ゼノは、ボンドルドを欲しがった。
それは、捕虜としてではない。
研究対象としてだった。
彼は科学者だった。
科学を、人類に委ねるものではなく、人類を導く者が管理するべきものだと考えていた。
だから、千空の存在は危険だった。
千空は科学を共有する。
知識をばらまく。
クロムのような原始の少年に火薬を教え、村人に電気を見せ、大樹に農業と復活を結びつけ、龍水の欲望すら文明の駆動力に変える。
それは、ゼノにとって乱雑だった。
だが、ボンドルドは別だった。
彼は科学を共有しない。
必要な情報を、必要な相手へ、必要な量だけ与える。
倫理を、実験条件として扱う。
人間を、観察単位として見る。
ゼノは最初、それを有用だと思った。
だが、その判断はすぐに揺らぐことになる。
*
夜明け前。
ペルセウスの保管室に、銃弾が撃ち込まれた。
窓はない。
壁は厚い。
だが、船体の板を貫通する角度で、弾は拘束具の金具だけを砕いた。
ボンドルドの右腕が自由になる。
クロムが飛び起きた。
「狙撃!?」
外から銃声。
二発目。
扉の鍵が砕ける。
扉が開いた。
保管室の中で、ボンドルドは座ったまま右手を動かした。
縄が落ちる。
見張りの一人が叫ぶ。
「動くな!」
「動きます」
ボンドルドは答えた。
見張りが槍を構える。
だが、ボンドルドは見張りを攻撃しなかった。
逆に、その首根っこを掴んで床へ押し倒した。
直後、三発目が見張りの頭上を抜け、壁に穴を開けた。
「伏せていてください。次は当たります」
「お、お前……」
「礼は不要です。私を狙っている」
甲板が騒がしくなる。
スタンリーだ。
遠距離から、正確にボンドルドだけを切り離しに来ている。
千空が駆け込む。
「ボンドルド!」
「はい」
「逃げる気か」
「まだ判断中です」
「判断すんな。残れ」
「条件は?」
「命令だ」
「私はあなたの部下ではありません」
千空の目が冷える。
その瞬間、また銃声。
ボンドルドの肩のすぐ横を弾が抜ける。
彼は揺れない。
千空は舌打ちした。
「スタンリーはテメーを殺す気じゃねえ。連れ出す気だ」
「ゼノさんの指示でしょう」
「なら、行かせるわけにゃいかねえ」
ボンドルドは、甲板の方を見た。
「では、利用しましょう」
「何を」
「私の拉致計画を」
*
甲板に、白い布が上がった。
降伏ではない。
取引の合図。
千空は通信機を握った。
「ゼノ。聞こえてんな」
返答はすぐだった。
「聞こえているよ、石神千空」
その名前の呼び方で、千空の目がわずかに動いた。
ゼノは知っている。
どこまでかは不明。
「ずいぶん物騒な迎えだな」
「危険物を回収しようとしただけだ」
ゼノの声は冷静だった。
「その男は君たちの管理下に置くには危険すぎる」
「そっちに置いた方が危険だろ」
「私は管理できる」
千空は笑った。
「百億パー無理だ」
「随分な自信だ」
「経験談だ」
沈黙。
ゼノの声が少し低くなる。
「では、君はなぜ彼を生かしている」
「使えるからだ」
「危険でも?」
「危険だから使い道がある」
通信機の向こうで、ゼノは小さく笑った。
「君も相当だな」
「テメーに言われたくねえよ」
横でボンドルドが言った。
「ゼノさんに提案があります」
千空が睨む。
「勝手に喋るな」
「必要です」
「許可は」
「求めます」
千空は一秒だけ考えた。
「十秒」
「ありがとうございます」
ボンドルドは通信機へ近づく。
「ゼノさん。私を捕獲したいなら、殺傷を避けた狙撃より、周囲の安全保障を崩す方が有効です」
通信機の向こうが静まった。
「どういう意味だ」
「私は自分の負傷では動きません。しかし、千空さんたちの中に重傷者が出れば、救助のために拘束手順は緩む。そこを狙うべきです」
クロムが叫んだ。
「おい!」
コハクの槍がボンドルドの首に当たる。
ボンドルドは続けた。
「ただし、死亡させてはいけません。死亡すれば千空さん側は即座に敵対を最大化する。最適なのは、処置可能だが放置できない傷です」
「十秒終わりだ」
千空が通信機を奪った。
だが、向こうのゼノは沈黙していた。
その沈黙には、明確な嫌悪があった。
「君は……」
ゼノの声が、少しだけ変わる。
「自分の仲間を撃てと、私に助言したのか」
「協力関係です」
ボンドルドは答える。
「仲間と呼ぶかは、彼らの判断によります」
「君は、それを本気で合理的だと思っているのか」
「はい」
また沈黙。
