朝は来た。
けれど、安心は来なかった。
窓の外が白み、鳥の声が遠くで鳴き始めても、スバルの胸の奥にこびりついた冷たさは消えなかった。
眠らずに朝を迎えた。
それだけだ。
何かを解決したわけではない。
原因がわかったわけでもない。
誰かを信じられるようになったわけでもない。
ただ、目を閉じなかったから、朝まで意識が途切れなかった。
それだけのことだった。
「……朝だ」
掠れた声で呟く。
椅子に座っていたユイが、本を閉じる。
「ええ。朝ね」
「俺、生きてる……よな」
その言葉は、ひどく小さかった。
誰かに確認するというより、自分自身に言い聞かせるような声だった。
ユイは、穏やかに頷いた。
「少なくとも、今はこうして話しているわ」
「そう、だよな」
スバルは乾いた笑いを漏らした。
「今は、か」
ユイはその言葉には答えなかった。
答えれば、踏み込みすぎる。
だから、何も知らない顔で微笑むだけに留める。
「少し横になる?」
「寝たくない」
「でしょうね」
「否定してくれないのかよ」
「無理に寝ろと言っても、あなたは寝ないでしょう?」
「まあ、寝ない」
スバルは目元をこすった。
まぶたが重い。
頭が鈍い。
体の節々が痛い。
けれど、眠ることの方がもっと怖かった。
四日間の記憶。
屋敷で仕事をしたこと。
村へ行ったこと。
小さな獣に噛まれたこと。
そして夜。
眠ったまま、何が起きたのかもわからず途切れた時間。
それらがすべて、今のスバルの中では「眠る」という行為に結びついている。
目を閉じる。
意識が沈む。
次に目覚めた時、何もかも消えている。
それを想像するだけで、呼吸が乱れた。
「ユイさん」
「なあに?」
「俺、今日も寝ない」
「そう」
「止めないのか?」
「止めて、眠れるの?」
「無理」
「なら、止めないわ」
ユイは静かに言った。
「ただ、倒れる前に座って。食べられるものは少し食べて。水は飲んで。そうしないと、眠る前に体が動かなくなるわ」
「現実的だな」
「頼れるお姉さんなので」
「便利な肩書きだよな、それ」
「ええ。気に入っているの」
その軽さに、スバルは少しだけ笑った。
けれど、笑いはすぐに消える。
朝食の席で、スバルの異常は隠しようがなかった。
目の下には濃い影。
手はわずかに震えている。
食器を持つ動作もぎこちない。
パンを千切っても、口へ運ぶまでに時間がかかる。
エミリアが、何度も心配そうにこちらを見ていた。
「スバル、本当に大丈夫?」
「大丈夫……とは言いづらいけど、倒れるほどじゃない」
「それは大丈夫とは言わないと思うわ」
「俺もそう思う」
スバルは力なく笑った。
エミリアは困ったように眉を下げる。
「今日は部屋で休んでいて。無理に動かなくていいから」
「そうする。俺は今日、休むことに全力を尽くす」
「全力で休むの?」
「たぶん、俺に一番足りない才能」
「それなら、ちゃんと練習しないといけないわね」
エミリアは真面目に言った。
その真面目さが、少しだけおかしくて、少しだけ痛かった。
この優しさも、いつ消えるかわからない。
そう思うと、スバルは笑いきれない。
レムは、少し離れた場所で給仕をしていた。
表情は変わらない。
けれど視線は鋭い。
スバルの震える手。
眠っていない顔。
突然ユイに縋った朝の姿。
それらを、ひとつずつ拾っているようだった。
スバルはその視線に気づき、思わず目を逸らす。
逸らしてから、失敗したと思った。
怪しい。
自分でも怪しい。
視線を逸らしたことまで、怪しく見える。
ラムが紅茶を置きながら言った。
「客人、食事をする気がないなら下げるわよ」
「食べる気はある。胃が現場に出てきてくれないだけだ」
「なら胃を呼び戻しなさい」
「説得で戻ってくる臓器なのか?」
「少なくとも、あなたよりは聞き分けがいいでしょう」
「俺、胃以下!?」
反射的に突っ込む。
その瞬間だけ、空気が少し緩んだ。
