなんてないわ。無理をしないのは大事なことよ」
「……そっか」
優しい。
その優しさが、また胸に刺さる。
スバルは笑おうとして、少しだけ失敗した。
レムは何も言わない。
だが、視線は変わらない。
警戒。
観察。
疑念。
今回の朝の取り乱しが、彼女の中にしっかり残っているのだろう。
ラムは淡々とスバルを見る。
「客人として滞在するなら、客人らしく大人しくしていることね」
「努力する」
「努力しなければ大人しくできないの?」
「今のところ、自信はない」
「救いようがないわね」
「初対面から辛辣だな!」
「そう。なら覚えやすくてよかったわ」
ラムは涼しい顔で言う。
スバルは反射的に突っ込んだ。
突っ込めた。
それだけで、少しだけ息ができた。
まだ、完全には壊れていない。
そう自分に言い聞かせる。
ロズワールは、今度はユイを見た。
「では、ユイくん。君は何を望むかなぁ?」
「私も、スバルくんと同じく、しばらくこちらに置いていただければ十分です」
「君は傷もあるからねぇ。ゆっくり休むといい。もっとも、昨夜の立ち回りを見る限り、ただの客人として扱うには少しばかり惜しいけれど」
ユイは微笑む。
「買いかぶりですわ」
「そうかなぁ」
ロズワールの目が細くなる。
ユイは何も知らない顔で、穏やかに受け流す。
スバルは、そのやり取りを見ていた。
ユイは落ち着いている。
自分とは違う。
揺れていない。
それが頼もしくもあり、少し不思議でもある。
だが、今はそこを考える余裕がなかった。
その日のスバルは、屋敷仕事を始めなかった。
客人として部屋を与えられ、休むように言われた。
エミリアは何度か様子を見に来た。
ユイもそばにいた。
レムは必要なものを運んできたが、その態度は丁寧で、距離があった。
ラムは一度だけ顔を出し、部屋を見回して言った。
「客人。花瓶は触らないように」
「まだ何もしてない!」
「予防よ」
「俺への信頼、初日からマイナスすぎない?」
「信頼は積み上げるものだから、今はないわ」
「正論で刺してくるな!」
ラムはそれだけ言うと、去っていった。
スバルはベッドに座ったまま、しばらく扉を見ていた。
記憶の中では、ここから仕事を始めた。
廊下を拭いた。
皿を持った。
レムに教わった。
ラムに罵られた。
でも、今は何もしていない。
部屋にいる。
客人として休んでいる。
違う。
確かに違う。
なのに、不安は消えない。
むしろ、動かない分だけ、頭の中で考えが膨らむ。
何が原因だったのか。
寝台か。
食事か。
屋敷の誰かか。
それとも、自分が村に行ったことか。
村の子どもたち。
犬のような小さな獣。
噛まれた指。
スバルは、無意識に自分の指を見る。
傷はない。
でも、痛みだけは思い出せる。
「……あれか?」
小さく呟いた。
すぐに首を振る。
「いや、でも、あんな小さい傷で……」
わからない。
わからないことが多すぎる。
スバルは頭を抱えた。
そこへ、ユイが静かに声をかける。
「指が気になるの?」
スバルはびくりとした。
「見てた?」
「ええ」
「……夢で、指を怪我した気がして」
「そう」
「大した傷じゃなかった。なのに、妙に覚えてる」
ユイはすぐには答えない。
答えられない。
ここで「それが原因かもしれない」と言えば、知っていることになる。
だから、表ではただ心配そうに首を傾げる。
「夢に出るくらいなら、よほど印象に残ったのね」
「そう、なのかもな」
スバルは自分の指を握る。
その答えにたどり着きかけている。
だが、まだ確信はない。
自分が何に怯えるべきなのか、まだわからない。
ユイは、それを見ていた。
そう。
考えて。
疑って。
少しずつ近づいて。
でも確信できなくて。
その間、眠ることも、食べることも、誰かを信じることも怖くなる。
スバルくん。
あなたは本当に、曇り方が綺麗だね。
夜が近づくにつれ、スバルの顔色は悪くなった。
眠りたくない。
その気持ちは、はっきりしていた。
眠った先で何が起きるかわからない。
また、何もわからないまま終わるかもしれない。
だから、眠らない。
