島の森は、静かすぎた。
千空は、草の陰に身を沈めていた。隣にゲン、少し前にコハク、さらに奥にソユーズ。
海の方角では、ペルセウスが見える。
だが、いつもの活気がない。
帆は揺れている。船体も沈んではいない。けれど、甲板の動きが少なすぎる。
「嫌な感じだね」 「言うな」
千空は短く返した。
その時、森の向こうで女の声がした。
「あなたたち、外から来た人?」
全員が動きを止める。
草陰から現れたのは、島の少女だった。年は千空たちと近い。身のこなしは軽く、こちらを怯えながらも見定めている。
ゲンが即座に笑みを作る。
「いやぁ、迷子って言ったら信じてくれる?」
「信じない」
「ですよねー」
少女は海を見た。
ペルセウスの方を。
「あなたたちの船、見られてる。イバラ様の兵に」
千空の目が鋭くなる。
「イバラ?」
「この島を動かしてる人。頭首様の側にいる大臣」
ソユーズが頭を押さえた。
「……その名前、知ってる……気がする」
少女は、さらに声を落とした。
「早く隠れて。キリサメ様が動いたら、船の人たちは石にされる」
コハクが息を呑む。
「石にする武器か」
「あるのか。やっぱり」
千空は歯を食いしばった。
少女は頷く。
「逃げようとした人たちも、昔、それで石にされた。私はアマリリス。あなたたちがあの船の仲間なら、もう時間がない」
その瞬間、海の上で光が生まれた。
小さな緑の点。
次の瞬間、輪になって広がる。
千空の顔から血の気が引いた。
「伏せろ――」
声は、森の中で消えた。
光は、島ではなく、海上のペルセウスへ向かっていた。
*
その少し前。
ペルセウスの甲板では、龍水が海岸を睨んでいた。
小舟がまた出ている。
前回とは違う。
数が多い。
槍を持つ男たち。指示を飛ばす者。岸の高台に立つ女。手にしているのは、小さな何か。
龍水は叫んだ。
「全員、警戒!」
クロムが通信機へ走る。
「千空に連絡――くそ、繋がらねえ!」
大樹は甲板の中央へ出た。
「俺が前に立つ!」
「馬鹿、石化武器相手に盾は意味ねえ!」
クロムが叫ぶ。
フランソワは食料庫を閉め、律は医療道具を掴む。
隔離室では、ボンドルドが縄で拘束されたまま座っていた。
見張りの一人が扉の外で震えている。
ボンドルドは言った。
「甲板が騒がしいですね」
「黙ってろ」
「石化武器が来ますか」
「黙れって言ってるだろ!」
「ならば、私を甲板に出した方がよい」
見張りは歯を食いしばる。
「誰が出すか!」
「観測が必要です。範囲、速度、遮蔽効果、距離指定の有無。次に生き残るために」
「お前は、また実験したいだけだろ!」
「はい」
即答。
見張りが絶句する。
ボンドルドは静かに続けた。
「そして、生き残るためでもあります」
その時、船上から龍水の声が響いた。
「全員伏せろ!」
緑の光が、船を呑んだ。
*
光は音を立てなかった。
熱もない。
ただ、世界の状態だけが変わった。
叫びかけた船員が石になる。
縄を握った手が石になる。
走り出した足が石になる。
大樹は甲板の中央で、誰かを庇う姿勢のまま固まった。
クロムは通信機へ手を伸ばしたまま。
龍水は舵の横で、歯を見せて笑ったまま。
フランソワは水樽の封を守るように立ったまま。
律は医療鞄を抱えたまま。
ペルセウスは、一瞬で石の船になった。
完全な沈黙。
波の音だけが残った。
島の小舟が近づいてくる。
先頭の老人――イバラは、船を見上げて口元を歪めた。
「ほう。なかなか大きな船じゃないか」
隣の戦士が言う。
「頭首様へ報告を」
「もちろんだよ。だが、その前に中を見る。外から来た連中が何を持っているのか、知らないとね」
島の兵たちが船に乗り込んだ。
石化した乗組員を見て、笑う者もいた。怯える者もいた。
その時、船底の方から、かすかな音がした。
滴。
滴。
石になったはずの船の中で、水音がする。
イバラの目が細くなる。
「何だい?」
兵たちは隔離室へ向かった。
扉は内側から閉じていない。見張りの男も石になっている。扉の前で倒れるように固まり、片手は取っ手にかかっていた。
イバラが顎で合図する。
兵が扉を開ける。
中に、石像があった。
黒と濃紺の装甲をまとった、異形の仮面の男。
縄で縛られたまま石化している。
だが、その首元だけが濡れていた。
装甲の襟の裏から、細い管が伸びている。
管の先から、透明な液が一滴ずつ落ちていた。