エミリアが小さく笑い、ラムは涼しい顔で戻っていく。
レムだけは、静かにスバルを見ていた。
その視線が、胸に刺さる。
この屋敷に敵がいるのか。
それとも、いないのか。
わからない。
前は眠ったまま終わった。
誰かに刺された記憶もない。
血の感触もない。
痛みもない。
ただ、体の内側から命を抜かれたような感覚だけ。
だから、誰を疑えばいいのかわからない。
けれど、今のスバルの言動は確実に誰かの疑いを招いている。
それもまた、怖かった。
二日目。
スバルは屋敷の外へ出なかった。
働きたいとも言わなかった。
客人として部屋に残り、時々廊下を歩く程度にした。
エミリアは何度か様子を見に来た。
ユイは長い時間そばにいた。
レムは水や食事を運んできたが、言葉は少なかった。
ラムは最低限の用件だけを伝え、余計な会話を残して去っていった。
「客人。花瓶には触らないように」
「まだ触ってない!」
「触る前に言ったのよ」
「俺、そんなに信用ない?」
「信用は積み上げるものよ。今はないわ」
「正論で刺すな!」
そんな会話もあった。
だが、スバルの中では何も軽くならない。
部屋に戻るたびに、指を見る。
噛まれたはずの傷はない。
けれど、感覚だけは残っている。
あの小さな痛み。
血の滲んだ指先。
子どもたちの笑い声。
レムが「洗っておいた方がよろしいかと」と言った声。
夢ではない。
夢であってくれればよかったのに。
「……あれが原因、なのか?」
ひとりで呟いた。
ユイが近くにいた。
「指が気になるの?」
スバルは肩を跳ねさせた。
「見てた?」
「ええ」
「……夢で、指を怪我した気がして」
「そう」
「大した傷じゃなかった。なのに、妙に覚えてる」
ユイは、すぐには答えなかった。
ここで答えれば、知っていることになる。
彼が噛まれたこと。
その噛み傷が呪いだったこと。
その呪いで、彼が四日目の夜に終わったこと。
ユイは全部知っている。
知っていて、知らない顔をする。
「印象に残る夢だったのね」
「……そういうことに、なるのかな」
スバルは自分の指を握り込んだ。
答えに近づいている。
だが、まだ確信できない。
確信できないから、怖い。
ユイは、その横顔を見て胸の奥で静かに笑った。
そう。
考えて。
疑って。
でも、答えを掴みきれなくて。
その間ずっと、眠ることも、食べることも、誰かを信じることも怖くなる。
三日目。
スバルは、ますます眠れなくなっていた。
短い仮眠を取ろうとしても、意識が沈む瞬間に体が跳ねる。
冷たい眠気を思い出す。
胸の奥から何かを引き抜かれる感覚を思い出す。
目を開ける。
息を荒げる。
天井を確認する。
部屋を確認する。
時間が続いていることを確認する。
その繰り返しだった。
エミリアは心配し続けた。
「スバル、やっぱり医者を呼んだ方がいいわ」
「医者に診せても、たぶん寝ろって言われる」
「寝られないんでしょう?」
「そうなんだよな」
「なら、もっと診てもらうべきよ」
正論だった。
スバルは笑おうとして、うまくいかなかった。
「大丈夫。たぶん、あと少しだから」
「あと少し?」
「……いや」
しまった。
何があと少しなのか。
四日目。
自分が恐れている日。
それを知らないエミリアに言えるはずがない。
スバルは頭を振る。
「ちょっと、変な言い方した。寝不足で頭回ってない」
「本当に大丈夫じゃないわ」
「だよな」
スバルは乾いた笑いを漏らした。
エミリアはもう笑わなかった。
その夜、スバルは部屋を出た。
眠らないために。
じっとしていると、恐怖に飲み込まれそうだったから。
廊下を歩く。
足音を殺すつもりはなかったが、自然と静かになる。
誰かに見つかるのが怖い。
見つからないのも怖い。
その矛盾に、自分で嫌になる。
曲がり角を曲がったところで、レムと目が合った。
青い髪のメイドは、燭台を手に立っていた。
「スバル様」
「……レム」
「この時間に、どちらへ?」
