最初に戻されたのは、龍水だった。
次にクロム。
フランソワ、コハク、律、大樹。
船員たち。
島民たち。
キリサメ。
オオアラシ。
石だったものが、人へ戻っていく。
誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが膝から崩れ、誰かが空を見上げた。
石化解除は奇跡ではない。
科学だ。
だが、それでも奇跡と呼びたくなる光景だった。
ソユーズは、父の石像の前で膝をついていた。
長く忘れていた記憶が、目の前の顔と結びついていく。
「……父さん」
千空は、その背中を少し離れて見ていた。
今すぐ全員を戻したい。
だが、復活液は有限だ。
白金が必要だった。
百物語に残された、宇宙飛行士たちからの宝。
その箱を開けた時、クロムは息を呑んだ。
「これが……白金?」
「プラチナだ」
千空の声には、抑えきれない熱があった。
「こいつがあれば、硝酸が作れる。復活液が量産できる」
龍水が笑った。
「つまり、世界中の石像を買い戻す鍵だな!」
「買うな。戻すんだよ」
ゲンが肩をすくめる。
「龍水ちゃんの辞書だと、だいたい買うになるんだよね」
その時、後ろから声がした。
「素晴らしい成果です」
全員が振り向いた。
黒と濃紺の装甲。
異形の仮面。
両腕を拘束され、装甲の大半を剥がされ、背中には太い縄。首には木製の枷。腰の周りには、千空が即席で作った札が下がっていた。
危険物。勝手に開封禁止。
クロムの字で、横に小さく追記されている。
※しゃべります。
ボンドルドは、その札に気づいているのかいないのか、いつも通り穏やかだった。
「復活して早々、札つきとは光栄です」
「光栄に思うな」
千空は言った。
「本来なら、当分石のままにしたかったんだがな」
「私の知識が必要になった」
「腹立つことにな」
復活の時、条件はすべて守られた。
両腕拘束。
装甲全解除。
未開示装備の提出。
ゾアホリック断片の確認。
石化装置への接触禁止。
会話記録。
違反時、即時再石化。
ボンドルドは、その条件を聞いて頷いただけだった。
「よく整理されています」
その一言で、コハクが槍を握り直した。
今の彼に、冗談を受け流す余裕はなかった。
*
石化装置は、木箱の中に保管された。
箱は三重。
一層目は木。
二層目は油を塗った革。
三層目は竹と布で作った衝撃吸収材。
箱の周りには、さらに音を遮るための厚布。
千空は言った。
「音声命令で動く可能性がある。だから、近くで距離と時間っぽい数字を口にすんな」
クロムが頷く。
「つまり、“何メートル何秒”みたいなの禁止ってことか」
「そうだ」
ゲンが笑った。
「日常会話で急に言っちゃいそうで怖いね。『このパン、三メートル先に一秒で投げて』とか」
「言うな」
「はい」
ボンドルドは箱を見ていた。
「音を遮るだけでは不十分かもしれません」
「理由」
「装置が音圧そのものではなく、音声パターンや意味情報に反応している可能性があります」
「意味を理解してるってのか?」
クロムが言う。
「可能性です。距離と時間を指定しているなら、単なる振動より複雑です」
千空は頷いた。
「そこは同感だ。だが、今は触らせねえ」
「もちろんです」
「もちろん、って顔で触るタイプだから言ってんだよ」
「顔は仮面で見えないはずですが」
「声が触りたがってる」
ゲンが小さく笑った。
「声が触りたがってる、は名言」
フランソワは静かに記録していた。
ボンドルドの発言は、すべて記録対象になっている。
彼が提案する。
千空が採否を決める。
フランソワが残す。
コハクが見張る。
クロムが「それヤバくね?」と叫ぶ。
この流れが、宝島での新しい安全手順になりつつあった。
誰も嬉しくはなかった。
だが、有効だった。
*
ソユーズの父が復活した。
島民たちは泣き崩れた。
キリサメは、初めて頭首の前で膝をつき、声を震わせた。
「申し訳、ありません……私は……」
頭首は、ゆっくりと彼女の肩に手を置いた。
言葉は少なかった。
だが、島の空気は変わった。
イバラの支配が終わったのだと、誰もが理解した。
ソユーズは、新しい島の中心に立たされた。