ゼノは、支配の科学者だった。
人類を導くため、科学を少数者が握るべきだと考えている。
銃も使う。
暗殺も選ぶ。
敵の科学者を排除する判断もできる。
だが、ボンドルドの言葉には、違う冷たさがあった。
ゼノは人を支配対象として見る。
ボンドルドは、支配対象ですらないものとして見る。
変数。
条件。
処置可能な損傷。
通信機の向こうで、ゼノが低く言った。
「スタンリー」
別の声が入る。
「聞いている」
「撃つな」
スタンリーの声は短い。
「了解」
千空は少し目を見開いた。
ボンドルドも、わずかに首を傾けた。
「意外ですね」
ゼノの声は、冷たくなっていた。
「私は科学者だ。君のようなものを、科学とは呼ばない」
甲板に、風が吹いた。
クロムが小さく呟く。
「ゼノが……引いた?」
ゲンは乾いた笑いを漏らした。
「すごいね。支配系科学者にドン引きされるって、なかなかだよ」
ボンドルドは、静かに答えた。
「それは残念です」
千空が言う。
「残念そうに聞こえねえな」
「新しい分類が得られました」
「何の」
「ゼノさんの倫理境界です」
千空は通信機を握る手に力を入れた。
「今ので、テメーは敵味方両方の境界を測ったわけか」
「はい」
コハクが、本気で槍を押し込んだ。
血が一筋、ボンドルドの首を伝った。
「これ以上喋れば刺す」
「理解しました」
*
ゼノの拠点は、予想以上に進んでいた。
トウモロコシ畑。
蒸留設備。
機械加工の工房。
銃器。
電源。
通信。
そして、飛行機の骨組み。
千空たちは離れた丘から、それを見た。
クロムは唖然としていた。
「なんだよ、これ……こっちより進んでるじゃねえか」
千空は笑った。
「現代科学者が本気で文明再建したらこうなるって見本だな」
ゲンは汗を拭う。
「しかも銃持ち。話し合いでどうにかなる?」
「なるわけねえだろ」
龍水が笑う。
「ならば奪うか、買うか、騙すかだ!」
「全部混ぜる」
千空は言った。
「目的はコーンの確保。ゼノの無力化。スタンリーの足止め」
ボンドルドは、後方で拘束されたまま見ていた。
今回、上陸には同行している。
ただし、両腕拘束、首枷、足には短い鎖。コハクと大樹が左右にいる。
「ボンドルド。評価」
千空が言う。
ボンドルドは拠点を見た。
「優れています。統一された指揮系統。技術者の選別。軍事防衛。食料生産。復活液生産に向けた合理的配置」
「弱点は」
「中央集権です」
即答だった。
「ゼノさんとスタンリーさんに依存しすぎている。ゼノさんが失われれば科学方針が揺らぎ、スタンリーさんが失われれば軍事運用が崩れる」
龍水が頷く。
「つまり、ゼノを取ればいい」
「はい」
ボンドルドは続ける。
「ただし、殺してはいけません。彼は月へ行くために必要です」
千空が横目で見る。
「そこは一致するんだな」
「有能な科学者は保存すべきです」
「保存って言うな」
「では、確保」
「それも微妙だが、まだマシだ」
ゲンが小声で言う。
「最近、言葉の言い換え講座みたいになってるね」
*
作戦は速かった。
ゲンが偽の交渉を仕掛ける。
龍水が物資の取引を匂わせる。
千空が通信でゼノを引き出す。
クロムは、拠点の外周設備へ小さな細工を仕込む。
コハクは、スタンリーの射線を避けて潜む。
大樹は、いざという時の盾と運搬役。
ボンドルドは、使わない。
少なくとも、表向きは。
ゼノは会談に応じた。
場所は、畑と森の境界。
互いに狙撃可能。
互いに逃走可能。
ゼノは一人で来た。
もちろん、スタンリーの銃口はどこかから向いている。
千空も一人で前へ出た。
もちろん、一人ではない。
森の中に、全員がいる。
ゼノは千空を見た。
「君が石神千空か」
「そういうテメーがドクター・ゼノか」
「噂以上に若い」
「そっちは噂より偉そうだな」
ゼノは薄く笑った。
「君とは、一度話してみたかった」
「俺もだ」
「では、単刀直入に言おう。私の下につけ」
「断る」
「早いな」
「考えるまでもねえ」
ゼノは続ける。
「君の科学は散らばりすぎている。人々に知識を与えすぎる。文明再建初期に必要なのは秩序だ。科学を理解する者が管理し、無知な者を導く」
「で、テメーが王様か」
「必要なら」
「いらねえ」
千空は笑った。
「科学は人類全員のもんだ」
ゼノの目が冷える。
「理想論だ」
「実験済みだ」
その時、後ろからボンドルドの声がした。
「失礼。私も同席してよろしいでしょうか」
