Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第九話 四日目の夜襲

 朝は来た。

 

 けれど、安心は来なかった。

 

 窓の外が白み、鳥の声が遠くで鳴き始めても、スバルの胸の奥にこびりついた冷たさは消えなかった。

 

 眠らずに朝を迎えた。

 

 それだけだ。

 

 何かを解決したわけではない。

 

 原因がわかったわけでもない。

 

 誰かを信じられるようになったわけでもない。

 

 ただ、目を閉じなかったから、朝まで意識が途切れなかった。

 

 それだけのことだった。

 

「……朝だ」

 

 掠れた声で呟く。

 

 椅子に座っていたユイが、本を閉じる。

 

「ええ。朝ね」

 

「俺、生きてる……よな」

 

 その言葉は、ひどく小さかった。

 

 誰かに確認するというより、自分自身に言い聞かせるような声だった。

 

 ユイは、穏やかに頷いた。

 

「少なくとも、今はこうして話しているわ」

 

「そう、だよな」

 

 スバルは乾いた笑いを漏らした。

 

「今は、か」

 

 ユイはその言葉には答えなかった。

 

 答えれば、踏み込みすぎる。

 

 だから、何も知らない顔で微笑むだけに留める。

 

「少し横になる?」

 

「寝たくない」

 

「でしょうね」

 

「否定してくれないのかよ」

 

「無理に寝ろと言っても、あなたは寝ないでしょう?」

 

「まあ、寝ない」

 

 スバルは目元をこすった。

 

 まぶたが重い。

 

 頭が鈍い。

 

 体の節々が痛い。

 

 けれど、眠ることの方がもっと怖かった。

 

 四日間の記憶。

 

 屋敷で仕事をしたこと。

 

 村へ行ったこと。

 

 小さな獣に噛まれたこと。

 

 そして夜。

 

 眠ったまま、何が起きたのかもわからず途切れた時間。

 

 それらがすべて、今のスバルの中では「眠る」という行為に結びついている。

 

 目を閉じる。

 

 意識が沈む。

 

 次に目覚めた時、何もかも消えている。

 

 それを想像するだけで、呼吸が乱れた。

 

「ユイさん」

 

「なあに?」

 

「俺、今日も寝ない」

 

「そう」

 

「止めないのか?」

 

「止めて、眠れるの?」

 

「無理」

 

「なら、止めないわ」

 

 ユイは静かに言った。

 

「ただ、倒れる前に座って。食べられるものは少し食べて。水は飲んで。そうしないと、眠る前に体が動かなくなるわ」

 

「現実的だな」

 

「頼れるお姉さんなので」

 

「便利な肩書きだよな、それ」

 

「ええ。気に入っているの」

 

 その軽さに、スバルは少しだけ笑った。

 

 けれど、笑いはすぐに消える。

 

 朝食の席で、スバルの異常は隠しようがなかった。

 

 目の下には濃い影。

 

 手はわずかに震えている。

 

 食器を持つ動作もぎこちない。

 

 パンを千切っても、口へ運ぶまでに時間がかかる。

 

 エミリアが、何度も心配そうにこちらを見ていた。

 

「スバル、本当に大丈夫?」

 

「大丈夫……とは言いづらいけど、倒れるほどじゃない」

 

「それは大丈夫とは言わないと思うわ」

 

「俺もそう思う」

 

 スバルは力なく笑った。

 

 エミリアは困ったように眉を下げる。

 

「今日は部屋で休んでいて。無理に動かなくていいから」

 

「そうする。俺は今日、休むことに全力を尽くす」

 

「全力で休むの?」

 

「たぶん、俺に一番足りない才能」

 

「それなら、ちゃんと練習しないといけないわね」

 

 エミリアは真面目に言った。

 

 その真面目さが、少しだけおかしくて、少しだけ痛かった。

 

 この優しさも、いつ消えるかわからない。

 

 そう思うと、スバルは笑いきれない。

 

 レムは、少し離れた場所で給仕をしていた。

 

 表情は変わらない。

 

 けれど視線は鋭い。

 

 スバルの震える手。

 

 眠っていない顔。

 

 突然ユイに縋った朝の姿。

 

 それらを、ひとつずつ拾っているようだった。

 

 スバルはその視線に気づき、思わず目を逸らす。

 

 逸らしてから、失敗したと思った。

 

