石の世界に祝福を   作:stein0630

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第15話 光を裂く者

 

 

 ボンドルドは、石のまま眠っていなかった。

 

 少なくとも、彼の内側では。

 

 石化とは、死ではない。

 

 それは、この世界で最初に彼が立てた仮説だった。

 

 生命活動の停止。構造情報の保存。損傷修復の可能性。時間の凍結。

 

 ならば、意識だけが遮断された待機状態か。

 

 彼はそれを知りたかった。

 

 だから、光が自分を呑んだ瞬間、逃げなかった。

 

 胸部、頸部、視覚、聴覚、指先。

 

 石化の波がどの順序で奪っていくか、最後まで観測した。

 

 装甲の内側、肋骨の位置に近い隙間。

 

 そこに、微量の復活液を保持する細い管がある。

 

 それは仲間にも、イバラにも、千空にも完全には明かしていない装備だった。

 

 全身を戻す量はない。

 

 だが、局所的に戻すには足りる。

 

 まず、喉。

 

 次に、右手の腱。

 

 最後に、仮面の内側の片目。

 

 石の表面に、細い亀裂が走った。

 

 ボンドルドは、再び世界を見た。

 

 広場は混乱している。

 

 イバラは腕の一部を石化されながら逃げた。キリサメは、自分が何を命じられていたのか理解し始めている。モズは笑っているが、もうイバラの側にはいない。

 

 千空は遠くで、砂に残る数字を記録している。

 

 その顔を見て、ボンドルドは思った。

 

 やはり、彼は止まらない。

 

 倫理は、彼の足枷ではない。

 

 燃料だ。

 

「……興味深い」

 

 仮面の内側で、声が戻る。

 

 だが、その声を聞いた者はいなかった。

 

   *

 

 イバラは、走っていた。

 

 腕の一部が石になっている。重い。痛みはない。だが、動きが鈍る。

 

 怒りよりも恐怖が勝っていた。

 

 千空。

 コハク。

 モズ。

 キリサメ。

 ボンドルド。

 

 すべてが、彼の支配から外れ始めている。

 

「オオアラシ!」

 

 イバラは叫んだ。

 

 巨体の男が現れる。

 

 頭首の命令に従う兵。疑問を持たない。走れる。耐えられる。命令された通りに動く。

 

 イバラは石化装置を握り、オオアラシの前へ突き出した。

 

「これを飲め」

 

 オオアラシは目を見開く。

 

「飲む……?」

 

「島の中央まで走れ。そこで命令を発する。島ごと石化する」

 

 周囲の兵が青ざめた。

 

 イバラは怒鳴る。

 

「頭首様の御意志だ!」

 

 その言葉で、オオアラシの迷いは消えた。

 

 彼は石化装置を飲み込んだ。

 

 喉が大きく動く。

 

 イバラは耳元で囁いた。

 

 距離。

 

 時間。

 

 島全体を呑む数字。

 

 オオアラシは走り出した。

 

 大地が揺れる。

 

 木々が鳴る。

 

 島の中心へ。

 

 ゲンが遠くからそれを見て、顔を引きつらせた。

 

「来たね。最悪のやつ」

 

 千空は歯を食いしばる。

 

「全員石化コースだ」

 

 コハクが走ろうとする。

 

「止める!」

 

「追いつけねえ!」

 

 龍水が叫ぶ。

 

「ならば、先回りだ!」

 

 しかし、森の地形は複雑だ。オオアラシは島の兵として道を知っている。千空たちは知らない。

 

 その時、背後から声がした。

 

「彼を止める必要はありません」

 

 全員が振り向いた。

 

 石化していたはずのボンドルドが、立っていた。

 

 正確には、立っているとは言い難い。

 

 脚の一部にはまだ石化が残り、右腕も完全ではない。仮面の欠けた部分から、血の滲んだ肌が少し見える。

 

 それでも、彼は歩いていた。

 

 コハクが槍を構える。

 

「動くな」

 

「動けば刺す、ですね。理解しています」

 

「なぜ戻った」

 

 千空が低く言う。

 

「備えていました」

 

「また隠し装備か」

 

「はい」

 

