朝になる前に、千空は起きていた。
炉の火はまだ小さい。村の大半は眠っている。だが、作業場の台の上には、昨夜コハクが回収した黒い破片が置かれていた。
大きさは爪ほど。金属とも樹脂ともつかない。表面は黒く、断面にだけ鈍い銀色が見える。破損部から、かすかに甘いような、苦いような匂いがした。
クロムは眠そうな目をこすりながら、横から覗き込んだ。
「なあ千空。これ、あいつの装甲の部品なんだよな?」
「ああ。本人いわく、外れかけてた部品だとよ」
「罠っぽい?」
「罠なら、わざわざ触るなって言わねえ可能性もある。だが、善意とは限らねえ」
「じゃあ何なんだよ」
「テストだろうな」
千空は、破片に直接触れず、竹製のピンセットで持ち上げた。
まず水に触れさせる。
反応は薄い。泡は出ない。色もほとんど変わらない。
次に、炭の粉を置いた皿の横で、破片の匂いだけを確認する。千空は顔をしかめた。
「薬品が染みてる。揮発は弱い。即効性の毒ってより、保存か鎮静、あるいは防腐系だな」
「怖っ」
「怖えのは、そこじゃねえ」
千空は破片を置いた。
「こいつを“危ないから触るな”って言ったことで、ボンドルドは二つ見てる」
「二つ?」
「一つ。俺らが未知物質にどう対処するか。二つ。俺らがあいつの警告を信用するか」
クロムは目を覚ましたように顔を上げた。
「あー……なるほど。触ったら、雑なやつらだってバレる。触らなかったら、警告を受け入れるってことになる」
「それだけじゃねえ。俺らが分析できるかも見てる。素材、薬品、安全管理。全部だ」
「くっそ、嫌なやつだな!」
「嫌なやつで済むなら楽なんだがな」
千空は破片を灰の上に置き、周囲を囲った。
「現時点でわかったのは、こいつの装備は完全密閉じゃない。破損してる。内部に薬品系の仕込みがある。本人も、それを把握してる」
「危険物の塊じゃねえか」
「そうだ。だが、逆に言えば有限だ。壊れたら戻らねえ」
クロムは破片を見つめた。
「なあ、あいつはさ。俺らの敵なのか?」
「まだ違う」
「味方?」
「もっと違う」
「じゃあ何だよ」
「科学を餌にした爆弾だ」
クロムは黙った。
そこへ、軽い足音が近づいてきた。
「おはよー、千空ちゃん。朝っぱらから物騒な比喩してるねぇ」
ゲンだった。眠そうな顔をしているが、目はしっかり起きている。
「で、仮面ちゃんは?」
「小屋だ。コハクが見張ってる」
「コハクちゃん、寝てないでしょ」
「寝てねえな」
「そっちも危ないね。疲れた見張りは、強い敵より怖いよ」
ゲンは破片を見た。
「それ、昨日の?」
「ああ。軽く見た限り、触らねえ方がいいのは本当だ」
「ふーん」
ゲンは笑った。
「じゃあ、嘘をつかずに信用を一個稼いだわけだ」
「そういうこった」
「やだなぁ。嫌なタイプの誠実さだね」
千空は小さく頷いた。
ボンドルドは、嘘をつかない。
少なくとも、嘘をつかずに相手を動かす方法を知っている。
*
日の出とともに、ボンドルドは小屋から出された。
黒と濃紺の装甲は、朝日に照らされても明るくはならない。仮面の縁だけが鈍く光り、森の影をまとったような姿で、彼は作業場の前に立った。
コハクは一晩中見張っていたにもかかわらず、槍を下ろしていない。
「おはようございます」
ボンドルドは、いつもと同じ声で言った。
「昨夜の部品は、無事でしたか」
「触っちゃいねえ」
千空が答える。
「水にはほぼ無反応。匂いから見て、揮発性は低い。防腐か鎮静系の薬品が染みてる。金属部分は単純な鉄じゃねえ。樹脂部は熱に弱そうだが、燃やすのは保留だ」
「見事です」
「褒めるな。うさんくせえ」
「失礼しました」
「で、あれは何だ」
「装甲内部の緩衝材です。薬品の漏出を抑えるための層でもありました。破損部から外れかけていたため、除去しました」
