イバラは、勝ったと思っていた。
島は沈黙している。
兵も、島民も、キリサメも、モズも、外から来た科学王国も、すべて石になった。
鳥は羽ばたきの途中で止まり、木々は葉先まで灰色に固まり、浜辺には逃げかけた者たちが恐怖の姿勢のまま並んでいた。
石化装置は、オオアラシの腹の中にある。
イバラは、石化したオオアラシの体を見下ろした。
「悪いねえ」
声には、悪いと思っている響きがなかった。
彼は石斧を振り下ろした。
乾いた破砕音。
石化した腹部が割れる。
中から、小さな装置が転がり落ちた。
石化装置。
世界を止める力。
イバラはそれを拾い上げ、口元を歪めた。
「これさえあれば、何度でもやり直せる」
その時だった。
「――やり直し、ですか」
声がした。
イバラは振り向いた。
誰もいない。
石像しかない。
だが、声は確かに聞こえた。
穏やかで、礼儀正しく、不快なほど冷静な声。
ボンドルドの声だった。
「……何だ」
イバラは周囲を見回す。
黒と濃紺の装甲をまとった異形の探窟家は、広場の端で石になっている。動かない。声など出せるはずがない。
それでも、声は続いた。
「石化装置の回収、お見事です。ただし、オオアラシさんの破損状況は深刻ですね。復活時の修復限界を検証するには、興味深い標本です」
「黙れ」
イバラは、自分の耳を押さえた。
声は外からではない。
内側からする。
頭蓋の裏側に、細い針が触れているような感覚。
「まさか……お前、何をした」
「ご安心ください。完全な転移ではありません」
声は穏やかだった。
「私の本体は石化しています。これは、ごく小さな観測用の残響です。あなたに触れられた時、ほんの少しだけ、置かせていただきました」
イバラは、腕を見た。
以前、ボンドルドを殴った時に石化し、復活しかけ、また血が滲んだ場所。
そこに、小さな黒い針のようなものが刺さっていた。
痛みはなかった。
だから気づかなかった。
「貴様……!」
「ゾアホリックの断片です。本来の機能には遠く及びません。意識の完全移植も、身体の支配もできない。ただ、感覚の端に、私の観察を残す程度です」
「化け物が!」
「分類上は人間です」
イバラは針を抜こうとした。
指先が震える。
抜けばいい。
ただの針だ。
だが、石化装置を持つ手が重い。
声が、彼の思考に触れてくる。
「急がないのですか。千空さんは、復活している可能性があります」
イバラの動きが止まった。
「何?」
「彼は、石化波の到達時間を測っていました。復活液を持っていた。あなたは、彼が自分を戻す手順を作っていた可能性を考えるべきです」
「そんなことが……」
「できます」
断言だった。
「彼なら」
イバラは汗をかいた。
勝ったはずだった。
島ごと石にした。
全員を止めた。
なのに、あの科学者だけは、まだ生きているかもしれない。
ボンドルドの声が、やさしく囁く。
「確認しましょう。生き残りがいるなら、最初に動くのはどこか。モバイルラボです。復活液です。通信機です。そして、石化装置を取り返しに来る」
「黙れ……黙れ……!」
「私は、あなたの味方ではありません」
「知っている!」
「ですが、あなたが彼を探せば、私は観測できます」
イバラは、ようやく理解した。
この声は助言ではない。
呪いでもない。
観察器具だ。
自分の焦り、判断、恐怖、行動。
すべてが、石になったはずの男に見られている。
「殺してやる……!」
「私を砕くのは有効です。ただし、千空さんが私の石像を必要としている場合、彼は必ず回収を試みます。そこも罠にできます」
イバラは笑い出した。
乾いた、壊れかけた笑いだった。
「いいだろう。お前も、千空も、まとめて壊してやる」
「それは残念です」
ボンドルドの声は、少しも残念そうではなかった。
*
千空は、まず龍水を戻した。
龍水は復活した瞬間、状況を聞く前に立ち上がった。
「船は!」
「石だ」
「装置は!」
「イバラが持ってる」
「なら取り返す!」
「話が早えな」
次にクロム。
彼は復活直後に、地面に残された数字を見て青ざめた。
「これ、ボンドルドが書いたのか」
