石の世界に祝福を   作:stein0630

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第1話 黒い探窟家

 

 鹿は、音もなく逃げた。

 

 森の奥で、何かが立ち上がったからだ。

 

 それは獣ではなかった。人間の形をしている。だが、森に生きる者の姿ではない。

 

 黒と濃紺を基調にした装甲。厚い外套。獣の頭骨とも、深海の潜水具ともつかない異形の仮面。肩から胸にかけて走る金属の輪郭は、三千年以上の風雨に削られたこの世界のどの道具とも違っていた。

 

 その人物は、木の根に片膝をついた。

 

 足元には、人間の腕があった。

 

 いや、腕の形をした石だった。

 

 肘から先だけが土に埋もれ、指は何かを掴もうとしたまま固まっている。爪、関節、皮膚の皺まで残っていた。彫刻にしては生々しい。化石にしては新しすぎる。

 

 仮面の人物――ボンドルドは、手袋越しにその表面を撫でた。

 

「……なるほど」

 

 声は穏やかだった。

 

「人体構造の保存精度が、極めて高い」

 

 彼は腰の小さな器具入れから、細い金属針を取り出した。石化した腕の表面を、ほんのわずかに削る。粉末を黒い小瓶の縁へ落とし、透明な液を一滴だけ垂らした。

 

 泡は、ほとんど生じない。

 

「炭酸塩ではありませんね」

 

 仮面の奥で、彼の視線が周囲へ移る。

 

 森の中には、他にも人の形をした石があった。

 

 走り出そうとした者。

 子供を抱えようと腕を伸ばした者。

 空を仰いだまま倒れている者。

 半身を樹木に呑まれた者。

 

 時間は流れた。森は街道を覆い、道路は裂け、標識は蔦に絡め取られている。

 

 だが、人間だけが、その瞬間に止まっていた。

 

「広域同時発生。姿勢固定。内外を問わない変質。死体の石灰化ではない。化石化でもない」

 

 ボンドルドは、もう一体の石像へ歩み寄った。

 

 胸部に大きな亀裂が入っている。内部も石質化している。外殻だけではない。だが、砕け方には奇妙な粘りがある。完全な鉱物というより、元の人体構造を残したまま、別の状態へ移されたように見えた。

 

 死ではない。

 

 保存。

 

 その言葉が、彼の中で静かに形を取った。

 

「これは……たいへん素晴らしい」

 

 恐怖ではなく、興奮でもなく、祈りに近い穏やかさで、彼はそう言った。

 

 そのとき、遠くで人間の声がした。

 

「クロム、そっちはどうだ!」

 

「待て千空! こっちに変な跡がある!」

 

 ボンドルドは顔を上げた。

 

 言語は日本語。発音は現代に近い。野生化した末裔の偶然ではない。教育、または復元された知識体系がある。

 

 彼は石像から手を離し、音の方へ向かった。

 

   *

 

 沢の水辺で、クロムはしゃがみ込んでいた。

 

「見ろよ、千空。これ、誰かが削ってる」

 

 石化した腕の表面に、細く削られた跡があった。獣の爪ではない。刃物か針のようなもので、意図的に削っている。

 

 石神千空は、その跡に顔を近づけた。

 

 泥、苔、水。そこに、ごく薄い刺激臭が混じっている。

 

「薬品使ってやがるな」

 

「薬品?」

 

「酸の類だ。濃くはねえ。一滴垂らして反応見た、ってとこだろうな」

 

 クロムの目が輝いた。

 

「ってことは、俺ら以外にも科学やってるやつがいるのか!」

 

「可能性はある」

 

 千空は地面を見る。

 

 沢の泥に、足跡が残っていた。

 

 草履でも裸足でもない。硬い底を持つ靴。沈み込みが深い。本人の体重だけでなく、装備が重い。

 

「少なくとも、石像を見てビビって逃げた素人じゃねえ。削って、反応を見た。観察の順番は悪くねえ」

 

「仲間にできるかな」

 

「何を目的に観察してるか次第だな」

 

 千空がそう言った瞬間、背後の茂みが鳴った。

 

 クロムが振り向く。千空は動かない。ただし、右手だけが腰の小袋へ近づいていた。

 

 森から現れたのは、黒い装甲をまとった異形の男だった。

 

 濃紺の外套が風に揺れる。仮面の輪郭は人間離れしており、顔色も表情も読めない。身につけている器具は、この石の世界で作れる精度を超えている。だが、装甲には傷があり、肩の一部は破損していた。

 

「はじめまして」

 

 その声だけは、奇妙なほど礼儀正しかった。

 

「言葉が通じるようで安心しました。私はボンドルドと申します」

 

 クロムが一歩下がる。

 

「なんだ、その格好……!」

 

「驚かせてしまいましたね。こちらの環境では、少々目立つ装備であることは理解しました」

 

 千空は、相手の全身を観察した。

 

 仮面。装甲。外套。腰の小瓶。金属器具。破損した筒状の装置。刃物。黒い手帳。

 