「何の薬品だ」
「鎮静と保存に関わる混合物です。ただし、現在の残留量では大きな効果はありません」
「人間に使うための?」
「人体にも使えるよう調整されたものです」
大樹の眉が動いた。
ボンドルドはそれを見て、すぐに言葉を足した。
「もちろん、使用には量と目的が重要です。薬は、量を誤れば毒になります」
「毒は、目的を選んでも毒だ」
大樹が言った。
「その見方も正しい」
「お前は、いつも正しいと言うな」
「相手の価値判断を否定しても、観察精度は上がりません」
大樹は言葉に詰まった。
ゲンが横から口を挟む。
「ボンドルドちゃんってさ、相手を怒らせない言い方がうまいよね。怒らせてるけど」
「未熟で申し訳ありません」
「いや、謝り方まで丁寧なのが逆に怖いんだって」
そこへ、派手な声が響いた。
「面白い客人がいると聞いたぞ!」
龍水が、まるで自分の舞台へ登場するように歩いてきた。
羽織った布は村のものだが、立ち方と声だけで場を支配する。隣にはフランソワが控えている。フランソワはボンドルドの装備を一瞥しただけで、表情を変えなかった。
「俺は七海龍水だ。船も、人も、情報も、世界も欲しい男だ」
龍水は笑った。
「貴様は何を欲しがる?」
ボンドルドは龍水を見た。
数秒、観察する。
「明確な欲望を隠さない方ですね」
「隠す必要がない! 欲しいものを欲しいと言うから、人は動く!」
「交渉相手として、たいへん扱いやすい」
龍水の笑みが深くなる。
「言うじゃないか」
「そして、指導者として危険でもある」
「ほう」
「欲望が大きい者は、周囲に進路を示せる。一方で、本人の欲望と集団の利益が一致しなくなった時、破壊的な速度で誤る可能性がある」
龍水は声を上げて笑った。
「気に入ったぞ! 俺を値踏みするとはな!」
千空が横から言った。
「気に入るな。値踏みされてんだぞ」
「当然だ。俺もこいつを値踏みする」
龍水はボンドルドの装甲、仮面、外套、腰の器具、破損箇所を見た。
「見たところ、貴様は財産を持っている。だが、その財産はこの世界では補充できん。知識は高価だが、装備は消耗品。単独で長くは動けん」
「その通りです」
「ならば契約だ。科学王国は貴様に食料、寝床、監視付きの実験環境を与える。貴様は知識と技術を提供する」
「対価は妥当です」
「追加条件がある顔だな」
「復活に関する意思決定の場を、観察させていただきたい」
周囲が静まった。
龍水の目が細くなる。
「票が欲しいのか」
「いいえ。発言権も不要です。まずは、あなた方が誰をどのような基準で復活させるのかを知りたい」
「なぜだ」
「そこに、この集団の本質が現れるからです」
千空は腕を組んだ。
「却下だ」
「理由を伺っても?」
「テメーは見てるだけで情報を抜く。会議に置くだけで、誰が誰を助けたいか、何が弱点か、誰が発言力を持つか、全部見るだろ」
「正確です」
「認めんな」
「認めた方が、交渉が早い」
ゲンが苦笑した。
「うーん、やっぱり誠実の使い方が最悪」
龍水は少し考えた。
「ならば条件を変える。復活対象の具体名を扱う会議には入れん。ただし、一般原則の議論には参加させる」
「龍水」
コハクが鋭く呼ぶ。
「わかっている。危険だ。だが、避けてもいずれぶつかる問題だ」
龍水は全員を見渡した。
「復活液は有限。人類は無数。俺たちは、すでに選んでいる。選んでいないふりをする方が危険だ」
大樹が拳を握る。
「でも、選ばれなかった人を切り捨てるわけじゃない!」
「その通りだ、大樹。だからこそ、言葉にしておく必要がある。切り捨てない選び方をな」
ボンドルドは、龍水を静かに見ていた。
「あなたは、欲望で動くと言いながら、統治の重みを理解している」
「当然だ。俺は世界を欲しがる男だ。欲しいものを壊してどうする」