問いは丁寧だった。
だが、声は冷えていた。
スバルは喉を鳴らす。
「眠れなくて、少し歩いてた」
「夜の屋敷を、ですか」
「怪しいよな」
「はい」
「即答かよ」
「はい」
スバルは苦笑した。
レムは笑わない。
その目は、やはり警戒している。
「部屋へ戻られた方がよろしいかと」
「そうする」
スバルはすぐに答えた。
逆らう気力がなかった。
レムの横を通り過ぎる時、かすかに空気が張った。
何かを見られている。
嗅がれている。
測られている。
そんな感覚。
スバルは振り返らなかった。
振り返れば、もっと怖くなる気がした。
ユイはその夜、少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。
もちろん、姿は見せていない。
虚飾で気配を薄くしている。
完全な隠蔽ではない。
けれど、この程度なら十分だった。
レムの警戒は、確実に濃くなっている。
スバルの怯え。
魔女の匂い。
不審な行動。
それらが積み重なっていく。
原作通りの流れが、少し形を変えながらも、同じ方向へ向かっている。
ユイは満足していた。
四日目が来る。
四日目の夜が。
スバルは、自分が前とは違う選択をしたと思っている。
村へ行かない。
眠らない。
屋敷仕事もしない。
それでも、疑いは避けられない。
むしろ、違う選択をしたことで、疑いは濃くなった。
いい。
とてもいい。
逃げた先で、別の刃に追いつかれる。
それが、どれだけ彼を曇らせるか。
四日目。
その朝、スバルの顔色は最悪だった。
目の下には深い隈。
食事はほとんど喉を通らない。
手は震え、時々何かを確認するように自分の胸を押さえる。
エミリアはついに強く言った。
「スバル、今日は絶対に部屋で休んで。お願い」
「……わかった」
逆らわなかった。
逆らう力がなかった。
ラムは淡々と告げた。
「客人。倒れるなら廊下以外にして。邪魔だから」
「心配してるのか邪魔者扱いしてるのか、どっちだよ」
「両方よ」
「そこは片方にしてくれ」
軽口は出る。
だが、弱い。
レムは何も言わなかった。
ただ、スバルを見る目だけが鋭かった。
スバルは、その視線に耐えられず目を逸らした。
昼。
夕方。
時間は進む。
何も起きない。
それが逆に怖かった。
前の記憶では、四日目の夜に眠り、そこで途切れた。
なら、夜が危ない。
眠らなければいい。
部屋にいなければいい。
そう考えた。
けれど、屋敷の中にいても怖い。
部屋にいても怖い。
誰かが来るのを待つのも怖い。
何も来ないまま眠気に負けるのも怖い。
だから、スバルは決めた。
屋敷を出る。
遠くには行かない。
屋敷が見える場所で、夜を明かす。
何かが起きるなら、外から見ていればわかるかもしれない。
自分の部屋で眠るよりは、ましだと思った。
それが正しいかどうかは、わからない。
ただ、部屋で朝を待つことには耐えられなかった。
夜。
スバルは、そっと部屋を抜け出した。
誰にも告げない。
エミリアに言えば止められる。
ユイに言えば心配される。
レムに知られれば疑われる。
ラムに見つかれば引き戻される。
だから、ひとりで出た。
屋敷の裏手へ回り、林を抜け、少し離れた高台へ向かう。
月明かりが足元を照らしていた。
夜の空気は冷たい。
風が草を揺らす。
遠くに、ロズワール邸の灯りが見えた。
スバルは木の陰に身を隠し、屋敷を見下ろす。
「……ここなら」
息を吐く。
「ここなら、何かあってもわかる」
何か。
その正体はわからない。
だが、部屋に閉じこもっているよりは、少しだけ呼吸が楽だった。
スバルは膝を抱えた。
眠気が来る。
頭が重い。
だが、寝るわけにはいかない。
頬を叩く。
腕をつねる。
呼吸を整える。
目を閉じない。
屋敷を見る。
灯りを見る。
時間が過ぎる。
何も起きない。
何も起きないことが、逆に恐怖を膨らませる。
「なあ……何が来るんだよ」
誰にともなく呟いた。
