石の世界に祝福を   作:stein0630

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第8話 黒い油と声

 

 

 パンの匂いが、科学王国の朝を変えた。

 

 焼き上がった航海食を、フランソワは静かに並べていく。甘いもの、硬く焼いたもの、保存性を重視したもの。作業者用、探索班用、長期保存用。

 

 クロムはその一つを噛みしめ、目を見開いた。

 

「うめえ! しかも腹にたまる!」

 

 大樹はすでに三つ目を食べていた。

 

「力が湧いてくるぞ!」

 

 ゲンが苦笑する。

 

「大樹ちゃん、評価が全部パワー基準なんだよね」

 

 フランソワは表情を変えず、記録板に印をつけた。

 

「作業量に対して、現在の食事配分では昼過ぎに集中力の低下が見られます。炭水化物だけでなく、脂質と塩分を補う必要がございます」

 

 ボンドルドはその記録を見ていた。

 

「素晴らしい管理です。食事は、労働力の保存技術でもありますね」

 

 フランソワは静かに振り向く。

 

「食事は、人を働かせるためだけのものではございません」

 

「もちろんです。ですが、働けなくなれば船は造れない」

 

「その通りでございます。ですので、人を消耗品として扱わず、継続して働ける状態を整えるのです」

 

 ボンドルドは少し沈黙した。

 

「同じ行為でも、目的が違う」

 

「目的は、手順に表れます」

 

 千空が横で笑った。

 

「いいぞフランソワ。こいつの言葉は全部、一回火にかけて灰汁抜きしろ」

 

「承知しております」

 

 ボンドルドは穏やかに頭を下げた。

 

「手厳しいですね」

 

「テメーが灰汁の塊だからな」

 

   *

 

 問題は油だった。

 

 油田の気配は掴んだ。だが、本命の湧き口が見つからない。気球からの地形、古い地図、湿地の油膜、土の匂い。その全てを合わせても、まだ足りなかった。

 

 千空は地図を睨んでいた。

 

「この辺にあるはずなんだがな」

 

 龍水は腕を組んで笑う。

 

「ならば探せばいい! 俺の油田は、俺を待っている!」

 

「油田はテメーを待ってねえよ」

 

 クロムが土の塊を握る。

 

「匂いはするんだけどな。濃いとこと薄いとこがある。水の流れだけじゃ読めねえ」

 

 その時、ボンドルドが言った。

 

「人間の鼻で追う必要はありません」

 

 全員が振り向く。

 

 ボンドルドは森の方を見ていた。

 

「この数日、同じ獣が湿地の周囲を通っています。油の匂いを避けているのではなく、濃い場所へ寄っている」

 

 スイカが壺から顔を出した。

 

「スイカも見たんだよ。黒っぽい猪なんだよ。すごく鼻がいいんだよ」

 

 千空の目が光った。

 

「猪か」

 

 クロムが叫ぶ。

 

「油を嗅ぎ分ける猪!?」

 

「使える」

 

 ボンドルドは即答した。

 

「野生動物は、環境の変化を体で読んでいます。人間の観測機器が足りないなら、動物の行動を観測機器として扱う」

 

 コハクが眉をひそめる。

 

「また扱う、か」

 

「能力を借りる、と言い換えても構いません」

 

「言い換えればよいものではない」

 

 千空は地図を丸めた。

 

「だが、案は採用だ。猪を捕まえる。殺すなよ。油田探知機にする」

 

 龍水が笑った。

 

「欲しいぞ、その猪!」

 

   *

 

 猪は、想像以上に賢かった。

 

 落とし穴を避けた。

 餌だけ取った。

 人間の匂いがついた枝を踏まなかった。

 

 クロムは地面を叩いた。

 

「こいつ、罠わかってんのか!?」

 

 ゲンが肩をすくめる。

 

「こっちが罠にかかってる気分だね」

 

 ボンドルドは、猪の足跡を見ていた。

 