石化した喉元へ。
そして、石が割れた。
まず喉。
次に口元。
仮面の下で、声が戻る。
「……観測、完了」
兵たちが悲鳴を上げて後ずさった。
イバラの顔から笑みが消える。
石像が喋った。
体は石のまま。腕も脚も石。だが、首から上と右肩の一部だけが、ゆっくり戻っている。
ボンドルドは、拘束された姿勢のまま、穏やかに言った。
「はじめまして。あなたが、この島の実質的な支配者ですか」
イバラは目を細めた。
「……何者だ、お前」
「ボンドルドと申します」
石化した身体のまま、彼は礼をしたつもりのように、わずかに仮面を傾けた。
「素晴らしい装置をお持ちですね」
*
イバラは、すぐに理解した。
この男は普通ではない。
石化の光を浴びた。
それなのに、自分で解除し始めている。
しかも、慌てていない。
恐れていない。
興奮している。
「その液は何だい?」
イバラが聞く。
「石化解除液です。ただし、ごく微量。全身解除には足りません」
「そんなものを隠していたのか」
「はい」
即答だった。
「仲間にも内緒で?」
「はい」
イバラは笑った。
「いいねえ。お前、裏切り者か」
「評価によります」
「仲間に黙って、石化に備えていた。十分じゃないか」
「私は、観測者です」
ボンドルドは静かに言った。
「石化技術を前にして、完全に無防備でいるのは非科学的です」
イバラは近づいた。
兵たちは怯えている。
だが、イバラだけは違った。
利用価値を見ている。
「お前は、その解除液を作れるのか?」
「私一人では不十分です」
「誰が作れる」
「千空さんです」
イバラの目が動く。
「千空?」
「この船の科学者。今は島にいます」
兵の一人が声を上げる。
「島に侵入者がいる!」
イバラは舌打ちしそうになったが、すぐに笑みに戻した。
「なるほどねえ。で、お前はその千空の仲間か?」
ボンドルドは、少し沈黙した。
「協力者でした」
「でした?」
「今は拘束されています」
イバラは楽しそうに笑った。
「嫌われたのかい」
「石化武器を観測するために、彼らの安全を一部危険に晒しました」
「それはそれは」
イバラの笑みが深くなる。
「いい性格だ」
「ありがとうございます」
「褒めてはいないよ」
「よく言われます」
イバラは、石化したボンドルドの身体を杖で軽く叩いた。
「このまま砕いたら死ぬのか?」
「おそらく」
「解除液をもっとかければ戻るのか?」
「戻る可能性が高い」
「戻してほしいかい?」
「必要なら」
「命乞いはしないのか?」
「交渉の方が有効です」
イバラは笑った。
「何を差し出す?」
ボンドルドは答えた。
「情報を」
「船の?」
「船、復活液、千空さん、科学王国、そしてあなた方の石化装置に関する仮説」
兵たちがざわめく。
イバラは目を細めた。
「代わりに何を望む」
「石化装置を見せてください」
空気が止まった。
イバラの笑みが消える。
ボンドルドは続けた。
「触れさせていただければ、なお良い」
「図々しいねえ」
「もちろん、対価は払います」
「何の対価だ」
「あなたがまだ知らない、この船の価値です」
ボンドルドは、石化した身体のまま、静かに言った。
「この船を壊してはいけません。あなたが本当に支配者でありたいなら、これは武器ではなく、王座になります」
*
その頃、島の森。
千空たちは、アマリリスの案内で岩陰に隠れていた。
海の光は見えた。
ペルセウスが石化されたことも、ほぼ確実だった。
ゲンは顔を青くしている。
「船、終わった?」
「沈んではいない」
千空は言った。
「石化なら復活できる。壊されなきゃな」
コハクが拳を握る。
「だが、敵に押さえられた」
「そうだ」
アマリリスは、震える声で言う。
「イバラは、外から来たものを放っておかない。あの船も、人も、全部奪う」
「なら奪い返す」
千空は即答した。
ソユーズは、まだ頭を抱えている。
「イバラ……頭首……石化……父……」
記憶が、少しずつ戻りかけていた。
アマリリスは千空たちを見た。
「私も、イバラを倒したい。五年前、友達が逃げようとして石にされた。キリサメ様が石化の武器を持ってる。でも、本当に命令してるのはイバラ」
ゲンが息を吐く。
「島内クーデターに外部勢力が絡む感じね。難易度高いなぁ」
「単純だ」
千空は言った。
「石化武器を奪う。白金を取る。船を取り返す」
「単純の意味、辞書と違うんだよね」
