モバイルラボは、浜辺の倉庫へ運ばれていた。
島の兵たちは、それを戦車だと思っていた。ある者は、外の世界の棺だと言った。別の者は、頭首様への献上品だと言った。
だが、イバラだけは違った。
あれは箱ではない。
武器でもない。
工房だ。
中にあるものの意味はわからない。瓶、管、金属、粉、紙、車輪、炉。だが、それらが一つの目的のために並んでいることだけはわかる。
そして、ボンドルドはそれを見て言った。
「壊してはいけません」
まだ拘束されたままの姿だった。
両腕は縄で縛られ、脚にも重い枷がある。復活液で解除されたのは、首、右手、胸の一部。残りの身体には石化の痕がまだ残っていた。
それでも、彼は平然としていた。
まるで自分自身を、動く実験器具の一部として扱っているように。
イバラは杖を突きながら言った。
「壊してはいけない、ばかりだな。お前は何でも惜しがる」
「有用なものを破壊するのは、支配者として損です」
「支配者、ねえ」
イバラは笑った。
「お前、私に取り入ろうとしてるのかい?」
「いいえ。あなたが最も予測しやすいから、情報を置いているだけです」
兵がざわつく。
イバラの顔から笑みが一瞬消えた。
「予測しやすい?」
「はい。あなたは権力を欲し、秘密を恐れ、有用なものを壊したがらない。交渉しやすい」
イバラは杖を振った。
鈍い音がして、ボンドルドの仮面の側面に当たる。
ボンドルドは揺れただけだった。
「口の利き方を考えな」
「失礼しました」
声は穏やかだった。
謝罪ではなく、単なる調整のように聞こえた。
「では、言い換えましょう。あなたは賢い支配者です。だからこそ、このラボを餌にすれば、千空さんは必ず来る」
イバラは、また笑った。
「それでいい」
彼は兵へ命じた。
「倉庫の周りに兵を置け。中身は触るな。ただし、あの科学者が来たら捕らえる」
「殺さないのですか」
ボンドルドが聞いた。
イバラは振り返る。
「殺した方がいいかい?」
「殺せば復活液の製法が失われる可能性があります。捕らえるべきです。ただし、逃走能力が高い。四肢の拘束だけでは不十分でしょう」
「ほう。どうする」
「仲間を使います」
イバラの目が細くなる。
ボンドルドは、甲板に並べられた石像たちを見た。
大樹。
龍水。
クロム。
フランソワ。
律。
その他の船員たち。
「千空さんは仲間を捨てません。石化した仲間を人質として配置すれば、彼の動きは大きく制限できます」
兵の一人が顔を引きつらせた。
イバラは、ゆっくりと笑った。
「お前、本当に仲間だったのかい?」
「協力関係でした」
「今は?」
ボンドルドは少し黙った。
「観察関係です」
イバラは声を上げて笑った。
*
森の中で、千空は黒い装甲片を見ていた。
刻まれた図。
船。
モバイルラボ。
倉庫。
罠。
石化装置。
そして、もう一つ。
石像を示す小さな印。
ゲンが苦い顔をする。
「これ、仲間を人質にするって意味だよね」
「だろうな」
千空は短く答えた。
コハクの声は冷たい。
「ボンドルドが教えたのか」
「百億パーな」
「なら、完全な裏切りだ」
「そうだ」
千空は否定しなかった。
アマリリスが震えながら聞く。
「その人、本当にあなたたちの仲間なの?」
「違う」
千空は即答した。
「だが、敵でもねえ」
ゲンが顔をしかめる。
「いやぁ、今の状況だと敵寄りだよ?」
「敵ならもっと単純だ」
千空は装甲片を指で弾いた。
「こいつは、俺らに情報を渡してる。同時にイバラにも情報を渡してる。両方を動かして、石化装置の観測機会を増やしてる」
コハクが低く言う。
「つまり、私たちもイバラも実験材料か」
「そういうこった」
アマリリスの顔が青くなる。
「イバラよりひどいんじゃ……」
「ひどい方向が違う」
ゲンが言った。
「イバラは支配したい。ボンドルドちゃんは知りたい。支配者より、研究者の方が止まらない時がある」
千空は立ち上がった。
「だから先に取る」
「何を?」
「モバイルラボじゃねえ」
千空は、倉庫の位置を示した。
「ボンドルドの主導権だ」
*
倉庫前。
イバラは石像を並べさせた。
乱暴には扱わない。
ボンドルドがそう進言したからだ。
「砕けば価値を失います。脅しは、壊す直前が最も有効です」
その一言で、石像たちは丁寧に運ばれた。
大樹は倉庫入口の正面。
龍水は脇。
クロムはモバイルラボの横。
