船の骨が、海辺に立った。
巨大な竜骨。組み上がる肋材。縄で締められ、木で支えられ、鉄で補強されていく船体。
ペルセウス。
まだ名を持っただけの骨組みだったが、それでも誰もがわかった。
これは舟ではない。
村の近くを行き来するための道具ではない。
世界へ出るための文明だ。
「でけえ……」
クロムは、首が痛くなるほど見上げていた。
「これが海を渡るのかよ」
龍水は腕を広げて笑う。
「当然だ! この船は世界を欲しがる俺たちの足だ!」
千空は設計図を片手に、船体の接合部を確認している。
「浮くだけなら簡単だ。沈まず、折れず、燃えず、飢えず、病まず、戻ってこられる船にすんのが地獄なんだよ」
その地獄を、フランソワは食料表に落とし込んだ。
誰が何日分、何を食べるか。
保存食の乾燥度。
水の配分。
作業者の消費量。
航海中に腐りやすいもの、先に使うもの、非常時まで残すもの。
龍水は人員を見た。
千空は技術を見た。
クロムは未知を見た。
コハクは危険を見た。
ゲンは人間関係を見た。
そしてボンドルドは、全員を見た。
黒と濃紺の装甲をまとった異形の探窟家は、船体の影で記録板に何かを書いていた。
千空が近づく。
「何だ、それ」
「乗船候補者の反応表です」
「見せろ」
「もちろんです」
千空は板を受け取った。
名前の横に、項目が並んでいる。
閉所耐性。
高所反応。
出血時の行動。
命令系統への反応。
食料制限時の不満。
未知信号への興味。
復活液への執着。
負傷者を見た時の優先順位。
恐怖時の攻撃性。
集団を落ち着かせる能力。
千空の眉が寄る。
「いつ調べた」
「日常の観察です」
「同意は」
「得ていません」
即答だった。
隣にいたゲンが、顔をしかめた。
「うわぁ、出たね。本人の知らない適性検査」
「本人に知らせれば、反応が変わります」
「そこが最悪なんだよなぁ」
ボンドルドは静かに言った。
「船は閉鎖環境です。地上での善良さと、海上での有用性は一致しません」
大樹が反応した。
「人を有用性で決めるな!」
「では、誰を乗せるべきか、どう決めますか」
ボンドルドの問いは穏やかだった。
「行きたい者を全員乗せますか。勇気ある者を優先しますか。技術者だけですか。戦える者だけですか。誰かが海上で錯乱した時、誰が止めますか」
大樹は黙った。
その沈黙を、千空が切る。
「乗船メンバーは俺たちが決める。テメーの表は参考資料だ」
「それで十分です」
「十分、ねえ」
ゲンが小さく言う。
「参考資料って、会議ではかなり強いんだよね。最初に出した表が、議論の形を決めちゃう」
千空はボンドルドを見た。
「狙ってたな」
「はい」
隠さない。
それが一番厄介だった。
*
乗船候補者の話し合いは、すぐに荒れた。
海へ出たい者は多い。
石化の謎へ行きたい者。
世界を見たい者。
仲間を守りたい者。
船そのものに関わりたい者。
地上に残るのが嫌な者。
だが、船には全員は乗れない。
食料、水、医療、寝床、作業空間。
どれも有限だ。
龍水は当然のように言った。
「船長は俺だ」
「そこは異議ねえ」
千空が言う。
「操船に龍水。科学に俺。工作にクロム。戦闘にコハク。心理戦にゲン。医療に律。生活管理にフランソワ」
「私も乗る!」
大樹が叫んだ。
「力仕事なら誰にも負けない!」
杠も静かに言う。
「石像の修復が必要になるなら、私も行った方がいいと思う」
スイカは小さく手を上げた。
「スイカも役に立つんだよ。小さいところも見えるんだよ」
空気が重くなった。
誰も連れていきたい。
誰も残したくない。
だが、それでは船が沈む。
ボンドルドは黙っていた。
千空はその沈黙が気に入らなかった。
「言えよ」