「ああ」
「腹立つくらい使えるな」
「腹立つくらいな」
次にフランソワ。
彼らは、復活直後から一切取り乱さず、水、食料、負傷者確認の段取りを始めた。
そしてコハク。
石が割れた瞬間、彼女は槍を探した。
「イバラは」
「生きてる。装置持ちだ」
「ボンドルドは」
「石のまま」
コハクは一瞬だけ黙った。
「そのままでよい」
「今はな」
千空は短く言った。
復活液は少ない。
全員を戻す余裕はない。
だからこそ、順番が重い。
クロムが言った。
「ボンドルドを戻せば、イバラの動き読めるんじゃねえか?」
「戻さねえ」
千空は即答した。
「あいつは石化装置が目の前にある状況で戻したら、百億パー何かやる」
「じゃあ、どうする」
龍水が笑った。
「使うんだろう? 石のまま」
千空は、ボンドルドの石像を見た。
仮面の一部が欠け、左腕は焦げ、指先は地面へ文字を刻んだ姿勢で止まっている。
黙っている。
だが、まだ盤面にいる。
「こいつは、石になった後も情報を置いてる」
千空は言った。
「つまり、イバラ側にも何か置いてる可能性がある」
ゲンがいれば、嫌そうな顔をしただろう。
その役を、クロムがやった。
「え、何それ。石になっても裏切れるってことかよ」
「ボンドルドならな」
コハクが低く言った。
「本当に最低だな」
「最低ってのは、使える時がある」
千空は、ボンドルドの石像の周囲を調べた。
血。
焼けた装甲片。
スパラグモスの残骸。
そして、仮面の内側から抜け落ちた、ごく細い黒い針。
千空の目が細くなる。
「……ゾアホリックか」
クロムが聞く。
「何だそれ」
「こいつのヤバい遺物だ。意識を他人に分ける。完全版なら、身体ごと乗り換えられる」
「はあ!?」
「安心しろ。ここにあるのは断片だ。完全な装置じゃねえ。だが……」
千空は、黒い針を竹ピンセットで持ち上げた。
「イバラに同じのを刺してたら、最悪だ」
コハクが即座に言う。
「操れるのか」
「完全には無理だろう。だが、声くらいは届くかもしれねえ。視覚か、感覚か、思考の端か」
龍水が笑みを深くした。
「つまり、イバラは今、ボンドルドの声を聞いているかもしれんと」
「そうだ」
「最高に最悪だな!」
「笑うな。いや、笑っていい。最悪すぎて使える」
千空は、すぐに作戦を切り替えた。
「イバラは焦る。ボンドルドの声が本当に届いてるなら、俺が生きてる可能性を吹き込まれてる。なら、確認しに来る」
「どこへ?」
クロムが聞く。
「モバイルラボだ」
*
イバラは、モバイルラボを見つけた。
森の陰。
車輪の跡。
石化を逃れた痕跡。
彼は笑った。
「いるんだろう、千空」
返事はない。
だが、声が内側から言う。
「左です」
イバラは反射的に左を見た。
何もない。
その瞬間、右から小さな土器が飛んだ。
割れる。
中から、刺激臭の煙。
「ぐっ……!」
イバラは後退した。
千空の声がした。
「よお、イバラ」
岩の上に、千空が立っていた。
白く荒れた石化痕を残した顔。
手には、復活液ではない。
小さな罠の紐。
「まさか、本当に生きてるとはねえ」
イバラは笑った。
だが、その笑みは歪んでいる。
「お前、何をした」
「科学だ」
「そればかりだね」
「便利だからな」
イバラは石化装置を掲げる。
「なら、もう一度石になれ」
「やってみろよ」
千空は動かない。
距離。
時間。
石化装置の命令には、それが必要だ。
イバラは測った。
千空までの距離。
逃げ道。
風。
だが、その時、また声がした。
「近すぎます」
「黙れ!」
イバラは叫んだ。
千空の目が鋭くなる。
聞こえた。
イバラは、誰かに向かって怒鳴った。
誰もいない場所へ。
「当たりか」
千空が呟く。
イバラは歯を剥いた。
「ボンドルド……あの化け物が、頭の中で喋る……!」
千空は一瞬だけ黙った。
そして、心底嫌そうに笑った。
「やりやがったな、あいつ」
「お前の仲間だろう!」
「違う。あれは災害だ」
イバラは石化装置を握りしめる。
「なら、お前ごと消す」
彼は叫ぼうとした。
距離と時間を。
その前に、千空が紐を引いた。
