龍水は、金を作った。
紙ではない。金属でもない。石の世界で価値を持つ、新しい約束だった。
「これより、この科学王国に通貨を流通させる!」
龍水は高らかに宣言した。
「名はドラゴ! 欲しいものを欲しいと言う者こそ、文明を動かす!」
村人たちは半分ぽかんとし、半分は面白がった。
クロムはドラゴを指で弾きながら唸る。
「金って、つまり交換券みてえなもんか?」
「違うな!」
龍水は笑う。
「欲望の血液だ!」
「余計わかんねえ!」
ゲンが横で肩をすくめた。
「まあ、働いた分が見えると人は動くって話だね。すごーく雑に言うと」
ボンドルドは、そのやり取りを黙って見ていた。
黒と濃紺の装甲。異形の仮面。文明の市場には似合わない探窟家が、ドラゴの束ではなく、それを受け取る人間の目を観察している。
喜ぶ者。
疑う者。
欲を隠せない者。
使い道を考える者。
誰かに分けようとする者。
「興味深いですね」
ボンドルドが言った。
龍水が振り向く。
「貴様も欲しいか?」
「いいえ。現時点で、私はこの通貨を使う立場にありません」
「ならば何が面白い」
「復活液と同じです」
空気が少し変わった。
千空が顔を上げる。
「続けろ」
「価値あるものが少数に管理され、人の行動を変える。復活液は生命の順序を、通貨は労働の順序を制御する。どちらも文明の再建には有効です」
大樹が眉をひそめた。
「金と命を一緒にするな」
「同じではありません。ですが、人の行動を変える力という点では比較できます」
龍水は笑った。
「いいぞ、仮面の男。欲望を悪と見ないところは気に入った」
「欲望は観察しやすい。ですから、扱いやすい」
「扱う、か」
龍水の笑みが少し深くなる。
「俺を扱えると思うなよ」
「もちろんです。扱うなら、あなたの欲望そのものではなく、欲望が向かう先を設計すべきでしょう」
ゲンが小声で千空に言った。
「今の、かなりヤバくない?」
「ヤバいな」
千空は軽く笑った。
「だが、今は使う」
彼は作業台の上の地図を叩いた。
「船には油がいる。油田を見つける。だが、三千七百年で地形は変わりまくってる。古い地図だけじゃ百億パー足りねえ」
「だから、空だ!」
龍水が空を指した。
「熱気球で上がり、変わり果てた地形をこの目で掴む!」
クロムが拳を握る。
「空から地図を作る! 最高じゃねえか!」
ボンドルドは、その言葉に反応した。
「空中観測ですか」
「テメー、飛んだことは?」
千空が聞く。
「近い経験はあります。ただし、この世界の熱気球は初めてです」
「なら黙って見てろ。今回は俺、龍水、クロムで上がる」
「妥当です。操縦者、科学者、現地観察者」
ボンドルドは、あっさり頷いた。
その素直さに、千空の目が細くなった。
「何か提案がある顔だな」
「はい」
「言え」
「気球に乗る必要はありません。私は地上で十分です」
「何をする」
「空から得た情報を、地上の臭気、植生、土壌の情報と照合します」
クロムが首を傾げる。
「臭気?」
「油田の探索には、地形だけでなく、地表に滲む揮発成分、土の色、特定の植物の生え方、水面の膜なども手がかりになります」
千空は黙った。
理屈は通る。
「現代科学の石油探査ってわけじゃねえが、原始装備でやるなら観察を増やすしかねえ。悪くねえ」
「ありがとうございます」
「ただし、単独行動は禁止だ」
「承知しています」
ゲンが笑う。
「承知しています、で本当に承知してたこと少ないんだよなぁ」
*
気球は空へ上がった。
布を縫い合わせ、熱を送り、籠が軋む。
千空、龍水、クロム。
三人を乗せた気球が森の上へ浮かんだ瞬間、科学王国の全員が声を上げた。
「うおおおお! 飛んだ! 人間が飛んだぞ!」
大樹の声が下から響く。
クロムは籠の縁を掴み、目を見開いていた。
「やっべえ……世界って、こんな形してんのかよ!」