「よろしいのですか」
「許可する」
ボンドルドは、記録板を置いた。
「大樹さんは、地上に残すべきです」
大樹が目を見開いた。
「なぜだ!」
「船上では、あなたの力は有効です。ですが、科学王国本拠地の維持において、あなたの価値はそれ以上に大きい。重量物の運搬、治安維持、復活者の受け入れ、農作業。あなたが不在になる損失が大きすぎる」
「俺は、千空を守るために――」
「その目的なら、コハクさんの方が船上適性は高い」
大樹は言葉を失った。
ボンドルドは続ける。
「杠さんも残るべきです。石像修復の中核です。航海先で修復対象が見つかる可能性はありますが、本拠地に残る大量の石像管理を失う方が危険です」
杠は唇を噛んだ。
「スイカさんは」
その瞬間、全員が少し身構えた。
「乗船候補として有効です」
スイカが驚く。
「え?」
ボンドルドは淡々と言った。
「小柄で消費食料が少ない。視力補助具を用いた観察能力が高い。狭所探索に向く。大人が見落とす違和感を拾う。情報伝達も素直です」
コハクの目が鋭くなる。
「子供を便利だから乗せるのか」
「危険だから外す、という判断もあります。ですが、危険の種類によっては、彼女の能力が全体の生存率を上げます」
スイカは小さく震えていた。
嬉しいのか、怖いのか、自分でもわからない顔だった。
千空は低く言った。
「スイカは残す」
「理由は」
「危険すぎる」
「それは感情ですか、判断ですか」
コハクの槍が動いた。
「ボンドルド」
「重要な問いです」
千空はボンドルドを睨んだ。
「両方だ。船に乗せた方が役立つ可能性はある。だが、失った時のダメージがデカすぎる。本人の成長にも、村の情報網にもな」
「なるほど。損失評価ですね」
「テメーの言葉にすんな」
「失礼しました」
ゲンが小さく笑った。
「ボンドルドちゃん、議論を全部自分の形式に持っていくね」
「それが狙いだ」
千空は言った。
「だから、こっちの言葉に戻す」
彼は板に大きく書いた。
乗船理由。
残留理由。
本人の意思。
代替不能性。
帰還後に必要な役割。
「有用性だけじゃ決めねえ。残るやつも、選ばれなかったんじゃねえ。残る役割がある」
大樹が拳を握る。
「そうだな。俺は、戻ってくるみんなを迎える!」
杠も頷いた。
「私は、戻す人たちを守る」
スイカは少し寂しそうだったが、顔を上げた。
「じゃあスイカは、村でいっぱい見つけるんだよ」
ボンドルドはそれを見ていた。
「役割の再定義。士気低下を抑えた」
「仲間を納得させたんだよ」
千空が言う。
「その違いを、よく覚えとけ」
*
その夜、船内試験が行われた。
ペルセウスはまだ完成していない。だが、船室の一部は組み上がっている。航海時の寝床、通路、倉庫、医療区画の配置を試すため、候補者たちは仮設船室に入った。
狭い。
暗い。
揺れはないが、圧迫感がある。
ゲンは壁を叩いた。
「うーん、閉じ込められる感じあるねぇ」
クロムは逆に楽しそうだった。
「秘密基地みてえだな!」
律は医療区画の動線を確認している。
コハクは出入口と死角を見た。
フランソワは食料庫の湿気を確認した。
龍水は船長室の位置に不満を言った。
千空は全員を見ている。
ボンドルドは、さらに後ろで見ていた。
試験開始から一時間後。
灯りが消えた。
完全な暗闇。
次の瞬間、船室の奥で煙が上がった。
「火事か!?」
誰かが叫ぶ。
クロムが動く。
コハクは出入口を確保する。
律は医療道具を抱える。
フランソワは食料庫の扉を閉める。
ゲンは声を張った。
「はい、落ち着いて! 出口はこっち! 押さない!」
龍水は叫ぶ。
「風上へ回せ! 煙を逃がせ!」
千空は即座に煙の匂いを嗅いだ。
燃焼臭が弱い。