フランソワは食料箱の前。
それを見た島の兵たちは、気味悪がった。
人を石にして並べることには慣れている。
だが、この配置には別の意図がある。
まるで、まだ生きている人間を盾として置いているようだった。
実際、そうだった。
イバラは満足げに言った。
「これなら、千空とやらも手を出しづらいねえ」
「はい」
ボンドルドは静かに頷く。
その姿を見て、島の戦士モズが口笛を吹いた。
「ひっでえこと考えるな、お前」
初めて近くで見るモズは、笑っていた。
軽薄そうで、目がまるで笑っていない。動きに無駄がない。コハクと同じ側の人間だ。戦いの才能を、自分の皮膚のように身につけている。
ボンドルドはモズを見た。
「あなたは強いですね」
「見りゃわかる?」
「はい。ですが、鍛えた強さというより、才能に大きく依存している」
モズの眉が動く。
「へえ。初対面でずいぶん言うじゃん」
「だからこそ、あなたは自分より弱い者を正確には測れますが、自分と同等以上の未知には一度遅れる可能性がある」
モズの笑みが深くなった。
「面白いね。俺に喧嘩売ってる?」
「いいえ。あなたに必要な情報を渡しています」
「何のために」
「千空さんの仲間に、あなたを驚かせる者がいる」
「コハクって女?」
「はい」
モズは笑った。
「見てみたいねえ」
「見ることになるでしょう」
イバラが割って入る。
「余計なことを吹き込むんじゃないよ」
「戦力評価です」
「私に黙って、勝手に戦力を動かすな」
ボンドルドは頭を下げた。
「承知しました」
モズは、そのやり取りを見て笑った。
「お前、イバラの味方でもないだろ」
「はい」
「やっぱり」
ボンドルドはモズを見た。
「あなたも、イバラさんの味方ではありませんね」
空気が止まった。
イバラの目が、ゆっくりモズへ向く。
モズは笑ったままだった。
「どうかな」
ボンドルドは続けない。
ただ、種を置いた。
疑い。
それだけで十分だった。
*
千空たちは、夜を待たなかった。
昼の方が兵の視界は広い。
だが、昼の方が人の油断も見える。
アマリリスは島の女たちの列に紛れ、倉庫へ近づいた。
ゲンは島民の服を着て、荷運びのふりをする。
コハクは木の上から配置を見た。
千空は、泥と草で顔を隠し、倉庫の裏へ回った。
問題は石像だ。
大樹たちが入口に並んでいる。
もし強行すれば、イバラは壊す。
あるいは、石化装置を使う。
ゲンが小声で言う。
「きっついね。ボンドルドちゃん、嫌な配置考えるなぁ」
「そうだな」
千空は言った。
「だが、あいつは一つだけミスった」
「何?」
「大樹を正面に置いた」
「盾としては最高じゃない?」
「だからだ」
千空は笑った。
「あいつは大樹を“俺の弱点”として配置した。だが、大樹は弱点じゃねえ。目印だ」
ゲンの目が動く。
大樹は誰より目立つ。
入口正面。
つまり、敵が最も重要だと考えた場所。
そこに、罠の中心がある。
千空は倉庫の裏壁を叩いた。
「モバイルラボは入口から見える位置に置いてある。だが、本当に守りたいなら奥に置く。入口に置いたのは、俺に見せるためだ」
「誘導されてるね」
「ああ」
「行くの?」
「行く。ただし、正面じゃねえ」
千空は、地面の湿りを見た。
倉庫裏には、水路が通っている。
荷物の冷却用か、排水か。
小さい。
人は通れない。
だが、道具は通せる。
「ゲン、アマリリスに伝えろ。騒ぎを起こすな。笑わせろ」
「笑わせる?」
「兵の視線を上げる。足元を見せねえ」
「了解。無茶ぶり慣れてきたよ」
*
倉庫の前で、アマリリスが転んだ。
わざとらしくない。
むしろ、完璧に自然だった。
荷物が落ち、果物が転がる。
兵たちの視線が一斉にそちらへ向く。
「ご、ごめんなさい!」
アマリリスは泣きそうな顔で謝った。
兵の一人が鼻の下を伸ばす。
ゲンが横から加わる。
「いやぁ、大変だねえ。こんな可愛い子に重い荷物持たせるなんて、イバラ様も人使いが荒いなあ」
「何だお前」
「ただの荷運びだよー」
軽口。
笑い。
怒り。
視線が上がる。
その足元。
水路の中を、小さな竹筒が滑っていた。
千空が作った即席の導線。
中には、短い紐と、小さな火種ではない。
煙玉。
ただし、ただの煙ではない。
刺激は弱い。だが、色が濃い。
倉庫内の床下へ届く。
千空は息を止め、紐を引いた。