 現代人の装備ではない。

 司帝国の武装でもない。

 石神村の技術でもない。

 

「その石像を削ったのはテメーか」

 

「はい。観察と簡易反応のために、ごく微量を」

 

「持ち主に許可は取ったか?」

 

 ボンドルドは、ほんの一拍だけ黙った。

 

「……なるほど。こちらでは、石化した人間にも現在の人格権を認めているのですね」

 

 クロムの眉が寄る。

 

「じんかく……何だそれ。要するに、人の体を勝手に削ったってことだろ?」

 

「復元可能性を損なう量ではないと判断しました」

 

「復元?」

 

 クロムが反応した。

 

 千空はその反応を見逃さない。ボンドルドもまた、クロムの目の動きを見ていた。

 

「あなた方は、これを戻せるのですね」

 

 クロムが口を閉じる。

 

 千空は笑った。

 

「何でそう思った」

 

「あなたの問いです」

 

 ボンドルドは千空を見る。

 

「ただの石、ただの死体、ただの遺物であれば、許可という言葉は少し不自然です。あなたはこの石化した方を、将来的に意思を持つ存在として扱った。ならば、解除の可能性を知っているか、少なくとも信じている」

 

「よく回る仮面だな」

 

「あなたも、たいへんよく観察なさる」

 

 水音だけが、二人の間を流れた。

 

 クロムは息を呑んだ。会話は静かなのに、互いの喉元に刃を当てているようだった。

 

「ボンドルドさんよ」

 

 千空は軽い声で言った。

 

「テメーはいつ起きた。どっから来た。どうやって石化を免れた」

 

「順にお答えしたいところですが、私自身にも不明な点が多いのです。気がついた時には、この森にいました。周囲に見覚えはありません。私が石化を受けたかどうかも、現時点では判断できません」

 

「記憶喪失か?」

 

 クロムが聞く。

 

「記憶はあります。ただ、この世界への到達過程が欠落している」

 

「便利な欠落だな」

 

 千空が言う。

 

 ボンドルドは怒らない。

 

「疑うのは当然です。私も同じ立場なら、まず虚偽を疑います」

 

「だったら話が早え。持ち物を見せろ」

 

「構いません。ただし、いくつかは危険物です。不用意に触れることはおすすめしません」

 

「危険物って何だよ!」

 

 クロムの好奇心が、恐怖を押しのけかける。

 

 ボンドルドは腰の器具を外し、沢辺の平たい石の上へ並べた。

 

 小瓶が四つ。細い金属針。折り畳まれた紙片。用途不明の筒。刃物。黒い手帳。ひびの入った小型装置。

 

 千空は触れずに見た。

 

「その筒は?」

 

「照射装置でした。現在は破損しています。電源部が死んでおり、使用不能です」

 

「何を照射する」

 

「今この場で安全に実演できるものではありません」

 

「答えをぼかしたな」

 

「危険性を確認できない技術を、初対面の方に詳細説明するのは不誠実でしょう」

 

「不誠実ねえ」

 

 千空は小瓶に視線を移す。

 

「こっちは」

 

「試薬、保存液、鎮静作用のある混合物。こちらは、使用を避けたいものです」

 

「毒か?」

 

「量と対象によります」

 

「それは毒って言うんだよ!」

 

 クロムが叫ぶ。

 

 ボンドルドは穏やかに頷いた。

 

「その分類でも差し支えありません」

 

 千空は小瓶の密封状態を確認した。量は少ない。補給できるようには見えない。

 

「作れるか?」

 

「一部は可能でしょう。ただし、この世界の材料と設備を把握してからです」

 

「テメーの科学は、俺らの知ってる科学と同じか」

 

「重なる部分は多い。異なる部分もあります」

 

「何が違う」

 

「観察対象、環境、歴史、そして倫理です」

 

 千空の目が細くなる。

 

「倫理が科学の違いになるのかよ」

 

「科学をどこまで進められるかは、しばしば倫理によって制限されます。制限が異なれば、到達する知識も異なる」

 

「ろくでもねえ合理性だな」

 

「興味深い評価です」

 

 ボンドルドは、むしろ嬉しそうだった。

 

「あなたは、その意味を科学的には理解している。ですが、受け入れない」

 

「当たり前だ」

 

 千空は、削られた石化粉末の入った小袋を指で弾いた。

 

「この石化を見て、何がわかった」

 

「仮説です。第一に、石化は表面だけでなく内部構造へ及んでいる。第二に、姿勢の固定から、発生は極めて短時間。第三に、周囲の人工物と植生から、発生後かなりの年月が経過している。第四に――」

 

 ボンドルドは、千空を見た。

 

「解除例が存在する」

 

「理由は」

 

「あなた方です」

 

 クロムが固まる。

 

「特にあなたには、石化像と同種の表層痕跡がある。皮膚に残るひび割れのような模様。傷跡とも刺青とも異なる。もしそれが解除後の残存痕だとすれば、あなた自身が元石化個体である可能性が高い」

