黒く傷痕を残した残響 作:リアンに殺されたい
苦痛を愛するための祈り。
「続いて、暴食である。植物の根は土を掘り、養分を吸収しようとする。」
ホーエンハイムが続いて、暴食大罪の説明を始めた。
「大事なのは、養分を得ても満足しないという点である。養分を持てば持つほど、根は更に広く深く伸びていく。より多くの養分を得るためにな。」
「ちょっと待て。なんだこれ?」
突然ヒースクリフ君が眉間に皺を寄せて資料をペラペラとめくったかと思うと、ホーエンハイムに向かって叫んだ。
「大罪をいちいち1つずつ相手してるじゃねぇか。あいつらまとめたみてぇに大罪もまとめて相手しちゃダメなのか?」
確かに尤もに思える。でも、ホーエンハイムがそうしないということは、そうすることに意味があるんじゃないかな?
そんなふうに思っていると……
「はっ!もうボロを出したか?そんな簡単なことを尋ねるとはな。」
そこへ、囚人12番が口を挟んだ。
「物事には順序というものがあるということを知らないのか?一連の過程には辟易しているのは私もだが、正確な検診のためには甘受する必要もあるということだ。」
「……あはぁ、君と意見が合うのは不愉快だけど、その通りだね。そうだろう、ホーエンハイム。」
しかし、ホーエンハイムの返答は違った。
「ふむ。悪くない提案であるな。」
「ん?」
「……なんだと?」
「そうだ、こんな忙しいさなかに大罪をわざわざ一体ずつ相手にする必要もないであろう。助手の意見を採り入れようじゃないか。」
「おっ、えっ?マジで?」
「……。」
ホーエンハイムは、ヒースクリフ君の意見をまっすぐに受け入れた。私たちの話をあまり聞く方ではないというのに。
……このヒースクリフという男、一体何者なんだ?ここまで、私が様々な方法で引き出そうとしたのに引き出せなかったホーエンハイムの旋律を容易く引き出している。
そもそもだ。彼だけ入社理由が意味不明だし、彼の番の報告書も読んだけれど、主人のいない葬式と、薬指の実験施設、鏡の世界からやって来てすべての自分を殺し尽くす魔王、赤い視線の契約違反、黄金の枝の焼失……出来事の何もかもが意味深で、何か重大な真実を隠しているかのような不可解さがある。
彼の潜在する可能性、ワイルドハントもそうだ。本当に、彼は何者なんだろう。
ふと、彼のバットを眺めた。そこには、「Remember」と刻まれている。
彼は一体、何を忘れたくないのだろうか。
「んだよ、何見てんだ?」
「……ふふっ、さあね?」
「あ゛ぁ゛!?」
──ちょっと興味が出てきたな。
そんなこんなで、複数の大罪を同時に用いることになった。そのため、憂鬱大罪の説明も併せて行われる。
「諸君らは深い水の中に入ったことはあるか?沈むのは難しくないのだよ。」
憂鬱大罪について説明するホーエンハイムの声は低い。
「だが……深く沈めば沈むほど、浮き上がってくるのが難しくなるものだ。全身を締め付ける圧迫感。もがいても何ひとつ掴めない虚無感。憂鬱とはそういうものである。」
「……。」
憂鬱。
「"私には苦痛しかありません。それ以外の何ものも望みませんでした。"」
ある日、兄がソファにどかっと座り、詩集を読んでいた時があった。
「……どこか暗い詩ですね、兄様?」
「母さんが戦時中、心の支えにしていた詩らしい。」
「母様が……?」
数年前に病に倒れた母様を思い出す。煙戦争に参戦し、敗残兵でありながら奇跡的に生き延び、逃げ延びた母様。その沈んだ瞳と、弱々しく重々しい声が脳内に再生される。
兄様は全文を読み上げると、詩集を閉じた。
「やるよ。」
それから、本を私に投げ渡した。
「こういう詩が、最期には救いになるもんさ。この都市では。」
「……兄様には、必要ないんですか?」
その言葉に、兄様は笑った。
「そりゃあな!俺の救いはこんな沈鬱とした詩じゃなく、お前だ。お前の演奏する音楽が、俺の……この都市で生きる上での処方箋なんだ。」