「俺は、何から逃げてんだよ……」
答えはない。
夜だけがある。
そして、背後でかすかな音がした。
枝が軋むような。
草が踏まれるような。
スバルの体が硬直する。
「……誰だ」
声は震えていた。
返事はない。
スバルはゆっくり振り返る。
暗闇。
木々。
月の光。
その中に、青い髪が揺れていた。
レム。
彼女が、そこに立っていた。
昼間と同じメイド服。
けれど、手には重い鎖。
その先に、鉄球のような武器がついている。
スバルは、それを理解するのに少し時間がかかった。
「……レム?」
名前を呼ぶ。
レムの表情は動かない。
青い瞳は冷たい。
「どうして、ここに?」
問いかけたのはスバルの方だった。
本当は逆だ。
レムが問うべき場面だ。
なぜスバルが屋敷を抜け出し、外から見張っているのか。
だが、スバルの頭はそこまで回らない。
レムが一歩進む。
鎖が、じゃらりと鳴った。
「スバル様」
声は静かだった。
「あなたは、何者ですか」
スバルは息を呑む。
「何者って……」
「昨夜からの言動。屋敷を避けるような態度。エミリア様への接近。ユイ様への異常な依存。そして、あなたから漂う臭い」
「臭い……?」
「魔女の臭いです」
その言葉に、スバルの心臓が跳ねた。
魔女。
銀髪の少女に向けて、最初に口にしてしまった禁忌の名。
皆が凍りついた名前。
忌み嫌われる存在。
それと自分が結びつけられている。
「魔女って……なんだよ、それ」
スバルの声は掠れた。
「俺が、何だっていうんだよ」
「その臭いをまとっている理由を、説明できますか」
「知らねえよ……!」
スバルは叫びかけて、声を抑えた。
「俺だって知らねえ。そんなの、自分でわかるわけないだろ」
「では、なぜ夜中に屋敷を抜け出したのです」
「それは――」
言えない。
四日目の夜が怖かったから。
眠ったら何かが起きると思ったから。
前に眠ったまま終わったから。
そのどれも、言えない。
胸の奥に、冷たい気配が触れる。
言うな。
言えば、握る。
そう脅されているようだった。
スバルは喉を押さえた。
「……言えない」
「そうですか」
レムの声が低くなる。
「なら、レムにも選択肢はありません」
「待て、違う。俺は……俺は、魔女なんか知らない。そんなものと関係ない。エミリアに何かするつもりもない。ユイさんにだって、屋敷にだって、何も――」
「それを信じる理由がありません」
レムの声は冷たかった。
スバルは息を詰まらせる。
言葉が足りない。
でも、言える言葉がない。
自分が何者なのか。
なぜここにいるのか。
なぜ知っているはずのないことに怯えているのか。
何ひとつ、説明できない。
説明しようとすれば、心臓を掴まれる。
だから黙るしかない。
その沈黙が、レムには肯定に見える。
鎖が鳴った。
次の瞬間、鉄球が唸る。
風が裂ける。
スバルは反射的に横へ跳んだ。
地面が爆ぜる。
土と草が飛び散る。
「う、わあああっ!」
転がりながら、スバルは悲鳴を上げた。
今のが直撃していれば、骨どころでは済まない。
レムは表情を変えず、鎖を引き戻す。
鉄球が地面を抉りながら戻る。
「待て! 待ってくれ! レム!」
「待てません」
「俺は敵じゃない!」
「敵は皆、そう言います」
「そんなの反則だろ!」
スバルは必死に立ち上がる。
足がもつれる。
寝不足。
疲労。
恐怖。
全部が体を鈍らせる。
レムの動きは、速かった。
メイド服の裾が揺れる。
鎖が月光を弾く。
スバルは逃げた。
走った。
木々の間を抜け、必死に距離を取る。
背後から、鉄球が迫る音。
地面が砕ける音。
木の幹が抉れる音。
呼吸が荒い。
肺が焼ける。
足が痛い。
でも、止まれば終わる。
「なんでだよ……!」
走りながら、スバルは叫んだ。
「俺、何もしてねえだろ! エミリアにも、レムにも、ラムにも、ユイさんにも……誰にも!」
言葉は届かない。
レムは追ってくる。
静かに。
確実に。
