宝島を出る時、ペルセウスには一つ余計な部屋が増えていた。
檻ではない。
牢でもない。
千空はそれを、あえて「保管室」と呼んだ。
中には机が一つ。椅子が一つ。壁には厚い板。床には固定具。窓はない。道具はない。筆も、刃物も、紐も、金属片もない。
そして中央に、ボンドルドが座っている。
両腕は固定されている。仮面は外されていないが、装甲はほぼ剥がされていた。ゾアホリック断片は回収済み。スパラグモスの残骸も別保管。石化装置からは二十メートル以上離されている。
扉の外には、クロムが書いた注意書き。
話がうまくても信用しない。
役に立っても信用しない。
「なるほど」と言った時点で一度離れる。
ゲンがそれを見て笑った。
「だいぶ実践的になってきたね」
クロムは腕を組んだ。
「大事だろ。あいつ、気づいたらこっちが納得させられてんだよ」
「そうだね。俺も商売替えを考えるレベル」
扉の内側から、穏やかな声がした。
「たいへん良い注意書きです」
「褒めるな!」
クロムが即座に叫ぶ。
「褒められたらなんか負けた気になる!」
「負けてはいません。学習しています」
「それも嫌だ!」
*
月へ行く。
そのためには、世界が必要だった。
石化装置の謎を解くための旅は、いきなり宇宙へは届かない。ロケットを造るには、燃料、素材、電子部品、ゴム、アルミ、数学、時計、精密加工、そして膨大な復活液が必要になる。
千空は甲板に地図を広げた。
「まずは北米だ」
龍水が笑う。
「新大陸か! 欲しいぞ!」
「欲しいのはコーンだ」
千空が指で地図を叩く。
「トウモロコシから大量のアルコールを作る。復活液の材料確保だ。人を戻すにも、都市を作るにも、まず復活液が足りねえ」
クロムが目を輝かせる。
「つまり、復活液の大量生産工場か!」
「そうだ。コーンシティを作る」
大樹が拳を握った。
「畑なら任せろ!」
フランソワは即座に言った。
「食料生産と燃料生産を兼ねるのであれば、農地管理と備蓄計画も同時に必要でございます」
ゲンは地図を見ながら言う。
「問題は、向こうに誰がいるかだね。全部石像ならいいけど、そうとも限らない」
その言葉で、空気が少し変わった。
宝島には人がいた。
なら、アメリカにも人がいてもおかしくない。
千空は保管室の方を見る。
「ボンドルド」
扉越しに声が返る。
「はい」
「新大陸に現代科学者がいた場合、どう動くと思う」
「条件によります」
「条件は?」
「復活時期、資源量、保有技術、統治体制、軍事力。特に、復活した人物が科学者であり、復活液の製法に到達している場合、科学王国と競合します」
龍水が笑みを深くする。
「競合?」
「はい。あなた方は復活液を人類救済の鍵として扱う。相手が同じ科学力を持つ場合、それを統治の鍵として扱う可能性があります」
「お前みたいにか」
千空が言う。
「私より効率的かもしれません」
場が静まる。
「現代科学を知る者が、復活者を選び、農地を支配し、銃器や航空技術を再建していた場合、あなた方は初めて“科学で負ける”可能性に直面します」
クロムが叫ぶ。
「科学で負けるって、千空がか!?」
「知識量だけなら、あり得ます」
ボンドルドは淡々と答えた。
「千空さんは天才ですが、全分野の専門家ではありません。現代には、彼と別方向の専門家がいた。軍事、航空、精密機械、理論物理、化学工業。相手が組織化していれば、脅威です」
千空は笑った。
「いいじゃねえか」
クロムが驚く。
「いいのかよ!」
「科学でぶつかる相手がいるなら、燃えるだろ」
ボンドルドは少しだけ黙った。
「その反応は、危険ですね」
「テメーに言われたくねえ」
*
北米大陸が見えた。
広い。
日本とも宝島とも違う。
水平線の向こうに大地が横たわり、風の匂いが変わる。森、草原、泥、乾いた土。
龍水は舵を握ったまま叫んだ。
「見えたぞ、新大陸!」
大樹は甲板で拳を突き上げた。
「畑だ!」
「まだ畑じゃねえ」
千空が言う。
「これから畑にするんだよ」
上陸班は慎重に組まれた。
千空、龍水、クロム、コハク、ゲン、大樹、フランソワ。
そして、保管室の中のボンドルド。
彼は上陸しない。
千空がそう決めた。
「テメーは船で待機だ」
「妥当です」
「妥当って言いながら何かするなよ」
「観察はします」
「するな」
「窓がありません」
「なら、壁見てろ」
「壁からも情報は得られます」
