パンの匂いが、科学王国の朝を変えた。
焼き上がった航海食を、フランソワは静かに並べていく。甘いもの、硬く焼いたもの、保存性を重視したもの。作業者用、探索班用、長期保存用。
クロムはその一つを噛みしめ、目を見開いた。
「うめえ! しかも腹にたまる!」
大樹はすでに三つ目を食べていた。
「力が湧いてくるぞ!」
ゲンが苦笑する。
「大樹ちゃん、評価が全部パワー基準なんだよね」
フランソワは表情を変えず、記録板に印をつけた。
「作業量に対して、現在の食事配分では昼過ぎに集中力の低下が見られます。炭水化物だけでなく、脂質と塩分を補う必要がございます」
ボンドルドはその記録を見ていた。
「素晴らしい管理です。食事は、労働力の保存技術でもありますね」
フランソワは静かに振り向く。
「食事は、人を働かせるためだけのものではございません」
「もちろんです。ですが、働けなくなれば船は造れない」
「その通りでございます。ですので、人を消耗品として扱わず、継続して働ける状態を整えるのです」
ボンドルドは少し沈黙した。
「同じ行為でも、目的が違う」
「目的は、手順に表れます」
千空が横で笑った。
「いいぞフランソワ。こいつの言葉は全部、一回火にかけて灰汁抜きしろ」
「承知しております」
ボンドルドは穏やかに頭を下げた。
「手厳しいですね」
「テメーが灰汁の塊だからな」
*
問題は油だった。
油田の気配は掴んだ。だが、本命の湧き口が見つからない。気球からの地形、古い地図、湿地の油膜、土の匂い。その全てを合わせても、まだ足りなかった。
千空は地図を睨んでいた。
「この辺にあるはずなんだがな」
龍水は腕を組んで笑う。
「ならば探せばいい! 俺の油田は、俺を待っている!」
「油田はテメーを待ってねえよ」
クロムが土の塊を握る。
「匂いはするんだけどな。濃いとこと薄いとこがある。水の流れだけじゃ読めねえ」
その時、ボンドルドが言った。
「人間の鼻で追う必要はありません」
全員が振り向く。
ボンドルドは森の方を見ていた。
「この数日、同じ獣が湿地の周囲を通っています。油の匂いを避けているのではなく、濃い場所へ寄っている」
スイカが壺から顔を出した。
「スイカも見たんだよ。黒っぽい猪なんだよ。すごく鼻がいいんだよ」
千空の目が光った。
「猪か」
クロムが叫ぶ。
「油を嗅ぎ分ける猪!?」
「使える」
ボンドルドは即答した。
「野生動物は、環境の変化を体で読んでいます。人間の観測機器が足りないなら、動物の行動を観測機器として扱う」
コハクが眉をひそめる。
「また扱う、か」
「能力を借りる、と言い換えても構いません」
「言い換えればよいものではない」
千空は地図を丸めた。
「だが、案は採用だ。猪を捕まえる。殺すなよ。油田探知機にする」
龍水が笑った。
「欲しいぞ、その猪!」
*
猪は、想像以上に賢かった。
落とし穴を避けた。
餌だけ取った。
人間の匂いがついた枝を踏まなかった。
クロムは地面を叩いた。
「こいつ、罠わかってんのか!?」
ゲンが肩をすくめる。
「こっちが罠にかかってる気分だね」
ボンドルドは、猪の足跡を見ていた。
「追い詰めると失敗します。逃げ道を残すべきです」
「逃げられるだろ」
クロムが言う。
「逃げたい方向を、こちらが決めればよいのです」
ゲンが顔をしかめた。
「うわ、人間相手にも使いそうな言い方」
「使えます」
「即答しないで」
ボンドルドの指示で、罠は作り替えられた。
猪自身の通り道の土を縄に擦り込む。
餌を多く置かない。
人間の足跡を消す。
本当の逃げ道を塞がず、自然に見える細い道だけを残す。
黒い猪は、夕方に戻ってきた。
鼻を鳴らす。
一度止まる。
周囲を見る。
そして、最も安全そうな隙間へ走る。
縄が跳ねた。
脚を締めすぎず、逃げられない角度で絡める。
大樹が一気に押さえた。
「捕まえたぞ!」
猪は暴れ、鼻を鳴らす。
千空は笑った。
「命名、サガラだ」
スイカが嬉しそうに言う。
「サガラ、よろしくなんだよ!」
ボンドルドはサガラを見下ろした。
「良い個体です。警戒心が強く、匂いへの反応が鋭い。訓練すれば、油だけでなく腐敗、毒草、火災の予兆にも使えるかもしれません」
コハクが言った。