本人は戸惑っていた。
「俺が……?」
龍水が豪快に笑う。
「欲しがれ、ソユーズ! お前の島だ!」
「欲しがるって、そういう……」
ゲンが肩をすくめる。
「龍水ちゃん式激励だと思って流して」
千空は言った。
「お前が全部背負う必要はねえ。だが、島の連中にとっては、お前が橋になる」
ソユーズは、少しずつ頷いた。
その後ろで、ボンドルドが呟く。
「正統性の再接続。支配構造の更新としては理想的です」
コハクの槍が、すっと動いた。
「今くらい黙れ」
「はい」
本当に黙った。
それが逆に、周囲を落ち着かなくさせた。
*
イバラは、復活されなかった。
彼だけは、石のまま保管された。
島民の多くは、それを当然だと思った。
キリサメは何も言わなかった。
ソユーズは長く石像を見て、最後に目を伏せた。
千空も、復活液をかけようとはしなかった。
「珍しいですね」
ボンドルドが言った。
「あなたは全員を救うとおっしゃっていた」
「今はな」
千空は短く答えた。
「今、戻せば混乱を生む。島民の判断も必要だ。こいつの復活は、罰じゃなく管理の問題だ」
「管理」
「テメーの好きな言葉だろ」
「はい。ですが、あなたが言うと意味が変わる」
「変えてんだよ」
ボンドルドは、イバラの石像を見た。
「彼を部分的に復活させれば、石化装置の運用情報を得られます」
空気が凍った。
千空の目が冷える。
「部分的に?」
「声帯、聴覚、必要最低限の意識。四肢は石化のまま。逃走不能。質問は可能です」
コハクが槍を突きつけた。
「それを尋問と呼ぶのだ」
「はい」
「しかも、身体を石のままにして」
「安全性を考慮すれば有効です」
ボンドルドは、あまりにも自然に答えた。
「本人の同意は」
フランソワが静かに聞いた。
「得られません」
「であれば、却下でございます」
ボンドルドはフランソワを見る。
「あなたは明確ですね」
「人を扱う時ほど、明確でなければなりません」
「同意します。ただし、私は別の結論へ行きます」
「存じております。ですので、あなたには監視が必要でございます」
龍水が笑った。
「フランソワが言うと、裁判の判決みたいだな!」
千空はイバラの石像から離れた。
「部分復活尋問は却下。記録しとけ」
フランソワが記録する。
ボンドルドは、素直に頷いた。
だが、その目はまだイバラを見ていた。
千空は、それを見逃さなかった。
「考えるなよ」
「考えるだけなら」
「やめろ」
「では、保留します」
「保留もすんな」
*
通信機が直ったのは、その夜だった。
クロムと千空が組み直し、島の材料で補強し、船の残骸から使える部品を拾い上げた。
ルリとの通信が戻る。
村の声。
日本本土の声。
それは、宝島での勝利を実感させるものだった。
だが、喜びは長く続かなかった。
雑音が入った。
ザザ。
ザ、ザザザ。
千空の顔が変わる。
クロムが叫ぶ。
「またか!?」
通信機の向こうから、声がした。
いや、声というより、機械が人間の声を真似たもの。
しかも、その声は。
千空の声だった。
距離。
時間。
地球を丸ごと呑む数字。
部屋が凍りつく。
石化装置は、箱の中だ。
厚布で覆われている。
だが、全員が一斉にそちらを見た。
「まさか、遠隔命令……?」
クロムの声が震える。
千空は箱へ走る。
「全員、耳を塞げ!」
コハクが箱へ飛ぶ。
龍水が叫ぶ。
「布を増やせ!」
フランソワは即座に水で濡らした厚布を持ってくる。
しかし、最も早く動いたのはボンドルドだった。
拘束されたまま、身体を倒すように箱へ向かった。
コハクが槍を向ける。
「動くな!」
「箱を完全に塞いではいけません」
「何?」
ボンドルドの声には、いつもの穏やかさの底に、明確な熱があった。
「反応を見なければ」
「ふざけるな!」
コハクの槍が喉元に触れる。
千空が叫ぶ。
「完全遮音だ! 今は観測より安全優先!」
ボンドルドは、一瞬だけ沈黙した。
それから頷いた。
「承知しました」
その返事が、早すぎた。
千空は違和感を覚えた。
箱が厚布で覆われる。
音が遮断される。
通信機の声は、なお続く。
千空の声で、世界を石にしろと命じている。
だが、何も起きない。