そう決めた。
夕食の席で、エミリアが心配そうに言う。
「スバル、あまり食べていないわ」
「緊張で胃がストライキしてる」
「すとらいき?」
「働くのを拒否してるって意味」
「胃も働くの?」
「今はだいぶ怠けてる」
「それは困るわね」
エミリアは真面目に困った顔をした。
その顔を見て、スバルはほんの少しだけ笑う。
でも、食事は進まない。
レムはその様子を静かに見ている。
ラムは特に何も言わない。
ロズワールは笑みを浮かべたまま、スバルを観察している。
ユイは隣で、何も知らない顔をしている。
夜。
部屋に戻ったスバルは、ベッドに座ったまま窓の外を見ていた。
眠らない。
絶対に。
そう決めていた。
ユイは椅子に座り、少し離れた場所で本を開いている。
表向きには、心配だからしばらく付き添うという形だった。
「ユイさん」
「なあに?」
「寝ないからな、俺」
「そう」
「止めないのか?」
「眠れない人に、無理に眠れと言っても苦しいだけでしょう」
「……助かる」
「でも、横にはなった方がいいわ」
「横になったら寝る」
「なら、座っていましょうか」
ユイは穏やかに言った。
スバルは少しだけ目を伏せる。
「悪いな」
「いいの」
「なんでそこまでしてくれるんだよ」
ユイは少し考えるふりをした。
そして、いつものように微笑む。
「頼れるお姉さんでいたいから」
「それ、便利な言葉だな」
「ええ。気に入っているの」
スバルは小さく笑った。
そのまま、夜は更けていく。
一時間。
二時間。
スバルは何度も意識を落としかけ、そのたびに体を震わせて目を覚ました。
汗が滲む。
手が冷える。
心臓がうるさい。
ユイは何も言わず、ただそこにいた。
やがて、スバルは窓の外を見ながら呟いた。
「ユイさん」
「ええ」
「俺、明日……村には行かない」
ユイは本から目を上げた。
「そう」
「たぶん、行かない方がいい」
「夢の中で、何かあったの?」
スバルは答えようとして、口を閉じた。
胸はまだ痛まない。
でも、言葉を選ぶ。
「……嫌な感じがしたんだ。村で」
「なら、行かない方がいいわね」
「信じるのか?」
「今のあなたは、とても怯えているから」
ユイは静かに言った。
「理由がうまく言えなくても、怖いと思う場所に無理に行く必要はないわ」
スバルは黙った。
その言葉が、ひどくありがたかった。
同時に、苦しかった。
自分はまだ何も説明できていない。
なのに、ユイは一部だけ受け止めてくれる。
それが救いになる。
救いになってしまう。
「……ありがとな」
「どういたしまして」
夜はさらに深くなる。
スバルは眠らなかった。
少なくとも、完全には。
うとうとするたびに目を開き、朝を待った。
そして、窓の外が少し白み始めた時。
スバルは、生きて朝を迎えたことに気づいた。
何も終わっていない。
部屋も同じ。
ユイもいる。
朝が来た。
「……朝だ」
掠れた声で呟く。
ユイが本を閉じる。
「ええ」
スバルは、顔を歪めた。
泣きそうだった。
眠らなかっただけ。
何かを解決したわけではない。
原因もまだわからない。
それでも、朝が来た。
この世界の朝が、消えずに来た。
「やった……のか?」
スバルは呟く。
ユイは、ただ微笑んだ。
「少なくとも、朝は来たわ」
その言葉は、未来を知るものではない。
今、目の前にある事実だけを言ったもの。
スバルは小さく頷いた。
けれど、ユイは知っている。
これは解決ではない。
スバルは村へ行かない。
なら、呪いの条件は避けられるかもしれない。
けれど、屋敷に残ることで別の疑いが濃くなる。
眠れず、怯え、村を避け、不自然な言動を重ねるスバル。
魔女の匂い。
素性不明。
異常な反応。
レムの警戒は、きっと強まる。
四日目の夜は変わる。
今度は、眠りの中の終わりではないかもしれない。
もっとはっきりした痛みが、彼を待つかもしれない。
ユイは、朝焼けを背に震えるスバルを見つめた。
頼れるお姉さんの顔で。
何も知らないふりをして。
彼がひとつ避けたことで、別の地獄へ近づいていくのを、静かに見守りながら。