Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第八話 眠れない客人

 しばらく、部屋には静かな時間が流れた。

 

 スバルはベッドの上で横になったまま、ユイの手を握っていた。

 

 力を込めすぎている自覚はあった。

 

 けれど、離せなかった。

 

 離した瞬間に、また何かが消えてしまうような気がした。

 

 レムは水差しを置いたまま、部屋の隅に控えている。

 

 エミリアはベッドのそばで、不安そうにスバルの顔を見ていた。

 

 そしてユイは、何も知らない顔で、ただ彼の手を包んでいた。

 

「……ごめん」

 

 ようやく、スバルが言った。

 

 声は掠れていた。

 

「朝から変なとこ見せた」

 

「変ではないわ」

 

 エミリアがすぐに言う。

 

「怖い夢を見たあとなら、誰だって混乱するもの」

 

「夢……」

 

 スバルは小さく繰り返した。

 

 夢。

 

 そう言ってくれるのはありがたい。

 

 けれど、違う。

 

 夢ではない。

 

 あの四日間は、夢ではなかった。

 

 皿の重さも、雑巾の湿り気も、ラムの毒舌も、レムの手順も、エミリアの笑顔も、ユイの手の温度も、村の子どもたちの声も、指先の小さな痛みも。

 

 全部、はっきり覚えている。

 

 覚えているのに、ここにはない。

 

 そのことが、スバルの胸をじわじわと締めつける。

 

「夢、だったら……」

 

 言いかけて、スバルは口を閉じた。

 

 これ以上は危ない。

 

 夢ではないと言えば、その先を聞かれる。

 

 その先は、言えない。

 

 言えば、あの冷たい手が来る。

 

 心臓を掴む。

 

 自分だけで済むかどうかもわからない。

 

 スバルは震える息を吐いた。

 

「いや。なんでもない」

 

「なんでもない顔ではありません」

 

 レムが静かに言った。

 

 その声に、スバルの肩が少し跳ねた。

 

 レムは淡々としている。

 

 だが、目は鋭い。

 

 ただの心配ではない。

 

 観察している。

 

 疑っている。

 

 スバルは、その視線に気づいて奥歯を噛んだ。

 

 四日間の記憶の中では、レムは仕事を教えてくれた。

 

 淡々としていて、厳しくて、それでもちゃんと見てくれていた。

 

 その彼女が、今は完全にこちらを怪しんでいる。

 

 当然だ。

 

 スバルは自分でも思う。

 

 今の自分は、どう見ても怪しい。

 

 寝起きに叫んだ。

 

 意味不明なことを言いかけた。

 

 エミリアを拒んだ。

 

 ユイに縋った。

 

 過去にあったはずの出来事を思い出し、けれど説明できない。

 

 怪しまれない方がおかしい。

 

「……レム」

 

「はい」

 

「悪かった。さっき叫んだの、八つ当たりみたいなもんだ。お前が何かしたわけじゃない」

 

 レムは少しだけ目を伏せた。

 

「レムは、客人様を落ち着かせようとしただけです」

 

「わかってる。だから、ごめん」

 

「謝罪は受け取ります」

 

 短い返事。

 

 許された、という感じではない。

 

 ただ、受理された。

 

 そんな返事だった。

 

 それでもスバルは、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 エミリアが心配そうに言う。

 

「今日は、無理に動かない方がいいわ。ロズワールにも、話は私からしておくから」

 

「ロズワール……」

 

 その名を聞いて、スバルは視線を落とした。

 

 四日間の記憶の中で、ロズワールと会った。

 

 報酬を聞かれた。

 

 自分はここで働きたいと言った。

 

 それで屋敷仕事が始まった。

 

 だが、今回はどうする。

 

 同じ選択をしていいのか。

 

 同じ選択をすれば、また四日目に何かが起きるかもしれない。

 

 何が原因かはわからない。

 

 けれど、同じように過ごせば、同じ結果になる可能性がある。

 

 なら、変えなければならない。

 

 何を。

 