千空の顔が凍った。
振り向く。
ボンドルドが立っている。
拘束具はついている。
だが、左手だけが自由になっていた。
コハクがいない。
大樹もいない。
ゼノの目が細くなる。
「どうやって来た」
「見張りの方々に、より優先度の高い問題を提示しました」
森の奥で、大樹の叫び声がした。
「コハク! こっちだ! 煙が!」
ゲンの声も聞こえる。
「ちょっと待って、それボンドルドちゃんの仕込みじゃない!?」
千空が低く言う。
「何をした」
「無害な煙です。大樹さんは人を助けに向かう。コハクさんは危険源を確認する。三十秒ほど、私の監視は薄くなります」
「テメー……!」
「ご安心ください。今回は誰も傷つけていません」
「今回は、じゃねえ!」
ゼノは、ボンドルドを見ていた。
嫌悪。
関心。
警戒。
その三つが、顔に出ない程度に混じっている。
「君は、なぜここへ来た」
ゼノが問う。
「あなたと千空さんの差を、近くで確認するためです」
「差?」
「はい。あなたは科学を秩序のために使う。千空さんは科学を共有のために使う。では、未知の危険人物を前にした時、どちらがより正しく扱えるか」
ゼノは言った。
「私は君を隔離する」
「千空さんもしています」
「私は君を研究する」
「千空さんもしています」
「違いは?」
ボンドルドは、静かに言った。
「あなたは私を理解すれば管理できると思っている」
ゼノは黙る。
「千空さんは、理解しても管理しきれないと知っている」
千空が顔をしかめる。
「褒めてんのか貶してんのか、どっちだ」
「観察です」
ゼノは、ほんの少しだけ表情を歪めた。
「君のようなものを、管理しきれないまま使う方が危険だ」
「同意します」
「ならば、なぜ彼の側にいる」
「彼の側は、私を止めようとする人が多い」
ボンドルドの声は柔らかかった。
「大樹さんは怒る。コハクさんは斬ろうとする。フランソワさんは記録する。クロムさんは叫ぶ。ゲンさんは疑う。千空さんは使いながら縛る」
彼は、ゼノを見た。
「あなたの側では、私はより早く成果を出せるでしょう。しかし、止める者が少ない」
ゼノは言った。
「君を止める必要があると?」
「はい」
即答。
ゼノは、初めて明確に沈黙した。
その沈黙は、科学者のものだった。
目の前の対象が、自分自身の危険性を正確に評価している。
しかも、それを止める環境を選んでいる。
だが、止められるためではない。
制約の中で、より鋭くなるために。
ゼノは、ゆっくりと言った。
「君は、自分を実験系に組み込んでいる」
「はい」
「自分も、他人も、社会も」
「はい」
「科学のために」
「人類の前進のために」
ゼノは目を細めた。
「その言葉を使うな」
声に、初めて嫌悪が混じった。
「君のそれは前進ではない。消耗だ」
ボンドルドは、少しだけ首を傾けた。
「意外です。あなたは、もっと許容すると思っていました」
「私は人類を導く。壊すためではない」
「導く過程で、犠牲は出ます」
「犠牲と標本は違う」
千空が小さく笑った。
「ゼノに説教されてやんの」
ボンドルドは黙った。
ゼノは続ける。
「君は科学者ではない。科学を使う捕食者だ」
風が止まったように感じた。
ボンドルドは、ゆっくり頷いた。
「貴重な評価です」
「評価ではない」
「よく言われます」
千空が言った。
「そこはいつもの返しすんな」
*
銃声が鳴った。
スタンリーだった。
だが、狙いは千空でもボンドルドでもない。
地面。
ゼノの足元。
警告。
ゼノの目が動く。
スタンリーは、撤退を促している。
この会談は危険だと判断したのだ。
だが、その一発で、クロムの仕掛けが動いた。
地面の下に仕込んだ小さな圧力袋。
銃弾の衝撃。
煙ではない。
白い粉が舞う。
石灰。
視界が白く染まる。
千空が叫ぶ。
「今だ!」
コハクが飛び出す。
大樹が戻る。
龍水が縄を投げる。
ゼノは反応した。
速い。
老獪ではなく、鍛えられた現代人の反応。
だが、白い視界の中、ボンドルドだけが一歩早く動いた。
彼はゼノを攻撃しなかった。
逆に、ゼノの逃げ道へ自分の身体を置いた。
拘束具付きの身体。
倒れれば邪魔になる。
ゼノは一瞬、ボンドルドを踏み越えるべきか迷った。
その一瞬。
大樹が届いた。
「捕まえた!」
ゼノの腕が押さえられる。
コハクが銃の可能性を封じる。
龍水の縄がかかる。
ゼノは抵抗したが、数で押された。
「君たち……」