黒い煙が、倉庫の隙間から上がる。
「火だ!」
兵が叫ぶ。
イバラが顔をしかめる。
「何をしてる!」
兵たちが慌てる。
モバイルラボを守る者が、反射的に中へ入る。
大樹たちの石像を壊す余裕が消える。
その瞬間、コハクが動いた。
木の上から飛び、屋根へ着地。
屋根板を一枚外す。
中へ落ちる。
兵の首筋へ手刀。
一人、二人。
音もなく倒す。
ゲンが叫ぶ。
「火じゃない! 煙だけだ! でも水持ってきて!」
混乱が広がる。
千空は倉庫裏から入り込んだ。
モバイルラボ。
無事。
中身も大部分残っている。
「よし」
千空が笑う。
その時、背後で拍手が鳴った。
ゆっくり。
乾いた音。
ボンドルドだった。
拘束されたまま、兵に支えられて倉庫の奥へ連れてこられていた。
イバラもいる。
罠の内側に、さらに罠があった。
「素晴らしい」
ボンドルドは言った。
「水路からの煙。兵の視線誘導。大樹さんを目印に罠の中心を読む。実にあなたらしい」
千空は振り向く。
「テメー」
イバラが笑った。
「来たねえ、千空」
コハクが構える。
だが、倉庫の外から声が上がる。
石像の前に兵が戻っている。
大樹の首に、石斧が当てられていた。
石像でも、首を砕かれれば終わる。
ゲンの顔が青ざめる。
「まずいね」
イバラは杖を突いた。
「動くな。動けば、まず一体砕く」
千空は動かない。
ボンドルドは静かに見ていた。
千空は、彼を睨む。
「ここまで読んでたのか」
「はい」
「俺が水路を使うことも?」
「可能性の一つとして」
「イバラに教えたのか」
「一部だけ」
「どこまでだ」
「あなたが必ず来ること。正面では来ないこと。モバイルラボを最優先で確認すること」
「十分だな」
「はい」
コハクの声が低くなる。
「裏切り者」
ボンドルドは、その言葉を受け止めた。
「そう呼ばれることは、理解しています」
「なぜだ」
コハクの目には怒りがあった。
「なぜ、ここまでして石化装置を見る」
「この力は、人類の終わりであり、保存であり、治療であり、統治であり、進化の可能性です」
「人を石にする力だ!」
「はい」
ボンドルドは静かに答える。
「だからこそ、理解しなければならない」
イバラが笑う。
「いいねえ。お前たちの仲間割れは実に楽しい」
その瞬間、千空は言った。
「ボンドルド」
「はい」
「テメー、まだイバラ側にいるつもりか」
ボンドルドは沈黙した。
イバラの目が細くなる。
「おい」
千空は続ける。
「イバラは石化装置を見せねえ。触らせねえ。原理を理解する気もねえ。ただ使って支配するだけだ」
イバラが杖を握る。
「黙れ」
「俺なら見せる」
倉庫の空気が止まった。
ゲンが息を呑む。
コハクが千空を見る。
千空は笑っていた。
「石化装置を奪ったら、分解はしねえ。壊しもしねえ。だが、観察はさせてやる。俺の監視下でな」
ボンドルドの声が、わずかに変わった。
「本気ですか」
「本気だ」
「危険です」
「テメーが言うな」
「私は、触れればもっと知りたくなります」
「知ってる」
「制御できないかもしれません」
「制御する」
ボンドルドは、初めて答えに詰まった。
イバラは叫んだ。
「何を勝手に交渉している!」
千空はイバラを見た。
「簡単な話だ。テメーはボンドルドを使って俺を釣ったつもりだろ」
千空の目が鋭くなる。
「俺は、石化装置を餌にボンドルドを釣る」
その瞬間、ボンドルドの右手が動いた。
拘束されているはずの手。
石化が残っているはずの指。
だが、彼はすでに復活液で関節だけを戻していた。
兵の腰から短い刃を抜く。
速かった。
隣にいた兵が反応するより早く、ボンドルドはその刃を兵の首元へ滑らせた。
血はほとんど飛ばない。
だが、兵は膝から崩れた。
倉庫が凍りついた。
大樹が石像でなければ叫んでいただろう。
コハクが目を見開く。
千空の顔も変わった。
ボンドルドは、倒れた兵を支えながら言った。
「急所は外しました。数分以内に圧迫すれば生存します」
律はいない。
フランソワも石。
千空が歯を食いしばる。
「テメー……!」
「選んでください」
ボンドルドは言った。
「彼を助けるなら、今です。イバラさんを追うなら、彼は失血で死にます」
イバラが硬直した。
コハクが怒りで震える。
「貴様、わざと……!」
「はい」
ボンドルドは即答した。
