鹿は、音もなく逃げた。
森の奥で、何かが立ち上がったからだ。
それは獣ではなかった。人間の形をしている。だが、森に生きる者の姿ではない。
黒と濃紺を基調にした装甲。厚い外套。獣の頭骨とも、深海の潜水具ともつかない異形の仮面。肩から胸にかけて走る金属の輪郭は、三千年以上の風雨に削られたこの世界のどの道具とも違っていた。
その人物は、木の根に片膝をついた。
足元には、人間の腕があった。
いや、腕の形をした石だった。
肘から先だけが土に埋もれ、指は何かを掴もうとしたまま固まっている。爪、関節、皮膚の皺まで残っていた。彫刻にしては生々しい。化石にしては新しすぎる。
仮面の人物――ボンドルドは、手袋越しにその表面を撫でた。
「……なるほど」
声は穏やかだった。
「人体構造の保存精度が、極めて高い」
彼は腰の小さな器具入れから、細い金属針を取り出した。石化した腕の表面を、ほんのわずかに削る。粉末を黒い小瓶の縁へ落とし、透明な液を一滴だけ垂らした。
泡は、ほとんど生じない。
「炭酸塩ではありませんね」
仮面の奥で、彼の視線が周囲へ移る。
森の中には、他にも人の形をした石があった。
走り出そうとした者。
子供を抱えようと腕を伸ばした者。
空を仰いだまま倒れている者。
半身を樹木に呑まれた者。
時間は流れた。森は街道を覆い、道路は裂け、標識は蔦に絡め取られている。
だが、人間だけが、その瞬間に止まっていた。
「広域同時発生。姿勢固定。内外を問わない変質。死体の石灰化ではない。化石化でもない」
ボンドルドは、もう一体の石像へ歩み寄った。
胸部に大きな亀裂が入っている。内部も石質化している。外殻だけではない。だが、砕け方には奇妙な粘りがある。完全な鉱物というより、元の人体構造を残したまま、別の状態へ移されたように見えた。
死ではない。
保存。
その言葉が、彼の中で静かに形を取った。
「これは……たいへん素晴らしい」
恐怖ではなく、興奮でもなく、祈りに近い穏やかさで、彼はそう言った。
そのとき、遠くで人間の声がした。
「クロム、そっちはどうだ!」
「待て千空! こっちに変な跡がある!」
ボンドルドは顔を上げた。
言語は日本語。発音は現代に近い。野生化した末裔の偶然ではない。教育、または復元された知識体系がある。
彼は石像から手を離し、音の方へ向かった。
*
沢の水辺で、クロムはしゃがみ込んでいた。
「見ろよ、千空。これ、誰かが削ってる」
石化した腕の表面に、細く削られた跡があった。獣の爪ではない。刃物か針のようなもので、意図的に削っている。
石神千空は、その跡に顔を近づけた。
泥、苔、水。そこに、ごく薄い刺激臭が混じっている。
「薬品使ってやがるな」
「薬品?」
「酸の類だ。濃くはねえ。一滴垂らして反応見た、ってとこだろうな」
クロムの目が輝いた。
「ってことは、俺ら以外にも科学やってるやつがいるのか!」
「可能性はある」
千空は地面を見る。
沢の泥に、足跡が残っていた。
草履でも裸足でもない。硬い底を持つ靴。沈み込みが深い。本人の体重だけでなく、装備が重い。
「少なくとも、石像を見てビビって逃げた素人じゃねえ。削って、反応を見た。観察の順番は悪くねえ」
「仲間にできるかな」
「何を目的に観察してるか次第だな」
千空がそう言った瞬間、背後の茂みが鳴った。
クロムが振り向く。千空は動かない。ただし、右手だけが腰の小袋へ近づいていた。
森から現れたのは、黒い装甲をまとった異形の男だった。
濃紺の外套が風に揺れる。仮面の輪郭は人間離れしており、顔色も表情も読めない。身につけている器具は、この石の世界で作れる精度を超えている。だが、装甲には傷があり、肩の一部は破損していた。
「はじめまして」
その声だけは、奇妙なほど礼儀正しかった。
「言葉が通じるようで安心しました。私はボンドルドと申します」
クロムが一歩下がる。
「なんだ、その格好……!」
「驚かせてしまいましたね。こちらの環境では、少々目立つ装備であることは理解しました」
千空は、相手の全身を観察した。
仮面。装甲。外套。腰の小瓶。金属器具。破損した筒状の装置。刃物。黒い手帳。
現代人の装備ではない。
司帝国の武装でもない。
石神村の技術でもない。
「その石像を削ったのはテメーか」