「興味深い」
「それで、契約はどうする?」
ボンドルドは少しだけ首を傾けた。
「受けましょう。ただし、私からも条件があります」
「言ってみろ」
「私を完全に排除した状態で復活液を管理するのは、合理的ではありません。私が危険人物であるなら、なおさらです」
クロムが眉をひそめる。
「どういう理屈だよ」
「危険人物が最も欲しがる情報を完全に隠すと、その情報を得るための不確実な行動を促します。反対に、限定された範囲で観察機会を与えれば、行動は管理しやすくなる」
ゲンが小さく口笛を吹く。
「自分で自分の管理マニュアル出してきたよ」
千空は目を細める。
「つまり、少し見せろ。そうすれば大人しくしてやる、ってことか」
「大人しく、という表現が適切かはわかりませんが、予測可能にはなります」
「脅迫と提案の中間だな」
「交渉とは、概ねその中間にあります」
龍水は笑った。
「いいだろう。貴様には、管理された情報を与える。だが、こちらも貴様から情報を取る」
「もちろんです」
「まず、貴様の装備の一覧を作る。機能、危険性、破損状況、再現可能性。すべてだ」
「一部は開示できます」
「すべてだと言った」
「では、契約不成立です」
空気が張った。
龍水とボンドルドが、真正面から見合う。
千空は口を挟まない。ゲンも黙っている。
龍水が笑った。
「いいだろう。一部から始める。だが、開示しない装備は使用禁止だ。使用した時点で契約違反。拘束する」
「妥当です」
「フランソワ、記録を」
「承知しました」
フランソワは静かに筆記板を用意した。
ボンドルドはそれを見て、わずかに声を変えた。
「記録係として、たいへん優秀そうです」
「恐れ入ります」
「私の装備に対し、恐怖や好奇心を表に出さない。観察に向いていますね」
「主人の判断に必要な情報を整えるのが、私の役割でございます」
「役割への理解が深い」
龍水が満足げに頷く。
「当然だ。フランソワは最高だ」
ボンドルドは否定しなかった。
*
装備一覧の作成は、午前中いっぱい続いた。
千空、クロム、フランソワ、ゲン、コハクが立ち会う。大樹と杠は少し離れた場所で見ていた。スイカは樽の陰から覗いている。
開示されたものは限られていた。
試薬瓶四本。
金属針。
小型刃物。
破損した照射装置。
環境記録用の手帳。
装甲内の緩衝材。
用途不明の筒状部品。ただし、これは「現状使用不能」とされた。
千空は、ひとつずつ確認する。
「この照射装置。電源部が死んでるっつったな」
「はい」
「電源が復旧すれば使えるのか」
「理論上は。ただし、内部素子の損傷が不明です。無理に通電すれば破裂する可能性があります」
「何に使ってた」
「探査、照射、測定。状況に応じて」
「便利な言葉で逃げるな」
「詳細な原理を説明するには、前提知識が不足しています」
「俺らに?」
「双方にです。この世界でどこまで再現可能か、私にもわかっていない」
千空はしばらく黙った。
これは嘘ではない。
だが、説明を避ける理由にもなる。
「使用禁止。分解も保留だ」
「賢明です」
クロムが不満そうに声を上げる。
「えー! 分解しねえのかよ!」
「爆発したらつまんねえだろ」
「つまんねえで済まねえよ!」
「わかってんなら騒ぐな」
ボンドルドはクロムを見た。
「あなたは分解したいのですね」
「そりゃしたいだろ。中身わかんねえんだぞ」
「良い衝動です。ただし、未知の装置は、分解する順番を誤ると二度と戻りません」
「くっ……正論っぽいこと言いやがって」
「分解したいものほど、まず外側を観察する。重さ、継ぎ目、摩耗、熱変形、匂い、音。触る前に得られる情報は多い」
クロムは目を見開いた。
「……それ、ちょっとわかる」
千空が横から言う。
「クロム」