 どこを。

 

 わからない。

 

 それが怖い。

 

「……俺、今日は」

 

 スバルは言葉を選ぶ。

 

 核心は言えない。

 

 でも、行動は変えられる。

 

「今日は、そういう話……少し待ってもらっていいか」

 

 エミリアが目を瞬かせた。

 

「もちろんよ。まだ体調も悪そうだもの」

 

「いや、体調っていうか……頭が追いついてない。何をするにしても、ちょっと考えたい」

 

「そうね。その方がいいと思う」

 

 エミリアは優しく頷いた。

 

 その優しさが、胸に痛い。

 

 このエミリアは、まだ何も知らない。

 

 それでも心配してくれる。

 

 そのたびに、スバルは自分の中の四日間を思い出してしまう。

 

「ユイさん」

 

 スバルは、握った手を見た。

 

「悪い。もう大丈夫……ではないけど、離しても大丈夫だ」

 

「本当に?」

 

「……たぶん」

 

「たぶんなら、もう少しこのままでいいわ」

 

 ユイはそう言って、手を離さなかった。

 

 エミリアが少しだけ微笑む。

 

「ユイは、すごく面倒見がいいのね」

 

「頼れるお姉さんでいたいので」

 

「ふふ。昨日もそんなことを言っていたわ」

 

 昨日。

 

 その言葉に、スバルの胸が少しだけ軋む。

 

 昨日。

 

 この世界では、王都から来た夜のこと。

 

 スバルにとっては、もっと先の時間があった。

 

 なのに、エミリアにとっては昨日でしかない。

 

 スバルは目を閉じた。

 

 飲み込め。

 

 言うな。

 

 顔に出すな。

 

 自分に言い聞かせる。

 

 けれど、完全には隠せない。

 

 ユイは、その苦しそうな横顔を見ていた。

 

 ああ。

 

 ちゃんと考え始めた。

 

 同じことをしたら、同じことが起きるかもしれない。

 

 でも、何を変えればいいかわからない。

 

 誰を疑えばいいかわからない。

 

 それでも、周囲は何も知らない顔で優しくしてくる。

 

 この孤独。

 

 この疑心。

 

 この行き場のない恐怖。

 

 ユイは表情だけは穏やかに、内側で甘く笑った。

 

 しばらくして、エミリアとレムは部屋を出た。

 

 エミリアはロズワールへ話を通しに。

 

 レムは朝の仕事へ戻るために。

 

 部屋には、スバルとユイだけが残った。

 

 扉が閉まる。

 

 足音が遠ざかる。

 

 それでもスバルは、すぐには口を開かなかった。

 

 言っていいこと。

 

 言ってはいけないこと。

 

 その境目がわからない。

 

 ユイは、静かに椅子へ腰を下ろした。

 

「少しは落ち着いた?」

 

「落ち着いた……のかな」

 

 スバルは乾いた笑いを漏らす。

 

「落ち着いたっていうか、叫ぶ体力が切れた」

 

「それは落ち着いたとは言わないかもしれないわね」

 

「だよな」

 

 スバルは天井を見る。

 

 知らない天井。

 

 でも、もう知っている天井。

 

 その矛盾が気持ち悪い。

 

「ユイさん」

 

「なあに?」

 

「俺、さっき変なこと言ったよな」

 

「ええ。少し」

 

「少しか?」

 

「かなり」

 

「正直だな」

 

「隠しても仕方ないでしょう?」

 

 ユイの声は柔らかい。

 

 責める響きはない。

 

 それが、逆につらい。

 

 スバルは布団を握った。

 

「……怖い夢を見たってことで、通せると思うか?」

 

「完全には難しいかもしれないわ」

 

「だよな」

 

「でも、昨夜あなたは本当に疲れていた。盗品蔵でのこともあった。知らない場所で目覚めて混乱した、という説明なら、少なくともエミリアさんは納得してくれると思う」

 

「レムは?」

 

 ユイは少しだけ間を置いた。

 

「警戒はするでしょうね」

 