「追い詰めると失敗します。逃げ道を残すべきです」

 

「逃げられるだろ」

 

 クロムが言う。

 

「逃げたい方向を、こちらが決めればよいのです」

 

 ゲンが顔をしかめた。

 

「うわ、人間相手にも使いそうな言い方」

 

「使えます」

 

「即答しないで」

 

 ボンドルドの指示で、罠は作り替えられた。

 

 猪自身の通り道の土を縄に擦り込む。

 餌を多く置かない。

 人間の足跡を消す。

 本当の逃げ道を塞がず、自然に見える細い道だけを残す。

 

 黒い猪は、夕方に戻ってきた。

 

 鼻を鳴らす。

 一度止まる。

 周囲を見る。

 そして、最も安全そうな隙間へ走る。

 

 縄が跳ねた。

 

 脚を締めすぎず、逃げられない角度で絡める。

 

 大樹が一気に押さえた。

 

「捕まえたぞ!」

 

 猪は暴れ、鼻を鳴らす。

 

 千空は笑った。

 

「命名、サガラだ」

 

 スイカが嬉しそうに言う。

 

「サガラ、よろしくなんだよ!」

 

 ボンドルドはサガラを見下ろした。

 

「良い個体です。警戒心が強く、匂いへの反応が鋭い。訓練すれば、油だけでなく腐敗、毒草、火災の予兆にも使えるかもしれません」

 

 コハクが言った。

 

「お前は、何でも役割に変えるな」

 

「役割は、生存率を上げます」

 

「だが、役割だけで見ると見失うものもある」

 

「はい」

 

 ボンドルドは否定しなかった。

 

「ですから、あなた方が名前を与えた」

 

   *

 

 サガラは油田を当てた。

 

 湿地を越え、尾根を回り、黒い土の窪地で急に鼻を地面へ押しつけた。泥を掘る。黒い液が滲む。

 

 千空が竹棒で掬い、火気のない場所で匂いを確認した。

 

「ビンゴだ」

 

 クロムが飛び上がる。

 

「原油か!」

 

「原油だ」

 

 龍水が両腕を広げた。

 

「ついに手に入れたぞ、俺の油田!」

 

「まだ精製してねえ。まだ船も動かねえ。だが、道は開けた」

 

 千空の声にも熱があった。

 

 原油。

 

 燃料。

 潤滑。

 防水。

 薬品。

 そして、海へ出るための鍵。

 

 ボンドルドは黒い油を見て、静かに言った。

 

「文明の血液ですね」

 

「悪くねえ比喩だ」

 

 千空が返す。

 

「ただし、血は流れ方を間違えると死にます」

 

 その言葉に、ゲンが反応する。

 

「また不穏な話?」

 

「油は燃料であり、火災源であり、支配資源です。採掘量、精製量、配分、備蓄、警備、事故時の責任者を決める必要があります」

 

 龍水が笑う。

 

「所有者は俺だ!」

 

「所有者は明確な方がよい」

 

 ボンドルドは頷いた。

 

「ですが、使用基準は共有すべきです。独占は反発を生み、反発は盗難と破壊を生む」

 

 龍水の笑みが深くなる。

 

「俺の欲望を守るために、俺の独占を制限しろと言うのか」

 

「はい」

 

「気に入った!」

 

 千空が頭を押さえた。

 

「気に入るな。手綱つけられてんだぞ」

 

「手綱を握るのも、握らせるのも、王の仕事だ!」

 

 ゲンが小声で千空に言う。

 

「またボンドルドちゃんの制度案が通ったね」

 

「わかってる」

 

「便利すぎるんだよね」

 

「ああ。だから最悪だ」

 

   *

 

 原油の精製が始まった。

 

 粗い蒸留装置。

 冷却管。

 温度管理。

 可燃性蒸気への警戒。

 

 千空が指示し、クロムが走り、龍水が欲しがり、フランソワが作業者の食事と休憩を管理する。

 