「お前は、何でも役割に変えるな」
「役割は、生存率を上げます」
「だが、役割だけで見ると見失うものもある」
「はい」
ボンドルドは否定しなかった。
「ですから、あなた方が名前を与えた」
*
サガラは油田を当てた。
湿地を越え、尾根を回り、黒い土の窪地で急に鼻を地面へ押しつけた。泥を掘る。黒い液が滲む。
千空が竹棒で掬い、火気のない場所で匂いを確認した。
「ビンゴだ」
クロムが飛び上がる。
「原油か!」
「原油だ」
龍水が両腕を広げた。
「ついに手に入れたぞ、俺の油田!」
「まだ精製してねえ。まだ船も動かねえ。だが、道は開けた」
千空の声にも熱があった。
原油。
燃料。
潤滑。
防水。
薬品。
そして、海へ出るための鍵。
ボンドルドは黒い油を見て、静かに言った。
「文明の血液ですね」
「悪くねえ比喩だ」
千空が返す。
「ただし、血は流れ方を間違えると死にます」
その言葉に、ゲンが反応する。
「また不穏な話?」
「油は燃料であり、火災源であり、支配資源です。採掘量、精製量、配分、備蓄、警備、事故時の責任者を決める必要があります」
龍水が笑う。
「所有者は俺だ!」
「所有者は明確な方がよい」
ボンドルドは頷いた。
「ですが、使用基準は共有すべきです。独占は反発を生み、反発は盗難と破壊を生む」
龍水の笑みが深くなる。
「俺の欲望を守るために、俺の独占を制限しろと言うのか」
「はい」
「気に入った!」
千空が頭を押さえた。
「気に入るな。手綱つけられてんだぞ」
「手綱を握るのも、握らせるのも、王の仕事だ!」
ゲンが小声で千空に言う。
「またボンドルドちゃんの制度案が通ったね」
「わかってる」
「便利すぎるんだよね」
「ああ。だから最悪だ」
*
原油の精製が始まった。
粗い蒸留装置。
冷却管。
温度管理。
可燃性蒸気への警戒。
千空が指示し、クロムが走り、龍水が欲しがり、フランソワが作業者の食事と休憩を管理する。
ボンドルドは蒸留装置の横にいた。
ただし、火には近づけさせない。薬品にも触らせない。千空が定めた線の外側で、観察と提案だけを許されている。
「火力を少し落とすべきです」
「理由」
「揮発成分が急に出ています。管の接合部に滲みがある。火が戻れば爆ぜます」
千空が即座に見る。
たしかに、わずかな漏れ。
「クロム、火を落とせ! 大樹、水じゃねえ、砂だ!」
「おう!」
処置は間に合った。
クロムは冷や汗をかいた。
「危ねえ……」
千空は漏れた接合部を締め直す。
「よく見つけたな」
「匂いと、火の色です」
ボンドルドは淡々と言った。
「探窟で可燃性ガスを見落とすと、帰れませんから」
ゲンが呟く。
「そういう経験値がいちいち怖いんだよなぁ」
蒸留は進んだ。
灯油に近いもの。
重い油。
そして、軽く揮発する燃料。
千空が慎重に試験した。
炎が走る。
龍水の目が輝く。
「ガソリンか!」
「粗いがな。改良すりゃエンジンを動かせる」
クロムが叫ぶ。
「船が近づいた!」
全員が沸いた。
その騒ぎの中で、ボンドルドだけが燃料の瓶を見ていた。
「これで、人の移動距離が変わる」
千空が聞く。
「船の話か」
「船だけではありません。資源、軍事、医療搬送、探索、逃亡、追跡。移動速度が変われば、社会の形が変わります」
「テメーはすぐ軍事を混ぜるな」
「混ぜなくても、誰かが気づきます」
千空は黙った。
それは事実だった。
*
通信機の異常は、その夜に起きた。
作業場の奥で、ラジオが雑音を吐いていた。
油田発見、燃料精製、船建造。科学王国の次の一手は、通信だった。海へ出るなら、連絡手段が必要になる。
クロムが受信機をいじっていた時、雑音の中に、明らかに規則的な音が混じった。
「ん?」
クロムが手を止める。
「千空! なんか変だ!」
千空が駆け寄る。
ザザ、ザ、ザザ。
自然の雑音ではない。
龍水も来る。
ゲンも来る。
フランソワは静かに作業の手を止める。
ボンドルドは、誰よりも先に沈黙した。
音が変わる。
短い信号が、何度も繰り返される。
意味を持つように。
問いかけるように。
千空の目が細くなる。
「人工信号だ」
クロムが息を呑む。
「誰かいるのか!?」
ゲンの顔から笑みが消える。
「この時代に、通信できる誰か?」