「壁も剥がすぞ」
ゲンが笑った。
「千空ちゃん、壁に嫉妬してるみたい」
「してねえ」
だが、上陸から三時間後。
最初の銃声が鳴った。
乾いた音が、草原を裂いた。
千空の帽子が吹き飛ぶ。
全員が伏せる。
コハクが即座に千空の前へ出る。
「遠距離攻撃!」
クロムの顔が青ざめる。
「弓じゃねえ! 何だ今の音!」
「銃だ」
千空の声は低かった。
「現代銃器だ」
ゲンが血の気を失う。
「え、いきなり文明レベル跳ねた?」
龍水は笑っていない。
「狙撃だ。こちらを殺す気で撃ってきた」
二発目。
木の幹が弾ける。
正確だ。
距離がある。
相手は見えない。
千空は地面へ伏せたまま呟いた。
「やべえな。こっちの位置、完全に取られてる」
その時、通信機から声が入った。
船からだ。
ボンドルドの声。
「千空さん。銃声が二度。間隔は三・二秒。音の反射から、射点は北西の高台。単独ではなく、観測者がいる可能性が高い」
クロムが叫ぶ。
「なんでわかんだよ!」
「船体に伝わる音と、外の見張りの反応を聞きました」
千空は舌打ちした。
「壁どころか船まで観察してやがる」
ボンドルドは続ける。
「逃げるなら南東の窪地。反撃は困難です。相手は、殺傷より誘導を狙っている可能性があります」
「誘導?」
ゲンが小声で言う。
「殺せる距離なのに、帽子と木を撃った。つまり、警告?」
「または、こちらの反応を見る試射です」
ボンドルドの声は静かだった。
「相手にも科学者がいます」
その言葉が、全員の背筋を冷やした。
*
狙撃は、追い立てるように続いた。
殺す一歩手前。
逃げ道は残す。
しかし、進める方向は限られる。
千空たちは、草地の窪地へ押し込まれた。
そこに、白い旗が立っていた。
布ではない。
紙。
そして、英語で文字が書かれている。
科学者へ。
交渉を望む。
銃を持たず、単身で来い。
ゲンが青ざめた顔で笑う。
「うわぁ、向こうも交渉上手」
龍水が怒りを含んだ声で言う。
「銃を撃って交渉とは、ずいぶん欲張りな男だ」
千空は紙を見た。
「ドクター・ゼノ」
その名前が、下にあった。
クロムが聞く。
「知ってるのか?」
「知らねえ」
千空は言った。
「だが、名乗り方が完全に現代科学者だ」
通信機から、ボンドルドが言う。
「単身では行くべきではありません」
「当たり前だ」
千空が返す。
「だが、行かなきゃ情報が取れねえ」
「では、代理を出すべきです」
「誰を」
「私を」
全員が黙った。
ゲンが乾いた声で言う。
「いやぁ、今のは予想してたけど聞きたくなかったね」
千空は通信機を睨んだ。
「却下」
「理由は?」
「テメーを新しい科学者に会わせるとか、毒と毒を混ぜるようなもんだ」
「爆発するか、薬になるかもしれません」
「爆発寄りだろ」
「私は、相手の科学思想を読むのに適しています」
「だから却下だ」
ボンドルドは少し黙った。
「では、私を餌にしてください」
千空の目が細くなる。
「何?」
「相手は科学者です。未知の装備、未知の被検体、アビス由来の技術。私を提示すれば、相手の関心は私に向く。あなたは、その反応を観察できる」
コハクが吐き捨てる。
「自分を餌にするのが好きだな」
「有効なので」
龍水が考える顔になった。
「使えるな」
「龍水!」
コハクが睨む。
「いや、使える。相手が科学者なら、ボンドルドは最高の毒餌だ」
千空は黙っていた。
最悪の案。
だが、相手が銃器を持つ科学勢力なら、情報なしに突っ込む方が危険だ。
ゲンが小声で言う。
「千空ちゃん。毒餌、撒く?」
千空は通信機を握った。
「ボンドルド」
「はい」
「テメーを出す。ただし、拘束したままだ。交渉権はねえ。俺の許可なしに情報を出すな」
「承知しました」
「承知しました、で裏で全部やるなよ」
「努力します」
「努力じゃ足りねえ」
*
ボンドルドは、草原へ出された。
両腕拘束。
首枷。
装甲なし。
仮面だけは残された。
その異形は、銃口の向こうから見ても異様だった。
しばらくして、草原の向こうから男が現れた。
長身。
落ち着いた姿勢。
石の世界に不釣り合いなほど整った服装。
眼差しは冷たく、知的で、支配的だった。
「君が科学者か」
英語だった。
千空は隠れた場所で通信を聞いている。
ボンドルドは英語で答えた。
「いいえ。私は交渉対象です」
「交渉対象?」
