警鐘が鳴った。
木片を打つ乾いた音が、朝の村を裂いた。
「硝酸洞だ!」
走ってきた男が叫んだ。
「見張りが倒れてる! 復活液の材料瓶がない!」
千空は、作業台の上の器具を放り出した。
「クロム、ゲン、龍水! 来い!」
「俺も行く!」
大樹が飛び出す。
コハクはすでに槍を掴んでいた。
ボンドルドも立ち上がる。
黒と濃紺の外套が揺れた。
「私も同行します」
「足引っ張るなら置いてく」
「その瓶が硝酸系なら、揮発と吸入の危険があります。倒れた方がいるなら、現場の空気を見る者が必要です」
千空は一秒だけ見た。
「来い。ただし薬品は俺の許可なしに使うな」
「承知しました」
走った。
硝酸洞は、かつて奇跡の水を得た場所の一つだ。今は管理され、見張りも置いてある。そこを破られた。
洞窟の入口に着くと、見張りが二人倒れていた。
大樹が駆け寄ろうとする。
「待て」
ボンドルドの声が鋭くなった。
普段の丁寧さは残っている。だが、温度が違う。
「近づかないでください。呼吸を見ます」
彼は地面に膝をつき、倒れた見張りの胸の動き、唇の色、吐瀉物の有無を確認する。触れる前に匂いを嗅ぎ、洞窟の奥へ目を向けた。
「死亡はしていません。意識混濁。外傷は浅い。薬物というより、窒息と刺激性ガスの初期症状に近い」
千空が鼻を鳴らした。
「硝酸に金属くずでも突っ込んだか。窒素酸化物だな」
「はい。奥で反応が続いている可能性があります」
クロムが顔をしかめる。
「じゃあ、瓶を盗んだやつも中で危ねえじゃねえか!」
「だから急ぐ」
洞窟の奥から声がした。
「来るな!」
若い男の声だった。
「近づいたら、こいつを砕く!」
コハクが入口の岩陰から覗く。
奥には、復活者の男がいた。昨日、労働班に加わったばかりの男だ。名前は新田。元司帝国の末端。腕力はあるが、科学王国にはまだ馴染んでいなかった。
その足元に、石像の上半身が横たわっている。
男は片手に瓶を持ち、もう片方に石斧を握っていた。
龍水が低く言う。
「人質か」
「石質だがな」
千空は目を細める。
「いや、人質だ。あいつにとっても、こっちにとっても」
ゲンが息を吐く。
「最悪。石像を壊されたくなければ復活液よこせ、ってやつ?」
奥の男が叫ぶ。
「俺の弟を先に戻せ! お前らは選んでるんだろ! 役に立つやつから戻すんだろ!」
場が止まった。
昨日の会議の毒が、もう回っていた。
千空の顔がわずかに歪む。
「どこで聞いた」
ゲンが即座に周囲を見た。
「洩れてるね。全員集めたのが裏目った」
「今は後だ」
ボンドルドは、洞窟の入口の石に指を当てた。
「奥の空気が重い。彼はすでに吸っています。判断力が落ちる前に終わらせるべきです」
「どう終わらせる」
「三つあります」
ボンドルドは即答した。
「一つ。交渉。二つ。無力化。三つ。瓶を諦めて撤退」
「三つ目はねえ」
「ならば一つ目をしながら、二つ目の準備を」
ゲンが小声で言った。
「できる?」
「彼は弟を戻したい。つまり、瓶を壊す意思は弱い。石像を砕く脅しも、本当に砕けば交渉材料を失う。問題は、恐怖とガスで判断が荒くなっている点です」
千空はボンドルドを見た。
「策は」
「彼を動かします。奥から入口側へ」
「どうやって」
「復活液の条件を、彼が誤解している可能性があります」
ボンドルドは一歩前へ出た。
コハクが槍を向ける。
「勝手に行くな」
「行きません。声だけです」
千空は一瞬迷い、頷いた。
「話せ。余計なこと言ったら止める」
ボンドルドは洞窟の奥へ向いた。
「新田さん」
声は穏やかだった。
男が身構える。
「誰だ、お前!」
「昨日来た者です。あなたの弟さんを戻したいのですね」
「そうだ! 俺はそのために従ってたんだ! なのに、あいつらは順番だ、役割だって!」
「お気持ちは理解できます」
「嘘つけ!」
「嘘ではありません。大切な者を先に救いたい。それは自然な判断です」
ゲンが眉を上げた。
慰めではない。男の感情を否定せず、真っ直ぐ掴んでいる。
ボンドルドは続けた。
「ですが、その瓶だけでは弟さんは戻せません」
「は?」
「復活液は、ただかければよいものではありません。濃度、量、対象の損傷、塗布位置、時間。条件を誤れば、解除が不完全になる危険があります」
千空は止めなかった。
実際、完全な嘘ではない。大きく誇張しているだけだ。
「う、嘘だ! 石にかけたら戻るって聞いた!」
