ボンドルドは、石のまま眠っていなかった。
少なくとも、彼の内側では。
石化とは、死ではない。
それは、この世界で最初に彼が立てた仮説だった。
生命活動の停止。構造情報の保存。損傷修復の可能性。時間の凍結。
ならば、意識だけが遮断された待機状態か。
彼はそれを知りたかった。
だから、光が自分を呑んだ瞬間、逃げなかった。
胸部、頸部、視覚、聴覚、指先。
石化の波がどの順序で奪っていくか、最後まで観測した。
装甲の内側、肋骨の位置に近い隙間。
そこに、微量の復活液を保持する細い管がある。
それは仲間にも、イバラにも、千空にも完全には明かしていない装備だった。
全身を戻す量はない。
だが、局所的に戻すには足りる。
まず、喉。
次に、右手の腱。
最後に、仮面の内側の片目。
石の表面に、細い亀裂が走った。
ボンドルドは、再び世界を見た。
広場は混乱している。
イバラは腕の一部を石化されながら逃げた。キリサメは、自分が何を命じられていたのか理解し始めている。モズは笑っているが、もうイバラの側にはいない。
千空は遠くで、砂に残る数字を記録している。
その顔を見て、ボンドルドは思った。
やはり、彼は止まらない。
倫理は、彼の足枷ではない。
燃料だ。
「……興味深い」
仮面の内側で、声が戻る。
だが、その声を聞いた者はいなかった。
*
イバラは、走っていた。
腕の一部が石になっている。重い。痛みはない。だが、動きが鈍る。
怒りよりも恐怖が勝っていた。
千空。
コハク。
モズ。
キリサメ。
ボンドルド。
すべてが、彼の支配から外れ始めている。
「オオアラシ!」
イバラは叫んだ。
巨体の男が現れる。
頭首の命令に従う兵。疑問を持たない。走れる。耐えられる。命令された通りに動く。
イバラは石化装置を握り、オオアラシの前へ突き出した。
「これを飲め」
オオアラシは目を見開く。
「飲む……?」
「島の中央まで走れ。そこで命令を発する。島ごと石化する」
周囲の兵が青ざめた。
イバラは怒鳴る。
「頭首様の御意志だ!」
その言葉で、オオアラシの迷いは消えた。
彼は石化装置を飲み込んだ。
喉が大きく動く。
イバラは耳元で囁いた。
距離。
時間。
島全体を呑む数字。
オオアラシは走り出した。
大地が揺れる。
木々が鳴る。
島の中心へ。
ゲンが遠くからそれを見て、顔を引きつらせた。
「来たね。最悪のやつ」
千空は歯を食いしばる。
「全員石化コースだ」
コハクが走ろうとする。
「止める!」
「追いつけねえ!」
龍水が叫ぶ。
「ならば、先回りだ!」
しかし、森の地形は複雑だ。オオアラシは島の兵として道を知っている。千空たちは知らない。
その時、背後から声がした。
「彼を止める必要はありません」
全員が振り向いた。
石化していたはずのボンドルドが、立っていた。
正確には、立っているとは言い難い。
脚の一部にはまだ石化が残り、右腕も完全ではない。仮面の欠けた部分から、血の滲んだ肌が少し見える。
それでも、彼は歩いていた。
コハクが槍を構える。
「動くな」
「動けば刺す、ですね。理解しています」
「なぜ戻った」
千空が低く言う。
「備えていました」
「また隠し装備か」
「はい」
千空の目が冷える。
「あとで全部吐かせる」
「もちろんです。今はオオアラシさんです」
ゲンが顔をしかめる。
「止めなくていいって、どういう意味?」
「島全体を石化するなら、発動はむしろ利用できます」
アマリリスが叫ぶ。
「利用!? みんな石にされるんだよ!」
「はい」
ボンドルドは静かに答えた。
「石化は即死ではありません。復活液を持つ者が一人でも範囲外に残れば、全員を戻せる可能性があります」
千空が言う。
「だが、問題は誰が範囲外に残るかだ」
「はい」
ボンドルドの仮面が千空へ向く。
「あなたです」
コハクが即座に言う。
「千空を危険に晒すな」
「彼以外では、この後の復活手順を完遂できません」
千空は舌打ちする。
「そこは同意だ。だが、どうやって範囲外に出る」
「方法は二つ。海へ逃げるか、高度を取るか」
「気球はない」
「では、海です」
龍水が笑う。
「船か!」
「船は遠い。小舟でも厳しい」
千空が言う。
「時間が足りねえ」
「ならば、時間を作ります」
ボンドルドは、自分の左腕の装甲を外した。