その答えが、私にとっては……。
「そっか、なら……私もっと演奏の練習をしますね!兄様が、フィクサーとして頑張れるように!」
今では深い、心の傷になっている。
そして同時に、慰めになっている。
「──あぁ、苦痛よ。汝は私から決して離れぬ故、私はついに汝を敬うに至る。」
ふと、口が開く。憂鬱というワードが思い出に感化したせいか。懐かしい詩の一節を唱える。
「私はようやく汝のことがわかった。汝は存在するだけで美しいということを。汝は貧しい私の心の火鉢の側から決して離れない人と似ている。」
〈オルガン?〉
「……大好きな人が私に教えてくれた古い詩さ。こういう感性こそが、ホーエンハイムの説明した、憂鬱と共存するための一つの薬だったんだ。」
だけど、私はそうは思わない。演奏こそが鎮魂であり、慰めであり、救いなのだから。ただそこにあるだけの苦痛に感謝してまで、心を鈍化させて目を覆いたくはない。偽りの温もりにただ迷子の生娘のように抱かれたくはない。深い絶望、憂鬱の中で生まれた感情を音楽に昇華し、自分のものとして吐き出して前に進むべきなのだ。
視線を上げると、囚人12番と9番の言い争いが見えた。自分の意思で沈むのか、浮き上がる方法がわからないだけなのか。
その問いは、あまりにも重く。そして答えを出すことが恐ろしすぎるし、残酷だ。
「……こほん。その、準備できたしそろそろ入れよ?」
そんな二人をヒースクリフ君が気まずそうに検診へ案内していた。
「助手、君もいっしょに入りたまえ。君も検診を受ける必要があるだろう?」
「は?オレも?」
その言葉には、歓喜が滲んでいた。本当にわかりやすい音色だ。
「いいぜ……頭ばっか使ってムズムズしてたんだよな。さっさと終わらせてやる。」
「……ダンテ、彼は頭を使っていたと思うかい?」
〈……。〉
視点:ヒースクリフ
あのアマ、やっぱりオレのことを観察してやがる。それが、段々と露骨になってきた。
でも、その奥に見える興味の性質が最初とは別物だ。それもハッキリわかった。だが、その肝心な中身がよくわかんねぇ。
〈人格を被せるよ!〉
その言葉にオレは大罪を前に、バットを握り直す。
ただ今は、雑念を置いて戦闘に集中しなければ。
……あとで、LCEの連中とっ捕まえてあのアマのことを聞いてみるか。何を考えてるのかは、知っておきたい。
「……うし、やるか。今日は副組長がいねぇ。足引っ張るなよ!!」
「誰に言っている、ヒースクリフ。」
「黒い雲の刺青……見たことない気がするけれど、アンタたちも黒雲会の仲間で良いのよね?」
オレは刀を肩に担ぐようにして、目の前の化け物どもに向かって走り出した。この程度の相手なら、イシュメールが出張るまでもない。
三振りの刀が、黒い雲と共に押し寄せて敵を切り裂いていく。
視点:オルガン
「なんだ、大したことねぇな。じゃあお前ら2人、入れ!」
ヒースクリフ君を含む囚人3人は余裕でテストを終え、隔離室から出てきた。さて、次は……。
「良秀さんと一緒ですか?えっと…よろしくお願いします。」
「交・希。」
囚人8番と4番か、どうやら4番は乗り気じゃなさそうだけど。
「こ、交代を希望するって言ってますけど……。」
「いや、良秀さんもなんでそんなこと言うんですか?」
「ふん。刃の鈍ったお前の銛には興味がない。」
報告書には目を通していたから、それが何を指すのかわかった。
「……あはぁ、U社で強迫障害の発作を起こした時のことかな?」
「そうだ。今の銛じゃ、あのひょろい奴もまともに貫けないだろ。」
囚人4番は、ホーエンハイムを指差した。
「冗談でもやめてくれないかな。」
私は静かにその手を掴んで下ろした。
〈ホーエンハイムは……割と簡単に貫けそうだけどなぁ。〉
「それは私という護衛を含めた評価かい?」
〈……ごめん。〉
囚人4番は少し不機嫌そうに、その一方で何か面白そうに私の方を一瞥し、視線をドンキホーテに移した。