 怪しい。

 

 自分でも怪しい。

 

 視線を逸らしたことまで、怪しく見える。

 

 ラムが紅茶を置きながら言った。

 

「客人、食事をする気がないなら下げるわよ」

 

「食べる気はある。胃が現場に出てきてくれないだけだ」

 

「なら胃を呼び戻しなさい」

 

「説得で戻ってくる臓器なのか?」

 

「少なくとも、あなたよりは聞き分けがいいでしょう」

 

「俺、胃以下!?」

 

 反射的に突っ込む。

 

 その瞬間だけ、空気が少し緩んだ。

 

 エミリアが小さく笑い、ラムは涼しい顔で戻っていく。

 

 レムだけは、静かにスバルを見ていた。

 

 その視線が、胸に刺さる。

 

 この屋敷に敵がいるのか。

 

 それとも、いないのか。

 

 わからない。

 

 前は眠ったまま終わった。

 

 誰かに刺された記憶もない。

 

 血の感触もない。

 

 痛みもない。

 

 ただ、体の内側から命を抜かれたような感覚だけ。

 

 だから、誰を疑えばいいのかわからない。

 

 けれど、今のスバルの言動は確実に誰かの疑いを招いている。

 

 それもまた、怖かった。

 

 二日目。

 

 スバルは屋敷の外へ出なかった。

 

 働きたいとも言わなかった。

 

 客人として部屋に残り、時々廊下を歩く程度にした。

 

 エミリアは何度か様子を見に来た。

 

 ユイは長い時間そばにいた。

 

 レムは水や食事を運んできたが、言葉は少なかった。

 

 ラムは最低限の用件だけを伝え、余計な会話を残して去っていった。

 

「客人。花瓶には触らないように」

 

「まだ触ってない!」

 

「触る前に言ったのよ」

 

「俺、そんなに信用ない?」

 

「信用は積み上げるものよ。今はないわ」

 

「正論で刺すな!」

 

 そんな会話もあった。

 

 だが、スバルの中では何も軽くならない。

 

 部屋に戻るたびに、指を見る。

 

 噛まれたはずの傷はない。

 

 けれど、感覚だけは残っている。

 

 あの小さな痛み。

 

 血の滲んだ指先。

 

 子どもたちの笑い声。

 

 レムが「洗っておいた方がよろしいかと」と言った声。

 

 夢ではない。

 

 夢であってくれればよかったのに。

 

「……あれが原因、なのか?」

 

 ひとりで呟いた。

 

 ユイが近くにいた。

 

「指が気になるの?」

 

 スバルは肩を跳ねさせた。

 

「見てた?」

 

「ええ」

 

「……夢で、指を怪我した気がして」

 

「そう」

 

「大した傷じゃなかった。なのに、妙に覚えてる」

 

 ユイは、すぐには答えなかった。

 

 ここで答えれば、知っていることになる。

 

 彼が噛まれたこと。

 

 その噛み傷が呪いだったこと。

 

 その呪いで、彼が四日目の夜に終わったこと。

 

 ユイは全部知っている。

 

 知っていて、知らない顔をする。

 

「印象に残る夢だったのね」

 

「……そういうことに、なるのかな」

 

 スバルは自分の指を握り込んだ。

 

 答えに近づいている。

 

 だが、まだ確信できない。

 

 確信できないから、怖い。

 

 ユイは、その横顔を見て胸の奥で静かに笑った。

 

 そう。

 

 考えて。

 

 疑って。

 

 でも、答えを掴みきれなくて。

 

 その間ずっと、眠ることも、食べることも、誰かを信じることも怖くなる。

 

 三日目。

 

 スバルは、ますます眠れなくなっていた。

 

 短い仮眠を取ろうとしても、意識が沈む瞬間に体が跳ねる。

 

 冷たい眠気を思い出す。

 

 胸の奥から何かを引き抜かれる感覚を思い出す。

 

 目を開ける。

 

 息を荒げる。

 

 天井を確認する。

 

 部屋を確認する。

 

 時間が続いていることを確認する。

 

 その繰り返しだった。

 

 エミリアは心配し続けた。

 

「スバル、やっぱり医者を呼んだ方がいいわ」

 

「医者に診せても、たぶん寝ろって言われる」

 

「寝られないんでしょう?」

 

「そうなんだよな」

 

「なら、もっと診てもらうべきよ」

 