 ボンドルドは蒸留装置の横にいた。

 

 ただし、火には近づけさせない。薬品にも触らせない。千空が定めた線の外側で、観察と提案だけを許されている。

 

「火力を少し落とすべきです」

 

「理由」

 

「揮発成分が急に出ています。管の接合部に滲みがある。火が戻れば爆ぜます」

 

 千空が即座に見る。

 

 たしかに、わずかな漏れ。

 

「クロム、火を落とせ! 大樹、水じゃねえ、砂だ!」

 

「おう!」

 

 処置は間に合った。

 

 クロムは冷や汗をかいた。

 

「危ねえ……」

 

 千空は漏れた接合部を締め直す。

 

「よく見つけたな」

 

「匂いと、火の色です」

 

 ボンドルドは淡々と言った。

 

「探窟で可燃性ガスを見落とすと、帰れませんから」

 

 ゲンが呟く。

 

「そういう経験値がいちいち怖いんだよなぁ」

 

 蒸留は進んだ。

 

 灯油に近いもの。

 重い油。

 そして、軽く揮発する燃料。

 

 千空が慎重に試験した。

 

 炎が走る。

 

 龍水の目が輝く。

 

「ガソリンか!」

 

「粗いがな。改良すりゃエンジンを動かせる」

 

 クロムが叫ぶ。

 

「船が近づいた!」

 

 全員が沸いた。

 

 その騒ぎの中で、ボンドルドだけが燃料の瓶を見ていた。

 

「これで、人の移動距離が変わる」

 

 千空が聞く。

 

「船の話か」

 

「船だけではありません。資源、軍事、医療搬送、探索、逃亡、追跡。移動速度が変われば、社会の形が変わります」

 

「テメーはすぐ軍事を混ぜるな」

 

「混ぜなくても、誰かが気づきます」

 

 千空は黙った。

 

 それは事実だった。

 

   *

 

 通信機の異常は、その夜に起きた。

 

 作業場の奥で、ラジオが雑音を吐いていた。

 

 油田発見、燃料精製、船建造。科学王国の次の一手は、通信だった。海へ出るなら、連絡手段が必要になる。

 

 クロムが受信機をいじっていた時、雑音の中に、明らかに規則的な音が混じった。

 

「ん?」

 

 クロムが手を止める。

 

「千空! なんか変だ!」

 

 千空が駆け寄る。

 

 ザザ、ザ、ザザ。

 

 自然の雑音ではない。

 

 龍水も来る。

 ゲンも来る。

 フランソワは静かに作業の手を止める。

 ボンドルドは、誰よりも先に沈黙した。

 

 音が変わる。

 

 短い信号が、何度も繰り返される。

 

 意味を持つように。

 

 問いかけるように。

 

 千空の目が細くなる。

 

「人工信号だ」

 

 クロムが息を呑む。

 

「誰かいるのか!?」

 

 ゲンの顔から笑みが消える。

 

「この時代に、通信できる誰か?」

 

 信号は続く。

 

 なぜ。

 なぜ。

 なぜ。

 

 それは言葉ではない。だが、問いに近い形で、こちらの耳へ食い込んでくる。

 

 ボンドルドが静かに言った。

 

「こちらを観測していますね」

 

 千空は振り向いた。

 

「なぜそう言える」

 

「このタイミングです。燃料を得て、船が現実になり、通信機を動かした。偶然受信したのではなく、こちらの文明段階に反応した可能性があります」

 

「仮説としては飛んでるな」

 

「はい。ですが、警戒すべきです」

 

 龍水が笑みを消す。

 

「敵か」

 

「不明です」

 

 ボンドルドは即答した。

 

「ですが、少なくとも、こちらより上位の観測能力を持つ存在です」

 

 作業場に沈黙が落ちた。

 

 千空は受信機を睨む。

 

「ようやく出てきやがったな」

 

 クロムが震える声で言う。

 

「石化の原因か?」

 

