プロセカの女の子たちと、ひたすら甘やかして甘やかされて溶かされる日常 作:雨風 時雨
玄関の重い扉を開けた瞬間、どっと鉛のような疲労感が全身にのしかかってきた。
「……ただいま」
誰もいない玄関に向けて小さく呟き、重い靴を脱ぐ。
今日は朝から大学の講義が長引いた上に、アルバイト先で予期せぬトラブルが立て続けに発生し、信じられないほど気力と体力を削られてしまった。
最寄り駅から家までの道のりが、いつもの倍以上に長く感じられたほどだ。ただひたすらに、「早く家に帰って、奏の顔が見たい」という一心だけで足を進めてきた。
足を引きずるようにして廊下を進み、リビングの扉を開ける。
そこには見慣れた光景――暗い部屋の中、モニターの青白い光に照らされる、長い銀髪の恋人の背中があった。
俺の帰宅に気づいたらしい彼女が、耳を覆っていた大きなヘッドホンをずらし、こちらを振り返る。
「……おかえりなさい。遅かったね」
柔らかく微笑みかけてくれた奏だったが、俺の顔を見るなり、その紫色の瞳を少しだけ丸くして、心配そうに眉を寄せた。
「……あなた、すごく疲れた顔してる。顔色も少し悪いよ……?」
「あー……わかる? 今日はちょっと色々あってね。ごめん、先にお風呂に入りたいところなんだけど、あと5分だけ動けないかも」
俺はスーツのジャケットを脱ぐのももどかしく、鞄を床に放り出し、そのままリビングのソファにうつ伏せに倒れ込んだ。
ふかふかのクッションに顔を埋め、深く、重いため息を吐き出す。
目を閉じると、そのまま泥のように眠ってしまいそうだった。今日はもう、奏のご飯を作ってあげる気力すら残っていないかもしれない。いつもなら「ただいま」の後にすぐ夕飯の支度にとりかかるのに、情けない話だ。
しばらくそうして身動きを取れずにいると、パソコンの椅子が軋む音がして、パタパタという軽い足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……」
ふわりと、奏の甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
顔を上げようとした時、背中にぽんぽん、と優しいリズムの軽い衝撃を感じた。
「……奏?」
「……うん。そのまま、無理して起き上がらなくていいよ」
顔を少しだけ横に向けると、ソファの傍らにしゃがみこんだ奏が、慈愛に満ちた瞳で俺を見つめていた。
奏の細くて白い手が、俺の背中を、ぐずった子供をあやすように優しく、一定のリズムで叩いている。
「ごめん。せっかく帰ってきたのに、こんな状態で」
「ううん、謝らないで。……今日はいっぱい、頑張ったんだね。生きて帰ってきてくれて、えらい」
奏はそう言って、俺の背中から手を離すと、今度は俺の首元に手を伸ばし、きつく締まっていたネクタイを不器用な手つきでゆっくりと緩めてくれた。
首回りの圧迫感が消え、ふっと息がしやすくなる。
「……いつも、あなたが私をたくさん甘やかして、お世話してくれてるんだから。こういう時は、私の番」
奏はそう言うと、一度立ち上がり、俺がうつ伏せになっているソファの空いたスペース――俺の頭のすぐ近くに腰を下ろした。
そして、ぽんぽん、と自分の細い太ももを叩いた。
「……こっち、おいで?」
「えっ」
「……膝枕、してあげる。少し、ここで休も?」
普段は自分から甘えてくることが多い奏からの、まさかの逆提案。
疲れ切った頭でその言葉の意味を反芻し、俺はゆっくりと身を起こした。
「……いいの? 俺の頭、結構重いよ? 奏の細い足、折れちゃわない?」
「……折れないよ。大丈夫。それに、私だって……あなたを癒やしたいから。少しでも、楽になってほしいから」
ほんのりと頬を赤らめながら、奏は両手を広げて俺を待っている。
その健気で愛おしい姿に、俺は抗うことを完全に諦めた。
仰向けになるようにしてゆっくりと横たわり、奏の太ももにそっと頭を乗せる。
「……んっ」