「だよなあ……」

 

 スバルは苦笑する。

 

 レムの視線を思い出す。

 

 あの無表情。

 

 薄い警戒。

 

 記憶の中で少しだけ柔らかくなった気がした距離が、また初期値に戻っている。

 

 いや、それどころか、今朝の自分のせいでさらに悪化したかもしれない。

 

「最悪だ」

 

 スバルは呟く。

 

「いや、最悪ってほどじゃないか。盗品蔵に比べりゃ、まだここにいるし、腹も裂けてないし……」

 

 腹。

 

 裂ける。

 

 その言葉で、スバルは口を閉じた。

 

 直接核心ではない。

 

 けれど、自分の中で記憶が蘇る。

 

 盗品蔵。

 

 血。

 

 エルザ。

 

 ユイの傷。

 

 そして、屋敷で眠った夜。

 

 痛みのない終わり。

 

 どちらが怖いのか、わからない。

 

「……なんでだよ」

 

 スバルは低く言った。

 

「何が悪かったんだ。俺、ちゃんとやってたつもりだったんだ。仕事も覚えようとして、レムともラムとも、エミリアたんとも……」

 

 そこまで言って、スバルは口を閉じた。

 

 危ない。

 

 この世界では、まだ仕事などしていない。

 

 ラムとまともに話してもいない。

 

 自分だけが、知っている。

 

「……いや」

 

 スバルは頭を振る。

 

「夢の話だ。夢の話」

 

「ええ」

 

 ユイは、それ以上追及しなかった。

 

 助かった。

 

 しかし、スバルは余計に青ざめる。

 

 言葉が漏れる。

 

 自分が知っていることを、知らないはずのこの世界で言いかける。

 

 危ない。

 

 危なすぎる。

 

 この調子では、いつか致命的なことを口走る。

 

 スバルは両手で顔を覆った。

 

「無理だろ、こんなの……」

 

「スバルくん」

 

「無理だって。全部覚えてるのに、知らないふりしなきゃいけない。相手は何も知らない。俺だけが覚えてる。俺だけが……」

 

 そこで胸が冷えた。

 

 言い過ぎた。

 

 核心に近づいている。

 

 スバルは息を止める。

 

 ユイはすぐに、静かに言った。

 

「怖い夢の内容は、無理に話さなくていいわ」

 

 その言葉が、逃げ道になった。

 

 スバルは荒い息を吐く。

 

「……夢、な」

 

「ええ」

 

「便利だな、夢って」

 

「そうね」

 

「でも、便利すぎて嫌になる」

 

 スバルは目を伏せた。

 

 涙は出なかった。

 

 出たら楽になるのかもしれない。

 

 でも出ない。

 

 ただ、胸の奥が重い。

 

「俺、どうすればいいと思う?」

 

 問いかけてから、スバルは苦笑した。

 

「悪い。聞かれても困るよな」

 

「困るわね」

 

「即答かよ」

 

「だって、あなたが何を怖がっているのか、私には全部はわからないもの」

 

 ユイは、あくまでそう言った。

 

 全部はわからない。

 

 知っているとは言わない。

 

 理解しているとは言わない。

 

 それでも、手は離さない。

 

「でも、今のあなたが無理をするべきではないことはわかるわ」

 

「無理しないと、何も変わらないかもしれない」

 

「何かを変えたいの?」

 

 スバルは答えかけて、止まった。

 

 胸は痛まない。

 

 だが、言葉を選ばなければならない。

 

「……同じことをしたくない」

 

 それだけ言った。

 

 ユイは頷く。

 

「なら、今できる範囲で、負担を減らすことね」

 

「負担を減らす……」

 

「今日は無理に何かを始めない。客人として休む。それだけでも、少しは落ち着けるかもしれないわ」

 

 ユイの言葉は自然だった。

 

 この場のスバルの状態を見て言える範囲の助言。

 

 先を知っているような言い方ではない。

 

 スバルはそこに少しだけ救われた。

 