コハクが海を見た。
「船には、ボンドルドがいる」
千空の表情が変わった。
「……そうだ」
「奴が敵に渡れば、厄介だ」
「厄介どころじゃねえ」
千空は歯を食いしばった。
「あいつは石化武器を見たがってた。敵に捕まったら、命乞いじゃなく交渉する」
ゲンの顔が引きつる。
「しかも、交渉材料は俺たちの情報?」
「百億パーあり得る」
アマリリスが困惑する。
「仲間じゃないの?」
誰もすぐに答えられなかった。
コハクが低く言う。
「協力者ではある」
ゲンが続ける。
「味方かっていうと、だいぶ怪しい」
千空は言った。
「科学を進めるためなら、敵にもなる男だ」
アマリリスは小さく震えた。
「それ、イバラより危ないんじゃないの?」
千空は海を見た。
「使える分、危ない」
*
ペルセウス船内。
イバラはボンドルドの前に椅子を置かせた。
石化した乗組員たちは甲板に並べられている。島の兵たちは船内を漁り、道具を運び出そうとしている。
ボンドルドは、まだ完全には戻っていない。
首、肩、右手の一部。
それだけで十分だった。
イバラは言った。
「お前の言う船の価値とやらを話せ」
「この船は長距離航海が可能です。油を燃料にし、食料と水を積み、通信機を持つ。あなたの島の外へ出られる」
「外へ?」
「はい」
「外なんて、石の世界だろう」
「石の世界だからこそ、支配できます」
イバラの目が光った。
ボンドルドは続ける。
「あなたが石化装置を持ち、この船を持ち、復活液の製法を得れば、外の石化人類を選んで復活させられる。労働力、知識、兵力、技術者。島の中だけで支配者でいる必要はなくなります」
イバラは黙った。
兵たちも黙った。
それは、悪魔のような提案だった。
そして、支配者にとっては甘すぎる提案だった。
「お前は、仲間を売る気かい」
「私は可能性を提示しています」
「千空とやらが復活液を作れるんだな」
「はい」
「捕まえればいい」
「容易ではありません」
「なぜだ」
「彼は、私より危険です」
イバラは初めて、明らかに驚いた。
「お前より?」
「はい」
ボンドルドは迷いなく言った。
「彼は、人を救うためなら、私のような者すら使います。あなたが彼を軽視すれば、この船も、装置も、島も失うでしょう」
イバラは笑った。
「面白い。お前は千空を売ってるのか、褒めてるのか」
「観察結果です」
「で、お前はどちらにつく」
ボンドルドは、少しだけ黙った。
「石化装置をより深く理解できる側に」
イバラは、ゆっくり笑った。
「正直でいい」
「ただし、条件があります」
「まだあるのかい」
「石化した船員を砕かないこと。特に千空さんの仲間は」
「なぜだ。情でもあるのかい」
「彼らは復活可能な資源です。壊せば価値を失います」
イバラは声を上げて笑った。
「お前、本当に最低だな」
「よく言われます」
その時、船室の外で兵が叫んだ。
「イバラ様! 妙な荷車のようなものがあります!」
ボンドルドの仮面が、わずかに動いた。
モバイルラボ。
科学王国の小さな実験室。
千空たちが島で逆転するために必要なもの。
ボンドルドは言った。
「それは重要です」
「ほう」
「あなたが千空さんを止めたいなら、絶対に渡してはいけない」
完全な裏切りだった。
だが、彼は同時に続けた。
「ただし、壊してもいけません」
「なぜ」
「壊せば、千空さんは別の方法を作ります。残しておけば、彼は取り返しに来る。つまり、誘導できます」
イバラの笑みが深くなる。
「罠に使えと?」
「はい」
ボンドルドの声は穏やかだった。
「彼は必ず来ます」
*
夜。
千空たちは、アマリリスの隠れ家で作戦を立てていた。
島に潜入する。
石化武器を持つキリサメに近づく。
イバラの支配構造を崩す。
白金を探す。
船を取り返す。
課題が多すぎる。
ゲンが頭を抱える。
「いやぁ、詰め込みセットだね。どれか一個でも無理ゲーなのに」
コハクは言う。
「私は潜入できる。戦士としてではなく、島の女として近づく」
アマリリスが頷く。
「後宮に入れれば、イバラにもキリサメ様にも近づける」
ソユーズは震えながらも言った。
「俺も、思い出す。あの島のこと。父のこと」
千空は、砂の上に簡単な地図を描いた。
「まず情報だ。石化武器の発動条件。距離。タイミング。誰が命令するか。キリサメが本当に主導権を持ってるのか。それともイバラか」
ゲンが言う。