 正論だった。

 

 スバルは笑おうとして、うまくいかなかった。

 

「大丈夫。たぶん、あと少しだから」

 

「あと少し?」

 

「……いや」

 

 しまった。

 

 何があと少しなのか。

 

 四日目。

 

 自分が恐れている日。

 

 それを知らないエミリアに言えるはずがない。

 

 スバルは頭を振る。

 

「ちょっと、変な言い方した。寝不足で頭回ってない」

 

「本当に大丈夫じゃないわ」

 

「だよな」

 

 スバルは乾いた笑いを漏らした。

 

 エミリアはもう笑わなかった。

 

 その夜、スバルは部屋を出た。

 

 眠らないために。

 

 じっとしていると、恐怖に飲み込まれそうだったから。

 

 廊下を歩く。

 

 足音を殺すつもりはなかったが、自然と静かになる。

 

 誰かに見つかるのが怖い。

 

 見つからないのも怖い。

 

 その矛盾に、自分で嫌になる。

 

 曲がり角を曲がったところで、レムと目が合った。

 

 青い髪のメイドは、燭台を手に立っていた。

 

「スバル様」

 

「……レム」

 

「この時間に、どちらへ?」

 

 問いは丁寧だった。

 

 だが、声は冷えていた。

 

 スバルは喉を鳴らす。

 

「眠れなくて、少し歩いてた」

 

「夜の屋敷を、ですか」

 

「怪しいよな」

 

「はい」

 

「即答かよ」

 

「はい」

 

 スバルは苦笑した。

 

 レムは笑わない。

 

 その目は、やはり警戒している。

 

「部屋へ戻られた方がよろしいかと」

 

「そうする」

 

 スバルはすぐに答えた。

 

 逆らう気力がなかった。

 

 レムの横を通り過ぎる時、かすかに空気が張った。

 

 何かを見られている。

 

 嗅がれている。

 

 測られている。

 

 そんな感覚。

 

 スバルは振り返らなかった。

 

 振り返れば、もっと怖くなる気がした。

 

 ユイはその夜、少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。

 

 もちろん、姿は見せていない。

 

 虚飾で気配を薄くしている。

 

 完全な隠蔽ではない。

 

 けれど、この程度なら十分だった。

 

 レムの警戒は、確実に濃くなっている。

 

 スバルの怯え。

 

 魔女の匂い。

 

 不審な行動。

 

 それらが積み重なっていく。

 

 原作通りの流れが、少し形を変えながらも、同じ方向へ向かっている。

 

 ユイは満足していた。

 

 四日目が来る。

 

 四日目の夜が。

 

 スバルは、自分が前とは違う選択をしたと思っている。

 

 村へ行かない。

 

 眠らない。

 

 屋敷仕事もしない。

 

 それでも、疑いは避けられない。

 

 むしろ、違う選択をしたことで、疑いは濃くなった。

 

 いい。

 

 とてもいい。

 

 逃げた先で、別の刃に追いつかれる。

 

 それが、どれだけ彼を曇らせるか。

 

 四日目。

 

 その朝、スバルの顔色は最悪だった。

 

 目の下には深い隈。

 

 食事はほとんど喉を通らない。

 

 手は震え、時々何かを確認するように自分の胸を押さえる。

 

 エミリアはついに強く言った。

 

「スバル、今日は絶対に部屋で休んで。お願い」

 

「……わかった」

 

 逆らわなかった。

 

 逆らう力がなかった。

 

 ラムは淡々と告げた。

 

「客人。倒れるなら廊下以外にして。邪魔だから」

 

「心配してるのか邪魔者扱いしてるのか、どっちだよ」

 

「両方よ」

 

「そこは片方にしてくれ」

 

 軽口は出る。

 

 だが、弱い。

 

 レムは何も言わなかった。

 

 ただ、スバルを見る目だけが鋭かった。

 

 スバルは、その視線に耐えられず目を逸らした。

 

 昼。

 

 夕方。

 

 時間は進む。

 

 何も起きない。

 

 それが逆に怖かった。

 

 前の記憶では、四日目の夜に眠り、そこで途切れた。

 

 なら、夜が危ない。

 

 眠らなければいい。

 

 部屋にいなければいい。

 

 そう考えた。

 

 けれど、屋敷の中にいても怖い。

 

 部屋にいても怖い。

 