「……そうだな」

 

「ええ」

 

「今日は客人として休む。それでいいか」

 

「いいと思うわ」

 

「ユイさん」

 

「なあに?」

 

「俺、たぶん今日、めちゃくちゃ情けない」

 

「昨日からそうだったわ」

 

「ひどくない?」

 

「でも、頑張っているのも知っているわ」

 

 スバルは黙った。

 

 その言葉はずるい。

 

 情けないと言われても、頑張っていると言われても、どちらも胸に刺さる。

 

「……そっか」

 

「ええ」

 

「じゃあ、情けなくてもいいか」

 

「少しだけなら」

 

「制限つきかよ」

 

 スバルはかすかに笑った。

 

 本当にかすかな笑いだった。

 

 でも、笑った。

 

 ユイはそれを見て、目を細める。

 

 砕けきらない。

 

 折れかけても、まだ笑おうとする。

 

 その強さがあるからこそ、もっと曇らせたくなる。

 

 少しして、ロズワールとの対面が行われた。

 

 応接間へ向かう廊下で、スバルは何度も深呼吸した。

 

 知っている廊下。

 

 知っている扉。

 

 知っている応接間。

 

 けれど、この世界ではまだ初めての場所。

 

 その矛盾に、足元がふわつく。

 

 ユイは隣を歩いていた。

 

 何も言わない。

 

 ただ、スバルが立ち止まりそうになるたび、ほんの少しだけ歩調を緩める。

 

 それだけで、スバルは前へ進めた。

 

 応接間の扉が開く。

 

 ロズワールがいた。

 

 派手な服。

 

 道化のような化粧。

 

 左右で色の違う瞳。

 

 間延びした声。

 

「やぁ、よぉーく来てくれたねぇ」

 

 聞いたことのある声。

 

 けれど、彼は何も知らない。

 

 前に会ったことも。

 

 報酬を聞いたことも。

 

 スバルがそこで働きたいと言ったことも。

 

 何も知らない。

 

 スバルは拳を握った。

 

 顔に出すな。

 

 震えるな。

 

 吐きそうになるな。

 

「ナツキ・スバルです。昨夜は、その……世話になりました」

 

 前と同じように、頭を下げる。

 

 同じ言葉を選んだ自分に、少しだけ吐き気がした。

 

 ユイも隣で静かに礼をする。

 

「ユイと申します。治療と部屋を用意していただき、ありがとうございました」

 

 ロズワールは笑う。

 

「いやいやぁ。エミリア様を助けてくれた二人を、粗末には扱えないからねぇ」

 

 ここまでは、よく似ている。

 

 スバルは喉を鳴らした。

 

 エミリアがそばにいる。

 

 レムが控えている。

 

 ラムも部屋の端に立っている。

 

 視線が集まる。

 

 ロズワールが、スバルへ向き直った。

 

「さて、スバルくん。昨夜の件については、改めて礼を言わせてもらおう。君がラインハルトを呼んだことは、結果としてエミリア様の助けになった」

 

 ロズワールは笑っていた。

 

 あの独特の、間延びした声で。

 

「そこで、報酬の話だ。君が望むものを聞かせてもらえるかなぁ?」

 

 同じだ。

 

 ここまでは、記憶の中とよく似ている。

 

 スバルの喉が鳴った。

 

 記憶の中では、ここで働かせてくれと言った。

 

 その結果、屋敷仕事をして、村へ行って、四日目の夜に――

 

 そこまで考えた瞬間、胸の奥が冷えた。

 

 言葉にしてはいけない。

 

 考えるだけならまだいい。

 

 けれど、口にすれば、あの見えない手が来る。

 

 スバルは唇を噛み、ゆっくりと言った。

 

「……しばらく、この屋敷に置いてほしい」

 

 エミリアが少し驚いたように目を瞬かせる。

 

 レムの視線が、静かに鋭くなった。

 

 ロズワールは、にたりと笑う。

 

「ほぉう。金品ではなく、滞在を望むと」

 