石化装置は沈黙している。
クロムが息を吐く。
「止まった……のか?」
千空は箱を見た。
「いや。反応しなかった。電池切れか、遮音が効いたか、命令条件が合わなかったか」
ボンドルドが静かに言う。
「いいえ」
全員が彼を見る。
「装置は反応しかけました」
千空の顔が変わる。
「なぜわかる」
「箱の内側に、微細な振動がありました」
「見えたのか?」
「いえ」
ボンドルドは、自分の袖口を見た。
拘束具の隙間から、細い黒い糸が一本、箱へ向かって伸びていた。
コハクが即座に切った。
「何をした!」
「接触式の振動記録糸です。危険はありません」
「許可した覚えはない!」
「許可を求めれば、却下されたでしょう」
千空の声が低くなる。
「テメー……」
「遠隔命令が成立するかどうかは、極めて重要でした」
「世界が石になる可能性があったんだぞ」
「はい」
「それでも記録したのか」
「はい」
沈黙。
次の瞬間、大樹がボンドルドの胸倉を掴んだ。
装甲を剥がされているため、布が軋む。
「お前……!」
大樹の声は怒りで震えていた。
「みんなが石になるかもしれなかったんだぞ!」
「だから記録しました」
「違う!」
大樹の拳が震える。
殴れば、ボンドルドは倒れる。
だが、大樹は殴らなかった。
千空が言った。
「大樹、離せ」
「でも!」
「離せ。殴る価値もねえ」
大樹は歯を食いしばり、手を離した。
ボンドルドは、乱れた襟を直した。
「装置は遠隔音声に反応し得る。ただし、発動には至らなかった。理由は、出力不足、劣化、遮音、または条件不一致」
「そのデータを取るために、全員を危険に晒した」
「危険は管理しました」
「管理してねえ。隠した」
千空は近づく。
「これで違反二回目だ」
「記録してください」
「言われなくてもな」
フランソワは、無言で記録板に書き込んだ。
ボンドルド、無許可で石化装置に振動記録糸を接続。
目的、遠隔命令反応の観測。
重大違反。
ボンドルドは、それを横目で見て言った。
「字が美しいですね」
「黙れ」
フランソワが即答した。
その静かな怒りに、クロムが少しだけ怯えた。
*
通信機の声は、やがて途切れた。
部屋は、しばらく沈黙したままだった。
ゲンがぽつりと言う。
「これ、つまり……敵は石化装置を遠隔で動かそうとしたってことだよね」
千空は頷く。
「ああ。しかも、俺の声を使ってな」
「気持ち悪っ」
「気持ち悪いどころじゃねえ。こいつは、石化装置の仕様を知ってる。通信で命令できる可能性も知ってる。地球まるごと指定する数字も知ってる」
クロムが顔を青くする。
「じゃあ、石化の黒幕か?」
「少なくとも、関係者だ」
ボンドルドが言った。
「月です」
全員が彼を見る。
「なぜだ」
千空が問う。
「電波の方向性、遅延、強度、そして地上に残る発信源の不足。確定ではありませんが、地球外からの信号と見るべきです」
「飛ばしすぎだ」
「はい。仮説です」
千空は、通信記録を見る。
地球外。
月。
それは突飛だ。
だが、この世界で最も突飛なことは、もう起きている。
全人類の石化。
ならば、月からの信号程度で驚いている場合ではない。
龍水が笑った。
「ならば、次の目的地は月か!」
「気が早え」
千空は言った。
「だが、最終目的地候補には入った」
クロムが叫ぶ。
「月って、あの月だろ!? どうやって行くんだよ!」
「ロケットだ」
千空は即答した。
部屋が静まり返る。
龍水だけが笑った。
「欲しいぞ、月!」
ボンドルドは、月という言葉を聞いた瞬間、明らかに空気を変えた。
「ロケット」
彼は静かに繰り返す。
「地上の文明再建から、宇宙へ」
「そうだ」
千空は言った。
「黒幕が月にいるなら、月まで行く」
「素晴らしい」
ボンドルドの声に、熱が混じった。
「人類の前進として、これ以上の道はない」
コハクは彼を睨む。
「お前は乗せない」
「現時点では、そうでしょう」
「永遠にだ」
「永遠という条件は、科学の前では変わりやすい」
「変えさせない」
千空はボンドルドを見た。
「テメーは当面、石化装置から十メートル以内に近づけねえ」
「十メートルですか」
「不満か」