千空が近づく。
「悪いな、ドクター。しばらく同行してもらう」
ゼノはボンドルドを見た。
「君は、本当に厄介だ」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「存じています」
ゼノは、冷たく言った。
「私は君を欲しいと思ったが、間違いだった」
「訂正が早いですね」
「君は兵器にも、研究者にも、臣下にも向かない」
「では、何に向きますか」
ゼノは答えた。
「封印だ」
ボンドルドは、少しだけ黙った。
「千空さんと同じ結論ですね」
千空は笑った。
「よかったな。ドン引き仲間が増えたぞ」
ボンドルドは、穏やかに答えた。
「学術交流として有意義でした」
「どこがだよ」
*
ゼノを捕らえたことで、戦況は一気に変わった。
だが、終わりではない。
むしろ、最悪の追跡が始まる。
スタンリーは、ゼノを取り返しに来る。
彼は撃てる。
飛べる。
追える。
迷わない。
千空はペルセウスへ戻り、即座に指示を出した。
「撤収。コーンの確保は最低限。ゼノを連れて南へ逃げる」
クロムが叫ぶ。
「逃げるのか!」
「戦力差がありすぎる。目的はゼノを殺すことじゃねえ。月へ行く科学力を集めることだ」
龍水が笑う。
「欲しいものは奪った。なら、次は逃げ切る!」
ゼノは拘束され、ボンドルドの保管室の隣に入れられた。
クロムが、新しい札を書いた。
科学者を隣同士に置くな。
千空はそれを見て、即座に言った。
「採用」
だが、船には部屋が足りない。
結局、二人は厚い板一枚を挟んだ隣室に入れられた。
夜。
板越しに、ゼノが言った。
「ボンドルド」
「はい」
「君はなぜ、あの場で私を逃がさなかった」
「あなたが逃げれば、千空さんは撃たれる可能性が高かった」
「君は彼を守ったのか」
「結果として」
「目的は」
「あなたと千空さんの両方を生かした方が、月へ行く確率が上がる」
ゼノは沈黙した。
「君は、人類を進めたいのか」
「はい」
「そのために、人間を壊すのか」
「必要であれば」
「君は、私が考えていた独裁よりも、はるかに危険だ」
「はい」
「なぜ、はいと言える」
ボンドルドは穏やかに答えた。
「自覚のない危険より、自覚のある危険の方が管理しやすい」
板の向こうで、ゼノは低く言った。
「管理される気があるようには聞こえない」
「あります」
「嘘だな」
「はい」
ゼノは、初めて声を荒げた。
「君は何なんだ」
ボンドルドは少し黙った。
「探窟家です」
「科学者ではなく?」
「科学者でもあります」
「人間では?」
「分類上は」
「分類の話ではない」
ボンドルドは、それには答えなかった。
板の向こうで、ゼノは深く息を吐いた。
「千空は、なぜ君を船に置く」
ボンドルドは答えた。
「彼は、捨てないからです」
「君のような者も?」
「はい」
「それが彼の弱点か」
「いいえ」
ボンドルドの声は静かだった。
「それが、彼の最も危険な点です」
*
甲板では、千空が星を見ていた。
北米の空。
日本とも宝島とも違う星の位置。
月がある。
その月へ行くには、ゼノの頭脳が要る。
ボンドルドの危険な発想も、おそらく要る。
だが、その二人を船に積むことは、火薬庫に火を保管するようなものだった。
ゲンが隣に立つ。
「ゼノちゃん、ボンドルドちゃんにかなり引いてたね」
「ああ」
「支配系科学者をドン引きさせるって、やっぱりすごいよ」
「褒めてねえよな」
「もちろん」
ゲンは、少し真面目な声になった。
「でもさ。ゼノちゃんが引いたことで、逆にわかったね」
「何が」
「ボンドルドちゃんのやばさの種類。ゼノちゃんは支配したい。ボンドルドちゃんは、支配すら目的じゃない。人間が壊れても、社会が壊れても、そこからデータが取れるなら前進って見る」
千空は月を見たまま言った。
「だから止める」
「使いながら?」
「使いながらだ」
「大変だねぇ」
「大変じゃねえ科学なんざねえよ」
遠くで、スタンリーの飛行機の音がかすかに聞こえた気がした。
追跡は始まっている。
ペルセウスは南へ向かう。
ゼノを乗せて。
ボンドルドを閉じ込めて。
月へ届く科学を集めるために。
そして船底では、二人の危険な科学者が、板一枚を挟んで沈黙していた。
片方は、科学で人類を支配しようとする男。
もう片方は、科学のためなら人類すら実験条件にする男。
その二人を、千空は生かしたまま連れていく。
全員を救うために。