「ああ」

 

「理由を聞いても?」

 

「行く当てがない。金もない。文字も読めない。あと……今の俺は、正直かなり混乱してる」

 

 スバルは自分の手を見た。

 

 震えは、完全には止まっていない。

 

「何かして返すとか、そういうことを言える状態じゃない。何かしたい気持ちはある。でも、今はたぶん、まともに動けない」

 

 記憶の中の自分なら、ここで見栄を張った。

 

 役に立とうとした。

 

 居場所を得るために、無理やり前へ出た。

 

 でも、今はできない。

 

 怖い。

 

 何をしたら同じ場所へ繋がるのか、わからない。

 

「だから、少しだけ時間がほしい。落ち着くまででいい。客人として置いてもらえないか」

 

 ロズワールはスバルを見た。

 

 笑っている。

 

 だが、その目は奥まで覗き込んでくるようだった。

 

「なるほどぉ。自分の状態を見て、無理を避ける判断をしたわけだ」

 

「……そういうことにしてくれ」

 

「いいだろう」

 

 ロズワールはあっさり頷いた。

 

「エミリア様を助けた報酬としては、十分に妥当だ。君にはしばらく客人として滞在してもらおう」

 

 スバルは、小さく息を吐いた。

 

 ひとつ変えた。

 

 記憶とは違う言葉を選んだ。

 

 それで何が変わるのかは、まだわからない。

 

 けれど、少なくとも同じ道をそのまま歩くことは避けた。

 

 エミリアがほっとしたように言う。

 

「私も、その方がいいと思うわ。今のスバルは、ちゃんと休んだ方がいいもの」

 

「エミリアたんにそう言われると、ちょっと情けなさが増すな」

 

「情けなくなんてないわ。無理をしないのは大事なことよ」

 

「……そっか」

 

 優しい。

 

 その優しさが、また胸に刺さる。

 

 スバルは笑おうとして、少しだけ失敗した。

 

 レムは何も言わない。

 

 だが、視線は変わらない。

 

 警戒。

 

 観察。

 

 疑念。

 

 今回の朝の取り乱しが、彼女の中にしっかり残っているのだろう。

 

 ラムは淡々とスバルを見る。

 

「客人として滞在するなら、客人らしく大人しくしていることね」

 

「努力する」

 

「努力しなければ大人しくできないの?」

 

「今のところ、自信はない」

 

「救いようがないわね」

 

「初対面から辛辣だな!」

 

「そう。なら覚えやすくてよかったわ」

 

 ラムは涼しい顔で言う。

 

 スバルは反射的に突っ込んだ。

 

 突っ込めた。

 

 それだけで、少しだけ息ができた。

 

 まだ、完全には壊れていない。

 

 そう自分に言い聞かせる。

 

 ロズワールは、今度はユイを見た。

 

「では、ユイくん。君は何を望むかなぁ?」

 

「私も、スバルくんと同じく、しばらくこちらに置いていただければ十分です」

 

「君は傷もあるからねぇ。ゆっくり休むといい。もっとも、昨夜の立ち回りを見る限り、ただの客人として扱うには少しばかり惜しいけれど」

 

 ユイは微笑む。

 

「買いかぶりですわ」

 

「そうかなぁ」

 

 ロズワールの目が細くなる。

 

 ユイは何も知らない顔で、穏やかに受け流す。

 

 スバルは、そのやり取りを見ていた。

 

 ユイは落ち着いている。

 

 自分とは違う。

 

 揺れていない。

 

 それが頼もしくもあり、少し不思議でもある。

 

 だが、今はそこを考える余裕がなかった。

 

 その日のスバルは、屋敷仕事を始めなかった。

 

 客人として部屋を与えられ、休むように言われた。

 

 エミリアは何度か様子を見に来た。

 

 ユイもそばにいた。

 

 レムは必要なものを運んできたが、その態度は丁寧で、距離があった。

 

 ラムは一度だけ顔を出し、部屋を見回して言った。

 

「客人。花瓶は触らないように」

 