 誰かが来るのを待つのも怖い。

 

 何も来ないまま眠気に負けるのも怖い。

 

 だから、スバルは決めた。

 

 屋敷を出る。

 

 遠くには行かない。

 

 屋敷が見える場所で、夜を明かす。

 

 何かが起きるなら、外から見ていればわかるかもしれない。

 

 自分の部屋で眠るよりは、ましだと思った。

 

 それが正しいかどうかは、わからない。

 

 ただ、部屋で朝を待つことには耐えられなかった。

 

 夜。

 

 スバルは、そっと部屋を抜け出した。

 

 誰にも告げない。

 

 エミリアに言えば止められる。

 

 ユイに言えば心配される。

 

 レムに知られれば疑われる。

 

 ラムに見つかれば引き戻される。

 

 だから、ひとりで出た。

 

 屋敷の裏手へ回り、林を抜け、少し離れた高台へ向かう。

 

 月明かりが足元を照らしていた。

 

 夜の空気は冷たい。

 

 風が草を揺らす。

 

 遠くに、ロズワール邸の灯りが見えた。

 

 スバルは木の陰に身を隠し、屋敷を見下ろす。

 

「……ここなら」

 

 息を吐く。

 

「ここなら、何かあってもわかる」

 

 何か。

 

 その正体はわからない。

 

 だが、部屋に閉じこもっているよりは、少しだけ呼吸が楽だった。

 

 スバルは膝を抱えた。

 

 眠気が来る。

 

 頭が重い。

 

 だが、寝るわけにはいかない。

 

 頬を叩く。

 

 腕をつねる。

 

 呼吸を整える。

 

 目を閉じない。

 

 屋敷を見る。

 

 灯りを見る。

 

 時間が過ぎる。

 

 何も起きない。

 

 何も起きないことが、逆に恐怖を膨らませる。

 

「なあ……何が来るんだよ」

 

 誰にともなく呟いた。

 

「俺は、何から逃げてんだよ……」

 

 答えはない。

 

 夜だけがある。

 

 そして、背後でかすかな音がした。

 

 枝が軋むような。

 

 草が踏まれるような。

 

 スバルの体が硬直する。

 

「……誰だ」

 

 声は震えていた。

 

 返事はない。

 

 スバルはゆっくり振り返る。

 

 暗闇。

 

 木々。

 

 月の光。

 

 その中に、青い髪が揺れていた。

 

 レム。

 

 彼女が、そこに立っていた。

 

 昼間と同じメイド服。

 

 けれど、手には重い鎖。

 

 その先に、鉄球のような武器がついている。

 

 スバルは、それを理解するのに少し時間がかかった。

 

「……レム?」

 

 名前を呼ぶ。

 

 レムの表情は動かない。

 

 青い瞳は冷たい。

 

「どうして、ここに?」

 

 問いかけたのはスバルの方だった。

 

 本当は逆だ。

 

 レムが問うべき場面だ。

 

 なぜスバルが屋敷を抜け出し、外から見張っているのか。

 

 だが、スバルの頭はそこまで回らない。

 

 レムが一歩進む。

 

 鎖が、じゃらりと鳴った。

 

「スバル様」

 

 声は静かだった。

 

「あなたは、何者ですか」

 

 スバルは息を呑む。

 

「何者って……」

 

「昨夜からの言動。屋敷を避けるような態度。エミリア様への接近。ユイ様への異常な依存。そして、あなたから漂う臭い」

 

「臭い……?」

 

「魔女の臭いです」

 

 その言葉に、スバルの心臓が跳ねた。

 

 魔女。

 

 銀髪の少女に向けて、最初に口にしてしまった禁忌の名。

 

 皆が凍りついた名前。

 

 忌み嫌われる存在。

 

 それと自分が結びつけられている。

 

「魔女って……なんだよ、それ」

 

 スバルの声は掠れた。

 

「俺が、何だっていうんだよ」

 

「その臭いをまとっている理由を、説明できますか」

 

「知らねえよ……!」

 

 スバルは叫びかけて、声を抑えた。

 

「俺だって知らねえ。そんなの、自分でわかるわけないだろ」

 

「では、なぜ夜中に屋敷を抜け出したのです」

 

「それは――」

 

 言えない。

 

 四日目の夜が怖かったから。

 

 眠ったら何かが起きると思ったから。

 