足元が崩れる。
落とし穴ではない。
浅い。
ただし、イバラの姿勢を崩すには十分だった。
石化装置の向きがずれる。
命令が途切れる。
イバラは転がりながら、歯を食いしばった。
「この程度で!」
彼は跳ね起きた。
その動きは速い。
年寄りの動きではなかった。
石化装置を再び構える。
千空は逃げる。
イバラが追う。
森を抜ける。
崖へ向かう。
そこは、波が砕ける断崖だった。
*
龍水は、別の場所で待っていた。
小型のドローン。
粗いが、飛ぶ。
ワイヤー。
通信具。
耳元へ音を届ける小さな装置。
クロムが震える手で最後の調整をしている。
「これ、マジで飛ぶのか?」
「飛ばすんだ」
龍水は笑った。
「俺が欲しいのは勝利だ。なら、空だろうが糸だろうが手繰る!」
コハクが崖の方を見た。
「千空が来る」
「イバラもな」
龍水は操縦桿を握る。
「奴が装置を投げた瞬間、掴む」
「外したら?」
「外さない」
その時、足元に転がっていた黒い装甲片が、風で少し動いた。
クロムが眉をひそめる。
「これ、ボンドルドのやつだよな」
「ああ」
龍水が拾い上げる。
裏に、刻みがあった。
文字ではない。
矢印。
風向き。
崖の上昇気流。
ドローンの補正角。
クロムが青ざめる。
「いつ書いたんだよ……」
「石になる前だろうな」
龍水は笑った。
「本当に、最悪の男だ」
「使うのか」
「使う」
龍水は即答した。
「勝つためにな」
*
崖の上。
千空は追い詰められていた。
背後は海。
前にはイバラ。
イバラの手には石化装置。
「終わりだねえ」
イバラは笑った。
「お前は賢い。だが、逃げ場がない」
千空は肩で息をしていた。
「逃げ場ならある」
「海へ飛ぶかい?」
「似たようなもんだ」
イバラが石化装置を掲げた。
その瞬間。
声がした。
ボンドルドの声。
「右上です」
イバラは反射的に右上を見た。
何もない。
いや、遅れてドローンが現れた。
だが、イバラは見てしまった。
右上を。
その一瞬で、千空が動く。
石化装置を掴もうとする。
イバラは笑った。
「読んでるよ!」
彼は逆に腕を引き、装置を空中へ投げた。
命令を叫ぶ。
距離。
時間。
千空を呑むだけの小さな範囲。
だが、ドローンが滑り込む。
龍水の操縦。
ボンドルドの風向き補正。
クロムの調整。
コハクが張ったワイヤー。
装置に、小さな通信具が触れた。
龍水が叫ぶ。
「掴んだ!」
イバラの目が見開かれる。
千空は、通信具へ向けて声を放った。
距離。
時間。
イバラだけを呑む数字。
だが、イバラは即座に反応した。
帽子を投げ、ワイヤーへ絡める。
装置の軌道が変わる。
千空の声が届く前に、装置が遠ざかる。
「惜しかったねえ!」
イバラが笑う。
その瞬間、彼の内側で、ボンドルドの声がした。
「今です」
「黙れ!」
イバラは叫んだ。
その叫びが、通信具に拾われた。
不完全な音。
だが、千空は聞いた。
イバラが、もう一つの声に反応している。
ならば。
千空は叫んだ。
「ボンドルド!」
石像の男に向けてではない。
イバラの中に刺さった、断片へ向けて。
「聞こえてんなら、黙ってろ!」
数秒。
世界が静かになった。
イバラの頭の中から、声が消えた。
完全な沈黙。
それが、かえってイバラを狂わせた。
今まで煩わしかった声が、突然消えた。
頼ってなどいない。
だが、警戒していた対象が消えた瞬間、人間は一拍遅れる。
千空は、その一拍を待っていた。
「龍水!」
「欲しかったぞ、その一瞬!」
ドローンがもう一度跳ねる。
ワイヤーが装置を絡める。
通信具が、装置に触れる。
千空が叫ぶ。
距離。
時間。
イバラを呑む、小さな緑の輪。
今度は届いた。
イバラの目が見開かれる。
「な……」
彼は逃げようとした。
だが、遅い。
緑の光が、足元から上がる。
膝。
腰。
胸。
喉。
顔。
イバラは、最後に自分の腕を見た。
そこに刺さっていた黒い針が、石化の直前にぽろりと落ちる。
ボンドルドの断片。
最後の声は、誰にも聞こえなかった。
ただ、イバラだけが聞いた。
「観測、ご協力ありがとうございました」