 千空の目が冷える。

 

「あとで全部吐かせる」

 

「もちろんです。今はオオアラシさんです」

 

 ゲンが顔をしかめる。

 

「止めなくていいって、どういう意味?」

 

「島全体を石化するなら、発動はむしろ利用できます」

 

 アマリリスが叫ぶ。

 

「利用!? みんな石にされるんだよ!」

 

「はい」

 

 ボンドルドは静かに答えた。

 

「石化は即死ではありません。復活液を持つ者が一人でも範囲外に残れば、全員を戻せる可能性があります」

 

 千空が言う。

 

「だが、問題は誰が範囲外に残るかだ」

 

「はい」

 

 ボンドルドの仮面が千空へ向く。

 

「あなたです」

 

 コハクが即座に言う。

 

「千空を危険に晒すな」

 

「彼以外では、この後の復活手順を完遂できません」

 

 千空は舌打ちする。

 

「そこは同意だ。だが、どうやって範囲外に出る」

 

「方法は二つ。海へ逃げるか、高度を取るか」

 

「気球はない」

 

「では、海です」

 

 龍水が笑う。

 

「船か!」

 

「船は遠い。小舟でも厳しい」

 

 千空が言う。

 

「時間が足りねえ」

 

「ならば、時間を作ります」

 

 ボンドルドは、自分の左腕の装甲を外した。

 

 その下に、黒い筒状の器具があった。

 

 見慣れない。

 

 だが、千空には直感でわかった。

 

 今までの小道具とは違う。

 

 本当に危険なものだ。

 

「それは何だ」

 

 ボンドルドは答えた。

 

「スパラグモス」

 

 空気が変わった。

 

「残存出力は一度。正確には、一度未満です。完全な使用には耐えないでしょう」

 

「何ができる」

 

「狙ったものを、切断できます」

 

 コハクが低く言う。

 

「武器か」

 

「はい」

 

「なぜ今まで使わなかった」

 

「補給できないからです。使用すれば、熱で装甲も損傷する。さらに、千空さんたちに私の危険度を過剰に示す」

 

 ゲンが乾いた笑いを漏らす。

 

「今さら過剰も何もないよ」

 

 ボンドルドは続けた。

 

「これでオオアラシさんを殺せば、装置は彼の体内で止まる可能性があります」

 

 アマリリスの顔が青ざめる。

 

「殺す……?」

 

「ですが、それでは観測できません」

 

「お前」

 

 コハクの声が震えた。

 

「今、殺すことより観測を優先したのか」

 

「はい」

 

 千空が言った。

 

「別案は」

 

「彼の進路を切る」

 

 ボンドルドは森の地形を指した。

 

「島中央へ向かうには、あの岩場の細い道を通る。そこを崩せば、オオアラシさんは迂回する。発動時刻がずれる。千空さんが海へ出る時間ができる」

 

「人は殺さない」

 

「はい」

 

「だが、岩場にいる兵は?」

 

 ボンドルドは少し黙った。

 

「巻き込まれます」

 

「何人」

 

「二、あるいは三」

 

「助ける方法は」

 

「警告すれば、オオアラシさんにも気づかれます」

 

 沈黙。

 

 千空は、ボンドルドを睨んだ。

 

「テメーは撃つ気だな」

 

「はい」

 

「兵を巻き込んでも」

 

「はい」

 

 アマリリスが叫ぶ。

 

「そんなのだめ!」

 

 ボンドルドは彼女を見た。

 

「あなたの島の人々全員を石化させずに済ませる可能性と、岩場の兵数名。比較するなら――」

 

「比較しないで!」

 

 コハクが怒鳴った。

 

 ボンドルドは黙った。

 

 千空は数秒だけ考えた。

 

 その数秒は、長かった。

 

 科学王国の全員が見ていた。

 

 千空がどちらを選ぶのか。

 

 ボンドルドの道か。

 

 自分の道か。

 

 千空は言った。

 

「撃つな」

 

「では、代替案を」

 

「警告する」

 

「オオアラシさんに気づかれます」

 

「気づかせる」

 

 千空は笑った。

 