「戻る場合もあります。戻らない場合もある。あなたは、その判断ができますか」
男の呼吸が乱れる。
「弟さんを救いたいなら、その瓶を守る必要があります。斧を持ったままでは、転倒した時に石像を傷つけます。奥の空気も悪い。あなたの手が震えているのは、恐怖だけではありません」
「黙れ……!」
「唇が青い。吸い込みましたね。あと数分で、あなたはまっすぐ立てなくなる可能性があります」
男が一歩ふらついた。
クロムが小声で言う。
「マジで効いてる」
「事実を刺してる」
千空は短く返した。
ボンドルドは右手を静かに上げた。
「瓶を地面に置いてください。弟さんのためです」
「近づくな!」
「近づきません。あなたがこちらへ来る必要もありません。瓶を置き、石像から一歩離れる。それだけでよい」
男は歯を食いしばる。
しかし、斧はまだ下がらない。
その瞬間、洞窟の奥で赤褐色の煙がわずかに揺れた。
千空の目が鋭くなる。
「まずい。反応続いてる。換気がいる」
「入口に濡れ布。大樹さん、倒れた見張りを運んでください。クロムさん、風を送る板を。コハクさんは右壁沿い、ただし突入はまだ」
ボンドルドが指示した。
あまりに自然だった。
大樹が一瞬だけ千空を見る。
「やれ!」
千空の声で、全員が動く。
ボンドルドは続ける。
「ゲンさん」
「はいはい、何かな」
「彼に弟さんの名前を聞いてください。名前を呼ばせる。目的を瓶から弟さんへ戻します」
「了解。嫌なほど合理的」
ゲンが洞窟へ声を飛ばす。
「ねえ、新田ちゃん。弟さん、名前なんていうの?」
「……翔太」
「翔太ちゃんね。翔太ちゃん、石像どこにあるの? 壊れてない?」
「壊れてねえ! 俺が見つけたんだ! 腕が少し欠けてるけど、俺が……」
声が震えた。
ゲンはすかさず言う。
「じゃあ、その瓶、落としたらまずいね。翔太ちゃんのためにも、斧と瓶、両方持つのやめよ?」
男の斧が下がりかけた。
そこで、足元の石が滑った。
男の体が傾く。
瓶が手から離れた。
コハクが飛び出そうとするより早く、ボンドルドが動いた。
黒い外套が地面を擦る。
彼は低く滑るように洞窟へ入り、転がる瓶の進路へ自分の手を差し入れた。素手ではない。外套の内側から引き抜いた厚い布で瓶を包み、そのまま岩に当たる寸前で受け止める。
同時に、男の斧が石像へ落ちる。
大樹が叫ぶ。
「まずい!」
ボンドルドは瓶を抱えた姿勢のまま、空いた肘で男の膝裏を払った。
男の体勢が崩れる。斧の軌道がずれ、石像の頬をかすめ、岩床に当たって跳ねた。
コハクが突入する。
槍の柄で斧を弾き飛ばす。
大樹が男を抱え上げ、入口へ引きずり出した。
クロムと村人たちが濡れ布と板で煙を散らす。
千空は瓶を受け取った。
「割れてねえな」
「はい」
ボンドルドは片膝をついたまま答えた。
外套の布は少し焼けている。手袋の表面にも薬品が付着していた。
千空が目を細める。
「手、見せろ」
「軽度です」
「見せろっつってんだよ」
ボンドルドは手を出した。
手袋の一部が溶け、下の皮膚に赤い薬傷ができていた。
クロムが息を呑む。
「お前、瓶守るために……」
「割れれば、全員が困ります」
ボンドルドは平然と言った。
千空はすぐに水をかけ、処置を始める。
「馬鹿か。酸だぞ」
「馬鹿ではありません。計算しました」
「計算して酸を手で受けるやつは馬鹿だ」
「瓶の損失より、手袋と皮膚の一部の損傷の方が安い」
その場の空気が、別の意味で凍った。
大樹が低く言う。
「自分の体も、そうやって計算するのか」
「必要であれば」
「人の体もか」
「許されるなら」
「許されない!」
大樹の声が洞窟に響いた。
ボンドルドは、処置される手を見ながら静かに言った。
「だから、あなた方がいる」
千空は包帯を強く巻いた。
「便利なブレーキ扱いしてんじゃねえぞ」
「いえ。重要な機構です」
「同じだ」
*
新田は助かった。
吸入したガスの影響で咳は止まらず、目も赤かったが、命に別状はなかった。見張り二人も意識を取り戻した。
石像の損傷は頬の表面だけ。杠が確認し、修復可能だと判断した。
だが、村の空気は重かった。
事件は一つの事実を突きつけた。
復活液は、人を救う。
同時に、人を狂わせるほどの価値を持つ。
夕方、千空は新田の前にしゃがんだ。
「弟は戻す」
新田が顔を上げる。
「本当か」
「順番は決める。だが、テメーの脅しで割り込ませるんじゃねえ。弟の石像を確認して、状態を見て、必要な準備をする」
「……俺は」