「捕虜、危険物、研究素材。分類は相手により変わります」
男――ゼノは、わずかに眉を動かした。
「面白い自己紹介だ」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「よく言われます」
ゲンが隠れ場所で小声で言う。
「国際的に通用するんだ、その返し」
ゼノはボンドルドの拘束具を見た。
「君は、彼らの仲間ではない?」
「協力関係です。厳密には、管理下の危険人材です」
「管理されている自覚がある」
「はい」
「では、なぜ彼らは君を出した」
「あなたの反応を見るためでしょう」
ゼノは目を細めた。
「君は正直だな」
「正直である方が、嘘より有効な場合があります」
ゼノの視線が、仮面の奥を探るように動く。
「君は、どこの科学者だ」
「この世界の外側、と言うと不正確でしょうか」
「冗談か」
「いいえ」
「では、君は何を知っている」
「石化、復活液、段階的解除、外科処置、未知環境適応、そして人間の限界を超えるための手段について、いくらか」
ゼノの目が初めて明確に動いた。
「人間の限界を超える」
「はい」
「具体的には」
「それを聞くなら、先にあなたの目的を」
ゼノは微笑した。
「主導権を取りに来るか。捕虜にしては強気だ」
「主導権ではありません。交換条件です」
「いいだろう。私は、文明を最短で再建する。無知な大衆に科学を委ねる気はない。科学は、理解できる者が管理すべきだ」
ボンドルドは黙った。
その沈黙は、拒絶ではない。
観察だった。
ゼノは続けた。
「君の管理者は、そうではないらしい」
「千空さんは、科学を共有しようとします」
「非効率だ」
「はい」
隠れ場所で、クロムが顔をしかめる。
「はいって言ったぞ、あいつ」
千空は黙っている。
ボンドルドは続けた。
「ですが、その非効率が、彼の集団を強くしています」
ゼノの目が冷える。
「感情論か」
「いいえ。分散処理です。知識を共有することで、一人の喪失が文明の停止に直結しにくくなる。短期効率では劣るが、長期耐久性に優れます」
ゼノは黙った。
「君は彼を評価しているのか」
「非常に」
「なら、なぜ拘束されている」
「評価と安全性は別です」
ゼノは小さく笑った。
「君は、私の側に来る気はあるか」
空気が止まる。
隠れ場所の千空が目を細める。
コハクが槍を握る。
ゲンが息を殺す。
ボンドルドは、すぐには答えなかった。
そして、言った。
「条件によります」
クロムが小声で叫びかけ、ゲンに口を塞がれた。
ゼノは満足そうに言った。
「条件を言え」
「石化現象の研究環境。被検体の確保。復活液の製法。医学、化学、通信、軍事技術へのアクセス。そして、千空さんとの継続的な接触」
「最後はなぜだ」
「彼は、私の研究に不可欠です」
「友人か?」
「いいえ」
「敵か?」
「いいえ」
「では何だ」
ボンドルドは静かに言った。
「制約です」
その言葉に、ゼノは初めて本気で笑った。
「科学者が自分の制約を求めるのか」
「制約がある方が、実験は洗練されます」
隠れ場所で、千空が低く呟いた。
「あいつ……」
龍水が言う。
「ゼノを釣っているな」
「ああ」
ゲンは青い顔で笑った。
「でも、半分本気だよね」
「百億パーな」
*
その瞬間、銃声がした。
ボンドルドの肩が弾けた。
血が飛ぶ。
しかし彼は倒れなかった。
遠距離からの狙撃。
ゼノの背後に、もう一人いる。
スタンリー。
ゼノは驚かない。
「試射だ」
ボンドルドは肩から流れる血を見た。
「見事です。骨は外している。動脈も避けた。拘束された対象への威嚇として、非常に正確」
ゼノが言う。
「痛みには強いようだな」
「痛みはあります」
「表に出さないだけか」
「必要がないので」
二発目。
今度は足元。
土が跳ねる。
ゼノは言った。
「君を殺すのは容易だ」
「はい」
「なら、なぜ殺さないと思う」
「あなたが私に価値を見出したからです」
「正解だ」
ゼノは一歩近づいた。
「君を引き渡せ。代わりに、千空とやらには一時停戦を提案する」
通信機越しに、場が凍った。
ゲンが小さく言う。
「ボンドルドちゃん、取引材料として成立しちゃったね」
千空は歯を食いしばる。
「最悪だ」
ボンドルドは言った。
「私を引き渡すかどうかは、千空さんが決めます」
「君自身は?」
「私は観察機会の多い方を選びます」
「では、こちらへ来い」