「船側の情報も欲しいね」
「ああ」
千空は海の方を見た。
「モバイルラボが無事なら、奪い返す。あれがあれば科学ができる」
アマリリスが首を傾げる。
「でも、船はイバラの兵に見張られてるよ」
「だから取り返すんだよ」
ゲンが苦笑した。
「それを単純に言うから怖いんだよね」
その時、草むらから音がした。
コハクが瞬時に構える。
現れたのは、一匹の小さな鳥だった。
足に、黒い紐が巻かれている。
コハクが捕まえる。
紐には、小さな欠片が結ばれていた。
黒い装甲片。
そして、細い文字。
日本語ではない。
だが、千空は見た瞬間に理解した。
「ボンドルドか」
ゲンが顔を引きつらせる。
「え、敵に捕まってるはずじゃ」
「だから送ってきたんだろ」
千空は欠片を裏返した。
そこには、刃で刻んだような簡単な図があった。
船。
モバイルラボ。
罠の位置。
そして、石化装置を示す小さな円。
ゲンが息を呑む。
「これ……助け舟?」
「違う」
千空は言った。
「こいつは、俺を誘導してる」
「敵に情報を渡して、こっちにも情報を渡すってこと?」
「ああ」
コハクの顔が険しくなる。
「二重の裏切りか」
千空は笑った。
「いや」
彼は黒い欠片を握った。
「ボンドルドは、どっちの味方でもねえ。石化装置の味方だ」
沈黙が落ちる。
アマリリスが震える声で聞いた。
「そんな人、どうやって止めるの?」
千空は、海を睨んだ。
「止めねえ」
「え?」
「利用する」
ゲンが笑った。
「うわぁ、千空ちゃんも相当だね」
「ボンドルドが俺を誘導するなら、俺もあいつを誘導する。あいつは石化装置を見たい。なら、見せてやる」
コハクが言う。
「危険すぎる」
「危険だから使える」
千空は低く笑った。
「ただし、最後に掴むのは俺たちだ」
*
ペルセウス船内。
イバラは、黒い装甲片の一つが消えたことにまだ気づいていなかった。
ボンドルドは拘束されたまま、石化した身体を少しずつ解除されていた。
完全に自由にはしない。
イバラはそこまで馬鹿ではない。
だが、頭と右腕だけ動けば、ボンドルドには十分だった。
「お前の言う通り、モバイルラボとやらは残したよ」
イバラが言う。
「千空は来るかね」
「来ます」
「なぜ断言できる」
「彼は、科学を捨てません」
イバラは笑う。
「では、そこで捕まえる」
「容易ではありません」
「そればかりだな」
「事実です」
ボンドルドは、石化装置の方を見た。
キリサメが持っていたものとは別に、イバラは一時的に装置を手元に置いていた。
小さな装置。
だが、世界を変える力。
ボンドルドの声が、微かに熱を帯びる。
「一度だけで構いません。近くで観察を」
「駄目だ」
「では、発動命令の形式だけでも」
「駄目だ」
「距離と時間の指定をどのように――」
イバラの杖が、ボンドルドの顎を叩いた。
「調子に乗るな。お前は情報を吐く石像だ。私の客ではない」
ボンドルドは黙った。
そして、穏やかに言った。
「それは誤りです」
「何?」
「私は、情報を吐く石像ではありません」
彼の右手が、わずかに動いた。
拘束具の内側。
そこに、石化したまま残していた指先がある。
完全に動かないはずの指が、少しずつ解除されていた。
微量の復活液。
襟ではない。
手首の内側にも、別の管があった。
イバラが気づく前に、ボンドルドは床に落ちていた小さな金属片を弾いた。
それは武器ではない。
ただ、音を立てただけ。
甲高い音。
船室の外にいた兵が振り向く。
一瞬、イバラの視線が外れる。
ボンドルドは、その一瞬で石化装置を見た。
刻まれた模様。
表面の傷。
イバラの指の位置。
命令前に触れる場所。
装置の向き。
それだけで、彼は笑った。
「ありがとうございます」
イバラが振り返る。
「何をした」
「観察を」
イバラの顔が歪む。
「やはり、お前は危険だ」
「はい」
ボンドルドは穏やかに答えた。
「ですから、もっと慎重に扱うべきでした」
次の瞬間、イバラは兵に命じた。
「こいつをさらに縛れ。口も塞げ」
兵が動く。
ボンドルドは抵抗しなかった。
口を塞がれる直前、彼は一言だけ言った。
「千空さんは、来ますよ」
その声は、楽しそうだった。
科学王国を裏切り、イバラを利用し、石化装置を観察し、自分自身すら標本にした男。
その男は、誰の陣営にも属していなかった。
彼が属しているのは、ただ一つ。
未知だった。