「やったことは消えねえ。見張りを倒した。石像を人質にした。復活液を盗んだ」
千空は淡々と言った。
「だが、ここで終わりじゃねえ。働け。償え。翔太を戻した時、兄貴として胸張れるようにしとけ」
新田は泣いた。
大樹が後ろで腕を組み、何度も頷いている。
ボンドルドは少し離れた場所でそれを見ていた。
ゲンが隣に立つ。
「どう? ボンドルドちゃん的には、甘い処分?」
「甘いですね」
「やっぱり」
「ですが、有効かもしれません」
「へえ」
「彼は弟さんを動機にしている。罰だけ与えれば、動機は憎悪へ変わる。償いと再接続の道を残せば、管理しやすい」
「管理ねぇ」
ゲンは笑った。
「同じ結論でも、言い方ひとつでここまで嫌になるの、才能だよ」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」
「理解しています」
ゲンは、ちらりと千空を見た。
「あんた、今日かなり役に立ったね」
「役に立てたなら何よりです」
「でもさ」
ゲンの声が少しだけ低くなる。
「瓶を守る動き、速すぎたよね。新田ちゃんが滑る前から、動く準備してた」
「彼の重心が崩れていました」
「それだけ?」
「硝酸洞の床は濡れている。彼の呼吸は荒い。手は震えていた。瓶は右手。斧は左手。石像は足元。転倒時に最も危険な軌道は二つ。瓶の破損と斧の落下です」
「そこまではわかる」
ゲンは目を細めた。
「あんた、新田ちゃんが転ぶのを待った?」
沈黙。
ボンドルドは否定しなかった。
「突入すれば、彼は斧を振る可能性が高かった。説得で斧を下げさせ、瓶への注意を移し、足元の不安定さを利用した方が、石像と瓶の生存率が上がります」
「新田ちゃん本人の安全率は?」
「大樹さんが届く位置にいました」
「届かなかったら?」
「その場合は、私が膝を壊してでも止めました」
ゲンの笑みが消えた。
「……やっぱり、あんた怖いわ」
「はい」
「活躍したのに、信用が増えないってすごいね」
「信用より、予測可能性が重要です」
*
夜、千空はボンドルドの火傷をもう一度確認した。
皮膚は赤く腫れている。水洗いが早かったため、深くはない。
「痕は残るかもな」
「支障は少ないでしょう」
「テメー、本当に痛覚あんのか」
「あります」
「だったら少しは痛そうにしろ」
「痛がれば、処置が早くなりますか」
「ならねえ」
「では不要です」
千空は包帯を巻き直した。
「今日の件で、テメーは村の信頼を少し稼いだ」
「それは良いことです」
「同時に、俺らはテメーの使い方を一つ知った」
「使い方」
「ああ」
千空は顔を上げる。
「緊急時、テメーは有能だ。判断が速い。恐怖で止まらねえ。人体も薬品も現場も見れる」
「ありがとうございます」
「だが、放っておくと最短距離で人間を踏む」
「否定はしません」
「しろよ、少しは」
「事実と異なります」
千空は笑った。
「じゃあ、こっちも事実を言う。テメーは使う。だが、ハンドルは絶対に渡さねえ」
ボンドルドは、包帯を巻かれた手を見た。
「あなたは、私の有用性を認めながら、中心からは遠ざける」
「そうだ」
「合理的です」
「気に入らねえがな」
「私も、あなたの判断を気に入っています」
「もっと気に入らねえ」
外では、新田が大樹に頭を下げていた。
杠は傷ついた石像の修復を始めている。クロムは硝酸洞の換気改善案を描いていた。ゲンは会議の情報漏れルートを洗っている。龍水は復活液管理の警備体制を組み替えていた。
事件は終わっていない。
だが、科学王国はもう動いている。
ボンドルドは、その全体を静かに眺めた。
「良い集団ですね」
「実験対象としてか」
「いいえ」
彼は少しだけ間を置いた。
「壊すには惜しい」
千空の手が止まった。
ボンドルドは、穏やかに続けた。
「だからこそ、どこまで耐えられるのか知りたくなる」
千空は包帯の端を強く結んだ。
「やっぱりテメー、最低だな」
「よく言われます」
「言われてんのかよ」
「ええ」
仮面の奥の表情は見えない。
だがその夜、千空は初めて確信した。
ボンドルドは、単に復活液を欲しがっているのではない。
科学王国が危機にどう反応するか。
誰が怒り、誰が許し、誰が仕組みに変えるのか。
誰を傷つければ、誰が動くのか。
それを見ている。
そして今日、彼は活躍した。
誰よりも速く、誰よりも冷静に、最小の損害で事態を収めた。
だからこそ、危険度は一段上がった。