「はい。観察と簡易反応のために、ごく微量を」
「持ち主に許可は取ったか?」
ボンドルドは、ほんの一拍だけ黙った。
「……なるほど。こちらでは、石化した人間にも現在の人格権を認めているのですね」
クロムの眉が寄る。
「じんかく……何だそれ。要するに、人の体を勝手に削ったってことだろ?」
「復元可能性を損なう量ではないと判断しました」
「復元?」
クロムが反応した。
千空はその反応を見逃さない。ボンドルドもまた、クロムの目の動きを見ていた。
「あなた方は、これを戻せるのですね」
クロムが口を閉じる。
千空は笑った。
「何でそう思った」
「あなたの問いです」
ボンドルドは千空を見る。
「ただの石、ただの死体、ただの遺物であれば、許可という言葉は少し不自然です。あなたはこの石化した方を、将来的に意思を持つ存在として扱った。ならば、解除の可能性を知っているか、少なくとも信じている」
「よく回る仮面だな」
「あなたも、たいへんよく観察なさる」
水音だけが、二人の間を流れた。
クロムは息を呑んだ。会話は静かなのに、互いの喉元に刃を当てているようだった。
「ボンドルドさんよ」
千空は軽い声で言った。
「テメーはいつ起きた。どっから来た。どうやって石化を免れた」
「順にお答えしたいところですが、私自身にも不明な点が多いのです。気がついた時には、この森にいました。周囲に見覚えはありません。私が石化を受けたかどうかも、現時点では判断できません」
「記憶喪失か?」
クロムが聞く。
「記憶はあります。ただ、この世界への到達過程が欠落している」
「便利な欠落だな」
千空が言う。
ボンドルドは怒らない。
「疑うのは当然です。私も同じ立場なら、まず虚偽を疑います」
「だったら話が早え。持ち物を見せろ」
「構いません。ただし、いくつかは危険物です。不用意に触れることはおすすめしません」
「危険物って何だよ!」
クロムの好奇心が、恐怖を押しのけかける。
ボンドルドは腰の器具を外し、沢辺の平たい石の上へ並べた。
小瓶が四つ。細い金属針。折り畳まれた紙片。用途不明の筒。刃物。黒い手帳。ひびの入った小型装置。
千空は触れずに見た。
「その筒は?」
「照射装置でした。現在は破損しています。電源部が死んでおり、使用不能です」
「何を照射する」
「今この場で安全に実演できるものではありません」
「答えをぼかしたな」
「危険性を確認できない技術を、初対面の方に詳細説明するのは不誠実でしょう」
「不誠実ねえ」
千空は小瓶に視線を移す。
「こっちは」
「試薬、保存液、鎮静作用のある混合物。こちらは、使用を避けたいものです」
「毒か?」
「量と対象によります」
「それは毒って言うんだよ!」
クロムが叫ぶ。
ボンドルドは穏やかに頷いた。
「その分類でも差し支えありません」
千空は小瓶の密封状態を確認した。量は少ない。補給できるようには見えない。
「作れるか?」
「一部は可能でしょう。ただし、この世界の材料と設備を把握してからです」
「テメーの科学は、俺らの知ってる科学と同じか」
「重なる部分は多い。異なる部分もあります」
「何が違う」
「観察対象、環境、歴史、そして倫理です」
千空の目が細くなる。
「倫理が科学の違いになるのかよ」
「科学をどこまで進められるかは、しばしば倫理によって制限されます。制限が異なれば、到達する知識も異なる」
「ろくでもねえ合理性だな」
「興味深い評価です」
ボンドルドは、むしろ嬉しそうだった。
「あなたは、その意味を科学的には理解している。ですが、受け入れない」
「当たり前だ」
千空は、削られた石化粉末の入った小袋を指で弾いた。
「この石化を見て、何がわかった」
「仮説です。第一に、石化は表面だけでなく内部構造へ及んでいる。第二に、姿勢の固定から、発生は極めて短時間。第三に、周囲の人工物と植生から、発生後かなりの年月が経過している。第四に――」
ボンドルドは、千空を見た。
「解除例が存在する」
「理由は」
「あなた方です」
クロムが固まる。
「特にあなたには、石化像と同種の表層痕跡がある。皮膚に残るひび割れのような模様。傷跡とも刺青とも異なる。もしそれが解除後の残存痕だとすれば、あなた自身が元石化個体である可能性が高い」