龍水は風を読んで笑う。
「欲しいぞ、この空! この視界! この地図!」
千空は地形を見た。
海岸線は、記憶の日本とはまるで違う。川の流れも、森の広がりも、古い地図とは噛み合わない。
「やっぱ地形がズレまくってやがる。これじゃ古い座標は使えねえ」
下では、ボンドルドが別のものを見ていた。
気球ではなく、風。
煙の流れ。
鳥の飛ぶ高度。
湿った空気が谷へ落ちる方向。
森の一角で、なぜか獣が避ける黒い湿地。
彼の横にはコハクとゲン、そしてスイカがいた。
スイカは壺から顔を出して、気球を見上げている。
「千空たち、すごいんだよ」
「ええ。空を得ることは、地形を支配することに近い」
「支配って言い方、やめた方がいいんだよ」
「では、理解と言い換えましょう」
「それならちょっといいんだよ」
ゲンが笑った。
「スイカちゃん、ボンドルド翻訳機になってる」
コハクはボンドルドを見ていた。
「お前は空を見ていないな」
「空から見る者がいますから」
「では、何を見ている」
「地上でしか見えないものです」
ボンドルドは、黒い湿地を指した。
「獣があの一帯を避けています。水場に見えるのに、足跡が少ない」
コハクが目を細める。
「たしかに、不自然だ」
「油そのものとは限りません。腐敗、硫黄、鉱物、毒性植物の可能性もあります。ですが、調べる価値はあります」
「千空たちが降りてからだ」
「はい」
ボンドルドは穏やかに頷いた。
「ですが、準備はできます」
彼は地面に膝をつき、木片で簡単な図を描いた。
湿地。
谷。
風向き。
水の流れ。
気球の予想進路。
ゲンが覗き込む。
「これ、千空ちゃんたちが上で見てる地形と合わせるつもり?」
「はい。上空からの視界は広い。地上からの情報は深い。合わせれば、探索範囲を絞れます」
「まともに役に立つ時のボンドルドちゃん、ほんと困るね」
「困るのですか」
「困るよ。疑う理由が減るから」
「それは誤りです」
ボンドルドは静かに言った。
「役に立つ者ほど、疑う理由は増やすべきです」
ゲンは笑えなかった。
*
気球は嵐に掴まれた。
遠くで雲が盛り上がり、風向きが変わった。地上の大樹が叫ぶ。
「千空ー!」
籠が大きく揺れる。
クロムが歯を食いしばる。
「やっべえ! 落ちるのか!?」
「落ちねえ!」
千空が叫ぶ。
「熱を入れろ! 雲の下に巻かれるより、上に抜ける!」
龍水が笑う。
「いい判断だ! 上を取るぞ!」
地上では、全員が気球を追って走った。
ボンドルドだけが、すぐには走らなかった。
彼は風を見た。
煙。
草。
鳥。
「コハクさん」
「何だ」
「追跡方向を変えます。あちらです」
「気球は逆へ流れているぞ」
「一時的です。上昇後、雲上の風に乗れば東へ戻されます。落下地点は、あの尾根の向こう」
コハクは一瞬だけ迷った。
「外したら?」
「私の判断ミスです」
「そういう問題ではない」
「では、千空さんたちが助かる確率を上げる選択です」
コハクは舌打ちした。
「ゲン! 大樹に伝えろ! 二手に分かれる!」
「はいはい!」
スイカが叫ぶ。
「スイカも行くんだよ!」
「あなたは村へ戻るべきです」
ボンドルドが言った。
「なんで?」
「あなたの目は、この地形で役に立ちます。ですが、嵐の後の山は危険です」
「役に立つなら行くんだよ!」
ボンドルドは少し黙った。
「……よい判断です。ただし、私の前を歩かないでください」
「うん!」
コハクが低く言う。
「スイカを利用するな」
「能力を評価しています」
「同じように聞こえる時がある」
「そうでしょうね」
彼らは尾根へ走った。
雨が降り出す。
地面が滑る。
視界が悪い。
その中で、ボンドルドは迷わなかった。枝の折れ方、風で倒れる雨の角度、遠くで聞こえる布のはためき。
やがて、森の向こうで音がした。