「まだ何もしてない!」

 

「予防よ」

 

「俺への信頼、初日からマイナスすぎない?」

 

「信頼は積み上げるものだから、今はないわ」

 

「正論で刺してくるな!」

 

 ラムはそれだけ言うと、去っていった。

 

 スバルはベッドに座ったまま、しばらく扉を見ていた。

 

 記憶の中では、ここから仕事を始めた。

 

 廊下を拭いた。

 

 皿を持った。

 

 レムに教わった。

 

 ラムに罵られた。

 

 でも、今は何もしていない。

 

 部屋にいる。

 

 客人として休んでいる。

 

 違う。

 

 確かに違う。

 

 なのに、不安は消えない。

 

 むしろ、動かない分だけ、頭の中で考えが膨らむ。

 

 何が原因だったのか。

 

 寝台か。

 

 食事か。

 

 屋敷の誰かか。

 

 それとも、自分が村に行ったことか。

 

 村の子どもたち。

 

 犬のような小さな獣。

 

 噛まれた指。

 

 スバルは、無意識に自分の指を見る。

 

 傷はない。

 

 でも、痛みだけは思い出せる。

 

「……あれか?」

 

 小さく呟いた。

 

 すぐに首を振る。

 

「いや、でも、あんな小さい傷で……」

 

 わからない。

 

 わからないことが多すぎる。

 

 スバルは頭を抱えた。

 

 そこへ、ユイが静かに声をかける。

 

「指が気になるの?」

 

 スバルはびくりとした。

 

「見てた?」

 

「ええ」

 

「……夢で、指を怪我した気がして」

 

「そう」

 

「大した傷じゃなかった。なのに、妙に覚えてる」

 

 ユイはすぐには答えない。

 

 答えられない。

 

 ここで「それが原因かもしれない」と言えば、知っていることになる。

 

 だから、表ではただ心配そうに首を傾げる。

 

「夢に出るくらいなら、よほど印象に残ったのね」

 

「そう、なのかもな」

 

 スバルは自分の指を握る。

 

 その答えにたどり着きかけている。

 

 だが、まだ確信はない。

 

 自分が何に怯えるべきなのか、まだわからない。

 

 ユイは、それを見ていた。

 

 そう。

 

 考えて。

 

 疑って。

 

 少しずつ近づいて。

 

 でも確信できなくて。

 

 その間、眠ることも、食べることも、誰かを信じることも怖くなる。

 

 スバルくん。

 

 あなたは本当に、曇り方が綺麗だね。

 

 夜が近づくにつれ、スバルの顔色は悪くなった。

 

 眠りたくない。

 

 その気持ちは、はっきりしていた。

 

 眠った先で何が起きるかわからない。

 

 また、何もわからないまま終わるかもしれない。

 

 だから、眠らない。

 

 そう決めた。

 

 夕食の席で、エミリアが心配そうに言う。

 

「スバル、あまり食べていないわ」

 

「緊張で胃がストライキしてる」

 

「すとらいき?」

 

「働くのを拒否してるって意味」

 

「胃も働くの?」

 

「今はだいぶ怠けてる」

 

「それは困るわね」

 

 エミリアは真面目に困った顔をした。

 

 その顔を見て、スバルはほんの少しだけ笑う。

 

 でも、食事は進まない。

 

 レムはその様子を静かに見ている。

 

 ラムは特に何も言わない。

 

 ロズワールは笑みを浮かべたまま、スバルを観察している。

 

 ユイは隣で、何も知らない顔をしている。

 

 夜。

 

 部屋に戻ったスバルは、ベッドに座ったまま窓の外を見ていた。

 

 眠らない。

 

 絶対に。

 

 そう決めていた。

 

 ユイは椅子に座り、少し離れた場所で本を開いている。

 

 表向きには、心配だからしばらく付き添うという形だった。

 

「ユイさん」

 

「なあに?」

 

「寝ないからな、俺」

 

「そう」

 

「止めないのか?」

 