信号は続く。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
それは言葉ではない。だが、問いに近い形で、こちらの耳へ食い込んでくる。
ボンドルドが静かに言った。
「こちらを観測していますね」
千空は振り向いた。
「なぜそう言える」
「このタイミングです。燃料を得て、船が現実になり、通信機を動かした。偶然受信したのではなく、こちらの文明段階に反応した可能性があります」
「仮説としては飛んでるな」
「はい。ですが、警戒すべきです」
龍水が笑みを消す。
「敵か」
「不明です」
ボンドルドは即答した。
「ですが、少なくとも、こちらより上位の観測能力を持つ存在です」
作業場に沈黙が落ちた。
千空は受信機を睨む。
「ようやく出てきやがったな」
クロムが震える声で言う。
「石化の原因か?」
「かもしれねえ」
ボンドルドはラジオへ近づこうとした。
コハクの槍が止める。
「近づくな」
「解析のためです」
「千空がやる」
ボンドルドは止まった。
だが、その声には熱があった。
「この世界には、まだ観測者がいる」
千空は言った。
「断定すんな」
「では、仮説です」
「その仮説をどうする」
ボンドルドは、ラジオの雑音を聞きながら答えた。
「相手を見つけます」
「見つけてどうする」
仮面の奥で、彼の視線が深くなる。
「石化技術を理解します」
千空の目が冷えた。
「使う気だな」
「理解できれば、使える形にもできます」
コハクの槍が一段上がる。
大樹が拳を握る。
クロムは息を止める。
ゲンは小さく呟いた。
「ここで本音出すんだ」
ボンドルドは隠さなかった。
「この技術は、人類を滅ぼしかけた。同時に、人類を保存した。死を止め、時間を止め、損傷を修復する可能性がある。これを理解せずに破壊するのは、あまりにも惜しい」
千空は、低く言った。
「俺は全員を戻すために解く」
「私は、人類が次へ進むために解く」
「その“次”に、人間は残ってんのか」
ボンドルドは少しだけ黙った。
「残す方法を探します」
「順番が逆だ」
千空はラジオの前に立った。
「人間を残す。そのために科学を使う。そこは絶対に逆にしねえ」
雑音が続く。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
その声なき問いは、科学王国全体に降りていた。
海へ出る理由が変わった。
油を得るためではない。
船を造るためでもない。
ただ文明を広げるためでもない。
石化の謎に、向こうから触れられた。
ボンドルドはその夜、初めて明確に笑ったように見えた。
仮面で表情は見えない。
だが、声だけでわかった。
「千空さん」
「何だ」
「私は、やはりこの船に乗るべきです」
「理由は」
「あなた方は、石化の謎を解きに行く。私は、それを危険な方向へ応用し得る。ならば、私を置いていく方が危険でしょう」
ゲンが顔をしかめた。
「うわ、自分を人質みたいに使ってきた」
龍水が低く笑う。
「だが、一理ある。こいつを陸に残して、石化技術の断片だけを渡す方がまずい」
コハクが反論する。
「船に乗せれば、逃げ場がない」
「だから監視しやすい」
千空が言った。
全員が千空を見る。
千空はラジオから目を離さない。
「乗せる」
大樹が叫ぶ。
「千空!」
「ただし、条件を増やす。ボンドルド専用の記録係をつける。単独行動禁止。通信機、復活液、燃料、医療区画への接触は許可制。違反したら拘束」
ボンドルドは頷いた。
「妥当です」
「それともう一つ」
千空は振り向いた。
「テメーが石化技術を“使える形”にしようとした時点で、俺は全力で潰す」
ボンドルドは、静かに答えた。
「その時は、ぜひ全力で」
ラジオの雑音が、また問いを吐いた。
なぜ。
千空は受信機を睨みつける。
ボンドルドは、その問いを聞きながら、別のものを見ていた。
船。
油。
通信。
復活液。
段階的解除。
人間の倫理。
そして、世界のどこかにある石化の力。
科学王国は海へ向かう。
だがその船には、科学を救済として使う者と、科学を進歩として使う者が同時に乗ることになる。
それは、船出ではなく、実験の始まりでもあった。