籠が木々を削りながら落ちる音。
「いた!」
コハクが走る。
気球は木に引っかかっていた。
千空は籠の縁にしがみつき、クロムは逆さまになって叫んでいる。龍水は笑っていた。
「無事か!」
コハクが叫ぶ。
「百億パー死んでねえ!」
千空が返す。
ボンドルドは状況を見た。
籠は斜め。下は谷。布が枝に絡んでいる。下手に動けば落ちる。
「すぐに引き下ろしてはいけません」
コハクが止まる。
「理由は」
「布が荷重を分散しています。切れば谷へ落ちる。まず籠の荷重を別の縄へ移すべきです」
千空が上から叫ぶ。
「正解だ! 大樹は!?」
「別ルートだ!」
「縄が足りねえ!」
ボンドルドは、自分の外套の留め具を外した。
中から、細く強い繊維束が現れる。
コハクが睨む。
「また未開示装備か」
「使用許可を求めます。命綱として有効です」
千空が即答した。
「許可! 後で全部記録だ!」
「承知しました」
繊維束は軽く、異様に強かった。
木に巻き、籠へ通し、荷重を移す。
龍水がそれを見て目を輝かせた。
「欲しいぞ、その繊維!」
「補給できません」
「ならば再現する!」
「この世界の素材では困難でしょう」
「困難だから欲しい!」
千空が怒鳴る。
「欲しがってる場合か! 降りるぞ!」
救出は成功した。
クロムは地面に転がって笑った。
「死ぬかと思った! でも空、やべえ! 最高だ!」
龍水も笑う。
「地図は得た! 風も得た! 次はもっと上手く飛べる!」
千空は泥だらけで立ち上がった。
「ボンドルド」
「はい」
「落下地点、よく読んだな」
「風を見ただけです」
「それだけじゃねえ。気球の上昇判断まで読んでた」
「あなたなら上へ抜けると判断しました」
千空は目を細めた。
「俺を読んだのか」
「はい」
その場が静かになる。
ボンドルドは続けた。
「あなたは、下で抵抗するより、危険を承知で上に出る方を選ぶ。科学的に勝率が高いなら、恐怖では止まらない」
「褒めてんのか」
「観察です」
ゲンが追いついて、息を切らしながら言った。
「うわ、またそれ。助けられたのに気持ち悪いやつ」
*
気球の地図と、地上の観察を合わせた。
黒い湿地。
獣が避ける水場。
周辺の土の変色。
水面の薄い膜。
龍水が上空から見た、不自然に光る筋。
千空はしゃがみ込み、湿地の水面を竹棒で撫でた。
虹色の膜が揺れる。
「油膜だ」
クロムが叫ぶ。
「油田か!?」
「まだ確定じゃねえ。だが、百億パー近い」
龍水の目が輝く。
「ついに見つけたか! 俺の油田!」
「まだテメーのじゃねえ」
「約束は約束だ!」
スイカが鼻をひくひくさせた。
「なんか変な匂いがするんだよ」
「近づきすぎるな」
千空が止める。
「可燃性ガスの可能性がある。火気厳禁だ」
ボンドルドは湿地の縁に立ち、沈黙していた。
千空が聞く。
「何を見てる」
「油ではありません」
「何?」
「いえ、油も見ています。ですが、より重要なのは、ここに集まった全員の反応です」
龍水は所有を考えている。
千空は精製を考えている。
クロムは仕組みを知りたがっている。
スイカは匂いを覚えている。
コハクは危険を見ている。
ゲンは交渉材料を数えている。
ボンドルドは言った。
「資源は、発見した瞬間に人間関係を変える」
千空は笑った。
「で、テメーならどう使う」
「まず所有権を曖昧にしません。次に採掘手順、配分、警備、事故時の責任者を決める。最後に、油を使える者と使えない者の差を管理する」
「最後が相変わらず最悪だな」
「差は必ず生じます。管理しなければ、争いになります」
龍水が笑った。
「その通りだ! だから俺が所有する!」
「龍水さんの所有は、むしろ管理しやすい」
ボンドルドが言った。
龍水が片眉を上げる。
「ほう?」
「あなたは欲望を隠さない。条件も明確です。ならば、取引で制御できる」
