このあと空いてるかしら?
まだ仕事があるの?
でも何だか悪いよ
なんて考えてるなら不要な気遣いよ
不要と言ったでしょう
受け取っちゃっているけど……
人払いよろしくね
―――夕方。
様々な事後処理に追われた後、それらに関する報告書なども追加で送られた私は、元々あった書類の山に埋もれるようになりながら仕事を続けていた。
そうしていると、ブオン、と何かが揺らぐ音が耳朶を打つ。
そちらへ顔を向ければ、シャーレの執務室の一角の空間を引き裂くように黒い歪みが出現していて、そこからベルが降り立つ光景が見えた。
「こんばんは、先生……いや、予想以上ねこれ……」
"べ、ベル……色々と、重なっちゃってね……"
アハハ、と笑うと、ベルは痛々しげな眼を向けてきた。
お説教すら無いのがなんとなく今の状況ヤバいんだなと客観視させられる。
数秒して、静かに嘆息した彼女はコートハンガーにコートを掛けた後、滑るように自然な動作で当番の子のために設えられた席に着いた。
「さっさと終わらせましょう。生徒でも出来るもの、こっちに回してちょうだい」
"うう、ごめんねぇベル……"
「はいはい。とりあえず喫緊で終わらせないとならない分だけでもやるわよ」
呆れたように、けれど労りも感じる優しい声音でベルにそう言われ、期日が近い事務処理を手分けして片付けていく。
数時間後。
とっぷりと夜も更けて月が上った頃に、漸くギリギリの状況から脱せた。
まだ書類はたくさん残っているけど、そちらは明日以降の当番の皆と一緒に片付けられる。
「やっと終わった……殺人的な量とはこの事ね」
"ありがとう……本当にありがとう、ベル様、女神様"
「悪魔よ私は」
"悪魔様"
「悪魔崇拝はやめなさい……まったく、思ったより元気ね?」
ピシャリと言い放った後、くすりと笑った彼女は大きく伸びをして席を立った。
「とりあえず、私の話をする前に一息入れましょう。給湯室借りるわよ。ココアってある?」
"インスタントの粉のやつならあったはずだよ"
「じゃあそれを使わせてもらうわ。先生もココアでいい?」
"自分のは自分で淹れるよ?"
「先生は座って休んでなさい」
手伝ってもらった上にそれは、と思った私の発言は却下され、彼女はそのまま給湯室がある方へと向かっていった。
なんだか私、外で会う以外では殆ど彼女に飲み物を淹れてもらっている気がする。
少し申し訳なく思いつつ、PCの作業を保存した後に電源を落とし、長時間の事務仕事で凝り固まった体をぐっと伸ばす。
程なくベルが戻ってきたので、ココアを淹れたマグカップを受け取り、来客用のソファへと並んで座った。
"こうして並んで座るの、思えば初めてだね"
「え? ……ああ、そうね。基本対面だったものね」
事務所に立ち寄ったり書類仕事を手伝ってくれたりなどで二人で座ることこそあれど、それは常に対面だった。同じソファに並んで座る事はこれまで一度も無い。
新鮮に感じたそれをふと口にしたそれに、一瞬ベルは呆気に取られた様子だったが、すぐにこれまでの記憶を振り返って同意した。
この分だと対面で座るのは意図していたものではなかったらしい。
……そこも少し、アルと差異があるように感じた。
アルは社長として前に立ち、生徒として後ろから追ってきて、そして協業相手として隣を歩くこともある子だ。
違法組織と公的組織の体面。
社長と経営顧問の関係。
生徒と先生の立場。
意識的にか、あるいは無意識にかは定かではないけれど、時と場合に応じて立ち位置を自在に変えるのが陸八魔アルという少女だと、私は認識している。
対して、ベルは常に一定な気がした。
その人にはこう、あの人にはこう、と彼女の中で立ち位置が決まるとほぼ不変。
おそらく『知識』から外れないための無自覚、無意識な防衛意識。
ハルカを常に右に置くように、彼女にとって、『先生』の立ち位置は対面だった。キヴォトスの未来に関わるが故に最大限の警戒と配慮を向けていたのだろう。
"少し心を許してくれたみたいで嬉しいよ"
「……? 別に警戒はしてなかったけれど……」
私の言葉に、ベルは怪訝な顔をした。
やはり自覚は無かったらしい。
"座る位置は心の距離を表してるって聞いた事はないかい? 場合によりけりだけど、並んで座るのは心を許してるって事なんだ"
「ああ……聞いた事あるわね。確か斜め前が信頼関係を築く段階で、対面が対立よね」
"あとは緊張感だね"
「……あー……」
付け加えると、ベルが何とも言い難そうな表情で、顔はこちらに向いたまま視線を逸らした。
"責めてる訳じゃないよ。君が抱いてた緊張感も、本来の人見知りや警戒心とかじゃないとは分かってるから"
「……本当、敵わないわね。もしかして"先生"にもバレてたのかしら」
"理由はともかく、気付いてはいたと思うよ。『吐き出してくれた方が嬉しい』って君の"先生"も言っていたようだから"
それはベルから初めてモモトークを貰い、様子を見に行った後でのやり取りのこと。ああ言われた事があるという事は、そちらの"先生"もほぼ確実にベルが何かを抱えていた事は察していた事の証左である。
その詳細を知る事なく"先生"は死んでしまったのだろうけれど……
それでも彼女の"先生"なりに、当時『陸八魔アル』として生きていた彼女の心を支えようとしていた筈だ。
それを知って、ベルがくしゃりと表情を歪めた。