「眠れない人に、無理に眠れと言っても苦しいだけでしょう」

 

「……助かる」

 

「でも、横にはなった方がいいわ」

 

「横になったら寝る」

 

「なら、座っていましょうか」

 

 ユイは穏やかに言った。

 

 スバルは少しだけ目を伏せる。

 

「悪いな」

 

「いいの」

 

「なんでそこまでしてくれるんだよ」

 

 ユイは少し考えるふりをした。

 

 そして、いつものように微笑む。

 

「頼れるお姉さんでいたいから」

 

「それ、便利な言葉だな」

 

「ええ。気に入っているの」

 

 スバルは小さく笑った。

 

 そのまま、夜は更けていく。

 

 一時間。

 

 二時間。

 

 スバルは何度も意識を落としかけ、そのたびに体を震わせて目を覚ました。

 

 汗が滲む。

 

 手が冷える。

 

 心臓がうるさい。

 

 ユイは何も言わず、ただそこにいた。

 

 やがて、スバルは窓の外を見ながら呟いた。

 

「ユイさん」

 

「ええ」

 

「俺、明日……村には行かない」

 

 ユイは本から目を上げた。

 

「そう」

 

「たぶん、行かない方がいい」

 

「夢の中で、何かあったの?」

 

 スバルは答えようとして、口を閉じた。

 

 胸はまだ痛まない。

 

 でも、言葉を選ぶ。

 

「……嫌な感じがしたんだ。村で」

 

「なら、行かない方がいいわね」

 

「信じるのか?」

 

「今のあなたは、とても怯えているから」

 

 ユイは静かに言った。

 

「理由がうまく言えなくても、怖いと思う場所に無理に行く必要はないわ」

 

 スバルは黙った。

 

 その言葉が、ひどくありがたかった。

 

 同時に、苦しかった。

 

 自分はまだ何も説明できていない。

 

 なのに、ユイは一部だけ受け止めてくれる。

 

 それが救いになる。

 

 救いになってしまう。

 

「……ありがとな」

 

「どういたしまして」

 

 夜はさらに深くなる。

 

 スバルは眠らなかった。

 

 少なくとも、完全には。

 

 うとうとするたびに目を開き、朝を待った。

 

 そして、窓の外が少し白み始めた時。

 

 スバルは、生きて朝を迎えたことに気づいた。

 

 何も終わっていない。

 

 部屋も同じ。

 

 ユイもいる。

 

 朝が来た。

 

「……朝だ」

 

 掠れた声で呟く。

 

 ユイが本を閉じる。

 

「ええ」

 

 スバルは、顔を歪めた。

 

 泣きそうだった。

 

 眠らなかっただけ。

 

 何かを解決したわけではない。

 

 原因もまだわからない。

 

 それでも、朝が来た。

 

 この世界の朝が、消えずに来た。

 

「やった……のか?」

 

 スバルは呟く。

 

 ユイは、ただ微笑んだ。

 

「少なくとも、朝は来たわ」

 

 その言葉は、未来を知るものではない。

 

 今、目の前にある事実だけを言ったもの。

 

 スバルは小さく頷いた。

 

 けれど、ユイは知っている。

 

 これは解決ではない。

 

 スバルは村へ行かない。

 

 なら、呪いの条件は避けられるかもしれない。

 

 けれど、屋敷に残ることで別の疑いが濃くなる。

 

 眠れず、怯え、村を避け、不自然な言動を重ねるスバル。

 

 魔女の匂い。

 

 素性不明。

 

 異常な反応。

 

 レムの警戒は、きっと強まる。

 

 四日目の夜は変わる。

 

 今度は、眠りの中の終わりではないかもしれない。

 

 もっとはっきりした痛みが、彼を待つかもしれない。

 

 ユイは、朝焼けを背に震えるスバルを見つめた。

 

 頼れるお姉さんの顔で。

 

 何も知らないふりをして。

 

 彼がひとつ避けたことで、別の地獄へ近づいていくのを、静かに見守りながら。

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