 

 千空は口の端を上げた。

 

「十億点中、七十点ってとこだな」

 

「満点ではありませんか」

 

「解除例が俺だけとは限らねえ」

 

「それは素晴らしい」

 

 ボンドルドの声に、わずかな熱がこもった。

 

 千空はその熱を聞き取った。

 

 人が助かったことへの喜びではない。

 現象の再現例があることへの喜びだ。

 

「解除条件は化学的処理でしょうか。自然解除ではない。あなた方は、薬液を持っている」

 

「だとしたら?」

 

「学ばせていただきたい」

 

「断るっつったら?」

 

「理由を伺います」

 

 クロムが小声で言った。

 

「なんか、変なやつだな」

 

「変で済みゃいいけどな」

 

 千空はボンドルドから目を離さない。

 

「復活液を知ったら、テメーは何をする」

 

「まず成分を確認します。次に必要材料、生成条件、成功率、副作用、対象の損傷度との相関を調べる。可能であれば、石化による組織修復の機序も観察したい」

 

「観察対象は?」

 

「解除前後の人間です」

 

 クロムの顔から興奮が消えた。

 

「人間を、実験台にするってことかよ」

 

「実験台という表現には、不要な悪意が含まれます」

 

 ボンドルドは静かに言った。

 

「人類を救う可能性のある現象を、正しく理解するための観察です」

 

「本人が嫌がったら?」

 

「同意が得られるなら、それが望ましい」

 

「得られなかったら?」

 

 ボンドルドは、また一拍置いた。

 

「状況によります」

 

 その瞬間、森の上から声が落ちた。

 

「千空。その男から離れろ」

 

 コハクが枝から飛び降りた。

 

 着地と同時に槍を構える。彼女の目は、最初からボンドルドだけを見ていた。

 

「話の半分はわからん。だが、わかることもある」

 

 コハクは槍先を下げない。

 

「その男は、こちらを人として見ているようで、別のものとしても見ている」

 

 ボンドルドは丁寧に向き直った。

 

「鋭い観察です」

 

「褒めても槍は下ろさん」

 

「その方がよいでしょう。警戒は、生存に必要な知性です」

 

 クロムが千空を見る。

 

「どうするんだよ」

 

「連れて帰る」

 

「危険じゃねえのかよ!」

 

「危険だな」

 

 千空は即答した。

 

「だから目の届くところに置く。森で勝手に石像削られるよりマシだ。あと、こいつは使える」

 

 ボンドルドは黙って聞いている。

 

「薬品知識あり。人体と石化への観察眼あり。装備は未知だが、破損あり、補給なし。今すぐ大規模に何かできる状態じゃねえ。ただし、情報を与えすぎると面倒になる」

 

「目の前で言うのか、それを」

 

 クロムが呆れる。

 

「隠しても無駄だ。こいつは気づく」

 

 ボンドルドは頷いた。

 

「合理的です」

 

「気に入らねえ合理性だがな」

 

「私も、あなたの制限の多い合理性には興味があります」

 

「制限じゃねえ。ルールだ」

 

 千空は言った。

 

「人間を材料にしねえ。それだけだ」

 

 ボンドルドは、少しだけ黙った。

 

「それで、全員を救えると?」

 

「救うんだよ」

 

 沢の水音が、二人の間で跳ねた。

 

 ボンドルドは否定しなかった。笑いもしなかった。ただ、その仮面の奥から千空を見る角度が、わずかに変わった。

 

 観察対象ではない。

 障害物でもない。

 同じ科学を信じながら、決して同じ結論には辿り着かない相手を見る目だった。

 

「では、拝見しましょう」

 

「何をだ」

 

「あなた方の科学を」

 

 千空はボンドルドの道具をひとつずつ布に包ませた。小瓶は封を確認し、筒状の装置はクロムに触らせなかった。刃物はコハクが預かる。

 

 最後に、黒い手帳だけが残った。

 

「これは?」

 

「記録です」

 

「見せろ」

 

「いずれ」

 

「今じゃねえのか」

 

「あなた方の復活液と同じです。情報には、開示する順序があります」

 

 千空は、しばらく黙った。

 

 そして笑う。

 

「上等だ。情報の人質ごっこか」

 

「交渉と言っていただけると助かります」

 

「助からせる気はねえよ」

 

 千空は背を向けた。

 

「来い。科学王国に案内してやる」

 

 ボンドルドは、沢辺に残された石化した腕を一度だけ見た。

 

 それから、千空たちの後に続く。

 

 森の中を進む途中、茂みの奥に小さな気配があった。

 

 スイカが隠れている。

 

 ボンドルドは足を止めない。ただ、ほんのわずかに顔を向けた。

 

「こんにちは」

 

 声は優しかった。

 

 スイカは、壺の中で息を止めた。

 

 怖い人だと思った。

 

 でも、怖いだけではない。

 

 優しい声で、怖いことを考えている人だ。

 

 そのことが、スイカには一番怖かった。

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