刺激も少ない。
煙は、火事の煙ではない。
「誰だ」
千空の声が低くなった。
暗闇の中で、ボンドルドの声がした。
「私です」
全員の動きが止まった。
煙はすぐに薄れた。
非常用の換気口が開いている。火はない。濡れた草と土器を使った、低温の煙だった。危険性は低い。
だが、事前説明はなかった。
コハクの槍が、暗闇でボンドルドの喉元に向く。
「何をした」
「船内火災時の反応試験です」
大樹が外から叫ぶ。
「何だと!」
千空は、ゆっくり近づいた。
「許可してねえぞ」
「許可を取れば、反応は変わります」
「そういう問題じゃねえ」
「船上では、事前に宣言された訓練だけでは不十分です。実際の事故は、準備が整っていない時に起きます」
ゲンの顔が冷えている。
「それっぽい正論で無断実験を包むの、さすがにキツいね」
ボンドルドは記録板を出した。
「結果は有用です。コハクさんは最短で出入口を制圧。ゲンさんは群衆制御に移行。律さんは医療道具を確保。フランソワさんは食料庫を守る。クロムさんは煙源へ向かう傾向があり、危険。龍水さんは全体指示が早い。千空さんは煙の性質を識別した」
「だから何だ」
千空の声は低い。
「乗船配置を修正できます」
その言葉で、空気がさらに重くなった。
有用だった。
また、有用だった。
クロムは自分が危険な動きをしたと理解して、歯を食いしばる。
「俺……煙源に突っ込んだ」
「科学者としては自然な反応です。ですが船では危険です」
ボンドルドは穏やかに言った。
「あなたには、初動で止める者が必要です」
コハクが言う。
「それを知るために、全員を騙したのか」
「はい」
千空が、ボンドルドの胸倉を掴んだ。
装甲が硬く、布が軋む。
「次に無断でやったら、船には乗せねえ」
「それは困ります」
「困れ」
「ですが、今回の結果を使わないのは非合理です」
「使う」
千空は吐き捨てるように言った。
「使うから腹立ってんだよ」
ボンドルドは静かに答える。
「進歩には、しばしば不快な発見が伴います」
「テメーが不快にしてんだろ」
千空は手を離した。
「全員、配置修正だ。だが記録には書く。これはボンドルドによる無断試験。違反一回目だ」
「承知しました」
ゲンが目を細める。
「一回目って言われて、安心してない?」
「二回目の基準が明確になりました」
「ほんと最悪」
*
煙試験の結果、船内配置は変わった。
クロムは単独で機関部に置かない。
ゲンは避難誘導の位置。
律は医療区画の近く。
コハクは甲板と船内の接続部。
フランソワは食料庫と医療区画の間。
龍水は指揮位置。
千空は通信と科学区画。
そしてボンドルドは、医療区画ではなく、隔離室に配置された。
「隔離室?」
ボンドルドが言う。
「ああ」
千空は答えた。
「患者を隔離するための部屋だが、テメーもそこだ。必要な時だけ出す」
「私を危険物として保管するのですね」
「そうだ」
「適切です」
「納得すんな」
「危険物には、用途と保管条件が必要です」
コハクが低く言った。
「お前は自分を物のように扱う」
「自分も例外ではありません」
「だから他人にもそうする」
ボンドルドは黙った。
それは否定しなかった。
*
翌日、通信機が再び異常音を拾った。
前よりも短い。
だが、明確だった。
こちらの出力に反応している。
千空は受信記録を並べた。
「やっぱ偶然じゃねえ。こっちが文明を戻すほど、向こうも触ってきやがる」
クロムは拳を握った。
「じゃあ、海へ出るしかねえな」
「そういうこった」
龍水が笑う。
「ペルセウスは世界の問いに答える船だ!」
ゲンが言う。
「問いに答えるっていうか、問いを殴りに行く感じだけどね」
ボンドルドは通信記録を見ていた。