「千空さんの倫理を試すため。そして、イバラさんの指揮を乱すためです」
兵たちが混乱した。
仲間が倒れた。
敵が治療を求めている。
イバラの命令を待つべきか、助けるべきか。
その数秒。
千空は叫んだ。
「ゲン、圧迫! コハク、イバラを逃がすな!」
「了解!」
ゲンが倒れた兵へ飛びつく。
コハクがイバラへ突っ込む。
イバラは舌打ちして後退した。
だが、ボンドルドはすでに別の方向を見ていた。
石化装置。
イバラの手元ではない。
倉庫の奥、護衛が持っている。
キリサメへ渡す前の一瞬。
ボンドルドは倒れた兵の体を盾にするように滑らせ、兵の動線を塞いだ。
むごいほど合理的だった。
生きている人間を、死なない角度で障害物にする。
殺さない。
だが、人間扱いでもない。
コハクが叫ぶ。
「ボンドルド!」
「殺してはいません」
「そういう問題ではない!」
千空は、倒れた兵の傷を押さえながら怒鳴った。
「ゲン、止血続けろ! クロムたちが石になってなきゃ百億倍楽だったんだがな!」
ゲンは青い顔で言う。
「いや、ほんとにね!」
イバラは倉庫の裏口へ逃げた。
石化装置も、護衛ごと退いた。
完全な奪取は失敗。
だが、モバイルラボは確保できた。
そして、島兵の一人は、千空の手で助けられた。
*
数分後。
島兵は生きていた。
千空の応急処置とゲンの圧迫で、命はつながった。
アマリリスが震えていた。
「なんなの……あの人……」
コハクは、ボンドルドの胸元に槍を突きつけていた。
「動けば刺す」
「はい」
ボンドルドは素直に答えた。
彼の拘束は切れている。
だが、逃げない。
千空は血のついた手で、ゆっくり立ち上がった。
「ボンドルド」
「はい」
「今のは完全にライン越えだ」
「承知しています」
「敵兵を傷つけて、俺に治療を選ばせた」
「はい」
「イバラの兵を混乱させるために、人を道具にした」
「はい」
「そして、石化装置を見た」
「一部ですが」
コハクの槍先が皮膚に触れる。
ボンドルドは動かない。
千空は言った。
「成果は」
「装置は手投げ運用。発動前に距離と時間を指定している可能性が高い。使用者はキリサメさんですが、イバラさんが命令系統を握っている。兵たちは装置の原理を知らない。恐怖と信仰で統制されています」
「他には」
「モズさんはイバラさんに忠誠を持っていません。キリサメさんも、装置の使用制限に倫理的抵抗がある。ここを割れます」
千空は黙った。
情報は、正しい。
使える。
腹が立つほどに。
ゲンが、疲れた顔で言った。
「千空ちゃん。どうする?」
千空は、ゆっくり息を吐いた。
「拘束する」
コハクが即座に縄を取る。
ボンドルドは抵抗しない。
「ただし」
千空は続けた。
「こいつの情報は使う」
アマリリスが信じられない顔をした。
「使うの? こんなことした人を?」
「使わなきゃ負ける」
千空は言った。
「だが、主導権は渡さねえ」
ボンドルドは、縛られながら静かに言った。
「千空さん」
「何だ」
「あなたは、敵兵を助けました」
「当たり前だ」
「そのために、イバラさんを逃がした」
「そうだな」
「それでも、あなたは勝つつもりですか」
千空は笑った。
「勝つんだよ」
「その条件で?」
「ああ」
ボンドルドは、しばらく黙った。
そして、心底興味深そうに言った。
「やはり、あなたは私より危険です」
「テメーに言われたかねえよ」
「いいえ。本当に」
ボンドルドは、石化装置が消えた方角を見た。
「私は、人間を切り捨てれば進める道を知っています。あなたは、切り捨てずに同じ場所へ来ようとしている」
彼の声には、敬意があった。
そして、恐怖に近い喜びがあった。
「それが成功するなら、人類は私の想定よりも、ずっと厄介で、ずっと遠くへ進める」
千空は、血のついた手を拭った。
「見とけ」
コハクがボンドルドの縄を強く締める。
アマリリスは、倒れた島兵を見つめていた。
敵なのに助けられた男。
助けるために傷つけられた男。
その中心で、ボンドルドは静かに笑っているようだった。
この男は殺すことも、助けることも、同じ実験台に載せる。
そして千空は、そんな男の情報を使ってでも、人を救う道を選ぶ。
島の戦いは、もう単なる石化装置の奪い合いではなくなっていた。
科学をどこまで人間のために留めておけるか。
その境界線そのものが、ボンドルドによって切り裂かれ始めていた。