「現時点では、まだです」
ゼノの目が細くなる。
「理由は」
「あなたは私を使うでしょう。千空さんは私を使いながら止めようとする。後者の方が、長期的に興味深い」
ゼノの顔から笑みが消えた。
「君は、私を退屈だと言っているのか」
「いいえ。あなたは非常に優秀です」
「なら」
「ですが、完成されすぎている」
風が草を揺らした。
「あなたは科学を支配の道具として使う。理解しやすく、強い。しかし、千空さんは科学を共有することで、予測しにくい成長を引き起こす」
ボンドルドは、血を流しながら穏やかに言った。
「私は、その不安定性を見たい」
ゼノはしばらく黙った。
そして言った。
「交渉決裂だ」
その瞬間、三発目。
今度は殺す弾だった。
ボンドルドの胸へ向かう。
だが、コハクが飛び出した。
槍ではない。
盾代わりに持っていた金属板で弾を受ける。
衝撃で腕が痺れる。
「撤退!」
千空が叫ぶ。
大樹が走り、ボンドルドを担ぐ。
「重い!」
「装甲は外しているはずですが」
「黙ってろ!」
クロムが煙玉を投げる。
ゲンが叫ぶ。
「はいはい、交渉終了! 次回またご縁があれば!」
龍水が合図し、退路が動く。
銃声が続く。
だが、千空たちは逃げ切った。
*
ペルセウスへ戻った時、ボンドルドの肩から血が流れ続けていた。
律が処置を始める。
「動かないでください」
「動いていません」
「喋らないでください」
「努力します」
「努力じゃなくて黙ってください」
「はい」
フランソワが止血布を渡す。
コハクは槍を持ったまま、怒りを隠さない。
「お前、ゼノにつく気だったのか」
「可能性としては検討しました」
「貴様……!」
「ですが、今は千空さん側に残ります」
「今は、か」
「はい」
千空はボンドルドの前に立った。
「テメー、ゼノに何を見た」
「完成された支配者型科学者です」
「俺には」
「未完成の共有型科学者です」
「褒めてんのか」
「観察です」
千空は笑った。
「ゼノは俺を殺しに来るな」
「はい」
「理由は」
「あなたが彼の統治構想にとって最大の不確定要素だからです」
「テメーは?」
「私は、捕獲対象になるでしょう」
「なぜ」
「ゼノさんは、私を研究対象として欲しがる。スタンリーさんは、私を危険物として排除したがる。二人の判断が割れる可能性があります」
龍水が腕を組む。
「使えるな、その亀裂」
「はい」
千空は言った。
「ボンドルド」
「はい」
「テメーを餌にする」
「承知しました」
「喜ぶな」
「顔は仮面で見えないはずですが」
「声が喜んでる」
クロムがぼそっと言った。
「また声かよ」
ゲンが肩をすくめる。
「この船、声で感情読む文化できてるね」
*
夜。
ボンドルドは治療後、再び保管室へ戻された。
肩に包帯。
拘束具はさらに強化。
壁の注意書きが一枚増えた。
敵に売れそうでも売らない。
クロムの字だった。
ボンドルドはそれを見た。
「安心してください。まだ売られません」
扉の外のクロムが叫ぶ。
「まだって言うな!」
千空は通信記録を見ていた。
ゼノ。
スタンリー。
現代科学。
銃。
航空技術の可能性。
コーンシティどころではない。
新大陸には、別の科学王国があった。
しかも、支配を選ぶ科学者がいる。
そこへ、ボンドルドが混ざる。
最悪だった。
だが、同時に使える。
ゼノはボンドルドを欲しがる。
ボンドルドはゼノを観察したがる。
千空は、その相互欲望を利用できる。
ゲンが言った。
「三角関係みたいだね。全然ロマンチックじゃないけど」
「三角関係っつーか、三つ巴の毒物反応だな」
千空は地図を見た。
「ゼノは俺を殺しに来る。スタンリーは実行できる。こっちはコーンを取らなきゃいけねえ」
「ボンドルドちゃんは?」
「檻に入れたまま、外へ匂いだけ漏らす」
ゲンは苦笑した。
「毒餌運用、正式採用か」
「そうだ」
千空は言った。
「新大陸戦、開幕だ」
その夜、保管室の中でボンドルドは静かに目を閉じていた。
ゼノ。
スタンリー。
科学による支配。
科学による共有。
月。
石化装置。
復活液。
そして、自分を欲しがる新しい科学者。
「実に」
彼は小さく呟いた。
「良い環境になってきました」
扉の外でクロムが叫んだ。
「今の記録! 絶対ヤバい意味のやつ!」
ボンドルドは、静かに答えた。
「正解です」
クロムは、本気で頭を抱えた。