 前に眠ったまま終わったから。

 

 そのどれも、言えない。

 

 胸の奥に、冷たい気配が触れる。

 

 言うな。

 

 言えば、握る。

 

 そう脅されているようだった。

 

 スバルは喉を押さえた。

 

「……言えない」

 

「そうですか」

 

 レムの声が低くなる。

 

「なら、レムにも選択肢はありません」

 

「待て、違う。俺は……俺は、魔女なんか知らない。そんなものと関係ない。エミリアに何かするつもりもない。ユイさんにだって、屋敷にだって、何も――」

 

「それを信じる理由がありません」

 

 レムの声は冷たかった。

 

 スバルは息を詰まらせる。

 

 言葉が足りない。

 

 でも、言える言葉がない。

 

 自分が何者なのか。

 

 なぜここにいるのか。

 

 なぜ知っているはずのないことに怯えているのか。

 

 何ひとつ、説明できない。

 

 説明しようとすれば、心臓を掴まれる。

 

 だから黙るしかない。

 

 その沈黙が、レムには肯定に見える。

 

 鎖が鳴った。

 

 次の瞬間、鉄球が唸る。

 

 風が裂ける。

 

 スバルは反射的に横へ跳んだ。

 

 地面が爆ぜる。

 

 土と草が飛び散る。

 

「う、わあああっ!」

 

 転がりながら、スバルは悲鳴を上げた。

 

 今のが直撃していれば、骨どころでは済まない。

 

 レムは表情を変えず、鎖を引き戻す。

 

 鉄球が地面を抉りながら戻る。

 

「待て! 待ってくれ! レム!」

 

「待てません」

 

「俺は敵じゃない!」

 

「敵は皆、そう言います」

 

「そんなの反則だろ!」

 

 スバルは必死に立ち上がる。

 

 足がもつれる。

 

 寝不足。

 

 疲労。

 

 恐怖。

 

 全部が体を鈍らせる。

 

 レムの動きは、速かった。

 

 メイド服の裾が揺れる。

 

 鎖が月光を弾く。

 

 スバルは逃げた。

 

 走った。

 

 木々の間を抜け、必死に距離を取る。

 

 背後から、鉄球が迫る音。

 

 地面が砕ける音。

 

 木の幹が抉れる音。

 

 呼吸が荒い。

 

 肺が焼ける。

 

 足が痛い。

 

 でも、止まれば終わる。

 

「なんでだよ……!」

 

 走りながら、スバルは叫んだ。

 

「俺、何もしてねえだろ! エミリアにも、レムにも、ラムにも、ユイさんにも……誰にも!」

 

 言葉は届かない。

 

 レムは追ってくる。

 

 静かに。

 

 確実に。

 

 殺意を持って。

 

 スバルは足を滑らせた。

 

 斜面に転がる。

 

 肩を打つ。

 

 息が詰まる。

 

 立ち上がろうとした瞬間、鎖が足に絡んだ。

 

「っ!」

 

 世界が反転する。

 

 引き倒された。

 

 地面に背中を打ちつける。

 

 肺の空気が全部抜けた。

 

「が、は……!」

 

 視界が白くなる。

 

 足に激痛。

 

 鎖が締め上げている。

 

 レムが近づいてくる。

 

 月明かりの下で、彼女の顔はひどく静かだった。

 

「最後に聞きます」

 

 レムは言った。

 

「あなたは、何者ですか」

 

 スバルは、荒い息を吐く。

 

 喉が痛い。

 

 胸が痛い。

 

 足が痛い。

 

 でも、それ以上に心が痛い。

 

「俺は……」

 

 言いたい。

 

 異世界から来た。

 

 何度も同じ時間を繰り返している。

 

 エミリアを助けたくて、屋敷で何が起きたのか知りたくて、ただ怖くて逃げた。

 

 言いたい。

 

 でも、言えない。

 

 心臓が冷たく掴まれる。

 

 スバルの顔が歪む。

 

「俺は……ナツキ・スバルだよ……」

 

 それしか言えなかった。

 

 レムの表情は変わらない。

 

「それだけですか」

 

「それだけしか……言えねえんだよ……!」

 

 スバルは泣きそうな顔で笑った。

 

「頼むよ。信じてくれなんて、無理なのはわかってる。でも、俺は……俺は、お前らを傷つけたいわけじゃないんだ」

 