その下に、黒い筒状の器具があった。
見慣れない。
だが、千空には直感でわかった。
今までの小道具とは違う。
本当に危険なものだ。
「それは何だ」
ボンドルドは答えた。
「スパラグモス」
空気が変わった。
「残存出力は一度。正確には、一度未満です。完全な使用には耐えないでしょう」
「何ができる」
「狙ったものを、切断できます」
コハクが低く言う。
「武器か」
「はい」
「なぜ今まで使わなかった」
「補給できないからです。使用すれば、熱で装甲も損傷する。さらに、千空さんたちに私の危険度を過剰に示す」
ゲンが乾いた笑いを漏らす。
「今さら過剰も何もないよ」
ボンドルドは続けた。
「これでオオアラシさんを殺せば、装置は彼の体内で止まる可能性があります」
アマリリスの顔が青ざめる。
「殺す……?」
「ですが、それでは観測できません」
「お前」
コハクの声が震えた。
「今、殺すことより観測を優先したのか」
「はい」
千空が言った。
「別案は」
「彼の進路を切る」
ボンドルドは森の地形を指した。
「島中央へ向かうには、あの岩場の細い道を通る。そこを崩せば、オオアラシさんは迂回する。発動時刻がずれる。千空さんが海へ出る時間ができる」
「人は殺さない」
「はい」
「だが、岩場にいる兵は?」
ボンドルドは少し黙った。
「巻き込まれます」
「何人」
「二、あるいは三」
「助ける方法は」
「警告すれば、オオアラシさんにも気づかれます」
沈黙。
千空は、ボンドルドを睨んだ。
「テメーは撃つ気だな」
「はい」
「兵を巻き込んでも」
「はい」
アマリリスが叫ぶ。
「そんなのだめ!」
ボンドルドは彼女を見た。
「あなたの島の人々全員を石化させずに済ませる可能性と、岩場の兵数名。比較するなら――」
「比較しないで!」
コハクが怒鳴った。
ボンドルドは黙った。
千空は数秒だけ考えた。
その数秒は、長かった。
科学王国の全員が見ていた。
千空がどちらを選ぶのか。
ボンドルドの道か。
自分の道か。
千空は言った。
「撃つな」
「では、代替案を」
「警告する」
「オオアラシさんに気づかれます」
「気づかせる」
千空は笑った。
「進路を崩すんじゃねえ。進路を変えさせる。敵兵を逃がしつつ、オオアラシを別ルートに誘導する」
「可能性は低い」
「ゼロじゃねえ」
ボンドルドは、静かに千空を見た。
「その低い可能性のために、島全体を危険に晒すのですか」
「違う」
千空は言った。
「島全体を救うために、誰も捨てねえルートを探す」
「間に合わなければ?」
「間に合わせる」
その言葉に、ボンドルドはほんのわずかに黙った。
そして、言った。
「では、私が警告しましょう」
「何?」
「私の声なら、兵もオオアラシさんも混乱します。異物の警告です。反応が遅れる。その隙に、千空さんは海へ」
「テメーは?」
「残ります」
「石化範囲内だぞ」
「観測します」
千空は歯を食いしばった。
「またそれか」
「はい」
ボンドルドは、スパラグモスの筒を構えた。
「ただし、岩場は撃ちません。あなたの条件に従います」
「何を撃つ」
「空です」
*
オオアラシは走っていた。
口の中に異物がある。
喉の奥に重い感触。
だが、命令は絶対だ。
中央へ。
走れ。
頭首様のために。
その時、空が裂けた。
音はほとんどなかった。
ただ、夜の森の上に、一筋の光が走った。
白ではない。
炎でもない。
何かが、世界の面を薄く切り開くような光。
スパラグモス。
それは空中の大枝を一瞬で断ち、岩肌をかすめ、火花も粉塵もほとんど残さず消した。
兵たちが悲鳴を上げる。
オオアラシも足を止めた。
ボンドルドの声が、森に響く。
「その道は崩れます。離れなさい」
兵たちは逃げた。
オオアラシは混乱した。
イバラの命令。
頭首様の命令。
だが、目の前の道が危険だと異形が告げている。
彼は本能的に、別の道へ曲がった。
千空が叫ぶ。
「今だ!」
龍水が用意した小舟が、海へ押し出される。
千空、復活液、簡易通信具。
ゲンが叫ぶ。
「絶対戻ってきてよ!」
「百億パーな!」
小舟が水を切る。
島の中心から離れる。
石化範囲の外へ。
時間は、まだ足りない。
ボンドルドはスパラグモスの装甲部を見た。
熱で歪んでいる。