「いいえ。距離が具体的なのは良いことです」
「その距離の外から何か仕込むなよ」
「では、二十メートルにしますか?」
「黙れ」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、緩んだのは一瞬だった。
フランソワが、記録板を閉じる。
「千空様。ボンドルド様の処遇を再検討すべきかと」
「だな」
千空は言った。
「拘束を強化する」
ボンドルドは穏やかに聞いた。
「再石化ではないのですね」
「ああ」
「理由は」
「テメーが今取ったデータが必要だからだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。吐かせるだけだ」
ボンドルドは頷いた。
「では、取引です」
コハクの槍が動く。
「まだ言うか」
「はい。私の処遇と引き換えに、遠隔命令反応の全データを提示します」
「全部吐かせるっつったろ」
「私が死蔵している解釈までは引き出せません」
千空は笑った。
「自分の頭を人質にするの、何回目だよ」
「有効なので」
「最悪だな」
「よく言われます」
千空は少し黙った。
そして言った。
「条件を出せ」
「石化装置の観察権」
「却下」
「では、観察済みデータへのアクセス」
「共有記録なら許可」
「遠隔命令の再現実験」
「却下」
「遮音状態での模擬音声実験」
「検討」
「ゾアホリック断片の返却」
「却下。永久封印」
「スパラグモス残骸の確認」
「俺の監視下でなら一度だけ」
ボンドルドは、そこで初めて満足したように頷いた。
「成立です」
「まだこっちが成立って言ってねえ」
龍水が笑う。
「いや、成立だ。こいつは今、月への道に必要な毒だ」
「毒なら薄める」
フランソワが言った。
「それでも毒であることに変わりはございません」
千空は頷いた。
「薄めて、ラベル貼って、鍵かけて、必要な時だけ使う」
ボンドルドは静かに言った。
「まるで薬品ですね」
「テメーは劇薬だ」
「適切です」
*
その夜、ボンドルドは新しい拘束室に移された。
窓なし。
装甲なし。
道具なし。
拘束具は二重。
見張りは交代制。
会話は記録。
室内の壁には、クロムが書いた札が貼られた。
仮面に話しかけられても、勝手に納得しない。
ゲンが見て笑った。
「クロムちゃん、いい注意書き書くじゃん」
「大事だろ!」
「大事だね」
ボンドルドは、その札を見て言った。
「実に実用的です」
「褒めんな!」
千空は扉の前に立った。
「最後に一つ聞く」
「どうぞ」
「テメー、遠隔命令の瞬間、箱の遮音を完全にする前に反応取ったな」
「はい」
「仮に発動してたら?」
「島は再石化していた可能性があります」
「俺たちもか」
「はい」
「それを許容した」
ボンドルドは、少しだけ黙った。
「遠隔命令が実際に装置へ干渉するかどうかは、人類の存続に関わる情報です」
「だから、全員危険に晒していいってか」
「いいとは言いません」
「思ってるだろ」
「必要であれば」
千空は、扉の枠を握った。
木が軋む。
「ボンドルド」
「はい」
「次に同じことしたら、俺はテメーを戻せない場所に封じる」
「殺さないのですか」
「殺さねえ」
「なぜ」
「テメーのやり方に寄るからだ」
ボンドルドは黙った。
千空は続ける。
「俺は人類を戻す。テメーみてえなやつも含めてな。ただし、自由にするとは言ってねえ」
「なるほど」
ボンドルドの声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「それが、あなたの地獄ですか」
「あ?」
「救うと決めた相手が、救うに値しない行動を取り続けても、あなたは救う方法を探す」
千空は答えなかった。
ボンドルドは続ける。
「やはり、あなたは私よりもずっと残酷です」
「黙れ」
千空は扉を閉めた。
鍵がかかる。
外では、月が出ていた。
白く、遠く、静かに。
その月のどこかから、何者かが石化装置へ命令を送った。
人類をもう一度、石に戻そうとしている。
科学王国は、宝島を越えた。
次は世界だ。
そして、その世界への航海には、鍵のかかった部屋の中で静かに笑う、最悪の科学者も乗っている。