「魔女の臭いをまとい、正体を隠し、夜の屋敷を監視していた者の言葉を、レムは信じられません」

 

「だよな」

 

 スバルの声が落ちる。

 

「そうだよな……俺だって、俺みたいなのがいたら疑うよ」

 

 涙が滲む。

 

「でも、だからって……」

 

 レムが鎖を引く。

 

 足の骨が軋む。

 

 スバルが声にならない悲鳴を上げた。

 

 痛い。

 

 今度は痛い。

 

 眠ったまま終わった時とは違う。

 

 はっきりと痛い。

 

 はっきりと怖い。

 

 はっきりと、目の前に自分を終わらせる相手がいる。

 

「やめ……」

 

 声が震える。

 

「やめてくれ、レム……」

 

「できません」

 

 短い答え。

 

 絶望的な答え。

 

 その時、空気がわずかに震えた。

 

 風。

 

 見えない刃のようなものが、夜を裂く。

 

 スバルは一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 

 ただ、首元に冷たい感触が走った。

 

 痛みは、ほとんど遅れてきた。

 

 視界が傾く。

 

 レムの顔が遠ざかる。

 

 月が見える。

 

 木々が揺れている。

 

 どこかで、桃色の影が見えた気がした。

 

 ラム。

 

 そう思った。

 

 思っただけで、声にはならなかった。

 

 レムではない。

 

 最後の一撃は、別の誰か。

 

 苦しみを長引かせないためか。

 

 それとも、口を割らせる必要がなくなったからか。

 

 わからない。

 

 わからないまま、スバルの体から力が抜ける。

 

 地面の冷たさ。

 

 血の匂い。

 

 遠くなる音。

 

 レムの声も、ラムの気配も、もう届かない。

 

 スバルは最後に、ユイのことを思った。

 

 ユイさん。

 

 ごめん。

 

 また、何もわからなかった。

 

 そう思った。

 

 もちろん、その言葉も誰にも届かない。

 

 四日目の夜。

 

 屋敷を抜け出したナツキ・スバルは、レムの襲撃を受け、最後はラムの風によって命を落とした。

 

 原因は、疑い。

 

 魔女の臭い。

 

 説明できない秘密。

 

 そして、何も言えない孤独。

 

 闇が落ちる。

 

 世界が途切れる。

 

 次に目を開けた時、そこはまた、柔らかな寝台の上だった。

 

 朝の光。

 

 清潔な布。

 

 聞き覚えのある声。

 

「お目覚めですか、客人様」

 

 青い髪のメイドが、静かに言った。

 

 スバルは、息を吸った。

 

 吸った瞬間、喉が震えた。

 

 叫びになりかけた声を、必死に噛み殺す。

 

 レムがいる。

 

 目の前にいる。

 

 自分を襲った少女が、何も知らない顔で立っている。

 

 スバルの体が、がたがたと震え始めた。

 

「……ぁ」

 

「客人様?」

 

 レムが首を傾げる。

 

 その仕草は丁寧で、静かで、無害に見える。

 

 だが、スバルの記憶には、鎖の音が残っている。

 

 地面を砕く鉄球。

 

 締め上げられる足。

 

 冷たい声。

 

 魔女の臭い。

 

 そして、最後の風。

 

「……っ」

 

 スバルは布団を握りしめた。

 

 言うな。

 

 叫ぶな。

 

 逃げるな。

 

 でも、体は言うことを聞かない。

 

 レムから目を逸らせない。

 

 レムを見ていられない。

 

 相反する衝動が、胸の中でぶつかる。

 

 レムが一歩近づく。

 

 スバルは反射的に後ずさった。

 

 ベッドの上で、壁に背中をぶつける。

 

 レムの足が止まった。

 

 彼女の目が、わずかに細くなる。

 

「……どうかなさいましたか」

 

 スバルは答えられない。

 

 答えれば、壊れる。

 

 言える言葉などない。

 

 君に襲われた。

 

 ラムに終わらされた。

 

 俺はまたここにいる。

 

 そんなことは言えない。

 

 心臓が、冷たい手に掴まれる前に、自分で喉を閉じるしかない。

 

「な、んでも……ない」

 

 ようやく出た声は、ひどく掠れていた。

 

 レムは静かにスバルを見る。

 

「そのようには見えませんが」

 

 同じような言葉。

 