「進路を崩すんじゃねえ。進路を変えさせる。敵兵を逃がしつつ、オオアラシを別ルートに誘導する」

 

「可能性は低い」

 

「ゼロじゃねえ」

 

 ボンドルドは、静かに千空を見た。

 

「その低い可能性のために、島全体を危険に晒すのですか」

 

「違う」

 

 千空は言った。

 

「島全体を救うために、誰も捨てねえルートを探す」

 

「間に合わなければ?」

 

「間に合わせる」

 

 その言葉に、ボンドルドはほんのわずかに黙った。

 

 そして、言った。

 

「では、私が警告しましょう」

 

「何?」

 

「私の声なら、兵もオオアラシさんも混乱します。異物の警告です。反応が遅れる。その隙に、千空さんは海へ」

 

「テメーは?」

 

「残ります」

 

「石化範囲内だぞ」

 

「観測します」

 

 千空は歯を食いしばった。

 

「またそれか」

 

「はい」

 

 ボンドルドは、スパラグモスの筒を構えた。

 

「ただし、岩場は撃ちません。あなたの条件に従います」

 

「何を撃つ」

 

「空です」

 

   *

 

 オオアラシは走っていた。

 

 口の中に異物がある。

 

 喉の奥に重い感触。

 

 だが、命令は絶対だ。

 

 中央へ。

 

 走れ。

 

 頭首様のために。

 

 その時、空が裂けた。

 

 音はほとんどなかった。

 

 ただ、夜の森の上に、一筋の光が走った。

 

 白ではない。

 

 炎でもない。

 

 何かが、世界の面を薄く切り開くような光。

 

 スパラグモス。

 

 それは空中の大枝を一瞬で断ち、岩肌をかすめ、火花も粉塵もほとんど残さず消した。

 

 兵たちが悲鳴を上げる。

 

 オオアラシも足を止めた。

 

 ボンドルドの声が、森に響く。

 

「その道は崩れます。離れなさい」

 

 兵たちは逃げた。

 

 オオアラシは混乱した。

 

 イバラの命令。

 

 頭首様の命令。

 

 だが、目の前の道が危険だと異形が告げている。

 

 彼は本能的に、別の道へ曲がった。

 

 千空が叫ぶ。

 

「今だ!」

 

 龍水が用意した小舟が、海へ押し出される。

 

 千空、復活液、簡易通信具。

 

 ゲンが叫ぶ。

 

「絶対戻ってきてよ!」

 

「百億パーな!」

 

 小舟が水を切る。

 

 島の中心から離れる。

 

 石化範囲の外へ。

 

 時間は、まだ足りない。

 

 ボンドルドはスパラグモスの装甲部を見た。

 

 熱で歪んでいる。

 

 もう撃てない。

 

 左腕の装甲が焦げ、内部の皮膚も焼けていた。

 

 痛みはある。

 

 だが、彼は表情を変えない。

 

 コハクが横に立った。

 

「なぜ兵を殺さなかった」

 

「契約です」

 

「それだけか」

 

「いいえ」

 

 ボンドルドは、遠ざかる千空の小舟を見た。

 

「彼の条件でどこまで進めるのか、見たくなりました」

 

 コハクは苦々しく言った。

 

「結局、観察か」

 

「はい」

 

「だが今だけは、感謝してやる」

 

「光栄です」

 

「勘違いするな。許してはいない」

 

「理解しています」

 

   *

 

 島の中央に、オオアラシが到達した。

 

 遅れた。

 

 しかし、到達した。

 

 イバラの命令は、彼の体内で待っている。

 

 時間が来る。

 

 石化装置が、腹の中で起動する。

 

 緑の光が、オオアラシの身体を内側から透かすように漏れた。

 

 次の瞬間、島の中心から巨大な輪が広がった。

 

 木々が石になる。

 

 鳥が空中で固まる。

 

 逃げる兵が石になる。

 

 叫ぶ島民が石になる。

 

 キリサメが目を見開いたまま石になる。

 

 モズは笑みを浮かべたまま石になる。

 

 コハクは、槍を構えた姿勢のまま石になる。

 

 ボンドルドは、立ったまま光を見ていた。

 

 足元の草が石化する。

 

 足。

 