殺意を持って。
スバルは足を滑らせた。
斜面に転がる。
肩を打つ。
息が詰まる。
立ち上がろうとした瞬間、鎖が足に絡んだ。
「っ!」
世界が反転する。
引き倒された。
地面に背中を打ちつける。
肺の空気が全部抜けた。
「が、は……!」
視界が白くなる。
足に激痛。
鎖が締め上げている。
レムが近づいてくる。
月明かりの下で、彼女の顔はひどく静かだった。
「最後に聞きます」
レムは言った。
「あなたは、何者ですか」
スバルは、荒い息を吐く。
喉が痛い。
胸が痛い。
足が痛い。
でも、それ以上に心が痛い。
「俺は……」
言いたい。
異世界から来た。
何度も同じ時間を繰り返している。
エミリアを助けたくて、屋敷で何が起きたのか知りたくて、ただ怖くて逃げた。
言いたい。
でも、言えない。
心臓が冷たく掴まれる。
スバルの顔が歪む。
「俺は……ナツキ・スバルだよ……」
それしか言えなかった。
レムの表情は変わらない。
「それだけですか」
「それだけしか……言えねえんだよ……!」
スバルは泣きそうな顔で笑った。
「頼むよ。信じてくれなんて、無理なのはわかってる。でも、俺は……俺は、お前らを傷つけたいわけじゃないんだ」
「魔女の臭いをまとい、正体を隠し、夜の屋敷を監視していた者の言葉を、レムは信じられません」
「だよな」
スバルの声が落ちる。
「そうだよな……俺だって、俺みたいなのがいたら疑うよ」
涙が滲む。
「でも、だからって……」
レムが鎖を引く。
足の骨が軋む。
スバルが声にならない悲鳴を上げた。
痛い。
今度は痛い。
眠ったまま終わった時とは違う。
はっきりと痛い。
はっきりと怖い。
はっきりと、目の前に自分を終わらせる相手がいる。
「やめ……」
声が震える。
「やめてくれ、レム……」
「できません」
短い答え。
絶望的な答え。
その時、空気がわずかに震えた。
風。
見えない刃のようなものが、夜を裂く。
スバルは一瞬、何が起きたのかわからなかった。
ただ、首元に冷たい感触が走った。
痛みは、ほとんど遅れてきた。
視界が傾く。
レムの顔が遠ざかる。
月が見える。
木々が揺れている。
どこかで、桃色の影が見えた気がした。
ラム。
そう思った。
思っただけで、声にはならなかった。
レムではない。
最後の一撃は、別の誰か。
苦しみを長引かせないためか。
それとも、口を割らせる必要がなくなったからか。
わからない。
わからないまま、スバルの体から力が抜ける。
地面の冷たさ。
血の匂い。
遠くなる音。
レムの声も、ラムの気配も、もう届かない。
スバルは最後に、ユイのことを思った。
ユイさん。
ごめん。
また、何もわからなかった。
そう思った。
もちろん、その言葉も誰にも届かない。
四日目の夜。
屋敷を抜け出したナツキ・スバルは、レムの襲撃を受け、最後はラムの風によって命を落とした。
原因は、疑い。
魔女の臭い。
説明できない秘密。
そして、何も言えない孤独。
闇が落ちる。
世界が途切れる。
次に目を開けた時、そこはまた、柔らかな寝台の上だった。
朝の光。
清潔な布。
聞き覚えのある声。
「お目覚めですか、客人様」
青い髪のメイドが、静かに言った。
スバルは、息を吸った。
吸った瞬間、喉が震えた。
叫びになりかけた声を、必死に噛み殺す。
レムがいる。
目の前にいる。
自分を襲った少女が、何も知らない顔で立っている。
スバルの体が、がたがたと震え始めた。
「……ぁ」
「客人様?」
レムが首を傾げる。
その仕草は丁寧で、静かで、無害に見える。
だが、スバルの記憶には、鎖の音が残っている。
地面を砕く鉄球。
締め上げられる足。
冷たい声。
魔女の臭い。
そして、最後の風。
「……っ」
スバルは布団を握りしめた。
言うな。
叫ぶな。
逃げるな。
でも、体は言うことを聞かない。
レムから目を逸らせない。
レムを見ていられない。
相反する衝動が、胸の中でぶつかる。