「はっ、なんにせよお前と組むくらいなら、あの血鬼の戦闘をまた見るほうがマシだ。あるいは……。」
「と、当人のことであるか?それは…えっと…ちょっと困るのだが……。」
囚人4番が続けようとした言葉を、ドンキホーテが困惑気味に遮る。まあ、彼女の入社理由を考えると、囚人3番に熱視線を向けるのはわからなくもないけれどね。
「交代したいっつってるけど、できるのか?」
「当然駄目だ。」
「聞いたか?とにかく入ってけ。」
「チッ。」
……狂ってように見えて、ちゃんと命令は聞いてくれるんだよね。
「まぁ、昔に比べて銛を鋭く研いでないのは事実ですし……。毒気が抜けたのも否定しませんよ。」
不服そうに歩みを進める囚人4番に対して、囚人8番が声をかけた。
「でも同じ船に乗った以上、足を引っ張るつもりはありません。必要とされる限り、刃を鋭くする必要がある時に備えていつでも研ぎ澄ませられるように準備はしていますから。」
その声は力強く、清々しかった。
「…ふん。」
囚人4番も、その言葉にはある程度満足なようで、ゆっくりタバコに火をつけた。
「……戦闘中に無様を晒すなら、すぐ交代だ。」
「いやだから、交代無理って言ってんだろ!」
そんなコントを傍に、ホーエンハイムが傲慢大罪の解説を始める。
「車輪は技術の象徴であり、人間が進もうとする方向性そのものである。傲慢にも自然さえ成し遂げられなかった完璧な円を追求し、果てしなく車輪は転がるのだ。」
「それによって肉が抉れようが、芝が踏み潰されようが…構わずにですね。」
「それは…傲慢というより、自信なんじゃないですか?進まずして成し遂げられるものは何もないでしょうし。」
「傲慢とは、行き過ぎた自信でもある。特に誰よりも先に進んだり、失敗しなかった者は傲慢になりがちなのだよ。」
ホーエンハイムがこちらを見た気がする。
「……どうしたんだい、ホーエンハイム?」
私のその言葉にホーエンハイムが答えるより先に、囚人8番が傲慢な説明に対してホーエンハイムみたいだと揶揄したため、ホーエンハイムは曖昧に受け流して話を次に、色欲大罪へと転がした。
「色欲が意味するのは、その本来の意味というより……。そう、自分を構成する何かを広く伝播させたいという繁殖欲に近いであろう。もちろん、それだけにとどまる概念ではない。単語そのものだけを捉えると肉体的な解釈に囚われがちであるが……。」
「己の知識を分かち合わん、己の考えを共有せん、己の何かを多くの人々に認められたきと欲す。これもまた色欲の一種なり、と言わんとせりや?」
「音楽とかもそ──」
「お見事。知性ある者との会話は滞りがなく善きものだ。」
「「……。」」
色欲。
「兄様、その女は何者ですか?」
「彼女は一緒に仕事をしているフィクサーさ。」
ある時、兄様が連れてきた女。名前はセラフとか言ったね。くだらない名前だ。
黒い髪をすとんと伸ばした東部出身と思しきその女は、背中に大太刀を一振り背負っていた。
気づけばその女は頻繁に私たちの家に足を運ぶようになり、やがて兄様と親密な仲になった。
いつかは、そんな日が来るんじゃないかと思っていた。
「……は?」
「俺とセラフの間に子供が出来た。」
その日、私は荒れた。兄様の前では笑顔で取り繕っていたけれど、雨の降りかかる中、裏路地を一人で歩いていた。
半分自棄だった。なんでここまで辛いのか、私にはよくわからなかった。それは嫉妬のようでいて、もっと歪んだ何かだったんだと思う。
ただ、ひたすらに辛くて、心が苦しくて。
ただ、兄様にだけは私の気持ちを知っていて欲しかった。
私でもわからない感情を知った上で、配慮して欲しかった。
「お嬢ちゃん、一人かい?」
「え?」
そんな状態だったから、忘れてたんだ。自分が家から離れ過ぎたことも、裏路地が本来危険だってことも。
私を囲むように、暴漢が4人立っていた。全員、その手にはどこのものかもわからないような、無骨で残忍な工房製の武器が握られていた。