「かもしれねえ」

 

 ボンドルドはラジオへ近づこうとした。

 

 コハクの槍が止める。

 

「近づくな」

 

「解析のためです」

 

「千空がやる」

 

 ボンドルドは止まった。

 

 だが、その声には熱があった。

 

「この世界には、まだ観測者がいる」

 

 千空は言った。

 

「断定すんな」

 

「では、仮説です」

 

「その仮説をどうする」

 

 ボンドルドは、ラジオの雑音を聞きながら答えた。

 

「相手を見つけます」

 

「見つけてどうする」

 

 仮面の奥で、彼の視線が深くなる。

 

「石化技術を理解します」

 

 千空の目が冷えた。

 

「使う気だな」

 

「理解できれば、使える形にもできます」

 

 コハクの槍が一段上がる。

 

 大樹が拳を握る。

 

 クロムは息を止める。

 

 ゲンは小さく呟いた。

 

「ここで本音出すんだ」

 

 ボンドルドは隠さなかった。

 

「この技術は、人類を滅ぼしかけた。同時に、人類を保存した。死を止め、時間を止め、損傷を修復する可能性がある。これを理解せずに破壊するのは、あまりにも惜しい」

 

 千空は、低く言った。

 

「俺は全員を戻すために解く」

 

「私は、人類が次へ進むために解く」

 

「その“次”に、人間は残ってんのか」

 

 ボンドルドは少しだけ黙った。

 

「残す方法を探します」

 

「順番が逆だ」

 

 千空はラジオの前に立った。

 

「人間を残す。そのために科学を使う。そこは絶対に逆にしねえ」

 

 雑音が続く。

 

 なぜ。

 なぜ。

 なぜ。

 

 その声なき問いは、科学王国全体に降りていた。

 

 海へ出る理由が変わった。

 

 油を得るためではない。

 船を造るためでもない。

 ただ文明を広げるためでもない。

 

 石化の謎に、向こうから触れられた。

 

 ボンドルドはその夜、初めて明確に笑ったように見えた。

 

 仮面で表情は見えない。

 

 だが、声だけでわかった。

 

「千空さん」

 

「何だ」

 

「私は、やはりこの船に乗るべきです」

 

「理由は」

 

「あなた方は、石化の謎を解きに行く。私は、それを危険な方向へ応用し得る。ならば、私を置いていく方が危険でしょう」

 

 ゲンが顔をしかめた。

 

「うわ、自分を人質みたいに使ってきた」

 

 龍水が低く笑う。

 

「だが、一理ある。こいつを陸に残して、石化技術の断片だけを渡す方がまずい」

 

 コハクが反論する。

 

「船に乗せれば、逃げ場がない」

 

「だから監視しやすい」

 

 千空が言った。

 

 全員が千空を見る。

 

 千空はラジオから目を離さない。

 

「乗せる」

 

 大樹が叫ぶ。

 

「千空!」

 

「ただし、条件を増やす。ボンドルド専用の記録係をつける。単独行動禁止。通信機、復活液、燃料、医療区画への接触は許可制。違反したら拘束」

 

 ボンドルドは頷いた。

 

「妥当です」

 

「それともう一つ」

 

 千空は振り向いた。

 

「テメーが石化技術を“使える形”にしようとした時点で、俺は全力で潰す」

 

 ボンドルドは、静かに答えた。

 

「その時は、ぜひ全力で」

 

 ラジオの雑音が、また問いを吐いた。

 

 なぜ。

 

 千空は受信機を睨みつける。

 

 ボンドルドは、その問いを聞きながら、別のものを見ていた。

 

 船。

 油。

 通信。

 復活液。

 段階的解除。

 人間の倫理。

 そして、世界のどこかにある石化の力。

 

 科学王国は海へ向かう。

 

 だがその船には、科学を救済として使う者と、科学を進歩として使う者が同時に乗ることになる。

 

 それは、船出ではなく、実験の始まりでもあった。

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