「わかってる! 勝手に弟子入りとかしねえよ!」
ボンドルドは穏やかに言った。
「弟子入りは、双方の合意が必要ですから」
「そこじゃねえ!」
ゲンが千空の耳元で小さく言った。
「クロムちゃん、危ないね」
「わかってる」
「でも、遠ざけると余計気になるよ」
「だから見えるところでぶつける」
ゲンは頷いた。
「教育上、最悪で最善」
*
昼過ぎ、龍水は全員を集めた。
議題は、復活対象の原則。
具体的な個人名は出さない。だが、誰を優先するかという考え方だけを話し合う。
ボンドルドは輪の外側に座らされた。発言は、千空が許可した時だけ。コハクは彼の斜め後ろに立つ。ゲンは正面から表情を見ている。
龍水が口を開いた。
「まず確認だ。復活液は有限。材料の確保にも手間がかかる。全人類を一度に戻すことはできない」
大樹が頷く。
「でも、最終的には全員を助ける!」
「当然だ」
龍水は言う。
「だが、順番は必要だ。順番を誤れば、全員を助ける力そのものが失われる」
クロムが腕を組む。
「科学に必要なやつ、食い物作れるやつ、怪我を治せるやつ、船とか道具に詳しいやつ……そういう人を先にってことか」
杠が静かに言った。
「でも、家族を待ってる人もいるよ。子供だっている。役に立つかどうかだけで決めたら、何か違う」
「うむ! 役に立つとか立たないとかじゃない! 全員人間だ!」
大樹の声が響く。
ボンドルドは黙って聞いている。
千空は、その沈黙を見ていた。
ボンドルドは大樹の言葉に反応しない。杠の言葉には、わずかに頭を傾けた。クロムの整理には頷いた。龍水の資源論には同意を示した。
何を重視しているかが見える。
ゲンが笑いながら言った。
「んー、優先順位を一個にしようとするから揉めるんじゃない? 科学枠、生活枠、医療枠、情緒枠、危険度チェック枠、みたいに分けたら?」
「情緒枠って何だよ」
クロムが突っ込む。
「人が頑張る理由になる人。大事でしょ、そういうの」
千空は頷いた。
「合理性はある。精神が折れたら労働力も科学力も落ちる」
大樹がぱっと顔を上げる。
「そうだ! 心は大事だ!」
ゲンは軽く手を振る。
「大樹ちゃんが言うと一気に筋肉っぽくなるね」
龍水は笑った。
「よし。複数基準で考える。単なる技能順ではない」
そこで、千空がボンドルドを見た。
「発言を許可する。言え」
ボンドルドは、静かに頷いた。
「今の分類は有効です。ただし、一つ不足しています」
「何だ」
「復活させない方がよい者の基準です」
場が止まる。
コハクの槍先がわずかに動いた。
「犯罪者、暴力的支配者、感染症の保有者、集団秩序を破壊する可能性の高い者。復活は救済であると同時に、リスクの導入でもあります」
大樹が声を荒げる。
「そんなもの、復活してから話せばいい!」
「復活してからでは、被害が出る可能性があります」
「出る前から人を切り捨てるのか!」
「切り捨てではありません。延期です」
「同じだ!」
「違います。石化状態が生命活動の停止と保存を兼ねているなら、復活させないことは即座の殺害ではない。むしろ、危険を管理しながら将来の再評価を可能にする選択です」
大樹は怒りで震えた。
千空は目を閉じていない。
龍水も、ゲンも、黙っている。
誰もが嫌悪を覚えている。だが、完全には否定できない部分がある。
司帝国の記憶が、場に影を落とした。
復活させる相手を誤れば、人は死ぬ。
それを彼らは知っている。
だからこそ、ボンドルドの言葉は毒だった。
事実に近い形をした毒。
千空が言った。
「その基準を一人に握らせたら終わりだ」
「同意します」
ボンドルドは即答した。
全員が少し驚いた。
「私は、単独判断を推奨していません。むしろ逆です。基準を明文化しなければ、判断者の感情と都合で復活順が決まる」
ゲンが目を細める。