レムが一歩近づく。
スバルは反射的に後ずさった。
ベッドの上で、壁に背中をぶつける。
レムの足が止まった。
彼女の目が、わずかに細くなる。
「……どうかなさいましたか」
スバルは答えられない。
答えれば、壊れる。
言える言葉などない。
君に襲われた。
ラムに終わらされた。
俺はまたここにいる。
そんなことは言えない。
心臓が、冷たい手に掴まれる前に、自分で喉を閉じるしかない。
「な、んでも……ない」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
レムは静かにスバルを見る。
「そのようには見えませんが」
同じような言葉。
同じような声。
スバルは笑おうとした。
失敗した。
口元が引きつる。
「寝起きが……悪いだけだ」
「そうですか」
レムはそれ以上追及しなかった。
だが、視線は残る。
疑念の種は、すでにここにも落ちている。
スバルは布団の中で、自分の足に触れた。
折れていない。
鎖の痕もない。
首も繋がっている。
痛みもない。
でも、記憶だけはある。
痛みの記憶。
恐怖の記憶。
レムに襲われた記憶。
ラムに終わらされた記憶。
そしてまた、自分以外の誰も覚えていない。
扉の外から足音が近づく。
スバルはびくりと肩を震わせた。
レムが振り返る。
「エミリア様でしょう」
エミリア。
その名を聞いても、前ほどすぐに救われなかった。
救われたい。
でも、怖い。
優しい顔をされるのが怖い。
何も知らない顔で心配されるのが怖い。
そして、何より。
この屋敷が、怖い。
レムが怖い。
ラムが怖い。
眠ることが怖い。
夜が怖い。
説明できない自分が、怖い。
扉が開く。
エミリアが顔を出す。
「スバル、起きたのね」
優しい声。
心配そうな顔。
スバルは、それを見た瞬間、顔を歪めた。
泣きそうになった。
でも、泣けなかった。
ただ、胸の奥で何かが崩れていく。
そしてその少し後、廊下の向こうからユイの足音が聞こえた。
スバルはその音を聞いただけで、息を詰まらせた。
ユイだけは。
ユイだけは、またいるのか。
いてくれるのか。
それを確かめるまで、呼吸の仕方すらわからなかった。
ユイが扉の前に現れる。
脇腹の布。
少し悪い顔色。
穏やかな微笑み。
「おはよう、スバルくん」
その声で、スバルの目から涙が落ちた。
静かに。
音もなく。
ユイは何も知らない顔で近づく。
「どうしたの?」
優しく問う。
スバルは答えられなかった。
ただ、震える手を伸ばす。
ユイはその手を取った。
温かい。
生きている。
ここにいる。
スバルは、その手を握りしめた。
痛いほどに。
ユイは顔には出さなかった。
頼れるお姉さんの顔で、ただ彼の手を包む。
内側では、静かに微笑んでいた。
おかえり、スバルくん。
今度は見えたね。
敵の顔が。
疑いの刃が。
優しかったはずの屋敷が、あなたを終わらせる場所だって、ちゃんと知ったね。
ここから、もっと曇る。
誰を信じる?
誰を疑う?
レムを憎む?
ラムを恐れる?
エミリアに縋る?
私に泣きつく?
ユイは表では何も知らない。
ただ、心配そうに眉を寄せる。
「怖い夢を見たの?」
スバルは、涙をこぼしたまま首を横に振りかけた。
けれど、途中で止めた。
言えない。
だから、頷いた。
「……うん」
嘘だった。
でも、そう言うしかなかった。
ユイは優しく手を握り返す。
「そう。怖かったのね」
その言葉に、スバルは崩れた。
声を殺しきれず、肩を震わせる。
レムはそれを静かに見ている。
エミリアは心配そうにしている。
ユイは何も知らない顔でそばにいる。
そしてスバルだけが、覚えている。
四日目の夜。
青い髪のメイドが振るった鎖。
桃色の髪のメイドが放った風。
自分の命が、また終わった瞬間を。
世界は何事もなかったように朝を迎える。
けれど、スバルの中ではもう、ロズワール邸は安全な場所ではなくなっていた。