 膝。

 

 腰。

 

 彼は、指で自分の胸元を軽く叩いた。

 

 そこには、もう復活液はない。

 

 使い切った。

 

 今度は、自力では戻れない。

 

 それでも、彼は笑っているようだった。

 

「千空さん」

 

 胸まで石化が上がる。

 

「この条件で、救えるのですね」

 

 喉が石になる。

 

 声が途切れる。

 

 仮面が石になる直前、彼の右手は地面に数字を刻んでいた。

 

 光の速度。

 

 到達時間。

 

 オオアラシの遅延時間。

 

 スパラグモス使用後の熱損傷。

 

 最後の一行だけは、数字ではなかった。

 

 ――次は、もっと良い手順に。

 

 そして、ボンドルドは石になった。

 

   *

 

 海上で、千空は小舟の縁を握っていた。

 

 緑の光が、海岸線まで迫る。

 

 計算通り。

 

 いや、計算よりわずかに速い。

 

 小舟の後ろを、光が追ってくる。

 

 龍水がいれば、もっと速く漕げた。

 

 大樹がいれば、もっと力があった。

 

 だが、今いるのは千空だけ。

 

 彼は、歯を食いしばる。

 

「間に合え……!」

 

 光が小舟の後端に触れた。

 

 木が石になる。

 

 水しぶきが固まりかける。

 

 千空は復活液の瓶を胸に抱え、海へ飛び込んだ。

 

 冷たい水。

 

 世界が緑に染まる。

 

 そして、止まった。

 

   *

 

 どれほど時間が経ったか。

 

 海面に、ひびが入った。

 

 石の表面が割れる。

 

 千空の指が戻る。

 

 口が戻る。

 

 肺が水を吐き出す。

 

「っ、は……!」

 

 彼は、海面に浮かんだ石化した木片にしがみついた。

 

 復活液は、守った。

 

 自分の身体の一部にかかるよう、瓶を砕いた。

 

 ギリギリだった。

 

 だが、生きている。

 

 島を見る。

 

 すべて石だ。

 

 鳥も、森も、人も。

 

 宝島は、巨大な標本になっていた。

 

 千空は笑った。

 

「ざまあみろ、クソ仮面」

 

 声は震えていた。

 

「お前の観測通りにはした。だが、お前のやり方じゃねえ」

 

 彼は海岸へ泳いだ。

 

 復活液は、少ない。

 

 誰から戻すか。

 

 また選ぶ必要がある。

 

 だが、今回は迷わなかった。

 

 まずは、龍水。

 

 次に、クロム。

 

 次に、フランソワ。

 

 そして、コハク。

 

 ボンドルドは後回しだ。

 

 石化した広場に戻ると、彼は見つけた。

 

 黒と濃紺の装甲の石像。

 

 左腕は焼け、仮面は欠け、地面には数字と文字。

 

 千空は、それを読んだ。

 

 ――次は、もっと良い手順に。

 

 千空は、心底嫌そうに笑った。

 

「ふざけんな」

 

 彼は、ボンドルドの石像を軽く蹴った。

 

「次なんかねえよ。次やる前に、檻を百個作ってやる」

 

 それでも、千空は地面の数字を写した。

 

 使えるデータだからだ。

 

 腹立たしいほどに。

 

 ボンドルドは、今回も最悪だった。

 

 人を殺す道を提示し、兵を見捨てる計算をし、アビス由来の切り札で空を裂き、自分ごと島を石にした。

 

 そして、それでもなお、科学王国を前へ進ませた。

 

 千空は、復活液の残量を見た。

 

 次に誰を戻すか。

 

 その中に、ボンドルドの名はまだない。

 

 だが、いずれ戻す。

 

 石化装置を理解するために。

 

 あの最悪の頭脳を、もう一度使うために。

 

 千空は低く呟いた。

 

「科学は、使えるもんを捨てるのが苦手、だったな」

 

 彼はボンドルドの石像を睨んだ。

 

「違う。捨てねえんじゃねえ。使い潰させねえために、こっちが使うんだ」

 

 島の全員が石になった朝。

 

 石神千空は、悪魔を復活させる順番を、最後に回した。

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