「それ、いい人っぽいこと言ってるけどさ。明文化された基準って、運用する人次第でかなり怖いよね」
「はい」
「はい、じゃないんだよなぁ」
千空は指で地面を叩いた。
「基準は作る。だが、名前は“復活させないリスト”じゃねえ。“要確認リスト”だ。理由、再評価条件、必要な監視体制もセットで書く」
龍水が頷く。
「欲しいな、その仕組みは。俺たちは世界を取り戻す。ならば、感情だけでも、効率だけでも足りん」
杠が不安そうに言う。
「でも、そのリストに入った人は……」
「永久凍結じゃねえ」
千空は言った。
「全員を助けるために、事故を減らす。そのための確認だ。選別して捨てるためじゃねえ」
ボンドルドは、その言葉を聞いていた。
「同じ構造に、異なる名前を与えるのですね」
「違う構造にするために、名前から縛るんだよ」
千空は返した。
「人間は言葉で間違える。だったら、間違えにくい言葉を使う」
ゲンが小さく笑った。
「お、心理戦っぽい」
ボンドルドはしばらく黙った。
「興味深い。あなたは倫理を、単なる感情ではなく、手順として扱う」
「感情で踏みとどまれねえやつもいるからな」
「私のことでしょうか」
「他に誰がいる」
「率直で助かります」
*
会議の後、千空はボンドルドを作業場へ連れていった。
机には二枚の板が置かれている。
一枚は装備一覧。
もう一枚は、復活判断の原則案。
千空は、その横に新しい白紙を置いた。
「書け」
「何をでしょう」
「テメーなら、復活対象をどう分類するか。技能、危険度、健康状態、知識、集団への影響。全部だ」
クロムが驚く。
「いいのかよ、千空! そんなの書かせたら――」
「危ねえから書かせる」
千空は言った。
「こいつの頭の中にだけある方が危ねえ。外に出せば、どこでズレてるか見える」
ボンドルドは、静かに筆を取った。
「よろしいのですか。私の分類は、あなた方に不快感を与える可能性が高い」
「だから見せろ」
「承知しました」
彼は書き始めた。
筆の動きに迷いはない。
分類は精密だった。
医療技術者。
農業従事者。
冶金・機械加工技能者。
教育者。
記録保持者。
統治経験者。
乳幼児。
高齢者。
負傷・欠損個体。
精神的依存関係を持つ個体。
反社会的行動歴のある個体。
高い扇動能力を持つ個体。
軍事技能者。
感染症リスク。
生殖・人口維持に関わる条件。
杠が途中で顔を曇らせた。
大樹は拳を握った。
ゲンは黙ったまま、目だけで項目を追っている。
千空は最後まで読んだ。
「最悪だな」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」
「ですが、有用ではある」
「そこが最悪なんだよ」
千空は板を手に取り、いくつかの言葉を線で消した。
個体。
資源。
生殖条件。
管理対象。
その横に書き直す。
人。
役割。
生活。
確認。
ボンドルドは、その書き換えをじっと見ていた。
「言葉を変えても、判断の重さは変わりません」
「変わる」
千空は言った。
「少なくとも、判断する人間の頭は変わる」
「それで判断精度が落ちる可能性は?」
「人間を物扱いする精度なら落ちていい」
ボンドルドは筆を置いた。
沈黙。
その沈黙を破ったのは、スイカだった。
「スイカは……こっちの言い方の方がいいんだよ」
全員がスイカを見る。
スイカは樽の中から、恐る恐る続けた。
「同じことを決めるのでも、“人”って書いてある方が、ちゃんと怖がれるんだよ。怖がらないで決めるのは、怖いんだよ」
ボンドルドはスイカを見た。
「あなたは、とても良いことを言いますね」
スイカは身を縮めた。
「褒められても、やっぱりちょっと怖いんだよ」
「ええ。それでよいと思います」
千空は、書き直した板を龍水に渡した。