「この信号は、威嚇でしょうか。それとも誘導でしょうか」
「何?」
千空が聞く。
「相手が本当にこちらを止めたいなら、もっと直接的な妨害があるはずです。信号を送るという行為は、こちらに存在を知らせる。つまり、恐怖を与える、反応を見る、または誘導する意図が考えられます」
ゲンが真顔になる。
「うわ、心理戦として見るんだ」
「相手が知性を持つなら、信号は行動です」
千空は通信記録を睨む。
「誘導だとしても乗るしかねえ。石化の謎が向こうにあるならな」
「罠かもしれません」
「罠でも行く」
「ならば、罠にかかる前提で準備しましょう」
千空は笑った。
「そこは同意だ」
ボンドルドは板に項目を書いた。
敵性通信。
遠隔観測。
石化再発生。
船内反乱。
上陸後の集団石化。
復活液喪失。
医療不能区域。
指揮系統喪失。
大樹が顔をしかめる。
「嫌なことばかり書くな」
「嫌なことほど、先に書くべきです」
千空はその板を見た。
全部、必要だった。
腹立たしいほどに。
*
ペルセウスの船体が完成に近づくにつれて、科学王国の空気は熱を帯びていった。
海へ出る。
石化の謎へ向かう。
人類を戻す旅が始まる。
だが、その準備表の中に、いつの間にかボンドルドの項目が増えていた。
危険技術管理。
段階的解除。
船内緊急処置。
事故反応記録。
乗船者適性。
敵性通信想定。
隔離室運用。
彼は船長ではない。
科学リーダーでもない。
戦士でもない。
料理人でもない。
それなのに、船のあちこちに彼の考えが染みていく。
毒ではない。
薬に近い。
使えば助かる。
使いすぎれば、何かが変わる。
千空は夜の造船場で、ペルセウスを見上げていた。
ボンドルドが隣に立つ。
「良い船です」
「まだ完成してねえ」
「完成します」
「断言すんな」
「あなた方なら、完成させるでしょう」
千空は横目で見る。
「テメー、楽しそうだな」
「はい」
「船に乗って石化の謎を解けるからか」
「それもあります」
「他には」
ボンドルドは、建造中の船を見上げた。
「この船は、小さな文明です」
彼は静かに言った。
「限られた資源。閉鎖環境。役割分担。指揮系統。医療。食料。恐怖。信頼。規則。例外。人間がどこまで人間でいられるか、非常に明瞭に観察できます」
千空の目が冷えた。
「実験船扱いか」
「そう見える側面もあります」
「俺は全員を目的地に連れて行って、全員連れて帰る」
「そのためには、時に人間を規則に従わせる必要がある」
「人間のための規則だ」
「規則のために人間を動かす場面も出る」
「出さねえ」
「出ます」
その言い方は、断定だった。
千空は黙る。
ボンドルドは続けた。
「嵐、飢え、感染、敵、石化。海は、あなたの倫理に遠慮しません」
「だから科学で勝つ」
「ええ」
ボンドルドの声は、柔らかかった。
「私も、それを見たい」
「見るだけで済むと思うなよ」
「もちろん」
仮面の奥の表情は見えない。
「必要なら、手を貸します」
千空はペルセウスを見上げた。
完成すれば、海へ出る。
その船には、希望が乗る。
欲望が乗る。
科学が乗る。
そして、倫理の外側から科学を見る男も乗る。
千空は静かに言った。
「ボンドルド」
「はい」
「船の上でライン越えたら、海に叩き落とす」
「承知しました」
「泳げんのか」
「状況によります」
「そこは泳げねえって言っとけよ」
「虚偽は避けたいので」
千空は小さく笑った。
だが、目は笑っていなかった。
ペルセウスは完成へ近づいている。
同時に、ボンドルドもまた、科学王国の内部で役割を完成させつつあった。
危険物として。
必要悪として。
そして、誰もが気づきながら止められない、文明の加速装置として。