「綺麗な眼をしているし、身体に傷もない。こりゃ、巣の金持ちにも売れる上物だぞ。」
「暴れるなよ、傷つけたら価値が落ちちまう。」
どうしようもなかった。全て自業自得だと思った。
兄様の幸せを喜べない賤しい妹。危ないから遠くまで行くなという兄様の忠告を無視してしまった愚かな妹。それが私なのだから。
「けへへ!賢い子だ、そのまま動くなよ。」
抵抗すれば、酷い目にあって死ぬのはわかりきっていた。だから、私は動かない。いや、正しくは恐怖で動けなかったのだろう。
そのまま、何かの薬を飲まされたのか意識が朦朧としていく。
「……にい、さま。」
「よし、野郎ども。人に見られる前に撤収するぞ!こいつを売った金で俺たちは──」
「人攫いなんて、穏やかじゃないね。」
全てを諦めたその瞬間、暴漢たちの身体が両断された。
「……だ、れ?」
私を助けた人影は答えなかった。
「さて、この変数はどんな影響をもたらすか。」
その声には、寂しさが……いや、会えない誰かを追い求めるような切実さ、恋しさのようなものを内包していた。
それから私は兄様によって発見され、家まで連れ戻された。
……アレ、今思うと紫の涙だよね。
というか、色欲でなんであの時のことを思い出すのだろうか。
ああ、いや。そうか。
色欲っていうのは……理解して欲しい、受け止めて欲しいという気持ちなんだ。
私が兄様に理解して欲しいと願った、私の心意を汲んで欲しかった感情は色欲だったんだ。
なら、紫の涙や囚人4番の抱える恋しさも、ただ一人を悪と規定して突き進んだ銛も……ある意味では色欲の一種なのかな。独りよがりで、勝手な感情。それが色欲なのだろうから。
自分と相手は同じ気持ちだろう、同じ場所を見たら同じ感想を抱くだろう、自分のすることにはきっと理解してくれるだろう。そんな感情もまた色欲なのだ。
「ダンテ。」
〈どうしたの?〉
「ダンテは囚人たちを仲間と呼んだよね。」
〈そうだね。〉
ふと浮かんだ疑問があった。
「囚人たちの痛みは、君の痛みにもなる。黄金の枝によって、君は囚人たちの罪悪と直面する。彼らの記憶の中で、非常に精細で研ぎ澄まされた感情に触れることになる。」
〈そうかもね。〉
「そんな時、君は……囚人たちと同化することなく、自分との間に境界を引き続けることができるかい?」
〈……えっと。〉
ダンテは囚人たちと一心同体で、記憶も、口もない指揮者。そんな彼は、指揮台上で囚人という演奏者たちが好き勝手奏でる演奏を管理している。だけど、その本質はどうだろうか。彼が指揮しているのか、音楽という奔流に流されるまま、共振するように同化し、囚人そのものと何一つ変わらないものになってしまうのではないだろうか。
囚人たちの代弁者、あるいは救済者、はたまた彼らの罪を赦すための十字架として。あらゆる色欲の、受け皿として。
「ふふっ、答えるのが難しいかい?」
そうだ、その問いには答えはない。これは哲学に近い。
〈……境界を引き続けることができるかはわからない。〉
それでもダンテは、真剣に言葉を紡ぎ始めた。
〈でも、必ずしも境界が必要とは限らないんじゃないかな。〉
ダンテが、囚人を指揮しながら、色欲大罪を見つめる。
〈たとえ、それが罪だったとしても。私は管理人として、彼らのことを深く知った上で、彼らが後悔しないように伴奏したい。〉
「……。」
〈あっ、えっと……変なこと言ったかな?〉
ダンテは、目を丸くして黙り込んだ私を見て、どうやら自分が失言をしたと思い込んだらしい。
「いや、良い答えだと思うよ。君のその色欲は、健気だ。」
〈健気な色欲……。〉
「なんか嫌な響きだな、ソレ。」
ヒースクリフ君の言葉によって、それまでの真剣な空気が霧散した。
「台無しだね。」
「オレが悪いのか!?」
色欲への解釈が歪み過ぎているオルガンと、我らがイケメン管理人ダンテェ……。
そして、しれっとこの世界では実装されている黒雲会若衆ウーティス。
多分00(アインソフ)。
次回
オルガン死す(死なない)