イバラは、憎悪の顔のまま石になった。
*
崖に、波の音だけが残った。
千空はその場に座り込んだ。
龍水が笑いながら駆け寄る。
「勝ったな!」
「ギリギリだ」
「ギリギリも勝ちは勝ちだ!」
クロムは腰を抜かしている。
「マジで……マジで勝った……」
コハクは、石化したイバラを見た。
そして、足元の黒い針を拾おうとした。
「触るな」
千空が止める。
「それは、ボンドルドの一部だ」
コハクは手を引く。
「一部?」
「意識の断片。完全じゃねえ。だが、イバラの頭に声を入れてた」
クロムが顔を青くする。
「つまり、あいつ、石になってても戦ってたのか?」
「戦ってたんじゃねえ」
千空は言った。
「実験してた」
龍水が笑みを消す。
「イバラを操ったのか」
「操りきってはいねえ。囁いて、焦らせて、反応を見てた」
「十分に最悪だな」
「ああ」
千空は黒い針を、竹筒の中へ落とした。
封をする。
「これで、ゾアホリック断片は回収。二度と勝手に使わせねえ」
コハクは、広場の方を見た。
「ボンドルドを復活させるのか」
「最後だ」
千空は言った。
「キリサメ、モズ、島民、船員。全員の安全を確保してからだ」
「そして?」
「檻を作る」
龍水が言う。
「ただの檻では足りんぞ」
「わかってる」
千空は、石化したイバラを見た。
そして、遠くに立つボンドルドの石像を見た。
勝った。
イバラには。
だが、ボンドルドには勝っていない。
あの男は、石になりながら、イバラの中に声を残し、最終戦の盤面に干渉した。
敵を利用し、味方を利用し、自分の石化すら利用した。
それは忠誠ではない。
裏切りでもない。
もっとたちが悪い。
科学そのものを、自分の居場所にしている。
*
夜明け。
千空たちは、石化したイバラを安全な場所へ移した。
石化装置も回収した。
ドローンは壊れかけていたが、仕事は終えていた。
龍水は満足げに言った。
「これで宝島は落ちた」
「落としたんじゃねえ」
千空は言った。
「解放するんだよ」
「同じようで違うか」
「違う」
まず、クロムが復活液の増産準備を始める。
フランソワが水と食料を整える。
コハクとアマリリスが、島民の石像の安全を確認する。
ソユーズは、父の石像の前で膝をついていた。
そして千空は、最後にボンドルドの石像の前に立った。
仮面の欠けた異形の探窟家。
左腕は焼け、胸元には隠し管の跡。
地面には、まだ薄く文字が残っている。
――次は、もっと良い手順に。
千空は言った。
「次はねえ」
石像は答えない。
「だが、復活はさせる」
コハクが眉をひそめる。
「なぜだ」
「こいつの頭がいる。石化装置、ゾアホリック断片、スパラグモスの残骸。全部、管理するには本人から情報を引き出す必要がある」
「また使うのか」
「使う」
千空は即答した。
「だが、自由にはしねえ」
彼は新しい板に書いた。
ボンドルド復活条件。
一、両腕拘束。
二、装甲全解除。
三、未開示装備の全提出。
四、ゾアホリック断片の有無を確認。
五、石化装置への接触禁止。
六、復活直後、千空・龍水・コハク・クロム・フランソワ立会い。
七、会話は記録。
八、違反時、即時再石化。
クロムが呟いた。
「マジで檻だな」
「檻じゃ足りねえ」
千空は言った。
「これは、実験室だ」
その時、石像の足元に、もう一つ小さな文字があることに気づいた。
石化の直前、右足で刻んだらしい。
千空は顔を近づける。
そこには、こうあった。
――復活条件案。おおむね同意します。
千空は、しばらく黙った。
そして、心底嫌そうに笑った。
「聞いてもねえのに、先に同意してんじゃねえよ」
龍水が腹を抱えて笑った。
「最高だな! 檻に入る条件まで商談している!」
コハクは笑わなかった。
「やはり危険すぎる」
「ああ」
千空は、復活液の瓶を持ち上げた。
「だから、こっちのルールで戻す」
悪魔はまだ石のまま。
だが、石化装置を巡る宝島の戦いは終わり、次の戦いが始まろうとしていた。
相手はイバラではない。
石化装置でもない。
科学王国の内側に置くことになる、最悪の科学者だった。