「俺を制御するだと?」
「制御できない所有者より、制御可能な強欲の方が安全です」
龍水は大笑いした。
「気に入ったぞ!」
千空は頭を抱えた。
「気に入るな。値踏みされてんだよ」
*
油田発見の夜、科学王国は沸いた。
船が現実になる。
燃料が手に入る。
海へ出られる。
石化光線の謎へ近づける。
クロムは興奮で眠れず、龍水は早くも油の値段を考え、ゲンはドラゴ経済の暴走をどう抑えるか悩んでいた。
千空は、地図の横に新しい表を作った。
油田管理。
採掘。
精製。
火災対策。
配分。
警備。
事故処理。
その下に、別枠で書いた。
ボンドルド装備使用記録。
気球救助に使った繊維束。
強度、耐熱性、耐水性、切断難度。
補給不能。
再現困難。
今後の使用は許可制。
ボンドルドはそれを見ていた。
「徹底していますね」
「テメーがちょっとずつ未開示装備を出すからな」
「必要時にのみ使用しています」
「その“必要”をテメーが判断するのが問題なんだよ」
「では、判断基準を共有しましょう」
千空の手が止まる。
「何?」
「命に関わる緊急時、補給不能装備を使用する基準です。使用しないことによる損失と、使用による情報開示・資源消費の損失を比較する」
「また表か」
「はい。表は、感情を一度外へ出せます」
ゲンが横から呟いた。
「ボンドルドちゃん、制度作りに侵食してきてるね」
「だな」
千空は板を置いた。
「だが、使える。俺らだけで決める。テメーは草案だけ出せ」
「承知しました」
その返答が、あまりに自然だった。
千空は気づいた。
ボンドルドは、もう復活液だけを狙っていない。
油田。
通貨。
気球。
地図。
装備使用基準。
資源配分。
文明を動かす仕組みの中に、自分の言葉を差し込み始めている。
ゲンが低く言った。
「主導権、少し取られてるよ」
「わかってる」
「止める?」
「止めねえ」
千空は地図を見た。
「止めたら遅れる。使えば進む」
「それ、向こうの土俵じゃない?」
「だから土俵ごと作り替える」
*
深夜。
ボンドルドは油田の方角を見ていた。
コハクが後ろに立つ。
「寝ないのか」
「考えることが多いので」
「何を考えている」
「油です」
「燃料としてか」
「それもあります」
ボンドルドは静かに言った。
「油は船を動かす。機械を動かす。火を強くする。薬品を作る。防水し、保存し、燃え広がり、人を集める」
「危険なものだな」
「はい。文明とは、危険なものを標準化することです」
コハクは眉をひそめた。
「お前の言葉は、時々、千空と同じ方向を向く」
「光栄です」
「だが、歩き方が違う」
「ええ」
ボンドルドは、油田の闇を見ていた。
「千空さんは、人を連れて文明へ向かう。私は、文明が人をどこまで変えられるかを見たい」
「やはりお前は危険だ」
「はい」
彼は否定しなかった。
黒い装甲の輪郭が、夜に溶ける。
「ですが、今日の発見で船は近づきました。船ができれば、世界は広がる」
「それが目的か」
「目的の一つです」
「他には」
ボンドルドは少しだけ沈黙した。
「海の向こうには、石化の理由があります」
「それを知りたいのか」
「もちろん」
「知ってどうする」
仮面の奥から、穏やかな声が返る。
「使える形にします」
コハクの槍先が、わずかに上がった。
その夜、彼女は千空に報告した。
千空は短く答えた。
「だろうな」
「驚かないのか」
「驚かねえ。あいつは最初からそういうやつだ」
「なら、なぜ連れていく」
千空は地図を見た。
油田。
船。
海。
石化の謎。
「あいつは危険だ」
千空は言った。
「だが、危険なもんを全部遠ざけてたら、文明なんざ戻らねえ」
「では、どうする」
「燃料と同じだ」
千空は、油田の印に指を置いた。
「燃やす場所を、こっちが決める」