 同じような声。

 

 スバルは笑おうとした。

 

 失敗した。

 

 口元が引きつる。

 

「寝起きが……悪いだけだ」

 

「そうですか」

 

 レムはそれ以上追及しなかった。

 

 だが、視線は残る。

 

 疑念の種は、すでにここにも落ちている。

 

 スバルは布団の中で、自分の足に触れた。

 

 折れていない。

 

 鎖の痕もない。

 

 首も繋がっている。

 

 痛みもない。

 

 でも、記憶だけはある。

 

 痛みの記憶。

 

 恐怖の記憶。

 

 レムに襲われた記憶。

 

 ラムに終わらされた記憶。

 

 そしてまた、自分以外の誰も覚えていない。

 

 扉の外から足音が近づく。

 

 スバルはびくりと肩を震わせた。

 

 レムが振り返る。

 

「エミリア様でしょう」

 

 エミリア。

 

 その名を聞いても、前ほどすぐに救われなかった。

 

 救われたい。

 

 でも、怖い。

 

 優しい顔をされるのが怖い。

 

 何も知らない顔で心配されるのが怖い。

 

 そして、何より。

 

 この屋敷が、怖い。

 

 レムが怖い。

 

 ラムが怖い。

 

 眠ることが怖い。

 

 夜が怖い。

 

 説明できない自分が、怖い。

 

 扉が開く。

 

 エミリアが顔を出す。

 

「スバル、起きたのね」

 

 優しい声。

 

 心配そうな顔。

 

 スバルは、それを見た瞬間、顔を歪めた。

 

 泣きそうになった。

 

 でも、泣けなかった。

 

 ただ、胸の奥で何かが崩れていく。

 

 そしてその少し後、廊下の向こうからユイの足音が聞こえた。

 

 スバルはその音を聞いただけで、息を詰まらせた。

 

 ユイだけは。

 

 ユイだけは、またいるのか。

 

 いてくれるのか。

 

 それを確かめるまで、呼吸の仕方すらわからなかった。

 

 ユイが扉の前に現れる。

 

 脇腹の布。

 

 少し悪い顔色。

 

 穏やかな微笑み。

 

「おはよう、スバルくん」

 

 その声で、スバルの目から涙が落ちた。

 

 静かに。

 

 音もなく。

 

 ユイは何も知らない顔で近づく。

 

「どうしたの?」

 

 優しく問う。

 

 スバルは答えられなかった。

 

 ただ、震える手を伸ばす。

 

 ユイはその手を取った。

 

 温かい。

 

 生きている。

 

 ここにいる。

 

 スバルは、その手を握りしめた。

 

 痛いほどに。

 

 ユイは顔には出さなかった。

 

 頼れるお姉さんの顔で、ただ彼の手を包む。

 

 内側では、静かに微笑んでいた。

 

 おかえり、スバルくん。

 

 今度は見えたね。

 

 敵の顔が。

 

 疑いの刃が。

 

 優しかったはずの屋敷が、あなたを終わらせる場所だって、ちゃんと知ったね。

 

 ここから、もっと曇る。

 

 誰を信じる?

 

 誰を疑う?

 

 レムを憎む?

 

 ラムを恐れる?

 

 エミリアに縋る?

 

 私に泣きつく?

 

 ユイは表では何も知らない。

 

 ただ、心配そうに眉を寄せる。

 

「怖い夢を見たの?」

 

 スバルは、涙をこぼしたまま首を横に振りかけた。

 

 けれど、途中で止めた。

 

 言えない。

 

 だから、頷いた。

 

「……うん」

 

 嘘だった。

 

 でも、そう言うしかなかった。

 

 ユイは優しく手を握り返す。

 

「そう。怖かったのね」

 

 その言葉に、スバルは崩れた。

 

 声を殺しきれず、肩を震わせる。

 

 レムはそれを静かに見ている。

 

 エミリアは心配そうにしている。

 

 ユイは何も知らない顔でそばにいる。

 

 そしてスバルだけが、覚えている。

 

 四日目の夜。

 

 青い髪のメイドが振るった鎖。

 

 桃色の髪のメイドが放った風。

 

 自分の命が、また終わった瞬間を。

 

 世界は何事もなかったように朝を迎える。

 

 けれど、スバルの中ではもう、ロズワール邸は安全な場所ではなくなっていた。

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