「っ……そう、だったわね……はぁ。10年越しに……いえ、10年も気付かなかっただなんて……」
"あまり自分を責めないで。君はずっと切羽詰まった状況だった。気付ける状況じゃなかったんだよ"
『知識』で知り、奇跡を目指し奔走した17年。
『本物』と『偽物』の苦悩。
喪った哀しみと、奪われた憎しみから続いた10年。
27年間、彼女は様々なものに囚われ続けた。
シロコが反転し滅びが始まった時に戦いへ赴いた事も、それで3人を死なせた事も、騙し続けていたという自認も、罪悪感として彼女を縛っている。
自身も本物だった―――そう受け入れられたとしても、それが喪われる事は無い。
彼女は復讐者。
3人を殺めた者達の同一存在の傀儡にされてしまう故になった動機だけでなく、自らの意志でそれに至るほどの哀しみと憎しみも確かに存在する。
哀しみに関しては、『本物の関係』と受け入れたからこその辛さと共に増しているだろう。
それはここ最近接していて、便利屋への想い方から特に感じていた。
"君のその強い自責は、ムツキ達を本当に大切に想っていた事の裏返しだね"
「……どうしてそう思うの?」
"君と過ごしてる間に何度も3人の特徴が重なったからかな。情報収集はカヨコ、武力制圧はハルカ、お菓子関連はムツキがね"
「お菓子に関しては依頼相手とのやり取りで有利だから始めたのだけど……」
"でもムツキ達にねだられて、作っていたんだろう? 合理性だけで考えていたら彼女達に振る舞ってなかったと思うよ"
それはもしかしたら、人望を集めるための策のつもりだったのかもしれない。
けれどそれならお菓子作りの腕を誇ったりはしなかった筈だ。
3人もベルが何かに追われている事に勘付いていて、それぞれの形で彼女を思いやっていたのだろう。
"こっちの3人と距離が凄く近いのも、前々からそうだったからなんじゃないかな"
「……まあ、そうね」
私の推測を、彼女は少し恥ずかしそうにしながら、寂しそうな笑みと共に首肯した。
はぁ、と幾度目かの嘆息。
それから、彼女は執務室のガラス張りの壁へと顔を向けた。
視線を追えば、その先には夜空で煌々と輝く月が見えた―――
涙を零しながら、消え入りそうなくらいか細いお礼が耳朶を打つ。すすり泣く声が隣から上がる。
私は彼女の背中をさすり、ただ黙って寄り添った。
―――暫くして。
「情けないところ見せて悪かったわ……思ったのだけど、毎回どちらかがダメな部分見せてないかしら」
"いいんじゃないかな? 完璧な人間なんて居ないし、お互いに弱いところを見せられるのは信頼の証だよ"
「……違いないわね」
私の意見に、ふ、とベルは微笑んだ。以前よりもずっと柔らかい。
憑き物が取れたようなその顔に、私も自ずと笑みが零れた。
"ところで、モモトークで言っていた真面目な話って何かな?"
「え? ……あーそれね」
内心それどころではなくて忘れていたらしいベルは、一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに思い出したようだった。
「この世界で連中を探してたんだけど、どの拠点にも居なかったわ。それを報告しようと思ってね」
"……そっか"
連中、というのは『無銘の司祭』達の事だろう。
それはたしかに、モモトークで話すのは憚られる話だ。まあ私が仕事に押し潰されていなくてしっかり時間を取れたらそれで済んだかもしれないけど。
"原因は、何が考えられるかな?"
「
"見つける事は難しい?"
「無理ね。私がこの世界に来る前に潜られてる以上、多次元波長を合わせられない。相手の通信機の回線番号が分からないのに通信を飛ばそうとしているようなものよ」
"そっか……じゃあ、後手に回らないといけないんだね"
「悪いわね、役に立てなくて」
もどかしそうに、そして憎々しげに顔を歪める憎しみが漏れているベルに、私は首を横に振った。
"そんな事はないよ。その情報が分かっただけでも司祭達が動いている事が分かったし……私は、君が手を汚さなくて済んでる事に安心したよ"
「……『外』では汚しているけれどね」
"『内』の話だよ"
「……そう」
以前、私にはどうしようもなくて袂を別った『内』と『外』の話。
私は『内』であるこのキヴォトスを任された。だからこそ、この世界の司祭達に関して、彼女の手を汚させたくないと考えている。
そのためならば、と覚悟も固めている。
……それを察しているのだろうベルからの視線は厳しい。
お互い、相手の手を汚させないようにと思っているからこその牽制。奇妙な呉越同舟の形。
いつかはぶつかる定めにある関係。
「ともあれ、そういう訳だから……この世界での捜索頻度は下げるわ。何か手がかりがあったら教えてちょうだい。調査するから」
"調査結果はこっちにも共有してね。ヒマリやケイ達の協力があれば、何か分かるかもだから"
「餅は餅屋ね。ええ、分かってる……慎重には慎重を期しましょう」
それでも、私達はこのまま協力していくのだろう。
相手を想う気持ちも、この世界を守る決意も同じだから。
気を持ち直し、不敵に、そして強気に微笑んでココアを飲む彼女を見て、私もまた同じようにココアを飲んだのだった。
本当に感謝してます……
私は自分の過去で苦しんで
苦労を分かち合う関係なのでしょうね
はあるけどね
あまねく奇跡へ繋げた
あまねく奇跡に届いた