俺の頭の重みで、奏の華奢な体が少しだけ揺れたが、すぐに姿勢を立て直し、しっかりと受け止めてくれた。
薄い部屋着越しに伝わってくる、奏の太ももの柔らかな感触。そして、首筋からじんわりと染み込んでくる温もり。
下から見上げると、俺の顔を覗き込むようにしている奏とばっちり目が合う。
逆光になった長い銀髪が、カーテンのように俺たちの視界を覆い、まるで2人だけの小さなテントの中にいるような錯覚に陥った。
「……どう? 痛くない……? 変なところ、当たってない?」
「ううん……すごく気持ちいい。最高だよ。……奏の匂いがして、落ち着く」
「……そっか。よかった」
奏はふわりと安堵の微笑みを浮かべると、俺の頭にそっと両手を添えた。
そして、俺の髪に指を梳き入れ、ゆっくりと、本当にゆっくりと、頭を撫で始めた。
「……よし、よし。……えらい、えらい」
普段、俺が奏を甘やかす時に言っている言葉。
それを奏の透き通るような優しい声で言われると、なんだか心の奥の、一番無防備で柔らかい部分を直接撫でられているような感覚になった。
慣れない手つきで一生懸命に撫でてくれるその不器用さが、何よりも俺の心を満たしていく。
「……奏の手、少し冷たいけど、火照った頭にはそれがまた気持ちいい……」
「……ふふ。私の手が冷たいのは、きっと、あなたの熱を冷ましてあげるためかもしれないね」
さらさらと髪を撫でる指先のひんやりとした感触と、太ももから伝わる柔らかな熱。
こんな贅沢な空間にいたら、外で抱え込んできたストレスや疲労なんて、一瞬でどこかへ消え去ってしまう。
ただひたすらに心地よくて、このままずっと時間が止まってしまえばいいのにとすら思う。
「……ねえ」
「ん?」
「……あなたが疲れた時は、一人で抱え込まないで、いつでも言ってね。私、あなたがしてくれたみたいに、上手に美味しい料理を作ったり、完璧にお世話したりするのは得意じゃないけど……」
奏の指が、俺の額にかかった前髪を優しく払い、そのまま頬をそっと包み込んだ。
「……こうやって、あなたが眠るまで撫でてあげることなら、私にもできるから」
「……ありがとう、奏。すごく嬉しい」
「……ううん。私こそ、いつもありがとう。私のそばにいてくれて」
奏が少しだけ身をかがめ、俺のおでこに、ちゅっ、と柔らかいキスを落とした。
触れた唇の感触が熱くて、心臓の鼓動がとんっ、と跳ねる。
「……眠れるように、何か歌ってあげようか?」
「えっ……奏が?」
「うん。あなたのための、子守唄」
誰かを救うために、音楽にすべてを捧げている彼女。
そんな彼女が、誰でもない『俺の休息のためだけ』に歌を歌ってくれる。
それ以上の癒やしなんて、この世界に存在するだろうか。
「……お願い、していい?」
「……もちろん。目、閉じてて」
言われた通りに目を閉じると、視覚が遮断された分、奏の温もりと匂いがより鮮明に感じられた。
やがて、頭上から静かに、ハミングのような透き通る歌声が降り注いできた。
――それは、俺が今まで聴いたどんな曲よりも、優しくて、温かいメロディだった。
どこか切ない響きを持ちながらも、深い海の底にいるような、あるいは温かい毛布に包まれているような、確かな安心感を与えてくれる歌声。
頭を乗せている太ももから、奏の歌う微かな振動が伝わってくる。
その声は、疲労でこわばっていた俺の細胞1つ1つに染み渡り、心地よい微睡みへと誘っていく。
「…………」
奏の歌声を全身で浴びながら、彼女の細い指先が俺の髪を撫でる一定のリズムに身を委ねる。
ああ、俺はこの人のために頑張れる。
そして、この人がいれば、どんなに疲れ果てた日でも、明日を生きる活力が湧いてくる。
俺の世界で一番の特効薬は、間違いなくここにあった。
これからは俺が奏を甘やかすだけじゃない。こうやって、2人で寄り添いながら、お互いを癒やし合って生きていくのだ。
そんな幸福な未来を思い描きながら。
奏の優しい子守唄に包まれ、俺は深い深い、世界で一番幸せな眠りへと落ちていった。