千空は口の端を上げた。
「十億点中、七十点ってとこだな」
「満点ではありませんか」
「解除例が俺だけとは限らねえ」
「それは素晴らしい」
ボンドルドの声に、わずかな熱がこもった。
千空はその熱を聞き取った。
人が助かったことへの喜びではない。
現象の再現例があることへの喜びだ。
「解除条件は化学的処理でしょうか。自然解除ではない。あなた方は、薬液を持っている」
「だとしたら?」
「学ばせていただきたい」
「断るっつったら?」
「理由を伺います」
クロムが小声で言った。
「なんか、変なやつだな」
「変で済みゃいいけどな」
千空はボンドルドから目を離さない。
「復活液を知ったら、テメーは何をする」
「まず成分を確認します。次に必要材料、生成条件、成功率、副作用、対象の損傷度との相関を調べる。可能であれば、石化による組織修復の機序も観察したい」
「観察対象は?」
「解除前後の人間です」
クロムの顔から興奮が消えた。
「人間を、実験台にするってことかよ」
「実験台という表現には、不要な悪意が含まれます」
ボンドルドは静かに言った。
「人類を救う可能性のある現象を、正しく理解するための観察です」
「本人が嫌がったら?」
「同意が得られるなら、それが望ましい」
「得られなかったら?」
ボンドルドは、また一拍置いた。
「状況によります」
その瞬間、森の上から声が落ちた。
「千空。その男から離れろ」
コハクが枝から飛び降りた。
着地と同時に槍を構える。彼女の目は、最初からボンドルドだけを見ていた。
「話の半分はわからん。だが、わかることもある」
コハクは槍先を下げない。
「その男は、こちらを人として見ているようで、別のものとしても見ている」
ボンドルドは丁寧に向き直った。
「鋭い観察です」
「褒めても槍は下ろさん」
「その方がよいでしょう。警戒は、生存に必要な知性です」
クロムが千空を見る。
「どうするんだよ」
「連れて帰る」
「危険じゃねえのかよ!」
「危険だな」
千空は即答した。
「だから目の届くところに置く。森で勝手に石像削られるよりマシだ。あと、こいつは使える」
ボンドルドは黙って聞いている。
「薬品知識あり。人体と石化への観察眼あり。装備は未知だが、破損あり、補給なし。今すぐ大規模に何かできる状態じゃねえ。ただし、情報を与えすぎると面倒になる」
「目の前で言うのか、それを」
クロムが呆れる。
「隠しても無駄だ。こいつは気づく」
ボンドルドは頷いた。
「合理的です」
「気に入らねえ合理性だがな」
「私も、あなたの制限の多い合理性には興味があります」
「制限じゃねえ。ルールだ」
千空は言った。
「人間を材料にしねえ。それだけだ」
ボンドルドは、少しだけ黙った。
「それで、全員を救えると?」
「救うんだよ」
沢の水音が、二人の間で跳ねた。
ボンドルドは否定しなかった。笑いもしなかった。ただ、その仮面の奥から千空を見る角度が、わずかに変わった。
観察対象ではない。
障害物でもない。
同じ科学を信じながら、決して同じ結論には辿り着かない相手を見る目だった。
「では、拝見しましょう」
「何をだ」
「あなた方の科学を」
千空はボンドルドの道具をひとつずつ布に包ませた。小瓶は封を確認し、筒状の装置はクロムに触らせなかった。刃物はコハクが預かる。
最後に、黒い手帳だけが残った。
「これは?」
「記録です」
「見せろ」
「いずれ」
「今じゃねえのか」
「あなた方の復活液と同じです。情報には、開示する順序があります」
千空は、しばらく黙った。
そして笑う。
「上等だ。情報の人質ごっこか」
「交渉と言っていただけると助かります」
「助からせる気はねえよ」
千空は背を向けた。
「来い。科学王国に案内してやる」
ボンドルドは、沢辺に残された石化した腕を一度だけ見た。
それから、千空たちの後に続く。
森の中を進む途中、茂みの奥に小さな気配があった。
スイカが隠れている。
ボンドルドは足を止めない。ただ、ほんのわずかに顔を向けた。
「こんにちは」
声は優しかった。
スイカは、壺の中で息を止めた。
怖い人だと思った。
でも、怖いだけではない。
優しい声で、怖いことを考えている人だ。
そのことが、スイカには一番怖かった。