「これを元にルールを作る。ボンドルド版は保管。誰でも見られる場所には置かねえ」
ゲンが頷く。
「見た人の心が削れるからね」
「だが、捨てるな」
龍水が言った。
「これは、俺たちが落ちるかもしれない穴の形だ。穴の形を知っておけば、避けられる」
ボンドルドは龍水を見た。
「あなた方は、私を穴として扱うのですね」
「違うな」
龍水は笑った。
「貴様は穴を掘る男だ。だから、どこを掘るか見張る」
「的確です」
千空は板を片付けながら、ふと手を止めた。
ボンドルドの分類表。
その一番下に、小さく書かれた項目があった。
復活液管理者の代替候補。
千空は目を細める。
「おい」
「はい」
「この項目、何だ」
「復活液を特定個人のみが管理している場合、その個人の死亡、失踪、判断不能、または独占化に備える必要があります」
「代替候補ってのは」
「あなたがいなくなった場合、誰が復活液を作れるか。誰が材料を知っているか。誰が判断を引き継げるか」
クロムの顔が変わる。
ゲンも、笑みを消した。
千空は言った。
「俺を消す計画か?」
「いいえ」
ボンドルドは穏やかに答えた。
「あなたが消えた時に、この文明が止まらないための計画です」
正しい。
あまりにも正しい。
だからこそ、最悪だった。
千空は、板を置いた。
「ゲン」
「はいはい」
「今日から復活液の情報管理、分散案を作るぞ。俺一人に寄せすぎてた」
「うわぁ、仮面ちゃんの提案を採用するんだ」
「採用じゃねえ。先に潰す」
ボンドルドは頷いた。
「良い判断です」
「テメーが嬉しそうなのが腹立つな」
「人類の前進は、喜ばしいことですから」
千空は、まっすぐボンドルドを見た。
「俺らは前に進む。だが、テメーの道は通らねえ」
「それでも、同じ山を登っている」
「登り方を間違えたら、頂上に着く前に人間じゃなくなる」
ボンドルドは答えなかった。
ただ、静かに千空を見ていた。
*
その日の夜、千空は一人で復活液の保管場所を変えた。
一箇所ではない。
材料、完成品、製法、代替手順。すべてを分けた。
クロムには一部を教えた。龍水には管理の仕組みを渡した。ゲンには、情報を誰にどう見せるかを任せた。杠には、復活対象の修復記録と照合手順を整えさせた。
ボンドルドが指摘した穴を、ボンドルドに使わせないために塞ぐ。
作業が終わる頃、月は高かった。
千空が作業場を出ると、外にボンドルドがいた。
コハクもいる。槍を構えたまま。
「寝てろっつっただろ」
「眠る前に、一つだけ」
「何だ」
「今日、あなたは私の分類を否定しながら、その一部を採用しました」
「使えるもんは使う」
「そして、危険な思想は削る」
「そうだ」
「それは、とても難しい作業です」
ボンドルドの声は静かだった。
「技術だけを取り出し、思想を拒む。多くの場合、人はその分離に失敗します」
「俺は失敗しねえ」
「根拠は?」
「俺一人でやらねえからだ」
千空は言った。
「クロムが騒ぐ。大樹が怒る。杠が止める。ゲンが疑う。コハクが睨む。龍水が欲しがる。スイカが怖がる。だからズレたら戻せる」
ボンドルドは、しばらく黙った。
「集団による補正」
「仲間っつーんだよ」
「なるほど」
ボンドルドは、月明かりの下で静かに頷いた。
「それが、あなたの科学の安全装置ですか」
「そうだ」
「壊れやすそうですね」
「壊させねえよ」
コハクの槍先が、月光を受けて光った。
ボンドルドはそれ以上言わず、小屋へ戻った。
千空は、その背中を見送る。
黒い装甲。
濃紺の外套。
異形の仮面。
白い笛を持つ男は、白くなどなかった。
夜よりも暗い姿で、文明の中心に立っている。
そして千空は、はっきり理解していた。
あの男は、復活液だけを見ているのではない。
科学王国そのものを、実験対象として見始めている。