もう撃てない。
左腕の装甲が焦げ、内部の皮膚も焼けていた。
痛みはある。
だが、彼は表情を変えない。
コハクが横に立った。
「なぜ兵を殺さなかった」
「契約です」
「それだけか」
「いいえ」
ボンドルドは、遠ざかる千空の小舟を見た。
「彼の条件でどこまで進めるのか、見たくなりました」
コハクは苦々しく言った。
「結局、観察か」
「はい」
「だが今だけは、感謝してやる」
「光栄です」
「勘違いするな。許してはいない」
「理解しています」
*
島の中央に、オオアラシが到達した。
遅れた。
しかし、到達した。
イバラの命令は、彼の体内で待っている。
時間が来る。
石化装置が、腹の中で起動する。
緑の光が、オオアラシの身体を内側から透かすように漏れた。
次の瞬間、島の中心から巨大な輪が広がった。
木々が石になる。
鳥が空中で固まる。
逃げる兵が石になる。
叫ぶ島民が石になる。
キリサメが目を見開いたまま石になる。
モズは笑みを浮かべたまま石になる。
コハクは、槍を構えた姿勢のまま石になる。
ボンドルドは、立ったまま光を見ていた。
足元の草が石化する。
足。
膝。
腰。
彼は、指で自分の胸元を軽く叩いた。
そこには、もう復活液はない。
使い切った。
今度は、自力では戻れない。
それでも、彼は笑っているようだった。
「千空さん」
胸まで石化が上がる。
「この条件で、救えるのですね」
喉が石になる。
声が途切れる。
仮面が石になる直前、彼の右手は地面に数字を刻んでいた。
光の速度。
到達時間。
オオアラシの遅延時間。
スパラグモス使用後の熱損傷。
最後の一行だけは、数字ではなかった。
――次は、もっと良い手順に。
そして、ボンドルドは石になった。
*
海上で、千空は小舟の縁を握っていた。
緑の光が、海岸線まで迫る。
計算通り。
いや、計算よりわずかに速い。
小舟の後ろを、光が追ってくる。
龍水がいれば、もっと速く漕げた。
大樹がいれば、もっと力があった。
だが、今いるのは千空だけ。
彼は、歯を食いしばる。
「間に合え……!」
光が小舟の後端に触れた。
木が石になる。
水しぶきが固まりかける。
千空は復活液の瓶を胸に抱え、海へ飛び込んだ。
冷たい水。
世界が緑に染まる。
そして、止まった。
*
どれほど時間が経ったか。
海面に、ひびが入った。
石の表面が割れる。
千空の指が戻る。
口が戻る。
肺が水を吐き出す。
「っ、は……!」
彼は、海面に浮かんだ石化した木片にしがみついた。
復活液は、守った。
自分の身体の一部にかかるよう、瓶を砕いた。
ギリギリだった。
だが、生きている。
島を見る。
すべて石だ。
鳥も、森も、人も。
宝島は、巨大な標本になっていた。
千空は笑った。
「ざまあみろ、クソ仮面」
声は震えていた。
「お前の観測通りにはした。だが、お前のやり方じゃねえ」
彼は海岸へ泳いだ。
復活液は、少ない。
誰から戻すか。
また選ぶ必要がある。
だが、今回は迷わなかった。
まずは、龍水。
次に、クロム。
次に、フランソワ。
そして、コハク。
ボンドルドは後回しだ。
石化した広場に戻ると、彼は見つけた。
黒と濃紺の装甲の石像。
左腕は焼け、仮面は欠け、地面には数字と文字。
千空は、それを読んだ。
――次は、もっと良い手順に。
千空は、心底嫌そうに笑った。
「ふざけんな」
彼は、ボンドルドの石像を軽く蹴った。
「次なんかねえよ。次やる前に、檻を百個作ってやる」
それでも、千空は地面の数字を写した。
使えるデータだからだ。
腹立たしいほどに。
ボンドルドは、今回も最悪だった。
人を殺す道を提示し、兵を見捨てる計算をし、アビス由来の切り札で空を裂き、自分ごと島を石にした。
そして、それでもなお、科学王国を前へ進ませた。
千空は、復活液の残量を見た。
次に誰を戻すか。
その中に、ボンドルドの名はまだない。
だが、いずれ戻す。
石化装置を理解するために。
あの最悪の頭脳を、もう一度使うために。
千空は低く呟いた。
「科学は、使えるもんを捨てるのが苦手、だったな」
彼はボンドルドの石像を睨んだ。
「違う。捨てねえんじゃねえ。使い潰させねえために、こっちが使うんだ」
島の全員が石になった朝。
石神千空は、悪魔を復活させる順番を、最後に回した。